阿難と呪術師の娘

岡本かの子




人物
釈尊、阿難、目連、呪術師じゅじゅつしの老女、老女の娘、外道げどうの論師、市の人々、諸天、神将達、大勢の尼僧。
場所
舎衛城内外。

第一場


(舎衛城郊外の池、呪術師の娘水を汲みに来り、水甕みずがめを水に浸せし儘、景色に見入りて居る。)
娘 ――(独白)光は木々の葉にたわむれ、花は風に揺られて居る。大地と空とが見交す瞳の情熱の豊さ、美しくもねたましき自然――おお私にも心を迎えて呉れる清らかな胸が無いものか。
(阿難、鉢を持って行乞ぎょうこつの戻りの姿、池を見て娘の傍に近づく。)
阿難 ――女人よ。水を一杯供養して下さい。
娘 ――(急ぎ木蔭に身を隠す。)尊きみ僧に水を差し上ぐるは容易たやすい御用で御座ります。(しばらく躊躇ちゅうちょして)が、わたくしはあなた様方にとって、けがれた職業の者の娘で御座います。
阿難 ――何の御職業か存ぜぬが私達は人に高下をつけません。ましてや世の営みの職業なら、何なりとも尊い事に存じて居ります。
娘 ――でも……。
阿難 ――それほど御遠慮なさるなら、ではうなさって下さい。私も仏の御弟子という資格を捨てて水を頂戴ちょうだい致しますから、あなたもお職業の娘という資格を捨てて水を振舞って下さい。そうすれば、けがれるけがれぬの心配もありませぬ。ただ渇いた人間に、同情ある人間が水を与える。――これこそ本当の布施ふせの道にかなった行で御座いましょう。
娘 ――有難う御座います、では差し上げさして頂きます。
(娘、わななく手で水甕を差出す。阿難、飲み終り礼して去る。娘、いつまでも阿難の姿を見送る。)

第二場


(舎衛城内広場、餅施行もちせぎょうの札が立って居る。阿難、甲斐々々しき姿にて、群がり来る人々に忙がしげに餅を与えて居る。)
乞食甲 ――坊主、おいらに呉れ。
阿難 ――はい。
乞食甲 ――なんだ、一つか。
阿難 ――どなたにも一つずつですよ。
乞食甲 ――けちんぼ。
乞食乙 ――坊さん、うちにせがれとかかあが待って居るんだ。三つ呉れ。
阿難 ――只今ここへお見えになる方だけに、一つずつ差し上げることになって居ます。お見えにならぬ方には、後程餅が余った時にまた差し上げますから。
乞食乙 ――勝手にしやがれ。
(その時外道の論師、群集を押し分けずかずかと施行台の前に立つ。群集互にささやき合いながら席を開き、何か事の起るを予期する興味にて静まり返る。)
論師 ――貴き御僧。御身に問わん。只今施行するその餅、そのしょう、有か、無か。
阿難 ――失礼ですが今日は議論にお答え致しかねます。師は今日私に餅の施行を命ぜられて、議論をけよとは命ぜられませんでした。
論師 ――それは法に不忠実と云うものだ。法の討論より餅の方が大事というのか。
阿難 ――何とおっしゃっても議論のお答えは致しかねます。餅なら差上げますが。
論師 ――それじゃ餅をもらってやろう。餅を呉れ、餅を。だが其れには少し注文がある。餅を手を使わずによこせ。そしたら受取ってやろう。
阿難 ――はい。(と手でつまんで差し出す。)
論師 ――無手ではない、手を使って居るではないか。
阿難 ――まだそんな事を仰しゃるのですか。少しくどいですね。一体えた人間に同情して餅を与える心、それは切実なもので水が高い所より低い所へ就くのと同じ必然である筈です。その心持ちには、やれ手を使って与えようとか手を使わずに与えようとかそんなまだるい考えの這入る余地は無い筈です。もしそう云う考えの加わった施行なら人間の真情がみだされた施行で、施す人も施される人も共にけがすというものです。真率であるべき人生の行為を、戯論けろん手遊おもちゃにするというものです。お控え下さい。わたくしが只今こう差し出した餅を握った手、この手に哲学だとか論理だとかそんな余裕の心持が見出せますか。この手はただ饑えた人に餅を与えたい心で活きて居るだけです。この手は饑えた人に早く餅を受け取ってもらおうと前へ進むだけです。この手には天地の必然のみあって、人間の学問の勝負はありません。有手、無手、そのどっちに御覧になろうとも、それはあなたの御勝手です。わたくしはただ手を差し出すだけです。
(外道の論師、寄りつくすべなく、不機嫌な顔をして餅を受取り、群集の中にまぎれ入る。)
群集 ――やあ、外道の先生、参ったな。
(急にどやどやと一群の人が餅を受取りに群がる。その中にまぎれて呪術師の娘施行台の前に立つ。娘、恥かしそうに阿難の顔に見入り乍ら手を差し出す。阿難気が付かず餅を与えようとしたが、餅が二つ粘りつきどうしても離れぬ。忙がしさに押され娘に二つの餅を与える。群集の中に立上った外道論師。)
論師 ――やあ、阿難は女に餅を二つ与えたぞ。
乞食甲 ――えこひいき! えこひいき!

第三場


(舎衛城の城壁に沿うて呪術師の娘が帰って行く。手に施行でもらった餅を持って居る。黄昏たそがれである。城外の平野一面に夕靄ゆうもやが漂うて居る。落日の残光がほんのりそれに当って人を夢心地にする。)
娘 ――(歩きつつ独白)あの方はわたしに餅を下さった。夫婦のように二つつながって居る餅を下さった。大勢はあの方をののしった。わたしにえこひいきするのだと罵った。わたしはあの方が決してえこひいきしたのではない事を知って居る。だから大勢の理不尽に向って激しい憤りを覚えた。あの方をそでおおうて上げ度い程お気の毒に思うた。しかし其心の下から、ああ恋は何という手前勝手なものだろう。わたしはこの間違いを悦んで居る。あの方の心がわたしに傾いて居るようにお言われなさったのを悦んで居る。そしてともすればあの方が本当にわたしをえこひいきして下さったのじゃないかしらんと自惚うぬぼれ心がつけ上って来る。浅墓あさはかにもいじらしいわが心よ。しかしお前は気をつけねばいけない。あの方は禁慾離苦の御身だ。あの方を真に思って上げるなら、あの方を忘れて上げなければいけない。あきらめるということがあの方に向っての恋の真ごころでなければならない。餅を捨てるが宜い。餅を捨てるが宜い。ああ、しかし――この清らかなまゆのような餅を見るとき、捨て難きあのおん方――思い断ち難きわが心――。
(あとより忍んでついて来た外道の論師、この時娘に声をかける。)
論師 ――娘よ。餅を捨てるに及ばぬ。
娘 ――あなたはどなた様でいらっしゃいます。
論師 ――わしは学者じゃ。娘よ、お前は餅を捨てるには及ばない。
娘 ――何と仰せられます。
論師 ――娘よ、お前は阿難と夫婦になる宿命を持って居る。それで餅が二つついたのじゃ。わしは天眼通を持って居る。わしはたしかにお前の宿命を見透した。
娘 ――まあ! 本当で御座いましょうか。
論師 ――一つずつ与えらるべき餅をいわれなく二つ与える筈はない。二人の宿命が二人に知られずして餅の上に現われたのじゃ。
娘 ――………本当なら嬉しいけれど………でもあの方は、男女の分ちを超越なさる僧侶の御身の上で御座います。わたくしが宿命どおり進むならば、あの方を堕落だらくおさせ申す事になりはしないでしょうか。
論師 ――馬鹿なことを。娘よ、人は宿命の意志にしたがうことのみが善である。お前は空の星を見るか。宵には東に、暁には西に。あの星の動きをとどめ得る人なら、宿命の力をも動かす事が出来よう。娘よ。お前は数を判断するか。一と二と寄すれば三となる。この判断を変え得るものは宿命をとどめる事が出来る。娘よ。お前は今、流れと風に追われて行く帆船である。お前の望みとお前の宿命とは一致して居る。何の躊躇する処があるか。人生の花であり匂いである乙女よ。お前は今、自分の美しさの力を現わさなければならない。
(娘、しばらく考えて居たが)
娘 ――(独白)そうだ、私はあの人を得よう。私の心臓の小筥こばこのなかへ、あの方を胡蝶こちょうのようにとりこにしよう。
(娘、舞台から引き去らるるあやつり人形のように、畸形に身を浮かして去る。論師、娘の姿が失くなると、青い舌を長く出して)
論師 ――(独白)娘の心はうちたてひもだ。論理の指でどんな結び方でも出来る。

