第四の男は語る。
「わたくしは『宣室志』のお話をいたします。この作者は
唐の
張読であります。張は
字を
聖朋といい、年十九にして
進士に
登第したという俊才で、官は
尚書左丞にまで登りました。祖父の
張薦も有名の人物で、張薦はかの『
遊仙窟』や『
朝野僉載』を書いた張
文成の孫にあたるように聞いて居ります。
この書も早く渡来しましたので、わが国の小説や伝説に少なからざる影響をあたえているようでございます」
唐の
長安の
雲花寺に聖画殿があって、世にそれを七聖画と呼んでいる。
この殿堂が初めて落成したときに、寺の僧が画工をまねいて、それに
彩色画を描かせようとしたが、画料が高いので相談がまとまらなかった。それから五、六日の後、ふたりの少年がたずねて来た。
「われわれは画を善く描く者です。このお寺で画工を求めているということを聞いて参りました。画料は頂戴するに及びませんから、われわれに描かせて下さいませんか」
「それではお前さん達の描いた物を見せてください」と、僧は言った。
「われわれの兄弟は七人ありますが、まだ長安では一度も描いたことがありませんから、どこの画を見てくれというわけには行きません」
そうなると、やや不安心にもなるので、僧は少しく
躊躇していると、少年はまた言った。
「しかし、われわれは画料を一文も頂戴しないのですから、もしお気に入らなかったならば、壁を塗り換えるだけのことで、さしたる御損もありますまい」
なにしろ
無料というのに心を
惹かされて、僧は結局かれらに描かせることにすると、それから一日の後、兄弟と称する七人の少年が画の道具をたずさえて来た。
「これから七日のあいだ、決してこの殿堂の戸をあけて下さるな。食い物などの御心配に及びません。
画の具の乾かないうちに風や日にさらすことは禁物ですから、誰も
覗きに来てはいけません」
こう言って、かれらは殿堂のなかに閉じ籠ったが、それから六日のあいだ、堂内はひっそりしてなんの物音もきこえないので、寺の僧等も不審をいだいた。
「あの七人はほんとうに画を描いているのかしら」
「なんだかおかしいな。なにかの化け物がおれ達をだまして、とうに消えてしまったのではないかな」
評議まちまちの結果、ついにその殿堂の戸をあけて見ることになった。幾人の僧が忍び寄って、そっと戸をあけると、果たして堂内に人の影はみえなかった。七羽の
鴿が窓から飛び去って、空中へ高く舞いあがった。
さてこそと堂内へはいって調べると、壁画は色彩うるわしく描かれてあったが、約束の期日よりも一日早かったために、西北の窓ぎわだけがまだ描き上げられずに残っていた。その後に幾人の画工がそれを見せられて、みな驚嘆した。
「これは実に霊妙の筆である」
誰も進んで描き足そうという者がないので、堂の西北の隅だけは、いつまでも白いままで残されている。
政陽郡の東南に
法喜寺という寺があって、まさに
渭水の西に当っていた。唐の
元和の末年に、その寺の僧がしばしば同じ夢をみた。一つの白い
龍が渭水から出て来て、仏殿の軒にとどまって、それから更に東をさして行くのである。不思議な事には、その夢をみた翌日にはかならず雨が降るので、僧も怪しんでそれを諸人に語ると、清浄の仏寺に龍が宿るというのは、さもありそうなことである。そのしるしとして、仏殿の軒に土細工の龍を置いたらどうだという者があった。
僧も同意して、職人に命じて土の龍を作らせることになった。惜しむらくはその職人の名が伝わっていないが、彼は決して凡手ではなかったと見えて、その細工は甚だ巧妙に出来あがって、寺の西の軒に高く置かれたのを遠方から
瞰あげると、さながらまことの龍のわだかまっているようにも眺められた。
長慶の初年に、その寺中に住む人で毎夜門外の宿舎に眠るものがあった。彼はある夜、寺の西の軒から一つの物が雲に乗るように
飄々と飛び去って、渭水の方角へむかったかと思うと、その夜半に再び帰って来たのを見たので、翌日それを寺僧に語ると、僧もすこぶる不思議に思っていた。
それからまた五、六日の後、村民の
斎に呼ばれて、寺中の僧は朝からみな出てゆくと、その留守の間にかの土龍の姿が見えなくなったので、人びとはまた驚かされた。
「たとい土で作った物でも、龍の形をなす以上、それが霊ある物に変じたのであろう」
こう言っていると、その晩に渭水の上から黒雲が湧き起って、次第にこの寺をつつむように迫って来たかと見るうちに、その雲のあいだから一つの物が躍り出て、西の軒端へ流れるように入り込んだので、寺の僧らはまた驚き怖れた。やがて雲も収まり、空も明るくなったので、かの軒の下にあつまって瞰あげると、土龍は元の通りに帰っていたが、その
