一
吉田君は語る。
万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後五時)に二挺の
その当時、
今この駕籠に乗っている客も、やはり流行の横浜見物に行った帰り道であった。かれらは芝の
近江屋の親類でこの春から横浜に酒屋をはじめた者がある。それから横浜見物に来いとたびたび誘われるので、女房のお峰は思い切って出かけることになった。由三郎はまだ十六でもあり、殊に男のことであるから、この後に出かける機会はいくらもある。お妻は女の身で、他家へいったん縁付いてしまえば、めったに旅立ちなどは出来ないのであるから、今度の見物には姉のお妻を連れて行くことにして、ほかに文次郎という若い者が附添って、おとといの朝早く田町の店を出た。
お妻は十九の厄年であるというので、その途中でまず川崎の
川崎の
「お婆さん。お前さんはどこまで行くのだ。」と、文次郎は見かえって
一行の駕籠が大森を出る頃から、年ごろは六十あまり、やがては七十にも近いかと思われる老婆が杖も持たずに歩いて来る。それだけならば別に
駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと付いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たないで腰をかがめ、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつづけているのであった。
文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分たちのあとに付いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。
「はい。
「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」
「それでも年を取っておりますので……。」と、老婆は息を切りながら答えた。
「杖はないのだね。」
「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして……。」
かれは浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよいよ迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を立てて、提灯に
「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」
「はい。日が暮れると、ここらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので……。」
「よっぽど大事なものかえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。
「はい。」
駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を
「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に付いて来ようとするのは無理だね。
言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した、老婆もやはり続いて来た。鈴ヶ森の
「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」
文次郎は引っ返して老婆を
「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。
さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聞いていたのであるが、もうこうなっては聞き捨てにならないので、お峰は駕籠を停めさせて
「その婆さんは起きられないのかえ。」
「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。
お妻も駕籠の垂簾をあげて
「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあそこまで私の駕籠に乗せて行ってやったらどうだろう。」
「そうしてやればいいけれど……。」と、お峰も言った。「それじゃあ私がおりましょう。」
