瘢痕

平出修




 躍場が二つもある高い階段を軽くあがつて、十六ばかりの女給仕が社長室の扉をそつと叩いた。
「よろしい。」社長の松村初造はちよいと顔を蹙めたが、すぐ何気ない風になつて、給仕を呼入れた。
「あの、田代さんからお電話でございますが。」
「うむ。」
「只今からお伺ひいたしたいんでございますが……。」
「居ると云つたか。僕が、ここに。」松村はうるささうに中途で給仕の詞を遮つた。
「いいえ。あの……」給仕はおづおづしながら、
「何とも申しません。お待ち下さいと申しまして……。」
「ぢや。」松村は考へて、
「まだ会社へお出かけなりませんて、さう云うてね……。」終の詞をやや優しく云つたので、給仕はほつとして出て行かうとした。
「ああ、おい。」松村は給仕を呼びもどした。
「それからね、桑野が居つたら、ここへ来いつて云ふんだ。」
 彼は此一日に於てしなければならない仕事の順序を考へた。何より急ぐのは、長い間の経過をもつてゐて、近く三日前から急に差迫つて来たある埋立工事の事業資金調達仲介のことである。出資者は金を出す、事業経営者は二流担保ではあるが担保を出すことまでは極つたが、貸借は直接関係でしたくはない。それは金主と事業者との間に一面識もないからであるのと、も一つ複雑したいきさつが纏はつてゐるからである。もともとこの話は松村と同窓の友人である白川奨の口から始つたので、白川は此資金が産む果実をとつて、自己の担任せる訴訟事件示談金の財源にしようと企てた。彼は出資者たる戸畑を相手として進行して居た訴訟を示談によつて終結させたいと思つて戸畑側と熱心なる交渉を重ねた結果、戸畑は五万円迄の資金を白川が確実なりとし戸畑の腑にも落ちる方法によつて支出する。それによつて得た利益は白川の自由に処分せしむる代はりに白川が依頼されてある訴訟は取下げて示談にする。かう云ふ成行から引出し得べき資金の利用方法を白川は松村に相談し、松村は之を間接には自分の信托会社も関係のある埋立工事の事業資金に廻さうと計画し、経営者と金主との間に立つて、自分は一面借主となり一面貸主となつて、三面的紛糾を解決しようと試みた。徐々に話は進行して行つて、白川はたうとう戸畑を説き伏せて、五万円の現金を三日前に信托会社へ持つて来た。
「さあ松村さん、やうやく金は出来た。今日納めて貰はう。訴訟の相手方から資金を出させて、それで利益を生ませて、その金を示談金に向けるなんざあ、一寸ない形式だね。実に骨が折れたよ。こんな仕事は俺だから出来るんだと云つてもいいよ。俺はいつも至誠で行く。赤裸々だ。掛引なんどを用ひない。示談は相互の利益なんだからねえ。」
 しかし松村はおいそれとその金を受入れることが出来なかつた。白川が苦心談を聞いてゐるのさへ座に堪へない程であつた。と云ふのは代金の証書としては会社の手形で松村と、も一人奥田と云ふ松村の同僚の裏書が条件となつて居た。白川がそれを確めたとき松村は無造作に承知して居たのであるが、まだ奥田の承諾を得てなかつた。それに貸出の方なる事業者から徴すべき担保物の調査も届いて居ない。白川が必ず引出してくると云つて居ても、其云ふことをあてにしていいかどうかといふ狐疑心と、人を見くびる彼の高慢心とが、茲まで話が急転して来ようとは思がけない処であつたからである。否思ひがけない処でないにしても、彼は十分なる位置に自分を置く――即ち先づ白川をして金を作らせる、其上に自分が働き出すことが自分の十分なる位置を占めることであると打算する勝手な考が、かなり彼の方針の上に活躍して居た。これは彼には常套手段で、時には無貴任な仕打であるとも見えるのである。
「今日すぐ取引をすると云ふのかい。」
 松村は白川にかう云つた。
「今日やつて貰はなくつちや。俺の方でも本人があるのだし、金の性質は君の知つてる通りの訳なんだからねえ。」
 これで数ヶ月の苦心が成就の果を結び、白川の肩の重荷が取り去られると思つて、外に何もわだかまりのないことに安心して来たのであるから、妙に渋り勝な松村の詞を聞いてはあせり気味にならざるを得なかつたのである。
「君あ、まだ埋立工事を見ないんだらう。」松村は落着顔に話を転じた。
「まだ見ないんだ。見なくつても構はんぢやないか。」
「実はねえ。」松村は真面目になつて、声をひそめた。
「奥田にもまだ見せてないんだ。一遍見せてからでなくちや話がまづいからね。」
「それは困つた。そんな話ぢやないんぢやないか。」
「君の方があんまり急なんだ。君の方で出来たと云ふことが確になつてから、三四日は置いて貰ふつもりでゐたんだ。掛引上大変に損得があるんだからねえ。こんどの借主どもに対する方策としてもだ、さうせかれちや実際困らあね。」
 彼はかう云つて軽く笑つた。親しい友人に対するある情味が閃かぬでもなかつた。
 白川は仕方がないと思つた。
「ぢや、奥田さんに来て貰はう。金主の代人の人も一緒に来たんだから、少し待つて居てもらつて、現場を見て来ようぢやないか。」
 かうして三人が自動車を※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)やとつて近い郊外へまで行つて、工事施行の場所を一巡して会社へ帰つたのがもう四時を余程過ぎた頃であつた。白川は奥田の進まぬらしい顔付を見て、多少の不安を思つて居た。
 それからの二日間は松村の手都合の為に白川は空待からまちをした。日歩は払ふと金主に約束して金主をも待たすことにした。此間に松村は借方即ち工事経営者を呼び寄せて担保や報酬の交渉をした。此方ももとより異論なくきまつた。ただ残つた問題は奥田の裏書である。奥田の意嚮を確めもしないで白川や戸畑に松村が承諾の意思を洩らしたことが奥田の反感を招いたらしい。事業は屹度成功する、貸金には担保がある。戸畑に対する責任は手形の振出人たる信托会社と裏書人たる松村個人とがある。奥田に迷惑をかけることは決してない。僅か五万ばかりの金で、この松村がどうなるものか。彼れ松村はかくの如く思つて、奥田の裏書の責任を軽視した。一言云へばすぐにも奥田は承知するであらうと高を括つて松村は、白川に調金を奔走させて居た。金は出来た、借手の方もきめた、いざとなると奥田の態度がはつきりしない。どこまでも厭だと云ひ切りもしないが快く裏書をしさうな様子もない。
