種田君と一しよに梅見に行つて大森から歩いて来て、疲れた体を休ませたのが「桔梗」と云ふお茶屋であつた。
「遊ばせてくれますか、」と種田君はいつもの
「いらつしやいまし、」と云つて上るとすぐ
「もうあちらへ行きませうよ。」六時がすぎるとお糸さんはいつも催促した。六時を
「今日は此処でくらすんだ。」私はかう云つて動かないことがある。するとお糸さんはせきたてる。
「いけませんよ、待つてるぢやありませんか。」
「誰が誰をさ。」
「誰でせう。」
「だが、じつにもてないね。」
「御じやうだんばつかし。貴方方にそんなことがあるもんですか。みんなが大騒ぎですよ。」こんなことをお糸さんは云ふけれど、
「どう云ふんだらうとお糸さんに聞くのもをかしいが、じつさい愛想のない女だね、」と私が真面目顔に云へば、
「どうしたんでせうねえ。
「取りかへてごらんなさい、」と云つてくれたこともあつたが、
「なあにもてなくてもいいんだよ、」と私ははつきりしたことを云はない。
「貴方はさつぱりしていらつしやるんだから、」としひて
ともすると連中一同が調子を
「おもちやさんがさう云つてましたの、栗村さんは歌を歌はないといい人だけどとね、」と云つておなかを抱へて笑つた。
「正直でいいね。」私も一しよに笑つた。
「おもちやさんは栗村さんに惚れたのと聞きますと、あの子がおもしろいんですの。惚れたつてつまらないわ、年が違ふんですものと云ふんです。自分と同じ位の人でなくちやならないと思つてるんですね。」
「さうさ。三十と十四ぢや少し違ひすぎるかも知れんね。」
一年あまりの間に私達の遊びもやや気がぬけて来た。はずみがなくなつたと云はうか興味がさめたと云はうか。とにかく私達の足も大分遠のいて来た。
「すつかりお見かぎりですね。」などとお糸さんは電話をかけて来ることもあつた。私達は共時々いい加減の挨拶をして居たが、其頃は主に新橋で会遊するやうになつて居たのであつた。
「まあお珍らしいこと。」お糸さんは私の
「此頃は新橋ださうですね。若くつて綺麗ですから御無理もありませんけれどねえ。」お糸さんはこんなことを云つて
「どうだ松田君は来るかい。」
「さあ、」と云つてお糸さんはためらつたが、思ひ切つたと云ふ風をして、
「貴方がたお遇ひになりませんの。」
「遇はんこともないが、あまり消息がくはしくないんだて。」
「さうですか。実は大変なんですよ。ほらあちらへ出て居るはごちやんね。」
「あのおばあか。」草香君が引取つて云つた。
「かはいさうに。まだ二十五にしきやなりませんもの。」
「二十五ならおばあだあね、」と私も云つて、
「どんな女だか私にはよく分らないが。」
「二三度一座なすつたでせう。あの
「それがどうした。」
「松田さんがうまいことをまたおつしやるんですから。何しろお若くてお立派で、それにお金持と云ふんですから、誰だつて本気になりまさあ、」とお糸さんは語調をくづして話をつづけた。
最初は連れとであつたが、此頃は松田はよくひとりでやつて来て、
「さうして松田はどうすると云つてるの。」
「
「馬鹿な、そんな事をしてどうなるか。」
「あたしもね、いろいろ考へて居ますけど、あたしから申上げたつてもねえ。」お糸さんは客の
私と草香君とが松田の名で手紙を書いた。あんまり遊んだので首尾がわるくて上海の支店へ出稼ぎにやられた。何月の何日に東京を立つて何日に此地へついた。外国と云つた丈でも分るだらうが誠に寂しくてたまらない。かう云ふ趣意のものを書いてそれを上海の友人へ送つてそこから発信して貰ふ。一方松田君に遇つて
