前号でお別れしてから横断旅行の一隊は、炎天に照り付けられ、豪雨に洗われて、その行を続けた。峠を越すこと四、人跡絶せる深山に分け入り、峡谷の巌頭を攀じてついた日本海沿岸に出た。詳しくは全編を読め。
いよいよ一行は四人と相なった。水戸以来総勢八人、
八溝の天

も何のその、一足跳びにワッショイワッショイと飛び越えて来たものの、急に少なくなると何だか寂しい。それに
春浪冒険将軍が都合で帰京したので、
恰かも百千の味方を失ったような心地だ。
西那須からは三島
通庸君が栃木県令時代に俗論を排して開いた名高い三島道路。先頭に立ったのが吉岡
虎髯将軍、
屑屋に払ったらば三銭五厘位のボロ
洋傘をつき立てて進む。
後に続く木川子、それにかく申す吾輩、
殿軍としては五尺六寸ヌーボー式を発揮した
未醒画伯、
孰れも
着茣蓙を羽織って、意気揚々
塩原へこそ乗りこんだり。
太陽は猛烈に照り付ける。汗は滝のように流れるけれども、そんなことは平気の平左、グングン先に立つ馬車を追越すこと前後合計五台。はるかに馬車の影が見えてテートーと
喇叭を吹けば、これ我等がためにマーチを吹くなりと称して痛快に
馳け出し、
忽ちにして追い越してしまう。大那須野平野を行くこと五里にして
関谷へ着く。
ここでひと息入れて、さらに進む半里ばかり、いよいよ塩原の峡谷へ差しかかる。
入勝橋というを渡れば山勢、渓流いよいよ非凡奇抜、ケチ臭い滝が
路の両側にあったが、名は
悉く忘却
仕った。ただ谷が
莫迦に深かいのと
巌壁を
開鑿して造った桟道とは
流石に宏壮、雄大の景だと思われた。
大網を過ぐればやがて
福渡。この辺の景色は絶景といっても差支えあるまい。ここを通り越せば、その
尖端雲に
入るかと思わる天狗岩が
掃川の岸から
聳立っているワイ。
由来塩原という処、金持共が
贅沢に夏の暑さを避けに来る土地ゆえ、街路には至る処ハイカラ男女共が手を連ねてノサ張りまわりつつあり。老人や隠居や病人共が、養生のために来ているなら結構であるが、若い身空で
親爺の
脛を
噛り噛りロクな事もしないでブラブラ女の手を引いて歩るく、なんぞいう奴が多いから
癪に触る。大手を振って、薄汚ない服を着ながら、
大道せましと乗り込んだ吾等一行の有様を見て、細い目を見張ったのも痛快じゃった。
古町の会津屋旅館へ御投宿。早速一風呂浴びて渓流を耳にしながら杯を傾け、
寝に付く前四人して浴場へ志ざす。第一に飛び込んだる髯将軍、オットセイと称して浴槽の中へ
仰のけのまま
跳り込み、頭から、足からザブンザブン飛び込むこと十数回、危うく浴構内の土左衛門さんとならんとせしところを三人して引挙げ、ようやく事なきを得た。将軍浴場内に大の字に成ってへた張ったところ、三人して頭からガジャガジャ冷水の洗礼を見舞うとこ、たちまち家屋を震動せしむるウエーウエーの大声を連発する数回。宿屋の番頭殿びっくりして飛んで来て、眼をキョロキョロさせながら、
「何でございますえ、今の声は」
痛快痛快。
翌朝
強力を雇って宿を出発したのが七時。これからいよいよ高原越え、元気はますます加わる。塩原
古町から一里ほど人里放れた山の中を行くと
新湯に出る。ここらでチョイトひと休み。山間の
僻村、人皆
淳朴で、休んだ大黒屋旅館も気持のいい家であった。これからは
殆んど人の歩るいた事のないような谷合を通り、
前黒山、
釈迦ヶ岳の山の中腹を迂回して深林の薄暗い中を
行くのである。
幸にも晴天だからいいようなものの、これが雨降りでもあったものなら、たまったものではない。熊笹は人の身の丈を没すという深さ、暗い林の遠くには気味の悪い鳥の声がして、
谿川の音は
物凄いように
樹立の間に
唱っている。
行くこと数里、深山幽谷深かく分け入ると、谿川の流れ
巌に激しく、奔流矢を射るごとき淵に出た。
「ヤッ橋が落ちてるぞッ」
と
真先に立ちたる
未醒君、
立留まって、一行を顧みた。見れば
正しく橋は陥落して、
碧流巌を
噛む。一行相顧みて
唖然たり。
「ヨシヨシ仕方がない。吾々の足が勝つか、水の勢いが勝つか、一つ力比べをやろう。飛び込め飛び込め」これ位のことは覚悟の上だ、ゴシンゴシン渡れっとばかりに各々手は連ねて、なるたけ大きな岩の上へ脚をしつかとのせ、「踏ん張れ踏ん張れ」とばかり、
忽ちにして彼岸へ達することが出来た。
水深腰に及び、河原の岩の上に座してまずホッと一息。
すると、遥か河下に
方って百雷の轟ろくがごとき音響が地を鳴らして聞える。なんだろう? 早速吾輩が飛んでく。河に沿うて
凡そ三丁ばかり、一大飛瀑発見! 大滝!