「いいえ、おっ母さん。わたしがおりますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」
旅
お妻が
「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」
駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい
「あれ、忘れ物をして……。」
老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。
「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」
「あっ。」
驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を
二
かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。
もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、
自分の店へ帰り着いて親子はまずほっとした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も
夜がふけて文次郎が帰って来た。彼は鮫洲の

「こんなことが近所にきこえると、何かの
文次郎は再びその包みを抱え出して、夜ふけを幸いに、高輪の海へ投げ込んでしまった。それを知っているのは、由兵衛夫婦とお妻だけで、
横浜見物のみやげ話も何となく浮き立たないで、お峰親子は暗い心持のうちに幾日を送った。取分けて、お妻はかの怪しい老婆から不吉な贈りものを受けたようにも思われて、横浜行きが今更のように悔まれた。厄除大師を恨むようにもなった。なまじいの情けをかけずに、いっそかの老婆を見捨てて来ればよかったとも思った。女房や娘の浮かない顔色をみて、由兵衛は叱るように言い聞かせた。
「もう済んでしまったことを、いつまで気にかけているものじゃあない。物事は
由兵衛はそれを本気で言ったのか、あるいは一時の気休めに言ったのか知らないが、不思議にもそれが適中して、果たして目出たいことが来た。それから
淀橋の柏木成子町に井戸屋という古い店がある。井戸屋といっても井戸掘りではなく、酒屋である。先祖は小田原北条の浪人井戸なにがしで、ここに二百四、五十年を経る旧家と誇っているだけに、店も大きく、商売も手広く、ほかに広大の土地や田畑も所有して、淀橋界隈では一、二を争う
十月はじめに、双方の
「どうだ。経帷子が嫁入り衣裳に化けたのだ。物事は逆さまといったのに嘘はあるまい。」と、由兵衛は誇るように笑った。
まったく逆さまである。怪しい老婆に経帷子を残されたのは、こういうめでたいことの前兆であったのかと、お峰もお妻も今更のように不思議に思ったが、いずれにしても意外の幸運に見舞われて、近江屋の一家は時ならぬ春が来たように賑わった。相手が大家であるので、お妻の嫁入り支度もひと通りでは済まない。それも
十一月になって、結納の取交せも済んで、輿入れはいよいよ来年正月の二十日過ぎと決められた。その十二月の十八日である。由兵衛は例年のごとく、浅草観音の
「姉さん。このおめでたい矢先に、こんなことを申上げるのもどうかと思いますけれど、少し変なことを聞き込みましたので……。」
「変な事とは……。」
「あの井戸屋さんのことに就いて……。」と、三之助はいよいよ声を低めた。「あの家には変な噂があるそうで……。何代前のことだか知りませんが、井戸屋に奉公している一人の小僧のゆくえが知れなくなったのです。人にでも殺されたのか、自分で死んだのか、それとも
「それはいつごろの事なの。」と、お峰は不安らしく訊いた。経帷子の老婆のすがたが目先に浮かんだからである。
「今も言う通り、何代前のことか知りませんが、よっぽど遠い昔のことで、それから六、七代も過ぎているそうです。」
「それじゃあ、二代は続かせないと言ったのは、嘘なのね。」と、お峰はやや安心したように言った。
「ところが、まったく二代は続いていないのです。井戸屋の家には子育てがない。子供が生れてもみんな死んでしまうので、いつも養子に継がせているそうです。それですから、井戸屋の家はあの通り立派に続いているけれども、代々の相続人はみな他人で、おなじ血筋が二代続いていないのです。」
「そんなら身内から養子を
「それがやっぱりいけないのです。」と、三之助はさらに説明した。「身内から貰った養子は自分の実子と同じように、みんな死んでしまうので、どうしても縁のない他人に継がせる事になるのだそうです。」
