桐畑の太夫
一
今から二十年あまりの昔である。なんでも正月の七草すぎの日曜日と記憶している。わたしは午後から半七老人の家をたずねた。老人は彼の半七捕物帳の材料を幾たびかわたしに話して聞かせてくれるので、きょうも年始の礼を兼ねてあわ好くば又なにかの昔話を聞き出そうと巧らんで、から風の吹く寒い日を赤坂まで出かけて行ったのであった。
格子をあけると、
「さあ、お通りください。あらたまったお客様じゃありませんから。」
わたしは遠慮なしに座敷へ通ると、主人とむかい合って一人の年始客らしい老人が坐っていた。主人も老人であるが、客は更に
「こちらは大久保にお
初対面の挨拶が型の通りに交換された後に、わたしも主人から屠蘇をすゝめられた。ふたりの老人と一人の青年とがすぐに打解けて話しはじめると、半七老人は更に説明を加えて再び彼の客を紹介した。
「三浦さんも江戸時代には下谷に住まっていて、わたしとは古いお馴染ですよ。いえ、同商売じゃありませんが、まんざら縁のない方でもないので……。番所の腰掛では一緒になったこともあるんですよ。はゝゝゝゝ。」
三浦という老人は
「むかしは随分おたがいに仲好くしていたんですがね。」と、三浦老人は笑いながら云った。「このごろは大久保の方へ引込んでしまったもんですから、どうも、出不精になって……。いくら達者だと云っても、なにしろこゝの主人にくらべると、丁度一とまわりも上なんですもの、口ばかり強そうなことを云っても、からだやあんよが云うことを
かれは持っている
「それでも三浦さんはまったく元気がいゝ。殊に口の方はむかしよりも達者になったらしい。」と、半七老人も笑いながらわたしを見かえった。「あなたは年寄りのむかし話を聴くのがお好きだが、おひまがあったら今度この三浦さんをたずねて御覧なさい。この人はなか/\面白い話を知っています。わたくしのお話はいつでも
「いや、面白いお話なんていうのはありませんけれど、時代おくれの昔話で宜しければ、せい/″\お古いところをお聴きに入れます。まことに辺鄙な場末ですけれども、お
今とちがって、その当時の大久保のあたりは山の手の奥で、
その次の日曜日は
「やあ、よく来ましたね。この寒いのに、お強いこってすね。さあ、さあ、どうぞおあがりください。」
南向きの広い庭を前にしている八畳の座敷に通されて、わたしは主人の老人とむかい合った。
二
わたしは自分と三浦老人との関係を説くのに、あまり多くの筆や紙を費し過ぎたかも知れない。早くいえば、前置きがあまり長過ぎたかも知れないが、これから次々にこの老人の昔話を紹介してゆくには、それを語る人がどんな人物であるかと云うことも先ず一通りは紹介して置かなければならないのである。しかしこの上に読者を倦ませるのはよくない。わたしはすぐに本文に取りかゝって、この日に三浦老人から聴かされた江戸ものがたりの一つを紹介しようと思う。
三浦老人はこう語った。
今日の人たちは幕末の士風頽廃ということをよく云いますが、徳川の侍だって揃いも揃って腰ぬけの意気地無しばかりではありません。なかには今日でも見られないような、随分しっかりした人物もありました。併し又そのなかには随分だらしのない困り者があったのも事実で、それを証拠にして、さあ
これはわたくしが子供の時に聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。赤坂の
当主の丹下という人は今年三十七の御奉公盛りですが、病気の届け
おなじような理窟ですけれども、これが
むかしから素人の芸事はあまり上達しないにきまったもので、俗に素人芸、旦那芸、殿様芸、大名芸などと云って、先ず上手でないのが当りまえのようになっているのですが、この小坂という人ばかりは例外で、好きこそ物の上手なりけりと云うのか、それとも一種の天才というのか、素人芸や殿様芸を通り越して、三年五年のうちにめき/\と上達する。第一に喉が好い。三味線も達者にひく。ふだんは苦々しく思っている奥様や用人も、春雨のしんみりと降る日に、非番の殿様が爪びきで
一方にこれほど浄瑠璃に凝りかたまっていながらも、小坂という人は別に勤め向きを怠るようなこともありませんでした。とんだ三段目の
小普請に這入れば何をしてもいゝと云うわけでは勿論無いのですが、それでも小普請となると世間の見る目がずっと違って来ます。もう一歩すゝんで
こうなると、自分の屋敷内で遠慮勝に語ったり、友だちの家へ行って慰み半分に語ったりしているだけでは済まなくなりました。当人はどこまでも真剣です。だん/\と修業が積むにつれて、自然と芸人附合をも始めるようになって、諸方のお浚いなどへも顔を出すと、それがまったく巧いのだから誰でもあっと感服する。桐畑の殿様を素人にして置くのは勿体ないなどと云う者もある。当人もいよ/\乗気になって、浜町の家元から清元
さてこれからがお話の本文で、この喜路太夫の身のうえに一大事件が
三
まえにも申上げた通り、天保初年の三月末のことだそうです。芝の
このお浚いは昼のうちから大層な景気で、茶屋の座敷には一杯の人が押掛けています。日がくれると門口には紅い提灯をつける。内ばかりでなく、表にも大勢の人が立っている。そこへ通りかゝった七八人連の男は、どれも町人や職人風で、御殿山の花見帰りらしく、
「やあ、こゝに清元の浚いがある。馬鹿に景気がいゝぜ。」
立ちどまって立看板をよんでいるうちに、その一人が云いました。
「おい、おい。このなかで清元喜路太夫というのは聞かねえ名だな。どんな太夫だろう。」
「むゝ。おれも聞いたことがねえ。下手か上手か、一つ這入って聴いて遣ろうじゃねえか。」
酔っているから遠慮はない。この七八人はどや/\と茶屋の
「もし、喜路太夫と云うのはもうあがりましたかえ。」
「いえ、これからでございます。」と、帳場にいる者が答えました。なんと云っても幾らかの遠慮がありますから、小坂さんの喜路太夫は夜になってから
「じゃあ、丁度いゝ。わっし等にも聴かせておくんなせえ。」
「皆さんはどちらの方でございます。」
「わっし等はみんな土地の者さ。」
「どちらのお弟子さんで……。」
「どこの弟子でもねえ。たゞ通りかゝったから聴きに這入ったのよ。」
浄瑠璃のお浚いであるから、誰でも無暗に入れると云うわけには行かない。殊にどの人もみんな酔っているので、帳場の者は体よく断りました。
「折角でございますが、今晩は通りがかりのお方をお入れ申すわけにはまいりません。どうぞ悪しからず……。」
「わからねえ奴だな。おれ達は土地の者だ。今こゝのまえを通ると清元の浚いの立看板がある。ほかの太夫はみんなお馴染だが、そのなかに
酔った連中はずん/\押上ろうとするのを、帳場の者どもはあわてゝ遮りました。
「いけません、いけません。いくら土地の方でも今晩は御免を蒙ります。」
「どうしても通さねえか。そんならその喜路太夫をこゝへ呼んで来い。どんな野郎だか、面をあらためて遣る。」
なにしろ相手は大勢で、みんな酔っているのだから、始末が悪い。帳場の者も持余していると、相手はいよ/\大きな声で怒鳴り出しました。
「さあ、素直におれ達を通して浄瑠璃を聴かせるか。それとも喜路太夫をこゝへ連れて来て挨拶させるか。さあ、喜路太夫を出せ。」
この捫着の最中に、なにかの用があって小坂さんの喜路太夫が生憎に帳場の方へ出て来たのです。しきりに喜路太夫という名をよぶ声が耳に這入ったので、小坂さんは何かと思って出てみると、七八人の生酔いが入口でがや/\騒いでいる。帳場のものは小坂さんがなまじいに顔を出しては却って面倒だと思ったので、一人がそばへ行って小声で注意しました。
「殿様、土地の者が酔っ払って来て、何かぐず/\云っているのでございます。あなたはお構い下さらない方がよろしゅうございます。」
「むゝ。土地の者がぐずりに来たのか。」
むかしは遊芸の浚いなどを催していると、
「失礼であるが、今夜はこちらも取込んでおります。ゆっくりとこゝで
小坂さんは紙入から幾らかの
「やい、やい。人を馬鹿にしやあがるな。おれたちは銭貰いに来たんじゃあねえ。喜路太夫をこゝへ出せというんだ。」
「その喜路太夫はわたしです。」
「むゝ。喜路太夫は
なにしろ酔っているから堪らない。その七八人がいきなりに小坂さんを土間へひき摺り下して、袋叩きにしてしまったのです。旗本の殿様でも、大小を楽屋にかけてあるから丸腰です。勿論、武芸の心得もあったのでしょうが、この場合、どうすることも出来ないで、おめ/\と町人の手籠めに逢った。帳場の者もおどろいて止めに這入ったが間に合わない。その乱騒ぎのうちに、どこか
すぐに近所の医者をよんで来て、いろ/\の手当をして貰いましたが、小坂さんはどうしても生き返らないで、とう/\其儘に冷くなったので、関係者はみんな蒼くなってしまいました。もうお浚いどころではありません。兎もかくも急病の体にして、死骸を駕籠にのせて、
「これがせめてもの仇討だ。」
小坂さんは急病で死んだことに届けて出て、表向きは先ず無事に済んだのですが、その初七日のあくる日、八人の若い男が赤坂桐畑の屋敷へたずねて来て、玄関先でこういうことを云い入れました。
「わたくし共は高輪辺に住まっております者でございますが、先日御殿山へ花見にまいりまして、その帰り途に川与という料理茶屋のまえを通りますと、そこの家に清元の浚いがございまして、立看板の連名のうちに清元喜路太夫というのがございました。ついぞ名前を聞いたことのない太夫ですから、一段聴いてみようと云って這入りますと、帳場の者が入れないという。こっちは酔っておりますので、是非入れてくれ、左もなければその喜路太夫というのをこゝへ出して挨拶させろと、無理を云って押問答をしておりますところへ、奥からその喜路太夫が出て来て、今夜は入れることは出来ないから、これで一杯飲んでくれと云って、幾らか紙につゝんだものを出しました。くどくも申す通り、こっちも酔っておりますので、ひとを乞食あつかいにするとは怪しからねえと、喧嘩にいよ/\花が咲いて、とう/\その喜路太夫を袋叩きにしてしまいました。それでまあ一旦は引きあげたのでございますが、あとでだん/\うけたまわりますると、喜路太夫と申すのはお屋敷の殿様だそうで、実にびっくり致しました。まだそればかりでなく、それが基で殿様はおなくなり遊ばしましたそうで、なんと申上げてよろしいか、実に恐れ入りました次第でございます。就きましては、その御詫として、下手人一同うち揃ってお玄関まで罷り出ましたから、なにとぞ御存分のお仕置をねがいます。」
小坂の屋敷でも挨拶に困りました。憎い奴等だとは思っても、こゝで八人の者を成敗すれば、どうしても事件が表向きになって、一切の秘密が露顕することになるので、応対に出た用人は飽までもシラを切って、当屋敷に於ては左様な覚えは曽て無い、それは何かの間違いであろうと云い聞かせましたが、八人の者はなか/\承知しない。清元喜路太夫はたしかにお屋敷の殿様に相違ない。知らないことゝは云いながら、お歴々のお旗本を殺して置いて唯そのまゝに済むわけのものでないから、こうして御成敗をねがいに出たのであるが、お屋敷でどうしても御存じないとあれば、わたくし共はこれから町奉行所へ自訴して出るより外はないと云い張るのです。
これには屋敷の方でも持てあまして、いずれ当方からあらためて沙汰をするからと云って、一旦は八人の者を追い返して置いて、それから土地の岡っ引か何かをたのんで、二百両ほどの内済金を出して無事に済ませたそうです。主人をぶち殺された上に、あべこべに二百両の内済金を取られるなどは、随分ばか/\しい話のようですけれども、屋敷の名前には換えられません。重々気の毒なことでした。
八人の者は勿論なんにも知らないで、たゞの芸人だと思って喜路太夫を袋叩きにして、それがほんとうに死んだと判り、しかもそれが旗本の殿様とわかって、みんなも一時は途方にくれてしまったのですが、誰か悪い奴が意地をつけて、相手の弱味につけ込んで、逆ねじにこんな狂言をかいたのだと云うことです。わたくしの親父も一度柳橋の茶屋で喜路太夫の小坂さんの浄瑠璃を聴いたことがあるそうですが、それはまったく巧いものだったと云うことですから、なまじい千五百石の殿様に生れなかったら、小坂さんも天晴れの名人になりすましたのかも知れません。そう思うと、たゞ一口にだらしのない困り者だと云ってもいられません。なんだか惜しいような気もします。いつの代にも斯ういうことはあるのでしょうが、人間の運不運は判りませんね。
「いや、根っから面白くもないお話で、さぞ御退屈でしたろう。」と、云いかけて三浦老人は耳をかたむけた。「おや、降って来ましたね。なんだか音がするようです。」
老人は起って障子をあけると、いつの間にふり出したのか、庭の先は塩をまいたように薄白くなっていた。
「とう/\雪になりました。」
老人は縁先の軒にかけてある鶯の籠をおろした。わたしもそろ/\帰り支度をした。
「まあ、いゝじゃありませんか。初めてお
「折角ですが、あまり積もらないうちに今日はお
「そうですか。なにしろ足場の悪いところですから、無理にお引留め申すわけにも行かない。では、又御ゆっくりおいで下さい。こんなお話でよろしければ、なにか又思い出して置きますから。」
「はあ。是非またお邪魔にあがります。」
挨拶をして表へ出る頃には、杉の生垣がもう真白に塗られていた。わたしは
春の雪――その白い影をみるたびに、わたしは三浦老人訪問の第一日を思い出すのである。
[#改段]
鎧櫃の血
一
その頃、わたしは忙しい仕事を持っていたので、兎かくにどこへも御無沙汰勝であった。半七老人にも三浦老人にもしばらく逢う機会がなかった。半七老人はもうお馴染でもあり、わたしの商売も知っているのであるから、ちっとぐらい無沙汰をしても格別に厭な顔もされまいと、内々多寡をくゝっているのであるが、三浦老人の方はまだ馴染のうすい人で、双方の気心もほんとうに知れていないのであるから、たった一度顔出しをしたぎりで
その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の
「この路の悪いところへ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは
まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」
こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色々のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。
このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の
そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことではなかったので、今宮さんも大威張りで出かけて行ったのです。普通の旅行ではなく、御用道中というのですから、道中は幅が利きます。何のなにがしは御用道中で何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けていて、万事に不自由するようなことはありません。泊りは本陣で、一泊九十六文、昼飯四十八文というのですから実に
早い話が、御用道中の悪い奴に出っくわすと、駕籠屋があべこべに
今宮さんは若党ひとりと中間三人の上下五人で、荷かつぎの人足は宿々で雇うことにしていました。若党は勇作、中間は半蔵と勘次と源吉。主人の今宮さんは今年三十一で、これまで御奉公に不首尾もない。勿論、首尾のわるい者では大阪詰にはなりますまいが、先ずは一通りの武家
武家の道中に醤油樽をかつがせては行かれない。と云って、何分にも小さいものでないから、何かの荷物のなかに押込んで行くというわけにも行かない。その運送に困った挙句に、それを鎧櫃に入れて行くということになりました。道中の
それは六月の末、新暦で申せば七月の土用のうちですから、夏の盛りで暑いことおびたゞしい。武家の道中は道草を食わないので、はじめの日は程ヶ谷泊り、次の日が小田原、その次の日が箱根八里、御用道中ですから勿論関所のしらべも手軽にすんで、その晩は三島に泊る。こゝまでは至極無事であったのですが、そのあくる日、江戸を出てから四日目に三島の
今宮さんの一行は立派な御用道中ですから、大威張りで問屋場の手にかゝって、荷物をかつがせて行ったのですが、間違いの起るときは仕方のないもので、その前の晩は、三島の