「オーイ
皆んな来い、大瀑布! 大瀑布がある

」
残りの三人宙を飛んで
馳けつけた。岩にせばまれたる一条の水路、懸崖百尺の九天よりすさまじき音響を立て、落下する。
巌に飛び散る霧は雨のよう。
恐々ながら
巌頭に四つん
這いになると、数十丈遥か下の滝壺は
紺碧を
湛えて、白泡
物凄く
涌き返るさま、とてもチラチラして長く見ていることが出来ぬ。木川子の腰に細引を結び付けて、将軍が
巌角に足を踏ん張り、大冒険を企てて、早速奔流落下の
状を写し取った。案内の
父爺に聞けば「これが赤川の大滝です。この辺は年に一回とも人が来ませんから、こんな大滝でも知ってる人は、山林局の御役人様位でがんす」。
密林
鬱乎として
怪鳥梢に鳴く深山を行くこと二里余、初めて広々とした高原へ出た。ここから左方に
高原の山が
聳えて見える。右方の栗の古木は
栗山ヘ続く林だということだ。維新以前、会津侯が江戸登城の折は四千余尺のこの山道を通られたということで、路傍の
叢中には一基の古碑、その
面に「右塩原あら湯
道、左会津道」と刻されてあるのが
蘚苔に覆われて読める。少し行くと
古えの
高原駅の跡がある。四十余年前までは高原の村はこの山上に在ったのだそうだ。廃駅の陣屋跡に、石垣の草に
埋もれたのや、形の
殆んど崩れてしまった石の地蔵尊が、尾花の中にボンヤリ立っているのも、人里離れたこの山上にはことに趣が深かった。
塩原から雇って来た
強力殿の足の早いこと、
凡そ五、六貫位の重荷であるが、平気でドンドン行く。鉄脚自慢の我々もゴシゴシ引張られて閉口した。やがて眼界
頓に開けた所へ出れば、
重畳せる群山波浪のごとく起伏して、
下瞰すれば
鬼怒の清流真っ白く、新しき
褌のごとく
山裾を
迂ぐっている。
高原でひとまず人夫を返し、荷馬車に大荷物を頼んでテクル事にした。一茶店に入りて用意の握り飯を
噛じる。
胡瓜揉みを命じたところが、怪し気な女が出て来て大皿の中にチョッピリ盛り付けたのが、驚くなかれ代価四十銭。イクラ開けない山の中でも、あんまり人を馬鹿にしている。田舎といったところが、なかなかこの調子では馬鹿に出来ない。
棒のようになった脚を引摺って出かけた。汗は
用捨なく出る。服はグショ濡れだ。これからは鬼怒の渓流に沿うて桟道を行くのである。
この
辺は鬼怒川水力電気の工事があるので、至る処、鬼のような工夫に逢う。大きな
鶴嘴を手にして大道の上に五人十人休んでいる。
孰れも薄気味悪るいギョロギョロした眼を光らして、吾等一行を見送っている。この工事が初まってから、縄からげの土左右衛門が血まみれになって河下へ流れて来たという話を聞いておったから、ひと通りならず薄気味悪かった。一騎当千の吾々、喧嘩では五、六人相手にしても負けない元気でいるが、なにしろ向うの連中はダイナマイトを持っているから、
空心したことは出来ぬ。ダイナマイトで粉々に砕かれてはつまらぬし、
高が工夫、相手にしたところが自慢にもならない。ここは
温なしく通り越した。
しかし、鬼怒の渓流は天下に紹介しても恥ずかしからぬ、壮大な、雄偉な、しかして変化に富める渓谷であると思った。
藤原から十七、八才になる人夫を雇って荷物を担がせた。時計を見るともう五時過ぎである。どうしても今日のうちに日光まで
辿り着かぬと予定の行路が狂う。ウンコラウンコラ脚を飛ばして行くこと二里。着いたのが、
大原という村である。
八時
今市発の汽車に乗らぬと、今晩中に日光へ
行くことは出来ぬ。
一体、塩原から日光へひと跳びというのが
已に人間
業ではない。自慢じゃないが、
高原越えだけで普道の人間ならば
凹垂れるところである。高原七里の峠を越えて、これから十里、日光まで伸ばそうというのだから、まるで天狗の仕事である。無謀といわばいえ。吾々は朝に計画した事を夕に変更することは断じて採らざる所、なんでもいいから今日中にやっつけろというのだ。そうすると、歩るいてた分には今晩歩るき通しにしなければ日光へは出られぬ。よし、かくなる上は今市日光間の四
哩を汽車で行こうということになった。
日はもう暮れに近い。それに雨が降って来そうになった。どうあっても八時に今市まで行かなければならぬ。仕方がない、今市まで馬車に乗ってウンと飛ばそうとなった。大原という処は