「変だねえ。」
「変ですよ。」
「そのばあさんというのが
「まあ、そういう噂ですがね。」
こんなことを言うと、折角の縁談に水をさすようにも聞えるので、いっそ黙っていようかと思ったが、知っていながら素知らぬ顔をしているのもよくないと思い直して、ともかくもこれだけのことをお耳に入れて置くのであるから、かならず悪く思って下さるなと、三之助は言訳をして帰った。
それと入れ違いに由兵衛が帰って来たので、お峰は早速にその話をすると、由兵衛も眉をよせた。淀橋と芝と遠く離れているので、井戸屋にそんな秘密のあることを由兵衛夫婦はちっとも知らなかったのである。三之助の話を聞いただけでは、そのばあさんが
「万屋の伯父さんはそんな事を知らないのでしょうかねえ。」と、お峰は疑うように言い出した。
「といって、三之助もまさか出たらめを言いはすまい。ほかの事とは違うからな。」と、由兵衛も半信半疑であった。
万屋はお峰の伯父である。三之助は由兵衛の弟である。お峰としては伯父を信じ、由兵衛としては弟を信じたいのが自然の人情で、夫婦のあいだに食い違ったような心持がかもされたが、それで気まずくなるほどの夫婦でもなかった。まずその疑いを解くために、由兵衛は弟をたずねて再び詳しい話を聞き、お峰は伯父をたずねて真偽を確かめることにして、その翌日の早朝に夫婦は山の手へのぼった。
二人は途中で引分かれて、由兵衛は代々木の三河屋へ行った。お峰は大木戸前の万屋をたずねた。万屋の伯父はお峰の詰問を受けてひどく
「おまえ達がそれを知った以上は、もう隠しても仕方がない。実は井戸屋にはそんな噂がある。と言ったら、なぜそんな家へ媒妁をしたと恨まれるかも知れないが、それには苦しい訳がある。」
伯父は商売の手違いから、二、三年来その家運がおとろえて、同商売の井戸屋には少なからぬ借財が出来ている。現にこの歳の暮れにも井戸屋から相当の助力をして貰わなければ、無事に歳を越すことも出来ない始末である。万一この縁談が破れたなら、わたしは井戸屋に顔向けが出来ないばかりでない。ここで井戸屋に見放されたら、この年の瀬を越しかねて数代つづいた万屋の店を閉めなければならない事にもなる。そこを察して勘弁してくれと、伯父は老いの眼に涙をうかべて口説いた。
これでいっさいの事情は判断した。いやな噂が聞えているために、大家の井戸屋にも嫁に来るものがない。そこへ自分の姪の娘を縁付けて、借財の始末や商売上の便利を図ろうとするのが、万屋の伯父の本心であった。つまりは近江屋の娘を
こうなると、女の心弱さに、お峰は伯父を憎んでばかりいられなくなった。結局は亭主とも相談の上ということで、かれは帰って来た。やがて由兵衛も帰って来て、三之助の話は本当であるらしいと言った。
嘘も本当もない、いっさいは伯父が白状しているのである。そこで夫婦は額をあつめて、密々の相談に時を移したが、ここで自分たちが強情を張り通して、みすみす万屋の店を潰してしまうのは、親類一門として忍びないことである。それがこの時代の人々の弱い人情であった。さらに困るのは、お妻が嫁入りのことを町内じゅうでもすでに知っているのである。それを今更破談にするのは世間のきこえがよくない。あるいはそれがいろいろの邪魔になって、さなきだに縁遠い娘を一生
「もうこの上は仕方がない。そのわけをお妻によく言い聞かせて、当人の
お峰もそれに同意して、早速お妻を呼んで相談すると、かれは案外素直に承知した。
「横浜から帰るときに、あのお婆さんが経帷子を置いて行ったのも、
三
当人がいさぎよく決心している以上、両親ももうかれこれ言う
待つような、待たないような年は早く明けて、正月二十二日は来た。この年は初春早々から雨が多くて、寒い日がつづいた。なんといっても、近江屋は土地の旧家であるから、同業者は勿論、町内の人々も祝いに来て、二、三日前から混雑していた。いよいよ輿入れという日の前夜に、お妻は文次郎を呼んでささやいた。
「去年あの経帷子を流したのは
文次郎は何だか不安を感じたので、その場はいったん承知して置きながら、お峰にそれを密告したので、かれも一種の不安を感じた。よもやとは思うものの、いよいよあしたという今夜に迫って、万一身投げでもされたら大変であると恐れた。
「おまえは海辺へ何しに行くのだえ。」と、お峰は娘をなじるように訊いた。
「唯ちょいと行ってみたいのです。決して御心配をかけるような事はありません。」
「それじゃあわたしも一緒に行くが、いいかえ。」
その日も朝から
時刻はやがて五つ(午後八時)に近い頃で、雲切れのした大空には金色の星がまばらに光っていた。海辺の茶屋はとうに店を締めてしまった。この頃は世の中が物騒になって、
三人は海岸に立って暗い海をながめた。文次郎も確かには憶えていないが、大方ここらであったろうと、提灯をかざして教えると、お妻はひざまずくように身をかがめて、両手をあわせた。かれは海にむかって何事をか祈っているらしかった。お峰も文次郎も目を放さずに、その行動を油断なく窺っていると、お妻は暫くのあいだ身動きもしなかった。寒い夜風が三人の
闇をゆるがす海の音は、凄まじいようにどうどうと響いて、足もとの石垣にくだけて散る浪のしぶきは夜目にもほの白くみえた。その浪を見つめるように、お妻は頭をあげたかと思うと、たちまちに小声で叫んだ。
「あれ、そこに……。」
文次郎は思わず提灯をさし付けた。お峰も覗いた。灯のひかりと潮のひかりとに薄あかるい浪の上に、白いような物が漂っているのを見つけて、二人はぎょっとした。それがかの経帷子であるらしく思われたからである。お峰は言い知れない恐怖を感じて、無言で文次郎の袖をひくと、彼もその正体を見届けようとして、幾たびか提灯を振り照らしたが、白い物の影はもう浮かび出さなかった。
お妻は海にむかって再び手を合せた。
その翌日、お妻はめでたく井戸屋へ送り込まれた。井戸屋の若主人は果たして養子で、その名を平蔵といった。先代の主人夫婦は、二、三年前に引きつづいて世を去ったので、
「これで何事もなければ、申分はないのですがねえ。」と、お峰は夫にささやいた。
由兵衛もひそかに無事を祈っていた。この年の二月に、年号は文久と改まったのである。去年の桜田事変以来、世の中はますますおだやかならぬ形勢を見せて来たが、近江屋一家には別条なく、井戸屋にもなんの障りもなく、ここに一年の月日を送って、その年の暮れにお妻は懐姙した。
本来ならば、めでたいと祝うのが当然でありながら、それを聞いて近江屋の夫婦は一種の不安に襲われた。不吉の予感が彼等のこころを暗くした。お峰は世間の母親のように、
明くれば文久二年、その九月はお妻の臨月にあたるので、お峰は神仏に日参をはじめた。由兵衛も釣り込まれて神まいりを始めた。井戸屋の主人も神仏の信心を怠らず、わざわざ
九月二十三日に淀橋からお妻の使が来て、おっ母さんにちょっと会いたいから直ぐにお
「どうだえ、もう生まれそうかえ。」と、お峰はまず訊いた。
「お医者も、取揚げのお婆さんも、今月の末頃だろうと言っているのですけれど、わたしはきっとあした頃だろうと思います。」と、お妻は信ずるところがあるように言った。
「だって、お医者も取揚げ婆さんもそう言うのに、おまえ一人がどうして明日と決めているの。」
「ええ、あしたです。きっとあしたの日暮れ方です。」
「あしたの日暮れ方……。」
「おっ母さんはおととしの事を忘れましたか。あしたは九月の二十四日ですよ。」
九月二十四日――横浜見物の帰り道に、二挺の駕籠が鈴ヶ森を通りかかったのは、その日の暮れ方であった。それを言い出されて、お峰は
「けれども、おっ母さん安心していて下さい。男の児にしろ、女の児にしろ、わたしの生んだ児はわたしがきっと守ります。」と、お妻はいよいよ自信がありそうに言った。
姙婦を相手にかれこれ言い合うのもよくないと思ったので、お峰は黙って聞いていた。しかし何だか気がかりでもあるので、婿の平蔵にそっと耳打ちすると、平蔵も不安らしくうなずいた。
「実は私にも同じことを言いました。医者も取揚げ婆さんも今月の末頃だというのに、当人はどうしても、あしたの日暮れ方だと言い張っているのは、何だかおかしいように思われますが……。」
「そうですねえ。」
九月二十四日の一件が胸の奥にわだかまっているので、その晩はお峰も井戸屋に泊り込んで、あしたの夕方を待つことにした。明くる二十四日は朝からほがらかに晴れて、秋風が高い空を吹いていた。渡り鳥の声もきこえた。
お妻も昼のあいだは別に変ったこともなかったが、いわゆる
その知らせに驚いて駈けつけて来た産婆にむかって、お妻は訊いた。
「男ですか、女ですか。」
「坊ちゃんでございますよ。」と、産婆は誇るように言った。
「そうですか。」と、お妻はほほえんだ。「早くあっちへ連れて行ってください。おっ母さんもあっちへ行って……。」
男の児の誕生に、一家内が浮かれ立っている
その秘密を知っている者は、母のお峰だけであった。
「その時に生れた男の児が私の伯父で、今も達者でいます。」と、吉田君は言った。「そのお妻という女――すなわち私の