人足どもはそれ/″\に荷物をかつぐ。彼の平作は鎧櫃をかつぐことになりました。担ごうとすると、よほど重い。平作も商売柄ですから、すぐにこれは普通の鎧櫃ではないと睨みました。
「あ。」
人々も顔を見あわせました。
鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も
二
まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、
問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには
「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」
「重ねて粗相をするなよ。」
役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れましたが、どうも胸がまだ鎮まらない。問屋場の者は表向きは無事に済ませてくれたものゝ、蔭では
「おれの鎧櫃をかついでいるのは、矢はり問屋場の者か。」
「いえ。あれは
「そうか。」
実は今宮さんも少し疑っていたことがあるのです。あの人足が鎧櫃を取り落したのは何うもほんとうの粗相ではないらしい、わざと手ひどく投げ出したようにも思われる――と、こう疑っている矢先へ、それが問屋場の者でないと聞いたので、いよ/\その疑いが深くなりました。一所
「これ、駕籠屋。あの人足どもは確かなものだろうな。」
「はい。ふたりは大丈夫でございます。問屋場に始終詰めているものでございますから、決して間違いはございません。かい助の奴も、お武家さまのお供で、そばにあの二人が附いておりますから、どうすることもございますまい。やがてあとから追い着きましょう。しばらくこゝでお休みください。」と、駕籠屋は口をそろえて云いました。
「むゝ、こちらは随分足が早かったからな。」
「はい。こちら様のお荷物はなか/\重いと云っておりましたから、だん/\に
荷物が重い。――それが店のなかに休んでいる今宮さんの耳にちらりと這入ったので、今宮さんはまた気色を悪くしました。かの鎧櫃の一件を当付けらしく云うようにも聞き取れましたので、すこしく声を暴くして家来をよびました。
「勇作。貴様は駕脇についていながら、荷物のおくれるのになぜ気がつかない。あんな奴等は何をするか判ったものでない。すぐに引返して探して来い。源吉だけこゝに残って、半蔵も勘次も行け。あいつ等がぐず/\云ったら引っくゝって引摺って来い。」
「かしこまりました。」
勇作はすぐに出て行きました。二人の中間もつゞいて引返しました。どの人もさっきの鎧櫃のむしゃくしゃがあるので、なにかを口実に彼の平作めをなぐり付けてゞも遣ろうという腹で、元来た方へ急いでゆくと、二町ばかりのところで三人の人足に逢いました。平作は並木の松の下に鎧櫃をおろして悠々と休んでいるのを、ふたりの人足がしきりに急き立てゝいるところでした。
「貴様たちはなぜ遅い。
勇作に云われるまでもなく、問屋場の人足どもは正直ですから、もう一息のところだから早く行こうと、さっきから催促しているのですが、平作ひとりがなか/\動かない。こんな重い具足櫃は生れてから一度もかついだことが無いから、この暑い日に照らされながら然う急いではあるかれない。おれはこゝで一休みして行くから、おまえたちは勝手に先へ行けと云って、どっかりと腰をおろしたまゝで何うしても動かない。相手がお武家だからと云って聞かせても、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかと、
その仔細を聴いて、勇作も
「よし。それほどに重いならばおれが担いで行く。」
かれは平作を突きのけて、問題の鎧櫃を自分のうしろに背負いました。そうして、ほかの中間どもに眼くばせすると、半蔵と勘次は飛びかゝって平作の両腕と
「さあ、来い。」
三
平作は建場茶屋へ引き摺って行かれると、さっきから苛々して待っていた今宮さんは、奥の床几を起って店さきへ出て来ました。見ると、勇作が鎧櫃を背負っている。中間ふたりが彼の平作を引っ立てゝくる。もう大抵の様子は推量されたので、この人もまた赫となりました。
「これ、そいつがどうしたのだ。」
この雲助めが横着をきめて動かないと云う若党の報告をきいて、今宮さんはいよ/\怒りました。単に横着というばかりでなく、こんなに重い具足櫃はかついだことが無いとか、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかとか云うような、あてこすりの文句が一々こっちの痛いところに触るので、今宮さんはいよ/\堪忍袋の緒を切りました。
「おのれ不埓な奴だ。この宿場の問屋場へ引渡すからそう思え。」
こゝへ来る途中でも、もう二三度は中間共になぐられたらしく、平作は散らし髪になって、左の眼のうえを少し腫らしていましたが、
「問屋場へでも何処へでも引渡して貰いましょう。わっしはその荷物が重いから重いと云ったゞけのことだ。わっしも十六の年から東海道を股にかけて雲助をしているから、具足櫃と云うものはどのくらいの目方があるか知っています。わっしを問屋場へ引渡すときに、その具足櫃も一緒に持って行って、どんな重い具足が這入っているのか、役人達にあらためて貰いましょう。」
こうなると、
「貴様のような奴等にかゝり合っていては、大切の道中が遅くなる。きょうのところは格別を以てゆるして遣る。早く行け、行け」
もうこっちの内兜を見透しているので、平作は素直に立去らない。かれは勇作にむかって大きい手を出しました。
「もし、御家来さん。酒手をいたゞきます。」
「馬鹿をいえ。」と、勇作はまた叱り付けました。「貴様のような奴に
「さあ、行け、行け。」
中間どもは再び平作の腕をつかんで突き出すと、さっきからはら/\しながら見ていた駕籠屋や人足共も一緒になって、色々になだめて連れて行こうとする。なにしろ多勢に無勢で、所詮腕ずくでは敵わないと思って、平作は引き摺られながら大きい声で怒鳴りました。
「なに、首の飛ばないのを有難く思え……。はゝ、笑わせやあがる。おれの首が飛んだら、その具足櫃からしたじのような紅い水が流れ出すだろう。」
見物人が大勢あつまっているだけに、今宮さんも捨てゝ置かれません。この上にも何を云い出すか判らないと思うと、もう堪忍も容赦もない。つか/\と追って出て、刀の柄袋を払いました。
「そこ退け。」
刀に手をかけたと見て、平作をおさえていた駕籠屋や人足共は、あっと
「えゝ、おれをどうする。」
ふり向く途端に平作の首は落ちてしまいました。今宮さんは勇作を呼んで、茶店の手桶の水を
「当宿の役人にはおれから届ける。勇作と半蔵は三島の宿へ引返して、この鎧櫃をみせて来い。」
こう云いつけて、勇作は何かさゝやくと、勇作は中間ふたりに手伝わせて、彼の鎧櫃を茶屋のうしろへ運んで行きました。そこには小川がながれている。三人は鎧櫃の蓋をあけてみると、醤油樽の底がぬけているようです。その樽も醤油も川へ流してしまって、櫃のなかも綺麗に洗って、それへ雲助の首と胴とを入れました。今度は半蔵がその鎧櫃を背負って、勇作が附いて行くことになりました。
三島の宿の問屋場ではこの鎧櫃をとゞけられて驚きました。それには今宮さんの手紙が添えてありました。
先刻は御手数相掛過分に存候。拙者鎧櫃の血汐、いつまでも溢れ出して道中迷惑に御座候間、一応おあらための上、よろしく御取捨被下度 、右重々御手数ながら御願申上候。早々
今宮六之助
問屋場御中問屋場では鎧櫃を洗いきよめて、使のふたりに戻しました。これで鎧櫃からこぼれ出した紅い雫も、ほんとうの血であったと云うことになります。沼津の宿の方の届も型ばかりで済みました。一方は侍、一方は雲助、しかも御用道中の旅先というのですから、可哀そうに平作は殺され損、この時代のことですから何うにも仕様がありません。
今宮さんはその後の道中に変ったこともなく、主従五人が仲よく上って行ったのですが、彼の一件以来、どうも気が
「貴様は主人の面に泥を塗る奴だ。」
半蔵はさん/″\に叱られましたが、勇作の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる。家来どもは人足にかつがせて来た荷物の始末をしている。その忙しいなかで、半蔵が人足にこんなことを云いました。
「おい、おい。その具足櫃は丁寧にあつかってくれ。今日は危なくおれの首を入れられるところだった。塩っ
それが今宮さんの耳に這入ると、急に顔の色が変りました。草鞋をぬいで玄関へあがりかけたのが、又引返して来て激しく呼びました。
「半蔵。」
「へえ。」
何心なく小腰をかゞめて近寄ると、ぬく手も見せずと云うわけで、半蔵の首は玄関先に転げ落ちました。前の雲助の時とは違って、勇作もほかの中間共もしばらく呆れて眺めていると、不埓の奴だから手討にした、死骸の始末をしろと云いすてて、今宮さんは奥へ這入ってしまいました。
主人がなぜ半蔵を手討にしたか。勇作等も大抵は察していましたが、表向きは彼のゆすりの一件から物堅い主人の怒に触れたのだと云うことにして、これも先ず無事に片附きました。
それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めていました。かの鎧櫃は雲助の死骸を入れて以来、空のまゝで担がせて来て、空のままで床の間に飾って置いたのでした。なんでも九月のはじめだそうで、今宮さんは夕方に詰所から退って来て、自分の小屋で夕飯を食いました。たんとも飲まないのですが、晩酌には一本つけるのが例になっているので、今夜も機嫌よく飲んでしまって、飯を食いはじめる。勇作が給仕をする。
「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」
「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。
「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は屹と命を取られると云うことだ。」
「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。
「そんなことが無いとも云えないな。」
「そうでござりましょうか。」
「どうもありそうに思われる。」
云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。
「論より証拠だ。あれ、みろ。」
勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。
「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」
主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた。だん/\仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。
[#改段]
人参
一
その日は三浦老人の
「わたしには構わずに
「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に
「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、
老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。
「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん/\に少くなったばかりでなく、幕府でも
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしょう。」と、わたしは子供らしく
「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」
老人は笑いながら話しはじめた。
安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの
なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に
桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ/\大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな
その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――
これほど仲が
「久ちゃんは男だから仕方もないが、せめておつねちゃんだけは
おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
桂斎先生は
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの
二
それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば
人参は高価の薬で、うら
人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは
おつねは長屋の人にたのんで、
こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ
「人参をのませれば
「人間には寿命というものがある。人参を飲んで
理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。
そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売
それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が
おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人
糸屋の店では一旦小梅の親類の
三月末の
その脇差をふところに忍ばせて、久松は新乗物町へ行って桂斎先生の出入りをうかゞっていると、日のくれる頃から春雨が音もせずに降って来ました。先生の出て行くところを狙ったのですが、どうも工合が悪かったので、雨にぬれながら
久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのですが、間もなく吉五郎という人の手で召捕られました。町奉行所の吟味に対して、あの桂斎という藪医者はおふくろと姉の
「それにしても、母と姉との仇討ならば、なぜすぐに自訴して出なかったか。」と、係りの役人は聞きました。
かたきを討ってから、久松は川づたいに逃げ延びて、人の見ないところで脇差を川のなかへ投げ込んで、自分もつゞいて川へ飛び込もうとすると、暗い水のうえに姉のおつねが
奉行所ではその裁き方によほど困ったようでした。唯の意趣斬にするのも不便、さりとて仇討として赦すわけにも行かないので、一年あまりもそのまゝになっていましたが、安政四年の夏になって、久松はいよ/\遠島ということにきまりました。島へ行ってから何うしたか知りませんが、おそらく
[#改段]
置いてけ堀
一
「
こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が
ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の
門をあけて、いつものように格子の口へゆこうとすると、庭の方から声をかけられた。
「どなたです。すぐに庭の方へおまわりください。」
「では、御めん下さい。」
わたしは枝折戸をあけて、すぐに庭先の方へまわると、老人は花壇の芍薬の手入れをしているところであった。
「やあ、いらっしゃい。」
袖にまつわる
「きょうはばあやはいないんですか。」
「ばあやは出ましたよ。下町にいるわたくしの娘が孫たちをつれて躑躅を見にくるとこのあいだから云っていたのですが、それが今日の日曜にどや/\押掛けて来たもんですから、ばあやが案内役で連れ出して行きましたよ。近所でいながら燈台下暗しで、わたくしは一向不案内ですが、今年も躑躅はなか/\繁昌するそうですね。あなたもこゝへ来がけに御覧になりましたか。」
「いゝえ。どこも覗きませんでした。」と、わたしは笑いながら答えた。
「まっすぐにこゝへ。」と、老人も笑いながらうなずいた。「まあ、まあ、その方がお利口でしょうね。いくら人形がよく出来たところで、躑躅でこしらえた牛若弁慶五条の橋なんぞは、あなた方の御覧になるものじゃありますまいよ。はゝゝゝゝゝ。」
「しかし、お
「なに、構うものですか。」と、老人は打消すように云った。
「決して御遠慮には及びません。あの連中が一軒一軒に口をあいて見物していた日にはどうしても半日仕事ですから、めったに帰ってくる気づかいはありませんよ。わたくし一人が置いてけ
老人はいつもの通りに元気よく色々のむかし話をはじめた。老人が
置いてけ堀といえば、本所七不思議のなかでも、一番有名になっていますが、さてそれが何処だということは確かに判っていないようです。一体、本所の七不思議というのからして、ほんとうには判っていないのです。誰でも知っているのは、置いてけ堀、片葉の芦、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には津軽家の太鼓を省いて、松浦家の椎の木を入れています。又ある人は足洗い屋敷を省いて、津軽と松浦と消えずの行燈とをかぞえているようです。この七不思議を仕組んだものには「七不思議
そういうわけですから、置いてけ堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で
その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年
五月は例のさみだれが毎日じめ/\降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、びくと釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本
今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてあるびくを引きあげると、ずっしりと重い。
きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。
「置いてけえ。」
阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、曽て一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。
「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる。」
平気でびくを片附けて、それから釣竿を引きあげると、
「あゝ、又か。」
阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は
「置いてけえ。」
今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは
「置いていけと云うなら、返してやるぞ。」
釣竿とびくを持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。
「置いてけえ。」
それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですた/\帰りました。
二
小身と云っても場末の
お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで
「お帰りなさいまし。」
くゞり戸を推して這入る音をきくと、お幾はすぐに傘をさして迎いに出て来て、主人の手から重いびくをうけ取って水口の方へ持って行く。阿部さんも簑笠でぐっしょり濡れていますから、これも一緒に水口へまわると、お幾は蝋燭をつけて来て、大きい盥に水を汲み込んで、びくの魚を移していたが、やがて小声で「おやっ」と云いました。
「旦那さま。どうしたのでございましょう。びくのなかにこんなものが……。」
手にとって見せたのは
「そんなものが何うして這入ったのかな。掃溜へでも持って行って捨てゝしまえ。」
「はい。」
とは云ったが、お幾は蝋燭のあかりでその櫛をながめていました。そうして、なんと思ったか、これを自分にくれと云いました。
「まだ新しいのですから、捨てゝしまうのは勿体のうございます。」
櫛を拾うのは苦を拾うとか云って、むかしの人は嫌ったものでした。お幾はそんなことに頓着しないとみえて、自分が貰いたいという。阿部さんは別に気にも止めないで、どうでも勝手にするがいゝと云うことになりました。きょうは獲物が多かったので、盥のなかには鮒や鯰やうなぎが一杯になっている。そのなかには可成りの目方のありそうな鰻もまじっているので、阿部さんもすこし嬉しいような心持で、その二三匹をつかんで引きあげて見ているうちに、なんだかちくりと感じたようでしたが、それなりに手を洗って居間へ這入りました。夕飯の支度は出来ているので、お幾はすぐに膳ごしらえをしてくる。阿部さんはその膳にむかって箸を取ろうとすると、急に右の小指が灼けるように痛んで、生血がにじみ出しました。
「痛い、痛い。どうしたのだろう。」
主人がしきりに痛がるので、お幾もおどろいてだん/\詮議すると、たった今、盥のなかの鰻をいじくっている時に、なにかちくりと触ったものがあるという。そこで、お幾は再び蝋燭をつけて、台所の盥をあらためてみると、鰻のなかには一匹の
「旦那様、大変でございます。蝮が這入っております。」
「蝮が……。」と、阿部さんもびっくりしました。まさかに自分の釣ったのではあるまい。そこらの草むらに棲んでいた蝮がびくのなかに這入りこんでいたのを、鰻と一緒に盥のなかへ移したのであろう。お幾は運よく咬まれなかったが、自分は鰻をいじくっているうちに、指が触って咬まれたのであろう。これは大変、まかり間違えば命にもかゝわるのだと思うと、阿部さんも真青になって騒ぎ出しました。
「お幾。早く医者をよんで来てくれ。」
「蝮に咬まれたら早く手当をしなければなりません。お医者のくるまで打っちゃって置いては手おくれになります。」
お幾は
大難が小難、小指の先ぐらいは吉原の
「置いてけえ。」
かすかに眼をあいて見まわしたが、蚊帳の外には誰もいないらしい。やはり空耳だと思っていると、又しばらくして同じような声がきこえました。
「置いてけえ。」
阿部さんも堪らなくなって飛び起きました。そうして、あわたゞしくお幾をよびました。
「おい、おい。早く来てくれ」
広くもない家ですから、お幾はすぐに女部屋から出て来ました。
「御用でございますか。」
蚊帳越しに枕もとへ寄って来たお幾の顔が、ほの暗い行燈の火に照されて、今夜はひどく美しくみえたので、阿部さんも変に思ってよく見ると、やはりいつものお幾の顔に相違ないのでした。
「誰かそこらに居やしないか。よく見てくれ。」
お幾はそこらを見まわして、誰もいないと云ったが、阿部さんは承知しません。次の間から、納戸から、縁側から、便所から、しまいには戸棚のなかまでも一々あらためさせて、鼠一匹もいないことを確かめて、阿部さんも先ず安心しました。
「まったくいないか。」
「なんにも居りません。」
そういうお幾の顔が又ひどく美しいようにみえたので、阿部さんはなんだか薄気味悪くなりました。まえにも云う通り、お幾は先ず一通りの
門のくゞりを推す音がきこえたので、お幾が出てみると、主人の弟の正木新五郎が見舞に来たのでした。お幾は医者へ行く途中で、正木の家の中間に出逢ったので、主人が蝮に咬まれたという話をすると、中間もおどろいて注進に帰ったのですが、生憎に新五郎はその時不在で、四つ(午後十時)近い頃にようやく戻って来て、これもその話におどろいて夜中すぐに見舞にかけ着けて来たというわけです。新五郎は今年十九ですが、もう番入りをして家督を相続していました。兄よりは
「兄さん。どうした。」
「いや、ひどい目に逢ったよ。」
兄弟は蚊帳越しで話していると、そこへお幾が茶を持って来ました。その顔が美しいばかりでなく、阿部さんの眼のせいか、姿までが痩形で、如何にもしなやかに見えるのです。どうも不思議だと思っていると、阿部さんの耳に又きこえました。
「置いてけえ」
阿部さんは不図かんがえました。
「新五郎。おまえ今夜泊まってくれないか。いや、看病だけならお幾ひとりで沢山だが、おまえには別に頼むことがある。おれの大小や、
なんの訳かよく判らないが、新五郎は素直に受合って、兄の指図通りに大小や槍のたぐいを片附けてしまいました。自分はこゝに泊り込むつもりですから新五郎は兄と一つ蚊帳に這入る。用があったら呼ぶからと云って、お幾を女部屋に休ませる。これで家のなかもひっそりと鎮まった。入江町の鐘が九つ(午後十二時)を打つ。阿部さんはしばらくうと/\していましたが、やがて眼がさめると、少し熱があるせいか、しきりに喉が渇いて来ました。女部屋に寝ているものをわざ/\呼び起すのも面倒だと思って、阿部さんはとなりに寝ている弟をよびました。
「新五郎、新五郎。」
新五郎はよく寝入っているとみえて、なか/\返事をしません。
よんどころなく大きい声でお幾をよびますと、お幾はやがて起きて来ました。主人の用を聞いて、すぐに茶碗に水を入れて来ましたが、そのお幾の寝みだれ姿というのが又一層艶っぽく見えました。と思うと、また例の声が哀れにきこえます。
「置いてけえ。」
心の迷いや空耳とばかりは思っていられなくなりました。眼のまえにいるお幾は、どうしてもほんとうのお幾とは見えません。置いてけの声も、こうしてたび/\聞える以上、どうしても空耳とは思われません。阿部さんは起き直って蚊帳越しに訊きました。
「おまえは誰だ。」
「幾でございます。」
「嘘をつけ、正体をあらわせ。」
「御冗談を……。」
「なにが冗談だ。武士に祟ろうとは怪しからぬ奴だ。」
阿部さんは茶碗を
「新五郎。邪魔をするな。早く刀を持って来い。」
新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。
「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」
さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ/\と弟に押さえられていました。
「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。
「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。
「はい、はい。」
お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の
「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が
なるほど老人の云った通り、この長い話を終るあいだに、躑躅見物の女連は帰って来なかった。
[#改段]
落城の譜
一
「置いてけ堀」の話が一席すんでも、女たちはまだ帰らない。その帰らない間にわたしは引揚げようと思ったのであるが、老人はなか/\帰さない。色々の話がそれからそれへはずんで行った。
「いや、あなたが昨日おいでになると、丁度こゝに面白い人物が来ていたのですがね。その人は森垣幸右衛門と云って――明治以後はその名乗りを取って、森垣
わたくしはもうその年月を忘れてしまったのですが、きのう森垣さんに云われて、はっきりと思い出しました。それは文久元年の夏のことで、その頃わたくしは何うも毎晩よく眠られない癖が付きましてね、まあ
わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、
お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど
おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと/\と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ/\貝をふくという
七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり/\と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも
「おかげさまで助かりました。」
お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ/\気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から厄介になっているとのことでした。そのうちに雨もやんで、涼しそうな星がちら/\と光って来たので、お武家は繰返して礼を云って帰りました。
唯それだけのことで、こっちでは左のみ恩にも被せていなかったのですが、そのお武家はひどく義理がたい人とみえて、あくる日の早朝に菓子の折を持って礼に来たので、わたくしもいさゝか恐縮しました。奥へ通して色々の話をしているうちに、双方がます/\打解けて、お武家は自分の身の上話をはじめました。このお武家が前に云った森垣幸右衛門という人で、その頃はまだ内田という苗字であったのです。
森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの時に法螺貝をふく役です。一口にほらを吹くと云いますけれど、本式に法螺を吹くのはなか/\むずかしい。山伏の法螺でさえ容易でない、まして軍陣の駈引に用いる法螺と来ては更にむずかしい[#「むずかしい」は底本では「むずしい」]ことになっていました。やはり色々の譜があるので、それを専門に学んだものでなければ滅多に吹くことは出来ません。拙者は貝をつかまつると云えば、立派に武士の云い立てになったものです。森垣さんはその貝の役の家に生まれて去年の秋までは無事につとめていたのですが、人間というものは判らないもので、なまじいに貝が上手であったために、飛んでもないことを仕出来すようになったのです。
二
貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では
わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣さんで、宇兵衛は自分の死ぬ一年ほど前に、森垣さんを自分の屋敷へよびよせて、貝の秘曲を伝授しました。伝授すると云っても、その譜をかいてある
宇兵衛は三つの秘曲を伝授して、その二つだけは吹いて聞かせましたが、最後の一つは吹かないで、たゞその譜のかいてある巻物をあたえただけでした。
「これは一番大切なものであって、しかも妄りに吹くことは出来ぬものである。万一の場合のほかは決して吹くな。おれも生涯に一度も吹いたことは無かった。おまえも吹く時のないように神仏に祈るがよい。」
それは落城の譜というのでありました。城がいよ/\落ちるというときに、今が最後の貝をふく。なるほど、これは大切なものに相違ありません。そうして、めったに吹くことの出来ないものです。これを吹くようなことがあっては大変です。貝の役としては勿論心得ていなければならないのですが、それを吹くことの無いように祈っていなければなりません。
「万一の場合のほかに決して吹くな。」
師匠はくり返して念を押すと、森垣さんもかならず吹かないと誓を立てゝ、その譜の巻物をゆずられました。それも畢竟は森垣さんの伎倆が師匠に見ぬかれたからで、芸道の面目、身の名誉、森垣さんも人に羨まれているうちに、その翌年には師匠の宇兵衛が歿しました。こうなると森垣さんの天下で、ゆく/\は師匠のあとを嗣いで師範役をも仰せつけられるだろうと噂されていましたが、前にも云った通り、こゝに飛んでもない事件が
森垣さんは師匠から三つの秘曲をつたえられましたが、そのなかで最も大切に心得ろと云われた例の落城の譜――それはどうしても吹くことが出来ない。泰平無事のときに落城の譜をふくと云うことは、城の滅亡を歌うようなもので、武家に取っては此上もない不吉です。ある意味に於いては主人のお家を呪うものとも見られます。師匠が固く戒めたのもそこの理窟で、それは森垣さんも万々心得ているのですが、そこが人情、吹くなと云われると何うも吹いて見たくて堪らない。それでも三年ほどは辛抱していたのですが、もう我慢が仕切れなくなって来ました。うっかり吹いたらばどんなお咎めをうけるかも知れない、まかり間違えば死罪になるかも知れない。それを承知していながら、何分にも我慢が出来ない。どうも困ったことになったものです。
