トシオの見たもの

岡本かの子





 トシオは、大そうかしこく生れ付いた男の子でした。それゆえ、まだやっと、今年十一歳になったばかりですのに、もうこの世のなかのいろいろな方面の、様々なことを知って居ました。書物などで読んだことも、一々はっきり、頭に覚え込むという風でした。
 しかし、あまり、いろいろ知り過ぎたせいで、このごろ敏夫はかえって、沢山な疑いを持つ様になりました。先ず、どうして世の中には、こんなに無駄が多かったり、不平の種が沢山あるのだろうと、云うことが、敏夫のこの頃の不思議なのでした。
 たとえば人間達が、せっかく元気よく暮らして居るこの世の中に、いつの間にか流行病のバチルスが、そっと片隅から湧き出したり、でこぼこな黒い土のなかから美しい赤い花が、つややかに咲き出たり、正しい善良な人が貧しい暮らしをして居るかと思えば、富んで遊んで暮らす人の居る世の中でもある。それから人の死ぬことや、喧嘩仕合ったりすることも……。
「ああ分らない、僕にはどうしても分らない」トシオはうひとり言して、頭を振ってばかり居る様になりました。
 トシオの頭はこんな具合で、すっかり暗く閉じて仕舞いました。もう本を見るのも嫌なら、お友達を訪問しても、つまらないし、仕方がなしにふらふらと、一人家を出て、歩きまわりました。
 やがてトシオが来たのは、春の頃、トシオが雲雀ひばりの声を聞きながら、お友達とのどかに摘み草をしたり、夏のみずみずしい緑葉をふみ乍ら、姉様達と蛍狩をした、広い野原でありました。が、今はもう、秋もくれがたであります。野原の草は一面に枯れて、赤白く年寄りの髪の毛をいた様に、ほおけ拡がって居ます。
「おや、僕達が、あんなに愉快ゆかいにころげまわった草原も、こんなみじめに枯れて仕舞しまったか。なぜこんな赤ちゃけた色なんかに変ったんだ。いつも青々として、僕達を遊ばして呉れないってあるもんか、ああいまいましい。また冬なんて嫌な用もない時節が来るのかな。
 トシオは斯うつぶやき乍ら、野原のあちらこちらをさまよいました。トシオの持った竹の枝に追われて、足の弱った年寄りばったや、羽根のやせた赤とんぼが、よちよち、ふらふら、逃げまどいました。小春日和こはるびよりの午後の陽ざしは、トシオの広い賢げな額や、健康らしく肉付きの引しまった頬に吸い寄りました。そしてこのわか冥想家めいそうかの脊を、やわらかくで温めました。


 すぴーすぴー、はろーはろー。と突然、何の鳥か、野原の真ん中にすぐれて大きく一本立って居る、けやきこずえで鳴き声がしました。トシオはあわてて、その方を向きました。しかし、黄ばんだ葉もなかば落ち切らない上に、何百年間か張りはびこった枝が、小さな森くらいに空をくぎってこんもりと影を作り、その処々ところどころに、尨大ぼうだいまりの様な形に、くずつるのかたまりが宿って居るので、鳥はそのなかにでも隠れて居るのか、一向に、その姿が、トシオに見えないのでした。が、鳥はなおも、声を張って、その不思議な美妙びみょうな響きで、トシオの耳朶みみたぶをふるわすほど近く鳴くかと思えば、また、かすかに、雲の彼方に消え入って、其処でほのかに忍び啼きして居る様な、それが一層トシオをなつかしがらせる静な優しい調子を帯びるのでした。
 さすがにトシオは子供です。この自分をしきりに誘う小鳥の声にそそのかされて、今までの、不平も疑いも、すっかり忘れて、いっさんに大欅の下へ走って行きました。
「鳥はどこか、何の鳥か」
 トシオはまた一心に、そこから上を見上げました。しかし不思議なことには、あれほど今までほがらかに優しくなつかしく鳴いて居た鳥は、どこへいったものやら、トシオが見上げる大欅の梢の隅々まで尋ねても、かすかな羽ばたきさえ聞かれそうもなく、静まり果ててしまいました。