「松田さんの奥さんもあんまりだ。あれつぱかしの遊びがなんだ、」と云つて腹を立て、「それにしても松田さんこそお気の毒な。知らぬ他国へなんどやられて、養子と云ふものは
「桔梗」へ行き出してから三年ほど後の事であつた。私は種田君の事務所へ行つた。宮川も草香も先に行つて居て、雑話に耽つて居た。
「今お糸が来るぜ、」と種田君は私を見るなり云つた。
「へええ。どうしたんです。」
「なんだか、先生にお願ひがありますつて、今電話が来たんだ。」
「久し振だね。あの方面の噂も。」
「一体四人が揃つたのも久し振じやないか。」と一番年かさの宮川君が云つた。
「なんだか無事に
「品川方面は御免だよ。」
こんなことを話し合つて居たが、お糸さんが来たら、何か
「今日はお糸さんがお客さんだ。」
「さあずうつとお先へ。」
お糸さんが来ると四人が揃つて口口に
「あら、まあ。」お糸さんも此一座の思ひがけない光景に驚いた。
「まあ。」とまた云つた。「皆さんどうなすつたんです。」
「君を待つて居たのさ。」
「君から電話だつたから、みんなを集めて置いたんだ。」
お糸さんの用事つてのは
「警察へ行つてこれこれだと申上げると、警部さんが一一聞き取つて、何やら書いたものに判を押せと
「何ていふ書付か、それはお前さんに聞きたいんだ、こちらで。」と種田君が云つた。
「だつて読んでも見ないんですもの。」
「読まない書付に判を押すと云ふ事があるものか。」私は少し冷笑気味に云つて種田君に向ひ、
「告訴状かしら。」
「さうさね。」
「その告訴つてどんなことなんです。」
「つまり其男が恐喝したんだからよろしく御処分願ひますと云ふやうなことさ。」
「いいえ。あたしから御処分を願ひますなど決して申さなかつたんです。そんなことをすると
「ぢや始末書かも知れぬ。それからどうした。」
「もう帰つてよろしいと警部さんが仰有るものだから、それで事が治まつたものと思つてますと、
お糸さんは帯の聞から二つに折つた一葉の端書を取出した。種田君と私とが殆ど一しよに手を出した。見るとそれは予審判事からで訊問の筋があるから何月何日出頭せよと云ふ、例文の呼出状であつた。最前から話に気を取られ
「なんだいこんなもの。」最初に宮川君がふき出した。
「昨日夕方この端書が来ましたの、あたしに裁判所へ来いつてんでせう。私もうこはくてこはくて、
「何も心配することがないぢやないか。」種田君は微笑み乍ら云つた。
「だつて未決とやらへやられるつてぢやありませんか。」
「馬鹿な、そんな事が。」私は言下に打消した。
「でも内の
「お前さんがつまりゆすられたんでせう。」
「さうですわ。」
「自分がゆすられて、自分が監獄へ行つてたまるものか。」
種田君は全く真顔で説明をした。
「此端書はお前さんに尋ねたいことがあるから出て来いと云ふんだ。何でもない事ぢやないか。証人に呼ばれたんだよ、お前さんが。」
「へえ、それぢやまた警察の
「さうだ。」
「それで先生。」お糸さんは少し落ちついた。「ねえ先生
「それこそ未決騒ぎがおきるよ。」私が話を引取つた。
「先方が何も云はんのに、君がおあしを上げたつて、そんなことは云つたつて、誰がほんとうにするものかね。」
「それはさうですねえ。」
「そんな嘘を云つちやいけないよ。」宮川君も側から口を出した。
「だつて跡がこはいんですもの。」
「跡がこはいからつて。それよりは明日の事だ。明日丈のことは正直に云つてしまへば、お不動様も何もありやしないよ、」と私が云つた。
「それぢやすぐ未決などへやられることはありますまいか。」お糸さんはまだ不安げに念を押してゐる。
「大丈夫さ。心配することはないよ。両先生が後見して下さるんぢやないか。」草香君が此話の
