手紙 二
宮沢賢治
印度のガンジス河はあるとき、水が増して烈しく流されていました。
それを見ている沢山の群集の中に尊いアショウカ大王も立たれました。
大王はけらいに向って「誰かこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか」と問われました。
けらいは皆「陛下よ、それはとても出来ないことでございます」と答えました。
ところがこの河岸の群の中にビンズマティーと云う一人のいやしい職業の女がおりました。大王の問をみんなが口々に相伝えて云っているのをきいて「わたくしは自分の肉を売って生きているいやしい女である。けれども、今、私のようないやしいものでさえできる、まことのちからの、大きいことを王様にお目にかけよう」と云いながらまごころこめて河にいのりました。
すると、ああ、ガンジス河、幅一里にも近い大きな水の流れは、みんなの目の前で、たちまちたけりくるってさかさまにながれました。
大王はこの恐ろしくうずを巻き、はげしく鳴る音を聞いて、びっくりしてけらいに申されました「これ、これ、どうしたのじゃ。大ガンジスがさかさまにながれるではないか」
人々は次第をくわしく申し上げました。
大王は非常に感動され、すぐにその女の処に歩いて行って申されました。
「みんなはそちがこれをしたと申しているがそれはほんとうか」
女が答えました。
「はい、さようでございます。陛下よ」
「どうしてそちのようないやしいものにこんな力があるのか、何の力によるのか」
「陛下よ、私のこの河をさかさまにながれさせたのは、まことの力によるのでございます」
「でもそちのように不義で、みだらで、罪深く、ばかものを生けどってくらしているものに、どうしてまことの力があるのか」
「陛下よ、全くおっしゃるとおりでございます。わたくしは畜生同然の身分でございますが、私のようなものにさえまことの力はこのようにおおきくはたらきます」
「ではそのまことの力とはどんなものかおれのまえで話してみよ」
「陛下よ。私は私を買って下さるお方には、おなじくつかえます。武士族の尊いお方をも、いやしい穢多をもひとしくうやまいます。ひとりをたっとびひとりをいやしみません。陛下よ、このまことのこころが今日ガンジス河をさかさまにながれさせたわけでございます」
●表記について
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