「おや、どうしたことだろう」
 とトシオは、しばらくしてから、小さなこぶしをかためて、欅の幹をたたき始めました。
「鳴け、鳴け、小鳥」
 トシオは斯う云い乍ら、どれほどたたき続けたことでしょう。けれど、何百年も経った、たくましい幹がトシオくらいな少年の拳に、何の答えをすることですか。鉄傘てっさんの様にトシオの頭の上に、堅固な手を組み交した枝の一本でも、トシオのためにゆるいで見せて呉れることですか。樹の全体は、憎らしいほど落ち付き払って、枝に残った枯葉たちは、その一つ一つ小さな背へ、やがて散る前の、最後の一時の黄金色を、思い切り太陽の光から受けて、はかな相な満足にかがやいて居ます。
 トシオは手の皮のにじむまで、欅の幹を叩きつけましたが、とうとう鳥を呼び戻すことは出来ませんでした。がっかりして、拳をほぐして、平手で額の汗を拭きますと、急にからだの疲れを覚えました。トシオの小さな躯は、もう立って居ることに堪えられないほど、ぐたぐたに疲れて仕舞って居ました。トシオは思わず躯を投げ出して海の高波の様に四方へこぶこぶに太くあらわに這って居る欅の根のひとところへ、うつぶして仕舞いました。


「トシオ! トシオ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 トシオは斯う呼ばれて、あたりを見廻しました。
 何という思いがけ無いことでしょう。トシオの直ぐ傍の欅の瘤根こぶねに腰をかけて、真白いひげを房々と手でしごいて居るのは、もう五年も昔に、トシオの家から死んで行って仕舞われたお祖父さんではありませんか。
「お祖父さん。あなたは、死んだお祖父さんではありませんか」
「ハハハハハハ死んだお祖父さんなんて云うか、トシオ! わしは決して死になんぞせないのに」
 お祖父さんがトシオの驚きを、大笑いに笑う時、さらさらと波打つ銀の様な髪の毛は、五年前のトシオの家に居たお祖父さんと、少しも変りはありません。しかし、お祖父さんの細くて長いまぶたの下にかがやいて居る瞳は、トシオの家に居たお祖父さんの、鳶色とびいろのやわらかさとは違って、まるで、エメラルドをちりばめた様に、青くすきとおった光を放ち、それに、いつも黒い毛皮の上着を、好んで居たお祖父さんが、今日はその髪の毛や髯の色と同じ様な、銀色の着物のすそを長く曳いて、片手に丈高い銀の杖を、しっかり突いて居られるのです。
「ハハハハハハどうじゃトシオ、わしは死んでは居ない証拠に、ちゃんと斯うしてお前の眼の前に、腰かけて居るではないか」
「ええ、それはそうです。ですけれど僕、たしかに五年前に、僕の家から死んで行って仕舞ったお祖父さんのこと、覚えて居るんですもの。僕にあ、お祖父さんの生きてることが、信じられないのです」
「それはそうじゃ、わしはたしかにお前の家で五年前に死んで、人間の世界からは、消えて仕舞ったのじゃ。しかしわしはその時から、直に「原始の国」という処へ、生れ変ったのじゃ」
「ああ、そうですかお祖父さん。ですがその「原始の国」って一たいどんな所ですか」
「それはお前達のむ世の中の、人もけだものも木も草も、鳥も虫もみんなそこから生れて、またかならずそこへ帰って行く国なのだ」
「そおお、そしてその国には、王様があるの」
「あるとも、たった一人の立派な王様がある」
「それはどんな、何という名の王様ですか」
「神様だ。神様は、すべての者の王様なのだ。そしてお前達の生きて居る世界の王様でもあられるのだ」
「だってお祖父さん。僕たちの世界には、どの国にだって、ちゃんと一人の王様が、いらっしゃるのですよ」
「いや、それは人間の為めに神様が定められた人間の中の王様なのだ。その王様もたっといが、しかし、その上にまだ、「神様」というたった一人の王様のあることを、お前達の世界の人は忘れて居るのだ」