「それで内での相談に、どうしたらよからうつて姐さんといろいろ考へましたの、何んでもこんな事は先生方におきき申すのが一番早いと思ひまして、電話でお伺ひ致しましたんです。あたしの様なものが上つて御迷惑かと存じましてね。ああ、もう之れですつかり安心致しました。」と何遍も何遍もお
「先生へ御礼はどうするんだい、」宮川君がそろそろからかひはじめた。
「いえもうなんなりとも、」とにつこりした。
こんな時でも此女には
その次にお糸さんに遇つたのは一年ほど経つてからであつた。東京座で団蔵の師直と梅幸のお岩とが呼物で大層な景気であつた。私は家内と子供をつれて見物に行つた。其日お糸さんも三業組合の連中で私達のつい傍の
「あすこの土間で、お
と指さして居ると、おもちやもふつとこちらを向いた。お糸さんはおいでおいでをした、「なあに。」と云つたやうなこなしをして私の方へ桝の枠をつたはつて来た。
「栗村さんよ。おもちやさん。」
「まあ、」と云つておもちやは頭を下げた。
「大きくなつたなあ。」私は本統にかう云はずに居られなかつた。「もう立派な姐さんになつたね。」
「え、え、此頃はもう、隅におけませんよ。」お糸さんは
「いやよ姐さん。」眼のぱつちりした、額付の広いところがお酌の時のおもかげそのままではあるが、女になり切つてしまつたところが、其日の私には珍らしいのであつた。
「此人だあね、」と私は家内を振り返つて、
「歌さへ歌はなけりやいい人だと云つたのは。」
「さうでしたか、」と家内も笑つた。
「そんなこと、まだおぼえていらしつたんですか、」とおもちやも笑つた。
次の
「可愛いお嬢さんですこと、本統に可愛いんですこと、」
と云つて娘の手を引いてくれた。私達もその跡についた。楽屋のうす暗い二階を上つたところに祭壇がある。
「何を願つて来たの、どうかいい人を授けて下さいかね。」
「商売繁昌をお願ひ申したんですわ。」
「ここへ来てもまだ慾張つてゐるんか。」
「一番当りさはりがなくつていいでせう。」
「神様の前に当りさはりを考へてゐるものがあるものか。」
「当りさはりつて云へば、いつかはいろいろ御心配をかけまして、あの裁判の事で。」
「どうしたね。種田君から一寸聞いたけれど。」
「お蔭様でねえ。あたしお話伺つてすつかり安心しちまひまして、夕飯まで遊ばせて戴いたんでせう。帰つたのが十時頃でしたわ。内ぢやお昼過ぎに出たつきりなもんですからどうしたんだらうと云つて心配してゐましたつてさ。私の顔を見るとどこへ行つてゐたんだよつて、姐さんが申しますの。これこれだと話をすると、それはまあよかつたと皆が喜んでくれましてね。それでもあたしばかりそんな呑気に御馳走になつたりなんどしていいけど、内ぢや大そう心配して居たんですから、姐さんの前へきまりがわるくなりましてね。」
「それで裁判所へ行つたの。」
「ええ、行きました。午前九時つてますから、一生懸命に朝起して出かけましたの。十一時頃まで、あの廊下の椅子の処で待たされて散々になつちまひました。判事さんの前へ行きますと、お前は誰だつて、大そう威張つてねえ。」私達はもう舞台の廊下に来て居つた。
「それから………と云ふ者を知つてるかとおつしやいますから、へいと申しました。どうしておあしをやつたかとおたづねになりますから、ふだん懇意にしてますからと申しますと、懇意にしてるからつておあしをやるやつがあるかとどなられましたの、もうあたし
そこへおもちやもやつて来た。
「姐さん夢中ね。」
「ああ。あの裁判のお話さ。」
「さう。」
