一
「かぞえると三十年以上の昔になる。僕がまだ学生服を着て、東京の学校にかよっていた頃だから……。それは明治三十何年の八月、君たちがまだ生まれない前のことだ。」
鬢鬚のやや白くなった実業家の浅岡氏は、二、三人の若い会社員を前にして、秋雨のふる宵にこんな話をはじめた。
そのころ、僕は妹の美智子と一緒に、本郷の親戚の
七月の夏休みになって、妹の美智子は郷里へ帰省する。僕の郷里は山陰道で、日本海に面しているHという小都会だ。僕は毎年おなじ郷里へ帰るのもおもしろくないので、親しい友人と二人づれで日光の中禅寺湖畔でひと夏を送ることにした。美智子は僕よりもひと足さきに、忘れもしない七月の十二日に東京を出発したので、僕は新橋駅まで送って行ってやった。
言うまでもなく、その日は盆の十二日だから
「ねえ、
「そうだなあ。」と僕は軽く答えた。
あとになってみると、そんなことでも一種の予覚というような事が考えられる。美智子はやがて盆燈籠を供えられる人になってしまって、彼女と僕とは永久の別れを告げることになったのだ。
妹が出発してから一週間ほどの後に、僕も友人と共に日光の山へ登って――最初は涼しいところで勉強するなどと大いに意気込んでいたのだが、実際はあまり勉強もしなかった。湖水で泳いだり、戦場ヶ原のあたりまで散歩に行ったりして、文字通りにぶらぶらしていると、妹が帰郷してから一カ月あまりの後、八月十九日の夜に、僕は本郷の親戚から電報を受取った。
なにしろそのままには捨て置かれないと思ったので、僕は友人を残して翌日の早朝に山をおりた。東京へ帰って聞きただすと、本郷の親戚でも単に死亡の電報を受取っただけで詳しいことは判らないが、おそらく急病であろうというのだ。誰でもそう思うのほかはない。残暑の最中であるから、コレラというほどではなくても、急性の胃腸
帰郷の途中はただ暑かったというだけで、別に話すほどのこともなかったが、その途中で僕が考えたのは「
浜崎のひとり息子の清というのは大阪の或る学校を卒業して、今は自分の家の商売をしている。清と美智子とは従弟同士の
もちろん葬式の間に合わないのは僕も覚悟していたが、殊に暑い時季であったために、葬式はもうおとといの夕方に執行されたということを、僕は実家の
「じゃあ、早く墓参りに行って来ましょう。」
「ああ、そうしておくれ。美智子も待っているだろう。」と、母は眼をうるませて言った。
旅装のままで――といったところで、
見ると、妹の墓地の前――新ぼとけをまつる
やがて彼は力なげに立上がって、はじめて僕と顔を見合せると、なんにも言わずに僕の両腕をつかんだ。そうして、子供のように泣きだした。清は僕よりも年上の二十四だ。大の男がその泣き顔は何事だと言いたいところだが、この場合、僕もむやみに悲しくなって、二人は無言でしばらく泣いていた。いや、お話にならない始末だ。
それから僕は墓前に参拝して、まだ名残り惜しそうに立っている清をうながすようにして、寺を出た。そこで僕は初めて口を開いた。
「どうも突然でおどろいたよ。」
「君もおどろいたろう。」と、清は俄かに昂奮するように言った。「話を聞いただけでもおどろくに相違ない。いや、誰だっておどろく……。ましてそれを目撃した僕は……僕は……。」
「目撃した……、君は妹の臨終に立会ってくれたのかね。」
「君は美智子さんが、どうして死んだのか……。それをまだ知らないのか。」
「実はいま着いたばかりで、まだなんにも知らないのだ。」と、僕は言った。「いったい、妹はどうして死んだのだ。」
「君はなんにも知らない……。」と、彼はちょっと不思議そうな顔をしたが、やがて又、投げ出すように言った。「いや、知らない方がいいかも知れない。」
「じゃあ、美智子は普通の病気じゃあなかったのか。」
「勿論だ。普通の病気なら、僕はどんな方法をめぐらしても、きっと全快させて見せる。君の家だって出来るかぎりの手段を講じたに相違ない。しかも相手は怪物だ、海の怪物だ。それが突然に襲って来たのだから、どうにも仕様がない。」と、彼は
「君、まあ落ちついて話してくれたまえ。それじゃあ美智子はなにか変った死に方をして、君もその場に一緒に居合せたのだね。」
「むむ、一緒にいた。最後まで美智子さんと一緒にいたのだ。いっそ僕も一緒に死にたかったのだが……。どうして僕だけが生きたのだろう。」と、彼はいよいよ昂奮した。「君はおそらく迷信家じゃああるまい。僕も迷信は断じて排斥する人間だ。その僕が迷信家に屈伏するようになったのだ。僕は今でも迷信に反対しているのだが、それでも周囲のものどもは、僕が屈伏したように認めているのだ。」
彼は一体なにを言っているのか、僕には想像が付かなかった。
二
「まあ、聞いてくれたまえ。」と、清はあるきながら話し出した。「君も知っているだろうが、ここらじゃあ旧暦の
「むむ。」と、僕はうなずいた。夏休みで帰郷した美智子は、さだめて清と舟遊びでもしているだろうと、僕はかねて想像していたのであるから、この話を聞いても別に怪しみもしなかった。
「そのうちに、今月の十七日が来た。十七日は旧暦の盂蘭盆に当るので、ここらでは商売を休んでいる
盂蘭盆がなんだ、盂蘭盆の晩でも、大阪商船会社の船は出たり這入ったりしているじゃあないかと、僕は腹のなかで笑いながら、そしらぬ顔で表へ出ると、万兵衛は強情に追っかけてきて、漁師の舟さえ今夜は休んでいるんだから、遊びの舟なぞはなおさら遠慮しろというのだ。勿論、僕がそんなことを取合う筈もない。あたまから叱りつけて出ようとすると、美智子さんは女だから、万兵衛にむかって、すぐ帰って来るから安心してくれとなだめるように言い聞かせて、二人はまあ浜辺へ出たのだ。」
こう言いながら、清は路ばたに咲いている桔梗のひと枝を切り取った。どこやらでひぐらしの声がまたきこえた。
