ある日の蓮月尼

岡本かの子




第一景


(六畳程の部屋。机一つと米櫃こめびつ一つ置いてある。側は土間になって居る。土間には轆轤ろくろ台と陶土、出来上った急須きゅうすや茶碗も五つ六つ並んでいる。
部屋の方にて蓮月尼と無名の青年と対座。)
無名の青年 ――僕はとうとうこの短冊を見付けて来ました。
蓮月 ――(短冊を青年から受け取って読む)――木の間よりほの見し露のうす紅葉おもひこがるゝ始めなるらん――これはいつかわたくしが京のお人に頼まれて書いて差上げた歌です。これがどうかいたしましたか。
無名の青年 ――こんな歌を詠むあなたが人情を解さぬと云う筈はありません。僕はそれを発見してうれしいのです。
蓮月 ――わたくしは人情を解さぬとあなたに一度も云った覚えはありません。人一倍涙もろい性質に自分でも困っております。
無名の青年 ――人情を解しながら涙もろくて、しかも僕の熱情を容れて下さらないのは矢張り僕がお嫌いだからなのですね。
蓮月 ――めっそうな。あなたを好きの嫌いのという贅沢ぜいたくではありません。わたくしはもう、そういう世界から見離された人間です。正直に申せばそれ以上の世界にひかれ出された人間です。
無名の青年 ――愛のまごころより以上の世界があるでしょうか?
蓮月 ――あるか無いかより、どうしてもあってもらわなくてはならなくなったわたくしの心持ちを少しお話いたしましょう。わたくしとて夫婦生活を体験し、子供も二三人持った女です。わたくし等夫婦は媒酌で結婚したものの、その間には愛が完全に生れ、子供も随分可愛く御座いました。愛の生活としては可成り幸福なものでございました。それを一時にわたくしは持って行かれてしまいました。夫も子供もあっけなく死んで行って仕舞いました。これを宿命と解さないでどう諦めましょう。時には諦めかねて、世間の人情どおり、死んで夫や子供の跡を追おうと決心したことも何度あったか知れません。しかしそれが決行できなかったのは一人の親の為でした。わたくしには一人の老いた父があり、それを養う為にしばらく死を思い止まらねばなりませんでした。
無名の青年 ――くわしくは今が始めてですが、そういうあなたの御事情は前から大分知って居ました――で、あなたは世の中は無常だから、愛までも信じられなくなったといわれるのですか?
蓮月 ――一番幸福な絶頂から一番不幸な谷底へ蹴落された人間に、それをあえて繰り返す勇気も精もまだ残って居るとあなたはお思いですか?
無名の青年 ――僕の愛は死や無常ではくつがえされない積りです。僕の愛は永遠にあなたを活かし切ります。
蓮月 ――それはまだお若いあなた方のおっしゃる事です。わたくしとてあなた方の年頃にはそうも云い、そうと思い込んで居りました。然しいよいよ事実に遇って――身辺に触れ合うあたたかい掌が無くなり、くしけずって遣る小さい頭の髪の毛が目前になくなった時、どうして、愛の、永遠のと呑気のんきな事がいって居られましょう。実際にあれ等はみな無くなって仕舞うのです。そして残された切ない心だけが、わたくしを削りさいなみます。それでこんなにも愛するものを見捨てて行った死者はあんまりに身勝手だと、あまりの絶望に死者に対して変態な恨み方をしたことさえございます。
無名の青年 ――…………。
蓮月 ――これまでお聞きになって、まだあなたはわたくしを愛に繋ごうと云うお気持になれますか?