「では神様の居らっしゃる「原始の国」というのはどこにあるのですか」
「それは直ぐに、お前達の棲む世界の隣にあるのだ」
「それでどうして僕達には、それが見え無いのですか」
「それはお前達の眼のせいなのだ。お前達の世界の人達は、あんまり長く神様を見ようとしなかったので、すっかり瞳がくもって仕舞しまったのだ」


 お祖父さんに曇って居ると云われた自分の眼を、トシオは幾度も、しばだたいて見ました。そしてまた改めてトシオは、お祖父さんの瞳を覗きました。
「お祖父さんの瞳は、神様を見ることが出来たので、それでそんなにすきとおって来たのですか」
「ああ、そうだ」
「そしてお祖父さんはいつでもその神様の国でそんなに、長い着物を着て、銀の杖をついて居るんですか」
「いいや、いつでもというわけもない。わしは時には、白い気体となって飛んで居たり、黒い土となって居たり、様々な形や色に変って居るが、しかし、どんな時でも、何に変っても私は私なのじゃ。その国ではな、一つのたましいが、いつも同じ一つの形で居なければならないと云う様な不自由なことは無いのだ」
「ではお祖父さん。今日はお祖父さんの形が、人間になる日に当るんですか」
「なに、今日がその日ともかぎらないのだよ。だが、人間のお前にいに来るには、人間の形でなければいけないからな」
「じゃあお祖父さん。あなたはわざわざ僕に逢いに入らっしったんですか。僕に何か用でもあってですか」
 トシオは曇って居ると云われたことも忘れて、その眼をくりくり丸くして、一層、お祖父さんの顔をみつめました。お祖父さんはそれを見て、よけい声を高めて笑いましたが、やがてまた、きっと、トシオの方を向いて、今度はおごそかに、
「トシオ、まったくだよ。わしはな、神様を忘れて居る人間の中で毎日迷ったり悲しんだりして、不愉快に暮らして居るお前を救ってやろうと思って、今日はまた昔のわしの形になって、お前の処へやって来たのだよ」
 斯う云ってお祖父さんは、ふところから一つの筒形の眼鏡を取り出して、トシオに与えました。
「さ、トシオ、これをしばらくのぞくのだよ。これをのぞけばお前はきっと、神様を見ることが出来るのだからね」
「そうですか。随分不思議な眼鏡なんですねお祖父さん」
「いや不思議でもなんでも無い。この眼鏡のなかには、人間が始めて神様につくられた時のありさまを、すっかり、フイルムに仕立てて仕舞ってあるのだからな」
「お祖父さん。これ、どこから持っていらしった?」
「これはお前に見せる為に、神様からわざわざわしが拝借して来たのだよ」
 トシオはさっそくその眼鏡を、しっかり眼に宛てました。
 お祖父さんは、すっくと立ち上って、トシオの眼の前に現れて来るフイルムの説明を始めました。お祖父さんが今手に取り直した、銀の杖を、きらりきらりと振る度にフイルムは廻転してゆくのでありました。


 以下しばらくは、フイルムについて、お祖父さんの説明ばかりが続きます。
 先ずトシオの眼の前へはっきりと現れたのは、ひろびろとした天と地と、海と太陽をうしろにして立った、何とも云い様の無い気高いひとりの人の姿です。
「あれは「原始の国」に立って居られる神様のお姿だ」
 とお祖父さんは云いました。
 トシオはなおも、眼をみはりました。
 フイルムが廻転しました。
 神様は片方の掌に、真白な大きい一つの玉子をのせていられます。
「あれは神様が或日、たったひとつお生みなされた御秘蔵の玉子なのだ」
 お祖父さんの説明はだんだん進んで行きます。
 神様はその玉子を、何気なさそうに、ぽんと落してられました。するとそのれ目から、赤、白、黒、青の四羽の小鳥が、勢いよく現れました。そしてその小鳥達は、見る見るうちに、四つの方角を差して、めいめいの首を向けて仕舞いました。