鬼怒水電工事の中心である。ために
入込んでいる
工夫の数は三千人程あるという話だ。山間の
僻地の割には景気がいいらしい。
商賈もドシドシ建つようだし、人間の往来も多い。しかしながら、今まで素朴であった
村邑が工夫という渡り物の来たためにアブク銭が落ち込むので、農家はいずれも
半ば飲食店のようになり、善良なりし
村家の
戸毎から酒気溢れ、淫声戸外に洩るるようになったのは、残念で堪らぬような気がした。金力の
跋扈、ことに下等獣類に等しき工夫共の手により質朴なる田舎に撤かるる悪銭は、実に慨嘆に堪えぬ。余計な心配だが、これから五年あるいは十年の
後、工事
了りて元の閑寂なる山村に帰った時、初めて
眼醒むる彼等の苦痛は、
一旦心に
印せられた惰弱の
風と共に永久に消ゆるの時がなかろう。
可憐のものじゃ。
馬車に乗って二里の道程を飛ばすこととした。幸いに
御者先生は十六、七の小僧君。将軍早速談判して、八時までに今市へ着けば五十銭の酒代をやることにした。が、先生も欲と二人連れ、帰れば一晩ゆっくり遊べるという寸法だから、馬の尻を叩くは叩くは、
「ハイヨウハイヨウ、ピシッ」
初めの一里ばかりは
馬君風を
斫って駆けたが、次第に暗くはなるし、山路の事とて
路は素敵に悪るい。路の中には大きな石がゴロゴロしている。打っても叩いても進まばこそ、五十銭損得の境だから御者少年も汗みずくだ。一生懸命になって「ハイ、ッコラ、ヨッ」。最初は吾々も我慢して乗っていたが、いよいよ歩みの遅々たるに業を煮やし、ソレッとばかり飛び下りて、四人がワッショイワッショイ馬車の後押し、前後左右へガッタンガッタンするのを、一向お構いなく一生懸命になって馬車の後押しをした。お客が馬車の後押しをするなんてことは恐らくどこにもあるまい。村の人は軒に立って何事かと出てみては呆れている。お陰様で八時には今市へ着いた。五十銭の酒代で御者先生ホクホクもの。盛んに礼をいっておった。
八時の汽車には間に合ったが、さて乗り込んだところが連日の強行軍で洋服は泥まみれ。その上、大きな
茣蓙を抱え込んだものだから、日光避暑連中は目を回しておった。これ位ならまだいいとして、汗臭
氛々用捨なく室内に
漲るには、日光行きのハイカラ先生少なからず顔をしかめておったわい。
日光へ着くと、
未醒画伯は弟妹首を延ばして待っている
郷家へ一夜の宿り、吾々三人はボロ洋服に
茣蓙を引っ掛けて小西別館へと入り込んだ。幸いにも天から拒絶されなかったのが何より。風呂から上がり、姿見に向かい三人相顧みて、
「
随分黒くなったなあ」
この夜、吉岡髯将軍ビール二杯呑んだところが早速酔っ払ってしまい、自分から注文した名物の
羊羹が来たのも知らずに、
鼾声雷のごとくグーグームニャムニャ。木川子と吾輩二人で一皿を平らぐ。ただし、この事、将軍にはナイショナイショ。
翌朝、
未醒画伯九時に雨を冒して来たり。
「ドウダ、用意はまだか、早くしろ早くしろ」
雨の中に立って
大元気なり。早速足ごしらいをして飛び立つ。案内者を一名雇う。
佐十さんという頑強日光一の案内
老爺。
負梯子に一行の荷物をのせて雨中を出かける。
馬返し
辺に至れば、雨ますます烈しくして
男体颪の強風吹き
捲くって、うっかり足の力を抜けば、五、六町吹き返されるは
請合なり。満身の力を足に集注して大谷川の沿岸を
遡る。河身を見れば濁水
巨巌に
咆哮して
正しく天に
漲ぎるの有様、
方等般若の滝もあったものにあらず、濁り水が汚なく絶壁を落つるに過ぎない。中の茶屋で
昼食。出かけるとまたもや烈風強雨。その中を冒して突進、不動坂を駆け上がるのが髯将軍、早くも胸つき八丁の上に
方りてまたぞろ雨中でウエーウエー。
猛烈の雨中突進、
遮二無二登りつめれば中禅寺の八丁平なり。ここから
華巖の滝壺を見に行った。この滝壺道というのは、五郎平
爺が十三年の
日子を費やして独力造り上げた道である。惜しいかな、この
老爺、今年四月病いを得て死んでしまった。
雨中を冒して、将軍と吾輩勇を鼓して五郎平茶屋より一丁あまり、
懸崖路なき所を下りて、滝壺探検と出かけた。雨水を含んでいる岩角はウッカリすると墜落して手も足もかけることが出来ぬ。木の根岩角に手をかけ、足を踏みしめて、ようよう