彼は薄むらさきの花をながめながら又話し出した。
「君も知っている通り、浜辺の砂地には僕の
ねえ、君。美智子さんは迷信家でもなければ、気の弱い人でもない、ふだんから理智的な、活溌な女性だ。それが禿あたまの番頭の口真似をするように、なんだか変なことを言い出したので、僕は少し不思議になった。今まで元気よく歌っていた人が急に溜息をついて憂鬱になって来たのだから、どうもおかしい。」
彼はこう言いかけて、自分も低い溜息をつきながら手に持っている桔梗の花を軽く投げ捨てた。
「それからどうしたね。」と、僕は催促するように訊いた。
「それから……。僕はこう言った。『多年の経験というけれども、多年のあいだには盂蘭盆の晩に海へ出て、一度や二度は偶然に何かの災難に遭った者がなかったとも限らない。その偶然の出来事を証拠にして、いつでもきっと有るように考えるのは間違いですよ。』――けれども、美智子さんは承知しないで、更にこんなことを言い出したんだ。『たとい偶然にしても、その偶然の出来事に今夜も出逢わないとは限りますまい。』――そういえばそんなものだが、なにしろ美智子さんがこんなことを言い出すのは、ふだんに似合わないことだ。しかし、いつまで議論をしても果てしがないから、僕はさからわずに舟を戻すことにした。
その時だ。
清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を掴んだように……。僕は小突かれながらも慌てて訊いた。
「君も見た……。なにを見たのだ。」
「月に光っている海の上に……。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。「海の上に……。人の顔……人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして……。」
「たしかに人の顔に見えたのか。」
「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」
「海亀だろう。」と、僕は言った。
海亀――いわゆる
「むむ、海亀……。そう気がつくまでは、美智子さんばかりでなく、僕も人の顔だと思ったのだ。君だってその場にいたら、きっと人の顔……すなわち人魚があらわれたと思うに相違ないよ。美智子さんは人魚だ人魚だと言う。僕も一旦そう信じて、驚異の眼をみはって見つめていると、人の顔はやがて浪に沈んだかと思うと、また浮き出した。さあ、大変……。僕の驚異はにわかに恐怖に変ったのだ。多年ここらの海に出ているものでも、おそらく僕たちのような怖ろしい目に出逢ったものはあるまい。」
彼は戦慄に堪えないように身をふるわせた。
三
今までは清も僕もしずかにあるきながら話して来たのだが、話がここまで進んで来ると、彼はもう歩かれなくなったらしい。路ばたに立ちどまって話しつづけた。
「君は海亀だろうと
一体かれらは僕たちの舟を囲んでどうするつもりかと見ていると、小さい海亀がまた続々あらわれて来て、僕たちの舟へ這いあがって来るのだ。平生ならば、小さな海亀などは別に問題にもならないのだが、美智子さんは無暗に怖がる、僕もなんだか不安に堪えられなくなって、手あたり次第にその亀を引っ掴んで、海のなかへ投げこんだ。ただ投げ込むばかりでなく、それを
成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだが体の血が冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。
「その場合、君にしても櫂を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物……人魚以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただ茫然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに
「そうすると、結局は舟が沈んで……。君だけが助かって、妹は死んだというわけだね。」
「残念ながら事実はそうだ。」と、清は苦しそうな息をついた。「おそろしい悪夢からさめた時には、僕たちふたりは浜辺に引揚げられていた。あとで聞くと、僕たちの帰りの遅いのを心配して、番頭の万兵衛がまず騒ぎだして、捜索の舟を出してくれたので、海のなかに浮きつ沈みつ漂っている僕たちが救われたというわけだ。なんといっても僕は水ごころがあるから、たくさんの水を飲まなかったので容易に恢復したが、美智子さんはだめだった。いろいろ手を尽くしたが、どうしても息が出ないのだ。こんなことになるなら、僕もいっそ恢復しない方がましだったのだ。なまじい助けられたのが残念でならない。僕たちの小舟はあくる朝、遠い沖で発見されたが、海亀はどうしてしまったか一匹も見えなかったそうだ。」
「死んだものは、まあ仕方がないとして、君のからだはその後どうなのだ。もう出歩いてもいいのか。」と、僕は慰めるように訊いた。
「僕はその翌日寝ただけで、もう心配するようなことはない。美智子さんの葬式にもぜひ参列したいと思ったのだが、みんなに止められて
彼の蒼白い頬には涙がながれていた。
「僕も迷信者になりたくない。それは美智子の言った通り、君たちが不幸にして偶然の出来事に出逢ったのだ。」と、僕はふたたび慰めるように言った。
この話はこれぎりだ。盂蘭盆の晩に舟を出すとか出さないとかいうのは、もちろん迷信に相違ないが、海亀の群れがなぜその舟を沈めに来たのか、それは判らない。かれらは時々に水を出て甲をほす習慣があるから、そんなつもりで舟へ這いあがったのかとも思われるが、