 松村は給仕に支配人の桑野を呼びにやつた後で、ちよつきのかくしから用箋に書いた書付を取出して、一通り読みかへして見た。書斎の机の上で、今朝出掛に有合せの赤いんきで書いた覚書である。と人の来た気勢けはひがしたので彼は首をあげて入口を見やつた。桑野が来たのである。それに、も一人桑野のあとからはひつて来たものは白川弁護士であつた。松村は白川の顔を見るとふつと「いやだ」と云ふ気が注した。
 彼と白川とが明治法律学校で学んだのは十年以前のことである。卒業後白川は弁護士を開業し、彼は松村家へ養子となり、養家の財産を資本にして二三の事業を経営した。相互信托株式会社も其一つである、二人は当初親しく往来して彼の事業の創始の際などは、白川はかなり立入つた相談にも与つたのである。追々彼の実業界に於ける声望が高くなり、交際範囲が広くなるにつれ、彼は多忙の身となつた。会同交歓するにも大方彼の事業に利害の関係ある人々と一緒であつた。二人の間の親しみは疎くすると云ふ考もなしに疎くなつた。精神的に心の合つたと云ふでも無し、趣味も性格も余り似通つて居ない、養家の資産を土台にして今多少の羽振がいいからつて利害の友の外に旧歓を思はない様な心意気が白川には面白くなかつた。用事がなければ行く、さもなければ忙しい彼に忙しい時間を割かす程の必要もないと思つて、多少の嫉妬とひがみとを交へた感じで白川は疎々しくなることを望ましい事とは思はぬながら足は彼の門から遠ざかつた。あんなにいきばつて居るが、一つ蹉躓が来れば利害の友はみんな背く。いつそそんな時がくれば面白からう。どんなに孤独を感じ、どんなに寂寥を覚えるだらう。その落目の場合に、俺は行く。行つて初めて俺の至誠を彼に滲み透らさせて見せる。白川はこんな残虐を想望することすらあつた。この様な仕向けが白川の処世の上に不利益であり、又松村の為にも残念なことであると云つて、白川の幼な友達で松村の腹心の使用人となつてる桑野は屡々白川と云合つた。初め桑野を松村へ近付かせたのも白川なのである。
「貴方はなぜ大将に近づいてくれないんです。結局の処は……。」桑野は溢れるやうな熱心を以て畳を叩くやうな手付をして云ふのである。
「結局の処は、損がないぢやありませんか。」
「それはさうさ。」白川は仕方なしにかう云ふものの、反感を抑へることは出来なかつた。
「けれどもねえ、いやだからねえ。おちやまいすたれるやうに思はれるのも、いやだからねえ。松村君はえらくなつちまつて、俺なんぞ眼中に無いんだ。」
「さう思ふからいけない。学校時代の友達で一番親しくしてゐるのは貴方でせう。貴方が訪問したとき、いつだつて大将が悪い顔をしたことがありますか。そりや大将も悪い。本統に死身になつてくれる人を見つけようと云ふ気が無いんだから。しかし貴方だけですぜ、『君つ』と云つて来れる人は。『白川が来たよ』つて、大将は貴方の噂をして喜んでゐますよ。本統[#「本統」は底本では「本続」]ですよ。」
「それは俺も知つてるんだがね。」
「まあとにかくやつていらつしやい。悪いことは無いから。実際心細いんです。仕事は忙がしくなる、手は拡げる。しつかりした相談相手といつちや僕だけでせう。」
「それでも気がついて居るのかい。」
「そりやね。僕と二人つきりになると、打明話があるんです、あの位利口な人ですから、満更のほほんになつちやゐませんや。」
 こんなことが度々重なつたので、白川も我を折つて此度の相談をもちかけて行つた。
「私もねえ、かうして居れば、かなり贅沢にくらしては行けるがね。まだ仕事がし足りないんだ。片手業と云ふのもをかしいが、どうでせう、少し働いて見たいんです。何か貴方の仕事のうちで私でやれさうなものがあつたなら、分けてくれませんか。」ある時白川はこんなことを松村に云つたこともあつた。十分に打解けるつもりでゐてもこんな生真面目な話になると「君」とは云はないで「貴方」と云はなければならないのを白川は本意ないことに思つた。
「さうかい。君がさう云ふ希望があるんなら……。」松村はややしばし考へて居たが、
「東洋演芸などはどうかね。」
「あの八重洲町にある会社でせう。」
「さうさ、あそこに専務がいるんだ。僕は推選を頼まれてるんだけれど。」
「面白いですな。あれなら私に適任でせう。敢て自ら薦めてもいいと思ふんです。」
「まあ考へておこう。あすこも今社債問題で悩んで居るんだ。僕が……」
 話の中に電話の呼鈴がなつた。松村は起つて之と通話を済ませて、
「これがあの問題だ。もうすつかり出来たところを、あの川下のやつめ、ぶうぶう云ひ出しやがつて、之から一つ怒鳴りつけてやらう。」
 会ふことがしげしくなるにつれて二人の友情はよみがへつた。松村もだんだん白川を手近く引寄せたいと思ふ様になつた。
 白川の顔を見るなりふつと厭な気がした松村はすぐ気分をかへて笑を浮べた。けれども眼ざとい白川はこの刹那の変化を見のがしはしなかつた。しかし、それを憎む心もちにもなれないのみならず、むしろ松村の苦しげな内心の動揺に自らの胸のふるへを覚えた。彼にはまだしびれきらない真心が閃いて居ると思はれたからである。
「いや。」松村は軽く会釈した。
「いや。」同じく鸚鵡返しの挨拶をして白川は桑野の勧める椅子に凭つた。
 前に事務用卓子を置いてあるきりで、装飾とては一つもない十畳程の洋室には、三月の朝の日ざしが麗しく窓を通して、斜な光を投げて居た。
 松村は真向の椅子に身を任せて、綺麗に刈つた口髭を撫でながら云出す詞の端を手繰つて居た。肌の濃かな、男にしてはにやけすぎる程色の白い彼の頬は、心もち紅をさしたかと思はれるやうな、うつすりといい感じの色がいつもただよつてゐた。ふつさりと柔かい髪の毛を真中からきれいに左右に分けて、細目のずぼんの縞のもうにんぐを行儀よく着こなし、すらりとした身体を鷹揚に運んで居る処は、寔に上品な紳士である、否さながらの貴公子である。然るに今日は全く彼はやつれて居た。引続いての多忙と、引続いての寝不足とが、彼の顔色を蒼ざめさせ、生際はへぎはのあたりにいくらかの雲脂ふけさへ見える。美しい彼の頬にもすさんだ色があらはれてゐた。