飛沫雨のごとき中に下り立ちて、巨巌の上へ登り、
海内無双の大瀑布、華厳の雄姿を眺めた時には思わず
快哉三呼。
足の皮を摺りむいて五郎平茶屋へ這い上がる。
いよいよ中禅寺湖畔へ出た。湖面暗くして波浪上らず、
雨脚矢のごとく湖上を打つ。
毛唐の乗ったボートは橋に引掛かり、対山の
翠は雨雲に包まれて、更に一鳥の飛ぶを見ず。
商賈戸を
鎖して風雨いよいよ烈しく、冷気肌を襲うてなんとなく物凄い。
五人は湖畔を
辿って
菖蒲ヶ浜へ出た。ここは昼なお暗き古木が深々として茂っている。この中に山林局の養魚場がある。白亜の洋館に行き養魚の有様を見んと
訪えば、ここに偶然にも、僕の旧知、法科大学生
福田甚二郎君がいて、種々養魚上の説明をしてくれ、ここの所長をしている
谷口利三郎氏も出て来られて、雨中に学術上の説明をしてくれた。
ここを出て地獄茶屋でひと休み
息んでいると、
只事ならぬ叫び声が聞える。スワ何事の
出来と、四人一度に飛び出す。見れば一頭の
悍馬谷川へ
陥ちて今や押し流されんず有様。何でこの状を
目睹して
躊躇すべき。将軍、
忽ち着のみ着のまま川の中へ飛び込んで口元を
確かと握り、金剛力を
振い起こし、「エーヤッ」とばかりに引揚げた。
呆気に取られて見ていた馬子さん、涙を流さんばかりに、
「どうもありがとうござんした。お
陰様で……」
と平身低頭礼を言っている。馬殿、鼻をブルンブルンいわせながら、一
声風に
嘶いてヒーン。
将軍濡鼠のごとくなって
陸に上がり、茶屋でボロ洋服を乾かす。
竜頭の滝を見て、戦場ヶ原の入口に
入りし時は、雨ようやく晴れて、額が痛くなるほど
黒髪山が頭上にのぞいている。強風は例によって猛烈に吹く。雨が
歇んだので未醒画伯戦場ヶ原の
真中へ三脚を立て、
悠々写生を初めたところが、折悪しく吹き
捲くって来た一陣の烈風に、画板を吹っ飛ばされ、絵の具は躍り出す、いやはや大
狼狽。せっかく計画して来た戦場ヶ原の写生もこれでおジャン。
右顧左眄、雄大無比なるこの高原の絶勝を眺めながら湯本へ着いたのが、もう日が暮れて大分間が経ってからである。先発宿
定めの佐十さんが
南摩ホテルで拒絶され、釜屋で門前払いを食い、ようやくにして佐野屋という
変梃な家の二階と決まる。
後から乗り込んだ吾々、至る処引張り回されて、薄汚い二階へ案内された時にはヤレヤレ。未醒君の発起で陰気な二階の一夜を怪談に更かす。
十八日朝七時出発、快晴。今日は名にし
負う
金精峠である。
殆んど直立せる断崖絶壁を登ること一里八丁、
樵夫が連れて来た犬が
莫迦に
吠え付いて始未におえぬ。将軍の一喝、小牛大の猛犬
忽ち縮み上がりて熊笹の間へ逃げ込んでしまった。六十の佐十さんは壮者を
凌ぐ程の元気。脚の達者なことといったら比類なし。グングン荷物を担いだまま登る。
峠の頂上に達して振り返れば、
屏風を立てたごとき山腹の
路は赤くなって見える。遠くには湯の湖、戦場ヶ原を隔てて男体山が
毅然として雲表に
聳え立っている。雄大な眺めだ。将軍山頂に便を催おし、
叢の中に男体山を眺めながら、
上野と
下野の国境上に真黒な塊を残す。
深山を下ること二里余り、
紺碧の水を
湛えたる湖の
畔へ出た。ここで渇したる
咽を清水に
濡おし、物凄き山中を行くと、深林の中に人が歩るいたらしい
小径がある。物好半分の連中、早速行ってみると、驚くべし、人の住み捨てた家が
壊れて雨に柱が朽ちかかっているのを見出した。棒の先で屋根の下を掘ってみると、中から出たのは人骨か、獣の骨か、――ゴソゴソとひと固まり。
有繋の将軍も、「ヒャー何物!」。
何が出るか掘ってみようというので、なおも一生懸命に棒の先で掻き散らしてみると、出たものは土鍋の破片一個、茶碗三個、衣服ようのもの一つ、
錆鉈一
挺、一同不審の思をなしてここを出発した。これから
丸沼へ出て、その次が
大尻沼である。この湖畔に一軒の
掘建小屋があって、ここには丈夫そうな漁師夫婦が住んでいる。ここで茶を貰い、
昼食をすます。ここから人間の住んでいる村へ出るには、二里余の山を行かなければならないそうである。
吾々の
後から一人の西洋人が人夫を一人連れて湯本からやって来た。将軍
忽ち怪し気なる会話を始める。一心に写生をやっている未醒画伯を