無名の青年 ――それではあなたは絶望のまま、ただ一人の親のため空骸なきがらのままで生きて行こうとして居られるのですか。何と云うむごたらしい生き方だろう。それを伺ってはなおさら力になって上げたいと思います。
蓮月 ――ほほほ、御同情にはお礼を申します。けれど人間というものは絶望の儘、けっして生きて行けるものでは御座いません。たとえ絶望の人でもこの絶望の上に反抗的な意力を発見しその力でこらえて生きて行くものです。
無名の青年 ――それではあなたはただ一人のおとうさまの為に生きて居られるのですか。おとうさまもそれほどあなたを愛して居られますか。
蓮月 ――父もわたくしを愛して呉れて居りますとも。しかし、これとても浮世の無情、有為天変ういてんぺんまぬがれません。いずれはうたかたのはかないものと思って居ります。
無名の青年 ――では何が力です。何を希望にあなたは生て行かれるのです。
蓮月 ――わたくしは不幸のおかげで、より以上の世界を覗かせて頂きました。闇の奥を突き破って明るい世界があるのを認めさして頂きました。もしわたくしがその世界にすっかり入り切るならば、特に愛人とか親とかの差別はなく、わたくしは万人万物と不壊ふえの生命で手をつなぎ合えるのです。死ぬと云ったとて永遠に生き切る事が出来るのです。こういう世界を前方に置くものが、どうして悦びに躍って道を急がずに居られましょう。
無名の青年 ――それが嘘であろうが、真当ほんとうであろうが、あなたの行く処へは僕も必ず行って見せます。教えて下さい。その世界へ行く道を。
蓮月 ――その道とはすべてのものにさまたげのない道です。現世の執着の一つであるあなたの愛によって、わたくしを妨げず、そしてもとより備わって居るその世界の月の光を曇らせまいと心がける処に、はっきりとその道は開かれるのです。
無名の青年 ――それはあまり非人情に消極的に歩まなければならない道ではありませんか。
蓮月 ――(手を挙げて青年の言葉を押しとどめ)理屈でもって実行を妨げないこと。
(蓮月、ふと気がついて机の傍に落ちて居る短冊を拾い)
蓮月 ――これはむかし詠み捨てた歌を望む人があって書いたものですが、これをあなたに差上げますから、あなたの京から持って来られた短冊と代える事にして下さい。
(蓮月手に持った短冊を青年に与え、青年の持ちたる短冊をうけとり破り捨てる。)
無名の青年 ――ああ!
蓮月 ――わたくしは今日の生活の務めをしなくてはなりませんから、これで失礼さして下さい。あなたも早く帰って勉強をなさって下さい。
(蓮月、土間に降り轆轤台に向う。青年せん方なく立上り庭へ降り、柴折戸しおりどより去らんとして、今蓮月より与えられたる短冊を読む。)
無名の青年 ――いつの間にそでのしづくとなりにけむわけ来し法の道しばの露。
(青年、蓮月を顧る。蓮月、眼より涙の溢れんとするを、そのままに専心抹茶の茶椀を造っている。)

第二景


(前景と同じ住庵の場、立派な武士が供の二人と部屋の縁に腰かけて居る。これに対して蓮月は別に愛想好くも無くまた不愛想という程でもなく、極めて自然の態度でさむらいが望むままに出来上った陶器を棚から下して見せて居る。)
蓮月 ――もう、この外に出来たものは御座いません。
主人の士 ――いやもうこれで結構じゃ。――どの品にも一風流あって面白いが、わけてこのかえるの絵を描いた松風の歌の茶道具一揃いが俗を離れて飄逸ひょういつじゃ。これを貰って行くことにしよう。
蓮月 ――不細工なもので恐れ入ります。
供の士の一 ――蓮月さんの仮名書は今日世間に定評あって有名ですが、絵までいつの間にか美事にお描きになるとは随分器用な事ですな。
蓮月 ――ほほほ、絵などと仰せられては痛み入ります。ほんの模様代りのいたずら描きなのです。
