警戒すべき日本

押川春浪




世界の大勢を見よ=英雄主義=米国魂=日本の正命=自信力と自負心=戦勝の賜物は何か=国民の意気=危険なる社会主義=淫猥なる自然主義=陋劣極る平凡主義=非愛国者を葬れ

(一)文明的戰國時代

▲現時の日本は、安心すべき日本に非ず、警戒すべき日本なり。逸楽を夢想すべき時代に非ず。起つて戦ふべき時代なり。諸君は世界の大勢を見ずや。欧米列国を実利主義一点張の如くに思惟せし時代は既に過去つたり。彼等は富力を過度に尊重すること依然たりといへども、同時に英雄主義を忘るゝ者にあらざる也。今や世界の形勢は、恰も文明的戦国時代の観ある時に当り意気剛壮の士は起つて叫ぶ、我こそ世界第一の国民たらざる可からずと。而して心ある国民の頭脳には、勇健なる思想と尚武の気風とは次第/\に侵み渡りつゝある也。
▲殊に太平洋の波濤を隔てゝ三千里、彼の巨大なる新興国米国を見よ。米国は黄金崇拝主義の本家本元なること云ふ迄もなけれど、彼等は単に黄金崇拝のみを以て満足し居る国民にあらず。余輩の僻見ひけんかは知らねど、彼等は富力に於ても、智力に於ても、武力に於ても、全世界を圧倒せんと努力しつゝあるに似たり。殊に英邁勇敢なるルーズヴエルト氏が大統領に就任せし時以来、一部国民の精神は著しく其感化を受けしものゝ如く、表面に黄金を崇拝する事に変りはなけれど、其精神に於ては英雄崇拝を以て本義と為し或者は尚武練胆の気風を皷吹し、或者は米国魂に加ふるに日本魂の精萃をすら吸収し伝播せんと企てつゝあるが如し。
今日日本武士道に関する書籍が、米国一部人士間の最愛読書たる現象をば、諸君は如何に見るか。米国をハイカラの製造元の如くにのみ思惟するは誤れり。れば現時の米国海軍――其軍人は左迄さまで勇壮ならざるべし。多くの雇兵より成れる陸軍は敢て恐るゝに足らざるべし。然れども今より十年後、二十年後、或は三十年後に至つても、米国の陸海軍は今日と同断なりと思はゞ、兵家の所謂油断は大敵なり。我国に取つて、後悔臍を噛むとも猶ほ及ばざる事件無しと云ふべからず、之れ一米国に対してのみ云ふにあらず。欧洲列強又た然り。

(二)日本の生命は何か

▲今日以後所謂文明的戦国時代は永く継続すべく、外交に於て到底解決せざる事は、遂に戦争に訴ふるの外はなければ、列強はます/\競つて兵器の改良発明に苦心し、軍備の拡張に焦慮する事は云ふ迄もなく、而して軍備の拡張は原則として、其国の富力に比例すべければ、遺憾ながら我国より遙かに富力に於て勝れる欧米列強は、常に我国よりも多くの戦艦、多くの大砲、多くの飛行機を有するものと見做さゞるべからず、加ふるに彼等にして、従来我国民が有せし如き勇烈なる武魂を有するに至らば、我国民は果して枕を高うして眠るを得べきや否や。我国が日清戦争に於て日露戦争に於て、世界の歴史を飾るべき光栄ある大勝を得しは、兵器の力彼に勝りしが為にあらず、黄金の力彼より大なりしが為にも非ず、其最大原因は、我が勇敢なる祖先の伝へし日本武士魂やまとだましいが、遺憾なく発動せし結果に他ならず。然るに日本現時の傾向は如何。
▲回想すれば、今より二十年以前の日本は、極めてミゼラブルなるものなりき。欧米列国は日本を侮蔑し、二等国或は三等国と呼ぶも猶ほ其言に甘んぜざるを得ざりき。軍事に於ても外交に於ても、学術に於ても、総ての実力に於て、日本は到底所謂列強の敵に非ずと、他も云へば、自己も亦た然かあらんかと思ひ、日本国及び日本人は世界の大舞台に於て、常に意気悄沈の態度、逡巡躊躇の行動を取りつゝ来りしも、一朝已むにまれず清国に向つて戦端を開くや、日本は不思議にも勝てり。当時の人々は地図をひらいて、彼の尨大国――富力に於ても、軍艦兵器の数に於ても、遙かに我に勝りし清国に勝ちし事をば、我ながら不思議に堪えずと叫びし程なりき。然れど之れ不思議でも何んでも無し、強いて不思議と云へば、日本武士魂なる不思議の威力ありしが為に勝ちしなり。

(三)威大なる自信力

▲この戦争の結果は、俄然として日本人に偉大なる自信力を生ぜしめたり、己惚にあらざる真個の自信力は、個人に活気を与へ、又た国家に活気を与ふ。自信力の発動は奮励となり、健闘となり、発展となる。加ふるに当時遼東半島還附の遺恨問題あり、心ある国民は臥薪甞胆の意気燃ゆるが如く、何時かは世界第一等国民となつて、彼等を見返しれんと奮励努力せしが故に、十年の歳月甚だ長からずと雖も、其間に日本の国力は驚くべき発展を為せしなり。欧米国民は夫れを知るや知らずや、中にも露国は傲慢無礼、日本を蔑視し、東洋に暴威をふるはんとせしより、日本国民の血は沸けり、骨は鳴れり。当時の日本政府は軟骨なりしも、日本国民は軟骨にあらず、五千万国民悲壮の叫声は、遂に彼の日露大戦を起すに至りし也。
▲日本は古来武勇の国と雖も、地図の表面に現はれたる日本は、極東の一島帝国のみ、露国は欧洲否世界の第一大国、面積に於ても我に数十倍す。而して彼は世界の優等人種なりと自称する白色人種なり。我は彼等が目して、劣等人種なりと呼ぶ黄色人種なり。兵力に於ても、富力に於ても、智力に於ても、当時の欧米人士中、誰か日本の大勝を予期せしものあらんや、若し有りとせば、之れ達観の士なり。恐らく日本全国民と雖も、心の底の底には、此戦、死すとも負けまじと覚悟せしに相違なけれど、一面に於ては、実に危く感ぜしは疑ふべからざる事実なり。

(四)國民の狂喜

▲然るに戦争の結果は如何。日本は大勝せり、露国は大敗せり。日本は邁往突進、全力を尽し、必死となつて戦勝の栄冠を奪取せり。露国は陸にあつては予定の退却、海にあつては絶間なき圧迫を受けて、世にも見苦しき敗北を遂げたり。極東の一島帝国、俄然として世界第一の大国を一蹴し去る。之れ何んの力に因るか、天祐もあらん、軍略の妙用もあらん、然れど其最も威大なる力は、日本武士魂の発動即ち之れなり日本人の発動は、日本人の生命たり。又た日本帝国の生命たり。此生命を有するものは、全力を尽す事を得べく、大事に臨んで必死となる事を得べし。全力を尽し必死とならば、天下何者をか恐れん。この偉大なる力の動くところ天祐も自らくだるものなり。日本は日本武士魂なる偉大にして且つ不思議なる力により、大国露西亜に打勝つ事を得たるなり。日本全国は狂喜せり。全世界は震駭せり。日本は一躍して世界一等国の班に列せり。余輩は手の舞ひ足の踏む処を知らざりき。

(五)如何なる賜物を得しか

▲然れど諸君。この戦勝の結果――、殊に戦後に於ける日本社会の状態は、果して歓ぶべき現象なりや否や。余は一言の下に否なりと断言するを憚らず。歴史を繰返して見よ、戦勝の結果却つて亡国の非を招きし国は、古来其実例に乏しからず、戦勝たゝかひかつて士気大いに奮ひ、駿々として驚くべき勃興発展を為す国あり。戦勝つて国民の気奢り、知らず識らず亡国の悲境に陥る国あるを思はざる可からず。余輩は彼の光栄ある戦勝を得ながら、一文の償金すら取れざりし事を今更嗟嘆する者にあらず。樺太二部の一は、我が幾万の同胞を殺し、幾億の軍費を費せしに対して、余りに少き賠償なれど、若し国民が此戦勝により、何等か偉大なる精神上の賜物を得しならば、余輩は数十億の償金を得るよりも、幾万方里の領土を加ふるよりも、寧ろ我国将来の為に之れを慶賀せん。然るに事実は全く之れに反す。

(六)悪風潮!悪影響!

▲臆面なく云へば、日露戦争に於ける戦勝の結果及び戦後の国状は、日清戦争に於ける夫れに劣ること数十等。否、寧ろ悪風潮、悪影響を受けつゝあり。日清戦争に於ける戦勝の結果、国民は自信力なる精神上の偉大なる賜物を得たり。然るに日露戦争に於ける戦勝の結果は、国民他に何等の得る処なく、却つて従来有し来りし自信力は、一転化して自負心となれり。己惚心となれり。慢心となれり。之れ実に憂ふべき現象に非ずや。自信力と自負心とは天地雲泥の相違あり。自信力は希望を生じ、智識を生み、活力となり、発展となる。自負心は惰気を生じ、虚栄を夢み、沈衰となり、退歩となる。
▲日清戦争に於ける戦勝の結果、我は当然得べき遼東半島を奪取せられしも、同時に臥薪甞胆なる壮烈の意気を得たり。之れに反し、日露戦争に於ける戦勝の結果は如何、僅に樺太二分の一の領土を得たるも、同時に臥薪甞胆の意気をすら失へるに非ずや。此根本的精神の相違は、日清戦後に比較して日露戦後に於ける醜劣なる社会現象の万端を解決す。軽薄なるハイカラの模倣、柔弱なる気風の彌蔓びまん、如何にして生活すべきやの嘆声、小成功熱せうせいかうねつの流行、議員高官の収賄、詐偽会社の出没。一方に於ては淫風の流行、奢侈、虚栄、無気力。嗚呼何んたる事ぞ、此傾向にして底止する処なくんば、日本の社会は遂に二十世紀の元禄時代と化するの他は無からん。然らば国家の前途を奈何いかにせん。

(七)社會主義と自然主義

▲更に思潮界に於ては、悪性を帯びたる社会主義の蔓延。淫猥なる自然主義文学の流行、実に国家の為に痛嘆すべき也。社会主義、自然主義共に、其善意なるものに至つては、学問として研究するに何等の差支無からんも、今日我国に行はるゝ社会主義の多くは、日本の国是に反し、帝国の根柢を破壊せんとするもの、断じて許すべきに非ず。
▲淫猥なる自然主義文学、何んの必要かある。風俗を紊乱し国民を腐敗せしむるパチルスのみ。文士、文学を尊重し、主義の為に論議するは一理ありと雖も、区々たる文学を以て国家よりも重しと為すか。社会の風俗を紊乱し、国民を腐敗せしむるも、猶ほ自己の文学を保護せざる可からずと為すか。果して然らば非国民の根性なり。宜敷よろしく南洋無国家島へでも渡り、自由自在に自己の主義を唱導すべき也。
▲実に社会主義、自然主義は共に、警戒すべき日本の今日に甚大なる害毒を流すもの、当局者が之れに圧迫を加ふるは理の当然と云ふの他はなし。然れど諸君、茲に社会主義又は自然主義の如く、未だ多く世人の注目を索くに至らねば、当局者に於ても亦た何等の考も無かるべく、随つて無論圧迫禁制等を受くる事なく、且つ其説述するところ、如何にも道理あるらしく、当世流の人耳に入り易くして、而も之れより発展すべく、膨脹すべく、雄飛すべき日本の将来に向つて、多大の害毒を流さんとしつゝある一派の主義者あり。何んぞや他に非ず。陋劣なる平凡主義者即ち之れ也。

(八)陋劣なる平凡主義

▲平凡主義とは何んぞや。英雄主義の正反対なり。小人主義なり、俗物主義なり、小成功主義なり、事無かれ主義なり。即ち其名の示すが如く、世人は何も英雄豪傑となるの必要なし、回天の偉業とか破天荒の雄飛とかは二十世紀には流行らぬものぞかし、各自皆其分に安んじ、円満なる家庭を作り、極めて平凡に、成るべく安楽に、社会の一員として平和なる一生を送れば足れりと云ふなり。実に憫笑すべき小人根性ながら、此根性は武侠主義の敵なり、国家大発展の妨害者なり彼等は国家を愛するよりも、先づ金銭を愛し妻子を愛さん事を思ふ。彼等は他の助力を受けざる代りに、我れ亦た一切他を助くるの必要なしと云ふなり。彼等は英雄主義を冷笑し、日本武士道を嘲り、国士の行動を冷罵す。彼等は愛国者の血汐を土足に蹂躪し、国家の犠牲を馬鹿者と呼ぶに躊躇せざる也。学説として人は皆何事をも語るの権利あり。れどいやしくも之れより大いに雄飛発展せんとする日本帝国に、斯かる腰抜主義の実行と流行とは真平御免なり。余輩は区々たる一二鼠輩そはいを相手に論議する事を好まずと雖も、陋劣なる平凡主義者の実例として更にいささか記する処なき能はず。