指して「あれはなんだ」と聞かれ、将軍反り返り、得意になって
曰く、
「ヒー、イズ、アクター」
西洋人、目を丸くして未醒氏の顔を見る。将軍、アーチストとアクターとを何の気なしに滑らして、色の黒い未醒画伯とうとう俳優となってしまった。
食後の小憩を未醒氏渚の
扁舟に
棹さして湖心に
出づ。木川子は真裸になりて水中に泳ぐこと一、二分、たちまち躍り出して「アー冷たい」。
ここから渓流に沿うて下ること二里。山中に朽木の
独木橋を渡り、アワヤ谷底へ真逆様にならんとせしは某君。難なく
東小川村へ着いた。普通の人はここへ泊るのが一日の行程だそうだが、足は多少痛くても元気はますます加わる吾等一行、小憩の
後、
片品川の沿岸に沿うてここから四里余もある
追貝まで猛烈なる強行軍。
暮靄寒村をこむる夕方、片品川の水声を聞きつつ
淀屋というへ泊す。
十九日、朝の
内に付近の景勝を探ろうと、宿の女の子を案内に
吹割へ行ってみる。片品の水せばまりて
峡をなしている処、奔流
碧潭、両岸の絶壁いずれも凡ならず。一行いずれも意外の景色に驚く。
「
栗生峠はなかなか難所だが馬で越すことが出来るそうだ。どうだ、一つ峠の凸凹道を
馬上で越そうではないか」といい出したのは
未醒画伯。随分乱暴な話だ。歩るいてさえ
冷々する
峠路を
馬背によりて行くとは、少し猛烈過ぎるけれども、吾々はそんな事にひるむ人間ではない。冒険は元々覚悟の上だ。「よかろう。それも面白いだろう」と
忽ち一決。田舎の荒くれ馬を四頭雇い入れて、いよいよ馬上、栗生峠を越すことになった。
髯将軍は馬術の名人なり。少し位の
悍馬でも峠位は差支えなかろうが、
後の三人と来ては、生まれて以来、しみじみ馬背の厄介になった事すらない人間だ。物好き連とはいいながら、多少
剣呑である。
平地を行く時は大得意、馬上ゆたかに四囲の山々を眺め回わし、
微吟に興をやって、ボコタリボコタリ進む。
麓の村で馬に水飼い、さあこれからいよいよ栗生峠である。最初登りはダラダラであるから
孰れも平気の平佐。愉快愉快とばかりに馬上打興じて、左手に
赤城、
榛名の山を眺め、あれが赤城の地蔵岳だの、やれあれが
伊香保の何々山だのと語りながら馬を進ませたが、次第に路が
嶮岨になって、馬が
躓ずいたり止まったりすると、なかなか話どころではない。そのうちに身体は左右ヘゴロチャラゴロチャラ揺れる。細い路の片側は恐ろしい谷である。馬上孰れも汗ダクダク。
その内ドサリと音がして「ヤッ」という声がした。先頭に立った吾輩は振り
顧見ると、三番目に乗って来た未醒画伯、馬から真逆様に落ちて、大地へ四ツん這いになっておる。一歩外へ落とされたら、忽ち
奈落の谷底である。今頃は
死出の山路で峠越しでもやっておらなければならなかったが、幸いなるかな、身に
寸毫の傷だも負わずして、危うき一命を取り止めた。馬で峠を越そうなぞと強がった天罰
覿面、谷へ落ちなかったのが何よりのめっけもの。元気は再び旧に倍す。
峠を越して
高平という処で馬を捨てた。茶屋へ入ったところが作り立ての
饅頭がある。オーライオーライとばかり
頬張ること数十個、これでようやく腹が治まった。が、治まらないのは馬子先生である。法外な賃金を
強請って
頑として動かぬ。欲張りの田舎者ほど
面憎いものはない。将軍忽ち、
「馬鹿にするない。
定めた賃金だけ持ってサッサと帰れ」
頭から浴びせ掛けられて、馬子さんブツブツいいながら帰ってしまった。
ここから沼田まで二里。平坦な道を一気に突破して午後の三時半というに沼田町へ着いた。ここの旅館丸杉は、以前未醒画伯の
宿ったことがある家だという。早速宿ることとして旅装をとく。
宿に着いてから日没までは、各々感心にも日記その他の整理をした。聞けば今晩当町に南極探検後援会の活動写真が劇場においてあるとの事。夕飯を食ったならば早速行ってみるべしと一決したが、もう一つ、青年
大角力があるという話も聞いた。これも行ってみたい。そこで
未醒画伯と木川子が大角力に向い、吾輩と将軍が活動写真の方へ行った。
見れば田舎の小劇場はもはや満員で、殆んど入ることが出来ない位だ。しかしながら、せっかく五、六丁の道をやって来たのである。見ないのも残念とあって、二人、人を
別けて
桟敷に押し上がり、一角に陣取って活動を見る。