第四場


その一


(呪術師の老女の部屋。中央に怪神の抱き合うた形のあり、炉には汗のように油脂が滲み出て居る。あざわらうような青き焔が炉の口から時々現れる。屋根裏より燻製の猿、わにの子などが古血のように固まって垂れて居る。部屋の奥の方の棚には幾つもの壺が並んで居る。胡座あぐらを組んで居る呪術師の老女の膝に身を投げかけ、娘はしきりに哀願して居る。)
老女 ――わからない子だね。わたしののろいは死人と慾を離れた人には効かないと云って居るじゃないか。
娘 ――わたしは、生れてから一度も自分の為めにお母さんの呪いをせがんだことはありませんでした。この後も決しておせがみ致すようなことはありません。これが一生にたった一度のお願いなのです。ですからどうかお母さんの術を使って、あの方をここへお呼び下さい。
老女 ――禁ぜられた呪いを犯すときには、お祖父さまの代から燃え続いて居るこの炉の火が消えて仕舞うのです。そうしたらわたし達は何で生活出来るだろう。
娘 ――わたしに今要るのは、喰べ物でも飲みものでもありません。ただあの方のお姿です。お母さん、わたしは恋しさに死に相です。
老女 ――可哀相に、若し効くものなら祈ってもやり度いのだ。が、たとえわたし達二人が明日から饑え死に仕様とも、ああしかしこればかりは、わたしの力にも及ばないことだ。
娘 ――お母さん。お母さん。わたしは今まであなたを生みの親の親しみから、ただ甘えてお母さんと呼んで居ました。今、この焦がれるような苦しみに追い立てられて、わたしは死にもの狂いになってあなたにすがりつきます。魂の底から、お母さんと呼んで縋りつきます。ですからお母さんも、いのちの底から真剣のお母さんになって救って下さい。どうぞ! どうぞ!
(老女はしばらくうつむき、涙に暮れて居る。が再び顔を上げた時には決然たる表情で顔が物凄く変って居る。すなわち眼は一ところに凝りつき、口は笑いともすすり泣きとも分らぬゆがみに曲って居る。娘驚きて飛び退き、あきれて母を見守る。)
老女 ――(独白)母、母、母、………母………(笑いの怪音、小間)そうだ、わたしは母なのだ!
(だんだん朗かに喜ばしげなる調子になる。)
 わたしは今日始めて、平生わたしの呪術を嫌う娘から、本当の声で母と呼ばれた。心から娘に縋り付かれた。
(自信に満てる調子にて)わたしの中から呼び覚まされた「母」はあの天地を育み生きものを造り出す力である偉大な「母性」なのだ。この力に刃向えるものはあるか。わたしはもう呪術師ではない。真正正明、一人の娘の母なのだ。
 わたしは呪術師として祈らずに、娘を愛する母として、日頃使い馴れた呪術の力を借りるとしよう。そして可愛い娘に恋人阿難を祈り迎えてやろう。(老母は立ち上り部屋の奥に入り、一かかえの白蓮華と一振りの銅刀を持ち出で来り、炉の側に坐る。)おお! 二十八枚の蓮華よ。お前の一枚々々にわたしは母として愛の血を盛る。首尾よく火を潜って若僧阿難を呼び迎えて来てお呉れ。
(老女は銅刀で乳房を裂き、白蓮華の一枚々々に乳房の血を塗り、炉の火中にくべる。異様な光焔と薫蒸とが溌乱する。)

その二


(部屋の中、もの凄き響と共に一度に暗くなり、それが追々剥がれて行くと桃色の光線のなかに、幻の如く阿難の姿が現われる。しきりに巻き付かれたる物を振りほどく様子であって、しかもそれを振りほどき得ず、ますます牽き付けられるといった肢体の動作を繰り返す。ただし捲き付いて居るものは何やらはっきり見えない。)
阿難 ――(苦しげなる独白)これは何とした事だ。ここは何処だ。わたしはわたしの体が自由にならぬ。わたしの心は糸の切れたたこのように狂って飛ぶ。わたしの戒の守りは――定力は――どこへ行ったのか。わたしの智慧のひかりは一点もわたしに光って呉れぬ。わたしはもののけに取りつかれたのか……。(もがき疲れて悄然とする。)然しわたしも悪かったのだ。わたしは道場に坐って、いつものように思惟して居た。一禅、二禅、三禅の境地が、中空の月のようにしずしずと心の中に冴え渡って行った。だがそれから先へはどうしても進めない。心に仕切りがあるようにどうしても進めない。わたしは焦慮いらだった。そこに隙が出来たのだ。その時ふと母のことが考えられた。心の隙へ出家にあるまじき肉親の愛を想う慾念がきざしたのだ。まだわたしが子供で居る時、わたしが悲しい顔をして居ると、母が手をとって訊ねて呉れたあのあたたか味を想った。(阿難少時緘黙かんもく、再び激昂の調子になり)その刹那せつな、血塗った蓮華が何処よりともなくばらばらと飛んで来て、わたしの身心にまとい付き、そしてわたしは無闇むやみにここへ運ばれて来た。ここは一体何処なのだ。そしてわたしはうなるのだ。――
(娘、勿体もったいなさ恥かしさに黙って居たが、漸く勇気を出して阿難の傍に近づいて行く。)
娘 ――阿難さま。おなつかしゅう御座います。
阿難 ――お前は誰だ。何者だ。
娘 ――池のほとりで水を差上げた者でございます。また餅施行の時に餅を頂いた者でございます。
阿難 ――おお、あの娘か――。わたしをここへ牽き寄せたのは、お前か――。して、用は何だ。
娘 ――わたくしを憐れと思って下さい、わたくしはあなた様を想うて死ぬるばかりでございます。
阿難 ――それは俗情の言葉だ。わたしはあなたに用は無い。わたしを帰して下さい。
娘 ――阿難さま、女が男を慕うまごころ。これが俗情でございましょうか。
阿難 ――すべて、盛りとすたりのあるこころは俗情であるのだ。お前の今の心には、潮が満ちて居る。だからなぎさが判らない。潮が干る時、渚の塵埃じんあいが目につくであろう。
娘 ――何と仰しゃってもわたくしの心は動きません。二人は宿命の上に立って居るのでございます。(懐より餅を取り出す。)阿難さま。これはあなたがわたくしに下された餅でございます。あなたは二つ付いたこの餅を、何と御覧なさいます。
阿難 ――わたしは清らかな繭と見る、また峯を連ねた雪の山だ。
娘 ――いいえ、この餅は二人のえにしの現われなのでございます。
阿難 ――いいや繭だ、雪の山だ。
娘 ――いいえ、これこそえにしの現われです。
(老女、銅刀を持って二人の中に立つ。両の乳房に血が染まって居る。)
老女 ――若い者等の口争い、見て居て歯痒はがゆい。娘よ。しばらく退くが宜い。わたしは阿難に話すであろう。
(老女改めて阿難の方に向き直る。)
阿難どの、今わたしはあなたに三つの道を与える。そしてあなたは、そのうちでただ一つの道だけ選ぶことが出来る。
阿難 ――何という権柄けんぺいずくの言葉だ。
老女 ――わたしは「母性」の名に於てこの事を申し出る。あなたの母御と同じ資格である「母性」に坐して申し出る。あなたも母なるものの心を汲み取って、この答えをして欲しい。
阿難 ――では、云って下さい。
老女 ――その一つは、あなたが素直にわたしの娘と結婚して下さる事。これはどうじゃ。
阿難 ――わが身一つをさえ彼岸に運び兼ねて居る未熟の身の上です。足弱の道連れなど思いも及びませぬ。
老女 ――ではあなたを殺してわたし達二人も死ぬ。これはどうか。
阿難 ――死は恐れません。然し殺生せっしょう戒は犯し度くない。たとえわたしが人から殺される事であっても、理由なく殺されることはわたし自身が殺生戒を犯したと同じ事になるのです。ましてわたしの俗情に関係して、あなた方二人の命まで断つ事は、わたしの立派な殺生になります。どうかやめて下さい。
老女 ――それならばあなたも殺さぬ、わたし達二人も生きて居る。しかし私達二人は生きながら悪鬼となって、人情を軽蔑したあなたを始め、釈迦仏教団の人々に向って生々世々しょうしょうせせ怨みをなすが、これは如何どうだ?
阿難 ――仏の御苦労を一層増す事です。どうかやめて下さい。
 煩悩ぼんのうの氷厚ければ、これを割る仏の慧日、光芒をいや増す。憎悪ぞうお無尽むじんならば、これを解く仏の慈悲もまた無尽である。広い世界にただ一つや二つの悪鬼羅刹らせつの姿を増そうとも、仏の御目にそれが何のさわりをなすものぞ。それは微塵みじんの身を以て蒼天を包み取らんとする働きに等しい。果敢はかなき限りである。さりながら我ゆえに、たとえ一塵の障りなりとも、仏の御苦労の種を増すは弟子の身として恐れ多い。どうか呪いの鬼となることは止めにして下さい。
老女 ――何をいう。それでは三つの道を三つとも逃れる事ではないか。卑怯ひきょう者!
阿難 ――わたしはこの場合、わたしに適当な道がたった一つあるだけです。それは今あなたが仰った逃れることです。愛慾から逃れる。執縛から逃れる。煩悩の浪風荒き心のへりから、無垢むくな心の中心点へ近寄って行く。これを逃れるというなら逃れるで結構、卑怯者で結構です。どうかこのまま私を帰して下さい、実はその方が娘さんの為にもなることなのです。
老女 ――いや帰さぬ、わたしの思案は変った。――(老女、部屋の隅より漆黒しっこくの毛綱一束を持ち来る。)阿難どの。わたしはもう、そなたを生かしも殺しもせぬ。もちろん逃がしもしませぬ。(毛綱を振って見せ)そなたと娘を一体にくくし、永劫えいごう青銅せいどうの像にしてのける。そして未来、世々生々、この恋の双生像を見るものには、一目で身を焼く程の恋のむらを起させる。阿難どの。そなたはあくまで木石の味方をされるゆえ、わたしは何処までも人情の味方をせずばなるまい。そなたと永劫離れぬ双生像にられるなら、娘もさぞかし本望ほんもうでござろう。

