種山ヶ原というのは
北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの
蛇紋岩や、
硬い
橄欖岩からできています。
高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の
底には、ほんの五、六
軒ずつの
部落があります。
春になると、北上の
河谷のあちこちから、
沢山の馬が
連れて来られて、
此の部落の人たちに
預けられます。そして、上の野原に
放されます。それも八月の
末には、みんなめいめいの
持主に
戻ってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草が
枯れはじめ
水霜が下りるのです。
放牧される
四月の間も、半分ぐらいまでは原は
霧や
雲に
鎖されます。
実にこの高原の
続きこそは、東の海の
側からと、西の方からとの風や
湿気のお
定まりのぶっつかり
場所でしたから、雲や雨や
雷や霧は、いつでももうすぐ
起ってくるのでした。それですから、北上川の
岸からこの高原の方へ行く
旅人は、高原に近づくに
従って、だんだんあちこちに
雷神の
碑を見るようになります。その旅人と
云っても、馬を
扱う人の外は、
薬屋か
林務官、
化石を
探す学生、
測量師など、ほんの
僅かなものでした。
今年も、もう空に、
透き
徹った秋の
粉が
一面散り
渡るようになりました。
雲がちぎれ、風が
吹き、夏の休みももう
明日だけです。
達二は、明後日から、また自分で作った小さな
草鞋をはいて、二つの谷を
越えて、学校へ行くのです。
宿題もみんな
済ましたし、
蟹を
捕ることも
木炭を
焼く
遊びも、もうみんな
厭きていました。達二は、家の前の
檜によりかかって、考えました。
(ああ。
此の夏休み中で、一番
面白かったのは、おじいさんと
一緒に上の原へ
仔馬を
連れに行ったのと、もう一つはどうしても
剣舞だ。
鶏の黒い
尾を
飾った
頭巾をかぶり、あの
昔からの赤い
陣羽織を
着た。それから
硬い
板を入れた
袴をはき、
脚絆や
草鞋をきりっとむすんで、
種山剣舞連と大きく書いた
沢山の
提灯に
囲まれて、みんなと町へ
踊りに行ったのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊ったぞ、踊ったぞ。町のまっ
赤な
門火の中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。
楢夫さんと一緒になった時などは、刀がほんとうにカチカチぶっつかったぐらいだ。
ホウ、そら、やれ、
むかし 達谷の 悪路王、
まっくらぁくらの二里の洞、
渡るは 夢と 黒夜神、
首は刻まれ 朱桶に埋もれ。
やったぞ。やったぞ。ダー、ダー、ダースコ、ダーダ、
青い 仮面この こけおどし、
太刀を 浴びては いっぷかぷ、
夜風の 底の 蜘蛛おどり、
胃袋ぅ はいて ぎったりぎたり。
ほう。まるで、……。)
「
達二。
居るが。達二。」達二のお母さんが家の中で
呼びました。
「あん、居る。」達二は走って行きました。
「
善い
童だはんてな、おじぃさんど、
兄※
[#小書き平仮名な、99-13]ど、上の原のすぐ上り口で、草
刈ってるがら、
弁当持って
行って
来。な。それがら牛も
連れてって、草
食ぁせで
来。な。兄※
[#小書き平仮名な、99-14]がら
離れなよ。」
「あん、
行て来る。行て来る。今
草鞋穿ぐがら。」達二ははねあがりました。
お母さんは、
曲げ
物の二つの
櫃と、
達二の小さな
弁当とを紙にくるんで、それをみんな
一緒に大きな
布の
風呂敷に
包み
込みました。そして、達二が
支度をして包みを
背負っている間に、おっかさんは牛をうまやから
追い出しました。
「そだら行って来ら。」と達二は牛を受け
取って云いました。
「気ぃ
付けで行げ。上で
兄※
[#小書き平仮名な、100-5]がら
離れなよ。」
「あん。」達二は、
垣根のそばから、
楊の
枝を一本
折り、青い
皮をくるくる
剥いで
鞭を
拵え、
静に牛を追いながら、上の原への
路をだんだんのぼって行きました。
「ダーダー、スコ、ダーダー。
夜の頭巾は 鶏の黒尾、
月のあかりは………、
しっ、歩け、しっ。」
日がカンカン
照っていました。それでもどこかその光に青い
油の
疲れたようなものがありましたし、また、時々、
冷たい風が
紐のようにどこからか
流れては来ましたが、まだ
仲々暑いのでした。牛が
度々立ち止まるので、達二は少し
苛々しました。
「上さ行って
好い草食え。早ぐ歩げっ。しっ。
馬鹿だな。しっ。」
けれども牛は、美しい草を見る度に、頭を下げて、
舌をべらりと
廻して
喰べました。(牛の肉の中で一番
上等が
此の舌だというのは
可笑しい。
涎れで
粘々してる。おまけに黒い
斑々がある。歩け。こら。)
「歩げ。しっ。歩げ。」
空に少しばかりの、白い雲が出ました。そして、もう大分のぼっていました。谷の
部落がずっと下に見え、
達二の家の
木小屋の
屋根が白く光っています。
路が林の中に入り、達二はあの
奇麗な
泉まで来ました。まっ白の
石灰岩は、ごぼごぼ
冷たい水を
噴き出すあの泉です。達二は
汗を
拭いて、しゃがんで何べんも水を
掬ってのみました。
牛は泉を
飲まないで、
却って
苔の中のたまり水を、ピチャピチャ
嘗めました。
達二が牛と、またあるきはじめたとき、泉が何かを知らせる
様に、ぐうっと鳴り、牛も
低くうなりました。
「雨になるがも知れなぃな。」と達二は空を見て
呟きました。
林の
裾の
灌木の間を行ったり、
岩片の小さく
崩れる
所を何べんも通ったりして、達二はもう原の入口に近くなりました。
光ったり
陰ったり、
幾重にも
畳む
丘々の
向うに、
北上の野原が
夢のように
碧くまばゆく
湛えています。
河が、
春日大明神の
帯のように、きらきら銀色に
輝いて
流れました。
そして
達二は、牛と、原の入口に
着きました。大きな
楢の木の下に、兄さんの
縄で
編んだ
袋が
投げ出され、
沢山の草たばがあちこちにころがっていました。
二
匹の馬は、達二を見て、
鼻をぷるぷる鳴らしました。
「
兄※
[#小書き平仮名な、102-5]。
居るが。兄※
[#小書き平仮名な、102-5]。来たぞ。」達二は
汗を
拭いながら
叫びました。
「おおい。ああい。
其処に
居ろ。今行ぐぞ。」
ずうっと
向うの
窪みで、達二の兄さんの声がしました。牛は沢山の草を見ても、
格別嬉しそうにもしませんでした。
陽がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から
笑って出て来ました。
「
善ぐ来たな。牛も
連れで来たのが。
弁当持ってが。善ぐ来た。今日ぁ
午まがらきっと
曇る。
俺もう少し草
集めて
仕舞がらな、
此処らに
居ろ。おじいさん、今来る。」
兄さんは
向うへ行こうとして、
振り
向いてまた
云いました。
「
腹減ったら、
弁当、先に
喰べてろ。
風呂敷ば、あの馬さ
結付けでおげ。
午まになったらまた来るがら。」
「うん。此処に居る。」
そして達二の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、
太陽は白い
鏡のようになって、雲と
反対に
馳せました。風が出て来て
刈られない草は
一面に
波を立てます。
どうしたのか、牛が
俄かに北の方へ馳せ出しました。
達二はびっくりして、一生
懸命追いかけながら、兄の方に振り向いて
叫びました。
「牛ぁ
逃げる。牛ぁ逃げる。
兄※
[#小書き平仮名な、103-5]。牛ぁ逃げる。」
せいの高い草を分けて、どんどん牛が走りました。達二はどこまでも
夢中で追いかけました。そのうちに、足が何だか
硬張ってきて、自分で走っているのかどうか
判らなくなってしまいました。それからまわりがまっ
蒼になって、ぐるぐる
廻り、とうとう達二は、
深い草の中に
倒れてしまいました。牛の白い
斑が
終りにちらっと見えました。
達二は、
仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらを
薄い
鼠色の雲が、
速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。
達二はやっと
起き上って、せかせか
息しながら、牛の行った方に歩き出しました。草の中には、牛が通った
痕らしく、かすかな
路のようなものがありました。達二は
笑いました。そして、(ふん。なあに、
何処かでのっこり立ってるさ。)と思いました。
そこで達二は、一生懸命それを
跡けて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに
背高の
薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら
一向わからなくなってしまいました。
達二は思い切って、そのまん中のを
進みました。けれどもそれも、時々
断れたり、牛の歩かないような
急な
所を
横様に
過ぎたりするのでした。それでも達二は、
(なあに、
向うの方の草の中で、牛はこっち
向いて、だまって立ってるさ。)と思いながら、ずんずん進んで行きました。
空はたいへん
暗く
重くなり、まわりがぼうっと
霞んできました。
冷たい風が、草を
渡りはじめ、もう雲や
霧が、切れ切れになって
眼の前をぐんぐん通り
過ぎて行きました。
(ああ、こいつは
悪くなってきた。みんな悪いことはこれから
集ってやって来るのだ。)と達二は思いました。
全くその通り、
俄に牛の通った
痕は、草の中で
無くなってしまいました。
(ああ、悪くなった、悪くなった。)達二は
胸をどきどきさせました。
草がからだを
曲げて、パチパチ
云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が
殊に
滋くなって、
着物はすっかりしめってしまいました。
達二は
咽喉一杯叫びました。
「
兄※
[#小書き平仮名な、105-1]。兄※
[#小書き平仮名な、105-1]。牛ぁ逃げだ。兄※
[#小書き平仮名な、105-1]。兄※
[#小書き平仮名な、105-1]。」
何の
返事も聞えません。
黒板から
降る
白墨の
粉のような、
暗い
冷たい
霧の
粒が、そこら
一面踊りまわり、あたりが俄にシインとして、
陰気に陰気になりました。草からは、もう
雫の音がポタリポタリと聞えてきます。
達二は早く、おじいさんの所へ
戻ろうとして
急いで引っ
返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは
違っていたようでした。
第一、
薊があんまり沢山ありましたし、それに草の
底にさっき
無かった岩かけが、
度々ころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり
眼の前に
現われました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。
風が来ると、
芒の
穂は
細い沢山の手を一ぱいのばして、
忙しく
振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて
云っている
様でした。
達二はあんまり見っともなかったので、目を
瞑って
横を
向きました。そして
急いで引っ
返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは
沢山の馬の
蹄の
痕で出来上っていたのです。達二は、
夢中で、
短い
笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
けれども、たよりのないことは、みちのはばが五
寸ぐらいになったり、また三
尺ぐらいに
変ったり、おまけに何だかぐるっと
廻っているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんの
焼けた
栗の木の前まで来た時、ぼんやり
幾つにも
岐れてしまいました。
其処は多分は、野馬の
集まり
場所であったでしょう、
霧の中に円い広場のように見えたのです。
達二はがっかりして、黒い道をまた
戻りはじめました。知らない
草穂が
静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが
合図をしてでもいるように、
一面の草が、それ来たっとみなからだを
伏せて
避けました。
空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ
眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。達二はしばらく自分の眼を
疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと
近寄って見ますと、それは
冷たい大きな黒い岩でした。
空がくるくるくるっと白く
揺らぎ、草がバラッと
一度に
雫を
払いました。
(
間違って原を
向う
側へ下りれば、もうおらは死ぬばかりだ。)と達二は、半分思う
様に半分つぶやくようにしました。それから
叫びました。
「
兄※
[#小書き平仮名な、107-2]、兄※
[#小書き平仮名な、107-2]、居るが。兄※
[#小書き平仮名な、107-2]。」
また明るくなりました。草がみな
一斉に
悦びの
息をします。
「
伊佐戸の町の、電気
工夫の
童ぁ、山男に手足ぃ
縛らえてたふうだ。」といつか
誰かの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。
そして、黒い
路が、
俄に消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから
非常に強い風が
吹いて来ました。
空が
旗のようにぱたぱた光って
翻えり、火花がパチパチパチッと
燃えました。
達二はいつか、草に
倒れていました。
そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の
出来事のようでした。牛が
逃げたなんて、やはり
夢だかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いていたのでしょうか。
達二はみんなと
一緒に、たそがれの
県道を歩いていたのです。
橙色の月が、来た方の山からしずかに
登りました。伊佐戸の町で
燃す火が、赤くゆらいでいます。
「さあ、みんな
支度はいいが。」誰かが叫びました。
達二はすっかり太い白いたすきを
掛けてしまって、
地面をどんどん
踏みました。
楢夫さんが空に
向って叫んだのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコダーダー。」それから、
大人が
太鼓を
撃ちました。
達二は刀を
抜いてはね上りました。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
「
危なぃ。
誰だ、刀抜いだのは。まだ町さも来なぃに早ぁじゃ。」
怪物の
青仮面をかぶった
清介が
威張って
叫んでいます。赤い
提灯が
沢山点され、達二の兄さんが提灯を
持って来て達二と
並んで歩きました。兄さんの足が、
寒天のようで、
夢のような色で、
無暗に長いのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
町はずれの町長のうちでは、まだ
門火を燃していませんでした。その
水松樹の
垣に
囲まれた、
暗い
庭さきにみんな
這入って行きました。
そして達二はまたうとうとしました。そこで
霧が
生温い
湯のようになったのです。
可愛らしい女の子が達二を
呼びました。
「おいでなさい。いいものをあげましょう。そら。
干した
苹果ですよ。」
「ありがど、あなたはどなた。」
「わたし
誰でもないわ。
一緒に
向うへ行って
遊びましょう。あなた
驢馬を
有っていて。」
「驢馬は
持ってません。
只の
仔馬ならあります。」
「只の仔馬は大きくて
駄目だわ。」
「そんなら、あなたは小鳥は
嫌いですか。」
「小鳥。わたし
大好きよ。」
「あげましょう。
私はひわを有っています。ひわを一
疋あげましょうか。」
「ええ。
欲しいわ。」
「あげましょう。私今持って来ます。」
「ええ、早くよ。」
達二は、一生
懸命、うちへ走りました。
美しい
緑色の野原や、小さな
流れを、一心に走りました。野原は何だかもくもくして、ゴムのようでした。
達二のうちは、いつか野原のまん中に
建っています。
急いで
籠を
開けて、小鳥を、そっとつかみました。そして引っ
返そうとしましたら、
「達二、どこさ行く。」と達二のおっかさんが
云いました。
「すぐ来るがら。」と云いながら
達二は鳥を見ましたら、鳥はいつか、
萌黄色の
生菓子に
変っていました。やっぱり
夢でした。
風が
吹き、空が
暗くて
銀色です。
「
伊佐戸の町の
電気工夫のむすこぁ、ふら、ふら、ふら、ふら、ふら、」とどこかで
云っています。
それからしばらく空がミインミインと鳴りました。達二はまたうとうとしました。
山男が
楢の木のうしろからまっ
赤な顔を
一寸出しました。
(なに
怖いことがあるもんか。)
「こりゃ、山男。出はって
来。切ってしまうぞ。」達二は
脇差しを
抜いて
身構えしました。
山男がすっかり怖がって、草の上を四つん
這いになってやって来ます。
髪が風にさらさら鳴ります。
「どうか
御免御免。
何じょなことでも
為んす。」
「うん。そんだら
許してやる。
蟹を百
疋捕って
来。」
「ふう。蟹を百疋。それ
丈けでようがすかな。」
「それがら
兎を百疋捕って
来。」
「ふう。
殺してきてもようがすか。」
「うんにゃ。わが※
[#小書き平仮名ん、111-2]なぃ。生ぎだのだ。」
「ふうふう。かしこまた。」
油断をしているうちに、
達二はいきなり山男に足を
捉まいて
倒されました。山男は達二を組み
敷いて、刀を
取り上げてしまいました。
「
小僧。さあ、来。これから、
俺れの
家来だ。来う。この刀はいい刀だな。
実に
焼きをよぐかげである。」
「ばが。
奴の家来になど、ならなぃ。殺さば殺せ。」
「
仲々ず太ぃやづだ。
来ったら来ぅ。」
「行がない。」
「ようし、そんだらさらって行ぐ。」
山男は達二を
小脇にかかえました。達二は、
素早く刀を
取り
返して、山男の
横腹をズブリと
刺しました。山男はばたばた
跳ね
廻って、白い
泡を
沢山吐いて、
死んでしまいました。
急にまっ
暗になって、
雷が
烈しく鳴り出しました。
そして達二はまた
眼を
開きました。
灰色の
霧が
速く速く
飛んでいます。そして、牛が、すぐ
眼の前に、のっそりと立っていたのです。その眼は
達二を
怖れて、
横の方を
向いていました。達二は
叫びました。
「あ、
居だが。
馬鹿だな。
奴は。さ、
歩べ。」
雷と風の音との中から、
微かに兄さんの声が聞えました。
「おおい、達二。
居るが。達二。達二。」
達二はよろこんでとびあがりました。
「おおい。居る、居る。
兄なぁ。おおい。」
達二は、牛の
手綱をその首から
解いて、引きはじめました。
黒い
路がまたひょっくり草の中にあらわれました。そして達二の兄さんが、とつぜん、眼の前に立ちました。達二はしがみ
付きました。
「
探したぞ。こんたな
処まで来て。
何して
黙って
彼処に
居なぃがった。おじいさんうんと
心配してるぞ。さ、
早く
歩べ。」
「牛ぁ
逃げだだも。」
「牛ぁ逃げだ。はあ、そうが。何にびっくりしたたがな。すっかりぬれだな。さあ、
俺のけら
着ろ。」
「
一向寒ぐなぃ。兄※
[#小書き平仮名な、112-16]のなは大きくて引き
擦るがらわが※
[#小書き平仮名ん、112-16]なぃ。」
「そうが。よしよし。まず
歩べ。おじいさん、火たいて
待ってるがらな。」
緩い
傾斜を、二つ
程昇り
降りしました。それから、黒い大きな
路について、
暫らく歩きました。
稲光が二
度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を
焼く
匂がして、
霧の中を
煙がほっと
流れています。
達二の兄さんが
叫びました。
「おじいさん、
居だ、居だ。達二ぁ居だ。」
おじいさんは霧の中に立っていて、
「ああそうが。
心配した、心配した。ああ
好がった。おお達二。
寒がべぁ、さあ入れ。」と
云いました。
半分に焼けた大きな
栗の木の
根もとに、草で作った小さな
囲いがあって、チョロチョロ赤い火が
燃えていました。
兄さんは牛を
楢の木につなぎました。
馬もひひんと鳴いています。
「おおむぞやな。な。何ぼが
泣いだがな。さあさあ
団子たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。
全体何処まで行ってだった。」
「
笹長根の下り口だ。」と兄が答えました。
「
危ぃがった。危ぃがった。
向うさ
降りだらそれっ切りだったぞ。さあ
達二。
団子喰べろ。ふん。まるっきり馬こみだぃに食ってる。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おじいさん。今のうぢに草
片附げで来るべが。」と達二の兄さんが云いました。
「うんにゃ。も少し
待で。またすぐ晴れる。おらも
弁当食うべ。ああ心配した。
俺も
虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ
好がった。雨も晴れる。」
「
今朝ほんとに天気好がったのにな。」
「うん。また
好ぐなるさ。あ、雨
漏ってきた。草少し
屋根さかぶせろ。」
兄さんが出て行きました。
天井がガサガサガサガサ
云います。おじいさんが、
笑いながらそれを見上げました。
兄さんがまたはいって来ました。
「おじいさん。明るぐなった。雨あ
霽れだ。」
「うんうん。そうが。さあ
弁当食ってで草
片附げべ。達二。弁当食べろ。」
霧がふっと切れました。
陽の光がさっと
流れて入りました。その
太陽は、少し西の方に
寄ってかかり、
幾片かの
蝋のような霧が、
逃げおくれて
仕方なしに光りました。
草からは
雫がきらきら
落ち、
総ての
葉も
茎も花も、今年の
終りの陽の光を
吸っています。
はるかの
北上の
碧い野原は、今
泣きやんだようにまぶしく
笑い、
向うの
栗の木は、青い後光を
放ちました。
底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第八巻 童話

本文篇」筑摩書房
1995(平成7)年5月25日初版第一刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本巻末の大塚常樹氏による注釈は省略しました。
※表題は底本では、「
種山ヶ原」となっています。
※「 町はずれの町長のうちでは、まだ
門火を燃していませんでした。その
水松樹の
垣に
囲まれた、
暗い
庭さきにみんな
這入って行きました。」と「 そして達二はまたうとうとしました。」の行間に、底本の親本の104、105頁にあたる下記の文章が脱落しているのは底本通りです。
「 小さな奇麗な子供らが出て来て、笑って見ました。いよいよ大人が本気にやり出したのです。
「ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」
「夜風さかまき ひのきはみだれ、
月は射そゝぐ 銀の矢なみ、
打ぅつも果てるも 一つのいのち、
太刀の軋りの 消えぬひま。ホッ、ホ、ホッ、ホウ。」
刀が青くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせわしく動いてゐます。
「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなづま すゝきのさやぎ、燃えて……」
組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。
青仮面が出て来て、
溺死する時のやうな
格好で一生懸命跳ね廻ります。子供らが泣き出しました。
達二は笑ひました。
月が俄かに意地悪い片眼になりました。それから銀の盃のやうに白くなって、消えてしまひました。
(先生の声がする。さうだ。もう学校が始まってゐるのだ。)と達二は思ひました。
そこは教室でした。先生が何だか少し瘠せたやうです。
「みなさん。楽しい夏の休みももう過ぎました。これからは気持ちのいゝ秋です。一年中、一番、勉強にいゝ時です。みなさんはあしたから、又しっかり勉強をするのです。
どなたも宿題はして来たでせうね。今日持って来た方は手をあげて。」
達二と楢夫さんと、たった二人でした。
「明日は忘れないでみなさん持って来るのですよ。もし、ぜんたい、してしまはなかった人があっても、やはりその儘、持って来るのです。すっかりしてしまはなかった人は手をあげて。」
誰も上げません。
「さうです。皆さんは立派な生徒です。休み中、みなさんは何をしましたか。そのうちで一番面白かったことは何ですか。達二さん。」
「おぢいさんと仔馬を集めに行ったときです。」
「よろしい。大へん結構です。楢夫さん。あなたはお休みの間に、何が一番楽しかったのですか。」
「剣
舞です。」
「剣
舞をあなたは踊ったのですか。」
「さうです。」
「どこでゞすか。」
「
伊佐戸やあちこちです。」
「さうですか。まあよろしい。お座りなさい。みなさん。外にも剣舞に出た人はありますか。」
「先生、私も出ました。」
「先生、私も出ました。」
「達二さんも、さうですか。よろしい。みなさん。
剣舞は決して悪いことではありません。けれども、勿論みなさんの中にそんな方はないでせうが、それでお銭を貰ったりしてはなりません。みなさんは、立派な生徒ですから。」
「先生。私はお銭を貰ひません。」
「よろしい。さうです。それから………。」
達二は、眼を開きました。みんな夢でした。冷たい霧や雫が額に落ちました。空は霧で一杯で、なんにも見えません。俄かに明るくなったり暗くなったりします。一本のつりがねさうが、身体を屈めて、達二をいたはりました。」
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月5日作成
2017年7月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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