街の尼僧の話
岡本かの子
それはドイツとの宣戦が布告されて間もない時で御座いました。ナンシーの片田舎に私は十九歳にお成りなさったばかりのお姫様と、お姫様の後見を遊ばす七十歳近い退役陸軍少将の伯父御様とにお仕え申して居りました。其処はフランスと申しましてもドイツとはほんの山一つ河一つ隔てたばかりの国境に近い土地で御座いました。
別荘と申しましても、もともと土地の豪族が旧邸を御恩人のお姫様の御両親に差上げましたもので、それは凝ったどっしりした素朴な造りのお邸で御座いました。お姫様はその前の年までパリでお育ちで御座いましたが、あまりお年寄でもない御両親を、同じ年に一度にお亡くしになりましてから、すっかり気をお落しになり、パリもうるさいからと仰って私と下働の召使を二人ばかりお連れになり、其処の別荘へおひきとりになりました。(宣戦が布告されても其処は絶対安全地帯だと、誰云うとなく極めて居りましたので、私達は割合に落ち付いて居りました)御別荘には前申しました退役陸軍少将様が、ずっと前からお留守番かたがた、やはりひとり身の老後を養っておいでになりました。
少将様は花いじりと小鳥の籠を幾十となく窓という窓にかけ連ねて、その世話ばかりにも日が暮れて仕舞うような御くらしで御座いました。御姫様で御座いますが、それはもうピアノがお好きでお上手でお子様のうちから愛用のピアノをわざわざパリからお取寄せになり、読書や御散歩でない時は夜おそくまでも、ピアノに向ってお出でになりました。その音いろのおよろしいことは――それとお姫様のお美しい評判が、間もなくナンシーの町までも聞えたなどと申しますと、お姫様はいやな顔を遊ばしましたが、まったくあなた、それほどの評判が却って仇となったとでも申しましょうか、敵がナンシーの町から、その土地へ崩れて這入ったとか、這入らないとか聞きましたばかりの時に、もう御別荘の門のあたりでどやどやという物騒がしさです。
お伯父御様があなた軍人でおあり遊ばしたばかりに、真先に抵抗遊ばして無惨な御最後とも知らずに、お姫様はいつもの奥まったお居間で、ピアノを一心に弾いて居らっしゃいました。私がお知らせに馳け付けて開けたお部屋の扉から、敵がドヤドヤと押入って、お姫様はピアノごと、ぐるっとドイツの鉄兜に囲まれてお仕舞いになりました。
ピアノから手をお離しになったばかりのお姫様は、大した驚いた動作を遊ばさない代りに、お顔はまるで宝石の様に堅く血の気を失ってお仕舞いになりました。「あなた助り度いか?」と兵士のなかの一番上官らしいのがフランス語で云って、ぶしつけにお姫様のお傍へ進んで参りました。「あなた助り度いか?」とまだ黙ってお居でになるお姫様に押しつけて申しました。お姫様はそれでも黙ってピアノを正面に視つめて坐ったなりでいらっしゃるので、いらいらした上官が何と無惨にも、門口でお倒れになった伯父御様の死骸をお部屋へ運んで、お姫様の目の前に持って来るよう命令いたしたでは御座いませんか。
それは独逸語でしたので私は何が何やらわからず、茫然として居りましたが、独逸語のお判りになるお姫様は、その時始めてすっくと椅子からお立ちになりました。「ばあや、本当か伯父様は……」とお姫様は私に始めて口をおききになりました。私がお返事仕ないうちに上官がまたフランス語で云いました。「そうだ、抵抗なすったからだ!」
伯父御様のお死骸を一目御らんになるや、お姫様のお顔は一層堅く一層澄み切って仕舞いました。そしてやはり一言も仰らずにお傍へ寄って行らっしゃいました。
お死骸の致命傷のお胸はさすがに包んでありましたが、むねんらしく乱れた白髪をかむっていらっしゃるお額を、お姫様はつくづくお撫でになりました。弱見を見せまい為か涙をじっと堪えて居らしった御様子が、今も眼にはっきり残って居ります。
「あなたは助り度いなら私に叛いてはいけません。第一にあなたが私の云うことに従うかどうか、あなたは私に試されなさい。あなたの評判なピアノを私達に今弾いて聞かせなさい。ドイツの国歌を弾くのですぞ。あなたが私達を歓迎する表示だ。ドイツの国歌をですぞ。宜いか!」
私はあまりの事にお姫様が其処に倒れはなさらないかとお見上げ致しました。その時お姫様は倒れる代りに微な身ぶるいをなさった様です。
「弾きますか、ドイツの国歌を?」
「弾きます!」
と異常に強く聞えたのが本当にお姫様のお声でしたでしょうか。お姫様はそれからつかつかと次の部屋の方へ歩こうとなさいました。
「何処へ行きます」
とまた同じ上官が咎めました。
「着物を――着物をちゃんと着更えて来る」
日頃はあんなにも女らしい優しいお姫様が、男より強く仰いました。お姫様はその時、秋の午前の散歩服を召して居らっしゃったのでした。
お姫様は白い礼服にお着替えになりました。伯父御様のお死骸に一礼なさいますと、ピアノの前にお坐りになりました。兵士達はあまり端厳なその御様子にうたれて、お死骸をお姫様の傍へ丁寧に置き、ピアノの前後を寛く取囲んで、行儀よく起立して鳴り出すピアノの音を待ち受けて居りました。
静に――そして高く晴やかにピアノが唄い出したのはマルセエイズ――フランスの国歌でありました。
お姫様の白衣の背は直に弾丸に撃ち抜かれてしまいました。お倒れになりましたその裳に縋って気を失った私を、何故敵兵はその時殺して逃げて呉れなかったのでしょう。
気が付いた時は町全体が荒され果てて居りました。逃げ散って居た他の召使共と私は、お二人のお死骸をともかくも始末申上げ、お姫様の御両親様を送った教会の尼僧様の処へ戻って参りました。
それから十年。私は御一家のみ魂を守りながら尼僧様のお手助いを致して居ります。でもあなた、もともと尼僧の教養も無い私で御座いますもの、せめて御教壇のお掃除をしたり、斯うして街へ教会の慈善事業の寄附金を集めに出ましたり致すのが、せいぜい私のお勤めどころで御座います。
底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一卷」冬樹社
1974(昭和49)年9月15日初版第1刷発行
初出:「婦女界」
1932(昭和7)年6月号
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2026年2月28日作成
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