その三


(老女、毛綱を押し頂き懸命に呪文を唱える。阿難、体のすくみ来るにつれ、極力反抗して手足をもがく様子。)
阿難 ――苦なるかな。苦なる哉。わたしはついに妖術に縛られて生ながら青銅の像となる。この生恥いきはじはまだ堪えよう。出家の身として、衆生しゅじょうの眼へ逆に妄執もうしゅうの姿となって永劫に留まることの恐ろしさ。あわれなるわたしである。果報つたなきわたしである。天晴れ仏果を得て人中の芬陀利華ふんだりけと咲くことを望んだ身が、畜生もひづめを避ける醜草と変るのだ。老女よ! 娘よ! お身等にしたった一雫の情があらば、どうかここから私を逃がして呉れ、わたしにこの場を去らして呉れ。
(老女は用捨なく娘と阿難を一体にして毛綱で捲きにかかる。娘は反狂乱の態になり老女の前に立ちふさがる。)
娘 ――お母様! わたしは嬉しい。わたしはつらい。わたしはどうしたらいのでしょう。わたしは阿難様と一緒に縛られ度い。阿難さまを逃がしても上げ度い。おお、わたしのこの二つの心。お母さま、わたしはどうしたら宜いのでしょう。
(老女涙をこぼす。)
老女 ――わたしにももう分らぬ。いのりは毛綱に移った。毛綱は蛇の様に生きて来た。
(若き美僧の阿難と清艶な娘とが狂いもつれながら、黒蛇のような毛綱に捲き上げられて行く。それはギリシャの彫像ラオコンが現わす苦痛美に、若さとなまめきを添えたものである。)
(阿難、急に思い付きたる様子にて呼び声を挙げる。)
阿難 ――おお師よ。わが師よ。祇園精舎ぎおんしょうじゃに在す釈迦牟尼しゃかむに仏よ。あなたのあわれな弟子は、今危難の淵におぼれかかって居ます。恥辱ちじょくの縄に亡びかかって居ります。どうぞあわれなこの声をお聴き取り下さい。お救い下さい。南無祇園精舎に在すわが師釈迦牟尼世尊よ!
娘 ――阿難さま! お母様!
(二人の呼び声が響き合い、かすれ疲れ、細り行く間に、舞台、徐々に暗くなり、ついに暗転。)

第五場


(舞台一面月夜の空の気持。正面に大きな雲の形あり。雲の中央に仏陀の弟子にて神通第一の※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)もくけんれんが僧衣の姿で立って居る。これに従って護法の諸天、神将達が絢爛けんらんなる武装にて控え居る。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難奴。またしくじったな。ははははは。今度は本当に弱って居るらしいぞ。
諸天のA ――何しろあの男は生れが上品だし、年は若いし。きりょうはよし。その上心根が優にやさしいと来て居る。女に思いつかれる資格はみんなそろって居る。どうしたって女難じょなんはまぬかれぬ処だ。
神将のA ――僧侶で美男は罪作りだ。自分から女を迷わせて置いて、迷ってはいけないというのだからな。
諸天のB ――丁度店先きのこしらえものの菓子の見本のようなものだ。喰べたがらして置き乍ら、いざ取って喰べようとなると歯にかっちりだ。女ならずとも誰でもまごつくきまって居る。
神将のB ――それに引かえ俺達は安心なものだ。どう見ても女子供の寄り付く柄ではない。
諸天のA ――だから仏様が、ちゃんとまった役をふって下さる。
神将のB ――よろい甲冑かぶとに身を固め、男女の仲をきに行く。法の為とは云いながら、随分野暮やぼな役割だ。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難の奴め、すっかり弱りきった。じたばた騒いで居る。
諸天のB ――阿難の弱った姿がまた美しい。あれは騒げば騒ぐほど美しくなる。だから娘もいよいよやり切れまいて。
神将のC ――われ等の教主釈迦牟尼世尊は美しくまします。美しい分量の多いことにかけては、到底阿難輩の及ぶ処では無い。世尊のお姿は見て居るだけで四六時中飽く事が無い。これはどういう訳なのです、目連さん。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――世尊の美しさは女とか男とかいうものの美しさではない。生命そのものの美しさでまします。人間中のあらゆる美しさをあつめて、き浄めた美しさだ。あれを拝めば人間の理想に対する求願ぐがんを強められる。高きもの、第一義のものに対して、はっきりした目標を定めさして頂ける。仲々恋とか愛とかいう、感情に引掛る程度の美しさでは無い。むしろそういう感情を沈澱ちんでんさせてその上に澄む生命の上水を汲まして頂ける美しさなのだ。
神将のB ――して見ると阿難の美しさは感情をきまわす器械でお釈迦さまの美しさは感情の水し器械だ。阿難の器械はそこらにざらにあるが、世尊の器械は専売特許だ。
諸天のA ――いくさの途中だ。無駄な洒落しゃれを云うのは止せ。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難の肌には、まだ生命の盛り切れないくぼんだ部分がある。その窪みに男女の慾情のつめが引っ掛るのだ。世尊のおん肌は、張り切った生命の一枚板だ。何と爪の立てよう処もない。
神将のA ――時に今日のいくさは何ういう具合になるのです。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――ただの慾情降伏のいくさでなく、敵は子を思う母親のまごころから出て居るのだ。いくさはちと難しくなるかも知れぬ。
(空中の場面に於ける目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連その他諸天神将達が雲の上にて台詞せりふを交し居るうちにも、背景の夜の空はキネオラマ式に移り動き、あたかも舞台の人物とそれらを乗せたる雲が空中を飛揚し行くような錯覚を起さしめる。そして台詞終りし時舞台は暗転。)

第六場


(再び呪術師の老女の部屋、既に阿難と娘は毛綱にて縛り上げられ、引据えられて居る。老女はすっかり魔女の姿に変貌して居る。)
老女 ――石か青銅か。石か青銅か。
娘 ――(細れる声にて。)お母さま。待って下さい。
老女 ――石か青銅か、さあどっちだ。どっちなと望みどおり祈り固めて呉れよう。
娘 ――わたしが悪う御座いました。阿難さまを許して上げて下さい。
老女 ――(少しあきれて)え! 何だと?
娘 ――阿難さまの、世にも悲し相なお姿を見て、わたしはもう堪えられませぬ。自分の情を張り切る力は御座いませぬ。どうか阿難さまを許して上げて下さい。
老女 ――馬鹿な事を。呪術の誓いはりを戻すことは出来ないのだ。たって一人を許すにした処で、他の一人は誓い通り行うのが呪術の法だ。阿難を許せば、お前は一人で呪いを受けねばならないのだぞ。
娘 ――わたしは石になと青銅になとなります。ですからどうぞ、阿難さまは逃がして上げて下さい。
阿難 ――(同じく弱れる声にて)いや、娘さん。わたしはもう覚悟を極めて居る。どうせ仏果につたなく生れついた身の上、石になりと青銅になりとなり、この身、この因果を思い捨てます。あなたはあくまで生き延びなさい。だがこれにりて必ず二度と男を恋うるような事はなさるなよ。
娘 ――そのお言葉を聞くにつけ、いよいよあなたがおいたわしゅう存じます。どうぞわたくしを呪いの犠牲にして下さいまし。
阿難 ――いやわたしが呪いの犠牲になります。
老女 ――相変らずつべこべとうるさい奴等だ。一体どうなのだ、早くしろ。
阿難 ――(少し考えて居たが、やがてきっと顔を上げて、語気も強まり)娘さん!
娘 ――はい。
阿難 ――わたしはどうやら、女の真ごころというものが分りかけて来たような気がする。あなた自身を殺してまでわたしの身をひたすらかばおうとする。あなたのその厚い情が身にしみて来たようです。
娘 ――(声いきいきと)まあ阿難さま。それは本当で御座いますか。
阿難 ――わたしに今生れたこの心持は、あなたのいう恋とかいうものとは違うかも知れない。しかしそれに可成り近いものだとは想像がつきます。
娘 ――わたくしは嬉しくて死に相で御座います。
阿難 ――わたしはひたすらあなたが有難くなった。が、この気持はわたしが俗の身であった時、生みの母に対して抱いた、あのなつかしみとも親しみとも違う――。
娘 ――阿難さま。わたくしを信じて下さいまし。
阿難 ――この不思議ななつかしさ、親しみ――。わたしがこの心持であなたと一体の像になったら、後々これを見る人も、そう悪い感じは起しますまい。
娘 ――おお、何という嬉しいお言葉、さ、阿難さま。ではこのまま二人一緒に呪われましょう。
(阿難うなずきて覚悟。この時空中に激しき鳴響あり、それが終ると大音声にて目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連呼ばわる。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 阿難よ。師の世尊がお呼びであるぞ。
(目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連の声が聞ゆると同時に、阿難と娘を縛めたる毛綱おのずと断れ落つ。阿難、夢の醒めたる様子にてよろよろ立上る。)
阿難 ――おお、あれは目連どのの声だ。わたしは救われる。(声の方を仰ぎ)目連どの、阿難は茲に居る。
娘 ――只今の頼母たのもしきお言葉に引き換え、そのお気色はどうした事で御座います。阿難さま、あなたはお一人でお逃げ遊ばす気におなりなされましたか。
(娘、阿難に縋り付く。阿難、娘を振り捨てるとにはあらねど、心は既に彼方に在る様子。)
阿難 ――世尊のみ弟子の中に在って神通第一と呼ばれたる目連どの。わたしは今、危い淵の岸に在る。早くおん身の神通力によって救って下さい。救って下さい。(阿難、無我夢中に、空へ駆昇らん擬勢を示す。娘、いよいよ執念く取り縋る。)
娘 ――阿難さま。あなたの行く処へわたくしも行きます。どうぞ何処へなり、一緒にお連れなすって下さいまし。
(二人はもがく。二人の前に老女立ちふさがり、空をにらみ乍ら。)
老女 ――呪いは意志なのだ。正邪の判断を寄せ付けぬ石火矢なのだ。呪いは遂げることより外何物も知らぬ。呪いはただ貫く為に在る。これをさまたげようとするものはわざわいなるかな。矢は遂になんじの身に立とう。たとえ仏の使いなりとも、神通第一の修行者なりとも用捨はない。おお、世の中にありとあらゆる障碍しょうがいよ、災危よ、危険よ、病弊よ、欠陥よ。また人の心に巣喰うありとあらゆる嫉妬しっとよ、害心よ、欺きよ、野望よ。そなた達の大事な武器の呪いは今やぶそこなわれようとして居るのだ。汝等みな生物の形をとって、この一期の戦いに味方となって呉れ。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難よ。早く来るが宜い、世尊のお召だ。
(目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連の再度の言葉をきっかけに、阿難、娘に取り縋られたまま、宙釣りになって空中へ上って行く。之を目がけて老女口より赤紅しんくの焔を長く吐き上げる。)

