夜烏

平出修




 夏水をかぶつた猿ヶ馬場耕地の田地は、出来秋の今となつては寔に見すぼらしいものであつた。ひこばえのやうにひよろ/\した茎からは、老女のちゞれた髪の毛を思はせるやうな穂が見える。それも手にとつて見るとしいなが多い。枯穂も少くない。刈つたところで藁の値うちしかないかもしれない。米として見た処で鳥の餌の少し上等な位にしかしらげられないだらうと思はれる。地租特免になつても、小作ばかりの此貧村の百姓に何のお蔭があらう。骨つぷしの強い男共は、遠い上州の蚕場へ出稼に行つた。中には遙かに遠い北海道あたりへまで働きに行つた。やがて雪がふる。冬籠の中でこしらへる草鞋細工の材料の藁さへ乏しい寒さは、どうして凌いだものか。居残つた者はそのあてさへなしに、少しばかりの畑を耕して、せいのない鋤鍬を動して居るのである。
 麦の芽が針程に延びて、木綿畑では、枯葉やはぢけたももの殻がかさかさと風に鳴る静かな朝のことであつた。この寂しい、死んだやうな村に一つの出来事が起つた。それは盗人が巡査につかまつたと云ふ事件であつた。
「儀平のとつさあしばられた。」
 三十戸しか無い村中にこのことが忽ちのうちに響き渡つた。
「親様(昔の荘屋を親様と云てゐる)の土蔵破りだてや。」
「ほんだか。」
「まあ。おつかない。」
 鋭い、いらいらした、とがつた気分は、重く澱んだ村中の空気をつきやぶつた。短い沈黙の後に、聞耳たてたひそひそばなしと、頓興ながやがや声とが入りまじつて起つた。ある者は片足ばきの藁草履で戸口を飛びだした。縄帯をしめしめ当もなく小走りにあるいてる若者もあつた。
「こらあ。吉次や、うちへこいつてば。」
 子供を表へ出すまいとして、家の口から呼びたてゝ居る女房もあつた。
 盗人に腰繩をうつて、お巡査まはりさんは少し跡からしとしとと歩いた。盗人は旅姿のままであつた。脚絆わらぢがけで、木綿たて縞の合羽を著た、きりつとした仕度であつた。お巡査まはりさんは幾晩となく張り込んだ手柄を先づ村民から見て貰ひたいとも考へて居た。肥馬に跨り、革の鞭をとつて鞍の上から豊に睨み廻す時のやうな心持がかなり緊張を感ぜしめた。子供、子守、女親、一軒の主人、いろいろの人達がいろいろの顔付をして、ぞろぞろと後から跟いて行く。
 親様のおつかさまも大勢の中にまじつて居た、気性のさつぱりした、それで居て情の深い、誰にもよく思はれて居る人である。二十代の若いときに、劇しい痛風症を煩つて左の足が少し跛となつた。あのやうな結構人にどうしてあんな悪い病気がとつついたのであらうと云つて、其当時村中の人は悲しいことの一つに云ひ合つて居た。家柄に対する尊敬と、人柄に対する憧憬とが此人の上に集つて、小さい村の云はば女王であつた。今日も村民はこの女王を真中に守護して、お練りをする時のやうにごたごたして居ながらも、此人の前に立ちふさがるやうなぶしつけをしようとするものはなかつた。
 村全体を端から端まで測つて見たところで十町ともあるまい。それに親様の家と盗人の家とは余り離れては居ない。ものゝ五分もたゝないうちに一同は盗人の家についた。家は西に向いて居る。入口は土間の仕事場で、つゞいて東に茶の間があつて、その奥に座敷と寝間とが三つ割になつて間取られてある。本人とお巡査まはりさんとおつかさまとは茶の間の先の縁に腰をかけた。縁と云つても一尺五寸ほどの板ばりで、ごみと垢とで真黒になつて居る。前栽にはちよつとした坪がこさへてあつて、赤と黄との花をもつた鶏頭が二三本薄暗く咲いて居た。鳳仙花はもう実となつたし、曲りくねつた野生の小菊はまだ石蕾である。
 茶の間の真中に真四角のゐろりがきられて、煤けた鍵竹かぎたけの先には、黒焦に焦げた薬罐がかゝつて、木のころがぶすぶすとその下にいぶつて居る。女房は下座の爐辺ろばたにすわつて挨拶さへもしない。
 お巡査まはりさんは、最初亭主にものを云つた。まだかくしてあるべき臓品は、すぐにここで出してしまへと云ふのであつた。この度の臓品と云ふものはまだ一品も警察へは出て居ないのである。
 亭主は首をうなだれてぢつと足許を見て居るばかりで、
「なんにもありません。」と云ひ切つて、其外のことは一語も云はない。
 お巡査まはりさんは女房を呼びかけて、同じことを云つた。女房はたゞ黙つて居る。
さがしをするが、いゝか」
 お巡査さんはとうとう靴に手をかけた。いくらかおどかし気味でもあつた。尋常にぬげばすぐぬげる短靴たんぐつが、ちよつと脱ぎ悪くさうにも見えた。さつきから前栽の傍まで押しよせて、遠巻に見て居た村民の目には、気色ばんだお巡査さんの様子が読みとられた。中にはそつと唾をのみこんだものもあつた。
 お巡査まはりさんはたうとう靴をぬいだ。身をねぢつて茶の間の方へ向き直りながら立ち上つた。がちやりと剣の音がした。