「丁度いいところだつた。僕はまた出てこなきやならんので、桑野君に。」
 松村は目を桑野の方へやつて、卓子の上に展げてあつた覚書の紙をまさぐりながら、
「これを今朝書いて置いた。白川君が見えたら此点に就いて、君と相談して置いて貰はうと思つてね。」
 と云つて彼はそれを白川に見てくれと云ふ風に少しく紙片を押しやつた。
 白川は何を書いたものやら想像もつかなかつたので、
「なんですか。」
 さう云つて紙の向きを自分の方に直して黙読した。
 其大意は、甲なる戸畑と乙なる某との間に起りたる訴訟関係は当会社の何等の与り知る処でない。然るに此訴訟関係を解決する方法として当会社が約束手形の振出人となることは理義に合はない。当会社はどこまでも仲介者の位置に立ち保証的の貴任丈を負ふべきに由り、主債務者を他に求められたいと云ふのである。此外に約束手形の期限のことなども書添へてあつた。
 白川は読み了つて之を桑野の方へ渡し、この覚書の意味がどこにあるのであらうかと云ふことを考へざるを得なかつた。しかし一言の下にこの理窟を打ち破つてしまつては彼は面目を失ふことの代りに話は手切れになつてしまふおそれを思つて見た。で白川はさぐりをいれるつもりでかう云つた。
「これによると、誰かが主たる債務者にならなけりやならんと云ふのですね。」
「うむ、どうもねえ、それが本統ぢやないかと思ふんだが……。」
「誰がなつたらいいのですか。」
「誰でもいいだらう。君の方の本人だつていいぢやないか。」
「さうですなあ。」白川はわざとよそよそしく云つて桑野の方を見ながら、
「君も知つてる通り、あの戸畑にそんなことが解らうはずがないんだ。どうもね、あんな解らない人間は滅多にありませんよ。何か一寸としたことでも話がかはると、『まあ考へて見ませう』つて、二日も三日もぢつと考へ込むんです。狸爺がなんぞ云つて、あいつがわざと解らない振りをするんだなんて云ふ人もあるがね、さうぢやないんだ。全く呑込みがわるいんだ。ここまで話が進行して来たのを、根本からひつくりかへすとすると……。」
「根本からぢやないんぢやないか。責任者はきまつてゐるんだから。」
「そこですよ。あいつは約手で振出が誰で、裏書が誰でと云ふ条件ならと云ふので承知したんです。それが変更することになると、まるで違つた話になると云ふんです。それはきつとさう云ふに極つてゐるんです。」
「困つたおぢいさんだなあ。」
「それだから話がむつかしかつたんです。何でもこの行き方ですからなあ。」
 二人は顔を合せて苦笑した。桑野はただ黙つて二人の云ふことを聞いて居た。白川が例の端的な気性で、ずんずん切込んで行つて、談話を議論にしてしまひやしないかと、危んで居ながらも口をさしいれる隙を見出さなかつた。松村は追々時間が経過して行くことをあせつた。十時には築地の某倶楽部に会見する約束がある。早く話を切上げてそこヘ出かけなければならない。詞のうるほひつやも工夫して居るのがもどかしくもなつた。
「とにかく、会社が仲裁人の位置に立つてのはおかしいぢやないか。」彼はずぼんのかくしのあたりへ無意味に手をやりながら、いくらか思切つて云つてのけると云ふ風を示してかう云つた。白川は我儘なことを云ふ男であると思つても、しかも今迄下手に出て居たのであつたが、かう云はれて見ると、一つ云ひこめてやらなければならないと云ふ気になつて来た。ふだんはおとなしい心の弱い性で居ながら、相手がかさにかかつて来るとなると、何ものも恐れないと云ふきかん気が此男の頭の中に燃えたつのである。
「さう貴方が云ふんなら、私の方でも一寸理窟が云つて見たくなるんだが……。」
 白川は袂から手巾を取出して口のまはりを拭いた。
「一体私は貴方を苦しめに此相談を持つて来た積りではないんで、どうです俺の技倆はと云つて意張つても見たり、甘くやつてくれたと貴方から喜んで貰へると思つて、私はこの金を持つて来たんだ。」
 云ひ切つたとき脈管内に湧きたつ血が頭にのぼつて行くのであらう。身うちがぞつとするやうに彼は感じた。
「しかしねえ、私は最初から事件の仲裁は貴方に頼まない。これ丈の資金があるが、何とか利殖の方法があるまいかつて君に相談したんでせう。その時私が只突然に五万円の資金があると云つた処で、君は信用しまい。それを説明する為に訴訟の関係を話した。つまり沿革を説明したんだね。君は此金を受けいれて、私に約束の報酬さへくれれば、その報酬で、私がなにをしようとも、一切自由なんだ、訴訟の解決に使はうが地所を買はうが、相場をしようが、私は貴方からかれこれ云はれる気遣はない積りなんですから……理窟を云へばまあかうだがね。」
 白川がこの一転語を下したとき桑野はほつとした。白川は世馴れた口調に調子をかへて、さつきから、額に苦悶の影を漂はせながら相返答もせずに彼の議論を聞いて居た松村に
「それで結局私が聞きたいのは、君の本統の心持だ。いくら私が金主側を説破して来ても、貴方が本統にやる気がないのなら、これは駄目なことなんだ。これまでになつて此話が破れれば、私は金主に対して済まないことにもなるが、それはまだいいとして、私の本人に申訳が無いし、相手方の代理人の大草さんにも顔向けが出来なくなる。私は全く切腹道具なんです。しかし貴方を義理責にして自分だけは助かりたいとは思つて居ません。兎に角本統にやる気なんだか、どう云ふんだか、掛引のない処を云つて下さい。」
 かう云つて白川は自分の本意でない方向へ話がれて行つて、松村を正面から責めつけて行かねばならなくなつたことを、口惜しいことに思つた。
「それはやる。」
「本統ですね。」
「さうだ。本統だ。」