影写の合間には地方の有力者が立って、南極探検の説明やら挨拶やらをするが、淳朴なる田舎の
婦子供を動かすには余りに学術的に
亘り、その効果は認められないようであった。
ここにおいて髯将軍たちまち熱狂し、見物席なる二階のボックスに突っ立ち上がり、旅館の
浴衣のまま、汗と
埃に汚れた白帽子を右手に握り締め、天地を
震愕せしむる大音声に、
「諸君ッ、満場の諸君」
とやらかした。驚ろいたのは場内の見物人。婆さんも子供も女も、
一整に驚愕の
眼を将軍の顔上に集注した。今まで騒々しかった場内は急に水を打ったようになる。観衆三百人、まず将軍の頭抜けて大きな蛮声に度肝を抜かれたのである。
「諸君よ、吾輩は当地旅行の一青年である。はからずも今晩この活動写真会に会し、献身的に働らいておらるる一行諸君の熱情に感じ、ここに一場の感慨を述べる次第である。諸君よ、もし諸君が菓子
饅頭を買うの余裕あるならば、この国家的大事業なる南極探検に応分の寄付なし給い。空しく結氷に
遮されて南海シドニーの郊外に、涙を呑んで故国よりの吉報を待っておる探検隊一行の心中は、実に気の毒に堪えぬではないか」
をきっかけに熱弁を
振うこと十五分、満場
悉く感動して、一人の声を出すものもなし。蛮声終れば拍手
急霰のごとし。将軍の髯面、ために穴の開く程観衆より見られた。意外の大手柄を立てて旅館へ帰る。
角力より帰った未醒氏、余程残念だったと見え、
「せめて今晩、大村がいればなあ。
俺れじゃとても青年角力の大関を投げ飛ばすことは難かしい」
註に
曰く、大村とは天狗倶楽郎の大関、工学士大村
市造(横田注・一蔵)君で、未醒子、番付は天狗倶楽部の三段目なり。
口惜しがるのも無埋はない。
翌早朝出発。渋川までは無難。ただ連中
饅頭が食いたくなって、しきりに饅頭屋を探したのだが、
生憎一軒も無くって大
悄気。渋川からは
吾妻川の流れに沿うて行くのである。ところが途中洪水のため沿岸の道路は崩壊されて、山路を十八町程余計に歩るかなければならぬ処へ出た。目下修築最中で旧道は
行通遮断と来た。十八町を回るのは厄介である。そう呑気な旅でもないから一歩ずつでも無駄足はしたくない。休んだ茶屋の
爺に「どうだろう、工事をしているところは通れないだろうか」と尋ねたところが、爺平然として曰く、「なあに
差支えござあせんよ。あの通り幾人も人が通るのでがすから行けますべい」。
頗る
曖昧なる返答であるが、現在旅人が通るのを見ると行けるに相違ない。何にせよ行ける処まで行こうという事になった。
吾妻川は素晴らしい大洪水があったと見えて、沿岸の家屋の押倒されたのや、河岸が崩されて道路に大亀裂を生じたのや、砂河原となっておる処が至るところにある。この間を縫うて四人は一歩一歩
辿った。ちょうど中頃の最も崩壊の甚だしい処に至ると、
頭上唸りを生じて一大石塊が地に
陥ちた。ハッと驚ろく間もなく、バラバラと石塊混りの土砂が
雪崩をなして落ちて来る。
仰おぎ見ると、コハそもいかに。真黒ケの大の男五、六人、四、五丈高き断崖の中腹に
鶴嘴を持ってゲラゲラ大口開いて笑っている。吾々の立止まるを見るや、彼等はなおも猛烈に土砂石塊を
浴せかけんと、鶴嘴を振り上げる。これには
有繋の豪傑連も少なからず困った。
地駄太踏んで憤慨したが、当の相手は五、六丈上方に天険を控えて待構えている。将軍もこれには手の出しようがない。こんな時こそ三十六計の奥の手を出して一散に駆け出し、危うく吾妻川の
河底へ生埋めになる急場を辛くも通り過ぎ、四人相顧みて
工夫の猛悪なるに驚ろく。
中の条町にて
昼食。掛茶屋に腰を下ろしている間に、前の通りで五十ばかりになる田舎者と馬車の
馭者とが押問答をしている。田舎者の
連らしい三十位の女が子を抱いて
傍に立っていた。
何でも馬車へ乗せるとか乗せぬとかいう話らしい。
爺は
頻りに嘆願しているが、馬車屋は
頑として応ぜぬ。事情を聞けば、草津行の乗合馬車には赤馬車と称する会社があって、
頗ぶる専横を極めている。知らずして他の個人経営の馬車にでも乗ろうものなら、それこそ大変。中の条から先の山路は歩かなければならぬのだそうだ。赤馬車は通じても、他の馬車で来たものはいくら中が
空いておっても断じて乗せぬ。
彼の田舎
