「とく子、お地蔵さまの縁日へ連れてってやろう。早く
美少年が古い乾き切った物干台の上で手を振った。わたしはその声を心待ちに待っていたのではあるが、そう思い取られるのも口惜しいから病室の窓から鼻から上を顔半分のぞかしたまま、ちょっと首をかしげてみせた。なんだかよく聴き取れなかったというしぐさ。すると美少年は
「なんだ、聴えてるくせに、愚図々々してると○ましちまうぞ」
そら来たなとおもって、わたしは耳の附根まで
「わかった、わかった。いますぐに行きますってば」
物干台と、病室の窓とは、瓦屋根五つ六つ間を距てていた。斜に硫酸臭い
「は は は は、うまくやってるぜ、時公」
すると美少年はべろんと舌を出してみせた。
わたしは恥しさに心で嘆きながら、急いでお化粧に取りかかった。附添のお
病院は眼科専門であった。山の手に家のあるわたしがなぜお祖母さんに連れられてこんな下町の病院へ入院したかというと、それほどわたしの眼は難治のものだった。さし当ってどうということもないのだが、瞳にかかったうすい霞は、根が腺病質の体質から生み出された疾患だけに、しつこく永引いた。東京中の評判の眼科医は一通り診て貰った末、ここの院長が名医だという噂で、二ヶ月まえにこの病院に入院したのであった。おそらく病院の取締が寛やかで患者の扱い方が
山の手から下町へ移って寝起きする少女のわたしにはすべてのものが珍しかった。下町の生活は屋根の生活でもあった。瓦屋根、トタンやブリキ屋根、それ等を海とも花野とも眺め渡しながら、朝夕、見交し合ういくつかの二階の窓、いくつかの物干台に隠見する人間たちは草双紙の中に出て来る人物のように一々、いわくあり気に、しかも手軽るに
「あんな綺麗な男の子、見たことはありませんよ。
そういってお祖母さんは少年をとうとう病室へ呼び寄せてしまった。
このお祖母さんは永らくの間、大名屋敷の奥勤めをして、何事にも
少年はわたしの病室へ出入りをするようになってずいぶん横着でわが
わたしとて全部気持の悪い相手ではなかった。
わたしはお祖母さんに病院の玄関を送り出され、いつも待合せる場所になっている鉄道馬車通りの交番の角まで来ると、少年は柳の幹に背を
わたしはそれを見付けてもいつもの通り心臆して、すぐ少年の前へは進んで行けない。二三間手前のところで立止ってしまって、身体をくにゃりと曲げ、袂のさきを拾い上げ
追い
「なんでい、なんでい、こんな野暮な
そういいながら彼はわたしの締めている帯の厚板織の乱菊の模様を見入り、この細工の盛り上り方に向って、金目のかかった相当な代ものであると値踏みする小商人のような眼付をした。わたしはその卑しい眼付に嫌気を催しながら、
「でも、お祖母さんが――」
といいさし、彼の視線をはぐらかすように歩き出した。おなかの中では「なんだ、おまえの
少年は小肥りの身体に、変り縞の
だがこれをすることに加担してこうさしている少年の母親も気が知れないとわたしは思い及ぼして行く。聞けば少年の母親はやはりかなりな美人の
鉄道馬車の馬の
窯でやかれた陶器の熱が冷めてゆくほど、
少年はわたしに何の合図をせず口も利かず角を曲ったり、みるみる暗くなってくるたそがれの往来を右に左に突き進んで行く。少年の後姿はまるでわたしを連れているのを忘れたかのようである。黙ってもついて来る、美貌によって
陽はとっぷり暮れた。ランプをつけた家もある。
どうか、あの薄情な蹴返し方をして行く少年の踵と、雪履との間に、小石でもはね込み、少年がぐさとそれを踏み付けて、悲鳴をあげたらさぞ腹が癒えることだろう。小石よはね込め、とそんなことを念じながらあとを追ってゆく。
きん かん きん かん――暮れた空で、木の性と金の性とのものをうち鳴す音がした。横町から西仲通りへ出た角である。屋根のついた大きな看板の影に
瓦斯の来る時刻がして、そこここの店で、一せいに瓦斯の灯が
小さい妖女たちは、わたしたちの歩いて行く道の遥なる方角から、もう少年を見付け
「時ちゃーん、今晩は――」と声を送るものもあり、通り過ぎたあとの横の小路からひょっこり現れ「あら、時ちゃん、もう、お縁日へ行くの」と浴せるものもあった。
それに対して少年は横柄に簡単な返事をするのであるが、この界隈へ入り彼女等の姿が見え出してから少年のわたしに対する態度は俄然変って来た。