 この時吐いた松村の呼吸は腹の底から出るやうに感じた。之が俺の本心である、どこまでもやると覚悟をしてしまへば、手形の形式はどうでもいい。もともとこの手形は外へ廻さず、取立には交換にもかけないと云ふ約束なんだから、会社の名誉が外から損はれる訳はない。奥田の裏書と云つても、もし俺が親身になつて、どうか頼むとさへ云へば、反感もれるであらうし、承諾を得ることも必ず出来得るんだ。白川をここまでびきよせておいて、ついと引つ離してしまつては彼の立場は全然失はれるであらう。仮定の条件をも一度変更して来てくれと云つて白川に難題を背負せおはせることは残酷な仕打とも云へる。此残酷な仕打を避けて、白川に此上の難儀をかけまいとするには、俺が頭を奥田に下げさへすればいい、会社の面目の極めて小なる部分を犠牲にしてしまへばいい。
「赤誠を以つて事にあたればいいのだ。」
 松村の衷心の声はかう云つて彼の決心を促した。けれども彼はまだ懸引から抜け切ることが出来なかつた。出来る丈け体裁よく、出来る丈け有利な方法が取り得られるならば、まづ其方法に出る。結局の方針は腹の底に押し沈めて置いて、白川をして十分の苦心と努力をつくさせる。赤誠はいつでも出せる。それを出すには、今はまだ時機でない。彼はたうとう頭を擡げかかつた彼の衷心の要求を無理から押へつけてしまつた。
「それでね、桑野君ともよく打合せをして置いて下さい。僕は約束があるんで。」
松村は腰を上げた。
「東洋演芸の件ですか。」と白川は問うた。
「うん、あいつが今日纏りさうになつて来たんだがね。何しろ悪いやつが中にはひつて居るものだから、困つちまふよ。」
「どうもねえ、柄の悪いやつを相手にすると、話がむつかしいものだからね。」
「ぢや君よろしく。桑野君、いいかい。」
「え。」桑野がかう云つたとき、彼の姿のいい後影が扉の口に動いて居た。

「どうも困るなあ。」白川は、姑くたつて、独言のやうに呟いた。桑野はどこまでも真面目である。
「なんでも無いことなんですがなあ。責任を負ふときまつてしまへば、形式なんぞはどうでもいいんです。」
「しかし松村君はあんまり勝手すぎるよ。この形式だつて、一一意味が通じてあるんぢやないか。」
「処が大将も思違をして居たらしいんです。昨夜になつて、僕を電話で呼んで、手形の形式はいいかつて云ふんでせう。お指図通りに話をして置きましたと答へておいたのですが。困つたことになりましたなあ。」
「私もね。よつぽどやり込めてしまはうと思つたんだが、さうすると折角の話がめちやめちやになるし……。だが本心をつきとめて置いたからまあいいや。又一談判やるんだねえ。」
「さうです。結局やつてしまはなくちやならんのですから。大将だつてよく解つて居るんですが。」
 しかし考へて見ると、白川はあきたらなさを思はざるを得なかつた。自分のこれほどの熱心がまだ松村を動かすに足らないのであらうか。自分からいくら隔をつて向つて行つても、彼はやはり利害の友としか見てくれないのであらうか。さつき話をして居る間でも、自分と彼との地位が著しく懸けはなれて居て、自分は始から終まで圧迫され器械視されて居た様な気持がする。自分と彼とはそれほどに違はなければならない地位であらうか。彼から養家の財産をとり除いてしまへば、彼はむしろ自分の下位に立つべき人物ではあるまいか。彼に金の勢が添はつて居る計りに、自分からしてが、いくらか彼を上に見ると云ふ卑屈な心にもなり、彼からは大に低く見下ろすと云ふ高慢な心にもなるんだ。一度下手に出てしまへばどこまでも押し潰されてしまふ。潰されたままにたいした憤慨もせずに平伏してゐざりよる。これが男の面目の堪へ得る処であらうか。彼から見れば自分は何でもない。此儲話が成否何れにかきまりがつけば自分は又関係の無いものとなり、彼からは全く用のない人間として取扱はれるのであらう。さればと云つて今自分がどんな反抗的計画を企てたところで、彼を痛い目に合はすことも出来ず「白川を優遇しなければならなかつたんだ」と思ひませることも出来ない。小さい我を張通して断然彼の力を藉ると云ふ事のすべてを撤回してしまふか、或は何事も大呑込に呑込んでしらじらしく彼に喰ひ入つて行くか。自分にはこの二つの途しか行く処が無いのである。
「どうでもいいさ。結局。」白川はいらだたしげにかう云つた。
「屹度やらせませう。ここは我慢のしどころですよ。さつき貴方が切込んだとき、大将の頭にぴゆつと来たやうでした。あれで腹の強い人ですから外見にはなかなか見せないが、余程苦しさうでしたよ。いや、時にね……。」
 桑野は火鉢の前に手をかざして、背を丸くしながら、少し声を細めて、
「妙な相談を持ちかけられて、僕あ思案にあまつて居ることがあるんです。」
「なんだい。大将がか。」
「いいえ。大将ぢやないんです。若いのが……。」
「細君。」
「さうです。どうせ貴方の智慧を借りたいと思つて居ましたがね。」
「どうしたんだ。」
「いやね、あの……。まあ大将が少し考へればいいんですよ。いつだつて十二時前にや帰りやしないんですからな。」
「まだ遊ぶんかねえ。先日なんだぜ『もうつまらないから止めたよ。しかしなあ、段段こすくなつてくるわあね。人の色をそつと盗むなんてことを考へるからなあ。』なぞ云つて居たつけ。」
「ところがさうぢや無いらしいんです。此頃は僕にも内所にして居るんですから、真相はよく分らないのです。若奥さんが独りで気をもんでゐるのです。」
「をかしいなあ。あの細君がくつてことは。つい此程もうちの家内と話して居たんだ。『松村さんの奥さんこそは呑気なものだ』つて。何しろあの調子の人だらう。男が交際上から妾ができる位は当り前だと思つてるんぢやないか。それが実にをかしいなあ。」
「処が御本人はすつかり考へこんでしまつてね。『私も思案をきめておかなければならない。』とか何とか云つてるんですよ。」
「そいつあ、困つたなあ。誰が目から見ても容姿きりやうぢやちよつと過ぎた良人だからなあ。細君の方で反抗したつてそれあ駄目だよ。」
「さうですつて、そこなんですよ。御本人あ、いろいろ煩悶していらつしやるつて訳なんです。あははは。」
 桑野は笑つたあとで、すぐ真面目になつて、
「実際気の毒なんです。一昨日かう云ふ相談をかけられたのです。貴方も知つていらつしやるでせう、あや子と云ふ女。」
「一度だけだ。それも三年も前のことだ。まだつづいてるのかい。」
「僕ももう切れたこととばつかし思つて居たのでしたが、どうもさうで無いらしい。
 と云ふのは一昨日の話です。どんな相談があるかと思つて行つて見ますと、若奥さんが僕を小蔭によんで、
『桑野さん。貴方に相談があるの。こればつかりは誰にも云はないことなのよ。それはねえ、うちの旦那のこつたがねえ、毎晩一時つて云はなきや帰らないでせう。いろいろ忙しいことがあるのですから仕方もないが、又例の病気にでもなると悪るいしするから、いつそのことあや子をお妾さんにしたらどうだらう。』
 相談と云ふのはかう云つたことなんです。」
「そんな馬鹿なことが出来るものか。」
 白川は桑野がこんなことを問題にして居るのをむしろ歯痒いことにも思つた。
「僕も無論さうは云つて置いたんだが、しかし若いのの考へでは、いつそさうもしたらばと云ふ気になつて居るらしいんですつて。」
「細君がかい。」
「さうです。あや子が直接話しこんださうなんですよ。私がおつきして居た方が旦那のおからだのおためでせうつてなことを云つて、甘く丸めつちまつたらしいのです。」
「世間知らずだからなあ。細君は誤解して居るんだな。妾にして置いて、それをお茶屋へ引つぱつてあるけるとでも思つてゐるんだらう。」
「だから困るんです。一人の女を囲つてしまつて、待合入りを止めるやうな大将ぢや無し、又待合入りは、今日実際必要なんですからなあ。」
「実業界の悪い風だ、それが、待合で無きやものの相談が出来ないやうになつてるんだからねえ。しかし、とにかくその間題は破壊しようぢやないか。」
「それや僕もさう思つて居ます。それはさうするとして、遊ぶつて云ふ問題です。」
「いい加減によせばいいになあ。男はよし、金はあるし、実際もてるんだから、無理も無いや。どうもねえ、三十歳前後の細君には一度は危機が来る。松村の細君も今その危機に臨んで居るんだから、ここで余程の注意がいるのだがねえ。」
「ああいつた無邪気な細君ですから、くよくよ思つて居るかと思ふと可哀相でしてねえ。」
「君が後見をするんだねえ、まづ。そこで細君の態度だ。容貌から云つても、智識から云つても、到底対抗は出来ないことは、きまつてゐる。対抗力の無いものが、対抗して行かうとしたつてどうせ勝ちつこは無い。私に云はせればまあかうだ。どこまでも下手に出るんだ。決してりんきらしい様子を見せないでね。そしていくら遅くなつてもかまはず、優しくかしづくんだ。そして愛情を起させるやうに女の方からしむけて行けば、柔よく剛を制すの道理だからね。松村君だつて、義理もあり、憎い細君でも無いのだから、どうにか調子をとつて行くだらう、と私は思ふのだ。何しろ夫婦の間で或事の隔てがあると云ふことが一番の禁物なんだからねえ。」
「まあさうする外はありますまいね。さう云つて妾問題は破壊させませう。」
「無論だよ。一体あや子つてやつは、なかなかの腕ききだつてぢやないか。」
「大将もすかさない方だけれど、この間題だけは。」
「処でどうもをかしいよ、此話は。これは二人共謀だね、きつと。」
「かも知れません。」
「さうとすればいよいよもつて破壊だ。」
「本統に困つちまふ。」
 桑野は一寸と頭を掻いて立ち上つた。下の事務室では、もう社員が出揃つたらしく、入りまじつたものの音が、二階の静かな室まで響を伝へて来た。

 漸く客を送り出してぐつたりと床の間の前の脇息に肘をもたせて居た松村は、電話だと云ふのでまた疲れたからだを玄関傍の電話室へ運んだ。
 取りちらされた杯盤はきれいに片付けられて、桐の胴丸の火鉢も巻煙草の吸殻がはさみ出されて、白い灰が美しく盛りなほされた。酒の香と女の息と、火のぬくもりとで蒸さる様であつた室の温気は、一旦障子をあけひろげた掃除のあとで、すつかり新らしい空気と入れかはつた。三月の夜深の風はまだ人の肌になじまぬいらいらしさがある。あや子は身うちがぞくぞくして来たので、火鉢を抱へるやうにして顔を火の上にかざした。そしてしよざいなささうに火箸で灰のまはりをかきまはして居た。小柄ではあるが、美しい女である。黒瞳勝な目元が顔の輪郭をはつきりさせて、頬から口へかけて男らしい肉のしまりがある。
「おやお前さんおひとり。」
 女中頭のおさだが、ひよつこり障子をあけて顔を出した。
「姐さん、おはいんなさいな。」
「どうも……。」
 入口にうぢうぢしてるおさだを見て、
「姐さん。おはいんなさいよ。」あや子はまた促した。
 お定は中腰になつて、ゐざるやうにしてたうとう火鉢の傍まで来て、
「旦那は。」
「今、電話。」
「さう。お忙しいこつたわねえ。」
「ほんとよ。かうして毎晩のやうにお茶屋さんでせう。それで一時間ともゆつくりしていらつしやることが出来ないんだものね。」
「つまらないわねえ。なにもおかせぎなさらなけりやならんと云ふ方ぢやなし、全く因果だあねえ……。あら、ごめんなさい。」
「いやよ、姐さん。あたしが奥さんと云ふんぢやなし。」
「でもさうぢやないでせう。お前さんだけは別ものよ。」
「それはねえ。かうして長くおひいきになつてゐればねえ。もう四年になるんですもの。五月四日が始めての日なの。でね、今年は四年目の記念会を開くんですつて、なんでも旦那が呼んでいらつした芸者衆をすつかり集めちやつて……。あたしに白襟紋付を着ろとおつしやるの……。」
「なんだね、あやちやん。大分手ばなしだわ。」
「あら。」
 二人はくづれるやうに笑つた。
「景気がいいぢやないか。」
 松村は寒さうに肩をすぼめてはひつて来た、
「ねえ、旦那。姐さんに記念会のお話をしてた処なんですよ。」
「よせ、そんなつまらんことを。」
「つまらなかあないわね、姐さん。」
「ええ、まことにごちそうさま。」
 お定はまぜつかへしを云ひながら、そそくさと出て行つた。松村は火鉢の前にしやがんで、貧乏ゆすりをして居た。
「みつともないことよ、およしなさい。」
 女は男の膝をぐんとついた。男は思はず尻持をついた、そして何も云はずに一旦居ずまひを直したが、やがてころりと横になつて、肘を枕にした。
 二人は静に、思ひ思ひのことを胸に浮べて居た。と、あや子は忘れて居たものを思ひだしたと云ふ風で、
「今のお電話は、どなた。」
「白川だ。」松村は答へるのもうるささうであつた。
「白川さん。どうなりました。あの話は。」
「うむ。」
「おきめなすつて。」
「…………。」
「まだなの。随分前からの事ぢやありませんか。」
「………‥。」
 あんまり返辞がないので女は、男の傍へよつて顔を覗きこんだ、男はそつと目を閉ぢて、右の手を掌を上にむけて額にのせて居た。ねむつてるのではないらしい。
「旦那、旦那。」女は小声に、気遣はしげに呼んで見た。
「ちよいとおよつたらどう。」
「まあ、いい。」男はぱつちり目をあけると、女の顔があんまり近くさしよつてゐるので、むせかへるやうに感じられた。で、またそつと目を閉ぢた。
「旦那、どうかなすつて、おしきをさう云ひませうか。」
「………‥。」
「姐さんを呼びませう。今夜はもうお帰りなさらない方がいいことよ。」
 かう云つた女の様子は、女中を呼びさうなけはひがあるので、男はつと起上おきあがつた。
「よせと云つてるぢやないか。」声はややけはしかつた。
「さう、ぢやよしますわ。けどねえ、旦那、十一時すぎてよ。」
「うむ、帰らう。」
「おかへんなさるの。さつきのお約束は反古なのねえ。」
「なにを、下らんことを云つてるのだ。」
「下らないことぢやなくつてよ。あたしにすりや大事な、大事なことなんですもの。」
 女は蓮葉にかう云つて、細い金の煙管をとりあげ、煙草をひねつて一服つけた。
 この女には惚れたと云ふことは嘗てなかつた。いや惚れたことはあつたが、飽きの来ない恋はなかつた。十五の年から二十四になる足かけ九年の間には、買はれた男も買つた男も数少くはなかつたが、男の紋所なんぞをもち物に縫ひとらせて、朋輩の者や、ともすれば、客の座敷の前でぱつぱとのろけ散らしてる時には、彼にはもう新らしい男が択まれてあるのであつた。松村とも二度手が切れて三度目に結んだ縁が今の二人にまつはつて居るのである。もとより二人ともそぞろ心であつた。けれども男が花々しく花柳界へ出入して居る間は、女の方でも油断はなく附きそつて居なければならなかつた。二人の中がその社界しまぢゆうにおつぴらになつて見ると、女は意地にも男の心を引きつけて置かなけりやならない。それで居て女はちよいちよい浮気をした。若い役者のなにがしと立てられた噂や、田舎出の若旦那を手玉にとつたと云ふ蔭口は、全く根も葉もない事ではないのであつた。それを男に責められると、彼はちつとも悪びれるところもなく、
「ええ、さうよ。でも貴方は別ものにして置くからいいでせう。」
 女はいつも隠しだてをして押しきつてしまはうとはしないのであつた。こんな間柄になつて居るとまでは見破ることの出来ないお茶屋の女中や朋輩芸者は「あやちやんは利口ものだ」と云つて感心すると同時に「松村の旦那はちつとも御存じないのかしら」と云ふ様な目付で、男の顔を気の毒さうに見て居ることなどもあつた。男にはそれが一つの侮辱と思はれた。で、女によくかう云つた。
「俺の名前にかかるやうなことをしてくれちや困るぢやないか。」
 男は殊更に鷹揚な態度を示して、かうは云ふものの、深いいきどほりを包むに苦しさうな顔付をすることが常であつた。一思ひとおもひにこんなやくざ女を蹴とばしてしまはうといきりたつこともあつた。ただ四五年の間絶えず茶屋酒に親んで来て修業が大分だいぶんに積んで来た上の彼としては、野暮やぼ臭いことを云つて一一女の所行を数へ立てて、女房かなにかのやうに、色里の女を取扱ふことを潔しとしないやうに思つても居た。ときとすると、女が何事もあけすけに打明話をしてくれるのを、自分に対して隔意かくいがないからだとも考へ直して見て、そこに昔の大通だいつうのあつさりした遊振りを思合せて、聊かの満足を覚えることもあつた。で、女のふしだらが最も劇しく、最も露出むきだしに行はれてる間は、彼はぢつと虫を殺して之を眺めて居ることも出来た。「今に又帰つてくる。」彼は女が必ず自分の膝の前に手をさげて、堪忍して下さいと云つてくることを予期して、わざとなんにも知らない顔で、女のするがままに任せて居ることもあつた。それ故、このやうなときには、二人の間は却つて――それが心からの融和はなかつたとは云へ――睦しさうにも見えるのである。
 やがて女が一人ぽちになる。寂しさをしみじみ感じてくる。ふつと自分の左右をふりかへつて見ると、男は、その美貌と、金と、程のよい扱ひぶりと、もともと浮気な気性からとで、若いに目をかけたり、腕のすぐれた年増芸者と張り合つたりして居るのに気がついてくる、矢も楯もたまらないやうになつて、彼は男の心の逃亡を引つつかまへようとして、あべこべに男から引外ひきはづされ、縁はさう云ふときに屹度きれる。きれた縁のつながるときには、二人の親しさがもう一倍増してゐる。おなじやうな事件をくりかへして居るうちに、女は段段と男に引ずられて行くやうになり、男の方でも段段此女と離れることが出来ないやうにもなつて行く、長い月日のうちに、男が交際をして居る多くの客人きやくじんからも、怪しまれることのない、公然の間柄ともなり、秘密話ないしよばなしの一室にも、彼だけは遠慮をすることもいらないものとして、出入しゆつにふを許されるやうにもなつた。男が誰と会つて、何を話合つて、どんなことを計劃して居るのであるか、聞くともなしに聞いて居た其場の模様から、彼は段段男の仕事しごとに興味をもつやうになつた。
「旦那、お気をつけなさいよ。ゝゝさんはうす気味のわるい人ねえ。一言ひとこと云つちや旦那の御機嫌をとつて居るんですもの。」
 こんなことを云つて、彼は目付役をつとめることを自分の役目だと思つて居るらしい処も見えた。いつかしら男の仕事のすべてに対して、彼はある程度の理解と意見とを蓄ヘて、事実の中核ちゆうかくに触れた注意を、男に云ひ出すことも屡あつた。