供の士の二 ――いやいたずらどころでは無い。人間魂さえ磨かれて居れば何をしようとみな脱け出るというのは本当です。この蛙の絵なども気品の高さ、京やそこらの商売画描きなどは足元にも及ぶものではない。
蓮月 ――いいえまったく女の手すさびの素人描きなのです。この蛙も始めて描きますので、一体蛙の手の指が五本のものやら三本のものやら一向存じませんので、裏の田へ行き蛙をおさえて指を見せて貰った程で御座います。
主人の士 ――ははははは。
供の士の一 ――ははははは。
供の士の二 ――ははは。そこが無垢むくで尊いところです。
(蓮月、客の讃辞を聞き流し、そろそろ品物をしまいかける。)
主人の士 ――おお、だいぶ邪魔をいたした。それでは、これを貰って戻るといたそう。
蓮月 ――さようで御座いますか。失礼いたしました。それでは包紙をさし上げましょう。
(供の士、蓮月より包み紙を受け取り陶器を包み堤げられるようにくくる。立ち上った主人の士、供の士に一寸目くばせするので、供の士の一、懐中より金を取り出し紙に包んで)
供の士の一 ――軽少ですがこれは料金です。
蓮月 ――ありがとう御座います。
(客の士連れ立ち去る。蓮月、土間の轆轤台の前に座って陶器の仕事にとりかかる。一方客の三人が柴折戸を出て十二三間行く時、儒者にして画家の鉄斎、年頃二十七八、友人亀田を連れて来かかる。双方すれ違う。鉄斎は主人の士を振り返っていぶかしき面持ち、然し直ぐに態度を取り戻し柴折戸の前に立ちどまる。)
鉄斎 ――(亀田に)いいか、さっきも云ったように、尼さんは月並な訪問や無駄咄むだばなしが大嫌いなのだから、決して口を利いてはならんぞ。万事俺がうまく取り計らうから。
亀田 ――それは大丈夫だ。俺はただむこうが有名な蓮月尼である。それを見さえすればいつもりだ。
鉄斎 ――その有名扱いがまた尼さんの嫌いの随一と来て居る。尼さんは世間から名士扱いにされるのを五月蠅うるさがって、宿がえ蓮月と云われるほど宿がえを致した位だからその名士見物の素振りをちらっとも見せてはならんぞ。
亀田 ――なかなかきびしいな。まあ万事貴君の指揮に任せる。
(鉄斎、おずおず柴折戸を開け亀田を伴い内に入る。蓮月はやはり土間の轆轤台の前に坐って居て工作に余念も無い。)
鉄斎 ――今日は――お仕事ですか。
蓮月 ――…………。
鉄斎 ――お仕事に御念が入りますな。
(蓮月、振り向かずその儘口を利く。)
蓮月 ――どなたですか。
鉄斎 ――わたくしです。鉄斎です。
蓮月 ――鉄斎さんですか。勉強が忙しいでしょうに、わざわざ何の用ですか。
鉄斎 ――え――その一人友人が陶器を欲しいと云うのです。
蓮月 ――あなたのお友達? それでわたしの陶器が欲しいの?
(蓮月、はじめて首を振り向け鉄斎と亀田を見る。亀田、周章あわててお辞儀をする。)
蓮月 ――ほほほほほ。鉄斎さん、あなたまたわたしの云い付けを破りましたね。お友達の方は陶器が欲しいのじゃ無くて、この坊主頭の女を見物に来たのでしょう。
鉄斎 ――申訳がありません…………。
蓮月 ――まあ折角連れていらっしたのですから、縁側でなりと休んでお出でなさい。
(亀田はすっかり恐縮して、お叩頭じぎばかりしながら鉄斎と縁の端にかたくなって腰掛ける。二人はしばらく手持ち無沙汰の様子。蓮月はまた工作にもどる。しばらく轆轤台のきしる音だけが春昼のしずけさの中に耳につく。亀田と鉄斎がひそひそ咄を始める。段々声音が高くなる。)
亀田 ――一言ぐらい宜さそうなものだ。
鉄斎 ――さっきあれほどいかんと言ったじゃないか。
亀田 ――でも折角――。
鉄斎 ――いかんいかん。
(蓮月、振り向いて)
蓮月 ――何を云い争って居るんです。