それでも初めのうちは一生懸命に我慢して、巻物の譜を眺めるだけで
「その時は我ながら夢のようでござった。」と、森垣さんはわたくしに話しました。
まったく夢のような心持で、森垣さんは奥座敷の床の間にうや/\しく飾ってある革の手箱のなかから彼の巻物をとり出して、それを先ずふところに押込み、ふだんから大切にしている法螺の貝をかゝえ込んで、自分の屋敷をぬけ出しました。夢のようだとは云っても、さすがに本性は狂いません。城下でむやみに吹きたてると大変だと思ったので、なるべく遠いところへ行って吹くつもりで、明るい月のひかりをたよりに、一里あゆみ、二里あゆみ、とう/\城下から三里半ほど
「こゝなら
譜はもう暗記するほどに覚えているのですが、それでも念のためにその巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす
「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」
勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ/\大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。
そんなことゝは
三
城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと/\秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう/\強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。
森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。
「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。
こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん/\相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都合もよかろうと、わたくしが例のお世話焼きでこっちへも勧め、あっちをも説きつけて、この縁談は好い塩配にまとまりました。森垣さんはそれ以来、本姓の内田をすてゝ養家の苗字を名乗ることになったのです。
「朝鮮軍記の講釈で、小早川隆景が貝を吹く
そういう関係から森垣さんとは特別に近しく附合って、今日では先方は金持、こちらは貧乏人ですが、相変らず仲よくしているわけです。わたくしは世話ずきで、むかしから色々の人の世話もしましたが、森垣さんのような履歴を持っているのは、まあ変った方ですね。
森垣さんのお話はこれぎりですが、この法螺の貝について別に可笑しいお話があります。それはある与力のわかい人が組頭の屋敷へ逢いに行った時のことです。御承知でもありましょうが、旗本でも御家人でも、その支配頭や組頭には毎月幾度という面会日があって、それをお逢いの日といいます。組下のもので何か云い立てることがあるものは、その面会日にたずねて行くことになっているのですが、ほかに云い立てることはありません、なにかの芸を云い立てゝ役附にして貰うように頼みに行くのです。定めてうるさいことだろうと思われますが、自分の組内から役附のものが沢山出るのはその組頭の名誉になるので、組頭は自分の組下の者にむかって何か申立てろと催促するくらいで、面会日にたずねて行けば、よろこんで逢ってくれたそうです。
そこで、その与力は組がしらの屋敷に逢いに行ったのです。こう云うことを頼みに行くのは、いずれも若い人ですから、組頭のまえに出てやゝ臆した形で、小声で物を云っていました。
「して、お手前の申立ては。」と、組頭が訊きました。
「手前は貝をつかまつります。」
組頭は老人で、すこしく耳が遠いところへ、こっちが小声で云っているので能く聴き取れない。二度も三度も訊きかえし、云い返して、両方がじれ込んで来たので、組頭は自分の耳を扇で指して、おれは耳が遠いから傍へ来て大きい声で云えと指図したので、若い与力はすゝみ出てまた云いました。
「手前は貝をつかまつる。」
「なに。」と組頭は首をかしげた。
まだ判らないらしいので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は
「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」
だん/\聴いてみると、この組がしらの老人、ほらを吹くと云ったのを、俗に所謂ほらを吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほらを吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ/\使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。
組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほらをふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。
老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ/\帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。
[#改段]
権十郎の芝居
一
これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。
老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から
昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。
いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向い合っている。老人は「権十郎の芝居」という昔話をしているのであった。
あなたは芝居のことを調べていらっしゃるようですから、今のことは勿論、むかしのことも好く御存じでしょうが、江戸時代の芝居小屋というものは実に穢い。今日の場末の小劇場だって昔にくらべれば遙かに立派なものです。それでもその当時は、三芝居だとか檜舞台だとか云って、むやみに有難がっていたもので、今から考えると
それでは学者や侍は芝居を一切見物しないかと云うと、そうではない。芝居の好きな人は矢はり覗きに行くのですが、まったく文字通りに「覗き」に行くので、大手をふって乗り込むわけには行きません。勿論、武家
それですから、侍が芝居を見るときには、大小を茶屋にあずけて、丸腰で這入らなければならない。つまり吉原へ遊びに行くのと同じことになったわけですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと云う熱心家は、芝居茶屋に大小をあずけ、羽織もあずけ、そこで縞物の羽織などに着かえるものもある。用心のいゝのは、身ぐるみ着かえてしまって、
前置がちっと長くなりましたが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、
それでも
なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の
たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論に割込みです。そのころの平土間一枡は七人詰ですから、ほかに六人の見物がいる。たとい丸腰でも、髪の結い方や風俗でそれが武家か町人か十分に判りますから、おなじ枡の人たちも藤崎さんに相当の敬意を払って、なるだけ楽に坐らせてくれました。ほかの六人も一組ではありません、四人とふたりの二組で、その一組は町家の若夫婦と、その妹らしい十六七の娘と、近所の人かと思われる二十一二の男、ほかの一組は職人らしい二人連でした。この二組はしきりに酒をのみながら見物している。藤崎さんも少しは飲みました。
いつの代の見物人にも
その権十郎が今度の狂言では
藤崎さんも逆らわずに、一旦はおとなしく黙ってしまったのですが、少し経つと又夢中になって「まずいな、まずいな。」と口のうちで繰返す。そのうちに幕がしまると、その亭主は藤崎さんの方へ向き直って、切口上で訊きました。
「あなたは先程から頻りに山崎屋をまずいの、下手だの、大根だのと仰しゃっておいでゝございましたが、どう云うところがお気に召さないのでございましょうか。」
前にも申す通り、その当時の贔屓というものは今日とはまた息込みが違っていて、たといその
権十郎の芸がまずいか、拙くないか、いつまで云い合っていたところで、所詮は水かけ論に過ぎないのですが、両方が意地になって云い募りました。ばか/\しいと云ってしまえばそれ迄ですが、この場合、両方ともに一生懸命です。相手の連の男も加勢に出て、藤崎さんを云い籠めようとする。おかみさんや妹娘までが泣声を出して食ってかゝる。近所となりの土間にいる人達もびっくりして眺めている。なにしろ敵は大勢ですから、藤崎さんもなか/\の苦戦になりました。
ほかの二人づれの職人はさっきから黙って聴いていましたが、両方の議論がいつまでも果しがないので、その一人が横合から口を出しました。
「もし、皆さん。もう好い加減にしたらどうです。いつまで云い会った[#「云い会った」はママ]ところで、どうで決着は付きやあしませんや。第一、御近所の方達も御迷惑でしょうから。」
藤崎さんは返事もしませんでしたが、一方の相手はさすがに町人だけに、のぼせ切っているなかでも慌てゝ挨拶しました。
「いや、どうも相済みません。まったく御近所迷惑で、申訳もございません。お聴きの通りのわけで、このお方があんまり判らないことを仰しゃるもんですから……。」
「うっちゃってお置きなせえ。おまえさんが相手になるからいけねえ。」と、もう一人の職人が云いました。「山崎屋がほんとうに下手か上手か、ぼんくらに判るものか。」
「そうさな。」と、前の一人が又云いました。「あんまりからかっていると、仕舞には舞台へ飛びあがって、太平次にでも
職人ふたりは藤崎さんを横目に視ながらせゝら笑いました。
二
この職人たちも権十郎贔屓とみえます。さっきから黙って聴いていたのですが、藤崎さんが飽までも強情を張って、意地にかゝって権十郎をわるく云うので、ふたりももう我慢が出来なくなって、四人連の方の助太刀に出て来たらしい。口では仲裁するように云っているが、その実は藤崎さんの方へ突っかかっている。殊に舞台へ飛びあがって太平次にくらい付くなどというのは、例の肥後の侍の一件をあて付けたもので、藤崎さんを武家とみての悪口でしょう。それを聞いて、藤崎さんもむっとしました。
いくら相手が町人や職人でも、一桝のうちで六人がみな敵では藤崎さんも困ります。町人たちの方では味方が殖えたので、いよ/\威勢がよくなりました。
「まったくでございますね。」と、亭主の男もせゝら笑いました。「なにしろ芝居とお能とは違いますからね。一年に一度ぐらい御覧になったんじゃあ、ほんとうの芸は判りませんよ。」
「判らなければ判らないで、おとなしく見物していらっしゃれば
かわる/″\に藤崎さんを嘲弄するようなことを云って、しまいには何がなしに声をあげてどっと笑いました。藤崎さんはいよ/\癪に障った。もうこの上はこんな奴等と問答無益、片っ端から花道へひきずり出して、柔術の腕前をみせてやろうかとも思ったのですが、どうしても、そんなことは出来ない。侍が芝居見物にくる、単にそれだけならば兎もかくも黙許されていますが、こゝで何かの事件をひき起したら大変、どんなお咎めを蒙るかも知れない。自分の家にも疵が付かないとは限らない。いくら残念でも場所が悪い。藤崎さんは胸をさすって堪えているより外はありません。そこへ好い塩梅に茶屋の若い衆が来てくれました。
若い衆もさっきから此のいきさつを知っているので、いつまでも咬み合わして置いて何かの間違いが出来てはならないと思ったのでしょう。藤崎さんを宥めるように連れ出して、別の土間へ引越させることにしました。ほかの割込みのお客と入れかえたのです。藤崎さんもこんなところにいるのは面白くないので、素直に承知して引越しましたが、今度の場所は今までよりも三四間あとのところで、喧嘩相手のふた組は眼のまえに見えます。その六人が時々にこちらを振返って、なにか話しながら笑っている。屹度おれの悪口を云っているに相違ないと思うと、藤崎さんはます/\不愉快を感じたのですが、根が芝居好きですから中途から帰るのも残り惜しいので、まあ我慢して二番目の猿まわしまで見物してしまったのです。
芝居を出たのは
きょうの芝居は合邦ヶ辻と亀山と、かたき討の狂言を二膳込みで見せられたせいか、藤崎さんの頭にも「かたき討」という考えが余ほど強くしみ込んでいたらしく、こゝで彼の四人連に再び出逢ったのは、自分の尋ねる仇にめぐり逢ったようにも思われたのです。たんとも飲まないが、藤崎さんの膳のまえには徳利が二本ならんでいる。顔もぽうと紅くなっていました。
そのうちに、彼の四人連もこっちを見つけたとみえて、のび上って覗きながら又なにか囁きはじめたようです。そうして、時々に笑い声もきこえます。
「怪しからん奴等だ。」と、藤崎さんは鰻を食いながら考えていました。かえり討やら仇討やら、色々の殺伐な舞台面がその眼のさきに浮び出しました。
早々に飯を食ってしまって、藤崎さんはこゝを出ました。かの四人連が下谷の池の端から来た客だということを芝居茶屋の若い衆から聞いているので、藤崎さんは先廻りをして広徳寺前のあたりにうろ/\していると、この頃の天気癖で細かい雨がぽつ/\降って来ました。今と違って、あの辺は寺町ですから夜はさびしい。藤崎さんはある寺の門の下に這入って、雨宿りでもしているようにたゝずんでいると、時々に提灯をつけた人が通ります。その光をたよりに、来る人の姿を一々あらためていると、やがて三四人の笑い声がきこえました。それが彼の四人づれの声であることをすぐに覚って、藤崎さんは手拭で顔をつゝみました。
人は四人、提灯は一つ。それがだん/\に近寄ってくるのを二三間やり過して置いて、藤崎さんはうしろから足早に附けて行ったかと思うと、亭主らしい男はうしろ袈裟に斬られて倒れました。わっと云って逃げようとするおかみさんも、つゞいて其場に斬り倒されました。連の男と妹娘は、人殺し人殺しと怒鳴りながら、跣足になって前とうしろへ逃げて行く。どっちを追おうかと少しかんがえているうちに、その騒ぎを聞きつけて、近所の珠数屋が戸をあけて、これも人殺し人殺しと怒鳴り立てる。ほかからも人のかけてくる足音が聞える。藤崎さんも我身があやういと思ったので、これも一目散に逃げてしまいました。
下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって、俗に
「おれは馬鹿なことをした。」
当座の口論や一分の意趣で刃傷沙汰に及ぶことはめずらしくない。しかし仮にも武士たるものが、歌舞伎役者の上手下手をあらそって、町人の相手をふたりまでも手にかけるとは、まことに類の少い出来事で、いくら仇討の芝居を見たからと云って、とんだ仇討をしてしまったものです。藤崎さんも今となっては後悔のほかはありません。万一これが露顕しては恥の上塗りであるから、いっそ今のうちに切腹しようかとも思ったのですが、先ず兎もかくも家へ帰って、母にもそのわけを話して暇乞いをした上で、しずかに最期を遂げても遅くはあるまいと思い直して、夜のふけるころに市ヶ谷の屋敷へ帰って来ました。
奉公人どもを先ず寝かしてしまって、藤崎さんは今夜の一件をそっと話しますと、
当人に腹を切らせてしまえばそれ迄のことですが、組頭としては成るべく組下の者を殺したくないのが人情です。殊に事件が事件ですから、そんなことが表向きになると、当人ばかりか組頭の身の上にも何かの飛ばっちりが降りかゝって来ないとも限りません。そこで組頭は藤崎さんに意見して、先ず当分は素知らぬ顔をして成行を窺っていろ。いよ/\詮議が厳重になって、お前のからだに火が付きそうになったらば、おれが内証で教えてやるから、その時に腹を切れ。かならず慌てゝはならないと、くれ/″\も意見して帰しました。
母の意見、組頭の意見で、藤崎さんも先ず死ぬのを思いとまって、内心びく/\もので幾日を送っていました。斬られたのは下谷の紙屋の若夫婦で、娘はおかみさんの妹、連の男は近所の下駄屋の亭主だったそうです。斬られた夫婦は即死、ほかの二人は運よく逃れたので、町方でもこの二人について色々詮議をしましたが、何分にも暗いのと、不意の出来事に度をうしなっていたのとで、何がなにやら一向わからないと云うのです。それでも芝居の喧嘩の一件が町方の耳に這入って、芝居茶屋の方を一応吟味したのですが、茶屋でも何かのかゝり合を恐れたとみえて、そのお武家は初めてのお客であるから何処の人だか知らないと云い切ってしまったので、まるで手がかりがありません。第一、その侍が果して斬ったのか、それとも此頃流行る辻斬のたぐいか、それすら確かに見きわめは付かないので、紙屋の夫婦はとう/\殺され損と云う事になってしまいました。
それを聞いて、藤崎さんも安心しました。組頭もほっとしたそうです。それに懲りて、藤崎さんは好きな芝居を一生見ないことに決めまして、組頭や
官軍がなぜ彰義隊を打っちゃって置くのか、今に戦争がはじまるに相違ないと江戸中でも頻りにその噂をしていました。わたくしも下谷に住んでいましたから、前々から荷作りをして、さあと云ったらすぐに立退く用意をしていたくらいです。そのうちに形勢がだん/\切迫して来て、いよ/\
「あいつ気怯れがして脱走したかな。」
隊の方ではそんな噂をしていると、夜が更けてから柵を乗り越して帰って来ました。聞いてみると、猿若町の芝居を見て来たというのです。こんな騒ぎの最中でも、猿若町の市村座と守田座はやはり五月の芝居を興行していて、市村座は例の権十郎、家橘、田之助、仲蔵などという顔ぶれで、一番目は「八犬伝」中幕は田之助が女形で「大晏寺堤」の春藤次郎右衛門をする。二番目は家橘――元の羽左衛門です――が「伊勢音頭」の貢をするというので、なか/\評判は好かったのですが、時節柄ですから何うも客足が付きませんでした。藤崎さんは上野に立籠っていながら、その噂を聴いてかんがえました。
「一生の見納めだ。好きな芝居をもう一度みて死のう。」
隊をぬけ出して市村座見物にゆくと、なるほど景気はよくない。併しこゝで案外であったのは、あれほど嫌いな河原崎権十郎が八犬伝の犬山道節をつとめて、藤崎さんをひどく感心させたことでした。しばらく見ないうちに、権十郎はめっきり腕をあげていました。これほどの
そのあくる日は官軍の総攻撃で、その戦いのことは改めて申すまでもありません。藤崎さんは真先に進んで、一旦は薩州の兵を三橋のあたりまで追いまくりましたが、とう/\黒門口で花々しく討死をしました。それが五月十五日、丁度彼の紙屋の夫婦を斬った日で、しかも七回忌の祥月命日にあたっていたと云うのも不思議です。
もう一つ変っているのは、藤崎さんの死骸のふところには市村座の絵番附を入れていたと云うことです。彰義隊の戦死者のふところに経文をまいていたのは沢山ありました。これは上野の寺内に立籠っていた為で、なるほど有りそうなことですが、芝居の番附を抱いていたのは藤崎さん一人でしょう。番附の捨てどころがないので、何ということなしに
河原崎権十郎は後に日本一の名優市川団十郎になりました。
[#改段]
春色梅ごよみ
一
思い出すと、そのころの大久保辺はひどく寂しかった。
それでも幾分か昔のおもかげが残っていて、今でも比較的に広い庭園や空地を持っている家では、一種の慰み半分に小さい野菜畑などを作って素人園芸を楽しんでいるのも少くない。わたしの
それも今では懐しい思い出の一つとなった。わたしはこのごろ自分の庭のあき地を徘徊して、朝に夕にめっきりと伸びてゆく唐もろこしの青い姿を見るたびに、三浦老人その人のすがたや、その当時はまだ青二才であった自分の若い姿などが見かえられて、今後更に二十余年を経過したらば、こゝらのありさまも又どんなに変化するかなどと云うことも考えさせられる。
これから紹介するのは、今から二十幾年前の秋、その唐もろこしの御馳走になりながら、縁さきにアンペラの座蒲団をしいて、三浦老人とむかい合っていたときに聴かされた昔話の一つである。その頃に比べると、こゝらの藪蚊はよほど減った。それだけは土地繁昌のおかげである。
老人は語った。
これはこゝから余り遠くないところのお話で、新宿の新屋敷――と云っても、あなた方にはお判りにならないかも知れませんが、つまり今日の千駄ヶ谷の一部を江戸時代には新屋敷と唱えていました。そこには大名の下屋敷もある、旗本の屋敷もある。ほかに御家人の屋敷も沢山ありましたが、なんと云っても場末ですから随分さびしい。往来のところ/″\に草原がある、竹藪がある。うら手の方には田圃がみえる、田川が流れているという道具立ですから、大抵お察しください。その六軒町というところに高松勘兵衛という二百俵取りの御家人が住んでいました。
いつぞやは御家人たちの内職のお話をしたことがありましたが、この人は槍をよく使うので近所の武家の子供たちを弟子にとっている。流儀は木下流――木下淡路守
武家の娘でも奉公に出ます。勿論、町人の家に奉公することはありませんが、自分の上役の屋敷に奉公するのは珍しくありません。御家人のむすめが旗本屋敷に奉公するなどは幾らもありました。一つは行儀見習いの為で、高松のお近さんも十七の春から薙刀の出来るのを云い立てに、本郷追分の三島信濃守という四千石の旗本屋敷へ御奉公にあがりまして、お嬢さま附となっていました。旗本も四千石となると立派なもので、殆ど一種の大名のようなものです。大名はどんなに小さくとも大名だけの格式を守って行かなければならず、参覲交代もしなければなりませんから、内証はなか/\苦しい。したがって、一万石や二万石ぐらいの木葉大名よりも、四千石五千石の旗本の方がその生活は却って豊なくらいでした。
三島の屋敷も評判の物堅い家風でした。高松さんもそれを知って自分の娘を奉公に出したのですが、まったく奥も表も行儀が正しく、武道の吟味が強い。お近さんはお嬢さまのお相手をして薙刀の稽古を励む。ほかの腰元たちも一緒になって薙刀や
「武家に奉公するものは武芸を怠ってはならぬ。まして今の時世であるから、なんどき何事が起らないとも限らぬ。男も女もその用心を忘れまいぞ。」
これが殿さまや奥さまの意見で、屋敷のもの一統へ常日頃から厳重に触れ渡されているのです。お近さんという娘は子供のときからお
それで済めば天下泰平、いや、
「これは静かなところでゆる/\と御養生遊ばすに限ります。」
医者もこう勧め、両親もそう思って、お嬢さまはしばらく下屋敷の方に出養生ということになりました。大きい旗本はみな下屋敷を持っています。三島家の下屋敷は雑司ヶ谷にありました。お近さんもお嬢さまのお供をして雑司ヶ谷へゆくことになったのは、安政四年の桜の咲く頃で、そこらの畑に菜の花が一面に咲いているのをお嬢さまは珍しがったということでした。
二
どこでも下屋敷は地所を沢山に取っていますから庭も広い、空地も多い。庭には桜や山吹が咲きみだれている。天気のいゝ日にはお嬢さまも庭に出て、木の陰や池のまわりなどをそゞろ歩きして、すこしは気分も晴れやかになるだろうと思いの外、うらゝかな日に庭へ出て、あたゝかい春風に吹かれていると、却って頭が重くなるとか云って、お嬢様はめったに外へも出ない。たゞ垂れ籠めて鬱陶しそうに春の日永を暮している。殊に花時の癖で、今年の春も雨が多い。そばに附いている者までが自然に気が滅入って、これもお嬢さま同様にぶら/\病にでもなりそうになって来ました。医者は三日目に一度ずつ見まわりに来てくれるが、お嬢さまは何うもはっきりとしない。するとある日のことでした。きょうも朝から絹糸のような春雨が音も無しにしと/\と降っている。お嬢さまは相変らず鬱陶しそうに黙っている。お近さんをはじめ、そばに控えている二三人の腰元もたゞぼんやりと黙っていました。
こんなときには琴を弾くとか、歌でも作るとか、なにか相当の日ぐらしもある筈ですが、屋敷の家風が例の通りですから、そんな方のことは誰もみな不得手です。屋敷奉公のものは世間を知らないから世間話の種もすくない。勿論、こゝでは芝居の噂などが出そうもない。たゞ詰らなそうに睨み合っているところへ、お仙という女中がお茶を運んで来ました。お仙は始終この下屋敷の方に詰めているのでした。
「どうも毎日降りまして、さぞ御退屈でいらせられましょう。」
みんなも退屈し切っているところなので、このお仙を相手にして色々の話をしているうちに、なにかの切っかけからお仙はそのころ流行の草双紙の話をはじめました。それは例の
お嬢様もその草双紙の話がひどく御意に入ったとみえて、日が暮れてからも又その噂が出ました。
「仙をよんで、さっきの話のつゞきを聴いてはどうであろう。」
誰も故障をいう者はなくて、お仙はお嬢さまの前によび出されました。そうして、五つ(午後八時)の時計の鳴る頃まで、青柳春之助や鳥山秋作の話をしたのですが、それが病み付きになってしまって、それからはお仙が毎日「しらぬひ譚」のお話をする役目をうけたまわることになりました。お仙がどうしてこんな草双紙を読んでいたかというと、この女は三島家の知行所から出て来た者ではなくて、下谷の方から――実はわたくしの家の近所のもので、この話もその女から聞いたのです。――奉公にあがっている者ですから、家にいたときに草双紙も読んでいる。芝居もとき/″\には覗いている。そういうわけですから、例の「しらぬひ譚」も知っていて、測らずもそれがお役に立ったのです。
一体お仙はどんな風にその話をしたのか知りませんが、なにしろ聴く人たちの方は薙刀や竹刀のほかには今までなんにも知らなかった連中ばかりですから、初めて聴かされた草双紙の話が馬鹿に面白い。みんなは口をあいて聴いているという始末。しかしお仙も「しらぬひ譚」を暗記しているわけでもないのですから、話に曖昧なところも出て来る。聴いている方では
どこの大名でも旗本でも下屋敷の方は取締りがずっと
そうして、夏も過ぎ、秋も過ぎましたが、お嬢さまはまだ本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行ったときには、好い加減の嘘をこしらえて、お嬢さまの御病気はまだほんとうに御本復にならないなどと云っている。本郷へ帰れば殿様や奥様の監視の下に又もや薙刀や竹刀をふり廻さなければならない。それよりも下屋敷に遊んでいて、夏の日永、秋の夜永に、狂訓亭主人の筆の綾をたどって、丹次郎や米八の恋に泣いたり笑ったりしている方が面白いというわけで、武芸を忘れてはならぬという殿様や奥様の教訓よりも、狂訓亭の狂訓の方が皆んなの身にしみ渡ってしまったのです。
そのなかでもその狂訓に強く感化されたのは、彼のお近さんでした。どうしたものか、この人が最も熱心な狂訓亭崇拝者になり切ってしまって、読んでいるばかりでは堪能が出来なくなったとみえて、わざ/\
「どうも困ったものだ。」と、下屋敷の侍達はいよ/\眉をひそめました。
いくら下屋敷だからと云って、あまりに猥な不行儀なことが重なると、打っちゃって置くわけには行かない。殊に三島の屋敷は前にも申す通り、武道の吟味の強い家風ですから、そんなことが上屋敷の方へきこえると、こゝをあずかっている者どもの
貸本屋の出入りが止まるとなると、お近さんの写本がいよ/\大切なものになって、お近さんは内証でそれを読んで聞かせて皆んなを楽しませていました。――野にすてた笠に用あり水仙花、それならなくに水仙の、霜除けほどなる佗住居――こんな文句は皆んなも暗記してしまうほどになりました。そうしているうちに、こんなことが自然に上屋敷の方へ洩れたのか、或は侍たちも持て余して密告したのか、いずれにしてもお嬢様を下屋敷に置くのは宜しくないというので、病気全快を口実に本郷の方へ引き戻されることになりました。それは翌年の二月のことで、丁度出代り時であるのでお近さんともう一人、お冬とかいう女中がお
普通の女中とは違って、お近さんはお嬢さまのお嫁入りまでは御奉公する筈で、場合によってはそのお嫁入り先までお供するかも知れないくらいであったのに、それが突然にお暇になった。表向きはお
いつの代でもそうでしょうが、取分けてこの時代に主人が一旦暇をくれると云い出した以上、家来の方ではどうすることも出来ません。お近さんはおとなしくこの屋敷をさがるより外はないので、自分の荷物を取りまとめて新屋敷の親許へ帰りました。その
三
お
「どうも腑に落ちないところがある、奉公中に何かの
「そんなことは決してござりません。」と、お近さんは堅く云い切りました。「時節柄、お人減しと申すことで、それは奥様からもよくお話がござりました。」
まったくこの時節柄であるから、諸屋敷で人減しをすることも無いとは云えない。殊に三島の屋敷のことであるから、武具馬具を調えるために他の物入りを倹約する、その結果が人減しとなる。そんなことも有りそうに思われるので、高松さんも娘の詮議は先ずそのくらいにして置きました。
高松さんの屋敷では槍を教えるので、毎日十四五人の弟子が通ってくる。そのなかで肩あげのある子供達が来たときには、お近さんはその稽古場を覗いても見ませんが、十八九から二十歳ぐらいの若い者が来ると、お近さんは出て行って何かの世話を焼く。時には冗談などを云うこともあるので、お父さんは苦い顔をして叱りました。
「稽古場へ女などが出てくるには及ばない。」
それでも矢はり出て来たり、覗きに来たりするので、その都度に高松さんは機嫌を悪くしました。ある時、久振りで薙刀を使わせてみると、まるで手のうちは乱れている。もと/\薙刀を云い立てに奉公に出たくらいで、その後も幾年のあいだ、お嬢さまに附いて稽古を励んでいたというのに、これは又どうしたものだと高松さんも呆れてしまいました。そればかりでなく万事が浮ついて、昔とはまるで別の人間のようにみえるので、お父さんはいよ/\機嫌を悪くしました。
「どうも飛んだことをした。こうと知ったら奉公などに出すのではなかった。」
高松さんは時々に顔をしかめて、御新造に話すこともありました。そのうちに六月の末になる。旧暦の六月末ですから、土用のうちで暑さも強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手の井戸端へ出ました。場末の組屋敷ですから地面は広い。うらの方は畑になって矢はり
日を避け、人目をよけて、お近さんが唐蜀黍の畑のなかで一心に読んでいたのは例の写本の一冊でした。こんなものが両親の眼に止まっては大変ですから、お近さんは自分の
「これはなんだ。」
だしぬけにその本を取り上げられてしまったので、お近さんはもう何うすることも出来ない。しかし「春色梅ごよみ」という外題を見ただけでは、お父さんにもその内容は一向わからないのですから、お近さんも何とか頓智をめぐらして、巧く誤魔かしたいと思ったのですが、困ったことには本文ばかりでなく、男や女の插絵が這入っている。それをみただけでも大抵は想像が付く筈です。お近さんも返事に支えておど/\していると、高松さんは娘の襟髪をつかみました。
「怪しからん奴だ。こんなものを何うして持っている。さあ、来い。」
内へ引摺って来て、高松さんは厳重に吟味をはじめました。お近さんは強情に黙っていたが、それでお父さんが免す筈がない。弟の勘次郎を呼んで、姉の葛籠をあらためて見ろという。もう斯うなっては運の尽きで、お近さんの秘密はみな暴露してしまいました。なにしろその写本があわせて十二冊もあるので、高松さんも一時は呆れるばかりでしたが、やがて両の拳を握りつめながら、むすめの顔を睨みつけました。
「いや、これで判った。三島の屋敷から不意に暇を出されたのも、こういう不埓があるからだ。女の身として、まして武家の女の身として、かような猥な書物を手にするなどとは、呆れ返った奴だ。」
さん/″\叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。お近さんが丹精した「春色梅ごよみ」十二冊は、炎天の下で白い灰になってしまったのです。お近さんは縁側に手をついたまゝで黙っていましたが、それがみんな灰になってゆくのを見たときには、涙をほろ/\とこぼしたそうです。それを横眼に睨んで、お父さんは又叱りました。
「なにが悲しい。なにを泣く。たわけた奴め。」
阿母さんはさすがに女で、なんだか娘がいじらしいようにも思われて来たのですが、問題が問題ですから何とも取りなす術もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきかない。お近さんは自分の部屋に這入って泣いている。今日の
その夜なかの事です。昼間の一件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明けるような音がきこえたので、もしや賊でも這入ったのかと、すぐに蚊帳をくゞって出て、
「誰だ。」
相手はなんにも返事もしないで、土間に積んである薪の一つを
この騒ぎに家中の者が起きてみると、ひとりの女が投槍に縫われて倒れていました。背から胸を貫かれたのですから、勿論即死です。それはお近さんで、着換え二三枚を入れた風呂敷づつみを抱えていました。
お近さんは家出をして、どこへ行こうとしたのか、それは判りません。併しお仙の話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近さんはひどく懐しそうに話しかけて、わたしは再び奉公に出たいと思うが、どこかに心当りはあるまいか。屋敷にはかぎらない、町家でもいゝと云うので、町家でもよければ心あたりを探してみようと答えて別れたことがあると云いますから、或いはお仙のところへでも頼って行く積りであったかも知れません。別に男があったというような噂はなかったそうです。
お父さんに声をかけられた時、こっちの返事の仕様によっては真逆に殺されもしなかったでしょうに、手向いをしたばっかりに飛んでもないことになってしまいました。しかしお近さんの身になったら、その薪ざっぽうを叩き付けたのが、せめてもの腹癒せであったかも知れません。
「これもわたしが種を蒔いたようなものだ。」
お仙はあとで
[#改段]
旗本の師匠
一
あるときに三浦老人がこんな話をした。
「いつぞや『置いてけ堀』や『梅暦』のお話をした時に、御家人たちが色々の内職をするといいましたが、その節も申した通り、同じ内職でも刀を
「やはり月謝を取るのですか。」と、わたしは訊いた。
「所詮は内職ですから月謝を取りますよ。」と、老人は答えた。
「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのは無いようです。武芸ならば道場が要る、手習学問ならば稽古場が要る。したがって炭や茶もいる、第一に畳が切れる。まだそのほかに、正月の稽古はじめには余興の福引などをやる。歌がるたの会をやる。初
「そういうのは道楽なんでしょうか。」
「道楽もありましょうし、人に教えてやりたいという奇特の心掛けの人もありましょうし、
赤坂一ツ木に市川幾之進という旗本がありました。大身というのではありませんが、二百五十石ほどの家柄で、持明院流の字をよく書くところから、前に云ったように
市川さんはその頃四十前後、奥さんはお絹さんと云って三十五六、似たもの夫婦という譬の通り、この奥さんも深切に弟子たちの世話を焼くので、まことに評判がよろしい。お照さんという今年十六の娘があって、これも女中と一緒になって稽古場の手伝いをしていました。市川さんの屋敷はあまり広くないので、十六畳ほどのところを稽古場にしている。勿論、それを本業にしている町の師匠とは違いますから、弟子はそんなに多くない。町の師匠ですと、多いのは二百人ぐらい、少くも六七十人の弟子を取っていますが、市川さんなどの屋敷へ通ってくるのは大抵二三十人ぐらいでした。
そこで
一体、町家の子どもは町の師匠に通うのが普通ですが、下町と違って山の手には町の師匠が少いという事情もあり、たといその師匠があっても、御屋敷へ稽古に通わせる方が行儀がよくなると云って、わざ/\武家の指南所へ通わせる親達もある。痩せても枯れても旗本の殿様や奥様が涎れくりの世話を焼いてくれて、しかもそれが無月謝というのだから有難いわけです。その代りに
それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では
健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか/\鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。
「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」
いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が
その日はそれで済みましたが、あくる朝、
「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」
それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。
市川さんは黙って聴いていました。
二
質のわるい弟子どもを師匠が折檻するのはめずらしくはない、町の師匠でも弓の折れや竹切れで引っぱたくのは幾らもあります。かみなり師匠のあだ名を取っているような怖い先生になると、自分の机のそばに薪ざっぽうを置いているのさえある。まして、武家の師匠がたんぽ槍でお見舞い申すぐらいのことは、その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばって、武家の子どもばかりを折檻したかと詰問したいのです。どこの親もわが子は可愛い。現に自分のせがれは病人になるほどの
相手に云うだけのことは云わせて置いて、それから市川さんはその当時の事情をよく説明して聞かせました。自分は師匠として、決してどちらの贔屓をするのでもないが、この喧嘩は今井健次郎がわるい。他人の強飯のなかに自分の箸を突っ込むなどは、あまりに行儀の悪いことである。子供同士であるから喧嘩は已むを得ないとしても、稽古場でむやみに木刀をぬくなどはいよ/\悪い。お手前はなんと心得てわが子に木刀をさゝせて置くか知らぬが、子供であるから木刀をさしているので、大人の真剣もおなじことである。わたしの稽古場では木刀をぬくことは固く戒めてある。それを知りつゝ妄りに木刀をふりまわした以上、その罪は武家の子供等にあるから、わたしは彼等に折檻を加えたので、決して町人の子どもの贔屓をしたのではない。その辺は思い違いのないようにして貰いたいと云いました。
「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身に着けて居りませぬのでなあ。」
かれは
もう一つには、こゝへ稽古にくる武家の子どもは、武士と云っても、貧乏旗本や小身の御家人の子弟が多い。町家の子どもの親達は、彼の三河屋をはじめとして皆相当の店持ですから、名こそ町人であるがその内証は裕福です。したがって、その親たちが平生から色々の附届けをするので、師匠もかれらの贔屓をするのであろうという、一種の
くどくも云うようですが、黒鍬というのは御家人のうちでも身分の低い方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿で針を包んだようにちくり/\と遣りますから、正直な市川さんはすっかり怒ってしまったのです。
「わたしの云うことが判ったならば、それで好し。判らなければ以後は子供をこゝへ遣すな。もう帰れ、帰れ。」
こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げましたが、その足で近所の今井の屋敷へ出向きました。今井のせがれは喧嘩の発頭人ですから、第一番にたんぽ槍のお見舞をうけたのですが、家へ帰ってそんなことを云うと叱られると思って、これは黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為に寝付いてしまったが、御当家の御子息に御別条はござらぬかという。今井は初めてそれを知って、せがれの健次郎を詮議すると、当人も隠し切れないで白状に及びましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。
今井の屋敷の主人は佐久馬と云って、今年は四十前後の分別盛り、人間も曲った人ではありませんでしたが、今日の
「幾之進殿の仕付方、いさゝか残念に存ずる廉がないでもござらぬが、一旦その世話をたのんだ以上、兎やこう申しても致方があるまい。」
今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子がふたり減ったわけです。今井を煽動しても余り手
一ツ木辺は近年あんなに繁華になりましたが、昔は随分さびしいところで、竹藪などが沢山にありました。現に太田蜀山人の書いたものをみると、一ツ木の藪から大蛇があらわれて、三つになる子供を呑んだと云うことがあります。子供を呑んだのは嘘かほんとうか知りませんけれども、兎も角もそんな大蛇も出そうなところでした。その年の秋のひるすぎ、市川さんの屋敷から遠くないところの路ばたに、四五人の子供が手習草紙をぶら下げながら草花などをむしっていました。それはみな町家の弟子で、帰りに道草を食っていてはならぬ、かならず真直に家へ帰れよ、と師匠から云い渡されているのですが、やはり子供ですから
この子供たちが余念もなしに遊んでいると、竹藪の奥から五六人の子供が出て来ました。どれもみな手拭で顔をつゝんで、その上に剣術の面をつけているので、人相は
子供達はおどろいて泣きながら逃げまわる。それでも素
こういうわけで、相手はみな取逃してしまったので、撲られた方の子供たちを介抱して屋敷へ一旦連れて帰ると、三河屋の綱吉が一番ひどい怪我をして顔一面に腫れあがっている。次は伊丹屋という酒屋の伜で、これも半死半生になっている。その他は幸いに差したることでもないので、それ/″\に手当をして送り帰しましたが、三河屋と伊丹屋からは釣台をよこして子供を引取ってゆくという始末。どちらの親たちも工面が好いので、出来るだけの手当をしたのですが、やはり運が無いとみえて、三河屋の伜はそれから二日目の朝、伊丹屋のせがれは三日目の晩に、いずれも息を引取ってしまいました。
さあ、そうなると事が面倒です。いくら子供だからと云って人間ふたりの命騒ぎですから、中々むずかしい詮議になったのですが、なにを云うにも相手をみな取逃したので、確かな証拠がない。前々からの事情をかんがえると、その下手人も大抵は判っているのですが、無証拠では何うにも仕様がない。且は町人の悲しさに、三河屋も伊丹屋も結局泣寝入りになってしまったのは可哀そうでした。
それから惹いて、市川さんも手習の指南をやめなければならない事になりました。市川さんは支配頭のところへ呼び出されて、お手前の手跡指南は今後見合わせるようにとの諭達を受けました。理窟を云っても仕様がないので、市川さんはその通りにしました。
それで済んだのかと思っていると、市川さんはやがて又、小普請入りを申付けられました。これも手跡指南の問題にかゝり合があるのか無いのか判りませんが、なにしろお気の毒のことでした。いつの代にもこんなことはあるのでしょうね。
[#改段]
刺青の話
一
そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな
「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって
老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。
あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に
前にも申す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の
背中一面の
刺青師は無数の細い針を束ねた一種の
こんなわけだから、生きた身体に刺青などと云うことは、とても虚弱な人間のできる芸ではない。清吉も近来はよほど丈夫になったと人も云い、自分もそう信じているのですが、土台の体格が
店に転がっている大勢の若い者は、みんなその背中を墨や朱で綺麗に彩色している。ある者は雲に竜を彫ってある。ある者は
この初島の近処に梅の井とかいう料理茶屋があって、これも可なりに繁昌していたそうですが、そこの娘にお
それを聞くと清吉は
二
勿論、清吉が堅気の人でしたら、刺青のないと云うことも別に問題にもならず、お金もなんとも思わなかったのでしょうが、相手が駕籠屋の息子だけにどうも困りました。お金のおふくろも
事件は唯それだけのことで、惚れている女に背中を叩かれたと云うだけのことですが、何うもそれだけのことでは済まなくなった。前にもいう通り、梅の井の家内の者も大勢そこに出ている。喧嘩を見る往来の人もあつまっている。その大勢が見ているまん中で、自分の惚れている女に「刺青がない。」と云われたのは、胸に
お金のおふくろは清吉やお金を嘲弄するつもりで云ったのではなかったが、お金の耳にはそれが一種の嘲弄のようにきこえる。お金も亦、清吉を侮辱するつもりでは無かったのですが、清吉の身にはそれが嘲弄のように感じられる。つまりは感情のゆき違いと云ったようなわけで、
「清ちゃん、あたしをどうするんだえ。腹が立つなら
清吉はもう
「清ちゃん、なんだって
お金と清吉との関係を万々承知ではあるけれども、自分の見る前で可愛い娘をこんな目に逢わされては、母の身として堪忍ができない。こっちも江戸っ子で、料理茶屋のおかみさんです。腹立ちまぎれに頭から
「えゝ、撲ろうが殺そうが俺の勝手だ。この阿魔はおれの女房だ。」
「洒落たことをお云いでない。おまえさんは誰を
おふくろは畳みかけて罵倒したのです。いくら口惜がっても清吉は年が若い、口のさきの勝負では
「お前さんのような唐人を相手にしちゃあいられない。なにしろ、お金はあたしの娘なんだからね。当人同士どんな約束があるか知らないが、お金を貰いたけりゃあその背中へ立派に刺青をしておいでよ。」
おふくろは勝鬨のような笑い声を残して、奥へずん/\這入ってしまうと、お金はなんにも云わずに、つゞいて行ってしまった。取残された清吉は身顫いするほどに口惜がりました。
「うぬ、今に見ろ。」
その足ですぐに駈け込んだのが源七
おなじ悪口でも、いっそ馬鹿とか
「お前さんはからだが弱いので、刺青をしないと云うことも予て聞いている。まあ、止したほうが可いでしょうよ。」
こんな一通りの意見は、
「それほどお望みなら彫ってあげても
清吉は酔っていないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。
「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何か
酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきりとは判らない。これには清吉も
「味淋の気があっても不可ませんか。」
「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」
刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも
そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や
源七もいよ/\根負けがして、まあなんでも
当人の親たちも大変心配して、そんな無理をすると身体に障るだろうと、たび/\意見をしたのですが、清吉はどうしても肯かない。例の通り、死んでもかまわないと強情を張り通しているのだから、
この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。
どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。
[#改段]
雷見舞
一
六月の末であった。
梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ/\云う音がきこえ出した。どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや/\と駈け込んで来たので、ぬれた傘と
わたしの額には汗がにじんで来た。
わたしのそばには老女が立っていた。老女はもう六十を越えているらしいが、あたまには小さい丸髷をのせて、身なりも貧しくない、色のすぐれて白い、上品な婦人であった。かれはわたしと肩をこすり合うようにして立っているので、なんとも無しに一種の挨拶をした。
「どうも悪いお天気でございますね。」
「そうです。急にふり出して困ります。」と、わたしも云った。
「きょう一日はどうにか持つだろうと思っていましたのに……。」
こんなことを云っているうちにも、
構外へ出ると、雲の剥げた隙間から青い空の色がところ/″\に洩れて、路ばたの草の露も明るく光っていた。わたしも他の人達とあとや先になって、雨あがりの路をたどってゆくと、一台の
三浦老人の
あの女も三浦老人の家へ来たのか。
わたしは
いずれにしても、来客のあるところへ押掛けてゆくのは良くない。いっそ引返そうかとも思ったが、雨にふり籠められ、
門を這入って案内を求めると、おなじみの
「御用のお客様じゃないのでしょうか。お邪魔のようならば又うかゞいますが……。」と、わたしは遅まきながら云った。
「いいえ、よろしいそうでございます。どうぞ。」と、老婢は先に立って行った。
いつもの座敷には、あるじの老人と客の老女とが向い合っていた。老女はわたしの顔をみて、これも一種の不思議を感じたように挨拶した。停車場で出逢った話をきいて、三浦老人も笑い出した。
「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか。」
「それでもこんなお婆さんではねえ。」
老女は声をあげて笑った。年にも似合わない華やかな声がわたしの注意をひいた。
「
「ほんとうにお前さんの
「あゝ、もうその話は止しましょうよ。」と、女は顔をしかめて手を振った。
「まあ、いゝさ。」と、老人はやはり笑っていた。「こちらはそういう話が大変にお好きで、麹町からわざ/\この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいでなさるのだ。おまえさんも罪ほろぼしに一つお聞かせ申したら何うだね。」
「是非聴かして頂きたいものですね。」と、わたしも云った。この老女の口から何かのむかし話を聞き出すということが、一層わたしの興味を惹いたからであった。
「だって、あなた。別に面白いお話でもなんでも無いんですから。」と、女は迷惑そうに顔をしかめながら笑っていた。
「どうしても聴かして下さるわけには行かないんでしょうか。」と、私も笑いながら催促した。
「困りましたね。まったく詰まらないお話なんですから。」
「詰まらなくてもようござんすから。」
「だって、いけませんよ。ねえ、三浦さん。」と、かれは救いを求めるように老人の顔をみた。
「そう押合っていては果てしがない。」と、老人は笑いながら仲裁顔に云った。「じゃあ、一旦云い出したのが私の不祥で、今更何うにも仕様がないから、わたしが代理で例のおしゃべりをすることにしましょうよ。おまえさんも係り合だから、おとなしくこゝに坐っていて、わたしの話の間違っているところがあったら、一々そばから直してください、逃げてはいけませんよ。」
いよ/\迷惑そうな顔をしている女をそこに坐らせて置いて、老人はいつもの滑らかな調子で話しはじめた。
二
どこかに迷惑がる人がいますから、店の名だけは堪忍してやりますが、場所は吉原で、
その大名は吹けば飛ぶような
諸越が雷を嫌うということは、殿様もよく知っている。そこで、雷が鳴ると、その屋敷から諸越のところへ御見舞の使者が来ることになっていました。随分ばか/\しいようなお話で、今日の人たちは嘘のように思うかも知れませんが、これは
ところで、その年の夏は先ず無事に済んでいたのですが、どういう陽気の加減か、その年は十月の末に
大次郎はすぐに支度をして、さすがに
屋敷を出たのは、夕七つ(午後四時)少し前で、雨風はまだやまない。とき/″\に大きい稲妻が飛んで、大地もゆれるような雷がなりはためく。駕籠のなかにいる大次郎はもう生きている心地もないくらいで、眼をふさぎ、耳をふさいで、おそらく口のうちでお念仏でも唱えていたことでしょう。本人の雷ぎらいと云うことは、屋敷でも大抵知っていたでしょうが、場所が場所だけに無暗の者を遣るわけには行かなかったのかも知れません。いずれにしても、雷ぎらいの人間を雷見舞に遣ろうというのですから、
浅草へかゝって、馬道の中ほどまで来ると、雷は又ひとしきり強くなって、なんでも近所へ一二ヵ所も落ちたらしい。雹はやんだが、雨風が烈しいので、駕籠屋も思うように駈けられない。駕籠のなかでは大次郎がふるえ声を出して、早く遣れ、早くやれと急きたてます。いくら急かれても、駕籠屋はいそぐわけには行かない。そのうちに大きい稲妻が又ひかる。大次郎はもう堪らなくなって、一生懸命に怒鳴りました。
「どこでもいゝから、そこらの
どこでもと云っても、まさか米屋や質屋へかつぎ込むわけにも行かないので、駕籠屋はそこらを見まわすと、五六軒さきに小料理屋の行燈がみえる。駕籠屋は兎もかくもその門口へおろすと、大次郎は待ちかねたように転げ出して、その二階へ駈けあがりました。駕籠に乗った侍が飛び込んで来たのですから、そこの家でも疎略にはあつかいません。女中共もすぐに出て来て、お世辞たら/\で御注文をうけたまわろうとしても、客は真蒼になって座敷のまん中に俯伏していて、しばらくは何にも云いません。急病人かと思って一旦はおどろいたが、雷が怖いので逃げ込んで来たということが判って、家でも気をきかして時候はずれの蚊帳を吊ってくれる。線香を焚いてくれる。これで大次郎もすこし人ごこちが付きました。そのうちに雷の方もすこし収まって来たので、大次郎もいよ/\ほっとしていると、わかい女中が酒や肴を運んで来ました。なにを誂えたのか、誂えないのか、大次郎も夢中でよく覚えていませんが、こういう家の二階へあがった以上、そのまゝに帰られないくらいのことは心得ていますから、大次郎は別になんにも云わないで、その酒や肴を蚊帳のなかへ運ばせました。
「あなた。虫おさえに一口召上れよ。」
女中も蚊帳のなかへ這入って来ました。大次郎も飲める口ですし、まったく虫おさえに一杯飲むのもいゝと思ったので、その女の酌で飲みはじめました。吉原の酒の味も知っている人ですから、まんざらの野暮ではありません。その女にも祝儀を遣って、冗談の一つ二つも云っているうちに、雨風もだん/\に静まって雷の音も遠くなりましたから、大次郎はいよ/\元気がよくなりました。相手も
三
大次郎は悪い家へ這入ったので、こゝの家の表看板は料理屋ですが内実は
「これ、おれの大小をどうした。」
「存じませんよ。」と、女は澄ましていました。
「存じないことはない。探してくれ。」
「でも、存じませんもの。あなた、お屋敷へお忘れになったのじゃありませんか。」
「馬鹿をいえ。侍が丸腰で屋敷を出られるか。たしかに何処かにあるに相違ない。早く出してくれ。」
女は年こそ若いが、なか/\人を食った奴で、こっちが焦れるほどいよ/\落ちつき払って、平気にかまえているのです。
勿論、たしかに隠してあるに相違ないのですから、表向きにすれば取返す方法がないことはない。町内の自身番へ行って、その次第をとゞけて出れば、こゝの家の者どもは詮議をうけなければならない。武士が大小をさゝずに来たなどというのは、常識から考えても有りそうもないことですから、こゝの家で隠したと云う疑いはすぐにかゝる。まして隠し売女を置いているということまでが露顕しては大変ですから、こゝで大次郎が「自身番へゆく」と一言いえば、相手も兜をぬいで降参するかも知れないのですが、残念ながらそれが出来ない。表向きにすれば、第一に屋敷の名も出る。ひいては雷見舞の一件も露顕しないとも限らないので、大次郎はひどく困りました。相手の方でも真逆に雷見舞などとは気がつきませんでしたろうが、たといどっちが悪いにせよ、侍が大小を取られたの、隠されたのと云って、表向きに騒ぎ立てるのは身の恥ですから、よもや自身番などへ持出しはしまいと多寡をくゝって、どこまでも平気であしらっている。こんな奴等に出逢ってはかないません。
こうなったら仕方がないから、金でも遣って大小を出して貰うか、それとも相手の云うことを肯いて遊んでゆくか、二つに一つより外はないのですが、可哀そうに大次郎はあまり沢山の金を持っていない上に、こゝで祝儀を遣ったり、法外に高い勘定を取られたりしたので、紙入れにはもう幾らも残っていないのです。ほかの品ならば、打っちゃった積りで諦めて帰りますが、武士の大小、それを捨てゝ丸腰では表へ出られません。大次郎も困り果てゝ、嚇したり
「では、どうしても返してくれないか。」
「でも、無いものを無理じゃありませんか。」
「無理でもいゝから返してくれ。」
「まあ、ゆっくりしていらっしゃいよ。そのうちには又どっかから出て来ないとも限りませんから。」
「それ、みろ。おまえが隠したのじゃないか。」
「だって、あなたがあんまり強情だからさ。あなたがわたしの云うことを肯いてくれなければ、わたしの方でもあなたの云うことを肯きませんよ。そこが、それ、魚心に水心とか云うんじゃありませんか。」
「だから、また出直してくる。きょうは堪忍してくれ。もう七つを過ぎている。おれは急いで行かなければならない。」
「七つ過ぎには行かねばならぬ――へん、きまり文句ですね。」
大次郎はいよ/\焦れて来ました。
「これ、どうしても返さないか。」
「返しません。あなたが云うことを肯かなければ……。」
云いかけて、女はきゃっと云って倒れました。そこにあった徳利で眉間をぶち割られたのです。大次郎は徳利を持ったまゝで突っ立ちました。
「さあ、どこに隠してある。案内しろ。」
女の悲鳴をきいて、下から亭主や料理番や、ほかに三四人の男どもが駈けあがって来ました。どうでこんな
「わあ、人殺しだ。」
騒ぎまわる奴等をつゞいて二三人斬り倒して、大次郎は二階からかけ降りました。
びっくりしている駕籠屋にむかって、大次郎は叱るように云いました。
「いそいで吉原へやれ。」
駕籠屋も夢中でかつぎ出しました。
「実に飛んだことになったものですよ。」と、三浦老人はため息をついた。「大次郎という人はその足で吉原へ飛んで行って、諸越花魁に逢って、
「まったく飛んだことになったものでした。」と、わたしも溜息をついた。「その後もその大名はよし原へ通っていたのですか。」
「いや、それに懲りたとみえて、その後は一切足踏み無しで、諸越花魁も大事のお客をとり逃してしまったわけです。」
云いながら老人は老女の顔を横目にみた。わたしも思わず彼女の顔をみた。三人の眼が一度に出逢うと、老女はあわてゝ俯向いてしまった。しばしの沈黙の後に、老人は庭をみながら云った。
「さっきの雷で梅雨もあけたと見えますね。」
庭には明るい日が一面にかゞやいていた。
[#改段]
下屋敷
一
その次に三浦老人をたずねると、又もや一人の老女が来あわせていた。但し彼女はこの間の「雷見舞」の女主人公とは全く別人で、若いときには老人と同町内に住んでいた人だと云うことであった。
老人はかれを私に紹介して、この御婦人も色々の面白い話を知っているから、ちっと話して貰えと云うので、わたしはいつもの癖で、是非なにか聴かしてくださいと幾たびか催促すると、この老女もやはり迷惑そうに辞退していたが、とう/\私に責め落されて、丁寧な口調でしずかに語り出した。
はい。年を取りますと、近いことはすぐに忘れてしまって、遠いことだけは能く覚えているとか申しますけれど、矢はりそうも参りません。わたくし共のように年を取りますと、近いことも遠いこともみんな一緒に忘れてしまいます。なにしろもう六十になりますんですもの、そろ/\耄碌しましても致方がございません。唯そのなかで、今でもはっきり覚えて居りまして、雨のふる寂しい晩などに其時のことを考え出しますとなんだかぞっとするようなことが
それは安政五年――
安政午年――御承知の通り、大コロリの流行った怖ろしい年でございました。併しそれは
一体わたくしのお屋敷では、殿様を別として、どなたもお芝居がお好きでございました。殿様は御養子で今年丁度三十でいらっしゃるように承って居りました。奥様は七つ違いの二十三で、御縁組になってから
「わたしの生きている
芳桂院様は四月の末におなくなり遊ばして、目黒の方はしばらく
併しそのお竹とお清とは、どちらも
わたしの亡い後は――と、芳桂院様が仰しゃっても矢はりそうはまいりません。芳桂院様がおなくなりになった後でも、奥様はたび/\お忍びで猿若町へお越しになりました。わたくし共もそれを楽みに御奉公致して居るようなわけでございました。目黒へまいりましてから、一月ばかりは何事もございませんでしたが、忘れも致しません、九月の二十一日の夕方でございました。わたくしがお風呂を頂いて、
「町や。」と、奥様はわたくしの名をお呼びになりました。「朝はどうしています。」
「わたくしと入れ替って、お風呂を頂いて居ります。」
奥様はだまって首肯いていらっしゃいましたが、やがて低い声で、こう仰しゃいました。
「町や、お前は浅草に知合いの者が多かろう。踊の師匠も識っていますね。」
「はい、存じて居ります。」
わたくしは花川戸の坂東小翫という踊の師匠に七年ほども通いまして、それを云い立てに御奉公にあがったくらいでございますから、勿論その師匠をよく存じて居ります。師匠はもう四十二三の女で、弟子も相当にございました。その弟子のうちに市川照之助という若い役者のあることを、わたくしから奥様にお話し申上げたこともございました。奥様は今夜それを不意に仰せ出されまして、お前はその照之助を識っているかと云うお訊ねでございましたが、実のところ、わたくしはその照之助をよく識らないのでございます。いえ、舞台の上ではたび/\見て居りますけれども、わたくしが師匠をさがる少し前から稽古に来た人ですし、男と女ですから沁々と口を聞いたこともありませんし、唯おたがいに顔をみれば挨拶するくらいのことで、同じ師匠の格子をくゞりながらも、ほんの他人行儀に附き合っていたのですから、先方ではもう忘れているかも知れないくらいです。で、わたくしは其通りのことを申上げますと、奥様は黙って少し考えていらっしゃいましたが、又こう仰しゃいました。
「お前はよく識らないでも、その師匠は照之助をよく識っていましょうね。」
「それは勿論のことでございます。」
奥様はわたくしを頤でお招きになりまして、御自分のそばへ近く呼んで、その照之助に一度逢うことは出来まいかという御相談がありました。わたくしも一時は返事に困って、なんと申上げてよいか判りませんでしたが、唯今とは違いまして、その時分の人間は主命ということを大変に重いものに考えて居りましたのと、わたくしもまだ年が若し、根が
照之助というのは、そのころ二十一二の
奥様は手文庫から二十両の金を出して、わたくしにお渡しになりました。これは照之助に遣るのではない、その橋渡しをしてくれる師匠に遣るのだと云うことでございました。そこへお朝が風呂から帰ってまいりましたので、お話はそのまゝになりました。
わたくしはその明る日、すぐに浅草の花川戸へまいりまして、むかしの師匠の家をたずねました。そうして、ゆうべの話しを
「照之助さんもこれから売出そうと云うところで、懐がなか/\苦しいんですからね。そこを奥様によくお話しください。」
どうせ金の要るのは判り切っていることですから、わたくしも承知して別れました。今おもえば実に大胆ですが、そのときには使者の役目を立派につとめ
「朝に申しても宜しゅうございますか。」と、わたくしは奥様にうかがいました。ほかの女中は兎もあれ、お朝には得心させて置かないと、照之助を引き込むのに都合が悪いと思ったからでございます。奥様もそれを御承知で、朝にだけは話してもよいと仰しゃいました。お朝も奥様の前へ呼ばれまして、幾らかのお金を頂戴しました。
二
それから五日ほど経って、わたくしが花川戸へ様子を訊きにまいりますと、師匠はもう照之助に吹き込んで置いてくれたそうで、いつでも御都合のよい時にお屋敷へうかゞいますと云う返事でございました。では、あしたの晩に来てくれという約束をいたしまして、わたくしは今日も威勢よく帰って来ました。すぐに奥様にそのお話をして、それから自分の部屋へ退ってお朝にも
その明る日――わたくしは朝からなんだかそわ/\して気が落着きませんでした。奥様は勿論ですが、自分も髪をゆい直したり、着物を着かえたり、よそ行きの帯を締めたりして、一生懸命にお
「わたしはなんだか頭痛がしてなりません。もしやコロリにでもなったんじゃ無いかしら。」
「まさか。」と、わたくしは笑いました。「今夜は照之助が来るんじゃありませんか。おまえさんも早く髪でも結い直してお置きなさいよ。照之助はおまえさんの御贔屓役者じゃありませんか。」
お朝は黙っていました。お朝も盆芝居から照之助を大変に褒めていることを知っていますから、わたくしも笑いながら斯う云ったのですが、お朝は
「おまえさん。今夜は照之助が来るんですよ。」と、わたくしは少しはしゃいだ調子で、お朝の肩を一つ叩きました。なんという蓮葉なことでございましょう。今考えると冷汗が出ます。
「奥様のところへ来るんじゃありませんか。」と、お朝は口のうちで云いました。
「そりゃあたりまえさ。可いじゃありませんか。」と、わたくしは又笑いました。わたくしは朝から無暗に笑いたくって仕様がないので、お朝をその相手にしようと思って、さっきから色々に誘いかけるのですが、お朝はどうしても
「今夜は四つ(午後十時)を相図に、照之助はお庭の木戸口へ忍んで来るから、木戸をあけてすぐに奥へ連れて行くんでよ。よござんすか。」と、わたくしは低い声で話しました。
「わたしは気分が悪くっていけないから、今夜の御用は勤められないかも知れません。お前さん、何分たのみます。」と、お朝は元気のない声で云いました。
気分が悪いと云うのですからどうも仕方がありません。わたくしもよんどころなしに黙ってしまいました。秋の日は短いと云いますけれども、きょうの一日はなか/\暮れませんので、わたくしは起ったり居たりして、日のくれるのを待っていました。どうも自分の部屋にじっと落着いていられないので、わたくしはお庭口から裏手の方へふら/\出て行きますと、うら手の井戸のそばにお朝がぼんやりと立っていました。時刻はもう七つ(午後四時)下りでしたろう。薄いゆう日が丁度お朝のうしろに立っている大きい柳の痩せた枝を照らして、うす白く枯れかゝったその葉の影がいよ/\白く寂しくみえました。そこらの空地には色のさめた葉鶏頭が将棋倒しに幾株も倒れていて、こおろぎが弱い声で鳴いていました。お朝は深い井戸を覗いているらしゅうございましたが、その澄んだ井戸の水には秋の雲が白く映ることをわたくし共は知っています。お朝も
どうにか斯うにか長い日が暮れて、わたくしはほっとしました。併しこれから大切な役目があるのですから、どうしてなか/\油断はなりませんでした。わたくしはお風呂へ這入って、いつもよりも白粉を濃く塗りました。だん/\暗くなるに連れて、わたくしは自然に息が
そのうちに約束の刻限がまいりました。生憎に宵から
振返ってみますと、奥様の御居間の方には行燈の灯がすこし黄く光っていました。その行燈の下で奥様はなにか草雙紙でも御覧になっている筈ですが、どんなお心持でその草雙紙を読んでいらっしゃるか、わたくしにも大抵思いやりが出来ます。それにつけても、照之助が早く来てくれゝば
そのうちに、低い跫音――ほんとうに遠い世界の響きを聞くような、低い草履の音が微かに聞えました。わたくしははっと思うと、からだが急に
「照之助さんでございますか。」
わたくしは低い声で訊きました。
「左様でございます。」
外でも声を忍ばせて云いました。
「どうぞこちらへ。」
照之助は黙って
奥様はわたくしに琴を弾けと仰しゃいました。それは十兵衛の女房や、ほかの女中二人に油断させる為でございます。わたくしはあとの方に引き退って、紫縮緬の羽織の襟から抜け出したような照之助の白い頸筋を横目にみながら、おとなしく琴をひいて居りましたが、なんだか手の先がふるえて、琴爪が糸に付きませんでした。奥様は照之助と差向いで、芝居のお話などをしていらっしゃいました。
唯それだけのことでございます。全くそれだけのことでございました。それが物の半時とは経ちません中に、大変なことが
御座敷の横手には古い土蔵が二棟つゞいて居ります。照之助はその二番目の士蔵の前へ連れてゆかれますと、土蔵の中にはさっきから待受けている人があるとみえて、手燭の灯が小さくぼんやりと点っていました。わたくしも奥様の御用で二三度この土蔵のなかへ這入ったことがございますが、御屋敷の土蔵だけに普通の町家のよりもずっと大きく出来て居りまして、昼間でも暗い冷たい厭なところでございます。中には大きい蛇が棲んでいるとか云って、お竹やお清に嚇されたこともありましたが、その暗い隅にはまったく蛇でも棲んでいそうに思われました。照之助はその土蔵のなかへ引き摺り込まれたので、わたくしは少し不思議に思いました。
もしこの河原者を成敗するならば、裏手の空地へでも連れ出しそうなものです。なぜこの土蔵の中までわざ/\連込んだのかと見ていますと、侍のひとりが奥にある大きい長持の蓋をあけました。その長持はわたくしも知って居ります。全体が
照之助は長持に押込まれて、土蔵の奥に封じ籠められてしまいました。奥様は上屋敷へ送られてしまいました。その次にはわたくしの番でございます。どうなることかとその晩はおち/\眠られませんでした。その怖ろしい一夜があけますと、又こゝに一つの事件が
わたくしはなんの御咎めも無しに翌日長のお暇になって、早々に親許へ退りましたが、照之助はどうなりましたか、それは判りません。生きたまゝで長持に封じ籠められて、それぎり世に出ることが出来ないとすれば、あまりに酷たらしいお仕置です。わたくしが奥様のお使さえ勤めなければ、こんなことも出来しなかったのでございましょう。ほんとうに飛んでもない罪を作ったと一生悔んでおります。それ以来、芝居というものがなんだか怖ろしくなりまして、わたくしはもう猿若町へ一度も足を踏み込んだことはございませんでした。師匠の小翫の話によりますと、照之助の美しい顔はそれぎり舞台に見えないと申します。
それから三年ほどの後に、わたくしは不動様へ御参詣に行きましたので、そのついでに御下屋敷の近所まで
こゝまで話して、老女はひと息つくと、三浦老人は代って註を入れてくれた。
「いつぞや梅暦のお話をしたことがあるでしょう。筋は違うが、これもまあ同じようないきさつで、むかしの大名や旗本の下屋敷には色々の秘密がありましたよ。」
[#改段]
矢がすり
一
ある時に、三浦老人は又こんな話をして聴かせた。それは近ごろ
矢場女と一口に云いますけれど、江戸のむかしは、矢場女や水茶屋の女にもなか/\えらいのがありまして、何処の誰といえば世間にその名を知られているのが随分あったものです。これは慶応の初年のことですが、そのころ芝の神明の境内にお
この女がなぜ
そのうちに、当人が自分でかんがえ出したのか、それとも誰かが智恵をつけたのか、お金は矢飛白の着物を年中着ていることになりました。つまりは顔の矢がすりを着物の矢飛白に
そうなると又おせっかいに此女の身許を
侍も次三男の道楽者などは矢場や水茶屋這入りをするのはめずらしくない。唯それだけでは別に問題にもならないのですが、その侍はまだ十八九で、人品も好い、男振りもすぐれて好い。そうして、彼のお金となんだか仲好く話しているというのですから、これは何うしても見逃されません。朋輩の女もすぐに眼をつける、出入りの客や地廻り連も黙ってはいない。あいつは何うも
「あのお客はどこのお屋敷さんだえ。」と朋輩が岡焼半分に訊いても、お金は平気でいました。
「どこの人だか知るものかね。」
こう云って澄ましているのですが、どうも一通りの客ではないらしいという鑑定で、お金はあの若い侍と訳があるに相違ないと決められてしまって、「あん畜生、うまく遣っていやあがる。」とか、「あの野郎、なま若え癖に、
「お金の奴め、とう/\あの侍と駈落をきめやあがった。」
近所ではその噂で持切っていました。なにしろ神明で評判者の矢飛白が不意に消えてなくなったのですから、やれ駈落だの心中だのと、それからそれへと尾鰭をつけて色々のことを云いふらす者もあります。とりわけて心配したのは矢場の
それから一月あまりも過ぎて、三月はじめの暖かい晩のことです。彼の若侍がふらりと遣って来て、神明の境内をひやかして歩いて、お金の矢場の前に立ったのを、地廻り連が見つけたので承知しません。殊にそのなかには二三人のごろつきもまじっていたから、猶たまりません。
「ひとの店の女を連れ出せば
こんなことを云って
「これ、貴様たちは何をするのだ。」
「なにをするものか。さあ、こゝの店の矢がすりを何処へ隠した。正直にいえ。」
「矢飛白をかくした……。それはどういうわけだ。」
「えゝ、白ばっくれるな。正直に云わねえと、侍でも料簡しねえぞ。早く云え、白状しろ。」
「白状しろとは何だ。武士にむかって無礼なことを申すな。」
「なにが無礼だ。かどわかし野郎め。ぐず/\していると袋叩きにして自身番へ引渡すぞ。」
相手が若いので、幾らか馬鹿にする気味もある。その上に大勢をたのんで頻りにわや/\騒ぎ立てるので、若い侍はだん/\に顔の色をかえました。店のおかみさんも見かねたように出て来ました。
「まあ。どなたもお静かにねがいます。店のさきで騒がれては手前共が迷惑いたします。」
口ではこんなことを云っていますが、その実は自分がごろつき共を頼んでこの若侍をひき摺り込ませたのですから、騒ぎの鎮まる筈はありません。大勢は若侍を取り囲んで、矢飛白のありかを云え、お金のゆくえを白状しろと責めるのです。そのうちに弥次馬がだん/\にあつまって来て、こゝの店さきは黒山のような人立になりました。
「あいつが矢飛白をかどわかしたのだそうだ。見かけによらねえ侍じゃあねえか。」
「おとなしそうな面をしていて、呆れたものだ。」
色々の噂が耳に這入るから、侍ももう堪らなくなりました。身分が身分、場所が場所ですから、初めはじっと我慢していたのですが、なにを云うにも年が若いから、斯うなると幾らか
「場所柄と存じて堪忍していれば、重々無礼な奴。もう貴様たちと論は無益だ。道をひらいて通せ、通せ。」
持っている扇で眼さきの二三人を押退けて、そのまゝ店口から出て行こうとすると、押退けられた一人がその扇をつかみました。侍はふり払おうとする。そのうちに誰かうしろから侍の袖をつかむ奴があるから、侍は又それを振払おうとする。そのなかに悪い奴があって、侍の刀を鞘ぐるみに抜き取ろうとする。侍もいよ/\堪忍の緒を切って、持っている扇をその一人にたゝき付けたかと思うと、いきなりに刀をひきぬいて振りまわした。
「それ抜いたぞ。」
抜いたらば早く逃げればいゝのですが、大勢の中にはごろつきもいる。喧嘩好きの奴もいるので、相手が刀をぬいたと見てその腕をおさえ付けようとする者がある。下駄をぬいで撲ろうとする者がある。ひどい奴はどこからか水を持って来て、侍の顔へぶっかけるのがある。こうなると、若い侍は一生懸命です。もう何の容赦も遠慮もなしに、抜いた刀をむやみに振りまわして、手あたり次第に斬りまくる。たちまちに四五人はそこに斬り倒されたので、流石の大勢もぱっと開く。その隙をみて侍は足早にそこを駈け抜けてしまいました。
「人殺しだ、人殺しだ。」
たゞ口々に騒ぎ立てるばかりで、もうその跡を追う者もない。侍のすがたが見えなくなってから、騒ぎはいよ/\大きくなりました。なにしろ即死が三人手負が五人で、手負のなかにもよほど手重いのが二人ほどあるというのですから大変です。勿論、
二
お金のおふくろのお
お金の主人から問い合せがあった時には、お幸はなんにも知らないようなことを云っていました。今度の呼び出しを受けても、最初はやはり曖昧のことを云っていたのですが、だん/\に吟味が重なって来ると、もう隠してもいられないので、とう/\正直に申立てました。お金は桜井
桜井衛守というのは本所の石原に屋敷を持っていて、弓の名人と云われた人でした。奥さまはお
年下の家来と駈落をするほどの奥様でも、ふだんから姉娘のお金をひどく可愛がっていたので、この子だけは一緒に連れて行きたいという。これには伝蔵もすこし困ったでしょうが、なにしろ主人で年上の女のいうことですから、結局承知してお金だけを連れ出すことになりました。十二月の十三日、きょうは煤はきで屋敷中の者も疲れて眠っている。その隙をみて逃げ出そうという手筈で、男と女は手まわりの品を風呂敷づつみにして、お金の手をひいて夜なかに裏門からぬけ出しました。年弱の三つという女の児を歩かせてゆくわけには行きませんから、表へ出るとお睦はお金を背中に負いました。伝蔵は荷物を
脛に疵持つふたりは
不義者ふたりを射留めたのは、主人の桜井衛守です。かねて二人の様子がおかしいと眼をつけていたので、弓矢を持ってすぐに追いかけて来て、手練の矢先で難なく二人を成敗してしまったのです。伝蔵もお睦も急所を射られて、ひと矢で往生したのですが、おふくろに負われていたお金だけは助かりました。しかしお睦の襟首に射込んだ矢がお金の右の頬をかすったので、矢疵のあとが残りました。お金が真直に
不義者を成敗したのですから、桜井さんには勿論なんの咎めもありません。用人の神原伝右衛門はわが子の罪をひき受けて切腹しました。これでこの一件も落着したのですが、さてそのお金という娘の始末です。わが子ではあるが、不義の母が連れ出した娘であると思うと、桜井さんはどうも可愛くない。殊にその頬に残っている矢疵を見るたびに
お幸は亭主運のない女で、前の亭主にも早く死別れ、二度目の亭主の安兵衛にも死別れて、今では娘のお金ひとりを頼りにしていましたが、昔の約束を固く守って、彼の矢疵の因縁はお金にも話したことはありません。子供のときに吹矢で射られたなどと好い加減のことを云い聞かせて置いたので、お金も自分の素性を夢にも知らなかったのです。そのうちに、今年の春になって突然彼の若侍がたずねて来ました。若侍はお金の弟の庄之助で、その当時はまだ当歳の赤児でしたが、だん/\生長するにつれて、母のことや姉のことを知りましたが、植木屋の万吉はもう此世を去り、その女房はどこへか再縁してしまったというので、姉のありかを尋ねる手がかりも無かったのです。この庄之助という人は姉弟思いで、子供のときに別れた姉さんに一度逢いたいと祈っていると、今年十九の春になって、神明の矢場に矢がすりお金という女があることを、不図聞き出しました。
頬に矢疵があると云い、その名前といい、年頃といゝ、もしやと思って
「お父さまは近ごろ御病身で、昨年の夏から御隠居のお届けをなされまして、若年ながら手前が家督を相続しております。つきましてはひとりのお
そうなればまことに有難い話で、お幸に勿論異存のあろう筈はありませんでしたが、お金はすこし返事に困りました。矢場女をやめて、弟の仕送りで気楽に暮して行かれるのは結構ですが、お金には内緒の男がいる。上手に逢曳をしているので今まで誰にも覚られなかったのですが、お金には
たとい本所の屋敷へ引取られないでも、今の商売をやめて弟の世話になるのは、いかにも窮屈であり、又自分の男のかゝり合いから、どんなことで弟に迷惑をかけないとも限らない。さりとて新内松と手を切って、堅気に暮すなどという心は微塵もないので、お金はなんとかして庄之助の相談を断りたいと思ったが、まさかに巾着切りを男に持っていますと正直に云うことも出来ない。よんどころなく好い加減の挨拶をして其場は別れたのですが、もとより矢場の稼ぎを止めるでもなく、その後も相変らず神明の店に通っていると、庄之助はその後たび/\尋ねて来て、早く神明の方をやめてくれと催促する。おふくろのお幸も傍から勧める。お金ももう断り切れなくなって、男と相談の上で一旦どこへか姿を隠してしまったのです。
そんなことゝは知らないで、庄之助は又もや片門前の家へたずねてゆくと、姉はこの間から家出して行方が知れないということをお幸から聞かされて、庄之助もおどろきました。新内松のことはお幸も薄々知っていたのですが、そんなことを庄之助にうっかり云っていゝか悪いかと遠慮していたので、何がどうしたのか庄之助には
すべての事情が斯うわかってみると、庄之助の八人斬にも大いに同情すべき点があります。斬られた相手は皆ごろつきや地廻りで、事の実否もよく糺さず、武士に対して狼藉を働いたのですから、云わば自業自得の斬られ損ということになってしまいました。殊に幕末で、徳川幕府の方でも旗本の侍は一人でも大切にしている時節でしたから、庄之助にはなんの咎めも無くて済みました。稼ぎ人に逃げられたお幸は、桜井の屋敷から内々の扶助をうけていたとか云います。
新内松は品川の橋向うで御用になりました。お金はその時まで一緒にいたらしいのですが、そのゆくえは判りませんでした。それから一年ほど経ってから、神奈川の貸座敷に手取りの女がいて、その右の頬にかすり疵のあとがあると云う噂でしたが、それが彼の矢がすりであるか無いか、確かなことは知った者もありませんでした。くどくも申す通り、新内松に矢がすりお金――この方に一向面白いお芝居がないので、まことに物足らないようですが、実録は大抵こんなものかも知れませんね。