鱗も
角もみな一面に
湿れているのを発見した。
その以来、龍の再び抜け出さないように、鉄の
鎖をもって繋いで置くことにした。
旱魃のときに雨を祈れば、かならず
奇特があると伝えられている。
宣城郡、
当塗の民に
劉成、
李暉の二人があった。かれらは大きい船に魚や
蟹のたぐいを積んで、
呉や
越の地方へ売りに出ていた。
唐の
天宝十三年、春三月、かれらは
新安から江を渡って
丹陽郡にむかい、
下査浦というところに着いた。故郷の宣城を去る四十里(六丁一里)の浦である。日もすでに暮れたので、二人は船を岸につないで上陸した。
そこで、李は岸の人家へたずねて行き、劉は岸のほとりにとどまっていると、夜は静かで水の音もひびかない。その時、たちまち船のなかで怪しい声がきこえた。
「阿弥陀仏、阿弥陀仏」
おどろいて透かして視ると、一尾の大きい魚が船のなかから
鬚をふり、首をうごかして、あたかも人の声をなして阿弥陀仏を叫ぶのであった。劉は
ぞっとして、
蘆のあいだに身をひそめ、なおも様子をうかがっていると、やがて船いっぱいの魚が一度に跳ねまわって、みな口々に阿弥陀仏を唱え始めたので、劉はもう
堪まらなくなって、あわてて船へ飛び込んで、船底にあるだけの魚を手あたり次第に水のなかへ投げ込んだ。
全部の魚を放してしまったところへ、李が戻って来た。彼は劉の話をきいて大いに怒った。
「ばかばかしい。おれたちは今夜初めてこの商売をするのじゃあねえ。魚なんぞが化けて堪まるものか」
劉がいかに説明して聞かせても、李は決して信じなかった。商売物の魚をみんな捨ててしまってどうするのだと、彼は激しく劉に食ってかかるので、劉もその言い訳に困って、とうとう李の損失だけを自分がつぐなうことにした。そうなると、
剰すところは僅かに百銭に過ぎないので、劉はその村で
荻十余束を買い込み、あしたの朝になったらば船に積むつもりで、その晩は岸のほとりに横たえて置いた。
さて翌朝になって、いよいよそれを積み込もうとすると、荻の
束がひどく重い。怪しんでその束を解いてみると、
緡になっている
銭一万五千を発見した。それには「汝に魚の銭を
帰す」と書いてあった。劉はますます奇異の感を深うして、
瓜洲に僧侶をあつめて読経をしてもらった上に、かの銭はみな施して帰った。
東洛に古屋敷があって、その建物はすこぶる宏壮であるが、そこに居る者は多く
暴死するので、久しく
鎖されたままで住む者もなかった。
唐の
貞元年中に
盧虔という人が
御史に任ぜられて、宿所を求めた末にかの古屋敷を見つけた。そこには怪異があるといって注意した者もあったが、盧は
肯かなかった。
「妖怪があらわれたらば、おれが鎮めてやる」
平気でそこに移り住んで、
奴僕どもはみな門外に眠らせ、自分は一人の下役人と共に座敷のまん中に陣取っていた。下役人は
勇悍にして弓を
善くする者であった。
やがて夜が更けて来たので、下役人は弓矢をたずさえて軒下に出ていると、やがて門を叩く者があった。下役人は何者だとたずねると、外では答えた。
「
柳将軍から盧君に書面をお届け申す」
言うかと思うと、
一幅の書がどこからとも知れずに軒下へ舞い落ちた。それは筆をもって書いたもので、
字画も整然と読まれた。その文書の大意は――我はここに
年久しく住んでいて、家屋
門戸みな我が物である。そこへ君が突然に入り込んで済むと思うか。もし君の住宅へ我々が突然に踏み込んだら、君もおそらく捨てては置くまい。左様な不法を働いて、君はたとい我を
懼れずと誇るとも、
省みて君のこころに恥じないであろうか。君はみずから悔い改めて早々に立ち去るべきである。小勇を
恃んで大敗の
辱を
蒙るなかれ。――
このいかめしい抗議文をうけ取って、盧はまだ何とも答えないうちに、その紙は灰のごとくにひらひらと散ってしまった。つづいて又、物々しく呼ぶ声がきこえた。
「柳将軍、
御意を
得申す」
忽然として現われ出でたのは、身のたけ数十
尋(一尋は六尺)もあろうかと思われる怪物で、手に一つの
瓢をたずさえて庭先に突っ立った。下役人は弓を張って射かけると、矢は彼の手にある瓢にあたったので、怪物はいったん退いてその瓢を捨てたが、更にまた進んで来て、
首を
俯してこちらの様子を窺っているらしいので、下役人は更に二の矢を射かけると、今度はその胸に命中したので、さすがの怪物も驚いたらしく、遂にうしろを見せておめおめと立ち去った。
夜が明けてから彼の来たらしい方角をたずねると、東の空き地に高さ百余尺の柳の
大樹があって、ひと筋の矢がその幹に立っていたので、いわゆる柳将軍の正体はこれであることが判った。それから一年あまりの後に家屋の手入れをすると、
家根瓦の下から長さ一丈ほどの瓢を発見した。その瓢にもひと筋の矢が透っていた。
唐の
柳宗元先生が
永州の
司馬に左遷される途中、
荊門を通過して駅舎に宿ると、その夜の夢に黄衣の一婦人があらわれた。彼女は再拝して泣いて訴えた。
「わたくしは
楚水の者でございますが、思わぬ禍いに逢いまして、命も
朝夕に迫って居ります。あなたでなければお救い下さることは叶いません。もしお救い下されば、長く御恩を感謝するばかりでなく、あなたの御運をひるがえして、大臣にでも大将にでも御出世の出来るように致します」
先生も無論に承知したが、夢が醒めてから、さてその心あたりがないので、ついそのままにしてまた眠ると、かの婦人は再びその枕元にあらわれて、おなじことを繰り返して頼んで去った。
夜が明けかかると、土地の役人が来て、荊州の
帥があなたを御招待して朝飯をさしあげたいと言った。先生はそれにも承知の旨を答えたが、まだ東の空が白みかけたばかりであるので、又もやうとうとと眠っていると、かの婦人が三たび現われた。その顔色は惨として、いかにも危難がその身に迫っているらしく見えた。
「わたくしの命はいよいよ危うくなりました。もう半ときの猶予もなりません。どうぞ早くお救いください。お願いでございます」
一夜のうちに三度もおなじ夢を見たので、先生も考えさせられた。あるいは何か役人らのうちに不幸の者でもあるのかと思った。あるいは今朝の饗応について、何かの鳥か魚が殺されるのではないかとも思った。いずれにしても、行ってみたら判るかも知れないと思ったので、すぐに支度をして饗宴の席に臨んだ。そうして、主人にむかってかの夢の話をすると、彼も不思議そうに首をかたむけながら、ともかくも下役人を呼んで取調べると、役人は答えた。
「実は一日前に、大きい
黄魚(
石首魚)が漁師の網にかかりましたので、それを料理してお客さまに差し上げようと存じましたが……」
「その魚はまだ活かしてあるか」と、先生は訊いた。
「いえ、たった今その首を斬りました」
先生は思わず
あっと言った。今更どうにもならないが、せめてもの心ゆかしに、その魚の死骸を河へ投げ捨てさせて出発した。
その夜の夢に、かの黄衣の婦人が又もや先生の前にあらわれたが、彼女には首がなかった。それがためか、先生は大臣にも大将にもなれず、ついに柳州の
刺史をもって終った。
太原の商人に
石憲という者があった。唐の
長慶二年の夏、北方へあきないに行って、
雁門関を出た。時は夏の日盛りで、旅行はすこぶる難儀であるので、彼は路ばたの大樹の下に寝ころんでいるうちに、いつかうとうとと眠ってしまった。
たちまちにそこへ一人の僧があらわれた。かれは
褐色の
法衣を着て、その顔も
風体もなんだか異様にみえたが、
石にむかって親しげに話しかけた。
「われわれは五台山の南に
廬を構えていた者でござるが、そのあたりは森も深く、水も深く、
塵俗を遠く離れたところでござれば、あなたも一緒にお出でなさらぬか。さもないと、あなたは暑さにあたって死にましょうぞ」
実際暑さに苦しんでいるので、石はその言うがままに誘われてゆくと、西のかた五、六里のところに果たして密林があって、大勢の僧が水のなかを泳ぎまわっていた。
「これは
玄陰池といい、わが徒はここに水浴して暑気を凌ぐのでござる」
僧はこう説明して、彼を案内した。石はそのあとに付いて池のまわりをめぐっているうちに、ふと気の付いたのは大勢の僧の顔がみな一様で、どの人の眼鼻も少しも
異っていないことであった。やがて日が暮れかかると、僧はまた言った。
「お聴きなされ、衆僧がこれから
梵音を唱え始めます」
石は池のほとりに立って耳をかたむけていると、たちまちに水中の僧らが一斉に声をそろえて、なにか
判らない梵音を唱え出した。その声が甚だ騒々しいと思っていると、一人の僧が水中から手を出して彼を引いた。
「あなたも試しにはいって
御覧なされ。決して怖いことはござらぬ」
引かるるままに彼は池にはいっていると、その水の冷たいこと氷のごとく、思わずぞっと身ぶるいすると共に、半日の夢は醒めた。彼はやはり元の大樹の下に眠っていたのである。しかしその衣服はびしょ
湿れになっていて、からだには
悪寒がするので、彼は早々にそこを立ち去って、近所の村びとの家に一夜を明かした。
翌日は気分も
快くなったので、きのうの通りにあるき出すと、路ばたに
蛙の鳴く声がそうぞうしくきこえた。それがかの僧らのいわゆる梵音に甚だ似ているので、彼は俄かに思い当ることがあった。夢のうちの記憶をたどりながら、五、六里ほども西の方角へたずねて行くと、そこには深い森もあり、大きい池もあった。池のなかにはたくさんの蛙が浮かんでいた。
「坊主の正体はこれであったか」
彼はその蛙を片端から殺し尽くした。
洛陽に
李氏の家があった。代々の家訓で、生き物を殺さないことになっているので、大きい家に一匹の猫をも飼わなかった。鼠を殺すのを
忌むが故である。
唐の
宝応年中、李の家で親友を大勢よびあつめて、広間で飯を食うことになった。一同が着席したときに、門外に不思議のことが起ったと、奉公人らが知らせて来た。
「何百匹という鼠の群れが門の外にあつまって、なにか嬉しそうに前足をあげて叩いて居ります」
「それは不思議だ。見て来よう」
主人も客も珍しがってどやどやと座敷を出て行った。その人びとが残らず出尽くしたときに、古い家が突然に
頽れ落ちた。かれらは鼠に救われたのである。家が頽れると共に、鼠はみな散りぢりに立ち去った。
舞陽の人、
陳巌という者が
東呉に
寓居していた。唐の
景龍の末年に、かれは
孝廉にあげられて都へゆく途中、
渭南の道で一人の女に逢った。かれは
白衣をつけた美女で、
袂をもって口を
被いながら泣き叫んでいるのである。
見すごしかねてその子細をきくと、女は泣きながら答えた。
「わたくしは
楚の人で、
侯という姓の者でございます。父はこころざしの高い人物として、
湘楚のあいだに知られて居りましたが、山林に隠れて
富貴栄達を望みませんでした。しかし
沛国の
劉という人とは親しい友達でありまして、その関係からわたくしはその劉家へ
縁付くことになりました。それから丁度十年になりまして、自分としてはなんの
過失もないつもりで居りますのに、夫は昨年から更に
盧氏の娘を
娶りましたので、家内に風波が絶えません。又その女が気の強い乱暴な生まれ付きで、わたくしのような者にはしょせん同棲はできません。そんなわけで、逃げ出したような、逐い出されたような形で、劉家を立ち退いたのでございますが、どこへ行くという
目的もないので、こうして
路頭に迷っているのでございます」
陳は
律義一方の人物であるので、初対面の女の訴えることをすべて信用してしまった。なにしろ行く先がなくては困るであろうと、一緒に連れ立って行くうちに、いつか夫婦のような関係が結ばれて、都へのぼって後も
永崇里というところに同棲していた。然るにこの女、最初のあいだは大層つつましやかであったが、だんだんに乱暴の
本性をあらわして、時には気ちがいのようになって我が夫に食ってかかることもあるので、飛んだ者と夫婦になったと、陳も今さら悔んでいた。
ある日、陳が外出すると、その留守のあいだに妻は夫の衣類をことごとく庭先へ持ち出して、みなずたずたに引き裂いたばかりか、夕方になって陳が戻って来ると、彼女は門を閉じて入れないのである。陳も怒って、門を叩き破って踏み込むと、前に言ったような始末であるので、彼はいよいよ怒った。
「なんで夫の着物を破ってしまったのだ」
その返事の代りに、妻は夫にむしり付いた。そうして、今度はその着ている物をむやみに引き裂くばかりか、顔を引っ掻く、手に食いつくという大乱暴に、陳もほとほと持て余していると、その騒動を聞きつけて、近所の人や往来の者がみな
門口にあつまって来た。そのなかに
居士という人があった。かれは邪を
攘い、魔を
降すの術をよく知っていた。
居士は表から女の泣き声を聞いて、あたりの人にささやいた。
「あれは人間ではない。山に棲む
獣に相違ない」
それを陳に教えた者があったので、陳は早速に居士を招じ入れると、妻はその姿をみて俄かに懼れた。居士は一紙の
墨符を書いて、
空にむかってなげうつと、妻はひと声高く叫んで、屋根
瓦の上に飛びあがった。居士はつづいて一紙の
丹符をかいて投げつけると、妻は屋根から転げ落ちて死んだ。それは一匹の猿であった。
その後、別に何の祟りもなかったが、陳はあまりの不思議に渭南をたずねて、果たしてそこに劉という家があるかと聞き合わせると、その家は郊外にあった。主人の劉は陳に向ってこんな話をした。
「わたしはかつて
弋陽の
尉を勤めていたことがあります。その土地には猿が多いので、わたしの家にも一匹を飼っていました。それから十年ほど経って、友達が一匹の黒い犬を持って来てくれたので、これも一緒に飼っておくと、なにぶんにも犬と猿とは仲が悪く、猿は犬に
咬まれて何処へか逃げて行ってしまいました」
唐の貞元年中に、
李生という者が
河朔のあいだに住んでいた。少しく力量がある上に、侠客肌の男であるので、常に軽薄少年らの仲間にはいって、人もなげにそこらを横行していた。しかも
二十歳を越える頃から、俄かにこころを改めて読書をはげみ、歌詩をも巧みに作るようになった。
それから追いおいに立身して、
深州の
録事参軍となったが、風采も立派であり、談話も巧みであり、酒も飲み、
鞠も蹴る。それで職務にかけては
廉直というのであるから申し分がない。州の太守も彼を認めて、将来は大いに
登庸しようとも思っていた。
その頃、
成徳軍の
帥に
王武俊という大将があった。功を
恃んで威勢を振うので、付近の郡守はみな彼を恐れていると、ある時その子の
士真をつかわして、付近の各州を巡検させることになって、この深州へも廻って来た。深州の太守も王を恐れている一人であるので、その子の士真に対しても出来るだけの敬意を表して歓待した。しかし
迂闊な者を酒宴の席に侍らせて、酒の上から彼の感情を害すような事があってはならないという遠慮から、すべての者を遠ざけて、酒席の取持ちは太守一人が受持つことにした。それが士真の気にかなって、さすがに用意至れり尽くせりと喜んでいたが、昼から夜まで飲み続けているうちに、太守ひとりでは持ち切れなくなって来た。士真の方でも誰か変った相手が欲しくなった。
「今夜は格別のおもてなしに預かって、わたしも満足した。しかしあなたと二人ぎりでは余りに寂しい。誰か
相客を呼んで下さらんか」
「何分にもこの通りの
偏土でござりまして……」と、太守は答えた。「お相手になるような者が居りません。しいて探しますれば、録事参軍の李と申すものが、何か少しはお話が出来るかとも存じますが……」
それを呼んでくれというので、李はすぐに召出された。そうして、酒の席へ出て来ると、士真の顔色は俄かに変った。李は行儀正しく坐に着くと、士真の機嫌はいよいよ悪くなった。太守も不思議に思って、ひそかに李の方をみかえると、彼も色蒼ざめて、杯を
執ることも出来ないほどに
顫えているのである。やがて士真は声を
しゅうして、自分の家来に指図した。
「あいつを縛って獄屋につなげ」
李は素直に引っ立てられて去ると、士真の顔色はまたやわらいで、今まで通りに機嫌よく笑いながら酒宴を終った。太守はそれで先ずほっとしたが、一体どういうわけであるのか、それがちっとも判らないので、獄中に人をつかわしてひそかに李にたずねさせた。
「お前の礼儀正しいのは、わたしもふだんから知っている。殊に今夜はなんの落度もなかったように思われる。それがどうして王君の怒りに触れたのか判らない。お前に何か思い当ることがあるか」
李はしばらく
啜り泣きをしていたが、やがて涙を呑んで答えた。
「
因果応報という仏氏の教えを今という今、あきらかに覚りました。わたくしの若いときは
放蕩無頼の上に貧乏でもありましたので、近所の人びとの財物を奪い取った事もしばしばあります。馬に乗り、弓矢をたずさえ、
大道を往来して旅びとをおびやかしたこともあります。そのうちに或る日のこと、一人の少年が二つの大きい
嚢を馬に載せて来るのに逢いました。あたかも日が暮れかかって、左右は断崖絶壁のところであるので、わたくしはかの少年を崖から突き落して、馬も嚢も奪い取りました。家へ帰って調べると、嚢のなかには
綾絹が百余
反もはいっていましたので、わたくしは思わぬ金儲けをいたしました。それを機会に
悪行をやめ、門を閉じて読書に努めたお蔭で、まず
今日の身の上になりましたが、数えてみるとそれはもう二十七年の昔になります。昨夜お召しに因って王君の前に出ますと、その
顔容が二十七年前に殺したかの少年をその
儘であるので、わたくしも実におどろきました。王君がむかしの罪を覚えていられるかどうかは知りませんが、わたくしとしては王君に殺されるのが当然のことで、自分も覚悟しています」
太守はその報告を聞いて驚嘆していると、士真は酒の酔いが醒めて、すぐに李の首を斬って来いと命令した。太守は命乞いをするすべもなくて、その言うがままに李の首を渡すと、彼はその首をみてこころよげに笑っていた。
「自分の部下にかような罪人をいだしましたのは、わたくしが重々の不行き届きでございますが、一体かれはどういうことで御機嫌を損じたのでございましょうか」と、太守はさぐるように訊いてみた。
「いや、別に罪はない」と、士真は言った。「ただその顔をみるとなんだか
無暗に憎くなって、とうとう殺す気になったのだ。それがなぜであるかは自分にもよく
判らない。もう済んでしまったことだから、その話は止そうではないか」
彼自身にもはっきりした説明が出来ないらしかった。太守はさらに士真の年を訊くと、彼はあたかも二十七歳
[#「二十七歳」は底本では「三十七歳」]であることが判ったので、李の懺悔の嘘ではないのがいよいよ確かめられた。
唐の貞元年中、
大理評事を勤めている
韓という人があって、
西河郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い
駿足であった。
ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、
厩の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。
「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」
韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその
折檻を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして
喘いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで
跳りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって
傲然と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと
鞭くれると、
駿馬は
跳って垣を飛び越えた。
こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで
猶も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに
茅の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。
夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。
「韓の
家の名簿はどこにあるのだ」
「
家の
砧石の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。
「いいか。気をつけてくれ。それを見付けられたら大変だぞ。韓の家の子供にはまだ名がないのか」
「まだ名を付けないのだ。名が決まれば、すぐに名簿に記入して置く」
「あしたの晩もまた来いよ」
「むむ」
こんな問答の末に、黒い人は再び馬に乗って立ち去った。それを見とどけて、厩の者は主人に密告したので、韓は肉をあたえるふうをよそおって、すぐにかの黒犬を縛りあげた。それから砧石の下をほり返すと、果たして
一軸の書が発見されて、それには韓の家族は勿論、奉公人どもの姓名までが残らず記入されていた。ただ、韓の子は生まれてからひと月に足らないので、まだその
字を決めていないために、そのなかにも書き漏らされていた。
一体それがなんの目的であるかは判らなかったが、ともかくもこんな妖物をそのままにして置くわけにはゆかないので、韓はその犬を庭さきへ
牽き出させて
撲殺した。奉公人どもはその肉を煮て食ったが、別に異状もなかった。
韓はさらに近隣の者を大勢駆り集めて、弓矢その他の
得物をたずさえてかの墓を
発かせると、墓の奥から五、六匹の犬があらわれた。かれらは片端からみな撲殺されたが、その毛色も形も普通の犬とは異っていた。
俗に伝う。人が死んで数日の後、
柩のうちから鳥が出る、それを
という。
太和年中、
鄭生というのが一羽の
巨きい鳥を網で捕った。色は
蒼く、高さ五尺余、押えようとすると忽ちに見えなくなった。
里びとをたずねて聞き合わせると、答える者があった。
「ここらに死んで五、六日を過ぎた者があります。うらない者の言うには、きょうは
がその家を去るであろうと。そこで、忍んで伺っていますと、色の蒼い巨きい鳥が棺の中から出て行きました。あなたの網に入ったのは恐らくそれでありましょう」