第七場


 再び空中の場。舞台装置第五場の時と同じ。ただ違うのは背景の空の動きによりて雲が上手へ進み行く趣きを見せたるに、この場合に於ては雲が下手へ帰り行く様子を見せる。雲の奥の一端に、目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連、阿難をかばうて立ち居る。阿難は腕をこまねき坐り居る。その袖に娘は縋った儘。雲の中央にて護法の諸天善神達と、呪いの方の眷属けんぞく等と戦う。
 法を護る諸天善神達は絢爛けんらんなる甲冑にほこ、剣、戟、金剛杵こんごうしょ弓箭ゆみやにて働く。或は三面に八臂はっぴなるあり、或は一面に三眼を具するもある。
 呪いの方の眷属は多く妖艶なる美女の姿を装うて居る。侏儒しゅじゅや獣身のものを交ゆ。彼等の武器に使うものは現代の婦人の使う面紗ヴェールに似て居り、または天平の婦人のヒレに似て居る一種の長絹である。各七色に染め分けられたるその一片を持つ。長絹はその性、これに触るるものに纏縛てんばくし、相手の力をしぶらせ、しびらせ、焦慮させる技能がある。
 両者の戦いの有様を見ると、それは一見闘争である。然しよく見ると、それは闘争の形を執った巧妙な舞踊であるのに気付く。地上より、また天界より音楽あって、この不思議な舞踊の節奏を培養して居る――右の場面暫らく続く――。
 そのうち呪いの眷属達は諸天善神達に打ち敗かされ、一人々々雲の上より突き落され、遂に掃蕩され尽す。

第七場の註解


 第七場の場面は、音楽と舞踊にて活かす場面である。従ってこの場の芸術的権能も、作曲家と振付家にゆだぬべきは勿論の事ではあるが、これ等の芸術によって仕活しいかすところの宗教的思想――或は宗教的アトモスフィーヤ――に就いて一応作家の意図を述べて、これにたずさわるべき芸術家諸氏の参考に供し、なお俳優諸氏の演技上の便宜にしたく思う。
 そのト書きに於て、諸天善神と呪いの魔の眷属の働きを、それは闘争にも見え舞踊にも受け取れると書いた。まことに彼等の働きはこの二面を備えて居るのである。元来、高きよりわれらに臨む「生命」なるものは、三つの眼を持って居る。「平等」の眼と、「差別」の眼と、「融即」の眼である。「平等」の眼で見る時には、魔も善神も闘争も舞踊も、みな一いろである。「慈理」の眼の涙を通して視るゆえである。「差別」の眼で視る時には、魔、善神、闘争、舞踊みなことごとく個立こりつして居る。「悲智」の眼の光が明暗付ける分類である。
 さて、「融即」の眼を通じて見る。この時、魔も善神も闘争も舞踊も、一色であってしかも別個である。別個であって而も一色なのである。「真理」の瞳、朗かに澄明なるの故である。
 以上の三がんも更にただせば、また三眼にして一眼なのである。一眼にして三眼なのである。この意味に於て三眼それ自身が「融即」の眼なのである。
 今三眼を一眼に摂し、一眼を三眼に分取した眼によって、宇宙を見る事とする。その時もし宇宙は闘争なりと定義を置いて之を見ようとするならば、ありとあらゆるものみな闘争の現われでないものはない。この点で進化論の生存競争は、ダーウィンの所信以上に是認される。若しまた宇宙を舞踏と観じて瞳を放つならば、サカロフ、イサドラ・ダンカン、アンナ・パヴロワ等のみが名舞踊家とは呼ばれまい。より自然性をもって魚は水に踊り、木の葉は空に舞って居る。更に双者交随の所見を呈し度くば、芝居の「せき、下」に人を誘おう。大伴黒主と桜の精の立合いは、闘争であって舞踊であり、舞踊であって闘争である。
 大生命の洋々蕩々たる、而もその中に滑転の自在をきわむる巧妙さ、われらが胸計の及ぶ所ではない。わずかに聖者のみあって、不入に針を入れ、壁立に足を爪立つ。われらにあってはただ嗟嘆するのみ。ただ幸いに芸術の在るありて感覚と情緒とにより、彼の風韻を覬覦きゆし得る。いうところの三眼は、芸術家にとりては「実感」と「夢」と「表現」である。この場面に運び入れる闘争は闘争本来の持つ恐ろしさと醜さの実感を捨ててはならぬ。この場面に運び入れる舞踊は、舞踊本来の持つ「夢」をあく迄も保ち度い。かくて双者を美によって協調諧和させる。これはひとえに芸術家の「表現」の力につ。
 或はこの場面だけは歌劇にしても宜いと思う。今は劇を進めるのに心が急く。後に改めてその決意が成就じょうじゅしたならば、歌詞を編んで別に添えようと思う。

第八場


その一


(祇園精舎の内庭である。正面に釈尊の居室があるが、扉はまだ開かれて居ない。左右は東西の僧堂になって居て、多少遠近法のついた窓々より灯がほのかにれて居る。内庭の石だたみの上に草の編物を敷き、弟子達が離れて二列に座して居る。各列の中央に細長い卓を置き、今、教団は、朝の食事の始まりである。朝が早いのであたりはまだ暗い。座中に三つ四つの燈を置き、窓の灯と共にかすかに舞台の配置を認めさす便りとする。香煙が薫じて居る。木槌きづちで舞台を打つ合図の音が一つ。)
僧団上首の一人 ――うやまいたてまつる無上尊。うやまい奉る御教の数々。また道を共にする兄弟姉妹、かくてこの功徳無量無辺なるべし。
衆僧 ――(一度に声を合せ)清浄法身本体の生命、円満報身導きの生命、すがたに在す現実の生命、今われらにじきを与えて道に進む行者ぎょうじゃの歩みを健かならしめらるるを感謝する。仰ぎ願わくばこの功徳くどくを移してあまねく一切に及ぼし、みなともに、生命の自覚に入らしめられん事を。
(木槌の音三
上首の一人 ――しゅくに十の利あり、はんには三てんじきくるもの、いやしくもこの理を忘るるなかれ。
(食事の進むと共に空は明けかけて来る。小鳥の声など聞え出す。食事が終る頃、すっかり朝の景に変る。明るくなって見ると、二列の僧座の一方は黒衣の男僧であって、一方は白衣の尼僧であるのが分る。)