 先ず、白い小鳥の首は空の白雲へ、黒い小鳥の首は地の黒土に、また、青い海へは、青い小鳥の首が、赤い小鳥は真赤な太陽へ向いて真直ぐに、どれも、しっかり、うちつけた様に向いて仕舞いました。
「おお、この世の中は、やっぱり私の羽根の様に、真赤な色であったのか」
 と、赤い小鳥は太陽を眺めて、嬉し相にさえずりました。
 すると、海に向いた青い小鳥は、
「いいえ、この世の中は、私の様な青い色です」
 と得意相に云いました。ところがこんど、白雲ばかり仰いで居る白い小鳥が、
「どちらもそれは違います。まったく、この世の中は、白いのです」
 と、さきの二つの小鳥の言葉を打ち消しました。
 と、最後に、黒い土のみ見詰めて居た黒い小鳥が、すべての小鳥の言葉をつきのけて、
「どうして、どうして世の中は私の様に、真っ黒ですぞ」
 と叫びました。
「いいや、赤い」
「なに、黒いのだ」
「白いものとも」
「青いばかりだ」
 と、後ろ向き同志の四羽の小鳥たちの始めた、この争いは、果しもありません。すると、その時まで、じっとこのありさまを、かたわらで見て居らしった神様が、
「青いと思う小鳥は青い方へ、赤いという小鳥は赤い方へ、黒いと考える小鳥は黒い方へ、白いと囀る小鳥は白い方へ、めいめい飛んで行ったがよいわ」
 と、おごそかに、お命じになりました。


 フイルムは廻転して、小鳥たちがめいめいの方向へ出発してから、七年後の場面が現れました。
 トシオの正面には、また四羽の小鳥が、寄り合って居ます。しかし今度は決して、後向き同志のものではなくて、お互に親し相に、首を寄せ合って居ります。
「青い小鳥さん、七年前の私は、まったく一徹でありました」
 と赤い小鳥が、青い小鳥に、はずかし相に云いました。
「私こそでした。赤い小鳥さん」
 とそれに答えて、青い小鳥も同じことを、云いました。
「白い小鳥さん。私はあんまり七年以前に、強情を云い張って、済みませんでした」
 と黒い小鳥が云いますと、
「いいえ、私もやっぱり頑固がんこ者でした」
 と白い小鳥も頭を下げました。そして、四つの小鳥たちは、四つの可愛ゆい頭を、一度に下て、互にびを仕合ました。
 そこへまた、神様のお姿が現れました。
「小鳥たち、何を詫び合って居るか」
 と神様は、お尋ねになりました。
 赤い小鳥がまず申しました。
「私は今から七年前に、この世の中をただ真赤なものとめて、ほかの小鳥達と別れて、一図に太陽を目がけて飛んで行きました。はじめのうちは、自分のつばさと太陽と、同じに真赤なのが、愉快で愉快でなりませんでした。けれど三年目の末頃には、あまり真赤なばかりが眼に馴すぎて、少し飽き足りなくなりました。そして、四年目の末には、もう私の眼は、まったく飽きはてて、疲れ切って仕舞ったので御座います。で、私は、そうなると、かえって猛勇を奮い起し、遮二無二しゃにむに翼を早めて、太陽を目がけて、飛びつこうとしました。恰度ちょうど、五年目の末でした、私が、はた、と太陽に突き当った拍子に私の眼は危く焼けただれようとして仕舞いました。その時です。私は苦しさに思わず、うしろを、振り向きました。するとどうでしょう。今まで、かりにも、見向こうとしなかった自分のうしろの、はるか彼方に青々とした水が、とうとうとあふれて居るのでありました。私の眼は、それを見ると、あやうく焼けただれ相になった熱さが拭われて、どんなに涼しく晴やかになったでしょう。私はうれしくてたまりませんでした。そしてまた、私が、ほかの小鳥と別れる時、何でも、この世の中は、赤いばかりだと云い張った強情が、恥かしくてなりませんでした。私は早く、水の方へ飛んで行って、青い小鳥に詫びなければならない。そして仲よくしなければならない、と思いました。すると、私のはねが急に水の方に向って、矢の様に走り出しました。今度はまた、来た時の倍以上も、速力が早くて、たった二年の後、ここまでついてしまいました」


 神様は、赤い小鳥の話を聞いて、にこやかに、おうなずきになりました。
「神様。私もまた、不思議と赤い小鳥さんの様な、順序をとおって同じ時に、茲へかえり着きました。ただ、火の熱さと、水の冷たさに堪えられなかった相違だけで」
 と、青い小鳥が云いました。
「私とて同じこと、どこまで行っても真白でふわふわと、たよい白雲のなかに、眼も体もやすめようとする所もなく、疲れはてて仕舞った時、ひとりでに私の首が下を向き、つばさをやすめるに屈竟くっきょうな黒く落ち付いた土の底が、はっきり見えましたので、急いで茲まで降りて参りました。すると、(どこまで掘っても土は真っ黒。あやうく息もつまり相で)とあえぎあえぎ昇って来た、黒い小鳥さんに逢いました」
「そうして、皆が一所にこうして、そろったのでございます」
 と四つの小鳥は、くちばしを揃えて、最後に神様に申し上げました。
「よく分った。では、どうだろう。せっかく皆で仲よくなったのだから、もう、どの小鳥も、どこへも行かずに、四つの小鳥の、四つの特色を交ぜて、何か一つの合作をやっては」
「まったく私たちは、一つの色ばかりが、尊いと思われなくなりました。皆の色を調和させて、何を作ったら宜しいでしょう」
 と四つの小鳥達は、しばらく考えて居りましたが、
「神様。私たちは、あなたの形に似たものが、作って見度くなりました。許し下さいましょうか」
 と四つの小鳥はまた一度に、申しました。
「皆、よく気が揃うたなあ。宜しい、では早速はじめることにするがよい。私はそれに、人間という名をつけてやろう」
 神様はまた
「先ず赤い小鳥よ。お前は人間の何になる」
 とお尋ねになりました。
「私は人間の、愛に燃える唇と、誠を一ぱい盛った心臓になります」
 と赤い小鳥は答えました。
「白い小鳥は何になる」
 と神様が仰しゃいますと、
「行儀よく揃った歯と、健康な骨に」
 と白い小鳥は云いました。
「黒い小鳥は何になる」
「はい私は、希望に光る黒髪と、しっかりした、足の力になりましょう」
「青い小鳥は?」
「神様。私は、青く澄んだ青い瞳と、広い額の蔭にかくれた、ゆたかな智慧になりましょう」
 これを聞いて神様は、さも満足気に、ぽんと手をおちになりました。
「みんな誠によい思い付きだ。だが人間も、たったひとりつくられたのでは、生きて行くのに淋しかろうから」
 とおっしゃって神様は、そこへ、二つの大きなつぼと小さい壺とを、お出しになりました。


 小鳥たちは右の翼を大きな壺に、左の翼を小さな壺へ、めいめい躯から引き抜てなげいれました。
「よろしい。これで二人の完全な人間が出来るであろう。私はこの人間に魂をいれてやろう、そして未来をいつまでも見とどけてやろう。もうお前達の役は済んだぞ」
 と神様は、四つの小鳥達に優しく云ってお聞かせになりました。
 またフイルムは廻転しました。
 正面、神様の前に二つ置かれた大きな方の壺の傍には、見るからたくましい人間がひとり、今一つ小さな壺の傍には、それよりも、ずっと美しい人間がひとり、立って居ます。
「男よ」
 と神様は、大きな逞ましい人間をお呼びになりました。
「女よ」
 と今度は小さく美しい人間を、神様はお呼びになりました。
「お前達は完全につくられた。さ。行って、お前達の生活をお始めなさい。私は、お前達の為に、別にお前達のむ世界を用意して置いてやったのだ。お前達の眼に見果せぬ広い地と空と海と、日光とを私の領分から分けてやってあるのだ。おいで! 行って仲よく棲んで、多くの子孫をおもうけ!」
 神様が斯うおっしゃると、人間の男と女は、うやうやしくおじぎをして、神様の前を去ろうとします。すると神様は、再び二人をお呼びとめになりました。
「これ、この壺を手にお持ち、このなかへ、私は、一粒ずつの「運命」の種を入れて置く。この種を大切に育てたら、お前達の幸福は、いつもこの壺のなかに、満ちて居るだろう」と仰いました。
 男はまた、大きな壺をとって押し戴き、女は小さな壺をかかえて、頭を下げました。
 最後に神様は仰いました。
「よいか。お前達をつくった小鳥たちは、私が生んだ卵から生れた。それで私は、とりもなおさず、お前達の一番はじめの親なのだ。お前達の世界へ行っても、私を忘れてはならない。お前達が、お前達の世界へ行って、もしそこで欲しいものや、願いごとを思い付いたら、お前達は、空を仰ぐか地に伏すかして、熱心に、私の名を呼んで祈るがよい。私は、それが、お前達のためによいとみとめたら、必ず与えるであろうから。では男よ。お前は小さな女をいたわって行け。女は、大きな男をうやまって暮らせ」
 神様は斯う云い終って、男と女の頭に、交る交る手を一度ずつお置きになりました。
 この時、突然、フイルムは、ばったり閉じられてしまいました。トシオは、
「あっ」
 と驚いて、思わず手に持って居た眼鏡を下へ取り落しました。
「もういいのだ。トシオ! すべて、お前に見せることは済んだのだ」
 と云い乍ら、お祖父さんはトシオの取り落した眼鏡を、拾い上げて丁寧ていねいにチリを払って、懐へ入れてしまいました。


 お祖父さんとトシオは、再びもとの様に、大欅の根に腰をかけて、差し向いになりました。
「トシオ。いま見たフイルムで、お前達の遠い先祖が神様の子の小鳥達につくられたことが分ったろうな。そして、まったくお前達の一番最初の親が、一人の神様であることもな」
「ええ。僕、すっかり、神様のこと、分りましたとも。そしてお祖父さん。あのフイルムのなかの人間は、神様にお別れしてから、どうしたの」
「まあお聞き。それもわしはすっかり、神様からうかがったのだよ。あの男と女とは、神様に別れてから、勇んで人間の世界に行ったのだ。其処にちゃんと、神様の仰しゃったとおりの用意がしてあった。人間はよろこんでそこへ棲み始めた。そのうちに、だんだんお腹がすき出したので、男は早速、神様のおっしゃったことを思い出し、空を仰いでお祈りを始めた。女もまた、地の上に伏して、お祈りした。すると神様は、直ぐにお聞きとどけになり、人間達の喰べ物として、海に魚を殖やしたり、野に穀物を植付けたり、それからまた、疲れた時には、樹立をつくり、草を茂らせて休ませたり、花を咲かせて慰さめたり、風を送って涼ませたり、その上、人間の欲しがるままに、いろいろな鳥やけものや虫の類まで、人間の友達として、備えて、おやりになった。人間は随分、幸福に平和に満ち、神様に感謝することを一刻も忘れずに、世界のあらゆるものと仲よくし乍ら、せっせと働いて棲み合ったため、運命の種子はいつも二つのかめのなかに、みずみずしく育って居た」
「お祖父さんその頃でも、綺麗な花が、汚ない土から、咲き出して居たのですか?」
「汚い? とんでもない。土が何で汚いものか、いまもフイルムで見た通り、土も立派に神様から戴いたものだ。汚いなどとその頃の人間は、決して思いはしなかった」
「では、そのころ、人間と仲の好かった獣達が、なぜ今は、山の奥などへ、立てこもって、人間に、歯向かったりするのですか」
「人間は、その後追々たくさんの子孫をふやした。それでもう、人間以外の友だちがいらなくなったばかりか、ただ声の美しい虫や、自分達の働きを、助けさせる獣や、姿のきれいな鳥などばかりとって、ほかのは、みんな除けたり軽蔑してしまったのだよ。それで、蛇はひがんで、のたのた這い廻るし、かえるはがあがあ騒ぐのだし、蜂はぶんぶん腹立ちまぎれにしに来るし、狼や獅子は、鋭い牙を研ぎ出したのだよ。もうその時分から、人間は、神様の御恩も、四つの小鳥のことも、大かた忘れてしまったのだよ。そして仕舞には、人間同志でさえ、敵だの味方だのって、喧嘩をする様になっちまったのだ。せっかく神様から戴いた運命の壺まですっかり、投げ出しといてな」