「大きくなつたなあ。」私はまたかうくりかへした。「いくつかね。」
「十八になりました。」
「もう四五年もたつたからなあ。」
「この頃はちよつともいらしつて下さらないんですもの。ねえ姐さん。」
「新橋の方がそりや上等ですもの。」
「そんな訳ぢやないんだ。すつかり納まつてしまつたんだよ。さうさう。此間やまと新聞かで品川芸者の評判記が出てゐたが、おもちやさんが一流の流行つ児だと書いてあつたんだ、蔭乍ら喜んで居たよ。」
「どうも御親切様。」
「しかし女はかうも変るものかね。それにくらべるとお糸さんはいつもおんなじだが、一体いくつかね。」
「もうおばあさんですよ。」
「さうでもあるまい。けれど初めて遇つたときだつて、まさか十九や二十ぢやなかつたんだからなあ。やつぱりひとりかね。」
「誰が相手にしてくれますものか。」
舞台の用意が出来たと見えて、木がはいつた。やがて幕あきのしやぎりの
私達の連中もいろいろ変つた。松田君は二年程掛かつて
二人は「桔梗」の入口の戸をあけて
「今晩は。」
「あらつ。」二人の女は等しく目をあげた。
「いやお久しう。」種田君は例の調子で、例の笑ひ方をした。
「お糸さんは。」
「居ますのよ。まあお
「お糸姐さん、お糸姐さん、」と呼んだ。そそくさと二階を下りて来たお糸さんは、
「どうなすつたの、」と云つて種田君の外套に手をかけて半ば
「全くねえ、あんまりなんですもの、」と訳の分らぬことを云ひつつ,お仲さんの袖をひいて、
「お二階はなんだしね。」
「一寸休ませて貰へばいいんだ、奥でいいんだよ、」と種田君は中腰になつて火鉢に手をかざした。
「今日は穴守の帰りさ。種田さんが気分がわるいと云ふんで、奥さんの承認を経てここへ来たんだ。あたたかくしてやつてくれ給へ。」
二人はやがて奥へ通つた。座蒲団が薄いからつて二つも重ねてくれたり、火鉢は二つで足りないつて三つに火をかんかんおこしてくれたりして、お糸さんは一人でせかせか働いて居た。少し落付くと種田君も気分が直つた。お
「まあこれでも抱いて、お寝巻をおひきなさいまし、本統にびつくりしましたわ。それでも忘れて下さらなかつたんですわねえ。」と云つて気をかへて、
「種田さんは長いことおわるくいらつしつたんですつて、お話は承つてをりましたんですけど、お見舞も致しませんですみません。ちつとはおよろしいんですか。まだおわるさうね。お困りですことねえ。」
「こんないい人が、こんな病気になるつてのは実に
「全くねえ。どこがお悪くいらつしやいますんです。」
「ここの辺だ、」と種田君は腰のまはりを撫でて、
「腰がふらふらするのでね。」
「まあ、どうしてそんな御病気に。」
「道楽の
「貴方にそんなことがあるもんですか。ねえ栗村さん。それはさうと少しはおあつたかくなりましたの。」
「大きに。お蔭で、結構、結構。すつかりいい気分になつた。おもちやさんでも呼んで貰はうか。」
「およろしいんですか。そんなことをなすつても。」
「おもちやが来たつて、
「あら、さうでしたわねえ、」とお糸さんは、立つて膳を運ぶやら、寂しいから景気づけにと銚子を一本もつてくるやらして居た。間もなくおもちやが来た。
「いよう。」種田君はこの
「いやよそんなに、あたしの顔ばつかり見ていらしつて。」
「
「何しろ品川で一流だからね。」
「そんなにおだてるもんぢやなくつてよ。さあ、久しぶりにお聞かせなさいな。」
「歌つてもいいかい、又蔭で何のかのと云はれるからなあ。」
「またあんなこと、もう忘れつちまふんですよ。昔のことなんか。」
「どうです。かう云ふ
「いいことよ。」
「
「さうでしたわ。そのせつはしつれい。」
おもちやは軽く
「栗村さんは。」
「歌ふさ。歌つても大丈夫かい。」
「もう決して嫌つたりなんぞ致しません。」
「みなさんに一度揃つて来ていただくといいけどねえ。」お糸さんはかう云つて、一さかりのあつた私達の連中を、一一云ひ出しては、「どうしていらつしやるの、」と
「先日松田さんがいらしつてよ。」
「ほう。」私達はお糸さんの話を迎へた。
「四五人連でおいでになつて、みんなにはいいのをあてがつてくれつて、御自分はぢきにお帰りなさいました。貴方はと申しますと、『お糸さん、私も昔と違つてなあ、どうも品川で女買が出来なくなつたよ。』つて笑つていらつしやいました。」
「さうさな、松田君も今は日の出だからなあ、」と私も云つた。お糸さんは其詞の後について、
「貴方ののがまだゐますよ。」
「へえ、あれがかい。これは驚いた。」
「今夜行つておやりなさいな。」
「松田君ぢやないが、どうもねえ。しかしお糸さん、あの頃もをりをり話したこつたが、どうしてもあの女とは気が合はなかつたね。」
「さうでしたわねえ。どうしたんでせうね。」
「やつぱりもてないのさ。
「あのひとのことで。」
「さうさ、なんでも年の暮だつたよ、ここから皆と一しよに行つたんだ、もう座敷はあいてゐないので、例の通りすぐ返らうとすると、妙にとめるんだねえ。をかしいなと思つたけれどちつとは
「そんな事がありましたかしら、そしてどうなすつたの。」
「まさかいけないとは云はれないぢやないか、いくら位いるんだと、わざと問うてやつたのさ。大したことではありませんと云ふから、之れで間に合しておけと云つて、拾円ふだを一枚おいてきた。小一年にもなる女だから、それ位のことは惜しくもないさ、惜しくつともまあ惜しくないつてことにしておくさ。けれど甘く見てやがるかと思ふと、癪にさはつたよ。」
「それでも貴方は、あの人一人つきりにしておおきなすつたわね。」
「かへたつてどうなるものか。」
「だから今夜行つておあげなさいよ。」
「もう
かうは云つたけれど、私はどんなにして居るか遇つて見たいと思はぬでもなかつた。四年もたてば、私も変つた。女も変つたであらう。どれほど変つたか遇つて様子が見たかつた。しかし突然今私が行つたら女は何と思ふであらう。私はかう云ふ種類の女に対しても常にある
「今日来て下さる丈の親切のある方なら、なぜ顔を見ずに帰つて下さらなかつた、」と云つて、口に出さぬまでも心に怨めしく思ふであらう。それ程
「何しろ今日は看護人なんだから、」と云つて、九時少し過ぎに「桔梗」を出た。
乾ききつた寒中の夜の風は、外套の袖をつらぬく程であつた。
「どうも不思議でならん、」と呟いた。
「何がです。」
「あすこの内のものの親切がさ。実に今夜なども有難い位であつた、」と種田君は
それから一年の間は私の病気の記録の外何もない。去年の十二月の初めに内のものが帝劇へ行つたらお糸さんに遇つたと云ふ話をして居つたきり、噂もなかつた。梅はもう遅く桜はまださかない今年の三月の中頃であつた。病上りの身体で少し疲れも来たから、穴守へでも行つてゆつくり遊んで来ようと思つた。友人の藤浪君と二人づれで行くことにした。
「お糸さんが電話口ヘ出ました。」と
「もしお前さんが羽田へ行つてるのなら、尋ねようと思つてね。」
「いいえ、あたしはやつぱり内ですよ。貴方がた羽田へいらつしやるの。」
「これから行かうつてんだ。どうだ、一しよに行かないかい。」
「本統ですか。」
「本統とも。」初めは本気でもなかつたが、おしまひに今これから行くから支度をして待つてをれと云ふ約束になつて電話を切つた。
