ある晩大学士の小さな
「貝の火
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生、ごく上等の
大学士は葉巻を横にくはへ、
斜めに見上げて聴いてゐた。
「たびたびご迷惑で、まことに恐れ入りますが、いかゞなもんでございませう。」
そこで楢ノ木大学士は、
にやっと笑って葉巻をとった。
「うん、探してやらう。蛋白石のいゝのなら、
「ははあ、そいつはどうもとんだご災難でございました。しかしいかゞでございませう。こんども多分はそんな
「それはもうきっとさう行くね。たゞその時に、僕が何かの都合のために、たとへばひどく疲れてゐるとか、
「それでは何分お願ひいたします。これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」
貝の火兄弟商会の、
鼻の赤いその支配人は、
ねずみ色の状袋を、
上着の
「さうかね。」
大学士は別段気にもとめず、
手を延ばして状袋をさらひ、
自分の
「では何分とも、よろしくお願ひいたします。」
そして「貝の火
赤鼻の支配人は帰って行った。
次の日諸君のうちの
きっと上野の停車場で、
途方もない長い
変な灰色の袋のやうな
七キログラムもありさうな、
素敵な大きなかなづちを、
持った紳士を見ただらう。
それは
宝石を探しに出掛けたのだ。
出掛けた
野宿といふことも起ったのだ。
三晩といふもの起ったのだ。
野宿第一夜
四月二十日の午后四時
例の楢ノ木大学士が
「ふん、
とひとりぶつぶつ言ひながら、
からだを深く折り曲げて
足もとの砂利をねめまはしながら、
大きな河原をのぼって行った。
両側はずゐぶん
大学士はどこまでも
けれどもたうとう日も落ちた。
その両側の山どもは、
一生懸命の大学士などにはお構ひなく
ずんずん黒く暮れて行く。
その上にちょっと顔を出した
遠くの雪の山脈は、
さびしい銀いろに光り、
てのひらの形の黒い雲が、
その上を行ったり来たりする。
それから川岸の細い野原に、
ちょろちょろ赤い野火が
鋭く風を切って
まだどこまでも川を溯って行かうとする。
ところがたうとう夜になった。
今はもう河原の石ころも、
赤やら黒やらわからない。
「これはいけない。もう夜だ。寝なくちゃなるまい。今夜はずゐぶん久しぶりで、愉快な露天に寝るんだな。うまいぞうまいぞ。ところで草へ寝ようかな。かれ草でそれはたしかにいゝけれども、寝てゐるうちに、野火にやかれちゃ
その石は実際柔らかで、
又敷布のやうに白かった。
そのかはり又大学士が、
腕をのばして
ごろりと横になったときは、
外套のせなかに白い粉が、
まるで一杯についたのだ。
もちろん学士はそれを知らない。
又そんなこと知ったとこで、
あわてて起きあがる性質でもない。
水がその広い河原の、
向ふ岸近くをごうと流れ、
空の
山どもがのっきのっきと黒く立つ。
大学士は寝たまゝそれを
又ひとりごとを言ひ出した。
「ははあ、あいつらは
そこで大学士はいゝ気になって、
仰向けのまゝ手を振って、
岩頸の講義をはじめ出した。
「諸君、手っ取り早く
それは実際その通り、
向ふの黒い四つの峯は、
四人兄弟の岩頸で、
だんだん地面からせり上って来た。
「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな。よくわかった。ラクシャンの四人兄弟だ。よしよし。」
注文通り岩頸は
丁度胸までせり出して
ならんで空に高くそびえた。
一番右は
たしかラクシャン第一子
まっ黒な髪をふり乱し
大きな眼をぎろぎろ空に向け
しきりに口をぱくぱくして
何かどなってゐる様だが
その声は少しも聞えなかった。
右から二番目は
たしかにラクシャンの第二子だ。
長いあごを両手に載せて
次はラクシャン第三子
やさしい眼をせはしくまたたき
いちばん左は
ラクシャンの第
夢のやうな黒い
じっと東の高原を見た。
四人を見ようと起き上ったら
雷のやうに怒鳴り出した。
「何をぐづぐづしてるんだ。
楢ノ木大学士はびっくりして
大急ぎで又横になり
いびきまでして寝たふりをし
そっと横目で見つゞけた。
ところが今のどなり声は
大学士に云ったのでもなかったやうだ。
なぜならラクシャン第一子は
やっぱり空へ向いたまゝ
素敵などなりを続けたのだ。
「全体何をぐづぐづしてるんだ。砕いちまへ、砕いちまへ、はね飛ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ噴くんだ。
しづかなラクシャン第三子が
兄をなだめて
「兄さん。少しおやすみなさい。こんなしづかな夕方ぢゃありませんか。」
兄は構はず又どなる。
「地球を半分ふきとばしちまへ。石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする紫のいなびかりを起せ。まっくろな灰の雲からかみなりを鳴らせ。えい、意気地なしども。降らせろ、降らせろ、きらきらの熔岩で海をうづめろ。海から
ラクシャンの若い第
「大兄さん、あんまり
それからこんどは低くつぶやく。
「あんな銀の冠を僕もほしいなあ。」
ラクシャンの狂暴な第一子も
少ししづまって弟を見る。
「まあいゝさ、お前もしっかり支度をして次の噴火にはあのイーハトブの位になれ。十二ヶ月の中の九ヶ月をあの冠で飾れるのだぞ。」
若いラクシャン第四子は
兄のことばは聞きながし
遠い東の
雲を
星のあかりに透し見て
なつかしさうに
「今夜はヒームカさんは見えないなあ。あのまっ黒な雲のやつは、ほんたうにいやなやつだなあ、今日で四日もヒームカさんや、ヒームカさんのおっかさんをマントの下にかくしてるんだ。僕一つ噴火をやってあいつを吹き飛ばしてやらうかな。」
ラクシャンの第三子が
少し笑って弟に云ふ。
「大へん怒ってるね。どうかしたのかい。えゝ。あの東の雲のやつかい。あいつは今夜は雨をやってるんだ。ヒームカさんも
「兄さん。ヒームカさんはほんたうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、こゝからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って
「さうかい。ハッハ。まあいゝよ。あの雲はあしたの朝はもう
「だけど兄さん。僕、今度は、何の花をあげたらいゝだらうね。もう僕のとこには何の花もないんだよ。」
「うん、そいつはね、おれの所にね、桜草があるよ、それをお前にやらう。」
「ありがたう、兄さん。」
「やかましい、何をふざけたことを云ってるんだ。」
金粉の怒鳴り声を
夜の空高く吹きあげた。
「ヒームカってなんだ。ヒームカって。
ヒームカって云ふのは、あの向ふの女の子の山だらう。よわむしめ。あんなものとつきあふのはよせと何べんもおれが云ったぢゃないか。ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れたやつらとちがふんだぞ。」
ラクシャンの第
しょげて首を垂れたが
しづかな
弟のために長兄をなだめた。
「兄さん。ヒームカさんは血統はいゝのですよ。火から生れたのですよ。立派なカンランガンですよ。」
ラクシャンの第一子は
立派な金粉のどなりを
まるで火のやうにあげた。
「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいゝよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのやうにめざましい噴火をやったんだ。あいつは地面まで
煙と火とを固めて空に
山も海もみんな濃い灰に
ラクシャンの第三子は
しばらく考へて云ふ。
「兄さん、私はどうも、そんなことはきらひです。私はそんな、まはりを熱い灰でうづめて、自分だけ一人高くなるやうなそんなことはしたくありません。水や空気がいつでも地面を平らにしようとしてゐるでせう。そして自分でもいつでも低い方低い方と流れて行くでせう、私はあなたのやり方よりは、
このときまるできらきら笑った。
きらきら光って笑ったのだ。
(こんな不思議な笑ひやうを
いままでおれは見たことがない、
楢ノ木学士が考へた。
暴っぽいラクシャンの第一子が
ずゐぶんしばらく光ってから
やっとしづまって
「水と空気かい。あいつらは朝から晩まで、
ラクシャンの第三子も
つい大声で笑ってしまふ。
「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、芝居のせりふのやうなものは、一向あなたに似合ひませんよ。」
ところがラクシャン第一子は
案外に怒り出しもしなかった。
きらきら光って大声で
笑って笑って笑ってしまった。
その笑ひ声の洪水は
空を流れて
ねぼけた雷のやうにとゞろいた。
「うん、さうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない
「火が燃えてゐる。火が燃えてゐる。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん
ラクシャン第一子がびっくりして叫ぶ。
「
その声にラクシャンの第二子が
びっくりして眼をさまし、
その長い
眼を
しばらく野火をみつめてゐる。
「
するとラクシャンの第一子が
ちょっと意地悪さうにわらひ
手をばたばたと振って見せて
「石だ、火だ。熔岩だ。用意っ。ふん。」
と叫ぶ。
ばかなラクシャンの第二子が
すぐ釣り込まれてあわて出し
顔いろをぽっとほてらせながら
「おい兄貴、一
と
兄貴はわらふ、
「一吠えってもう何十万年を、きさまはぐうぐう寝てゐたのだ。それでもいくらかまだ力が残ってゐるのか」
無精な弟は
「ない」
と答へた。
そして又長い
ぽっかりぽっかり寝てしまふ。
しづかなラクシャン第三子が
ラクシャンの第
「空が大へん軽くなったね、あしたの朝はきっと晴れるよ。」
「えゝ今夜は
兄は笑って弟を試す。
「さっきの野火で鷹の子供が焼けたのかな。」
弟は賢く答へた。
「鷹の子供は、もう余程、毛も
兄は心持よく笑ふ。
「そんなら結構だ、さあもう兄さんたちはよくおやすみだ。
するとラクシャン第四子が
ずるさうに
「そんなら僕一つおどかしてやらう。」
兄のラクシャン第三子が
「よせよせいたづらするなよ」
と止めたが
いたづらの弟はそれを聞かずに
光る大きな長い舌を出して
大学士の額をべろりと
大学士はひどくびっくりして
それでも笑ひながら眼をさまし
寒さにがたっと
いつか空がすっかり晴れて
まるで一面星が瞬き
まっ黒な四つの
たゞしくもとの形になり
じっとならんで立ってゐた。
野宿第二夜
わが親愛な
例の長い
すっかりくたびれたらしく
度々空気に
大きな
平らな
すたすた歩いて行ったのだ。
がらんとした大きな石切場が
口をあいてひらけて来た。
学士は
中に入って行きながら
三角の石かけを一つ拾ひ
「ふん、こゝも
つぶやきながらつくづくと
あたりを見れば石切場、
石切りたちも帰ったらしく
小さな
「こいつはうまい。丁度いゝ。どうもひとのうちの
大学士は大きな近眼鏡を
ちょっと直してにやにや笑ひ
小屋へ入って行ったのだ。
土間には四つの石かけが
炉の役目をしその横には
大学士はマッチをすって
火をたき、それからビスケットを出し
もそもそ喰べたり手帳に何か書きつけたり
しばらくの間してゐたが
おしまひに火をどんどん燃して
ごろりと
夜中になって大学士は
「うう寒い」
と云ひながら
ばたりとはね起きて見たら
もうたきゞが燃え尽きて
たゞのおきだけになってゐた。
学士はいそいでたきゞを入れる。
火は赤く愉快に燃え出し
大学士は胸をひろげて
つくづくとよく暖る。
それから
二十日の月は東にかゝり
空気は水より冷たかった、
学士はしばらく足踏みをし
それからたばこを一本くはへマッチをすって
「ふん、実にしづかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」
つぶやきながら小屋に入った。
ぼんやりたき火をながめながら
わらの上に横になり
手を頭の上で組み
うとうとうとうとした。
突然頭の下のあたりで
小さな声で云ひ合ってるのが聞えた。
「そんなに
「おや、変なことを云ふね、一体いつ僕が肱を張ったね」
「そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんたうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね」
「おやそれは私のことだらうか。お前のことぢゃなからうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。」
大学士は眼を大きく開き
起き上ってその辺を見まはしたが
声はだんだん高くなる。
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を
「はてね、少しぐらゐ僕が手足をのばしたってそれをとやかうお前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。」
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこの
すっかり
「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
声はいよいよ高くなる。
「それはたしかに、あなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。」
「どうしたのぢゃないぢゃないか。僕がやっと
「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホル[#「ル」は小書き]ンブレンドだ。すると相手は
大学士は
一本出してマッチをする
声はいよいよ高くなる。
もっともいくら高くても
せいぜい蚊の軍歌ぐらゐだ。
「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対してお前は何と答へたね。いゝえ、そいつは困ります、どうかほかのお方とご相談下さいと
「おや、とにかくさ。それでもお前はかまはず僕の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだらうかね。もっとも誰かさんは出来たやうさ。」
「あてこするない。とりついたんぢゃないよ。お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを頼んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大事に大事にしてあげてるんだ。」
大学士はよろこんで笑ひ出す。
「はっはっは、ジッコさんといふのは磁鉄鉱だね、もうわかったさ、
なるほど大学士の頭の下に
みかげのかけらが落ちてゐた。
学士はいよいよにこにこする。
「さうかい。そんならいゝよ。お前のやうな恩知らずは早く粘土になっちまへ。」
「おや、
「
新らしい二人の声が
一緒にはっきり聞え出す。
「オーソクレさん。かまはないで下さい。あんまりこいつがわからないもんですからね。」
「双子さん。どうかかまはないで下さい。あんまりこいつが恩知らずなもんですからね。」
「ははあ、双晶のオーソクレースが仲裁に入った。これは実におもしろい。」
大学士はたきびに手をあぶり
顔中口にしてよろこんで云ふ。
二つの声が又聞える。
「まあ、静かになさい。僕たちは実に実に長い間堅く堅く結び合ってあのまっくらなまっくらなとこで一緒にまはりからのはげしい圧迫やすてきな強い熱にこらへて来たではありませんか。一時はあまりの熱と力にみんな一緒に気違ひにでもなりさうなのをじっとこらへて来たではありませんか。」
「さうです、それは全くその通りです。けれども苦しい間は人をたのんで楽になると人をそねむのはぜんたいいゝ事なんでせうか。」
「何だって。」
「ちょっと、ちょっと、ちょっとお待ちなさい。ね。そして今やっとお日さまを見たでせう。そのお日さまも僕たちが前に土の底でコングロメレートから聞いたとは大へんなちがひではありませんか。」
「えゝ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云ってゐましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青です。あの人はうそつきでしたね。」
双子の声が又聞えた。
「さあ、しかしあのコングロメレートといふ方は前にたゞの砂利だったころはほんたうに空が茶いろだったかも知れませんね。」
「さうでせうか。とにかくうそをつくこととひとの恩を
「何だと、僕のことを云ってるのかい。よしさあ、僕も覚悟があるぞ。決闘をしろ、決闘を。」
「まあ、お待ちなさい。ね、あのお日さまを見たときのうれしかったこと。どんなに僕らは叫んだでせう。千五百万年光といふものを知らなかったんだもの。あの時鋼の
「それは僕も見たよ。」
「僕も見たんだよ、何だったらうね、あれは。」
大学士は又笑ふ。
「それはね、明らかにたがねのさきから出た火花だよ。パチッて云ったらう。そして熱かったらう。」
ところが学士の声などは
鉱物どもに聞えない。
「そんなら僕たちはこれからさきどうなるでせう。」
双子の声が又聞えた。
「さあ、あんまりこれから愉快なことでもないやうですよ。僕が前にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまゝ又土の中にうづもれるかさうでなければ砂か粘土かにわかれてしまふだけなやうですよ。この小屋の中に居たって安心にもなりません。内に居たって外に居たってたかが二千年もたって見れば結局おんなじことでせう。」
大学士はすっかりおどろいてしまふ。
「実にどうも達観してるね。この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も
その
それからバイオタが泣き出した。
「あゝ、いた、いた、いた、いた、痛ぁい、いたい。」
「バイオタさん。どうしたの、どうしたの。」
「早くプラヂョさんをよばないとだめだ。」
「ははあ、プラヂョさんといふのはプラヂオクレースで青白いから医者なんだな。」
大学士はつぶやいて耳をすます。
「プラヂョさん、プラヂョさん。プラヂョさん。」
「はあい。」
「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く
「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでせう。」
「ははあ、こいつらは風を引くと腹が痛くなる。それがつまり風化だな。」
大学士は
「プラヂョさん。お早くどうか願ひます。
「はぁい。いまだんだんそっちを向きますから。ようっと。はい、はい。これは、なるほど。ふふん。
病人はキシキシと泣く。
「お医者さん。私の病気は何でせう。いつごろ私は死にませう。」
「さやう、病人が病名を知らなくてもいゝのですがまあ
「あゝあ、さっきのホンブレンのやつの
「いや、いや。そんなことはない。けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて
「あゝ、プラヂョさん。どんな手あてをいたしたらよろしうございませうか。」
「さあ、さう云ふ
「プラヂョさん、プラヂョさん、しつかりなさい。一体どうなすったのです。」
「うむ、私も、うむ、風病のうち、うむ、うむ。」
「苦しいでせう、これはほんたうにお気の毒なことになりました。」
「うむ、うむ、いゝえ、苦しくありません。うむ。」
「何かお手あていたしませう。」
「うむ、うむ、実はわたくしも地面の底から、うむ、うむ、大分カオリン病にかかってゐた、うむ、オーソクレさん、オーソクレさん。うむ、今こそあなたにも明します。あなたも丁度わたし同様の病気です。うむ。」
「あゝ、やっぱりさやうでございましたか。全く、全く、全く、実に、実に、あいた、いた、いた、いた。」
そこでホンブレンドの声がした。
「ずゐぶん神経過敏な人だ。すると病気でないものは僕とクォーツさんだけだ。」
「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」
「あ、いた、いた、いた。」
「おや、おや、どなたもずゐぶん弱い。健康なのは僕一人。」
「うむ、うむ、そのクォーツさんもお気の毒ですがクウシャウ中の
「あいた、いた、いた、いた。た。」
「ずゐぶんひどい医者だ。漢方の
大学士は又新らしく
たばこをくはへてにやにやする。
耳の下では鉱物どもが
声をそろへて叫んでゐた。
「あ、いた、いた、いた、いた、た、たた。」
みんなの声はだんだん低く
たうとうしんとしてしまふ。
「はてな、みんな死んだのか。あるいは僕だけ聞えなくなったのか。」
大学士はみかげのかけらを
手にとりあげてつくづく見て
パチッと向ふの
それから
その時はもうあけ方で
大学士は
榾のお礼に
背嚢をしょひ小屋を出た。
石切場の壁はすっかり白く
その西側の面だけに
月のあかりがうつってゐた。
野宿第三夜
(どうも少し引き受けやうが軽率だったな。グリーンランドの成金がびっくりする程立派な
どうも
例の
少しせ中を高くして
つくづく考へ込みながら
もう夕方の
頁岩の波に洗はれる
海岸を
全く海は暗くなり
そのほのじろい波がしらだけ
一列、何かけもののやうに見えたのだ。
いよいよ今日は歩いても
だめだと学士はあきらめて
ぴたっと岩に立ちどまり
しばらく黒い海面と
向ふに浮ぶ腐った
それからくるっと振り向いて
陸の方をじっと見定めて
急いでそっちへ歩いて行った。
そこには低い
削られたらしい小さな
大学士はにこにこして
中へはひって
それからまっくらなとこで
もしゃもしゃビスケットを喰べた。
ずうっと向ふで一列濤が鳴るばかり。
「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。さあ、もう一服やって寝よう。あしたはきっとうまく行く。その夢を今夜見るのも悪くない。」
大学士の吸ふ
ポツンと赤く見えるだけ、
「
濤がぼとぼと鳴るばかり
鳥も
洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、
疲れて
いつかすっかり夜が明けて
昨夜の続きの
青白くぼんやり光ってゐた。
大学士はまるでびっくりして
急いで洞を飛び出した。
あわてて帽子を落しさうになり
それを押へさへもした。
「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いてゐるんだったかな。えゝと、よく思ひ出せないぞ。たしかに昨日も
学士の影は
黒く頁岩の上に落ち
踊ってゐるやうに見えた。
海はもの
空はそれより又青く
幾きれかのちぎれた雲が
まばゆくそこに浮いてゐた。
「おや出たぞ。」
その灰いろの頁岩の
平らな奇麗な層面に
直径が一
五本指の足あとが
深く喰ひ込んでならんでゐる。
所々上の岩のために
かくれてゐるが足裏の
「さあ、見附けたぞ。この足跡の尽きた所には、きっとこいつが倒れたまゝ化石してゐる。
大学士はまるで
その足あとをつけて行く。
足跡はずゐぶん続き
どこまで行くかわからない。
それに太陽の光線は
たいへん足が疲れたのだ。
どうもをかしいと思ひながら
ふと気がついて立ちどまったら
なんだか足が柔らかな
泥に吸はれてゐるやうだ。
堅い
そしたら全く
さっきから一心に
なるほどずうっと大学士の
足もとまでつゞいてゐて
それから先ももっと続くらしかったが
も一つ、どうだ、大学士の
銀座でこさへた
あともぞろっとついてゐた。
「こいつはひどい。我輩の足跡までこんなに深く入るといふのは実際少し恐れ入った。けれどもそれでも探求の目的を達することは達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう
学士はいよいよ
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心臓
ふいごのやうなものは呼吸、
そんなに一生けん命だったが
又そんなにあたりもしづかだった。
大学士はふと波打ぎはを見た。
たしかにさっきまで
寄せて
いつかすっかりしづまってゐた。
「こいつは変だ。おまけにずゐぶん暑いぢゃないか。」
大学士はあふむいて空を見る。
太陽はまるで熟した
そこらも
「ずゐぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆発をやった。その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲してゐるな。けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終るところにあの途方もない
大学士はいよいよ
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥浜は
「さあ、こゝを一つ曲って見ろ。すぐ向ふ側にその骨がある。けれども事によったらすぐ無いかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいゝ。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑ひ
立ちどまって
マッチを
それからわざと顔をしかめ
ごくおうやうに
岬をまはって行ったのだ。
ところがどうだ名高い
その眼は空しく大きく開き
その
煙草もいつか泥に落ちた。
青ぞらの下、向ふの泥の浜の上に
その足跡の持ち主の
途方もない途方もない
いやに細長い
長さ十間、ざらざらの
短い太い足をちゞめ
小さな赤い眼を光らせ
チュウチュウ水を呑んでゐる。
あまりのことに楢ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに
いまや
そろりそろりと
来た方へ
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押す。
そして雷竜の太い尾が
まづ見えなくなりその次に
山のやうな胴がかくれ
おしまひ黒い舌を出して
びちょびちょ水を
大学士はまづ助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさへ行くならもう直きに
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食ひ込まない
堅い
そこまで行けばもう大丈夫
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまひ
博物館へも断はらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に
大体こんな計算だった。
それもまるきり
ところが
も一度ぎくっと立ちどまった。
その
見たまへ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの
まっ黒なほど居ったのだ。
長い
頸をゆっくり上下に振るやつ
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食はれるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあたゞ一つたよりになるのはこの
学士はそっと岬にのぼる。
まるで
合の子みたいな変な木が
そして本当に幸なことは
そこには雷竜が居なかった。
けれども折角登っても
そこらの景色は
あんまりいゝといふでもない、
岬の右も左の方も
泥の
実にもじゃもじゃしてゐたのだ。
水の中でも黒い白鳥のやうに
頭をもたげて泳いだり
頸をくるっとまはしたり
その
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「たうとう来たぞ、喰はれるぞ。」
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したやう。
その
まるで管のやうに続いてゐた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰はれたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、
まだまっ暗で恐らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで
一つ小さなせきばらひをし
まだ雷電が居るやうなので
つくづく
外ではたしかに
「なあんだ。
又たばこを出す。火をつける。
楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものぢゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくはへ
斜めに見ながらかう云った。
「うん探して来たよ、僕は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附からんと云ふことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいづれでございますか。
「あゝ、見せるよ。たゞ僕はあんな立派なやつだから、事によったらもうすっかり曇ったぢゃないかと思ふんだ。実際蛋白石ぐらゐたよりのない宝石はないからね。今日
「なるほど。」
貝の火
鼻の赤いその支配人は
こくっと息を
大学士の手もとを見つめてゐる。
大学士はごく無雑作に
背嚢をあけて逆さにした。
下等な
三十ばかりころげだす。
「先生、困るぢゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりぢゃありませんか。」
「何があんまりだ。僕の知ったこっちゃない。ひどい難儀をしてあるんだ。旅費さへ返せばそれでよからう。さあ持って行け。帰れ、帰れ。」
大学士は上着の
出していきなり投げつけた。
「先生困ります。あんまりです。」
貝の火
赤鼻の支配人は云ひながら
すばやく旅費の袋をさらひ
上着の
「帰れ、帰れ、もう来るな。」
「先生、困ります。あんまりです。」
たうとう貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は帰って行き
大学士は葉巻を横にくはへ
斜めに見ながらにやっと笑ふ。