その二


(食事を終った教団の人々は、めいめい食器を始末し、その辺を清潔に掃除し、威儀を正して左右に引退しりぞく。食物の残りを入れた壺ひとつだけ、内庭の中央に残し置く。しばらくは静けさの中に黎明れいめいが育まって行く。いつの間にか朝の小鳥、栗鼠りす、鳩、小猿などが壺に集まり来て、仲よく残りものを食べる。食べ終って去る。釈尊の居室の裡にて金鈴の音。東西僧堂にてすこぶる大きなを鳴らす音。それを合図に教団の人々左右より出で来り、二列に内庭に立つ。再び金鈴の音ありて後居室の扉開く。正面に釈尊、定印を結び思惟の膝を組み居る。一同座具を延べて三拝する。左側、男僧の列の先頭に立つ舎利弗しゃりほつ、進み出でて先ずうやうやしく問候もんこうする。)
舎利弗 ――世尊、御機嫌はよろしゅう御座いますか。お身体に何も御異状は御座いませんか。
釈尊 ――有難う、わしは別段に異常も無い。お前達は何うであるか。
舎利弗 ――恐れ入ります、一同無事で御座います。
(右側、尼僧の列の先頭より※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥きょうどんみが出でて問候する。)
※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥 ――世尊、衆生をお救いになる御心配のほかに、お心を悩ますことも御座りませぬか。お慈悲を受け付けぬ者達以外に、お心を痛めるものも御座いませんか。
釈尊 ――有難う。わしは別段その他に悩みも無い。お前達は何うである。
※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥 ――恐れ入ります。わたくし共もみな心の清々しさにおらして頂いて居ります。
釈尊 ――それは何より結構なことである。それではこれからいつもの通り、朝の訓話を始めるから、一同席につき心を静めて聴くがよい。
(列の人々一拝し、おのおの座具の上に座を占める。)
釈尊 ――静かな朝である。けがれなき朝である。闇は虹の曳き初めた空の雷のように遠く離れて行き、眠りは拭わるる鏡の曇りのように淡く姿を消して行く。日の出ずるも間も無い事であろう。
 仏の子等よ。心を調ととのえてこの朝を考え見よ。朝とはどのようなものであるか。闇さえ退しりぞければおのずから朝が来る。眠りさえ打払えば眼はおのずと覚める。
 迷いとさとりの関係も丁度そのようなものである。悟が先にあって迷いを打退けるのではない。迷いさえ退けばそこに自然と悟りが明るみを増して来るのだ。日出でなばすべての色像を現わし、池を照し蓮華を開かせる。
 わしは昨日舎衛城へ行って演若という気狂いの話しを聞いた。そうだ、あれをお前達に今話して聞かせよう。演若は或朝、鏡で顔を映して見た。粗忽そこつにも鏡の見当を間違えて、自分の頭や顔を鏡の中へ映し入れなかった。
 演若は鏡の中に頭の無いのに驚いて、自分を化物と思い込んだ。それから彼は気狂いになった。城の中で誰知らぬものも無い程、わめき廻って彼は自分の頭を探した。
 演若の頭は矢張り自分の胴の上について居るのだ。彼は心の迷いからそれを無いものと思い取った。
 然し気が付けば頭は矢張り自分の元の処に在る。
 われわれ人間が生命を自覚するということも丁度それと同じである。生命と云っても別に他から取り付けるようなぴかぴか光ったものがある訳ではない。人々に備わって居る所の精神、肉体、この価値を曇りなく認めることが生命である。認めて、過不及なく使って行く事が生命である。
 演若は自分の粗忽から、自分で自分の頭を失うたと思った。演若の心がそう思っても演若の頭は元より演若の肩の上に据わって居るのである。人間は多く自分で自分の価値に盲目である。彼の盲目よりして、自分の価値を或は有利にしくは不利に計算するとしても、人間の価値はもとより人間の価値通りに存在して居るのである。人間の価値を外より価値付けるものと計算してはいけない。また内より無理に燃やし出す思いをしてはいけない。人間の焔は既に在る。劫初より未来永遠に向って燃えて居る。消すことも出来ないし、燃やし増すことも出来ない。それは常住不常の想いを絶して燃えて居る。生老病死の姿を採りながら一筋に燃えて居る。現実に於ては今云うところの人間精神肉体の価値である。
 諸仁者。朝の人は最早もはや闇を捨てた。朝の人は最早眠りを退けた。お前達も迷いと慾を退けるがよい。しかる時に期せずして、朝の人は日の出を望むであろう。お前等も生命の光に照されるであろう。
(釈尊の説法が終ると教団の人々は立ちて三拝する。それから次の誓願文を唱える。)
大衆 ――御教に帰依きえし奉る。誓って御教の如く解し行じ持ち、またあまねく一切に施さん。南無生命体。南無生命相。南無生命用。
(唱え終り、座具を修め、威儀を整えて退場。小間)

その三


(あたり少しく鳴り響き、目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連が先きに立ち阿難と娘が入って来る。阿難はしおしおして居る。娘は阿難に寄り添うようにいて来る、目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連は釈尊の姿が眼に入るや、ただちにその前に来て正しく立ち三拝する。阿難と娘は隔たった端に局竦うずくまり、首を地から上げ得ない。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――師よ、阿難を連れて戻りました。
釈尊 ――御苦労であった。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――ここに居るのが呪術師の娘で御座います。わたくしの威神力をもってしても、どうしても阿難からこの娘を離す事が出来ないので御座います。
釈尊 ――いや、強いて今離すには及ばぬ。
(しばらく沈黙の時間が舞台を占める。その間に阿難はしばしば気を引立てて釈尊に何か訴え出でようとする様子であるが、自分が自分をはばめて打ち出し得ない。遂にしくしく泣き出す。阿難の泣くのを見て娘も悲しくなり袖を眼に当てる。)
釈尊 ――阿難よ。何うした。
(師に始めて言葉をかけられたので阿難はどっと泣き出す。嗚咽おえつの間より情の嵩じた響音に呼ぶ。)
阿難 ――師よ。なつかしき師よ。
(その後はまた涙。娘さめざめと泣き出す。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――可哀相では御座いますが、教団の掟で御座いますから、阿難を作法通りに行いましょうか。
釈尊 ――いや、それにも及ばぬ、お前も疲れたろうから早く部屋に引き取って休息するが宜い。阿難に就いてはわしに少し考えがあるから。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――有難う御座います。では失礼さして頂きます。
(目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連は三拝した後、一寸阿難を顧み、憐みに堪えない表情を見せて、退場。)