「だって喧嘩なんて、人間を悪魔がどこかで、けしかけてやらせるんだって、僕、誰かに聞きましたよ」
「いいや、神様は悪魔なんて、余計なもの、人間の為にならないものなんか、御自分のつくった大切な世界へ、一つだって、お置きになりはしないのだよ。悪魔とは神様の御恩を忘れたばかりでなく、お互いにあやめ合ったり、きずつけ合ったりする時の、人間の心をさして云うものなのだよ」




 お祖父さんは、なお言葉を続けてトシオの疑いを、みんなけてやろうとしました。
「それから人間は、せっかく四つの小鳥たちが合作した、大切な体を、だんだん粗末そまつにするようになって仕舞った。神様は、それを改めさせるために、時々人間に病気をお与えなさる。だから病気の時は、おとなしく病気にしたがって、養生するのが、いちばん自分の体の為によいことであり、神様にも素直なのだ。また、人間の死というのは、神様が、時々人間の魂をお傍へ呼んで、修業させ、しばらくしてまた人間の世界へ、お出しになるのだ。その時、前に、人間の世界でおごったものは、かならず貧しい家に生れさせられ、前の世界で働いた者は、必ず富んだ家の人として生れさせられるのだ、それが因縁という、神様が人間にお与えになる正しい賞罰なのだ。だから、わしの様に、お前の家のお祖父さんで居た時分、あんなにむだなお金を使ったり、遊んでなまけて居たものは、今度ずいぶん、貧しい家に生れ変ることだろうよ。でもわしは、なげかないつもりだ。そこでわしが、不平を云わずによく働けば、かならずまた、次の世界には、富んだ家の者になれるのだからな」
「ありがとう。お祖父さん、僕なにもかも、すっかり分って仕舞いました」
「そうか。よかった。おお! お前の眼が、エメラルドの様に澄んで来た」
「この瞳には、いつも神様が、うつっているのですね」
「そうだ。その瞳にうつれば、お前の世界の何ひとつ、もう疑いでも不平でもなくなるのだ。そして、何もかも、皆、よろこんで、愛することが出来るのだ。ありがたいだろう? 愉快じゃないか、行って、お前の世界の人達に、お前の見たものを、すっかり話しておやりなさい。さ、わしの役目も、もう済んだぞ」
 お祖父さんの姿は、その時、突然かき消す様に、トシオの瞳から、なくなりました。
 すぴー、すぴー。
 はろー、はろー。………………
 と、にわかに欅の梢で、再び先程の鳥が鳴き出しました。
 しかし、トシオはもう、鳥の姿を振り仰ごうともしませんでした。早く自分の村へかえって、自分の見たものを、人々に語って聞かせ度いために、急いで欅のこぶ根から、離れました。不思議なことには、トシオの投げ出して置いた竹の杖が、お祖父さんのと同じ様な銀の杖となって居ました。
 すぴー、すぴー。
 はろー、はろー。………………
 と欅の梢の鳥をまね乍ら、勇んで村へ急いで行くトシオの高くすきとおった声が、しばらく野の末にひびいて居ました。





底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「朝日新聞」
   1921(大正10)年4月21日〜30日
初出:「朝日新聞」
   1921(大正10)年4月21日〜30日
※「おっしゃ」と「おっしゃ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2023年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード