計畫

平出修




「昨日大川君から來たうちから、例のものを送つてやつて下さい。」亨一かういちは何の氣なしに女に云つた。疊に頬杖して、謄寫版の小册子に讀み入つて居たすず子は、顔をあげて男の方を見た。云ひかけられた時ことばの意味がすぐに了解しにくかつた。
「靜岡へですよ。」男は重ねて云つた。女はこの二度目の詞の出ないうちに、男が何を云ふのであるかを會得ゑとくして居た。「さうですか」と云はうとしたが、男の詞の方が幾十秒時間か早かつたので、あたかも自分の云はうとした上を、男が押しかぶせて來たやうな心持に聞取れた。それ丈け男の詞がいかつく女の耳に響いた。不愉快さが一時に心頭に上つて來た。
「ああ、それは私の爲事しごとの一つでしたわねえ。貴方に吩付いひつけられた。」女は居住まひを直して男の眞向まむきになつた。
「そして殘酷な……」と云ひ足して女はかすかに笑つた。頬のあたりにいくらか血の氣が上つて、笑つたあとの眼の中には暗い影が漂つて居る。
「どうしたと云ふのです。」亨一は著述の筆をいて女の詞をさへぎつた。
「靜岡へ送金することは、私の爲事の一つでしたわねえ。貴方のせんの奥樣の小夜子さよこさんへ手當を差上げるのが。」
「それが殘酷な爲事だと云ふんですか。」
「さうぢやないでせうか。」
「これは意外だ。私は貴方に強制はしなかつたでせう。」
「ええ。けれど結果は一つですもの。」
 亨一は女の感情が段々たかぶつて來るのを見た。云へば云ふ程激昂の度が加はるであらうと思つたから、何も云はずに女の様子をただ見つめて居た。もう女は泣いて居るのであつた。
 亨一と小夜子との間は二年前にきれてしまつたのである。趣味、感情、理想、それから亨一の主義と小夜子とは全くかけはなれたものであつた。殊に外圍からの干渉は、二人が育てた九年間の愛情をも虐殺してしまつた。小夜子はわかれて靜岡の姉の家に身をよせたが、亨一は之に對して生活費を爲送しおくる義務を負つて居た。毎月爲替かはせにして郵送するのがすず子の爲事の一つであつた。亨一が一切の家政をすず子に任せたとき、すず子はこの爲事を快く引きうけた。それから一年に近い間、この小さい爲事はなめらかに爲遂げられて來たのだが、今日はすず子に堪へられない惡感をかんを與へるのであつた。
 しばらくしてすず子は泣聲をやめた。けれども苛立いらだつ神經は鎮まらなかつた。
「離縁した女に貴方がどうして義務を負つてるんですか。」すず子は聲をふるはして云つた。
「そんなことを云つたつてしやうがないぢやありませんか。」
「私ねえ。前々から疑問でしたの。貴方は小夜子さんとは他人となつた方でせう。それだのに……。」
「そんな事を云つたつて、女の生活ぢやありませんか。どうするにも方法がつかないんです。」
「けれども理由のない救助は、救助する方もをかしいぢやありませんか。」
「理由がないつて、全然ないとも云はれませんよ。」亨一の眉宇には迷惑さうな色がありありと見えた。女はそんなことには何等の頓着がない。
「『もと妻であつた』それが理由でせう。然し今は、『あかの他人』、さうでせうもう。」
「其事はよさうぢやありませんか。」
「ねえ、さうでせう。今は他人でせう。その他人の小夜子さんと貴方との間に何の連鎖も殘つて居ない筈ですわ。戸籍と云ふ形式の上にでも、愛情と云ふ心靈の上にでも。ですけど生活費と云ふ經濟上の関係丈けは保たれて行つてゐますのねえ。私に、私にしても貴方が飽きてゐらしつたら、私もやつぱり、私も……。」女は込み上げる涙を押へて、
「私も只お側に居ると云ふ丈け、生命いのちつながさせて下さると云ふ丈け、なんにも、なあんにもないんですわねえ。」女はだんだんやけになつて、泣きくづれた。
 亨一も眞顏まがほになつた。こんなときは、いくら理合りあひをつくして云つても何のききめがないものであると云ふことは明らかであるけれど、やつぱり默つて居ることが出來なかつた。
「愛情がどうのかうのつて、私と貴方との間にそんなことを云ふのは、それは間違つてゐます。私は貴方をどうしました。私はいつ貴方に背きました。小夜子は長年連れそつた女で、澤山苦勞もかけたのですが、それでも私は棄ててしまひました。かうして別れ別れになつてる事は、恐らく小夜子の本心ではないでせうよ。それでも私は貴方と握手した。貴方は……あの蕪木かぶらぎ君。私の友人、私の同志である蕪木君の妻であつた。その貴方を私は愛したため、私が何程どれほどの犠牲を拂つたか、貴方はよつく御承知でせう。あの當時蕪木君は××の監獄へ送られて居たのでした。……。」男の聲はしはがれた中にも熱を帶びて居た。
「貴方は蕪木も承知の上で手を切つたと仰有おつしやつたが、蕪木の心中はどうだつたんでせうか。私には分からなかつたのです。貴方は私と連名で蕪木へ發信した事があつたね。蕪木に比すれば私の狹い自由もまだ大きな範圍で、蕪木は手紙一本書くすら容易に許されない身でした。『汝、掠奪者よ』かう薄墨にかいた端書が來たとき、私は實に熱鐵をつかんだ樣な心持がしました。私は友に背き同志を賣つた、と思ふと私は晝夜寢る目も寢られなかつたんです。それでも私は貴方に背きはしなかつたではありませんか。それから私の窮乏困蹶こんけつが始まり、多數の同志はこと/″\く脣を反らし、完膚くわんぷなきまでに中傷しました。××に買收された××だとまで凌辱されました。生活に窮した爲、藏書や刀劍や、祖母のかたみの古金錢までも賣り、母の住宅までも賣らねばならぬ樣になりました。それでも私は貴方に裏切りはしなかつたでせう。」
 亨一ははふり落つる涙を拂つてことばをつづけた。
「無拘束は私達の信條ですから、勿論戀愛も無拘束です。もし貴方の愛情が他へ移るのならそれも貴方の自由で私は何とも云はない積りです。妻と云ふ詞が從屬的の意義をもつて居るとすれば、貴方は私の妻ではありません。貴方は貴方で、獨立の女として、私は貴方の人格を尊重しませう。現に今日迄も尊重して來て居るつもりです。只私も貴方も戰鬪に疲れた。そして二人とも輕からぬ病氣を抱いてる。私が貴方に家庭の人と云つたのは、貴方に從屬を強ひたのではなくて、貴方に休養を勸告した積りです。小夜子の問題なんぞ、私と貴方とに取つて大した問題ではないぢやありませんか。それよりも、私達が生きなけりやなりますまい。健全に、活々いき/\した生命を養はなきやなりますまい。」云ひ切つて亨一はやさしく詞を和らげた。
「ねえ、もういいでせう。神經が起きると又いけないから。」
 すず子は男の一語一語を洩らさず聞きとつた。それが中程になつた頃「もうよして下さい」と云はうと思つて詞が出て來ぬのであつた。「もういいでせう」と男が最後に云つたときは譯もなくただ悲しくなつてしまつた。

 世にれられない思想に獻身する爲に、亨一は憲法が與へたすべての自由を奪はれた。十年奮鬪して何物をもち得なかつた。國家の基礎が動揺して、今にも、革命の慘禍が渦まくかの樣に思つたことは、どうやら杞憂きいうにすぎなかつたとも考へて見なければならなかつた。不滿と不平とに胸をわくわくさせて居ながら、何にも云はずに立ち※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて行く流俗が却つて幸福であることを今更らしく思つても見なければならなかつた。今の人は讓歩と云ふことの眞意義を知らない。けれども姑息こそくの妥協は、政治、經濟の上では勿論、學問の上にも屡々しば/\行はれて、それで大きな勃發もなしに流轉して行く。讓るべきであると云ふ徹底的見地からするのと、讓るのが自己の利益だと云ふ利己的立場からするのと、意味がちがつて居ても、結果が屡同一に歸着する。そして社會の組織は割合に堅い根柢を作つて進んで行く。こんな平凡な議論にすら耳を傾けなければならなかつた。十重二十重とへはたへにも築き上げられた大鐵壁を目がけてやじりのない矢をぶつつけるやうな、その矢が貫けないからと云つて氣ばかりぢりぢりさせて居たことが、全く無意味に終つてしまつた。
 僅に殘つた親友の大川をはじめ二三の人々は、亨一の將來を氣づかひ、あの儘にしておけば彼は屹度きつと終りを全くすることが出來なくなると云つて、其前途を危んだ。それで誠實と熱心とを以て亨一に生活の轉換を説き、ある方法によつてある程度の自由が亨一に與へられるやうに心配もした。東京に居ちやいけないと、諸友はしきりに隠栖を勸めた。煩雜と抵抗の刺戟から逃れて温泉地へでも行けと云つた。之等これらの默止すべからざる温情が亨一のすさんだ心にうるほひを與へた。三月の初めに東京を逃れて此地に來た。山間の温泉場ではあるが、東京から名古屋へかけての浴客を吸集して、旅館のいらかは高く山腹に聳えて居る。清光園と云つて浴客の爲に作られた丘上の遊園地の一隅に、小さな空家があつて、亨一はそのうちを借りて移り住んだ。
 五月になつた。太陽の熱が南の縁に白くさす日がつづいた。若葉はいい薫の風を生んだ。畑には麥の緑と菜の花の黄色が敷かれた。清澄な山氣を吸ひ、溢るる浴泉をあびて、筆硯を新にした亨一はすつかり落着いてしまつた。平安閑適の生活が形成されそうにも思はれて來た。土色の頬には光澤が出て來て、かすれた聲にもりんとした響が加はつて來た。かうして一年も二年もくらして居られたら、そしてすず子がもすこし自分の今の氣分に調子を合せてくれたら、本當に讀書人となつてしまふことが出來るかもしれない。亨一はかう思ふごとにすず子に教訓した。もつと落着いてくれませんかと。けれどもすず子のひねくれた感情は容易に順正に復さなかつた。この隱れ家にあてて多くの同志からの通信がくる。すず子はその名宛が誰れであらうともみんな自ら開封した。亨一には自分で讀んで聞かせる位にして居た。返事は大抵自分で書く。亨一は著述に忙しいからでもあるが、すず子はまた成るべく社會の人の音信が聞きたかつたのである。中に二三の人からすず子にあてた極めて簡單な手紙が、すず子の心熱をあふるらしかつた。時にはそれを亨一にもかくすことすらあつた。重大な豫報が何であるか、亨一にはほぼ推測がついた。
 女の頬には段々やせが見えて來た。朝からぢつとふさぎ込んで、半日位は口をきかない樣なこともある。さう云ふ時に限つて、女の様子は一面そは/\して居るのであつた。夜なども胸苦しさうに溜息をしたり、寐返りをしたりして、容易に寐付かれないらしい。こんな事が幾晩も幾晩もつづくことがあつた。ある晩亨一は晝の労作のつかれで宵の中からぐつすり寐入つた。そして夜中に目をさました。もう全くの深更であつた。そつと頭を上げて女の容子ようすをうかがつた。すやすやと女の微かな寐息がする。
「今夜はよくねむつてゐる。」亨一はかう思つて枕許のマッチをすつて女のそばへ火をかざした。女の寐姿が明るく男の目にうつつた。きつと結んだ口許には不穩の表情がある。泣き乍ら寐入つたのではあるまいかとも思はれる顏付である。火がきえると室は再びもとの暗に戻つたが、今見た女の寐顏がはつきりういて見える。亨一は起き上つてランプに火をつけた。女の頭の傍に擴げたままの手帳が一册はふられてあるのが目に入つた。亨一は手をのばしてそれを取り上げた。
「犠牲は最高の道徳でない。けれども犠牲は最美の行爲である。」女は書き出しにかう書いてゐる。
「死は人間の解體である。破壞は社會の解體である。死そのものは誰か罪惡であると云はうぞ。それと同じく破壞そのものは亦決して罪惡ではない。死は自然に來たる故に人は免れ難いものだと云ふ。然らば破壞が自然に來たときは、やはり免れ難い運命だと云ふべきであらう。破壞が自然に來る。自然に來る。破壞を企てる人間の行爲は即ち自然の力である。我は自然の力の一部ではあるまいか。」こんなことが、極めて斷片的に書きつづけられてある。殊に最後の一節は、亨一のと胸をついた。
「私共の赤ん坊はよくねかせてある。誰も知らない、日もささない、風もあたらない、あのからす共の目もとどかない處に、泣いたら泣き聲が大きかつたさうだ。」
 亨一は明りを消して床の上に横たはつた。女はまだあの戰慄すべきことを計畫してゐるんだ。女に心の平和を與へて、ふつくりした情緒に生きることを訓練しようと思つて、この三月みつきが間いろいろ苦心をして來たが、それが何程の效果もないらしい。女はやはり恐怖、自棄、反抗の氣分から脱け出すことが出來ないのだ。かう思つて來ると亨一は今更自分の過去の罪惡を考へずに居られなかつた。
 自分はかう云ふ暴逆的×××主義を宣傳するつもりではないのであつた。自分が云つた改革は、訓練と教育の力を待つて、自然に起こる變化の道程を示すと云ふことであつた。自分が呪つた權力は現在の政治が有つてゐるそれでは勿論ない。理想の上の妨害物たる權力そのものを指すのであつた。自由の絶對性を考ふるとき、一切の拘束力を無視しなければならないと云ふときの意味であつた。それを多くの者は混同させてしまつた。理想を云はずに現實を見た。今の政治が自由を奪ふと見た。同志と稱する者がかう云ふ間違つた見方をしただけであるならまだよかつたが、政治家の多數が亦觀察を誤つた。そして謬見びうけんを抱いて社會の繼子まゝことなつた人々に對して、謬見を抱いた政治が施された。脅迫觀念は刻々時々に繼子共の上を襲つた。その襲はれた人の中にすず子があつた。自分自身もをつた。不知しらず不識しらず自分も矯激な言動をするやうになつた。ものは勢である。「かうしては居られない。」「進むべき道は死を賭した一事である。」こんな雰圍氣が、すず子を深くつつんだ。ある夜すず子が自分にあることを囁いた。自分はその當時それを諌止することをし得ない程、自分自らが剋殺こくさつの感じに滿ちて居たのであつた。
 その時の自分の態度が曖昧あいまいであつたのをすず子は賛同したんだと思つた。それも無理がない。實際に自分はあん慫慂しようようしたやうな態度を示して居たからである。それから三阪に對しても、多田に對しても、同じ樣な應答をして居つた。三人はいつの間にか共通の意志を作つたらしい。それも自分には分つて居つたが、自分は何とも云はなかつた。
 すべて自分である。戰慄すべき慘禍の※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)釀者うんぢやうしやは自分である。自分は其せめを負はなければならない。進んで身を渦中に投ずるか。退いて原因力を打ちつてしまふか。自分はこの二つの何れかを擇ばなければならない。

 爪先上りの緩い傾斜を作つて山は南の方へ延びて居る。斜面には雜木一本生えてない。鋏をいれたかとも思はれる樣な丈の揃つた青草の中の小途こみちを、亨一とすず子は上つて行く。途が頂上に達する處に一本の松が立つて居る。その木の下まで行けば、向うは眼界がひろくなつて、富士山がすぐ眼近に見える。村の人は富士見の松と云ひならはして居る。二人はそこまで行つて草をいて腰を下した。五月の日盛りの空はぼうとして、起伏する駿州の丘陵が霞の中から、初夏の姿をあらはして居る。風が温かく吹いて、二人の少し汗した肌を心持よくさました。
 二人は暫く默つて景色に見入つて居た。
「私、いよ/\決心しました。」女の方から話しかけた。
「ええつ。」と男は問返すやうな目付をした。
「私、行つてきますわ。勞役へ。」女はかう云つて男の手をとつた。そしてそれを自分の膝の上までもつてきて、指を一本づつ折るやうにして、まさぐつた。
「今決しなくともいい問題だ。」男はわざと空々しく云つた。
「とても罰金が出來さうにもありませんし、それに……。」
「金なら作る。屹度きつと私が作る。」男は皆まで云はせずきつぱり斷言した。
「それに私はいろいろ考へることがありますの。第一金錢問題で此上貴方を苦しめると云ふことが私には堪へられないんですもの。」
「そんなこと……。」男の云はうとするのを今度は女が遮つた。
「まあきいて下さい。私度々貴方に叱られましたわねえ。落着かないつて。私もどうにかして平和が得たいと思つて、いろいろ反省もしたんですけど、何だか世間が私をぢつとさせて置かないやうで、どう云つたらいいでせう。私の身體ぢゆうに油を注いで、それに火をつけて、その火を風で煽るやうに、私は苦しくつて苦しくつて、騒がずに居られないやうな、折々氣が狂ふのかと思ふやうな心持がして來ますの。私ねえ。貴方のおそばに居ないのであつたなら、うにどうにかなつて居ましたのでせうよ。」
「貴方はまた亢奮しましたね。いけません。いけません。」男は女の膝から自分の手をもぎとる樣にして引いた。
「いいえ。大丈夫です。今日は私はしつかりして居ます。私が勞役に行くと云ふことも、畢竟ひつきやうは貴方の御意思通りに從はうと云ふにすぎません。なぜとおつしやるんですか。私は勞役に服して、そこに平和を發見して來ようと思つてるんですもの。あすこは別世界でせう。全く世間とは沒交渉でせう。今日のことは今日のことで、明日のことは明日と云つたやうに、體だけ動かして居れば、時間が過ぎて行く處です。自由、自由つてどんなに絶叫して居ても、到底與へられない自由ですもの、いつそ極端な不自由の裡に身を置いてしまへば、却つて自由が得られるかもしれません。」
 亨一は此話の間に屡々くちばしさまうとしたがやつと女の詞の句切れを見出した。
「馬鹿な、空想にも程がある。貴方だつてあの中の空氣を吸つたことがある人ぢやないか。あの小さい小ぜりあひ、いがみあひ、絶望が生んだ蠻性。あれを貴方はどう解釋してるのです。」
「私にはまだ大きな理由があります。蕪木のことがその一つ。」女は男の體にひたと身をよせた。
「蕪木が私達を呪つて居ます。私が貴方の傍に居ることは、貴方の身體にも危險です。私があちらへ行つたら、ちつとは蕪木の憤激がやはらぐでせう。それから私は貴方の教訓に從ひます爲に、三阪さん、多田さんとも文通を絶つ必要があります。官憲が丁度よく私と外界とを遮斷してくれますから、私に對するあらゆる讒謗ざんばうも、呪詛じゆそもなくなつてしまひませう。その代り私が歸つて來ましたら……。」
 女は今日に限つて涙が出ない。だけの事を云ひ盡すのに、何にも泣かずに云つてしまつたことが不思議のやうに思はれた。こんなにものを云つてる人間が自分の外にあつて、自分はただその假色こわいろをつかつてるにすぎないのではあるまいかとさへ思はれた。
 ふとこんなことを考へはじめると、今度は本當に悲しくなつて涙がおのづと流れ出た。
「貴方のお話は分りました。」男はかう云つて其次の詞を擇ぶやうな樣子をしてしばらく眼をとぢて居たが、
「貴方は貴方の健康と云ふものを考へて見ませんでしたか。」と云つた。
「いいえ。」女ははつきり答へた。「私の健康。そんなものが何んでせう。私の肋膜ろくまくは毎日うづきます。いつそ腐つてどろどろになつたら、それでいいでせう。それで。」
「いけない。貴方は又亢奮して居ます。そんな亂暴な。」
「亂暴でも生命は自らやぶりはしません。」
「さうでない。貴方は自分で死場所をさがして居るのです。」
「だつて人間には未來がわからない筈ですもの。」
「けれど貴方にはその未來がわかつて居るんです。死ぬる時、場所、方法、それ等はみんな貴方にわかつて居る筈です。」男は女の爲す處を見守つた。彼は決して自分の計畫を棄てるのではない。彼が勞役に行くと云ふ決心も、我を欺き、世間を欺く一つの手段にさへ過ぎないと思はれた。
「私は貴方の未來が不明になつてしまふことを希望します。私が貴方を愛する力の及ぶ限りはこの希望の貫徹に向つて進まねばならない。」
 女は涙のない以前に戻つた。自分が此決心を男に打明けるに至つた迄の徑路を思返して見た。身にあまる大難問が三つも四つも重なり合つて、女の思考、情願、判斷を混亂させてしまつたので、たどるべき徑路の系統の發見に長い間苦しんだ。どうしても棄てることの出來ないのは三阪等と企てたある計畫であつた。これは決して棄てない。かう斷案を一番遠くのものにつけてしまつて、それから段々近い方の問題の整理を考へた。罰金のこと、蕪木のこと、それは勞役に服すると云ふ方法でほぼ解決がつくと思はれたから、最初に片附けてしまつた。自分と亨一との問題、之が彼には最も至難のものであつた。男が目立つて血色がよくなつて、段々晴々した氣分に向つてゆくのを見ると、男の愛する「生」の歡喜の前に自分の計畫の全部を捧げてしまひたいと云ふ心がきざすのであつた。そればかりではない。彼は眞に男を愛して居た。普通の場合で普通の出來事が原因をして居るものならば彼はその原因を破つて破つて、どうしても男の傍に居るやうな手段に出づるに違ひない。ただ彼の計畫は普通の場合でない、普通の事件でない。彼は生命を犠牲にしても辭さない覺悟である。戀愛――勿論それを犠牲とすることに躊躇すべき筈ではないのであつた。それでも女は戀愛を棄てるに忍び得なかつた。兩立すべからざる二つの情願を二つとも成就さす方法は到底發見し得られさうにもなかつた。
 もし、もし女が大膽な計畫に、も一層の大膽さを加へて、男をもその計畫の一人に引き込んで、一緒に實行して一緒に死んでしまふ。と云ふ決心が出來れば、或は二つの情願が、死の刹那せつな融合ゆうがふしてしまふ樣にもならうが、之とて今の亨一にしひることが出來なかつた。結局未解決にして置いて、先づ勞役のこと丈をやつてしまはうと思つた。勞役中で幾分か戀愛の情緒がゆるむかもしれない。又例の計畫の狂熱がさめるかもしれない。なるべくは歸つて來て男の傍で、安易な生活の出來る女になつて見たいと思はぬでもなかつた。ただかう考へてくるときにいつも彼の目前に立ちはだかる一つの恐ろしい事實がある。それは病氣の問題だ。彼の病はもう左肺ををかして居ると云ふことを彼は自覺して居つた。病氣で死ぬ位なら、いつそ××の爲に死なう。こんな風に端のない絲をたぐるやうに考へがぐるぐるとめぐつてあるくのであつた。
 今日男に打ち明けたときでも、無論最後の解決がついてるのではなかつたが、男はもう彼にその覺悟があるのだと思つてしまつた。そして其計畫を止めてしまへと切諌せつかんをした。女は、「それはまだ考へなけりやならないことです」と云はうとしたが、それが女の自負心を傷けるやうにも思はれた。あの事を止めてしまへば自分は「ただの女」となつてしまふ。一旦は喜んで貰へるかもしれないがすぐに又侮蔑がくるであらう。
 とうとう女は云つた。
「貴方は私をどうなさらうと云ふお積り。」女の詞の調子はやや荒々しかつた。
 男は女が何を思違つて居るのであらうかと思つて、殊更ことさらに落着いて、
「どうしようとも思ひません。ただ貴方に平和が與へたいばかりです。」と云つた。
「そんなもの私には不必要です。私は戰士です。革命家です。鬪ひます。あくまでも。」かう云つた女の脣は微にふるへて居た。
「貴方は私の云ふことを誤解して居ます。貴方が勞役に行く。それもいいでせう。貴方がそれほどに仰有おつしやるなら、私もしひて反對はしません。私はただ貴方の病氣を心配するんです。毎晩の樣に不眠症にかかつて、ねつけばすぐ盜汗ねあせがすると云ふぢやありませんか。熱も折々出るさうだ。そんな體で勞役に行つたらどうなるかわからないぢやありませんか。そこで金錢でこの苦難が逃れられるものなら、何とか工夫をして見たい。その工夫が大した犠牲を拂はないでついたら、貴方の身體は私に任せてくれていいでせう。どうしても出來なかつたら、その時は貴方の考へ通りに私は默つて見てゐませう。」男は云ひ終つて立ち上つて、
「話はそれで一段落だ。」と云つた。それは女の心を轉じさすには恰好の調子のことばであつた。

 翌日亨一は金策の爲東京へ出かけた。一二の同志は疑ひ深い目付をして此話を迎へたきりであつた。
「政府から出して貰つたらいいでせう。」と云はんばかりの顏色をして居る。買收云々のことがまだ彼等の念頭に一抹の疑圖を殘して居るのであつた。亨一は矢鱈やたらに激昂した。此の汚名はいづれの時にかすゝがねばならぬと思つた。それ故目前の爭論を惹き起すまいとして耐忍の上にも耐忍をした此日の苦痛は、心骨にしみ徹るのであつた。大川にはもう云ひ出すことが出來ない程澤山世話になつて居つた。けれども今は此人より外にすがる處はないのであつた。自分には基督論キリストろんの腹稿がある。それを書き上げるから前貸をしてくれと頼んで見た。大川は前後の話をよく聞きとつた上に次の如く云つた。
「原稿を買へと云ふんなら、買ひもしようさ。けれどその金がすず子さんの勞役を救ふ目的に使用されると云ふのなら、僕は考へねばならんよ。君と僕との事だから僕は直言するが、なぜあの女を勞役にやらないのか。君があの女と關係を絶つべき絶好の機會が到來してるぢやないか。あの女が君の傍にある間は、とても平和が得られはしないよ。君が男子として此上もない汚名をきせられて居るのも、もとはといへばあいつの爲だ。君の半生の事業はあいつがみにじつて仕舞つた。此上君に惑亂と危險を與へるのもあの女だ。僕は君が此迷夢からさめない間は、之れまで以上の援助を與へることは出來ない。」
 亨一は千百の不滿があつても、温情ある此親友の忠言にことばを反らすことは出來なかつた。
「よく考へて見よう。」と云つた丈であとは何も云はなかつた。
 東京に一泊して悄然として亨一は、伊豆の侘住居わびずまひに歸つた。すず子の顏を見ることさへ苦しいのであつた。すず子はほぼ事の結果を推想して居た。亨一の歸りを出迎へたとき、その推想があたつて居ることをさとつた。そして亨一の心中を想ひやつて氣の毒に思ふ心のみが先に立つて居た。
「すず子さん。」歸つてから、挨拶の外は何も云はずに考へ込んで居た亨一は、女の名を呼んだ。極めて改まつた聲であつた。
「私は貴方にお詫びします。私は生意氣でした。金策の宛もないのに、無暗に意張つて、貴方の折角の決心をさへぎつた。もう貴方の自由に任せませう。どうならうとも私は異議がありません。」
 すず子はやるせない思ひで之を聞いて居た。
「私の決心は一昨日をととひとは變つて居りません。それよりかも一歩進めて考へました。私は貴方と別れます。今日限り別れます。」
「それはどう云ふ譯で。」
「譯なぞ聞いて下さいますな、後生ごしやうですから。私はただ別れたいのです。貴方とかう云ふ間柄になつた初めのことを考へますと、やつぱり譯もなにもなかつたんですわねえ。だから別れるのにも譯はないことにしませう。」
「貴方と別れる位なら、私はこんな苦心をしやしないですよ。」
「さうです。それはようく私に分つて居ます。貴方がどれ丈け私を大切に思つて居て下さいますか、私はすつかり貴方の心を了解しつくして居ます。それでもまだ私から別れると云ふのですもの、貴方が譯をききたいと仰有おつしやるのは當り前の事なのです。ねえ、貴方。それは今はきかずにゐて下さい。それを申しますと、私は悲しくなりますし、覺悟もにぶります。譯は自然とわかつて來ませうから、それまでどうぞねえ。」
「ぢや譯は聞きますまい。其代りすず子さん、私も以前の生活に戻ります。貴方の計畫。貴方と三阪と多田との計畫の中へ、私を加へて貰ひませう。」
 女はおどろいた。なんと返事をして好いかも分らなくなつた。ただ男の顏を見つめた。
「私は男子として忍ぶことの出來ない汚名をきせられた。千秋の恨事とは正に此ことでせう。いつどうして、どこに之をすゝぐか、私には宛がない。ただ一つあるのは、貴方の計畫です。あれに加はつて、思ふ丈のことをすることです。」
 亨一が東京へ行つた一日一夜を通してすず子の考へたことは、之れとは全く反對の趣意であつた。すず子は自分の爲すべき目的と、自分の愛する亨一との并存へいそんがどうしても望み得られないと思つた。どれか一つをなげうたう。かうも考へた。それがとうとう決斷の出來ないのであつた。どれか一つを抛つことが出來なかつたら二つとも抛つてしまはう。こんどはその方をのみ考へた。そして自分が居なくなつた後の男の身の上を考へた。あの人は學者だ。あの人の行くべき道は今僅ながらひらけて來た。私と云ふものが傍に居るから、友人も同志もあの人に離れて居るけれど、獨りになつてしまへば、誤解もとけ、嘲笑もきえる。あの人がもつて居る理性や聰明や智識も復活して來よう。平安閑適の一生があの人の今後に續くであらう。あの人は今私と一しよに殺すべき人でない。理想の人に實行を強ふべきものでない。私が一切を抛つて先づ此處を去る。これがあの人の爲には最も善良な方法である。けれども別れた後の自分はどうなるのであらう。幾ばくもない餘生ではあらうが、その間でも、寂しい、眞暗な時間がどれほど續くかはしれないが、自分は果してそれに堪へ得るであらうか。堪へ得ぬときはどうしよう。死ぬ。さうだそれより外はない。私は死んでもあの人は助かる。私はどうしてもあの人を助けなければならない。ここまで纒めてすず子はほつとした。亨一が歸つて來たら之に基いた相談をしようと決心をして居つた。しかし之を云ひ出すには餘程の注意がいると思つた。
 はしなく男の口からその機會が生れて來た。女はたかぶつた男の言出しをぐつて自分の本心を打明けようとも思つたが、それが果していいか惡いか一寸分らなくなつた。で、先づかう云つた。
「私は貴方とも計畫とも別れてしまふんです。」
 男は叱るやうに云つた。
「貴方まで私を疑つてる。貴方が計畫と別れる。馬鹿なことだ。誰が信ずるものか。」
「本當です。本當に私は抛擲はうてきしました。」
「ぢやどうなるんです。」
「私、勞役に行きます。それから逃亡します。」
串戲じようだんはよして貰はう。私は本氣になつてるんだ。」
「決して串戲ではありません。私の最後の斷案です。私、本統に獨り身になつて、十七八の頃のやうな心になつて、初めつから考へ直して見たいと思ひます。貴方が戀しくつてたまらなくなれば又歸つて來るかもしれません。その辛抱が一日つづくか、三日つづくか。まあやらせて見て下さいな。私が居なくなつて、貴方のお心もどうなりますか、それも私は見たいと思ひます。」
「ぢや貴方は全く計畫を抛つたのですか。」
「ええ。爲方しかたがありません。私は貴方を助けなきやなりませんもの。これで私の心が分るでせう。之からまだ段々分つて來ます。さうしたら貴方は、かはいさうだと思つて下さるでせう。ねえ。」
 泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心がにぶると、女は一生懸命にこらへて居たが、こみ上げて來る悲痛の涙は、もう胸一杯になつて居た。女はそれをまぎらす爲に、ついと立つて縁端へ出た。
 目の下の百姓家からはいくすぢとなく煙があがつてゐる。山の裾から部落の森の間をうねうねして谷川が流れてゐる。そのこちらの方の岸にそつた街道の中程の一軒家から母親らしい女がつとあらはれて、大きく手招ぎをした。何かが鳴つて居ると云ふ姿であつた。そのかほの向いた方の少し先の畑で、子供が一人しやがんで居たがやがて女の方へ走り出した。夕日はもう裏手の山へかくれて居た。向の山は頂が少しあかるいばかり、全體が黒ずんで來た。

 かうときめたことに向つては、わき目もふらず直進するのがすず子の持前であつた。殊に此度のことは一層急いで決行せねばならないのであつた。少しでも心にゆるみが來れば一切が跡もどりになるかもしれない。手まはりの小道具の始末をしてゐる間にも、折々弱い心が意識のしきゐへあらはれて來るのであつた。それを押し殺してすず子はあくる日の朝までに、すつかり仕度をしてしまつた。手近に置くべきもの丈を入れた信玄袋しんげんぶくろは自分で持つて行く。行李はあとから落着いた先へ送つて貰ふことにした。
「もうすつかりになりました。」長火鉢の前に坐つてすず子は獨語ひとりごとのやうに云つた。いかにもがつかりしたやうな風も見えた。
 亨一は昨夜ゆうべからいらいらし通しで居た。深更よふけになつてからも、容易にねむれなかつた。やつとうとうとしたと思つたころには、もう夜は明け放れて居た。起き上つては見たが何だか人心地がしない。身體中が輕くしびれるやうな感じもする。れつきりで女を手放してしまつて、それからどうなることであらうと云ふことは、いくら考へても考へても判斷がつかない。たつた一つの希望は女の心の變化を待つことであつた。かうして居るうちにも、女は東京へ行くことをもうよしてしまひましたと云ふであらうとも思つた。もしさう云つて身を投げ伏せて來たら、兩手でしつかり女を抱いてやらうとも思つた。女はとうとう仕度をしてしまつた。待つたことばが女の口からもれさうにもない。かうなる以上は自分から進んで引き止めなければ、女は此儘行つてしまふことは確である。此確な未來が亨一の目の前に來てぴたりと止まつた。亨一はそれを拂ひのける勇氣もなくなつて居た。
「私、一寸母屋おもやへ挨拶に行つて來ますわ。」
 と女が立つたとき、
「あつ」と男は呼んだ。
「何か御用。」女は男の方へよらうとした。
「跡でいい。」男は投げるやうに云つて、ごろりと横になつた。
 下の普請小屋ふしんごやから木を叩くやうな音が二三度つづいて聞えて來て、またやんだ。空はどうやら曇つてるらしい。
 やがて女は歸つて來た。跡からおかみさんもついて來た。
「奥樣がお歸りになつたら、旦那樣はおさびしいでせうになあ。」とお上さんは縁端に腰をかけ乍ら云つた。
「どうぞねえ。お上さんお願ひしますよ。私も病氣の工合さへよければ、すぐもどつてきますからね。」
「え、え、私でできますことはなんでもしますから。」とお上さんはきさくに云つて、
「それでは車を呼んで來ませう。」と草履ざうりをぱたぱたさせて出て行つた。
「貴方、彌々いよ/\お別れですわ。」と女はしみじみした調子で云つた。
「……。」男は答が喉につかへて出ないのであつた。そしてまじまじと女の樣子を見つめて、その冷靜な態度に比して自分の見苦しさを恥かしいと思つた。
「御無理をなさらないやうにねえ。」女はまだものを云ふ事が出來た。
「私よりも貴方の事だ。生はたつといものですよ。」
 亨一はやつとこれ丈を云つた。
「有難うございます。私は私で精進しますから。」
「私は今は、云ふ事が澤山ありすぎて、かへつて云はれません。何れ手紙で云ひます。あとからすぐ。」
「いいえ、いけません。手紙はよこして下さいませんやうに願ひます、」
「それはあんまり冷酷でせう。」
「決して、そんな譯ではないのです。私、貴方の手紙を見たら、その手紙でまた氣が狂ひます。此上私は苦悶を重ねたくはないのですから。」
「さうですか。ぢや手紙も書きますまい。」男は此ことばの次に「もう一度考へ直して下さい」と云はうと思つたが、この場合それが如何にも意久地いくぢがないやうにも思はれたので、口をつぐんでしまつた。
 表に人のくるけはひがして、がたりと轅棒かぢぼうの下りた音がした。
「車が來ました。」かう云つた女の聲は重いものにつぶされたやうな聲であつた。
(大正元年十月「昴」)





底本:「現代日本文學全集 84 明治小説集」筑摩書房
   1957(昭和32)年7月25日発行
初出:「昴」
   1912(大正元)年10月
入力:小林徹
校正:かとうかおり
1998年7月25日公開
2006年3月30日修正
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