智慧に埋れて

岡本かの子




 私には親も同胞も無いのです。私は海岸に近い平野の森の中に棲んで居るのです。老僕夫妻が、私の棲んで居る小さな洋館とはまるで関係のない直ぐ傍の昔風の小さな日本家屋に生活して居るのです。私は遺産を近親の死から十五の年に得て清楚せいそな暮しに一生涯事欠かない孤独な少女学究者なのです。日本語と英語フランス語を読むに欠かないだけの素養があるので別に学校などへは行かない。その代り以上の国語で書いた書物は欲しいだけ買えるのです。
 世界のあらゆる思想や芸術は殆ど私の知って居る三つの国語に訳してあるのです。で、私は古今のあらゆる思想や芸術に世界的なタッチを持って居るのです。私はこの森に移るまで東京の山の手の最も優秀な小学校に居て其処を優秀な成績で出たきりです。
 友達としては私の八歳の時から英語とフランス語を教えて居た青年学徒――私の稽古はその青年の高等学校生であった苦学時代から始まったのです――今は某官立大学のプロフェッサーとして洋行を終えて来ました。この人は私の十三四歳頃からツルゲニエフの温和や、トルストイの熱情や、アナトオルフランスの高雅やバルザックのエネルギッシュその他あらゆる系統の文学は殆ど一通り教えたと云ってもよいでしょう。そのくせ自分は法律学者なのです、そして私には法律に関する何事をも話しません。非常に眉目びもく秀麗です。老僕夫妻はいまに私かその青年かのどちらかにアクチーブに出て結婚でもすることを予想し否、そうあれかしと望んで居るようなのです。彼等らしい考えです。が、私は、人間同志が直ぐにお互いの体温を利用して其処に何等かの結果を造るのをいやしみます。私は幸、青年が三ヶ年の留学中に殆ど対話出来るだけの知識と学問を自分で積んで置きました。想って見て下さい。十八の男童の様な体格のい瞳の冴え冴えした少女がしゃんと胸を張って額に森の青葉の色の反映する白皙はくせきの青年と寸分の隙もなく論談する――光景はそれだけで沢山たくさん、想像はそれ以上の享楽を欲しがらなくともよろしい。
 マダマ・アリサは私のフランス語の仕上げをして呉れるために――結果はそうなったのだが実は今長崎の果てに居る私のたった一人の叔母(キリスト教信者で縁家をわれそれから何をそんな遠くでして居るのか)がわざわざ私の家事や手芸のために紹介してよこして呉れた外国婦人――三四年前から私の家へ出入りして居る。でも私はこの婦人から何も家事を覚えようとはしない。(お料理もフランス刺繍ししゅうも)私は実に発音の正しいこの人のフランス語で一度に三時間位、フランス語の本を読んで貰うだけです。私は簡素なふだん着の縫い方をこの婦人に一つ習っただけです。
 私はあらゆる場合に於て『頭』の宜い人を好む。小学校時代私より上級生を教えて居た高瀬由子は私の聡明な早熟な幼女の好みに一番適して居た。女教師は直きやめてフランスに渡りソルボンヌ大学の社会学科を終えて帰って来た。サンジカリズムの理論体系や、ロオドベルトスの社会主義論や、マルクスとコンミュンの話や、時にビスマルクやブハリンにまで彼女の論説は及んで行きます。そしてこれも私の友人の一人であり老師である五十翁戸野氏と論談はよくかち合います。戸野氏は東京の附近のやはり或る森蔭に隠居する禅学者であり兼ねて老荘の学にも長じた人です。戸野氏は隻手の声だの父母未生以前だの因縁所生の身。などと禅のテクニカルタームを談話の尖鋒に進め、老荘の虚無だの無為にして化す。などを盛に高瀬由子に差し向けます。
「仏教者が釈尊の善男善女ならあなた方はマルクスやレニンの善男善女だよアハハハハハ」と云う工合に高瀬由子をやりこめたつもりなのです。由子はどうもこの老翁とあまり深く論ずるパッションは持ち合せないらしいので直ちに頭の宜い女学者的淑女の本来に帰って至極のどけき茶菓のもてなしにうつります。由子は私の家をまるで自分の家の様に自由にふるまいます。しかしずべらに宿り込むようなことはしません。れない処はどこまでも彼女の頭の好いすがすがしさです。
 私は以上の友のどの思想にも趣味にもかぶれて居ません。私は以上の友達を如何に愛して居るにしても私は私です。私の生活は私の生活です。私の運命は私だけのものです。私はアナトオルフランスに親しみマルクスを認識し釈尊乃至老荘を敬愛しつつしかももともとは十八の頭の好い孤独な生活者でありあくまでも童衣を着た一人のピューリタンの少女に過ぎ無いのです。そして因縁の所生によって簡素な生活を生涯守られるだけの遺産をうけた一処女、身を幸とも不幸とも判断しかねて居るのです。只生来の厳粛感が自分の将来に襲い来るべきグロテスクな性慾的危機を予想する時、いっそ今のうち死んで仕舞った方が好いと時々考えるのです。
 …………箱根路を我越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ…………これは源実朝の詠んだ金槐集中の歌ですが、私は私の洋館の窓をあけたてする時などによくこの歌をうたって居ます。誰も待つ人も無いのに森のなかを散歩する時などには万葉集のなかの…………あしびきの山の雫に君まつとわがたちぬれぬ山のしづくに…………などとくちずさんで居ます。





底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四卷」冬樹社
   1977(昭和52)年5月15日初版第1刷発行
初出:「令女界」
   1929(昭和4)年6月号
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2022年6月26日作成
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