 女房の耳にはたしかに此剣の音が響いた。蒼かつた顔が一きは引きしまつた。口は結んだまゝである。
 つかつかとお巡査まはりさんは、室内へ押し込んで行つた。案内もまたずに座敷の中を覗いた。座敷と云つても藁莚を敷いた六畳ほどの何の飾もない垢にまみれた室である。次に寝間をのぞいた。一方は座敷の壁に、奥は目なし壁にしきられて、左手の高い窓から僅に日光をとりいれてあるつきりの、まるで夜の様である。小汚い寝具とぼろ着物が二三枚片隅によせかけてあつて、其外になんにもない。箪笥どころか箱らしいものすら見えない。顔をつきいれると、小便くさい臭が鼻をついてむせかへる程であつた。
 お巡査まはりさんは顔をしかめて歩みをもどした。なんにもない筈がないと思つて居た疑は、全く消え去つたのではないのであるが、さてどうしていゝか解らなかつた。で、やつぱり女房を責めつける外はないと思つて、ゐろりのはたの上座へむづと坐つた。
「こら。」お巡査まはりさんは女房をぢつと見つめた。
「どうした。品物はどこへやつた。」
おらとこでどうさしやつたか、おらあちつとも知らんがでござんす。」
 女房は恐しくないことは決してない。鬼にでも攫まれたやうにさつきから身うちがふるへて居たのである。一所懸命になつて、爐縁に両手をついて見たり、お腹の中に手をさしこんで見たり、落ちつかう落ちつかうと心の中ではいろいろにあせつて見たりして、やつと之れまでもちこたへて来たのであつたが、お巡査さんが近く目の前に来て、きつとなつて、品物はどこへやつたと責めつけて来たとき、どうしたわけか、彼の頭の中に少しゆとりが出来て来た。返事もすらすらと云ひ得るやうになつた。人知れずほつと呼吸したやうな気持にもなつた。「之れなら落ちつける。」彼はかう思つて一寸も動くまいと覚悟を新しくした。
「貴様が知らんと云ふ筈があるか。」お巡査まはりさんは女房が落着はらつた体を見て、詞を荒らげた。此次の女の出様によつては、殴りつけもしかねない気色にも見えた。
 親様のおつかさまは見るに見かねて、中にはひつてやらうと思つた。自分もゐろりばたまで行つて、女房に云ひきかさうとした。
「おつかあ、それはわるいこつたがなあ。」
 かう云つたとき此人は仏のやうな心になつて居た。土蔵をあける用事がなかつたので、四五日はなんにも知らずに居たのが、始めて盗まれたと気のついたときの驚き。よく見まはすと、処々に蝋燭のたれがおちて居る、一番いゝものを入れて置く箪笥が二抽斗ふたひきだしとも空になつて居るので、一度は呆れ一度は怒りもしたこと。旦那様をよんで来て、こまかに調べて見ると、煙草入はあるが緒〆の珊瑚がはづしてある、家重代の伝はりものゝ印籠までが小箪笥の中からとり出されてしまつてある、どれほど胆の太い泥棒であるであらうか、殆ど物語にもありさうな宝蔵破りを思ひ浮べて、恐しさに二人顔を見合せて、しばらく詞も出なかつたこと。夕方になると、何ものかゞ土蔵のまはりにでも忍び寄つて居ると思はれるやうな、土蔵の中には人気がして、はひつて行つたら、恐しい眼で睨まれやしないかと思はれるやうな不気味がつゞいたこと。それが朝夕出入をして居る儀平とこの親父とつさあの仕業であつたと聞いた時は、驚きも怪みも一つになつて心頭からいきどほりほのほのやうにもえたつた。先刻さつきもお巡査さんの前に散々本人をきめつけた。臓品のありかをさがしたいから証拠人になつて来て貰ひたいと云はれて、一儀もなく自分で出て来たときの心持では、どこの隅隅からでも引つ張り出さずにおくものかと云ふ気組で居たのであつたが、生来おもひやり深い此人の気立からして今此家の内の、むさくるしい、貧しい、どうして食つて行つてるかすら分らない有様を見ると、怒も憎しみもすつかりけてしまつた。どうにかして女房を素直にあやまらせて、お上からあんまりがみがみ云はれないうちに、早くゆるして貰ひなさいと勧めて見る気になつた。
 けれども女房の顔にはそんなやはらぎが少しも上らなかつた。髪はぐるぐる巻にして油つ気もないので後れ毛は容赦なく、骨ばつた頬のまはりに乱れて居た。鼻だけはやゝ形がいゝが、目元に険があつて、口がきりつと男の様にしまつて居た。すてばちになつたら何ものにも恐れないと云ふ毒々しい気性がしんねりむつつりした容貌の上にあらはれてゐた。流石さすがおつかさまに向つては、唇をそらしても居られないのであつたが、さればと云つて、心からお詫をしようとは思ひこんでは居なかつた。女房はどこまでもふてぶてしく、強ひて空うそぶくやうな様子を作らうとするのであつた。
 お巡査まはりさんは此間もちつとも考をやすめなかつた。気のせいか、どうも女房の素振が可怪しく思はれてならなかつた。第一、自分等が付いて来てからと云ふものは、あの女はちつとも坐をたゝない。あわてないからだと云ふにしたところで、挨拶をするにも、あんまり落ちつきがすぎる……。と忽ち頭の中に或事かひらめいた。殆ど無意識的にお巡査さんは自分が今何の上に坐つて居るかを調べる為に、手を莚の下にやつてみた。麦藁を敷きならべた上にすぐ莚が敷かれてあつて、床板ゆかいたは全く無い。すつくと立つて女房の傍へ歩みよつて、肩をつかまへた。
「そこどけ。どいて見ろ。」お巡査まはりさんはもうのがさないぞと計りに睨み下した。
 この時の女房の様子は、実に不思議であつた。何もかも之れぎりだ。かう覚悟をきめたかのやうにも見えた。どんなことがあつても動くものか。かう決心したかのやうにも見えた。自分も良人と同罪だ。かう思つて恐しい罪人となることに顫へを感じたかのやうにも見えた。ありとあらゆる情感が一ぱいに溢れ出たとき、怨めしいとも思はずに涙が出る。そんなやうな気分で胸が全く塞つてしまつた。さうして一番はつきり此女の考として残つたことは、此品これをとられてしまつてはすぐ食ふことが出来ない、自分と、三人の子供の命のくらは、今自分が座つて居る莚の下にある、生きたいと云ふ一念で、良人をつとは恐しい土蔵破りをまでした、その一念で、自分は怖さ、恥しさを忘れて、ぢつと座つて居た。ぢつと……、どんなことがあつても動くまいと思つて、ぢつと……、ぢつと座つて居た。……どうしてこゝが動かれやう。興奮した彼はくらくらと目が廻るやうに感じた。と地震のやうな激しい力が自分を地の底から持ち上げて、自分をはうりだしたやうに感じた。もうその時彼は爐辺から七八尺離れた方へはねのけられて居て、お巡査まはりさんは、莚をひんむいて、穴蔵の口の蓋をとりのけようとして居るのであつた。
「あゝ。勘弁しておくんなさい。どうか、どうか、そればつかりは。」
 よろよろした足取で彼はお巡査まはりさんの両足にしがみつかうとした。
「何をする。」お巡査さんは、力強い腕をさしのべて、一つき突いた。をんなは一たまりもなく倒れた。そして込み上げてくる涙を絞つて泣きくづれた。

 良人をつとはたうとうひかれて行つた。十日や十五日は夢のやうにすぎてしまつたが、女房は良人をつとの消息をきかうとも思はなかつた。どう云ふ手続でどう云ふ順序で良人がお仕置になるのであるか。彼には無論想像もつかない。たゞ泥棒をすれば赤い着物をきせられるものであると云ふことだけを考へて居るのであつた。
 牢屋は町の外れの砂山の松原の中にあつた。嘗て近所の女房たちと一しよに、茄子や胡瓜の籠をしよつて町へ売りに行つたとき、監獄と云ふものを態々見物に行つたことがあつた。赤煉瓦の塀に沿つて彼等は疲れた足で廻つて見た。
「何とまあ、ふつとい仕かけだかねえ。」
「この世の地獄だつてがんだもの。」
 彼等はたゞきよろ/\として居るのであつた。いくら爪立つまだちをして伸び上つて見ても中の模様はおろか、建物の棟さへ見ることが出来ない。ぢつとながめて居ると、この宏大な、重い、頑丈な赤いものが、ずんずん高くのびて行つて、無限に天上までも届いてしまふのではあるまいかとさへ思はれる。無智な、臆病な田舎ものの女共の魂は、こんなことにもおびえさせられて居るのであつた。やがて門の前へ来た。門は真黒な鉄の扉がどつしりと見る目を圧して固く鎖してゐる。真中に挿しこんである之も鉄のかんぬきは、永遠に絶えざる地上の「悪」をかたく締め切つて居る。彼等はもうものを云ふことも出来ない。云ひ合した様にぴたりと歩みをとめた。丁度その時くゞりの小さい戸があいた。其口の寸法だけ真四角に門内の土が見えた。小砂利が敷きつめてある堅さうな土であつた。と、どやどやと人の足音がして、真先に黒服の看守が立つて、二組の囚人が門の外へ出て来た。
 盗人の妻の頭の中にはこの時のことがしつかり刻み込まれて居た。良人がどうして居るだらうと思つて、じつと考へ込んで居るときには、赤煉瓦の高い塀と、黒い鉄の門と、柿色の衣物を着て鎖でつながれた囚人の姿とがいつでも目に浮んで来る。日の目を見ない瞳はどんよりと濁り、頬は蒼ざめ、さかやきはのびてむさくるしくなつて居たあの時の囚人の顔が、自分の良人の顔と一つになつて、まざまざと闇の中でも見えて来る。
 良人が家に居てくれてすら生計くらしが付かなかつた手許であつたのに、村中から法外人あつかひにせられ、日傭取に出ようたつて一寸頼み手もなくなつた。十六になる伜は二三ヶ村離れたある知合の家へ奉公にやつてあるが、まだ十二の女の子と九つの男の子が残つて居る。小作をして居た田圃に水がついて鎌入れする張合もない。畑にとれた木綿を少し売つて百姓が麦を買はんければならない。大根と粉米こごめと麦とをまぜた飯でも、腹一ぱいに食ふことが出来ないのであつた。秋はだんだんけて行く。人のあぶらを吹き荒す風で手足のひびが痛いと云つて、夕方になると、子供がしくしくぢくね出す。そのすゝぎ湯を沸かすさへ焚物が惜まれた。
 調絲しらべいとの走るみちだけ飴色につやが出た竹の車で糸を紡いで、彼は暗い行燈の灯をかきたてゝは眠い目を強ひて明けて夜業をした。魚脂油ぎよしあぶらの臭いにほひが、陰気な、寂しい室中へやぢゆうに這ふ。彼はそんなときになると、きつと良人をつとの顔が目の先にちらついてくることを感ずる。なつかしいと思ふこともあつたり、みじめな目にあつてゐるであらうと思ふこともあつたりすることはあるが、彼はすぐに気がたかぶつて、あの事がすつかり露顕ばれてしまふ様になつた良人をつと頓間とんまさを思ひ返しては、独りいらいらするのが常であつた。甘く仕事をしてしまつたのであるから、そつと落ちついて村に居てくれゝばなんでもないのであつたんだにと思ふと、町の地獄女に引つかかつて、自分までを騙して、気をぬく為めだと云つて茶屋酒なんぞを飲んであるいたうちが肝癪に障つて来るのであつた。それから良人を縛つてえらさうな顔をして居た巡査が憎くらしく、五本足の犬の見世物でも見るやうに、あの日の良人の廻りにより集つた村の人々が忌々しかつた。もつと/\考へて見ると、盗まれ主の親様の、土蔵の白壁が一番悪いんだとも思はれて来る。それでなくつても、食物がほしい、着ものがほしい、厚い蒲団がほしいと、物心ついてから四十二の今日まで、人のものを羨むと云ふことにのみあこがれて来た彼の眼には、あの白壁の中にどんなやはらかい、どんなに美しい、見ただけで胸がわくわくするやうな、珍しい反物や珠玉しゆぎよくしまつてあるだらうか、それが一一手に取つて見えるやうにも感ぜられるのであつた。そこで他人のものを盗み取つた良人の行為は、決していゝことであるとは思へないが、そんなに憎々しいことを云はないでも、少しは憐れだと云ふ同情おもひやりがあつたつてよさ相なもであるとも云つて見たい。
「ほんとにまあ、畜生が。」
 家宅捜索の日に、自分を刎ね飛ばして、穴蔵から、赤縞あかじま双子ふたこ解皮ときかはが一反、黒繻子の帯も、之も解き放した片側が一本出てきたとき、あの親様のおつか様が恐しい目をして私を睨んだ。
「これだ、これだ。姉さあの帯皮だ。」かう云つてぐるぐる巻にしておいた帯皮を長々とひろげて、黒い蛇ののたうち廻つたやうに、室一ぱいに引きずつた。ふだんは、やさしい人なつこいあのやうなおつかさまでも、いざ自分じぶんのものとなると、あの様な劇しい詞が口から出る。盗人と畜生とが一つに見られてしまふ。憎いと云へば、此人だつてやはり憎い。
 丁度こんな毒々しい考に気が欝込めいりこんだ或宵のことであつた。彼は、いつまでも物を云はない、いつまでも動くもののない――子供はとうに寝入り込んで居た――夜の寂寞に堪へられなかつた。くたくたになつた藁草履を引つかけて背戸口から往来に出た。日がくれて間もない時刻であるから、銘々の家から、明りがさし、人の話声なども、しかとはわからないが、ごそごそと耳にはひる。姿も見えないどこかのあまり遠くない所に追分節の長く引つぱつた声が聞えたが、中途でばつたり切れた。静かなことはやつぱり静かである。
 彼は観音堂の境内にはひつた。往来からは何の仕切もない広前が少しばかりあつて其正面の奥手に御堂がある。四つばかりの階段を上つた処が廻り縁になつて居て、中は四間の奥行二間許りの板敷がある。それは村の児守子どもの遊び場で、三方ともがらんどうの、戸締とてもない。それから又一段上つて、云はば内陣ともあるべき幅一間程の細長い板の間の奥におづしがある。千手観世音が祀つてあるのだ。彼は何と云ふ考もなしに、ふらふらと縁に上つた。そつと草履をぬいで素足のまゝ板敷の板を踏んだ。暗いので足許も確かでない。と、何か足の裏にさゝつたやうな気がして少しく痛かつた。それは※(「木+解」、第3水準1-86-22)くぬぎからを踏んだので、踏まれた殻は平らにへし潰された。疵をするまでもないものであつた。彼はちつと舌打をして、忌々しさうにそれを拾つて抛りつけた。
 やがておづしの前に近よつた。太い格子戸の戸が左右から引かれて、太鼓錠がとぼその真中に下つて居る。彼は手さぐりに戸前とまへの処を撫でて見た。冷たい鉄の錠がひやりと彼の指先にさはつた。これと云ふ悪心の起つた訳ではなく、此戸が開けて見たいと思つて手さぐりをしたのではなかつたが、錠と云ふものが自分と龕との間をしつかり仕切つてあることが、云ひしれず憎悪の感じを募らせた。
 綿緞子めんどんすの赤い幔幕はもう色があせてる。信者の寄進したものと云つても、押絵細工の額面か、鼻や手足の欠けた人形か、絹の色糸がかがつてはあるが何の値もない手毯か、そんなものより外は、一つだつて金目の籠つた品物のないのは、彼がふだんようく知つて居る所である。そこへはひりこんで、彼は何を盗み出さうとするのであらう。彼はもとよりそんなことを意識して居るのではないのであつた。只この扉の中は滅多に他人が覗いたことはないものである。かうして、ぢつとこゝに立つて、ぢつと此扉の中を覗き込んで居ると、どうやら自分ばかりが見ることの出来る不思議の宝物がしまつてあつて、そこに富と幸福とが、水銀を撒いたやうに散らばつて居る。それを自分丈がこつそりと攫んでしまふことが出来るのではあるまいかと思はれるのであつた。
 彼は二三度錠をねかしたり起したりして見た。鍵がないから明きさうなことはない。
「たゝいたら此錠はゆるむのだ。」彼はかう思つて、堅い木切れか、石ころが欲しくなつた。一旦縁を下りて、そこいらをさがさうとしてもとの板敷の方へ歩みを戻した。足元がふらふらする。股のあたりはすつかり力がぬけてしまつて、耳はほてり、頭がむしやくしやするのを感じた。彼が閾際しきゐぎは近く来たとき、村の女房達らしい者が二三人高声で話し合ひながら、往来を通つて行くのが彼の目にも見えた。これはさつき御堂に上つてから初めて彼の知覚にとまつた人の気勢である。御堂へ上つてからこれまでの時間は本統はそんなに長い時間ではなかつたが、彼には非常に長い長い時間と感じられた。そしてその長い時間の間、自分はこの世界にたつた一つ動いてゐるものであるとばつかり彼は感じて居た。それが今人声に気がついて見ると、彼は此世の我に蘇へつた。
「おらあ、仏様の罰を忘れてゐた。」
 彼は急に恐しくなつて来た、べたりと縁の上に坐つた。
 夜の空は晴れて居た。月は無いが、星が、宵のきいろい色から、だんだん白い光に変つてしまつた。さやさやした風が横手の竹薮を吹いて、広前の砂の上に落ちた。
 女はやつと起き上つて、階段を下りた。一歩ひとあしづゝたしかに踏みしめて、堂の鼠にも聞かれないやうに足音を偸むのであつた。下りてしまつて彼は、どこへ行くべきか、全く目的はないのである。
 からだ向方むきをも知らずに彼は歩み出した。あとずさりをして居るのかと見える程僅かづつ前に出た。夜は暗い。と、彼の鼻先に、巨大な真黒なものが彼を圧して立ちはだかつた。彼ははつとした。全身の毛孔が一時に寒けだつた。冷たい汗が背中に滲み出た。
 もみの木である。此境内にたつた一本ある樅の木である。口碑から云へば百五十年以上の老木である。根元のうつろに、毎年熊蜂が巣を作る。蜂退治だと云つて、多勢の腕白共が、棒切れをさしこんだり、砂を投げ込んだり、或は火をつけて焼かうとしたりする。蜂は又自らの生活の根城を死守して屡侵略者を刺した。かう云ふ戦が繰り返されてからも、もう何十年になることやら。木は亭々として四時の翠色を漲らして居る。
 真直に往来へ出るつもりなのが、彼はいつしか左にそれて樅の木の下へ来て居たのであつた。さうとはつきり解つてしまへば、一時の恐怖はなくなつた。
 およそ此村に住むもので、観音様の樅の木を知らないものがあるものか。叉此村に生れた子供でこの木の下に遊ばないものがあるものか。この木の上に鴉が啼いて夜が明ける。この木の上に鴉が舞つて日が此上でくれる。天気のいい日には鳶が輪をかく。一日に一度や二度は誰だつて姿のいゝ此木の枝振りを仰ぎ見ないものはない。彼も此村に生れて此村に育つた。この木は彼の樹木に関する智識の第一印象であると云つてもいい。
 けれど樅はどこまでも樅であつた。樹木と人間とは全く生活の様式を異にして居る。彼女の生きて居ることと木の生きて居ることとに情の交感がある筈がない。彼女は只古い樅の木であると知つて居た。久しい親しみがあると云つても、樅の木であるとしか考へて居なかつた。否、木であると考へることにすら無智な彼女の感覚は動いて居なかつた。
 今彼は自然に此老木の下に立つた。そしてもの珍らしげに、根元から幹、幹から梢を、ずうと見上げて行つた。梢は高い。空はそれよりも高い。しかし高い梢は空に達するかと思はれるほどに高い。やがて彼は根元近く体をよせて、手で樹幹にさはつて見た。人の背丈ほどの高さまでは、樹の皮は研をかけたやうに滑かにつるつるして居る。そして今夜に限つて、幹が温味をもつて居る様にも覚える。それは彼女の指先が熱して居たからであつた。こんどは彼は耳を樹幹にあてた。梢にあたる風の音が入りまじつた雑音となつて彼の鼓膜に伝はつた。大きな獣が鼻から息を吹いて居るやうにも聞き取れる。彼女は更にびつたりと体を寄せかけて、抱へる様に手を広げ胸を樹幹に押しつけた。体中の感情の全量が一時に呼び生かされた。もう此木は彼女にとつては唯の樅の木ではない。生命は勿論、血も肉も、人間がもつてゐる本能の慾望も、みんな併せ具へて居る生物であると云ふ様に情の交通を感じた。彼と彼女とはもう二つでない。二つのものが融合して一つの心にとけ合つた。幼馴染の老木であるからの親しみでなく、此の心が彼の心に流れ込んだ神会のなつかしみである。彼女は狂へるものの様に彼女の胸を幾度も幾度も押しつけた。
 樅の木はなんにも動かない。彼はたゞ立つて居る。生きて居る。彼の女の四倍の長い生活を営んで来た。此先まだ幾倍の生命を将来に維持して行くことか。それは今生きてゐるあらゆる人間に聞いたつて、誰も前途を見届けるまで命をもつて居るものはない。
 ぢつとしてゐるうちに彼女の昂奮は少し静まつた。少し体を放して目新しげに梢を見上げた。木は何事の変化もなく、もとより痛苦や、不安の姿もなく、記憶し初めた三十年前からの壮大なる木振の儘、今は暗夜の空につつたつて居る。
「この木は、なんにも食はなくつても生きて居るがんだ。」
 彼女は呟くやうに独語した。

「かん、かん、かん。」初三つ四つは緩く、中程は急調に、終りは又間のびた拍子で、板木はんぎの音が鳴つて来た。眠に落ちつゝある村中の人の疲れた頭をつきぬけて、音波の震動は西風の吹くがまゝ、遠い東の空へ漂ひ去つた。彼女もその音を聞いた一人であつた。最も深い感銘と情趣とを刻みつけられた一人であつた。彼は消えて行く余韻の名残をも聞き洩すまいとするかの如く、ぢつとぢつと耳を澄して居た。
「さうだ。今夜お説教があるんだ。お使僧様がござらつして、親様のうちで。」
 かれは昼のうちにこのことを聞いて知つて居た。もう今頃は村の人々がより集つて居る頃である。が誰一人彼女を誘つたものはない。今鳴つた板木はお説教の初まる知せであるとは云へ、彼女にも来いと云ふ様な懐しみの籠つた響とは聞えなかつた。汝は村外そんぐわいだ、汝はこの音に耳を塞いで一人でつつぷして居ろといふ様な怨めしい調子を帯びて居た。かうして何か事ある毎に村の人から彼れはのけものにされてしまふ。一日々々に彼と村の人との親しみは剥げて行く。このまゝにものゝ三月もつゞいたなら、彼は見も知らぬ他人を見るやうに村の人から目をそらされることにもならう。段段先方むかうでは憎しみを増し、此方ではひがみが募る。意地を張つても、悲しいことには、彼女の一家は人のなさけと憐みとできなければならない。腰を屈めて裏口から、くちらす米の汁をでも貰はなければならない。隔てが出来て困窮するのは彼女ばかり、彼女ばかり。彼女の一家ばかり。一人ぽつちになることは、どうしても彼には出来ないことである。
 怨めしいとのみ思つて居た板木の響は彼女の心を妙に惹きつけた。自分も行つて見たい。何と人が思つても自分は村外むらはづれにされつ切りになつては居られない。これがいゝ機会しほになつて、親様へ出入が出来るやうにもならう。これから先、人から別物扱にされないやうにならう。何が恥かしいのだ。何が恐しいのだ。私の良人は泥棒にまでなつた。それに比べれば何ともない。
 彼女はふてぶてしい心になつて、老木の下を離れて親様の方へと足を進めた。
 去年の秋中彼女はあの家の日傭取をして居た。綿取、麦蒔、大根取などに、多くの男共や女共と一しよに野良に働いた。屑綿を前垂に一杯位貰つて行くことは毎日の様であり、籠から下ろすとき折れた大根なども沢山家へもつてかへつた。刈上祝かりあげいはひの餠搗の相どりをしたあとで、大きな福手餠ふくてもちを子供に貰つてやつたら、彼等は目を丸くして喜び勇んだこともあつた。小作米がくらに運ばれて、扉前とまえで桝を入れる。夕方跡を掃くと一合位は砂に交つた溢米こぼれまいが彼の所得となつた。さもしいと云はれたつてそれやこれやで一冬は楽にすごすことも出来た。彼は思ひ返して見て、闇の中で独りでに心の勇むのを感じた。
 台所口の戸を明けて、のつそりと彼は親様の家へはひつた、大きな釜場につゞいて深く切つた爐がある。去年からの女中が一人柴を焚いて湯を沸して居る。ランプが一つ中の梁から釣り下げられて手のやつと届く程の処に光つて居る。一寸見たつて顔色がはつきり分らない。女中はすかすやうにして彼を見つめた。そして
「おや、まあ。」おさへつけた様な声で呟いた。そしてせつせと柴を折りくべる方に気を取られた振りをしたなり、
「儀平どんのかゝさあ。」かう云つたが、あとを云ふべき辞を知らないで、もぢもぢして居た。
 彼女はわざとしらじらしく、
「お晩になりました。」と云つてすぐと茶の間へ通つた。
 坊さん嫌の大旦那は奥座敷へ引こんでしまひ、若旦那は留守であつた。お茶場に、おつかさま下座したざ姉様あねさまが、何れも説教者の方へ顔を向けて一心にお使僧の説教に聞入つて居た。村の人は二十四五人も集まつて居た。彼女がそつと歩みよつた閾際から言へば、みんなうしろを向いて居る。腰をおろして坐つたときに大勢は何にも知らなかつた。
 ふつと横を見ると閾際しきゐぎはに誰やら手をついてお辞儀をして居るので、おつかさまは初めて新たに人が来たのを感付いた。それでもまさか儀平の女房であらうとは思ひ寄らなかつた。
「よう来たなう。」説教者にも聴聞者にも気の散れることのないやうに、小声でかう云つて、手で指図をしようとした。女はやはりうつぶした儘である。
「誰だい。」おつかさまは少し声を張つた。
 大勢の人の顔が一しよに動いて戸口の方に向いた。説教者もちよつと詞を切つて、上座の方から見下ろす様にして戸口の人を呼びかけた。
「初まつて居るのだぜ。ずつと前にござらつしやい。」
 燭台のともしびと彼女の姿との間に大きな影があつて戸口は薄くらがりになつて居た。その影になつて居た老人が少しく体をねぢつた。明りは何ものの遮りもなく彼女の横顔に光をさしつけた。
「儀平とこのかかだないか。」
 おつかさまは、半ば驚き半ば怪んだ。
「はい。」彼女はたつた一言を云ひ得たきりであつた。
 このあとをどう云つていゝかおつかさまにもわからなくなつて来た。村の人々もこの思ひがけない出来事に肝を潰して、挨拶の仕方もないやうであつた。お説教がやがて続き出したのをいゝしほだとも思つたらしく、みんながもとの様に正面向まともに身体を直した。大きな影が再び彼女と灯との間を遮つた。
「おれもお聴聞ちやうもんに来ました。」
 暗い蔭から死ぬやうな声で彼は云つた。
かかあ。前へ出らしやい。」
 一番近くに居た姉様あねさまは、しうとめの心を測りかねたが、取りなしをするつもりで、
「そこは入口だがなう。もつと前へ出たはうがいゝがなう。」
 彼は優しい姉様あねさまだと思つた。その詞について少しゐざつて、二尺程膝をすゝめた。それでも折り曲げた足の先が閾にさはるほどの端近である。かうしてやうやうのことで彼女は此の室内の一人となつた。けれども村の人々のまはりに漂つて居る空気と、彼女一人を包んで居る空気とは、丸で別々のものであつた。たとひ何十人あらうとも彼等と彼等との間には一脈の情味が流れ通うて居るが、彼女と彼等との間には、何の交渉もない。彼女一人は突然の闖入者にすぎないのである。只無智無自覚である此女にも、孤独の寂しさに堪へることの出来ない本能的慾望が、盲目ながらも根強く働いて居た。宇宙の大法則に引きずられて彼は今こゝに衆人の冷たい顧眄ながしめを慕うて来た。しかも人はどの様な気分を以て彼を迎へたか。愚かな女にもすぐ想像が出来た。そして其想像が少しも間違はなかつた。「盗人の妻」はやつばり「盗人の妻」であつた。優しいと思つた姉様の親切な詞につり出されて、やつと片隅の一人となることはなつたものの、彼はそれで満足は得られなかつた。ねたみよこしまとがむらむらと彼の心に湧き立つた。こんな家に誰が居るものか。彼は一時にかつとなつて、瞳を据ゑてお使僧の方を見つめた。
 お使僧の説教は、彼女にとつてはのぞきからくりの歌声うたごえよりも猶無関心のものであつた。唇はたゞ動いて居るとしか思へなかつた。之を聴聞したい為に彼女はこゝへ来たのではない。帰つてしまはうと思へばすぐ帰つてしまへるのである。話に身を入れて聞くと云ふ様な殊勝な気は彼には決して起らない筈であつた。それが実に不思議である。彼が反省も思索もなく、きつとお使僧を見つめたとき、彼女は溢るゝ計りの熱心と真実との籠つた彼の説話の二言三言を聞くとはなしに聞き入つた。
「さて御同行衆ごどうぎやうしう、之から一大事の後生のことでござる。よく聞いて貰はなけりやならん。」
 お使僧は詞を切つて、一度座中を見まはして、やがて話をつゞけた。
「炎天つゞきの真夏のことであつた、わしはこの夏米山越をしました。峠の上りにかゝつた頃はもう午下り、一時頃ででもあつたでありませう。何しろ熱い日盛のことだから、土から熱気が火焔のやうにもえあがる。そろそろ足も疲れて来る。汗はだらだらと流れて、目の中へ流れ込むと云ふ有様ぢや。小風呂敷一つの空身からみわしですら、十足とあしあるいては腰をのし、一町あるいては息を休めなければならない熱さでありました。
 頂上近く行つたとき、俺よりも少し先に一疋の黒馬が、米俵を一杯に背負はされてこれもやつぱり山越えをして居るので、わしよりもずつと先に出かけたのであらうが、わし空身からみのことだから、そこで追ひついたのでありました。
 馬子が一人手綱をとつて居た。馬はもうへとへとになつて居た。両足はしつかと土にしがみついていくら引つぱつても動かない。もがけばもがくほど、口縄が緊めつけて、鉄の轡が舌を噛むのぢや。口から白い泡が吹きたつやうに湧いて出るのぢや。汗と云つたら俺達人間のものとは又違つて、滝の様だと云ふ形容が全く相当して居ました。あの様子では一足ひとあしだつて歩けたものぢやない。
 それでも馬子は容赦もなく責めつけて居る。綱のはしでびしびしとしわくのである。しなしなした棒の鞭でなぐりつけるのぢや。そして『畜生』『畜生』と云つてどなつて居る。たまらないのは馬ぢや。痛いのとがなられるのとで、一所懸命の力で歩かうとするのぢやが、どうしたつて動けない。もう自分の力で自分を動かすことが出来なくなつてしまつてたのぢや。」
 お使僧は、それを見兼ねて馬子に忠告した。少しは休ませてやれ、馬だつて気の毒ではないか、此熱いのに此重荷だ、動けるものではないぢやないか。死力を出しても足が動かないので、息もへとへとになつて居る。目を見なさい、目を。何と怨めしさうな目をして居るではないかと諫めても見たが、馬子はどうしても聞き入れない。余り云ふと怒り出すので、自分はたうとう見捨てゝ上つて行つたと云ふ成行きまでを語巧みに語り了つて、
「どうだ同行衆。これぢや、人間の姿は正に此馬ぢや。憎いと云うては、悲しいと云うては、人のものが欲しい、おのれの身がかはいいと云つては、寝ると起きると、心の鬼が責めたてる。娑婆は米山越だ。四苦八苦の鬼は馬子だ。人間は馬ぢや。綱でしはがれる。鞭でうたれる。荷は重くて、足は疲れて居る。早く此峠を越しさへすれば安楽浄土は十方光明の世界を現じて、麓に照りかゞやいて居る。処でその峠が六かしい。けはしい道ぢや。深い谷が左右に見える。恐しい娑婆ぢやなう。それをふびんぢや気の毒ぢやと思召して、罪業の深い我々凡夫をお救ひ下さると云ふのが阿弥陀如来の本願ぢや。何と有り難い仰せぢやあるまいかなう。」
 説教の終る頃は、一座のもの皆が酔へるが如き心持であつた。なんまんだぶつと呟くやうに称名する大勢のものの声は、心の底から自らとろけでるやうに室中へやぢゆうに満ちた。かすかに鼻をすゝるものさへあつた。
 一時に皆が帰りかけた。六角の手作りの提灯に火をともす間は、挨拶をし合つたり雑談を取りかはしたりして、なかなかさうざうしかつた。おつかさま一々いちいち
「大儀だつたなう。」「やすみやれや」などと、村の人々を見送つて居た。十分とも経たない間に、すつかり出て行つてしまつて、跡は火の消えたやうにぽかんとしてしまつた。
 盗人の女房はこのときまでも座を立たなかつた。お説教に引ずり込まれて、彼は帰ることも忘れて居たのではあるまいか。お説教が彼の要求のどんぞこを突いたので、彼は悔と光明と法悦を心から感じた為でもあらうか。生活の苦悩に日々責めさいなまれて、益々よこしまと偏執とに傾きかゝつた彼の習性が、一夕の法話に全く矯め直されたのでもあらうか。
 彼女の智識は、それが何であるかと云ふことを分解ぶんかいするには、遠く足りないものであつた。彼は何となく頭を掻きむしられるやうに感じたのであつた。自分と云ふものは、風の前の糠くづのやうに、すぐにも飛んで行つてしまつて、其行方さへ知れなくなるのではあるまいかと云ふ様な、漠とした不安が彼を襲ふのであつた。死ねばこんな苦艱がない。阿弥陀様のお力にすがりさへすれば、死んで極楽へ行かれる。どんなに安楽に、どんなにのびのびした生活が出来ることであらう。彼はそんなことをも考へて居た。
「儀平とこかかあ。お前ばつかりになつたがなう。」
 おつかさまには、彼女が今夜来たのさへ解し難いことであるのに、かうしてたつた一人残つて、頭をあげずに居るのが一層をかしく思はれた。暫く返事もないので、
「お前どうするつもりだい。」
 かうつておつかさまは彼女の小さくなつて居る姿を見た。
「わしかね。わしは死ぬがんでござんせう。」
 彼女は、何を云ふ積りであつたか、自分でもよく分らなかつたが、かう云つた詞だけは彼も意識して居るのであつた。
「なにを云ふのだい。お前。」おつかさまは驚いて、
「そんな馬鹿げたことを云ふもんじやないぜ。人がきいても聞きばが悪いからなう。さあ帰りやれや。大分に遅いんだから。」
 おつかさまは、やはらかな調子で云ひきかせて、わきにあつた駄菓子を紙に包んで、彼女の前にやつた。
「子供もまつてゐるからなう。」
 彼女は無性むしやうになつかしくなつた。情味の籠つたおつかさまおつしやり方が涙を誘つたのか。もつと大きな人生の暖みと云ふことが心をそゝつたのか。やはらいだ感情、寂しいと思ふあこがれ、よこしまねたみとがもつれあつた偏執へんしふ。これ等のものが一しよになつて彼の涙腺に突き入つたのか。彼は詞もなく泣いた。
「はい。まことに…………。」
 なにをするのもものういやうな身体を起して、彼は戸口へ出た。さつきの人達はもう銘々の行くべき処へ行き着いたらしい。下駄の音も、話声も聞えない。夜は一きは真黒になつて、屋根のあたりに夜烏よがらすが啼いた。
(大正二年十月十一日作/『文章世界』 大正二・一〇/『遺稿[#「遺稿」は底本では「遺稽」] 所収)





底本:「定本 平出修集」春秋社
   1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
2011年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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