その四


阿難 ――師よ、なつかしき師よ。わたくしは何という不甲斐ない性分なので御座いましょう。またしても女人の煩悩ぼんのうあみに掛りました。その上このような浅ましい姿で尊いおん眼に触れました。自殺ということがもし出家に許されるのであったなら、ああ……わたくしは、只今すぐにこの恥辱より逃れることが出来ましょうに……恐れ多い申し分では御座いますが、わたくしは世尊が、人間に自殺をお禁じになった事をおうらみに存じます。
釈尊 ――(少し眼をまたたきながら)阿難よ。お前は恥辱の観念が、人間に取って、死よりも苦しみなのを知ったか。恥に攻められる人間は、冷たい死を寝床のようにも慕うものであることを知ったか。しばらくその儘辛抱しんぼうするが宜い。その苦しみを奥歯でじっと噛み絞めるが宜い。そして、今お前がさいなまれて居るその恥辱に、まともに向い合って呉れ。眼を外らすでは無いぞ。憐れみを乞うでは無いぞ。
阿難 ――師よ。何という情ない命令をお下しになられます。それはわたくしの心力ではとても及ばぬ所業なので御座います。熱湯は咽喉のどの熱さを我慢すればどうやらみ下す事が出来ます。然しこの恥ばかりは、焔の舌先に一々意地悪い曲りくねったかぎが付いて居て、もしこれに触れるものなら、心の皮膚は紫にただれ込んで仕舞います。顔を振向けようも御座いません。お慈悲で御座います。御情で御座います。たった一言ゆるすと仰しゃって下さいまし。師よ、わたくしはくいに虐まれて、息が詰りそうなので御座います。
釈尊 ――阿難よ。仏は人々の持つ心力の程度を実の如く知ろしめしたまう。今、お前に命ずる処のものは、お前に取って堪え得られる分際ぶんざいのものでしか無い。阿難よ。勇気を出すが宜い。心弱くては生命に到り難いぞ。
阿難 ――師よ、懺悔ざんげいたします。どうぞお宥し下さい。お宥し下さい。どうぞ、どうぞ、わたくしの罪を……。
娘 ――尊き世尊よ。阿難さまは息も絶え絶えとなって居られます。どう致しましょうか。どう致したら宜しゅう御座いましょうか。
釈尊 ――娘よ、騒ぐには及ばぬ。阿難は今、罪より生命を産む陣痛に在るのだ。産に必要なのは、時間とそして共に苦しむ人である。阿難の為に必要な時間は、これを日天に任せる。阿難と共に苦しむ人は、すなわちここに在る。娘よ、落付いてわしの身体を見るが宜い。
娘 ――おお! 金色の御肌より血の汗が! 血の汗が!
釈尊 ――阿難よ。お前は先ず、地水火風の仮合から出来た肉の耳を捨てるが宜い。小ざかしき智慧才覚で、しのあしのと聴き分くる心の耳を捨てるが宜い。聞く事を更に聞き知り、響きの響きを悟らせる、その源の耳に還ってわしのいう事を今よく聴け。阿難よ。お前は今悔て居る。息の根も絶え絶えに悔て居る。然しその悔は何処から来たのか。どうして来たのか。
 阿難よ。悔は罪より来た。罪はそれをそうさせる理由のものがある。理由とは縁と因とである。阿難よ。可哀相にお前は宿世すくせによって情にもろい性質に生れついて来た。薄紙の風に慄え易いように、お前の性質は人の情に感じ易くて堅固でない。従ってまた用心を欠く。それが求道ぐどうの中途にあって肉親の温かい記憶を呼んだり、ある時は迂闊に道の辺の女人に水を求めて、はしなく恋情をかもさしめたりする。水の沁み易い土地はみずから招かざるも水より来っておのずから沁む。これが因であるのだ。その性質へさらに女の深い情が縁として加わった。お前が罪を作ったのは結果だ。そしてその罪が悔を生んだ。
 阿難よ。もしお前に求道の念さえ無かったなら、お前のしたことは、罪とも悔ともならなかったに違いないものを。お前に求道の念があるだけにそれに照し合せてお前は自分の醜さを見出した。そしてお前はそのように苦しんで居る。息も絶え絶えに苦しんで居る。
(阿難はとうとう気絶してしまう。娘はおろおろとして阿難を抱きかかえてみたり、また釈尊の前へ駈け寄ったり、正体もなく嘆く。)
娘 ――おお、阿難さまがお死になされます。お死になされます。
釈尊 ――娘よ、騒ぐな。阿難はしばらく凡身の機関を休めた迄なのだ。死んだのでは無い……。この念慮を絶し、思詮を越えたる一実平等の世界の風光は、仏と仏とのみよく究尽し給うところのものである。凡夫の出る息入る息に係わりは無い。
 阿難よ。お前は道に賢い方法を取った、お前は凡身の息を止めて仏性の息を呼吸し始めた。お前の本当の眼は開き出した。お前の本当の耳は聞え出した。お前は止息のままであきらかに聴くが宜い。わしは進んで深く語り継ぐであろう。
 阿難よ。お前は今、わしが語ったところによって、この世にありとあらゆるもののどれ一つとして実体のあることなきを悟った事と思う。ありとあらゆるものみなが夢幻泡影である。因縁いんねん所生の果である。斯くの如くして阿難よ、お前の罪をさかのぼって考えて見て、お前の罪を生んだと思うところの第一の原因であるお前の情にもろい性格さえも、それは実体の無い因と縁との掛け合せなのが判った事と思う。その因と縁のもつれを仮りに宿世と名づけられてある。それもまたくだけば因と縁の掛け合せなのが分った事と思う。更に遡って重々無尽である。浪は浪によって浪を起す。浪の由来も行衛ゆくえも知れぬ。在るところのものは一実平等の海の水ばかりである。如々としてそれ自ら治めるところの生命ばかりである。
 阿難よ。およそ人間が罪を犯し、その罪を拭い去るに三つの方法がある。一つはその罪に倍増した善業によってこれをつぐなうことである。二つには生命の前に誠を披瀝ひれきして懺悔することである。三つには罪性の空なる道理を悟って、道理にもとる執着の己れを捨て放つことである。
 然し人々には、おのおの持って生れた機根の相違があるゆえ、人々は自分の機根に於てこのうちのどれか一つを選んでよろしい。阿難よ。お前は出家の身の上だ。道に対し「易き」を求め「難き」を避けてはならぬ。悔の牙に噛み攻められ、殆ど自己の信任を失して仕舞うほどの心を引立てて、面をこがさんばかりの罪にまともに向き合って、その中より生命の浄化の秘密を探り出す般若はんにゃの行道、これこそもっともお前に相応したものである。尊き阿難よ。お前は今、それを成しつつある。
 阿難よ、お前は幼い時出家して今日まで有漏うろのさわりを竹の節をぬくように順々に抜いて来た。そして僅に残って居る一節二節は、骨肉に対するやみ難き愛着の情であった。この執着は春の道の辺の陽炎かげろうのように、有りとして踏めば無くなる。無しとして顧みれば在る。随分始末に悪い煩悩なのだ。
 愛は愛を呼ぶ。葛と藤とは違った性質のつるではあるが、触れればもつれ合うのが元来どちらの蔓の性でもある。お前の一念は、娘の一念にもつれ合う便りを与えた。かくてお前は娘に縋られたのだ。
 しかし阿難よ、お前の上には黎明が来た。お前はもう醒めてもいい時刻だ。法浴の後の一物にも染まない浄身をひきいて、再び人間に生れ戻るが宜い。お前が今、再びこの世に眼を開く時、さし出ずる慧日は必ずやお前に新なるものを見せるであろう。
(暫らく天地に息を呑むような静粛せいしゅくが続く。その間に陽はずんずん昇り、周囲は明るくなる。やがて阿難の死んだような体から、かすかなうめき声が洩れ始め、その声は段々高くなって行く。最後にその声の頂点となった時、口から紅の毒華どくけの様な色を吐く。おびえて阿難を見て居た娘は、その時急いで駈け寄り阿難の口にたもとを覆う。阿難は娘の袂を退け、上体を引立て眼を明かに開く。この時阿難の口はもはやきれいになり居る。)
阿難 ――(釈尊には気づかざるものの如く)はははは……面白い煩悩よ、好もしい罪よ。わたしはもうお前等を恐れはしない。お前等を追い払う心は無くなった……それをまた何故にお前等はそのように肩をせばめて逃げて行くのだ。傍へ寄って来るが宜い。煩悩よ。煩悩よ。(手を差し出して)さあ来ないか。寄って来ないか。(手を引きこめて)お前達はまだわたしがお前達を仇のように憎んで居ると思って居るのか。それは大きな思違いだ。わたしの眼を開いて呉れたのは、なやみよ、お前だ。わたしを難みに引き入れて呉れたのは、罪よ、お前の骨折のお蔭ではないか。結句お前達は、わたしの恩人だ。だからわたしは今はもう、お前達に感謝こそすれ、仇敵きゅうてきと思う心は毛頭もない筈ではないか。
(阿難、今度は娘の方を向く。)
阿難 ――おお、娘、あなたは、まだ其処に居たのですか。
娘 ――(一寸呆れたが、おずおず。)お気がつきましたか。御気分は如何で御座います。
阿難 ――そんな事はどうでも宜いのです。それよりか悦んで下さい。阿難はあなたのどんな心持ちでもけることが出来るようになりました。
娘 ――まあ!
阿難 ――御覧なさい、わたしの眼を。今までわたしはあなたの眼をまともに見ることが出来なかった。なぜならばあなたの眼にはわなが仕掛けてあったからです。それをまともに見たら、わたしの心は直ぐにその罠に引っ掛りそうだったからです。しかし今はそんなことはない。
(阿難、娘の眼の中へ自分の瞳を差し込むばかり強く視詰める。)
娘 ――(たじろいで)そんなに御覧遊ばしてはまぶしゅう御座います。
阿難 ――今更どうした事なのです。わたしの眼は、あなたの罠のなかへなりと、情の渦のなかへなりと、素直にとらえられると云って居るではないか……。わたしはあなたに捉えられてそこに安住するとき、かえってあなたを罠ごとわたしの生命に浄化する便りになることがわかったのです。
娘 ――(阿難の傍を離れ舞台の隅に来て顔をおおいながら、独白)わたしは今でも阿難さまを愛して居る。それでいて、今は阿難さまを見詰められなくなった。どうした事なのだろう。
(阿難、娘の袂を執って)
阿難 ――愛し合ましょう。遠慮なさるな。そして若し、それが宿世の因縁であるとしたら、わたしはあなたと結婚でも何でもします。たとえその罪によって、一度は地獄畜生の界に堕ちるにしても、わたしはあなたの為に紅焔のなかの青蓮華となり、あなたを無事に包みましょう。
 やがて時節到来して、どちらか一人が仏の位に昇れるお許しを得るとしても、あなたを先きへ栄光の位に即かせ、あなたの幸福な姿を見てわたしは悦んで満足しよう。
 あなたは少しも心配せずとも、あなたの愛の儘で動いて下さい。分りましたか、分ったか、娘さん。
(阿難はしきりに娘の袂を揺る。娘の体は段々くずれ折れて行く。遂に阿難の膝下に身を投げる。手はいつしか合掌して居る。嗚咽の声で言葉が途切れ途切れに出る。)
娘 ――勿体もったいのう御座います。阿難さま。わたくしはどうして宜いか判らなくなりました……。先程まではあなたさまが澄み切った顔をなされて、わたくしにつれなくなさる程、わたくしの恋慕の情が燃えました。あなたを捉えようと意地になったので御座います。
 処が只今の打って変った御様子、すべてを与えて私を充たして下さろうとなさる御志し、その情のお言葉の端から、み仏の光がわたくしの心に射して、わたくしはもう、勿体ない気持ちばかりなので御座います。
 ……わたくしはもう欲界の愛の心で、あなた様をおけがし申し度くありません。というて、このままお別れ致すのも心残りで御座います。そしてわたくしもまたあなた様の為め、何かして差し上げ度い、そしてわたくしのあなた様を思う心の遣り所を、何処かに見出し度う御座います……。おお尊きみ仏よ。この愚な女の取る術は、どうなので御座います。お教え下さいまし、お願いで御座います。
(阿難と娘の対話の間、暝目して[#「暝目して」はママ]じょうに入って居た釈尊は、娘の願いを聞いて静かに眼を開く。)
釈尊 ――娘よ。お前は阿難のいう通り、阿難と結婚したが宜かろう。
(阿難、釈尊の声を聞き、恐縮して娘の傍にうずくまる。)
娘 ――それは本当なので御座いますか。
釈尊 ――ただし、それには少し註文がある。お前はそれを聴き入れるか。
娘 ――お断りする力が御座いません。
釈尊 ――阿難との結婚の為にはお前は髪を切らねばならぬ。また白衣を身に着けねばならぬ。
娘 ――(やや驚きつつ)……何故に髪を切り、白衣を着ねばなりませぬか……。
釈尊 ――彼の世界では髪を切ることが髪を結ぶことであり、衣の色を除くことが衣の色を飾ることであるのだ。
娘 ――ではわたくしは、もしや尼僧に……?
釈尊 ――それが彼の世界で式を挙げる、聖なる結婚の花嫁姿だ。この世の飾りは邪魔になろうよ。
娘 ――(泣きつつ)……判りました。
釈尊 ――阿難よ。娘の髪を截ることをお前に命令いいつけよう。随分いたわってやるが宜い。
阿難 ――かしこまりました。
(釈尊座を立ち、後向になって涙を拭う。阿難と娘は手を執り合って泣く。)

その五


(教団のあらくれた僧達が十人程、一条の縄を牽き合うて出て来る。)
僧一 ――何という呆れたざまだ。僧が女の手を執り合って泣いて居る。
僧二 ――阿難。貴様はそれでも釈迦教団の幹部か。
僧三 ――平常世尊があまり阿難を甘くなさるので、増長してこんな事になる。
僧一 ――(釈尊に一礼して)破戒の比丘びくは絡め取って、教団から追放するのがおきてで御座います。師よ。阿難を掟通りに致します。どうぞお許し下さい。
僧達 ――(一同声を揃えて)お許し下さい。
釈尊 ――(静かに振り向いて)騒がずともよろしい。勿論阿難は戒を破った僧であるゆえ掟通り行って差支ない。けれどもお前達の力で阿難が縛れるかどうかな。
僧一 ――何と仰せられます。縛られぬということが御座いましょうか。
僧二 ――わたくし達の腕は、戒律で鍛え上げて御座います。何の、恥知らずの若僧一人。
釈尊 ――ではお前達、阿難に一問かけて見よ。阿難がもし答えられなかったら即座に縛るが宜しい。
僧一 ――畏まりました。
かたちを改めて大声に)縄、身を縛する時いかに。
阿難 ――何が縄だ。何が身だ。
(阿難、従容しょうようとして後手に縛られる模様をなす。その刹那、僧等の手に牽き合うた縄が断れ断れとなる。)
僧達 ――やあ……。やあ……。
(阿難座具をべ釈尊に三拝し、娘の手を執り悠々と僧等の前を過ぎて退場。幕。)

第九場


その一


(祇園精舎の裏。墻壁しょうへきがある。菩提樹ぼだいじゅ椰子やし棕櫚しゅろ、雑草など、これを大方おおう。然し樹木の葉末を越して空が可成り広く見透せるので、時刻の推移を空の色の変化で汲み取る事が出来る。今は黄昏に近く、空はなお更早い変化を見せる。鐘が鳴り続く。阿難が先へ、娘が少し距離を置いて後から墻壁に添うて通る。阿難は前と同じ。娘は髪を截り尼僧の姿に変って居る。)
娘 ――そこへ行かれるのは阿難さまでは御座いませぬか。
阿難 ――(阿難、立戻って来て)おう、あなたは娘さん。いや尼僧となって名を改めた摩登伽尼まとかに。久し振りで御座いますな。(双方一礼する。)
摩登伽尼 ――もうあれからまる三年経ちまして御座いますね。
阿難 ――成程なるほど三年、早いものですな。然しこの三年間、あなたも随分慣れぬ修行に、つらい事も多かったでしょう。
摩登伽尼 ――どう致しまして、感謝に満ちた日を送らして頂いて居るので御座います。
阿難 ――それは何よりです。そうそう、尼僧の取締りの※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥きょうどんみさんも、あなたが大へん御精が出ると感心して居られました。この分なら、世尊より証道の御允可ごいんかの出るのも、久しい先では無いと云って居られました。
摩登伽尼 ――証道の御許しのと、そんな至ったことはわたくしの分際ぶんざいでもなし、また望みでも御座いません。ただ毎日を娘の時より以上に、穢れなく送らして頂いて居るのが、わたくしの悦びなので御座います。それに……(言葉をいいかけて考えて居たが、思い切った表情にて)阿難さま。わたくしはこの頃になって、本当にあなたと結婚したということが分って参りました。
阿難 ――何と云わるる? (間)摩登伽尼。若し差し支えがなかったら、只今のあなたの言葉の内容に就いて、もう少しくわしく話して下さらぬか……実はかねがねあなたの心境の進みに就いて注意をするよう、わたしは世尊から命令を受けて居りました。
摩登伽尼 ――(合掌して)いつも乍ら、師の君の末徹った御慈愛。お礼の申しようも御座いません。それではわたくしの未熟な考えを其儘申し上げさせて頂きます。若しもあまりにお聞き苦しゅう御座いましたら、遠慮なく叱って頂き度いので御座います。(彼女は自分の心験をいかに云い表わそうかと考えをまとめるらしく瞑目して)阿難さま。今となりましてわたくしは、人の世の男と女がどうしてあの程度の愛で満足出来て居るか、不思議でならないので御座います。如何に愛し合って居る男女でも、刹那せつな々々の気分の動きがその純情に不純のこいしを混じえぬと、どうして云い切ることが出来ましょう。またいかに信じ合って居る男女にしても、ひょっとした夜の夢に他の男女のおもかげが、一度も現われて来ませぬと誰が証言出来ましょう。自分自身でさえどうしようもないので御座います。ましてや五六十年の長い生涯、愛し合った始めの熱情に少しのゆるみを与えずそれを持ち通す時間というものは、いくらあるで御座いましょう。阿難さま。それに第一、人の世の男女の愛というものは、必ず「自我」という殻を冠って居ります。男女が互に自分の殻を破り捨てて、無条件の愛の恍惚に融合うということは、滅多に無いので御座います。大概は自分はちゃんと殻を冠ったまま、相手だけの殻を破らせて、自分の勝手な愛のなかへ相手を取込めようとしたがるものなのです。
 阿難さま。あなた様は人の世の恋人同志が、月の夜の木蔭に寄り添うて語り交す、みつのように甘い言葉をお聴きなされたことがおありですか。彼と彼女とは心臓に手を当て合うて、愛の誠を証すので御座います。愛の変らぬ誓を立てるので御座います。二人は照し合う心の曇りなき様子を語らうのに、人の世の言葉の不束ふつつかなのに焦立ちさえするので御座います。然し、阿難さま、あなたは二人のこれだけを御覧なされて、二人は恋の満足に到着したものとお思いなされたら、それはまだ早過ぎるので御座います。あなたはその後の二人の溜息とすすり泣きをお聴きもらしになってはなりません。本当に純情に、本当に想い合う仲なら、二人の物語りは必ず溜息とすすり泣きで結ばれる筈なので御座います。何故で御座いましょうか。彼等は愛という一つの神秘に融け合うのに、あまりに現世のままの我が肉体や心が邪魔になるので御座います。現世の肉体や心が、もすれば現実の「自我」というメスを二人の間に差し入れて、冷たく元へ引戻し勝なので御座います。恋する者程、運命に対して敏感になって居るものは御座いますまい。彼等は誠を証し合ううちにも、変らぬ誓を立て合ううちにも、望月の光のたるみ、満潮の浪のけだるさ、明日の寂しさを背筋に予感して、やがて溜息となりすすり泣きともなるので御座います。ですから御覧なさいませ。現世の愛の苦労を厭う狡猾こうかつな男女は、二人が恋の神秘に辿たどり着いた時、其処まで運んで呉れた此世の舟を乗り捨てるので御座います。此の事を人の世では死の勝利などと申して居ります。
 ――死の勝利――つまり世にう情死によって、二人は恋への生命を永遠にまっとうした積りなので御座いましょう。
 そして二人の恋は、此の世の人々に感銘し、人々の享くる感銘に従い、そこに色々違った二人の恋の姿が創造されて、しばらく此の世の中に残るとしても、然しそれが二人の目的と何の関わりがあるので御座いましょうか。
 二人の向った世界は矢張り厳しい因果の法則に従って、合わさるべきものは合わされ、離さるべきものは情用捨も無くがし去られるので御座います。
 僅に手を携えて行くのを許さるる道は、恋によって産み出された、まごころの一筋であって、この道は湛寂無味たんじゃくむみ、恋の熱情とは全く違った性質の世界になるので御座います。しかも、その道へ行く前に生をやぶって、自我の欲情に急いだ自殺の罪は、生々世々しょうしょうせせおぎなわねばならぬことと思います。
 それから阿難さま。人の世の男女の愛ほど、眠り易い心の華は御座いませぬ。それをしぼませぬ為めには努めて嫉妬、妨害、偽り、憎みなどの刺戟が要るので御座います。
 若し又それを必要としなくなって永続する時には、もうそれは、男女の愛ではなくなって、性を超越した他の愛に変質して居るので御座います。
 わたくしは今、あきらかに知ります。私があなたさまと男女の愛で結び付かなかったのは、私の仕合せで御座いました。なぜならばあなたさまの魂は、その世界にお居でなさらなかったので御座いますから。若しいてその世界で結び付いたとしたならば、それはあなたさまの仮のお姿、仮のお情をつかんで悦んだので御座いましたから。あなたさまのまことの魂はもっと高い世界に住んで居られたので御座いました。あなたさまの魂の居られる世界へわたくしがじ登ることに於て、はじめてまことのあなたさまに私はお目にかかれるので御座いました。おお、この世界の気高さ、安らかさ、もとよりこの世界では甘えたりれたりする事はかないません。しかしながらいつでもあなたさまと一緒に棲み、あなたさまと理解し合っているので御座います。若し必要ならばこの世界では理解する以上にわたくしがあなたさまに成れ、あなたさまが私に成れる存在で御座います。裏切られるの、冷めるのという恐れは少しも要りません。永劫えいごうのむかしより無窮の未来へ向けて流れる光の河に身を浸しあなたさまと同じ息づかいで、生命の虹を吸うので御座います。せる事なき無飾の花冠を頭に戴き、破れる事なき無縫の晴着を身につけて、私はいつまでもあなたさまの花嫁で居られるので御座います。世尊は聖なる花嫁であれと仰せられました。おお、聖なる花嫁! 生老病死の恐れなく、いつも生れたての赤児のように新らしくある聖なる花嫁! 何と私の身の匂わしき事よ! そしてなお悦ばしいことは、この世界で私は愛する母も諸共もろともに、あなたさまと一体になれるので御座います。よこしまでも愛の深い母では御座いましたが、私はこの事を死んだ母に告げてやれませんのがたった一つの心残りで御座います。
(日は八分通り暮れ、園の奥や、墻壁の腰に薄墨を溶かしたような闇がたゆたう。樹木の梢と空にだけ金色の残光が淡く照り栄えて居る。今迄、耳を澄まして摩登伽尼の述懐を聞いて居た阿難は、この時更に言葉を語り継ごうとする摩登伽尼を手にて制し云う。)
阿難 ――しばらくお静まりなされ、摩登伽尼。あなたの母御さまが今ここにお見えになりますぞ。
摩登伽尼 ――え? それはまことで御座いますか。