老爺もこの事を知らなかったため横暴なる赤馬車に
虐められているのであるが、いかに山の中とはいえ、かくのごとき不親切極まる営業振りは聞捨てにならぬ。天下を旅行する多くの人のために、
吾人は一日も早く草津行赤馬車の全滅を祈るものである。
脚下に
轟々たる水声を聞き、雲に懸けたかと思わる、絶壁の中腹の危うき桟道を越えて行くことしばらくにして、右手に全山
悉く岩石より成る山を見る。これ
岩櫃山というて
正平年間
吾妻太郎行盛の城跡、
巨巌重畳、断崖
聳立、山中に古戦場あり、今日に及んでなお白骨の
横わるものありという。河原の温泉を過ぎて吾妻川の峡谷を
遡れば、前面に
方りて何となく物凄き一大魔形の山が見える。これ吾妻の丸山といって、昔、
羽根尾長門守の臣
篠原玄蕃という剛の者、この山上に
砦を構えしといい伝えられている。遠く望めば山の形
恰かも
円筒を立てたるがごとく、前面は直立せる千丈の絶壁、上部は
鬱蒼として樹木生茂っている。
一見薄気味の悪い魔形の山、お
伽噺の中にある怪物の
棲む山である。
長尾原で夕食をなし、これから草津まで暗夜の強行軍。中途より雨さえ加わりて
路は膝を没する
泥濘、とても歩けたものでない。足踏み
辷らして谷底へ落ち損なったことが度々あった。暗中降雨を冒して進むこと数里、いよいよ人家の近付いたと思わるころ、風に
煽られて暗中に漂う湯の
香プンと鼻を打った時には、足の痛みなぞはすっかり忘れて跳べ跳べ。
草津へ着いたのが九時。長尾原より、遅くも着くと大東館という旅館へ電話をかけておいたはよいが、来てみるとどうだ。番頭
奴ジロリ我々一行の姿を見て、
忽ち態度を一変し、無礼極まる言辞を
弄して、別館という、梅毒患者ばかり押込めておく薄汚い
室へ追い込もうとした。
ここにおいて将軍大いに憤慨し「こんな不親切極まる旅館へは
宿らんでもよい。
他を見付けよう」と提議して一決。大東館の東隣りなる望雲館へ出かけた。ところがここのヒョロクタ老ぼれ番頭、玄関へ出て来てジロリ、ジロリ一行の
身装を上から下まで見上げ見下ろし、十分も経ってから初めて口を開いて
曰く、
「どうも只今満員で、お気の毒様でございます」
足は痛くなる、夜は更ける、洋服はグショ濡れになってゾクゾク寒い事ひと通りではない。戸外に煮え切らない番頭の返事を永く聴いていてはとても堪らぬ。一同の
癇癪はまたまた破裂した。「ヨシヨシ、こんな家へ泊るな」とばかり出かけたが、さて宿屋といっては、土地不案内であるからどこがよいかわからぬ。将軍と吾輩は駐在所へ行って、巡査に依頼してようやく、
一井という旅館へ
宿ることとなった。いかさま、お
巡りさんでも頼まなければ、どの家でも泊めてくれなかったかも知れぬ。連日炎天の行軍で顔は
赤銅のごとく、光っているのは眼ばかり。それに洋服は汗と
埃でグシャグシャになった上に臭くなっている。その上へ
茣蓙を付し、
檜木笠を被っているのだから「どうも御気の毒様で」といわれたのも無理はない。しかし、服装や荷物を一見してお客の品定めをし宿泊を断るというに至っては、不届き千万である。かくのごとく一般旅客に不親切なる旅館は、一刻も早く滅亡すべし。望雲館、大東館の不親切なるに反し、一井旅館は極めて親切にしてくれた。火を落として何物も出来ないとの事、缶詰を破って腹を
癒やし、翌朝八時頃まで
怒々と寝込む。
朝のうちに草津の町を見る。極めて平凡なる土地なり。ただ高原の
中より湧く温泉が霊験あるというだけ。景色としてはゼロ。梅毒患者が療養すべき土地にして、わざわざ東京から見物がてら避暑なぞという気の利いた所ではない。
十時発。荷物は一頭の馬を雇ってこれにのせ、四人は身軽になって鉄脚を飛ばす。途中より未醒画伯、髯将軍は白根噴火口へ回るという意気込み。途上遥か
右方に
褌を懸けたるがごとく、白帯一条の見ゆるは
常布滝という。この
辺悉く裸山にして、往年白根噴火の
名残として焼石の
背を表わしているのと枯木の幹が白くなって立っている。この辺
頗る毒水多し。芳ヶ平という処に茶屋がある。茶屋といったところで、壁も何もない荒れ屋である。ここで一休みしようとまず軒を
入れば、こはそもいかに、
白髪の形相恐ろしき
婆が
薄穢ない
垢だらけの着物を引摺ってノソノソ出かけて来て、汚れた茶椀へ茶を