「さあ行かう。」私は藤浪君をせき立てた。出がけに不意の来客などがあつた為時間が少し延びた。八ツ山下で電車を下りた。其あたりは往来の人で相変らずの雑沓だ。鉄道線路の上に
お糸さんは待ちあぐねて居つた。
「かつがれちやつたのかとも思ひましたが、電話がまじめなお話ですし、そんなわるさをなさる方でないし………。」
「どうもお待ち遠さま。」
「あら、そんなに改まつて、何ですね。もう此頃はおよろしいんですか。」
「まあ
「それはお目出度うございました。一体御病気はどんな………。」
「肋膜さ。」
「さうですか。うちのおもちやもやつぱり。」
「肋膜をやつてるの。」
「ええ、赤十字病院へ行つてますの。も二月ほどになります。」
「そりや大事な金箱を痛めて困るね。此病気は長いからな。」
お仲さんの酌んで出した番茶に喉を
館の門をはいると、女中が
「妙なお客が来ると思つてるだらう。」私は女中の方を見乍ら云つた。
「男二人に女が一人つてんだからな。」藤浪君も笑つた。
「その女もこんなに
果して女中の眼の中には判断に迷つたらしい色がただよつて居た。
「おとまりでいらつしやいませうか。」座敷の都合でもあるのか、此三人の正体をさぐる材料にでもするのか、女中はかうきいた。
「とまるかも知れんが、とにかく二時だ、御空腹と云う処だ。」
「かしこまりました、」と云つて女中は奥まつた座敷の二階に通した。
「やつぱりやせていらしつてね。」
「まあ見てくれ、こんなだ。」私は寝ながら左の腕をさしのべた。
「いたいたしいこと。あたしはこんなに、」とお糸さんは右の袖をかかげて見せた。節の短い円く肥つた腕ではあるが、女らしいふくらみがないのであつた。
「強さうだね。」藤浪君はかう云つて、
「僕はどうだ。」がんぢやうな
「いい体格だね、」と私は惚れ惚れしてそれを飽かず見入るのであつた。
私はだんだん眠けがさして来た。お糸さんと藤浪君とはいろいろ面白いことを話合つて居る。
「ぢや今はおひとり。」お糸さんが藤浪君にきいた。
「独りだ。先月八人目の
「どうなすつたの。」
「何にもしないが逃げるんだ。」
「そんなことがあるもんですか。」
「実際だ。八人のうち、二人に死なれて、六人に逃げられたんだ。どうかと云つて手を合せて拝むんだけれど、みんな逃げてしまふ。それも僕の景気のいい時ならいいんだが、もう為方がないときばつかり騒ぐから、逃げて行く女に手当もやれずさ。」
「逃げて行くやうな女でもかはいいものですか。」
「そりやさうとも。僕の方ぢや決して憎くないんだからね。ああして僕をすてて行つても女の身で差当り困るだらうと思つて、どうにか出来るまで辛抱して居てくれといつでも頼むんだ。女と云ふものは
「奥さんと別れたとき、おさびしくはなくつて。」
「それは寂しいさ。ああまたひとりものになつたと思ふと、世の中がまつくらになるやうに思ふね。」
「それでも新しい
「さあ。さうだが前の女もやつばりかはいいね。」
私はこんな会話を半意識的に聞いて居た。先月私が伊豆の転地先から帰つて来ると藤浪君が留守中のことを話した。その後で茶を酌み乍ら、藤浪君が女房を離縁したと云ふことを自分から云つた。
「僕を
「無茶のことをするね、君。」
「なあに金が出来れば又どうにもなりますよ。さうだが今の僕の境遇ですから困るんです。」
かう云ふ藤浪君の態度は、今は貧乏故、すてて行く女に手当もやられぬことを
その
「姐さん五勺でいいから、」と藤浪君は酒を
「景気をつけよう、」と云つて独りで陽気になつて居る。私も起きて箸をとる一人となつた。
「こちらのお話は面白いですねえ、」とお糸さんは私に話しかけた。