鉄斎 ――いえね。この男が何かあなたにお訊ねしたいというんです。僕は連れて来る最初に、連れて丈けは来るが決して談話であなたを妨げないようにと、堅く約束したんです。だのに――。
蓮月 ――(鉄斎の言葉を抑えるように)この世捨人の尼に、あなた方のような青年が聞くことがあるのですか。
(蓮月、轆轤台の前を立ち部屋の方に来る。そこで炉の釜の湯の様子を見て茶を入れ二人に勧め、縁に近く来て坐る。)
蓮月 ――鉄斎さんのお友達の方、まあ、それじゃ言ってごらんなさい。お答え出来ますかどうか、何にもわたくしは知りませんが。
亀田 ――(実直な青年らしくひどく切口上になって)失礼ですが、じゃ伺います。僕は鉄斎君からあなたの事はしじゅう聞いて居りますが、あなたは理想を死後の世界にもとめる厭世家であって、なぜ陶器を作って売ったり、歌の短冊を書いて売ったり、この現実に一生懸命に働いて居られるのですか。
蓮月 ――働かなければ喰べられないではありませんか。
亀田 ――いやあなたのは喰べる程度以上に、何か働くと云うことに価値を認めてやって居られるように見えるのです。本当の厭世家なら、もうこの現実には望みを断ったのだから、働いても仕様が無い筈を、あなたはせっせと働いてお出でになる。どうもその間に矛盾があるように思われるのです。
蓮月 ――あなたは働くということを目的の為めと思ってお出でになる。それでその不審があるのです。わたくしのは違います。わたくしのは働くというその事が生存の自然なのです。何々の為に働くとか、何々なるが故に働かなくてはいけないという理屈は無いのです。働かないよりは働いている方がより自然だからそうやって居る迄なのです。
亀田 ――それで世捨人なのでしょうか。
蓮月 ――あなたは世を捨てた事はおありにならないし、またそうせよとお勧めするわけではありませんが、実際体験の上から申すと、世を捨てる程この世の中で働き宜くもなるし、また働きも出来るのです。なぜといえば働いてもその効果を考えないから打算から切り放されて自由だし、強られる義務が無いからかえって身軽に動けます。本当に働く為めに働く純粋の心持ちを得られるのです。然しこう説明すれば、それはもう世捨人の働きに効能書が付いてうるさくなります。事実は世の中をあきらめると、何だか自分で自分がお可笑かしいくらい働き出し、而もそれを働いて居るとも感じないのです。
亀田 ――そう働けばあなたと親御さんお二人お暮しになる以上金が取れるでしょう。その余りの金の仕末はどうなさるのです。
蓮月 ――(手でさえぎって)もうやめましょう。お互に働く時間を無駄に費しますからあなたも勉強盛りの年頃ではありませんか。
(蓮月また轆轤台の前に戻る。)
鉄斎 ――亀田、もうよかろう。いよいよ約束が違うぞ。
(亀田、お叩頭をしてすごすご立ち上る。鉄斎も立ち上りかけて、先刻武士が置いて行った縁先きの金包みに気が付き、手に取り上げる。)
鉄斎 ――尼さん、また金をほうり出した儘ですよ。だらしが無いな。
蓮月 ――それはさっきの客が置いて行った陶器代でしょう。
鉄斎 ――陶器代にしては重いなあ。
蓮月 ――開けて見て下さい。
鉄斎 ――や、小判だ小判だ――さっき行った客っていうのは、あの僕等が道で擦れ違った三人連れでしょう。あれなら△△の殿様とお付きの士だ。△△の殿様がお微行しのびで陶器を買いに来てこれを置いて行ったのですよ。
蓮月 ――何しろ陶器二組に小判は多過ぎます。あなた△△の殿様のお宿を知って居ませんか。
鉄斎 ――知ってます。四条烏丸です。
蓮月 ――では十日程したらまた陶器が溜りますから、差引残りの価だけのものを持って、あなたお宿まで届けに行って下さい。
鉄斎 ――承知しました。
蓮月 ――それに、今その金はわたしのところに入用ありませんから、橋の方の費用にやって下さい。
鉄斎 ――ではお預かりして行きます。
(両人一礼して柴折戸を出る。道にさしかかる。)
亀田 ――橋の費用とは何だね。
鉄斎 ――尼さんは自分で費用を出して、加茂川に人助けの為めの橋を架けつつあるのだ。
亀田 ――ふむ。(尊敬の念に堪えぬ表情で尼の方を振り返り、しばらくじっと立ち止まって居る。)

第三景


(同じ庵室。初夜近き刻限。何処とも無く糸車を繰る音、それに交って水車の音。蓮月は白布子に腰衣だけつけ、座敷の方で燈火に対し、明日のかまどに入れる素焼きの皿や鉢に一生懸命絵を描いて居る。
右手の竹藪を距てて母家の律院がある。障子越しの燈が竹藪にほのかにさして居る。
律院の障子が開いた様子、老僧らしい声だけする。)
老僧 ――蓮月さん、まだ寝なさらんのかい。
蓮月 ――(筆を止めて)律師さまですか。あなたもまだ起きていらっしゃいますか。
老僧 ――いやわしは退屈まぎれに碁の本を見て居るのだが、あんたは日一日働いてその上夜業はしんどうないかな。
蓮月 ――滅相な。有がたくて気が勇んで居ります。今日もお蔭さまで昼は縁を四五十遍も登り下りする程存分働かしてもらいまして、また今夜は皿や鉢が七八つ描けました。こんな晴々したことは御座いません。
老僧 ――まめなお人だ。過ぎんようにしなされよ。
蓮月 ――有難う存じます。
老僧 ――ほい、思い出した。あんた大根の葉がえらい好きなそうやな。
蓮月 ――ほほほほ。わたくしは鶏の生れ代りで御座います。
老僧 ――そしたら今夜、わしとこで大根の葉と揚豆腐あげどうふを煮たからあげようわい。一寸竹藪まで来なされ。
蓮月 ――折角せっかくで御座いますから、では頂きましょうか。
(蓮月庭に下り半身を竹藪の中へさしいれ、やがて皿を両手に持って出る。)
老僧 ――どうじゃ、皿は無事か。
蓮月 ――無事で御座います。
老僧 ――藪越のものの遣り取りも稽古が積んでうもうなられた。
蓮月 ――ほほほほほ。
老僧 ――ははははは。
(蓮月、座敷に戻り皿を経机の上へ置き、紙を一枚女らしくかける。)
蓮月 ――まあ、こんなに沢山恐れ入ります。
老僧 ――なんの、まだいるようなら明日もまた上げよう。
蓮月 ――いえ、もう充分で御座います。
老僧 ――あーあ、大分眠うなった。小用を足して来てから――楽寝としょうか。だが蓮月さんや、あんたもあまり夜更しは毒や、程々にしなされよ。
蓮月 ――なるべく気をつけます。
老僧 ――それにも一つ、あんたはいつも戸をあけ放しで寝なさるが、あれも悪いこっちゃ。いくら田舎でも盗っ人は居るからのう。
蓮月 ――盗人がはいりましても、何も持って行くものは御座いません。
老僧 ――そうばかり云うものでもない。鍋一つ失うても、直ぐその日からの不自由じゃからな。
蓮月 ――御深切は頂きます。
老僧 ――どれ、お休み。
蓮月 ――お休みなさいまし。
(老僧欠伸あくびを続けながら入る。蓮月再び絵筆をとって仕事にかかる。夜は更けて行く様子。糸繰り車の音も水車の音ももはや聞えず。風に林の鳴る音寂しく、ふくろうが鳴き出す。蓮月は仕事の三昧さんまいに入り、筆を働かすに余念も無い。しばらくして覆面した一人の男庵室に忍び寄る。蓮月の起きて居る姿を見て躊躇ちゅうちょし引返しかけたが、また勇気を取り戻すに努める様子。この態度をくり返すこと五六度。つまずきて縁の上に音を立てる。蓮月始めて気が附き、絵筆を控え闇を透して見る。)
蓮月 ――(落ち付いた声で)どなたです。
盗人 ――……はい。
蓮月 ――どなたですか。
(盗人決心して懐中より短剣を抜き放ち、蓮月の前にすっくと立つ。)
盗人 ――盗人です。
(蓮月静かに筆をさし措いて盗人に正面する。)
蓮月 ――このあばら屋に何か欲しいものがおありなのですか。
盗人 ――そうたやすく持って行けるものは欲しくないのです。
蓮月 ――妙ですね。この家はご覧のとおり夜も戸閉りは致しません。それと云うのもこの家にあるものはみな入用の方にはいつ何時たりとも差し上げて宜いつもりからです。別にむずかしく隠したりしてあるものはありませんからです。
盗人 ――あなたの御気性として人を悪に陥れたく無い為、夜も戸閉りをせず盗人さえも知人か近所の人のように自由に出入りさして物を与えてやる。そのお心がけはよく分って居ます。わたくしはそれを承知で這入ったのです。然しわたくしはあなたのその慈悲に覆われて、罪なくしてものをもらって行こうという乞食にはならん積りです。飽までも私の力であなたからものを強奪して行く罪人になります。
蓮月 ――不思議なお望みではありませんか。何か殊更のわけがおありなのでしょう。ですが、そうまあ立ちはだかってお居ででは草臥くたびれもしましょう。相手はたかが女一人の事です。安心して手足を休め、ゆっくりお話なさっては如何なものです。
盗人 ――わたくしはあなたのその情深いお言葉に憎しみを持つようになったものです。もう何も云わないで下さい。わたくしは仕事を急ぎます。
蓮月 ――ではもう何も申しますまい。そしてそのむずかしいお望みものとやらは何なので御座います。
(盗人の短剣の先が少し慄う。それから決然たる声音にて。)
盗人 ――他のものでもありません。あなたの身体が頂戴いたしたいのです。
(蓮月盗人の顔をつくづく見る。盗人、その眼ざしを避けるように覆面の顔を他方に振り向ける。)
蓮月 ――あなたは今朝の青年の方ではありませんか、あの短冊を交換して頂いた……
(盗人、其処へべったり坐り、しばらく息を切って居る。やがて顔を振り上げる。)
無名の青年 ――そうです。あのわたくしです。わたくしは悪魔になりました。
蓮月 ――お気の毒な事になりました。何があなたをそうさせたのでしょう。
無名の青年 ――あなたの純粋がこうさせたのです。
蓮月 ――わたくしはそうおさせした覚えはありません。
無名の青年 ――あなたに覚えが無くともわたくしの心にこの結果が来たのです。わたくしは今朝あなたのお言葉を聞いて、現世の愛の果敢はかない事も本当の愛の世界の不壊な事ものみ込めました。そしてそれを彼方に望んでゆかれるあなたのお心が、水晶のように光って透明なものに感ぜられるようになりました。わたくしはあれから宿へ帰りあなたが交換して下さった短冊の歌を繰返し繰返し読んで、わたくしの心の一部はあなた同様純潔な寂光の世界が望まれるような気がいたしました。然し心の一部はいよいよ恋に燃えて押え切る事が出来ないのです。なお困った事には今朝のお言葉を聞く迄は、わたくしの全部が統一してまっしぐらにあなたを恋して居たのに較べて、あのお言葉を聞いた後はわたくしの心の半分は熱し、半分は静かに湛えてじろじろわたくしを眺めるのです。冷笑癖のある友人と連れ立った情熱家。これがあの以後六時間の間のわたくしの恋ごころです。焦立いらだたされずには居られません。それに今迄わたくしが望んで居たあなたは、ただ純で美しい女のあなたであったものが今朝あのお言葉を伺った後はあなたが気体のような超人間的なものに見做みなされて仕舞って、あなたの存在は破滅のない確さにはなったが、手にも取られず感情にも引きかかって来ない、わたくしにとってまことに仕末の悪いものになりました。焦だたしさに、あれから今までたったわずかの時間の間に、私の心は経廻り得られるだけのあらゆる境地を探し廻ったということが出来ます。そのあげくにわたくしの心が生甲斐のある途を見出しました。この盗人になることでした。他のものには目もくれません。あなたの肉体を盗み取ろうとする盗人です。
(蓮月しばらく目を伏せて考えて居る。無名の青年は置いた短剣を取り上げて立上ろうとする。蓮月がとめる。)
蓮月 ――まあお待ちなさい。次第によっては盗まれて差上げないものでもありません。が、まだわたくしには腑に落ちないところがあります。それをもうすこし詳しく話して下さい。
(無名の青年止むを得ず再び坐る。)
蓮月 ――あなたはどうしてその半分冷静に半分情熱が残って居る焦立たしい心境から悪の途へ門出されたのです。わたくしの肉体を盗むのがどういうわけでその二つに分れた心境から生れた結果となったのです。
無名の青年 ――(吐息をついて)あなたのように既に人間性の浄化に成功なさった方には、こういう人間性の劣悪な皮肉はもうお分りになりますまい。だが人間がある激烈な心の衝動をうけてその心が四分五裂の苦にさいなまれるとき、これを逃れるには自暴自棄の態度が一番宜いのです。それよりもなお深い絶望に遇っては自己反虐ということがやっと残って居る勇気を喚び起すのです――(しばらく瞑目した後独白のように)青年よ、お前はお前の心のなかで、善良なものが真心の一撃に遇ってうろうろ戸惑うのを見た。そして蹴倒してでもやり度いくらいにそれを不甲斐ないものに思った。然しお前の心はもう善良なものを見くびって仕舞った。だからお前はもう善良なものでは生きる力を得られなくなった。お前は一度心のなかでは自殺した。而も死に切れないで藻掻もがきのたうち廻った後、自分の人間性の中から埋火うずみびを掘り起すように、ようやく見付け出して来たのが悪の力だ。お前は最初は慄えた。然しその力はいう。わしを使って見給みたまえ。案外人間を真剣にするものだから。お前は遂に彼に従うことにした――お前が精神的に死に切れなかったのはまだ恋の熱情があったからだね。その熱情は今迄善良と思う純真な心によって導かれて居る。だが今度は悪の力でそれが後押しされるのだ。およそ人間が悪の力で後押しされる恋の情熱のむかう途は大概極まって居る。肉体だ! 奪略だ! 蹂躙じゅうりんだ! 何という悲痛な真剣な獣の道だろう。わたしの前には青い火と赤い火が燃えて居る。わたしは素肌でその真ただ中へ飛び込むのだ。ただそれだけだ。
(青年の血相が変り鬼畜の形になって蓮月に飛びかかる。蓮月静かにふりほどき、利き手をとって青年を座に据え伏せる。)
無名の青年 ――獣だ! 獣だ! 獣だ! (うめくようにいう。)
蓮月 ――それで様子がすっかり判りました。お気の毒に存じます。わたくしとても女の身です。それほどまでに思いつめなされたあなたのお心を、何で粗略に思いましょう。何はともあれ先ず気をお静めなさって下さい。
(青年をいたわり背を撫で茶椀に水を汲んで来て与えなどする。青年落ち付く。蓮月の変った態度に、少し恥かしそうにうつ向いてかしこまる。)
蓮月 ――この上はわたくしも俗の女の身に還ってあなたのお志に向いましょう。その上で本当にあなたのお志が受けられますかどうかが極まります。ですからあなたも悪の獣のなどと無理な事を仰しゃらずに、以前の素直な青年におかえりなさいまし。
無名の青年 ――それは本当ですか。
蓮月 ――何で偽を云いましょう。しかし、この法服姿で恋の問答は流石さすが仏に対して恐れ多う御座います。只今脱ぎ換えて参りますからしばらくお待ち下さい。
無名の青年 ――ありがとう御座います。まるで夢のようです。
(蓮月、屏風を立て廻し着物を脱ぎ換える。その間青年は居ずまいを直しえりを掻き合せたりまげの形を直したりする。蓮月出で来る。あでやかな娘姿。青年吃驚びっくりする。呆れて見惚れる。)
蓮月 ――これがわたくしにただ一枚残って居る娘時代の着物です。
無名の青年 ――娘だ! 娘だ!