汲んで出す。とても呑まれたものでない。忽ち茶代を
抛り投げ、弁当を担いで逃げ出して、ホット一息。
途中で別れた白根行きの二人、帰途、この茶屋へ知らずに飛び込み、
有繋の両人も
孤屋の
怪婆に
吃驚敗亡、
後をも見ず一目散に逃げ出したそうである。ちょうど峠の頂上に近かき所において、路傍の木陰より一頭の
兎が飛び出した。それッと木川君と吾輩はステッキ待ち直すが早いか、あとを追っかけた。岩に
躓ずき、
葛に引っからまり、山中をかけずり回り、身体綿のごとくなってへたばる。兎は遂に行方不明。
一方、白根噴火口ヘ回った連中は、焼石のゴロゴロした中を
辿って遂に
頂の噴火口の
辺へ出たそうである。白煙
濛々と立昇る地獄穴
溶岩を覗いて、
未醒画伯と髯将軍、
快哉を叫んで躍り上がったところが、
忽ち麓から吹き上ぐる濃霧に包囲されて、危うく足踏み外し白煙中へ
捲き込まれんとし、二人、一生懸命
巌に
獅噛み付いて、ようよう命を
陥さずに済んだそうである。
渋峠を余程
下った処に、
澗満の滝という大滝が絶壁の上から落下する。
右方は原を隔てて
琵琶沼がある。この
辺から西方
雲煙の
表に
夕陽の残光を受けて立つ日本アルプスの
重畳は実に雄麗壮大の眺めであった。濃霧の中を冒して渋温泉へ下る。かねて草津一井旅館から電報で通知しておいたという
金具屋へ着き、まず安心と思ったところが、番頭殿ノコノコと出て来て
曰く、
「どうも又今は空き
室が一つもございませんで、せっかくの電報でございましたから、この先十町ばかりの
湯田中という所へ宿を見付けておきました」
しゃあしゃあとしていう番頭の
面が
癪に触ってならなかった。
戯談じゃない。これから先は一町でも一里に当る。旅館の不親切、呆れたものだ。十町を歩いて湯田中
見崎屋へ泊る。感じのいい家なり。温泉に浴して汗を流し、
鯉汁のお代りをして飯八椀を平らぐ。翌朝まで何事も知らずに眠る。次の日は
千曲川の船橋を渡り、
妙高山、
黒姫山の麓を迂回して
越後国高田に
出づ。ここに少憩して付近の
勝を探ぐり、はるかに左方
春日山の
城跡を
仰おいで、
曠世の英傑上杉
輝虎の雄図を
偲び、
夕陽斜めに北海の
怒濤を
照すの夕闇に、
潮鳴りの物凄き響きをききつつ、
直江津の町へ入った。停車場前のいか屋という旅館へひとまず泊ることとし、何はともあれ、まず第一に、山河二百里を蹴破り
来りしこの鉄脚を、日本海の荒浪に洗わんものと、海岸を
指して出かけた。
孰れも勇気
凛々、今日を限りにこの痛快無比の旅行と別るるのが
残多いようにも思われ、またこの
行を
了ったという得意の念もあった。
いよいよ日本海に
出ずれば、
渺茫として際涯なく黒い海面は天に連なり、遥か左方は親知らず子知らずの
辺ならん、海波を隔てて
模糊の間に
巉巌の直ちに海に
聳立っている様が見える。右方は
米山、
彌彦山、これもその頂は雲に隠れて、
山裾を海中に伸している。愉快愉快。かかる壮大なる景がまたとあろうか。山を
攀じ、峠を越えてここに十有余日。炎天、烈風、猛雨、この間を突破し来りたる我々には、この広大無辺なる海洋の夕暮れに、
闇らき波の白く砕けて岸に
咆ゆる有様がいい知れぬ快感を
惹き起して、我れ知らず躍り上るを禁じ得なかった。
将軍忽ち岸の草陰に隠れて
糞をひる。これも何かの好紀念であろう。四人手を
捉り躍り上りて万歳を
呼ぶ
三呼。ああ、かくして我々の痛快なる旅行は
了ったのである。
霎時にして海上を見渡せば、日は
已に没し、海波暗くして怒濤砂を
捲き、遥か沖合には
漁火二、三。我々はこの
行を
了りてこの無限の太洋に面す。限りなき喜悦は胸にあふれて快たとえ難し。
翌日、汽車に乗り、浅間の山の噴煙を眺め、絵のごとき信濃の国を過ぎて夜の十一時というに上野着。四人の色黒ろきこと印度人のごとし。眼ばかりキョロつかせ、相顧みて、
「愉快だったなあ」。
旬日に余る旅、しかも多く人の難とする険所をのみ選みし
行なれば、旅中の珍談奇談山のごとし。一々これを
細舒しおれば本誌全誌を挙げてもなお不足を覚ゆる位である。これはいずれ機を得て追々発表することとし、今度はひとまずこれで
擱筆。(
衣水)
〔〈冒険世界〉明治44年10月号掲載〕