「本統に奥さんがおありなさらないの。」
「なあにいい加減のことよ。それでも君がどうかしたいつて云ふんなら。」
「あたしがどうしようたつてねえ、貴方。」お糸さんは藤浪君を見てはれやかに笑つた。
「僕の方はすぐでもいいんだがね。ただいつまでもくつついて離れないつてのが欲しいよ。お糸さんならそこは確かだらうと思ふ。」
「わかりませんよ。景気がわるくなると逃げだす方かもしれません。」
「
「そんな気のきいたものがある位なら。」
「ないつてことがあるかね。」
「ほんたう。そんなものがあれば大変ですもの。」
「何が大変なんだ。」
「うちがですよ。それはなかなかむづかしいんですから。」
「むづかしいつて、お糸さんは『桔梗』の娘分だらう。」
「ええ。」
「それでどうして。」
「とても駄目なんです。もうあきらめてゐますわ。」
「あきらめる年でもあるまい。一体いくつになるね。」
「あたし、じこくのみです。」
「
「いいえ、おなじ巳でも一白や三碧とはちがひますの。縁の薄い星ですつて。」
「僕もじこくのみだ。ぢやお糸さんも二だね。僕もやつばり星にまけてるんだ。」と藤浪君が云つた。
「貴方も星まはりが悪いんですわね。」
「じこくのみは三十二か。それならまだ盛りと云ふもんだ。今の内ならどうにもなるだらう。」
「もう遅うござんすわ。考へてごらんなさい。どんなかたが来てくれますか。殿方で三十五六で独り身だと云ふ方は、何かそれには訳がありませう。」
「さうさなあ。女房にさられたとか、
「だもんですから考へて見ますと、おそろしくなりますの。と云つてまさか二十代の人ももてませんでせう。」
「それもさうだな。けれどさうしてゐたら、心細くはないの。」
「たよりないとも思ひますわ。行先のことなど考へますとね。けれど男の方ほど
「浮気もの相手の商売をしてゐるから、そんなところが目につくんだ。」
「僕はまた女ほど宛にならんものはないと信じて居る、」と藤浪君が云つた。
「さうぢやありませんよ。女の方がまだたしかですよ。」
「君がさう云つても駄目だよ、」と私は藤浪君に云つて、
「お糸さんは、女買にゆくときの男を知つてる丈で、まじめなときの男を目に入れないんだから。」
「大さう話がむづかしくなりましたこと。あ、貴方の
「さうかい。一ぺんあひたかつたな」
「うそばつかり。これですもの、殿方はあてにならないわ。」
食事を終つた頃私達の隣の間へお客が来た。間の
「やつてるなあ。」藤浪君がおさへる様な声をして笑つた。
「そんなに
日脚が短い。五時にはあかりがついた。夜の商売だからと云つてお糸さんは帰り支度をした。そこまで送らうと云ふので三人揃つて出かけた。
「貴方方おまゐりは。」
「稲荷様なんぞどうでもいい。」
「でもあらたかですよ。」
「心願するかね。」私は藤浪君を振り向いた。
「例の一件が成功する様につてか。」
「とにかくいらつしやいな。」お糸さんは
「なにするんだい、」と私が問うた。
「これですか。お砂を戴いて行きますの。之を庭先にまいておきますの、商売繁昌のおまじなひに。」
それから本堂の前へ出た。そこにもお糸さんはお参りをした。私達も引きつけられたやうになつて、真実心でお参りをした。
「お
「もう沢山ですわ。いろいろ有難うござりました、」と云つて二歩三歩お糸さんはあるいたが、
「今夜いらつしやらないの、」と云つた。
「ああ、病人だからね。」
「さうでしたわねえ。ぢやしつれいします。どうぞお近いうちに。」
私達は赤い大きな鳥居の傍で、お糸さんの小走りで帰つて行く後姿を見送つた。
(明治四五・六・八―一〇稿/「スバル」明治四五・七/『畜生道』所収)