蓮月 ――これを着たので、すっかり女らしい気持に還りました。
無名の青年 ――僕は嬉しくって堪まりません。もうこんな陰気な庵なんか捨てて、早く京のにぎやかな処へ行って二人で暮すことにしましょう。
(青年、蓮月の手を執る。)
蓮月 ――一寸待って下さい。たった一つ仕残した仕事がありますから。
(蓮月は半身を捻じ袂の中から何か取り出し口にくわえる。異様な音がする。蓮月、あっと云って俯伏す。)
無名の青年 ――どうしたのです! どこか悪くしたのですか。蓮月さん! 蓮月さん!
(青年、蓮月を抱き起し顔に手を添え振上げる。蓮月の口から血がしたたか垂れて居る。)
無名の青年 ――や!
(青年、蓮月の手に持てるものに気付きてぎ取る。)
無名の青年 ――はかりの分銅を噛んだのだ! 歯が折れている!
蓮月 ――ほほほほほ。(苦痛を忍んだ意地笑い。)
無名の青年 ――何故こんなことをしたのです。
蓮月 ――(屹度きっと座り直し然し、息は切れ切れに)わたしは女に還りました。女に還った以上は女の意地というものがあります。脅かしや腕力でみさおを奪おうなどという男に素直にこの体は渡せません。奪うなら奪って御覧なさい。私は奪われる前に屹度自分の体を奪う価値のないものにしてお目にかけますから。――あなたはこんな歯欠けの醜婦をも京へ連れて行こうとなさいますか。――若しまだこれで足らねばわたくしは鼻なと耳なと削いで、あなたに愛相をつかさせて見せます。
(蓮月、短剣を拾い取り身構える。)
無名の青年 ――止めて下さい。あやまります。あやまります!
(青年ひれ伏す。)

第四景


(前景と同じ庵室。夜の明け方前。前景の盗人であった無名の青年縁近く膳の前に座り箸を握って居る。蓮月は法服姿に戻り庵室の奥の炉で香湯をあたためて居る。)
無名の青年 ――あーあ、飯などのどへ通らない。
(前歯が無くなりずっと人相がふけた蓮月、口もいくらかきき憎そうであるが、言葉は優しく凜々りりしい。)
蓮月 ――それはいけません。夜が開けたらあなたは橋普請の働きに外へ出る約束でしたね。働く人がお腹を空にして居ては役に立ちません。少しなとおあがりなさい。おおそうそう、宵に母屋おもやの律師さまから頂いた大根の葉の煮ものがここにある。これを菜にしてかく箸に口をつけてご覧なさい。
(蓮月、経机の上の鉢から覆い紙を除け青年の膳へ持って行ってやる。)
無名の青年 ――有難う。ではまあ一生懸命喰べて見ましょう。
(青年、覚束おぼつかなく喰べ出す。蓮月、香湯の鍋の胴に手を触れて見る。)
蓮月 ――丁度頃合いのあたたか味になった。毎夜の刻迄には屹度して差上げる筈の日課が、ゆうべからの騒ぎで暁方になって仕舞った。仏様もお待ち兼ねであろう。どれお湯浴みして差上げましょう。
(蓮月、塗盥ぬりだらいを庵室の中央に持ち出し、中に黄金の仏像を安置する。)
蓮月 ――「我今灌沐諸如来。浄智荘厳功徳聚。五濁衆生令離垢。同証如来浄法身。」
(蓮月、偈を繰り返しながら香湯を盥の仏にそそぐ。蓮月の偈が唱声三昧に入るに従い、青年、箸と椀をさし置きしきりに涙を拭き出す。遂にかすかな欷歔すすりなきの声を立て両手をひしと組み合せ、蓮月の後姿を拝む。欷歔の声漸次大きくなる。蓮月のすくう香湯の匂いあたりに薫じ、夜は明け放れる。)
――幕――





底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「散華抄」大雄閣
   1929(昭和4)年5月
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード