ある年の正月に私はまた老人をたずねた。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます。当年も相変りませず……」
半七老人に行儀正しく新年の寿を述べられて、書生流のわたしは少し面食らった。そのうちに御祝儀の
「いつものお話で何か春らしい種はありませんか」
「そりゃあむずかしい御註文だ」と、老人は
文久三年正月の門松も取れて、俗に六日年越しという日の暮れ方に、熊蔵という手先が神田三河町の半七の
「今晩は……」
「どうだい、熊。春になっておもしれえ話もねえかね」
半七は長火鉢の前で訊いた。
「いや、実はそれで今夜上がったんですが……。親分、ちっと聞いてお貰い申してえことがあるんです」
「なんだ。又いつもの法螺熊じゃあねえか」
「どうして、どうして、こればかりは決して法螺のほの字もねえんで……」と、熊蔵はまじめになって膝を揺り出した。「去年の冬、なんでも霜月の中頃からわっしの家の二階へ毎日遊びに来る男があるんです。変な奴でしてね、どう考えてもおかしな奴なんです」
三馬の浮世風呂を読んだ人は知っているであろう。江戸時代から明治の初年にかけては大抵の湯屋に二階があって、若い女が茶や菓子を売っていた。そこへ来て
「ねえ、親分。それが
「変でねえ、あたりまえだ」
武士が銭湯に入浴する場合には、
「けれども、毎日欠かさずに来るんですぜ」
「
「だって、おかしいじゃありませんか。まあ聴いておくんなせえ。去年の冬からかれこれもう五十日も毎日つづけて来るんですぜ。
「そうよなあ」と、半七は少しまじめになって考えはじめた。
「どうです。親分はそいつ等をなんだと思います」
「
「えらい」と、熊蔵は手を
「そんなことかも知れねえ。その二人はどんな奴らだ」
「どっちも若けえ奴で……。一人の野郎は二十二三で色の小白い、まんざらでもねえ男っ振りです。もう一人もおなじ年頃の、片方よりは背の高い、これもあんまり安っぽくねえ野郎です。相当に道楽もした奴らだとみえて、茶代の置きっ振りも悪く無し、女を相手に鰯や鯨の話をしているほどの
「むむ」と、半七はまた考えた。
黒船の帆影が伊豆の海を驚かしてから、世の中は
「じゃあ、なにしろ
「お待ち申しています。
あくる朝は七草
裏口からそっとはいると、熊蔵は待っていた。
「親分、ちょうど好い処です。一人の野郎は来ています。なんでも湯にへえっているようです」
「そうか。それじゃあ俺も一ッ風呂泳いで来ようか」
半七は更に表へ廻って、普通の客のように湯銭を払ってはいると、まっ昼間の
「あの、
「そうです、あの若けえ野郎です」
「あれは偽者じゃあねえ」
「ほんとうの
「足を見ろ」
武士は常に重い大小をさしているので、自然の結果として左の足が比較的に発達している。足首も右より大きい。裸でいるところを見届けたのだから間違いはないと半七は云った。
「じゃあ、御家人でしょうか」
「髪の結いようが違う。やっぱり何処かの藩中だろう」
「なるほど」と、熊蔵はうなずいた。「そこで親分。きょうは
「そういえば、お吉は見えねえようだが、どうした」
「今時分は
「そりゃあそうだ」
「なんでもお吉が受け取って、貸し切りの着物棚のなかへ押し込んだようでしたが……。まあ、お待ちなせえ」と、熊蔵はそこらの戸棚を探して、一つの風呂敷包みを持ち出して来た。濃い藍染めの風呂敷をあけると、中には更に萠黄の風呂敷につつんだ二個の箱のようなものが這入っていた。
「ちょいと下を見てきますから」
熊蔵は
「あいつがもし湯から揚がったら、咳払いをして知らせるように、番台の奴に云いつけて置きましたから大丈夫です」
二重につつんだ風呂敷の中からは、一種の溜め塗りのような古い箱が二個あらわれた。箱は能楽の
蓋をあけても中身はすぐに判らなかった。中にしまってある品は、魚の皮とも油紙とも
「べらぼうに厳重だな」
包みを解いて熊蔵は思わずあっと叫んだ。ふたりの眼の前に現われたものは人間の首であった。併しそれは幾千百年を経過したか容易に想像することを許さないほどに枯れ切った古い首で、皮膚の色は腐った木の葉のように黒く黄ばんでいた。半七や熊蔵の眼には、それが男か女かすらも殆ど判断が付かなかった。
二人は息を
「親分。こりゃあ何でしょう」
「判らねえ。なにしろ、そっちの箱を明けてみろ」
熊蔵は無気味そうに第二の箱をあけると、その中からも油紙のようなものに鄭重に包まれた一個の首が転げ出した。併しそれは人間の首でなかった。短い
奇怪な発見がこんなに続いて、二人は少なからずおびやかされた。
熊蔵は彼を
「こいつあいけねえ、ちょっとはなかなか判らねえ」
番台で咳払いをする声がきこえたので、二階の二人はあわててこの疑問の二品を箱へしまって、着物戸棚へ元のように押し込んで置いた。獅子の囃子も遠くなって、お吉は外から帰って来た。武士も濡れ手拭をさげて二階へ昇って来た。半七は素知らぬ顔をして茶を飲んでいた。
お吉は半七の顔を識っていたので、武士にそっと注意したらしい。彼は隅の方に坐ったままで何も口を利かなかった。熊蔵は半七の袖をひいて、一緒に下へ降りて来た。
「お吉が変な目付きをしたんで、野郎すっかり固くなって用心しているようだから、きょうはとても駄目だろう」と、半七は云った。
熊蔵は
「もう一人の奴というのはまだ来ねえんだね」
「きょうはどうしたか遅いようですよ」
「なにしろ気をつけてくれ、頼むぜ」
半七はそれから赤坂の方へ
「まさか魔法使いでもあるめえ。あんな物を持ち廻って、何か祈祷か
黒船以来、宗門改めも一層厳重になっている。もしかれらが切支丹宗門の徒であるとすれば、これも見逃がすことは出来ない。どっちにしても眼を放されない奴らだと半七はかんがえていた。赤坂から家へ帰って、その晩は無事に寝る。と、あくる朝のまだ薄暗いうち、かの湯屋熊が又飛び込んで来た。
「親分、大変だ。大変だ。あいつらがとうとう遣りゃがった。こっちの手遅れで口惜しいことをしてしまった」
熊蔵の報告によると、ゆうべ同町内の伊勢屋という質屋へ浪人風の二人組の押し込みがはいって、例の軍用金を云い立てに有り金を出せと云った。こっちで素直に渡さなかったので、かれらは大刀をふり廻して主人と番頭に手を負わせた。そうして、そこらに有合わせた金を八十両ほど引っさらって行った。覆面していたから
「どうしても彼奴らですよ。わっしの二階を足
「そいつは
「打捨って置けませんとも……。そのうちに
そう云われると、半七も落ち着いていられなくなった。自分が一旦手を着けかけた仕事を、ほかの者にさらって行かれるのは如何にも口惜しい。と云って、無証拠のものを無暗に召捕るわけには行かなかった。まして相手は武士である。
「なにしろ、おめえは家へ帰って、その
熊蔵を帰して、半七はすぐに朝飯を食った。それから身支度をして愛宕下へ出かけて行ったが、その途中に少し寄り道をする用があるので、日蔭町の方へ廻ってゆくと、会津屋という刀屋の前に一人の若い武士が腰を掛けて、なにか番頭と掛け合っているらしかった。ふと見ると、その武士はきのう湯屋の二階で初めて出逢った怪しい箱の持ち主であった。
半七は立ち停まってじっと視ていると、武士はやがて番頭から金をうけ取って、早々にこの店を出て行った。すぐにその後を
「お早うございます」
「神田の親分、お早うございます」
番頭は半七の顔を識っていた。
「春になってから馬鹿に冷えますね」と、半七は店に腰をかけた。「つかねえことを訊き申すようだが、今ここを出た武家はお
「いいえ、初めて見えた方です。こんなものを持ち歩いて、そこらで二、三軒ことわられたそうですが、とうとう私の家へ押し付けて行ってしまったんですよ」と、番頭は苦笑いをしていた。その傍には何か油紙に包んだ
「何ですえ、それは……」
「こんなもので……」
油紙をあけると、そのなかから薄黒い泥まぶれの魚のようなものが現われた。それは刀の
「鮫の皮ですか。こうして見ると、随分きたないもんですね」
「まだ仕上げの済まない泥鮫ですからね」と、番頭はそのきたない鮫の皮を打返して見せた。
「御承知の通り、この鮫の皮はたいてい異国の遠い島から来るんですが、みんな泥だらけのまま送って来て、こっちで洗ったり磨いたりして初めてまっ白な綺麗なものになるんですが、その仕上げがなかなか面倒でしてね。それに
「成程ねえ」と半七も感心したようにうなずいてみせた。この薄ぎたない鮫の皮が玉のように白く美しい柄巻になろうとは、素人にちょっと思い付かないことであった。
「あのお武家が、これを売りに来たんですかえ」と、半七は鮫の皮を打ち返して見た。
「長崎の方で買ったんだそうで、相当の値段に引き取ってくれという掛け合いなんです。わたしの方も商売ですから引き取ってもいいんですが、いくらお武家でも素人の持って来たものは何だか不安ですし、おまけにこのとおりの泥鮫で、たった一枚というんですから、もし血暈でも付いている奴を背負い込んだ日にゃ迷惑ですからね。まあ一旦は断わったんですが、幾らでもいいからと頻りに口説かれて、とうとう
余程ひどく踏み倒したと見えて、番頭はその引き取り値段を云わなかった。半七の方でも訊かなかった。それにしても
「いや、どうもお邪魔をしました」
小僧が汲んで来た番茶を一杯飲んで、半七は会津屋の店を出た。それからすぐに愛宕下の湯屋へゆくと、熊蔵は待ち兼ねたように飛び出して来た。
「親分、きのうの若けえ野郎は
「なにか抱えていやしなかったか」
「なんだか知らねえが、長っ細い風呂敷包みを持っていましたよ」
「そうか。おれは途中でそいつに逢った。そこでもう一人の方はどうした」
「背の高い奴はきょうも来ませんよ」
「じゃあ、熊。気の毒だがその伊勢屋とかいう質屋へ行って、金のほかに何を
こう云い置いて二階へあがると、火鉢の前にお吉がぼんやり坐っていた。半七が二日もつづけてくるので、彼女もなんだか不安らしい眼付きをしていたが、それでも笑顔を
「親分、いらっしゃいまし。どうもお寒うございますこと」
茶や菓子を出して頻りにちやほやするのを、半七は好い加減にあしらいながら先ず煙草を一服すった。それから毎日邪魔をするからと云って幾らかの
「毎度ありがとうございます」
「時におふくろも兄貴も達者かえ」
お吉の兄は左官で、
「はい、おかげさまで、みんな達者でございます」
「兄貴はまだ若いから格別だが、阿母はもう好い年だそうだ。むかしから云う通り、孝行をしたい時には親は無しだ。今のうちに親孝行をたんとしておくがいいぜ」
「はい」と、お吉は顔を
それがなんだか恥かしいような、気が
「ところが、この頃はちっと浮気を始めたという噂だぜ。ほんとうかい」
「あら、親分……」と、お吉はいよいよ顔を紅くした。
「でも、去年から遊びにくる二人連れの
「まあ」
「何がまあだ。そこでお前に訊きてえのは
「そんな話でございますよ」と、お吉はあいまいな返事をしていた。
「それからおめえ気の毒だが、そのうちに番屋へちょいと来てもらうかも知れねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
「親分。なんの御用でございます」
「あの二人の武士に就いてのことだが、それとも番屋まで足を運ばねえで、ここで何もかも云ってくれるかえ」
お吉はからだを固くして黙っていた。
「え、あの二人の商売はなんだえ。いくら勤番者だって、暮も正月も毎日毎日湯屋の二階にばかり転がっている訳のものじゃあねえ。何かほかに商売があるんだろう。なに、知らねえことはねえ。おめえはきっと知っている筈だ。正直に云ってくんねえか。一体あの戸棚にあずかってある箱はなんだえ」
紅い顔を水色に染めかえて、お吉はおどおどしていた。
こんな商売をしていながら、割合に人
「なんでもあの人達は
「かたき討……」と半七は笑い出した。「冗談じゃあねえ。芝居じゃああるめえし、今どきふたり揃って江戸のまん中で仇討もねえもんだ。だが、まあいいや、かたき討なら仇討として置いて、あの二人の居どこはまったく知らねえんだね」
「まったく知りません」
この上に責めても素直に口を開きそうもないので、半七もしばらく考えていると、熊蔵が
「親分。ちょいと顔を貸しておくんなせえ」
「なんだ。そうぞうしい」
わざと落ち着き払って、半七は階子を降りてゆくと、熊蔵は摺り寄ってささやいた。
「伊勢屋じゃあ金のほかに、べんべら物を三枚と鮫の皮を五枚
「鮫の皮……」と、半七は胸を躍らせた。「それは泥鮫か、仕上げの皮か」
「さあ、そりゃあ訊いて来ませんでしたが……。もう一遍きいて来ましょうか」
熊蔵は又急いで出て行った。やがて引っ返して来て、それはみな磨きの白い皮で、露月町の柄巻師から質に取ったものだと報告した。泥鮫でないと聞いて、半七はすこし
「どうも判らねえ」
なにしろもう
「あのお吉の奴は、よっぽどあの
「そうです。そうです。それですからどうも巧く行かねえんですよ。あいつ思うさま嚇かしてやりましょうか」
「いや、おれも好い加減おどかして置いたから、もうたくさんだ。あんまり嚇かすと却って碌なことはしねえもんだ。まあ、もう少し打っちゃって置け」
二人は
「あ、野郎が来ましたよ。あの箱を一つ抱え出したらしゅうがすぜ」と、熊蔵は眼をひからして伸び上がった。
「ちげえねえ。すぐ
「よがす」
熊蔵はすぐに彼のあとを尾けて行った。半七は引っ返して湯屋にはいって、念のために二階にあがって見ると、お吉の姿がいつの間にか消えていた。更に戸棚をあらためると、かの怪しい二つの箱も見えなかった。
「みんな持ち出してしまいやあがったな」
二階を降りて来て番台の男に訊くと、お吉はたった今階子を降りて奥へ行ったらしいと云うので、半七もつづいて奥へ行った。釜の下を
「なにか抱えていやしなかったか」
「さあ、知りましねえ」
山出しの三助はぼんやりしていて何も気がつかなかったのである。半七は思わず舌打ちした。自分達が飯を食いに行っている間に、丁度かの武士が来たので、お吉はかれと
「こうと知ったら、いっそお吉の奴を引き揚げて置けばよかった」
彼はまた引っ返して、番台の男にお吉の
「親分、いけねえ、途中で友達に出っくわして、ちょいと一と言話しているうちに、奴はどこかへか消えてしまやあがった」
「馬鹿野郎。御用の途中で友達と無駄話をしている奴があるか」
今更叱っても追っ付かないので、半七はじりじりして来た。
「泣いても笑っても今日はもう仕方がねえ。お吉の奴が家へ帰るかどうだか能く気をつけていろ。それからもう一人の武士が来たらば、今度こそしっかりと後をつけて、よくその居どこを突き留めて置け。てめえの種出しじゃあねえか、少し身を入れて働け」
その日はそのまま別れて帰ったが、なんだか
半七は白い息を噴きながら、愛宕下へ急いで行った。
「どうだ、熊。あれぎり変ったことはねえか」
「親分。お吉の奴は駈け落ちをしたようですよ。とうとうあれぎりで家へ帰らねえそうで、今朝おふくろが心配らしく訊きに来ましたよ」と、熊蔵は顔をしかめてささやいた。
「そうか」と、半七の額にも太い皺が描かれた。「だが、まあ仕方がねえ。もう一日気長に網を張っていてみよう。もう一人の奴がやって来ねえとも限らねえから」
「そうですねえ」と、熊蔵は張り合い抜けがしたようにぼんやりしていた。
半七は二階にあがると、けさはお吉がいないので其処には火の気もなかった。熊蔵の女房が言い訳をしながら火鉢や茶などを運んで来た。朝のあいだは二階へあがる客もないので、半七は煙草をのみながら唯ひとりつくねんと坐っていると、春の寒さが襟にぞくぞくと沁みて来た。
「お吉の奴め、この頃は浮わついているんで、障子も碌に貼りゃあがらねえ」と、熊蔵は窓の障子の破れを見かえりながら舌打ちした。
半七は返事もしないで考えつめていた。おととい此の二階で発見した人間の首、動物の頭、きのう日蔭町で見た泥鮫の皮、それが一つに繋がって彼の頭の中を
親分の顔色が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っていた。芝の山内の鐘がやがて四ツ(午前十時)を打った。下の格子があいたと思うと、番台の男が「いらっしゃい」と、挨拶する声につづいて、二階に合図をするような咳払いの声がきこえた。二人は顔をみあわせた。
「野郎。来たかな」と、熊蔵があわてて起って下をのぞく途端に、背の高い一人の若い武士が刀を持って階子を足早にあがって来た。
「おあがり下さいまし。毎日お寒いことでございます」と熊蔵はわざと笑顔を
「どうぞこちらへ。けさは女が休んだものですから、二階も散らかって居ります」
「女は休んだか」と、武士は刀掛けに大小をかけながらちょっと首をひねった。そうして、
「お吉は病気かな」と、仔細ありげに訊いた。
「さあ、まだ何とも云ってまいりませんが、
武士は黙ってうなずいていたが、やがて着物をぬいで階子を降りて行った。
「あれが連れの奴か」と、半七が小声で訊くと、熊蔵は眼でうなずいた。
「親分、どうしましょう」
「まさか、いきなりにふん縛るわけにも行くめえ。まあ、ここへ上がって来たら、てめえがなんとか巧く云って連れの
「そうですね。誰か加勢に呼びましょうか」
「それにも及ぶめえ。多寡が一人だ。何とかなるだろう」と、半七はふところの十手を探った。
二人は息を
「いや、馬鹿なお話ですね」と、半七老人は笑いながらわたしに話した。
「今考えると実にばかばかしい話で、それからその武士のあがって来るのを待っていて、熊蔵がそれとなくいろいろのことを訊くと、どうもその返事が
「かたき討……」と、わたしは思わず訊き返すと、半七老人はにやにや笑っていた。
「まったく仇討なんですよ。それが又おかしい。まあお聴きなさい」
半七に十手を突き付けられた武士は梶井源五郎といって、西国の某藩士であった。去年の春から江戸へ勤番に出て来て、麻布の屋敷内に住んでいたが、道楽者のかれは朋輩の高島弥七と特別に仲好くして、吉原や品川を遊びまわっていた。もうだんだんに江戸に馴れて来た彼等は、去年の十一月のはじめに同じ家中の神崎郷助と茂原市郎右衛門のふたりを誘い出して、品川のある遊女屋へ遊びに行った。その席上で神崎と茂原とが酒の上から口論をはじめたのを、梶井と高島とがともかくも仲裁してその場は無事に納まったが、神崎はやはり面白くないと見えて、すぐに帰ると云い出した。もう屋敷の門限も過ぎているのであるから、いっそ今夜は泊って帰れと、仲裁者の二人がしきりに引留めたが、どうしても帰ると強情を張った。
彼ひとりを先に帰すわけにも行かないので、結局四人が連れ立って出ることになった。
かたき討は許可された。しかし表向きに暇をやることはならぬ、兄の遺骨を郷里へ送る途中で仏寺に参詣し、または親戚のもとへ立ち寄ることは苦しからずというのであった。つまり仏寺に参詣とか親戚を訪問とかいう名義で、仇のゆくえを尋ねあるくことを許されたのである。弟はありがたき儀とお礼を申し上げて、兄の遺骨をたずさえて江戸を出発した。
関係者の梶井と高島とは、遊里に立入って身持よろしからずというのでお叱りを受けた。殊に当夜刃傷のみぎり、相手の神崎を取り逃がしたるは不用意の致し方とあって、厳しいお咎めを受けた。しかもその過怠として仇討の助太刀を申し付けられた。但し他国へ踏み出すことはならぬ。江戸四里四方を毎日たずねあるいて、百日のあいだに仇の
仇の神崎が果たして江戸に隠れているかどうかは疑問であったが、この厳命を受けた彼等は毎日
毎日遊び歩いているのであるから、彼等もなるたけ
こんなことをしていた処で、仇のありかはとても知れそうもない。万一知れたところで、尋常に助太刀の務めを果たすほどのしっかりした覚悟をもっていない彼等は、時の過ぎゆくに従って自分たちの行く末を考えなければならなかった。百日の期限が過ぎて仇のゆくえが知れない暁には、自分たちの不首尾は眼に見えている。一体江戸にいるか居ないか確かに判りもしないものを、日限を切って探し出せというのが無理であるが、それも屋敷の命令であるから仕方がない。まさかに
「いっそおれは浪人する」と、高島は云い出した。彼のうしろにはお吉という女の影が付きまつわっていた。国へ追い返されると、もう彼女に逢えないというのを高島は恐れていた。しかし高島ほど根強い理由をもっていない梶井は、国へ返されるのを恐れながらも、さすがに思い切って浪人する気にもなれなかった。かれは
「まあ、そんな短気を出すな」と、彼は高島をなだめていた。しかし今年の春になってから、高島はいよいよその決心を固めたらしく、毎朝屋敷を出るときに、自分の大事の手道具などを少しずつ抱え出して、お吉のもとへそっと運び込んでいるらしかった。そのうちに湯屋の亭主もだんだんに眼をつけ始めた。ここの亭主は岡っ引の手先であるということをお吉もささやいた。この際つまらない疑いなどを受けてはいよいよ面倒と思った彼は、もう落ち着いていられないような心持になって、女と相談してどこへか一緒に姿を隠したらしく、ゆうべは屋敷へ戻って来ないので、梶井も心配して今朝ここへ探しに来たのであった。
かたき討の理由も、駈落ちの理由も、それですっかり判った。それにしても、高島がお吉に預けて置いた疑問のふた品はなんであろう。
「あれは高島が家重代の宝物でござる」と、梶井は説明した。
豊臣秀吉が朝鮮征伐のみぎりに、高島が十代前の祖先の弥五右衛門は藩主にしたがって渡海した。その時に分捕りして持ち帰ったのが
泥鮫の方は梶井も知らないと云った。しかし高島の祖父という人は久しく長崎に詰めていたことがあるから、おそらくその当時に異国人からでも手に入れたものであろうとのことであった。泥鮫は金になるから売ってしまったが、他の二品は買い手もない。殊に家に伝わる宝物であるから、女と一緒にかかえて行ったものであろう。人間の首と龍の頭とを抱えて、若い男と女とは何処へさまよって行ったか。思えばおかしくもあり、哀れでもあり、実に前代未聞の
「今でこそ話をすれ、その時にはわたくしも引っ込みが付きませんでしたよ」と、半七老人は再び額を撫でながら云った。「なまじ十手を振り廻したり何かしただけに猶々始末が付きませんや。でも、梶井という武士も案外