「海老の天ぷら、
N君は南洋貿易の用件を帯びて、シンガポールからスマトラの方面を一周して、半年ぶりで先月
料理のことは勿論この話に直接の関係はないのだが、英領植民地のシンガポールという土地はまずこんなところであるということを説明するために、ちょいと
それから夜の町をぶらぶら見物に出ていくと、町には芝居が興行中であるらしく、そこらに
英文の印刷されたプログラムによって、その狂言がアラビアン・ナイトであることを知ったが、登場俳優はみなスマトラの原住民だそうで、なにを言っているのか僕らにはちっとも判らなかった。
幕のあいだには原住民の少年がアイスクリームやレモン水などを売りにくるので、僕もレモン水を一杯のんで、夜の暑さを
「あなたも御見物ですか。」
ふり返って見ると、それはこの土地で日本人が経営している東洋商会の早瀬君であった。早瀬君はまだ二十五、六の元気のいい青年で、ここへ来てから僕も二、三度逢ったことがある。彼はもうこの土地に三年も来ているので、マレー語もひと通りは判るのであるが、それでも妙に節をつけて歌うような芝居の
「あなたはしまいまで御見物ですか。」と、早瀬君はまた訊いた。
「いや、どうで判らないんですから、もういい加減にして帰ろうかと思います。」と、僕は顔の汗を拭きながら答えた。
「なにしろ暑いんですからね。シンガポールというところは芝居の土地じゃありませんよ。わたし達もほかに遊びどころがないから、まあ時間つぶしに出かけて来るんです。じゃあ、どうです、表へ出て涼みながら散歩しようじゃありませんか。」
僕もすぐに同意して表へ出ると、二月下旬の夜の空には赤い星が一面に光っていた。これから三月四月の頃がシンガポールでは最も暑い時季であると、早瀬君はあるきながら説明してくれた。
「土地の人は暑いのに
「ええ、今度の興行は
「死んだのですか。」
「まあ、そうでしょうね。いや、確かなことは誰にも判らないんですが、まあ死んだというのが本当でしょうね。御承知の通り、あの芝居はマレー俳優の一座で、一年に三、四回ぐらいはここへ廻ってくるんです。その一座の中にアントワーリース――原住民の名は言いにくいから、簡単にアンといっておきます。――そのアンというのはまだ十九か
若い美しい俳優の死――それが僕の好奇心をまたそそって、熱心に耳を傾けさせた。早瀬君は人通りの少ない海岸通りの方へ足を向けながら話しつづけた。
「アンは去年の三月ごろここへ廻って来たときに、或る白人の女と親しくなったんです。その女はスペイン人で、あまり評判のよくない、一種の高等淫売でもしているような噂のある女でしたが、年は二十七、八で
一座がここの興行を終って、半島の各地を打廻っているあいだも、女はアンのあとをどこまでも追って、どうしても離れようとしない。一座の者も心配して、アンに意見もしたそうですが、年うえ女に執念ぶかく
言いかけて、早瀬君は突然に僕に訊いた。
「あなたはこのシンガポールの歴史をご存じですか。」
僕もあまりくわしいことは知らない。しかしこの土地はその昔、原住民の
「そうです、そうです。わたしもそれ以上のことはよく知りませんが、今もあなたが仰しゃった柔仏の王――朱丹というそうです。――それがこの事件に関係があるんです。もちろん、ラッフルスがこの土地を買収したのは、今から百年ほどの昔で、その当時の朱丹が生きているはずはないんですが、その魂はまだ生きていたとでも言いましょうか。なにしろ、アンが行くえ不明になったのは、その朱丹の墓に関係があるんです。」
「墓をあばきに行ったんじゃありませんか。」と、僕は中途から
「まったくその通りです。アンがなぜそんなことをしたかというと、ここらの原住民の間にはこういう伝説が残っているんです。この土地を英国人に売り渡した柔仏の朱丹は、ラッフルスから受取った六十万弗の中から二十万弗を同種族のものに分配して、残る十万弗で自分の