 いろんな処でいろんな女に出くはして、手を出して見たのも数は少くないが、どの女もどの女も、男にとつては座興のやうな気持でしかつきあへなかつた。大阪から来て新橋で名びろめしたみな子と云ふ女などは、大分に長い間相手となつては居たが、気立がおとなしいとか、うそくないとか、親切なとか、云はば普通の女の普通の取なしの外になにが男をひきつけるものがあつたであらうか。取出して云ふほどのことはもとよりなかつた。つまり女は女だけのことしか考へない。惚れた男に遇へば嬉しい。浮気をされれば泣く。面白さうに笑つて、男の心をたぐりよせて、明日と云ふことなしに眠つてしまふ。寝巻姿の女だけしか目に映らない。それがあや子になると、あそび半分真面目半分で語り続ける夜も多かつた。会ふ人も会ふ人も、男から見ればみんな自己本位からの利害の関係者である。相手が自己本位であると共に、松村彼自らも亦自己本位である。話の合間合間あひまあひまにすら、少しの油断も出来ない。杯盤の間に於ても暗闘と暗闘とがひつきりなしにつづく。彼はどんなときにでも彼自らの姿を見破られないやうに、慎み深い用意を忘れることが出来ない。こんな苦しい、緊張はりきつた、いらだたしい生活が、幾日も幾日もつづいたとき、男は唸くやうになつて、女の膝に身をなげかけた。心の友を求めることに気がつかず、こんな女づれを相手に僅かな慰安を捜求さがしもとめてあるく男のみじめさは、此意味に於て哀れなものと云はなければならない。
 今夜も松村はやはり疲労困憊の人であつた。朝、白川と会つて十時に築地のゝゝ倶楽部で東洋演芸の重役と長時間の交渉を続け、昼飯もせずに二時頃までは陰忍と焦躁の為に神経を張りつめて居た。それから皮革会社創立の計画、夜は二座敷ふたざしきの客をつとめてやつと放たれた身体からだとなつたのである。帰らなければならぬ時間となつて居たのではあるが、口には帰ると云つても、さて立ち上らうともしなかつた。
「此頃は白川さんとはちよつともお遊びにならないんですね。」女は吸付けた煙管を男にすすめた。
「うむ、せはしいからねえ。」
「でも、あちらは貴方の一番のお友達ぢやありませんか。」
「さうさねえ。」
「あたしさう思ふわ、貴方はどんなことでもあたしにお話して下さるんですけど、あたしは女でせう。あたし本統に有り難いこつたとは思つてますけれど、あたしぢやだめよ、貴方の御相談相手にや、あたしなんか何にもならないんですもの。だから貴方は白川さんを御相談相手になすつた方がいいのよ。貴方おひとりで、何もかもなさらうたつて、それや無理よ。こんなにまあつかれて……。」
 女は今までにないしんみりした気分になつて来るのを感じた。其れは男の顔には艶がない。額に皺をよせてぢつと考へこむいつもの癖がきはだつて女の目をひく。
「去年の大病から、貴方は本統にならないんですわ、以前はそれほどでもなかつたんですが、このごろはぢきにつかれるのねえ。たいぎさうにふうふう云つていらつして、それでもお客の前へ出ると、すつかり度胸をすゑちやつていらつしやるの。あたしなんぞが、どう気をもんだからつてしかたがないと思つても、やつぱり気づかひになつてくるんです。」
 男は聞くともなしに、つい女の話につりこまれて一心になつて居たのであるが、思はず、
「ふ、ふん。」と冷かに少しく笑つた。
 女を嘲けるのでもなく、その云ふことが少しも彼の心を動かさなかつたと云ふのでもなく、男は只無意識であつたのであるが、女にはさうは思へなかつた。
「貴方、きいて居て下さるの。」
「きいてるよ。」
「今夜は無心を云つてるんぢやないことよ、真剣よ。」
「真剣だ。俺も真剣になつてきいてるよ。」
「ぢやなぜ鼻であしらつたりなんぞなさるんです。あたし本統に心配でならないから云ふのよ。」
 男は妙に気がめりこんでならなかつた。皮肉らしいことでも云つて空元気からげんきをつけてやらうと思つた。
「お前の心配は後藤さんのこつたらう。」
 かう云つて彼は口をすうすう云はせた。唇をまげて舌で吸ひこむのが彼のくせであつた。
「なんですつて。」
 女は自分の云つてることがちつとも先方むかうへ通らないもどかしさと、一年も前の古い後藤の名を云ひだされた邪慳さとで、無暗に心がいきりたつた。
「何を云つていらつしやるの。あたしがどうかしたと云ふんですか、何をしました。この頃になつて私が何をしました。さあ、おつしやい。ぜひおつしやつていただきませう。」
 男は今更らしく当惑した。女がひすてりつくにいきり立つてくると、殆ど押へかかへも出来なくなることは之れまでも度度見て居たことであるから、激しい発作ほつさの来ないうちに何とか云つてなだめなきやならないと思つたが、女はほんの僅かな猶予をさへ惜むかのやうにじりじりと男につめよつた。
「貴方は強情つぱりねえ。全くやせ我慢が強いのねえ。貴方は……貴方はあたしの様なやくざ女を……。あたし、やくざ……。」
 彼はもう涙でものを言ふことが出来なかつた。男の膝に半身を投げかけて、声を出して泣きくづれた。
 松村は女のするやうに任せて、ぢつと動かずに居た。そして打ち顫ふ女の房房した後髪をしげしげと見まもつて居た。
「いかにも俺は寂しい。」彼はかう思つて心に深い省察を加へて見た。売出しの少壮実業家と云はれて、俺は今若木の枝が芽を吹くやうにめきめきと世の中に延びて行く。先輩と云つても目に立つほどの人もなく、金があるからと云つて、ただそれ丈である。買被ぶられて居る彼等の信用と地位とは、遠くで見て居てこそ、素晴らしい勢力で、傑さ加減はそばへも寄りつけない程にも思はれるが、段段近寄つて見ると、どれもこれも評判倒れがして居る。学問もない、見識もない、自分の事業に関する経験や智能のない、大局の見えない彼等と比べて見ては、俺はたしかに独歩どくほの出来る才人さいじんであるとも云ひ得られる。足を斯界しかいに投じてまだやつと五年にしかならないのに、世間は俺を一廉の働手にしてしまつた。俺は欝然としてもう一家をなした。あんまり早い昇進である。けれども俺は寂しい。一人ぽつちだ。世間は俺が黒幕の外で振りかざして居る旗印を目標もくへうとして、そこには俺の本陣があるかの如く思違へて殺到さつたうする。俺の苦しみは死守する此第一防禦線の陣地から生れた。今日迄幸に防禦線は突破されずに戦つては来たものの、俺は疲れる。休まなければならない。即ち幕の内にはひる。誰も居ない。全く誰も居ない。俺がたつた一人ゐるきりだ。俺の寂しみはこの暗黒な幕の内から生れる。誰でもいい。幕の中へはひつて来てくれ。俺は時折かうは思ふものの、もしそれが敵からの諜者まはしものであつて、親切らしくなぐさめの詞をかけながら、何の守も、何の用意もない俺の本陣の本統の状況を見きはめて行つて、世間にそれをおつぴらに云ひ散らされたときは、俺の第一防禦線は一支ひとささへもなくつひえる。俺は滅多に友達を呼びいれることすらも出来ない。
 彼は静に女のせなに手をかけた。
「此女だけが俺の赤裸裸せきららの友だ。何と云ふ情ないことであらう。」
 感覚をいつはることにれた此女の情熱のうちに、どれだけの真実が含まれて居るのであらうか。俺は知らない。ただ此女ならばまづ心がゆるせる。たつた一人の俺の陣地に忍びこんで来て、俺のつかれと寂寥とに僅ばかりの慰安をでも与へてくれるのは此女だけである、俺は安心して此女の腕によりかかつて眠れる。甲冑の紐をゆるめて眠ることが出来る。
「おい。」彼は背を撫でながら女を呼びおこした。女は顔を上げた。涙のあとが目のまはりをほんのりとあかく見せてゐる。
「もう帰らうよ。」男はやさしくかう云つた。
いや。」女の声には力がこもつて居た。
「あたし今夜は帰へらないことよ。」
「ぢや、どうする。」
「とまつて行くのよ。もしおうちの具合がわるいつてなら、あしたあたしお詑びに出ててよ。」
「子供見たやうなことを云つてる。馬鹿だなあ。」
「あたし今夜はどうしても、いや。ねえ、後生だから。」
 女は思ひ入つた調子でかう云つて、男の左の手を握つた。その手の甲から腕の関節にかけて、二寸程の細長い瘢痕きずあとのあるのをぢつと見つめた。
「ねえ旦那、これ、忘れやしないでせう。」
「お前が気がくるつたときのことだあね。」
「まさか。」女は寂しげに笑つた。
「ねえ、貴方、堪忍して下さいな。あたし何もこんなことをする積りぢやなかつたんだわ。丁度運わるく火箸があたしの手にさはつたんですもの。ひすてりいになつて、無暗に貴方に食つてかかつて居たときでしたわねえ。けれどもあたし嬉しいわ。」
 女は全く貞淑な、むしろ純潔な、処女が示す哀憐の様子を作つて、
「此きずは貴方の一生の瘢よ。そしてあたしの一生の紀念かたみだわ。此瘢を見るたんびに、貴方はあたしを思出して下さるでせう。あたしが風来者ふうらいものになつちやつて、満洲あたりをうろつくやうになつても、ねえ、さうでせう。」
 男はつくづく女の心持を思ひやつた。女の魂がとろけて自分の頭の中へ流れこんで来るかの様に強い感激が思はれた。この女とは長い月日の間に、いろいろ複雑した感情の争を闘はした。随分数多くこの女の涙も見た。けれども今まのあたりに見るやうな、さはつたら何ものをでも燎爛やきただらさずには置くまいとする力の籠つた女の姿は初めてであつたのである。今まで覗いたこともなかつた人の世界の真実が、このみだらな女の涙の中からありありと男の心の眼に映つて来た。け高いと云はうか、神神しいと云はうか。この女の前には自分はいつも素裸になつて居ると思つて、何の隔心かくしんを置かなかつた積りであつたが、それはまだこの女の本統を見きはめた上からのことではなかつた。さうして見ると俺自身もこの女にだけはと思つて、一切の自己をさらけ出して居たと信じて居たことも、まだ本統のものではなかつたものらしい。長い記憶を辿るまでのことは無い、現在此席でも、俺は虚栄をはり痩せ我慢を通して居た。一人ぽつちの幕の中で、俺はこの女を引きいれて、限りない欝憂から逃れたいとあせつて居たときでも俺はある大切なもの、唯一なものを、まだ彼にかくして居たのではないか。そして彼にのみ彼の真実の一切を要求して居たのではなかつたか。俺は屡この女の放埒を看過みのがした。傍観者のやうな態度で、彼の狂態を冷かに眺めて居た。いきり立つやうなことはあつても、彼に向つたときは、多く冷静を装つた。真に深い愛情と強い執着とが俺にあつたなら、俺はどうしてぢつとして居られよう。単なる生理上の器械だとして、彼の肉体をある快味の放散にのみ使用することだけで、俺の満足が得らるべき筈ではないのである。畢竟は俺は彼にも猶俺自身をつつんで居た。従つて、彼も亦自身をやはりつつんで居たのであつたらしい。それが今夜はさうでない。彼のこの姿は即ち彼自身であつた。実在である。真実である。これだ。世間の男が一様に憧れ求めて居たのは、この姿だ。初恋の女に求めたが疑惑と遠慮とがあつて、遂に捉へそこねた。家庭はあまりに物質的である。捜しあぐねた男達は淫蕩の巷に趨つた。そこには虚偽が一切を領して居た。舞の扇の先にも虚偽のわざとらしい線が描かれてゐる。虚偽の情味を購ふに虚偽の財宝ざいはうを以てするのであつた。多くの男の眼は白い、はち切れさうな、膩の多い女の肉をあさり求めた、僅に息づいて居るものは本能であつた。それは浅ましい、むさくるしい、かつては恥を感じたと云ふことのない盲目的のものであつた。美しい女の美と見えたものは、実は心の栄養の全く不充分な、そしてやまひつかれとが産んだ反自然はんしぜん畸形児かたはものであつたのだ。現にここにかうして向合つて居る女がそれだ。俺がそれだ。
 けれども、もう我等は肉を超越しなければならない。本能の眼を開かなければならない。余は汝を愛す、俺はかう云はなければならないのか。或は亦、余は汝と別れる、俺はかう云はなければならないのか。実際を云へば俺はまだこの間題を真面目に考へたことがないのである。今は正しくその時が来た。
 男は屹となつて何かを云はうとして、女の顔を見た。女はもうけろりとしてゐる。そしてだらしなくくづした膝から肩へかけて、人工的に作上げた曲線の気味悪い美くしさだけが目についた。
 張り切つた男の心はその一瞬で又ゆるんでしまつた。
 丁度此時、松村の奥座敷には、桑野が若い奥さんに向つて、白川と相談した要領を純化して、噛んでくくめる様に説ききかせて居る時であつた。
(「大国民」 大正二・一〇/『遺稿』所収)





底本:「定本 平出修集」春秋社
   1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された2行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について