平出園子というのが
ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。
人々は真昼の百貨店でよく彼女を見かける。
目立たない洋髪に結び、
こうやって自分を真昼の寂しさに
だが、彼女は職業の場所に出て、好敵手が見つかると、はじめはちょっと
新喜楽のまえの
彼女一人のときでも、気に入った若い同業の女のためには、経歴談をよく話した。
何も知らない
若い芸妓たちは、とうとう髪を振り乱して、両脇腹を押え
「
老妓は、生きてる人のことは決して語らないが、故人で
支那の名優の
笑い苦しめられた芸妓の一人が、その復讐のつもりもあって
「姐さんは、そのとき、銀行の通帳を帯揚げから出して、お金ならこれだけありますと、その方に見せたというが、ほんとうですか」と
すると、彼女は
「ばかばかしい。子供じゃあるまいし、帯揚げのなんのって……」
こどものようになって、ぷんぷん怒るのである。その
「だがね。おまえさんたち」と小そのは
「そして、その求めている男というのは」と若い芸妓たちは訊き返すと
「それがはっきり判れば、苦労なんかしやしないやね」それは初恋の男のようでもあり、また、この先、見つかって来る男かも知れないのだと、彼女は日常生活の場合の憂鬱な美しさを
「そこへ行くと、堅気さんの女は
ここまで聴くと、若い芸妓たちは、姐さんの話もいいがあとが人をくさらしていけないと評するのであった。
小そのが永年の
芸者というものは、調法ナイフのようなもので、これと云って特別によく利くこともいらないが、大概なことに間に合うものだけは持っていなければならない。どうかその程度に教えて頂き
作者は一年ほどこの母ほども年上の老女の技能を試みたが、和歌は無い素質ではなかったが、むしろ俳句に適する性格を持っているのが判ったので、やがて女流俳人の××女に紹介した。老妓はそれまでの指導の礼だといって、出入りの職人を作者の家へ寄越して、中庭に下町風の小さな池と噴水を作って呉れた。
彼女が自分の
水を口から注ぎ込むとたちまち湯になって栓口から出るギザーや、
「まるで生きものだね、ふーむ、物事は万事こういかなくっちゃ……」
その感じから想像に生れて来る、端的で速力的な世界は、彼女に自分のして来た生涯を
「あたしたちのして来たことは、まるで
彼女はメートルの費用の
電気の仕掛けはよく損じた。近所の
「陰の電気と陽の電気が合体すると、そこにいろいろの働きを起して来る。ふーむ、こりゃ人間の相性とそっくりだねえ」
彼女の文化に対する驚異は一層深くなった。
女だけの家では男手の欲しい出来事がしばしばあった。それで、この方面の支弁も兼ねて蒔田が出入りしていたが、あるとき、蒔田は一人の青年を伴って来て、これから電気の方のことはこの男にやらせると云った。名前は
「芸者屋にしちゃあ、三味線がないなあ」などと云った。
「柚木君の仕事はチャチだね。一週間と
「そりゃそうさ、こんなつまらない仕事は、パッションが起らないからねえ」
「パッションて何だい」
「パッションかい、ははは、そうさなあ、君たちの社会の言葉でいうなら、うん、そうだ、いろ気が起らないということだ」
ふと、老妓に自分の生涯に憐みの心が起った。パッションとやらが起らずに、ほとんど生涯勤めて来た座敷の数々、相手の数々が思い
「ふむ、そうかい。じゃ、君、どういう仕事ならいろ気が起るんだい」
青年は発明をして、専売特許を取って、金を儲けることだといった。
「なら、早くそれをやればいいじゃないか」
柚木は老妓の顔を見上げたが
「やればいいじゃないかって、そう事が簡単に……(柚木はここで舌打をした)だから君たちは遊び
「いやそうでないね。こう云い出したからには、こっちに相談に乗ろうという腹があるからだよ。食べる方は引受けるから、君、思う存分にやってみちゃどうだね」
こうして、柚木は蒔田の店から、小そのが持っている家作の一つに移った。老妓は柚木のいうままに家の一部を工房に仕替え、多少の研究の機械類も買ってやった。
小さい時から苦学をしてやっと電気学校を卒業はしたが、目的のある柚木は、体を縛られる勤人になるのは避けて、ほとんど
小そのは四五日目毎に見舞って来た。ずらりと家の中を見廻して、暮しに不自由そうな部分を憶えて置いて、あとで自宅のものの誰かに運ばせた。
「あんたは若い人にしちゃ世話のかからない人だね。いつも家の中はきちんとしているし、よごれ物一つ溜めてないね」
「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから
老妓は「まさか」と笑ったが、悲しい顔付きになって、こう云った。
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分じゃないのかい」
「僕だって、根からこんな性分でもなさ相だが、自然と慣らされてしまったのだね。ちっとでも自分にだらしがないところが眼につくと、自分で不安なのだ」
「何だか知らないが、欲しいものがあったら、遠慮なくいくらでもそうお云いよ」
養女のみち子の方は気紛れであった。来はじめると毎日のように来て、柚木を遊び相手にしようとした。小さい時分から情事を商品のように取扱いつけているこの社会に育って、いくら養母が遮断したつもりでも、商品的の情事が心情に染みないわけはなかった。早くからマセて仕舞って、しかも、それを形式だけに覚えて仕舞った。青春などは素通りして仕舞って、心はこどものまま固って、その上皮にほんの
みち子は柚木の膝の上へ無造作に腰をかけた。様式だけは完全な
「どのくらい目方があるか
柚木は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ。学校で操行点はAだったわよ」
みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態をする正体を発見したような、おかしみがあったので、彼はつい失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎みを持った。
半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた、しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの
しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだが、その通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外れていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ
金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快く呉れた。そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く
いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されて仕舞った自分を発見して柚木は心寒くなった。
これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。
それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。憂鬱な顔をしながら、根に判らない逞ましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものを
小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊く話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立物の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中の皺を足の裏へ、
老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖えたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を
「あんたがだね。ここの腕の皮を親指と人差指で力一ぱい
柚木はいう通りにしてみた。柚木にそうさせて置いてから、老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓って引くと、柚木の指に挟まっていた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。もう一度柚木は力を籠めて試してみたが、老妓にひかれると滑り去って抓り止めていられなかった。
「気持ちの悪い……。だが、驚いたなあ」
老妓は腕に指痕の血の気がさしたのを、
「小さいときから、打ったり
だが、彼女はその幼年時代の苦労を思い起して、
「おまえさんは、この頃、どうかおしかえ」
と老妓はしばらく柚木をじろじろ見ながらいった。
「いいえさ、勉強しろとか、早く成功しろとか、そんなことをいうんじゃないよ。まあ、魚にしたら、いきが悪くなったように思えるんだが、どうかね。自分のことだけだって考え
柚木は洞察の鋭さに舌を巻きながら、正直に白状した。
「駄目だな、僕は、何も世の中にいろ気がなくなったよ。いや、ひょっとしたら始めからない生れつきだったかも知れない」
「そんなこともなかろうが、しかし、もしそうだったら困ったものだね。君は見違えるほど体など肥って来たようだがね」
事実、柚木はもとよりいい体格の青年が、ふーと膨れるように脂肪がついて、坊ちゃんらしくなり、茶色の瞳の眼の
「うん、体はとてもいい状態で、ただこうやっているだけで、とろとろしたいい気持ちで、よっぽど気を張り詰めていないと、気にかけなくちゃならないことも直ぐ忘れているんだ。それだけ、また、ふだん、いつも不安なのだよ。生れてこんなこと始めてだ」
「麦とろの食べ過ぎかね」老妓は柚木がよく近所の麦飯ととろろを看板にしている店から、それを取寄せて食べるのを知っているものだから、こうまぜっかえしたが、すぐ真面目になり「そんなときは、何でもいいから苦労の種を見付けるんだね。苦労もほどほどの分量にゃ持ち合せているもんだよ」
それから二三日経って、老妓は柚木を外出に誘った。連れにはみち子と老妓の家の抱えでない柚木の見知らぬ若い芸妓が二人いた。若い芸妓たちは、ちょっとした盛装をしていて、老妓に
「姐さん、今日はありがとう」と
老妓は柚木に
「今日は君の退屈の慰労会をするつもりで、これ等の芸妓たちにも、ちゃんと遠出の費用を払ってあるのだ」と云った。「だから、君は旦那になったつもりで、遠慮なく愉快をすればいい」
なるほど、二人の若い芸妓たちは、よく働いた。竹屋の渡しを渡船に乗るときには年下の方が柚木に「おにいさん、ちょっと手を取って下さいな」と云った。そして船の中へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱えるようにして
老妓は船の中の仕切りに腰かけていて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら
「いい景色だね」と云った。
円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘ヶ淵や、綾瀬の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の
「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても
夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の
「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ
「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木は、思い詰めた若い男女を想像しながら訊いた。
「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中
「あたしは死んで仕舞ったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、
若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟々がつがつにおもえて、いやんなっちゃう」と云った。
すると老妓は「いや、そうでないねえ」と手を振った。「この頃はこの頃でいいところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のようでさ、そしていろいろの手があって面白いじゃないか」
そういう言葉に
みち子はというと何か非常に動揺させられているように見えた。
はじめは軽蔑した超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など
そういう場合、
若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思わなかったらしいが、大姐さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来ているのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるうちは
何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当ったりした。
老妓はすべてを大して気にかけず、悠々と土手でカナリヤの餌のはこべを摘んだり
夕暮になって、一行が
「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云い出した。芸妓たちが驚いて、では送ろうというと、老妓は笑って
「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といって通りがかりの車を呼び止めた。
自動車の後姿を見て老妓は云った。
「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」
柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この界隈に噂が立ちかけて来た、老妓の若い
何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になっている。そして、そのことを老妓はとくに知っている癖に、それに就いては一言も云わないだけに、いよいよパトロンの目的が疑われて来た。縁側に向いている
柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の
彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上った。老妓は高いところから何も知らない顔をして、
みち子を考える時、形式だけは十二分に整っていて、中味は実が入らず仕舞いになった娘、柚木はみなし
彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになった。
みち子は裏口から入って来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って
「あたし来てよ」と云った。
縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云っただけだった。
みち子はもう一度同じことを云って見たが、同じような返事だったので、本当に腹を立て
「何て
「仕様のない
「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。
「知らない」といって、みち子はくるりと後向きになって着物の背筋に
柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や
「もう一ぺんこっちを向いてご覧よ、とても似合うから」
みち子は右肩を一つ揺ったが、すぐくるりと向き直って、ちょっと手を胸と鬢へやって
「ご馳走を持って来てやったのよ。当ててご覧なさい」
柚木はこんな小娘に
みち子は柚木の
「出せ」と云って柚木は立上った。彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を
自分の一生を小さい
みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄ずくの続きかと思って、ふざけて軽蔑するように眺めていたが、だいぶ模様が違うので途中から急に恐ろしくなった。
彼女はやや茶の間の方へ
「誰が出すもんか」と小さく呟いていたが、柚木が彼女の眼を火の出るように見詰めながら、徐々に懐中から一つずつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あっ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。「出し給え」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄が伝って来た。柚木の大きい
彼女は眼を裂けるように見開いて「ご免なさい」と泣声になって云ったが、柚木はまるで感電者のように、顔を痴呆にして、鈍く蒼ざめ、眼をもとのように据えたままただ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝えていた。
みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。
立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。
彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚びの笑顔に造り直した。
「ばか、そんなにしないだって、ご馳走あげるわよ」
柚木の額の汗を掌でしゅっと払い捨ててやり
「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を
さみだれが煙るように降る夕方、老妓は傘をさして、玄関横の
「お座敷の出がけだが、ちょっとあんたに云っとくことがあるので寄ったんだがね」
「この頃、うちのみち子がしょっちゅう来るようだが、なに、それについて、とやかく云うんじゃないがね」
若い者同志のことだから、もしやということも彼女は云った。
「そのもしやもだね」
本当に性が合って、心の底から
「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にはいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やっても同じことなのだ」
仕事であれ、男女の間柄であれ、湿り気のない没頭した
私はそういうものを身近に見て、素直に死に度いと思う。
「何も急いだり、
柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない」と
老妓も笑って
「いつの時代だって、心懸けなきゃ滅多にないさ。だから、ゆっくり構えて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の
車が迎えに来て、老妓は出て行った。
柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
老妓の意志はかなり判って来た。それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを
自分はいつでも、そのことについては諦めることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか
体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑が内部から湧き上って来た。
第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまぢました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に
みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように
滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび
「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」
新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしてある土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり残って、
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
長煙管で煙草を一ぷく
「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくり仕舞いかけた。いきり立ちでもするかと思った期待を外された養母の態度にみち子は詰らないという顔をして、ラケットを持って近所のコートへ出かけて行った。すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつも通り蒔田に柚木の探索を依頼した。遠慮のない相手に向って放つその声には自分が世話をしている青年の手前勝手を
「やっぱり若い者は元気があるね。そうなくちゃ」呟きながら眼がしらにちょっと袖口を当てた。彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。
真夏の頃、すでに××女に紹介して俳句を習っている筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の
年々にわが悲しみは深くして
いよよ華やぐいのちなりけり
いよよ華やぐいのちなりけり