わたしは一度も行って見たことはありませんが、熱帯植物の大きい森林の奥にあって、案内を知っている原住民ですらもめったに近寄ることの出来ないところだといいます。まだそればかりでなく、朱丹はその臨終の際にこういうことを言い残したと伝えられています。――おれの肉体は滅びても霊魂は決して亡びない。おれの霊魂はいつまでも自分の
なんでも七、八年前にここに駐屯している英国の兵士たちの間にその話がはじまって、慾得の問題はともかくも、一種の冒険的の興味から三人の兵士がその森林の奥へ踏み込んで行くと、果たしてそこに朱丹の墳墓が見いだされた。入口にはようよう人間のくぐれるくらいの小さい穴があるので、三人は犬のようにその穴からはいって行くと、路はだんだんに広くなると同時に、だんだんに地の底へ降りて行くように出来ていて、およそ五十尺ほども降りたかと思うころに初めて平地に行き着いたといいます。
あたりはもちろん真っ暗で、手さぐりで
「不思議な話ですね。」と、僕も息をつめて聞いていた。それと同時に、アンの運命もたいてい想像されるように思われた。
「ここまでお話しすれば大抵お判りでしょう。」と、早瀬君も言った。「アンは金に困った苦しまぎれに、自分から思い立ったのか、あるいは女にそそのかされたのか、いずれにしても朱丹の墓からあの三十万弗を盗み出そうとして、十一月の初めごろに、女と一緒に森林の奥へ忍んで行ったんです。朱丹の霊魂がその
ともかくも女の言うところによると、二人は墓の入口まで行って、アンがまず忍び込んだ。女はしばらく入口に待っていたんですが、男の身の上がなんだか不安に感じられるのと、自分も一種の好奇心に駆られたのとで、あとからそっと忍び込んだが、やはり地の底へ行き着いたかと思うころに、急に
日の暮れるころから夜のあけるまで墓の前に突っ立っていたが、アンはやはり出て来ないので、女は泣きながら人家のある方へ引っ返して来て、そのことを原住民に訴えたが、原住民は恐れて誰も捜索に行こうともしないので、女はますます失望して、日本人の経営しているゴム園まで駈け付けて、どうか男を救い出してくれと哀願したので、ここに初めて大騒ぎになって、白人と日本人とシナ人が大勢駈け出して行ったものの、さて思い切って墓の奥まで踏み込もうという勇者もない。警察でもどうすることも出来ない。結局アンはかの兵士たちとおなじように、朱丹の墳墓の中に封じこめられてしまったんです。あるいは奥の方に抜け道があるのではないかという伝説がありますが、以前の兵士も今度のアンもことごとくその姿をあらわさないのを見ると、やはりかの朱丹が予言した通り、再び世には出られないのかも知れませんよ。」
「女はそれからどうしました。」
「どうしたかよく判りません。なんでもシンガポールを立去って、ホンコンの方へ行ったとかいうことでした。なにしろアンは可哀そうなことをしました。彼も恋に囚われなければ、今夜もこの舞台に美しい声を聞かせることが出来たんでしょうに……。」
「その墓へ入った者はみんな窒息するんでしょうか。」と、僕は考えながら言った。
「さあ。」と、早瀬君も首をかしげていた。「わたしにも確かな判断は付きませんが、ここらにいる白人のあいだでは、もっぱらこんな説が伝えられています。柔仏の王は自分の遺産を守るために、腹心の家来どもに命令して、無数の毒蛇を墓の底に放して置いたのだろうというんです。して見れば、そこに棲んでいる毒蛇の子孫の絶えないあいだは、朱丹の遺産がつつがなく保護されているわけです。実際、印度やここらの地方には怖ろしい毒蛇が棲んでいますからね。」
言ううちに、大粒の雨が二人の帽子の上にばらばらと降って来た。
「ああ、シャワーです。強く降らないうちに逃げましょう。」
早瀬君は先に立って逃げ出した。僕も帽子をおさえながら続いて駈け出した。