少年はわたしを待受けてぴったり肩を寄せて歩き出した。そしてちょいちょい手を出してわたしの帯の結び方のくくまりを直し、たくし上る着もののうしろ襟を引張り下げて呉れたりする。いかにも親し気にわたしの顔のそばへ顔を持ってきて口をきく。時にはいう言葉が何だか判らず、ただ口だけ耳へよせてもぐもぐさせ、役者が舞台で秘密な囁きごとをする芝居の
わたしはやがて見破った。金目の着物を着たわたしを連れていることをお雛妓たちに見せびらかしているのだ。なお、このことを種に、お雛妓たちの注目や関心を
わたしは怒りに燃え、今度慣れ慣れしい素振りを見せて来たときに、上体を斜に後へ
「とく子がそうやると、
わたしの手を執ろうとする。わたしはなんとなく涙ぐんで来て手を引込めさま
「あたしもう帰りたいの――なぜでも」
とくるりとうしろへ振向く。
少年はすっかり
わたしは何もかにも、くしゃくしゃになってしまった絶望の気持から、振捨てる骨折さえ面倒に感じ、もう、どうにでもなるようになれと、今度取りに来た手をその儘にしてやった。少年はその手を推し戴く真似をして
「君より賜いしこの
と芝居のセリフでいい、わたしの手を小脇に掻い込んで引出した。
輝き出した町並の灯を受け往来で行われる少年がわたしに対する道化た所作を見付けて、もう三四人の人だかりがしている。その人々はわたしたちを大道芸人の芸かなんぞのように笑いながら見ている。わたしは恥で死にそうになったを奥歯を噛んで堪える。こういう花柳の巷では、人々のこうしたざれ事はしょっちゅう街上でさえ行われつけているのであろうか。それにしてもこんな蔑まれるさまを人目に
少年はわたしを引いて歩き出しながら
「ほんとに、今夜は一しょに交際っておくれよ。ほんとに今夜こそ、僕は君に聴いて貰い度いことがあるんだよ。とく子」
といったが、わたしは彼が力を籠めていうそのほんとという言葉を信用しない。それと見て取った少年は、あらためて、わたしの手を握り替え
「よう、ね」と力を入れた。
少年の掌はにちゃにちゃ
縁日の夜店は
羽目板を
少年は夜店の品なぞは珍らしくもないようだった。不興な気持を賑かさに掻き消され、ともすれば立止って見たがるわたしの手首を少年はぐいぐい引張り先を急いだ。しかし、夜店のうしろの家並の職業に就ては口早にわたしに説明した。
縁日の夜店は西仲通より日本橋川河沿いの西河岸の
「これ、みんな芸妓屋なの」
わたしはやや皮肉そうに少年に訊いてみた。
「うむ」
少年は意に介しない様子であっさり返事をした。
人も出盛って来たので少年はわたしをはぐらかすまいと手をしきりに引張って人込みの中をすり抜けた。わたしは折角、縁日へ来ながら、急がせられ、来た甲斐の無いのに飽足らず思いながら、それでもわたしは群集の隙から、美しいたけながが滝のように垂れ下っている女小間物の露店や、金筋の角帽を冠った老人が、小さい台附の
少しの
「そら、道が悪いよ。こっちを歩るきな」
わたしを自分の方へ抱え取った。
「この辺は、魚問屋があるので、無闇に水を往来に
そういう少年の声音に、また、人に聞けよがしの不純な響が混って来たのをわたしは感ぜずにはいられなかった。すると、そこに並んでいる植木やと植木やの間から頭をいなせな角刈にした顔の長い青年が出て来て
「なんだ。コブ附きか、時公、約束が違うぞ」
少年は、わざと頭を掻く振りに、困った様子を示し
「だって、頼まれちゃったんだ。ひいひいたもれのお姫様に、縁日を見せて呉れって」
わたしは、また嘘の見栄をいう少年の顔をまじまじと見ようとしたが痛む眼を労り、中途でやめた。少年はわたしに向い少しバツの悪い顔をしたが、
「これは
少年はわたしを青年には
「さる山の手のお嬢さん」
と勿体振って紹介したが、この魚問屋の若主人は、まともの挨拶なぞは不勝手の様子を見せ、わたしの女学生風のお
「どうするんだ。折角、親切に、雛っぺえを呼んどいてやったんじゃねえか、あすこに」
といって顎で植木屋の列のうしろを指した。その言葉をわたしはやっぱり聞取れた。
途端に植木屋の間から、出の衣裳らしい盛装のお雛妓が一人現れた。
「鼠っぽのにいさん。わたしもう帰るわよ。だってもうお座敷の時間だわ。叱られちまうわ」
わたしは恐る恐るそのお雛妓を見た。額の広い顎の長い女で、髪は大きな桃割れに結ってるが額口はなんだか毛が薄くなってるように見えた。女の生活にはもう一人前の経験と態度を持ち、少女のままで大人の納りがついてしまったという感じをませた眼鼻立ちに現していた。
彼女は時春の方を偶然見当てたというふうに見やると、少し気まり悪いという声の落し方で
「今晩は」
とだけいったが、すぐ眼を転じて、わたしを頭の尖から爪尖まで
呼び返せるつもりで、しきりに「雛っぺえ」を連呼していた鼠っぽのおじさんも、今は力なく少年を顧り
「惚れるほど、わざと白っぱくれということもあるからね――だが、時、おめえも悪いぜ」
といった。
少年はとみると、お雛妓の声を聞付けたときから衣紋をつくろい、わたしを小盾に、なにかの
「へん、女ひでりはしやあしめえし、おいらだって美少年の時春だ。いずれ見返えしてやらあな」
わたしの手を引いて、斜向いの見世物小屋の方へ道を横切って行った。鼠っぽのおじさんは「あとで砂場で逢おうぜ、話があるんだ」と叫んでいた。
わたしはこの少年になにをなされてることやら判らない気がしたが、もうこうなったら少年に対する愛憎の気持の繋りは除れてしまって、ただ鼠があたしをどこまで引いて行くだろう。今度はどんな
「あのお雛妓さん。ふだんあんたのいうあの御自慢のお雛妓さんなの」
と訊いてみてやった。
少年はすっかり憂鬱になっていて
「あのくらい本心の判らないやつはないんだ。感情を殺すことに慣らされてしまったんだな」
といった。
わたしからみれば、それは少年の他愛もない思い過しであることはすぐ判る。あの女は恋とか愛とかには全然興味をかけない生活にのみかまける素質に生れ附いた女なのだ。少女であれ、同性の洞察力を働かすことによってわたしにはすぐ判る。少年はそれに気付かずに複雑深刻に解している。この少年にはまだお坊っちゃんのお人よしのところがありそうに思える。わたしは少し、慰め手に廻るほどの好意を取戻して来た。
「また、今度ゆっくり逢ったらいいじゃないの、それよか、あたし見世もの珍らしいわ。ね、見せてよ」
そういって、わたしはお祖母さんが懐に入れて呉れた巾着を取出して少年に渡そうとした。少年は「いいよ」とわたしの手を押戻し
「とく子、おいらという人間は一たいどこにしん棒があるんだろう。自分にも判らなくって困っちまう」
やっぱり今夜は君にほんとうのことを聴いて貰う初一念を通すのがいいといって、それを執拗にせがみ出した。
は いっちゃ いっちゃ いっちゃな
という掛声が破れ太鼓の音と共に聴えて来る。その間には細く消え入りそうな声で唄う唄が聴える。その先は改良剣舞の
その先は不自然に太めたり細めたりして鳴す娘曲馬団の楽隊の音。
これ等の音の並びを少し離れて小屋の裏から聴く、河岸の火事の焼跡に少年はわたしを連れ込んだ。
「夜がいいんだ。賑かさと寂しさとの境がいいんだ。きまりが悪くないほど顔が僅かに見える場所がいいんだ。追い詰められてもうこれより行きようもない水にすれすれの河岸がいいんだ」
自分の初一念は、そこでこう、ほんとの話がとく子にできると思い立ったのだと少年はいった。
「だがねえ、そう思い立って、君をここまで連れて来る短い間のうちさえ、僕はいろいろにぐらつくのだ。ひょっとしたら君にもそれが判ったろう。自分に思いも寄らないお芝居をしたり、手を使ったり、なんだかまわりの調子に釣り込まれる。つくづく動き易い自分に自分で愛想が尽きるのだ」
やっぱり自分は駄目なのかなあと、少年は声を落してうなだれた。今、少年の歎きは本気らしい。闇に浮く頸筋が、うち首の刃の下に観念した美少女のように白く慄えている。
「あーあ、少しばかりきりょうがよく生みつけられた男の子は不仕合せだ」
その歎きの理由がまだはっきり判らないのに、わたしは少年から胸に沁みて来る悲哀のようなものを移されていた。
「僕はほんとうは、美少年の時春なんていわれるのとても嫌なんだ。剥せるならこんなきりょう顔から剥しちまい度いと思うんだ」
人も許し、自分も認める己れの美貌のため少年は、物ごころつく時分からどんなに苦労をしたか、人には判るまいといった。
こども仲間にはにやけた奴だと排斥された。その遊び仲間に入れて貰うのには心にも無い乱暴や
それでも自分はこの界隈から美少年の時春と
習いは性となった。
「僕は運命の美貌のために、仮面や
結局、自分は美少年の時春という飾りものの中に、魂もなく、一人ぼっちで住み、淋しがっている子供なのだといった。
「だから、僕はときどき死んじまい度いと思うこともある」
それもできず、また、お
「これには参る。僕には苦手だ」
と歎息した。
「お
縁日はいまや賑さを
わたしは少年の述懐を聴き、事の意表に愕いたがどうする術もない。しかし胸は息苦しく、何となく少年のために義憤のようなものを感じている。ふと思い付きに
「いっそ、役者になったらどうなの、そしたら美しいきりょうを苦に病むこともないわ」
すると少年は怒ったらしく怒鳴った。
「嫌だい。この上きりょうを売ものにする
その怒鳴り方は悲鳴に等しい響があるのに、なんとなくおかしみが添った。わたしはくっくと笑いながら
「よくよく荷厄介にされたきりょうよしなのね」
笑うと同時に病む眼に涙が痛くにじんだ。
少年は居ずまいを直し、
「君は、野暮で、一徹で、都会の中の田舎ものの女だ。そこを見込んで頼みがあるんだ」
どうか、一つ自分と
わたしは、
「お祖母さんに訊いて、もしいいといったら」
と答えた。
それはその場逃れの答えには違いなかったが、事実わたしはお祖母さん子であった。分別や感情は相当にませたものを持ちながら、一身上のことにかけてはすべてお祖母さんが権を預って采配を振っていた。お祖母さんの厳しい
「お祖母さんに訊いて

切ない数分間が沈黙の中に過ぎる。少年は次にどう出て来るか、このときくらいわたしが少年に対して真実に怖しさを感じたことはない。わたしは病む眼を押えて慄えを続けていた。
「へん」
少年は力無げにくたりと上体を投げほごした。
「判った。いいよいいよ。心配しなくてもいいよ」
そして深い溜息をついた。
「君はいいとこの子だ。僕なんかに
少年は優しくいって、そしてわたしの背中を撫でさえした。
わたしは危うく「いいえ、そうじゃないのよ」といおうとしかけたが、堪えた。熱いものが胸にこみ上げる。
やがて少年はすっくと立上った。両袂を両手できつくうしろへ叩き払うと、せせら笑いを混ぜていった。
「もう、おめえにはなんにも頼まねえよ。勝手にしやがれだ。ようし、こうなったら、おいらもどこまでも美少年の時春で押し通して見せるから。淋しくったって仕方がねえ。それがおいらの生れ付きの運だ」
それはわたしに対する捨セリフのようでもあり、また自分で自分にいい聞かす諦めのようにも聞えた。
少年はわざとのびをし、作り
「じゃ、とく子、あばよ」
といった。
それでも少年はわたしを縁日筋を
「また、時春さんと、喧嘩おしかえ。よしよし判った判っただ。だがそれよか、お縁日の様子はどうだったい、話してご覧」
といって、
それからは少年は古い乾いた物干台へも姿を現さなければ、病室にも訪ねて来なかった。お祖母さんは気にして病院の小使に遣いものを持たし様子を見にやったりしたが、少年は別に変りはなく家に居るとのことであった。
わたしの眼は癒りはしなかったが、いくらかは軽まった具合なのに学校のこともあり秋に入るを期し退院する支度にかかっていた。
美少年の時春が不慮の変死を遂げたという
「何たることです、何たることです」と、ただ呆れてしまったお祖母さんは、それでも、やがて「あたしだけでも、せめて、お悔みに行ってやりましょう」とて、
一人居残った病室で、わたしは、時春の死を想ってみていた。あの時春の死。それは嘘のようにもおもえ、また、結局こういうことになるのが順当のようにもおもえた。そして、その死については、なにかわたしにも罪咎があるような気がして来るとわたしは得堪えず身体の上体を両手で抱えて激しく揺り動かした。
「時春さん。
先夜縁日の帰りにいえなかった言葉が思わず口に
伝えに来た人の話によると、少年の死骸ははじめ判らなかったが上げ潮に押され、道三堀の水の落口まで溯って浮いたのを発見されたという。そこはわたしも
青い水に浮く一
だが、事実は相違していた。
お祖母さんの帰ってからの話によると、少年の死顔は様変りして案外見すぼらしかった。深く歎いた母親は、折しも入棺の柩の中の少年の死顔に対し、必死と、含み綿をさせたり、お白粉で化粧したりしたという。現にお祖母さんはそれを手伝って来た。
「すると、また、時春さんの顔は、生きてたときより何倍か美しく、まるで役者の生人形のよう、あのまま焼くのは惜しいくらいだったよ」
おまえさんにも一目見さして置き度かった、とつくづくお祖母さんはいった。
これを聞くと、わたしは、女だてらに思わず「へへん」とせせら笑いをして、お祖母さんに目を
「よせやい、いけ好かねえことを。おいら化粧なんかいらねえ。おいらせめて素顔で死にてえのだ。ほんとういうと野暮な素顔でよ」
時春が暴言癖の口調で、しかも切実な力を籠めて、こういうのがどこからか聞えるようだった。