(九)悪むべき排豪傑主義

佐治実然さはるじつぜん氏なる坊主上りの一紳士あり。多少知名の士なり。余は未だ一面識も無ければ、其人物と学才の如何は知る処にあらねど、風説及び新紙の記す処によれば、彼は演壇に立つて布教を為しつゝも、一方に於ては友人間に迄も高利の金貸を為し、今は巨万の富を蓄へ、自己の理想とする家庭の平和に楽みつゝありと、斯かる愚劣事の真偽は之れ亦た余輩の関知する処にあらねど、彼は中学世界其他の誌上に於て、又た演壇に立つて、頻りに平凡主義を全国に伝播しつゝあり。曰く、世の中に金銭ほど尊重すべきものは無し。自己及び家族の必要以外、所謂義理とか体面とかの為に金銭を費すは処世の道に非ず、例へば食事時分に来客らいかくのありし時など、何も来客に食事を与ふる義務なし、自分だけ飯を喰つて用件を聴けば足れり。来客の空腹なると否とは此方の関する処にあらず、夫れより一飯にても倹約して貯金を為すべき也。曰く、豪傑道は当世に流行り申さぬ也。豪傑が多くては世間が騒々しくて甚だ迷惑、彼等は大望を抱きつゝ一生貧乏を為し、馬鹿を見て死ぬる動物也。曰く、愛国とか云へど、万人が其様な騒ぎをしたとて憂国も、愛国も出来るものにあらず。国事に奔走して其身を忘れ家庭を忘るゝ如きは以ての外なり、現代は平和主義の時代なれば社会の各人互に迷惑を掛けず平凡に暮せば夫れにて足れり。曰く何、曰く何、婦女子と雖も猶ほ口にせざるが如き軟弱論を唱導伝播して更に慚色ざんしよくなし。何んぞ其心事の陋劣にして、其主義の野卑なるや。成程男子大いに社会に活動せんが為には、先づ貯金の必要もあるべし、金儲けの必要もあるべし。国家の繁栄と社会の秩序を保つ為には、円満幸福なる家庭も無論必要なるべし。然れど高利貸の如き根性を以て貯金を為すの必要何処にありや。国家を無視し国民の大いに活動発展すべき所以を忘れて、円満なる家庭を作るの必要何処にありや。勿論人各々主義あり、斯かる主義を自己一人にて実行するは勝手なり、余輩敢て干渉の限りにあらずと雖も、苟も這般しやはんの陋劣なる、無気力なる、非愛国的なる主義を全国に唱導伝播するに至つては、断じて黙視すべきにあらず。

(一〇)非國民を葬れ

▲殊に英雄主義を蔑視し、豪傑道を嘲るに至つては、言語道断と云ふの他はなし。外邦の事は敢て説くの必要も無からん。日本が今日迄の運命を開拓せしは、二千五百有余年来、総て之れ英雄豪傑の力に非ずや。近くは日露戦争に於て、我国が大敵露国を打倒せしは、東郷、大山、乃木、其他幾百千の英雄豪傑の力にあらずや。英雄豪傑をのろふ者は其国家を咒ふ者なり。実業界に於ても、学術界に於ても、宗教界に於ても、表面に発現する形式こそ変れ、根底に英雄豪傑的の強く勇ましき精神を有せざる者は、遂に大業を為すに足らず。前にも云へるが如く、現時世界の形勢は、文明的戦国時代の観あり。而して欧米列強は、今や堅実なる実利主義を右に握り、更に剛壮なる英雄主義を左に握らんとしつゝあり。世界の大舞台に於て、強者勝ち弱者敗るゝは理の当然、此時に当り、大いに雄飛発展すべき天職を帯びたる日本帝国の臣民にして、陋劣無気力なる平凡主義如きを唱導伝播するとは何事ぞ。今日の日本は、千の平凡人よりも一人の快男児を要し、十万百万の平凡人よりも、一人の英雄豪傑を要する時代なり、大英雄、大豪傑出でずんば、日本は世界の大舞台に立つて、宇内の第一等国となる能はず。若し平凡主義者の陋劣なる主義にして日本全国に行はれんが、日本は遂に世界の最弱国民となるの他は無からん。実に彼等は日本国民を誤り、殊に青年男女を誤らんとするもの也。其害毒の流るゝところ、日本の将来に向って[#「向って」はママ]、社会主義又は自然主義の流行よりも更に痛嘆すべきものあらん。
▲陋劣なる平凡主義者の如きは、断じて此国家に存在を許すべきに非ず。斯くの如き言説は之れを社会より葬れ、而して斯かる言説を為す者も亦た之れを社会より葬れ。
▲冒険世界読者諸君。余の論議は余りに過激なりしやも知るべからず。然れど諸君、我等は諸君と共に、日本の勇敢なる戦士を以て任ずるもの也。此帝国の士気を損はんとする者は総て我が敵。願くば諸君と相共に国家の為に奮励努力せむ。
(十一月十日稿)
『冒険世界』四十三年十二月号





底本:「※(始め二重山括弧、1-1-52)復録※(終わり二重山括弧、1-1-53)日本大雑誌 明治篇」流動出版
   1979(昭和54)年12月10日改装初版発行
初出:「冒険世界」博文館
   1910(明治43)年12月号
※「根底」と「根柢」、「二部の一」と「二分の一」の混在は、底本通りです。
※見出しの字下げ文字数が不統一なのは、底本通りです。
※見出しの「悪」以外の漢字が旧字なのは、底本通りです。
入力:sogo
校正:フクポー
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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