その二


(声の終らぬうちに大地より紅き焔が燃え上り、焔に包まれて一つの形影がせり上って来る。それは呪術師の老女である。)
老女 ――苦なる哉。僧を呪いし罪によって地獄の責苦を受くる事よ。あな悦ばしや地獄の責苦によりて、現世の罪を償う事よ。わたしの堕ちた地獄は等活地獄。毒の爪を磨いて互の身に立て肉を掻きさばく。ようやく死して苦を免れたりと思う間もなく、冷風一度到ればまたもとの体に蘇り、毒の爪を受く。かくすること幾百億度。――わたしの血は枯れ、また涙も流し尽した。
 さり乍らまたこの苦のうちにも仏光の導きあり。わたしの呪いももとはといえば、娘の望みを遂げさせ度さの親心と、仏はみそなわされた。み仏のさずけ給える一筋の蓮華の糸が、今わたしの手に在る。
 娘よ。この糸の一端は、今のそなたの浄き手の指に在る筈。そなたの導力が手繰たぐるまにまに、やがてわたしも、そなたと一つ世界に運び上げられよう。あな讃むべき因果のさばき。あな有難や法の掟……。
(一抹の火焔と共に老女の姿は地下にせり下る。)

その三


(老女が再び陥ちて行った大地の坑より少し距離を置いた地点から、蒼ざめた焔が立ち騰り、焔に包まれた外道の論師が現われる。)
外道の論師 ――苦なる哉。法を惑わそうとはかって墜ちた罪の報い。あな悦ばしや現世のとがを地獄の責苦によってうち訂さるることよ。わしの居る所は八寒地獄じゃ。理智の冷たさが霜のほこ、氷の刃となって身をさいなむ。身肉寒さに噛まれて鉢特摩はんとまの華の如く折裂し、うめきの声はただ※(「安+頁」、第3水準1-93-88)嘶叱あせだ虎虎婆ここばの二音が発せられるだけじゃ。漸く死して苦を免れたりと思う間もなく、暖風一度到る時は、たちまちもとの姿に立還る。かく繰返す事、幾百億遍。さり乍らこの中にも一道の仏光は貫き給う。わしが存世の時、わしの学者的嫉妬を法の真理に絡ませた事が、わしに取って仕合せであったのじゃ。法の力の根強さ慈悲深さ。一度それにかかわるものは結局法に同化される。それはたとえば、土を刃に仕立てて水を斬ろうと図るようなものじゃ。打下す刃の度重なるほど、刃は遂に水に溶け潰ゆるは必定じゃ。仏の誓願はわしのようなものにも、彼の世界に到らしむる約束を与え給うた。救いの糸はわしの肘にかかって居る。阿難よ。そなたはわしにとって、逆化の因縁ある先達じゃ。この糸の一端は、必ずやそなたの平等の掌に在るに違い無い。そなたの道力の進むにつれて、この糸はわしの世界をそなたの世界に手繰り寄する便りになるのじゃ。わしはそれを楽しみに苦界へ戻ろう。勇んでまた責苦のくるしみに遇いに行こう。
(燃え立つ焔に包み取られて外道の論師は再び大地に没する。)

その四


(幻影が姿を消して仕舞ったあと、舞台面は現実感が一しお強められる。すなわちそれはもうすっかりこの世の闇になって居るのである。空には滴る星の光がちりばめられ園林の葉枝は夜風を迎え始めた。
虫とも鳥ともつかぬ澄んだ鳴声がセコンドの役を勤め、刻々宵を夜に移して行く。摩登伽尼の手には金糸、阿難の手には銀糸の端切れがまだ遺って居る。)
阿難 ――摩登伽尼、総てが判りましたな。
摩登伽尼 ――何の疑うところが御座いましょう。
(二人は胸に充実した感じを吹きさまそうとでもするように、深く息を吸い入れ暫らく沈思瞑目する。)
摩登伽尼 ――でも阿難さま。まだたった一つ私に判らない事が残って居るので御座います。
阿難 ――遠慮なくお尋ねなさるが宜しい。
摩登伽尼 ――恋……。何故人間には、人間のつまずきになる恋などというものが、与えられて在るので御座いましょう。これだけがどうしてもわたくしには判らないので御座います。

その五


(阿難が如何に摩登伽尼に云い諭すべきか苦慮して居るうちに、園林は金光に輝き其処に仏陀の姿が現われ出る。)
二人 ――おお。世尊が……。(二人其処にひざまずく。)
釈尊 ――摩登伽尼よ、地に躓いた人は、また地を支えにして立ち上る。恋に躓いたものもまた恋を支えにして道に入る。お前もその一人では無かったか。
摩登伽尼 ――はい。(思わず合掌する。)
釈尊 ――世にありとあらゆるもの、みな道への便宜ならぬは無い。必ず粗略に想うてはならぬ。
お前達。もう晩食を摂ったのか。
阿難 ――いえ。まだで御座います。
摩登伽尼 ――別に頂き度くも無いので御座います。
釈尊 ――それはいかぬ。早く喰べるが宜い。そして夜風も厭わなければいけない。……お前達は一度彼の世界に到り着いたと思うて安心し切って仕舞ってはならぬ。生命の修業は重々無量である。一度彼の世界で浄められたお前達の心は再びもとの世界に降って恋にも入り愛にも入り、生老病死にも同化して現実の煩悩を内面より荘厳する時節あるを忘れてはならぬ。体はその時の武器である。すこやかに保つことを忘れてはならぬ。霊も肉もあの世もこの世も一であって二ではない。聖なる人間は取りも直さず俗世間にも健かな人間である。心を鍛える事ばかり尊しとして体を弱めてしまってはならぬ。
(この時清風一しきり園林の梢に渡る。精舎には就寝じゅしんの鐘が鳴る。釈尊は眼を空に転じて暫らく停回した後。)
釈尊 ――ああ。よき今宵じゃ。生命は天涯にまで満ち溢れて居る。わしはこの空に今幾つか新らしく生れる星を知って居る。彼等も矢張り水火の苦難を潜って来たのである。わしは彼等の為に祝福してやらねばならぬ。(釈尊は右手を高く差し延べる。手より白い糸を曳いて居る。)
阿難。摩登伽尼 ――おお。仏のみ手にも糸が! 糸が……。
(この刹那大音響あり。舞台にはこの劇の序幕より以下幕々に出でたる登場人物の殆どが、或は宙釣になり、或は地下よりせり上りつつ現われる。その人物等も手に手に五色の糸を持ち、その端は人物の各及び釈尊、阿難、摩登伽尼の糸にも繋がり、舞台に一面の網状をなす。電気装置によって光輝燦爛たり。宇宙を編む生命網の象徴である。空には今し新星がすすきの穂の如く、鋭く幽かに生れつつ在り。幕。)

あとがき


 釈尊の男の弟子の中で阿難は愛業の悩みの深かった方である。この劇に取扱った栴陀羅せんだら(低い階級)の娘との関係も、彼の愛の受難史の一つである。
 但、私が書いたこの劇と経典に記された事実とは随分違って居るのである。彼が栴陀羅の娘に慕われ、娘の母親の呪術に引寄せられたのは経典の通りである。彼は其処でただちに身の危険を感じ、釈尊を念じた。釈尊は精神作用を働かして彼を無事に祇園精舎へ連れ戻った。
 翌日舎衛城内へ行った阿難はまた娘によって待ち設けられたのである。彼は娘に追慕されたまま精舎へ帰った。彼は娘のことを釈尊に訴えた。釈尊は娘をさとして出家せしめた。娘が道に対して始めて尊敬の念を起したのを釈尊が褒め給うと娘の鬢髪びんぱつはたちどころに落ちたと経典には書いてある。娘が証悟――まだあまり高くない――を得たのも即座である。
 阿難が真の証悟を得たのは、釈尊入寂後経典結集近くであるらしい。この点も私の戯曲に於ては甚だ急いで取扱って仕舞った。しかしこの劇の目的とする処は、恋愛の浄化過程の研究である。『愛によってつまずくものはまた愛によって立上らせられる。』この釈尊の大乗仏教的の一句を眼目としたものである。阿難と娘の心歴や事蹟は、可成りこの目的の為め、私の芸術上の功利的所置の犠牲となって居る。二人の為に一言弁明して置く。
 劇を右の目的に運んで行く思想としては、法華、華厳、般若経等取交えられて居る。これが釈尊の祇園精舎時代の所説と歴史的に併行して居るか背戻して居るかという問題は、この劇の性質には埒外らちがいなことであろう。
 第二場、餅施行の事蹟は阿難と裸形外道との間の出来事であり、有手無手の問答は本朝禅宗の大燈国師の逸話中の事蹟よりヒントを得た。劇のリズムの撥転上、こういう場面が必要だったのである。第八場縛縄問答も禅よりの構想である。





底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「散華抄」大雄閣
   1929(昭和4)年5月
初出:「読売新聞」
   1928(昭和3)年5月6日〜6月19日
※「燈」と「灯」、「………」と「……」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード