一
Y君は語る。
明治十年、西南戦争の頃には、わたしの
その屋敷は旧幕臣の
こういう事情で建ちぐされのままになっていた空屋敷を、わたしの父がやすく買取って、それに幾らかの手入れをして住んでいたのであるから、今から考えるとあまり居ごころのよい家ではなかったらしい。第一に屋敷がだだっ広い上に、建物が甚だ古いと来ているから、なんとなく陰気で薄っ暗い。庭も広過ぎて、とても掃除や草取りが満足には出来そうもないというので、庭の中程に低い
わたしの
前置きが少し長くなったが、これらの話はそういう場所で起ったものであると思って貰いたい。その年の八月、西郷隆盛がいよいよ
「おおかた野良犬でも這い込むのだろう。」
こうは言いながらも、ともかくもそれを実験するために、父はひと晩眠らずに
ことしはかなりに残暑の強い年であったが、今夜はめずらしく涼しい風が吹き渡って、
「獣だな。」と、父は思った。やはり自分の想像していた通り、のら犬のたぐいが忍び込んで何かの餌をあさるのであろうと想像された。
しかし折角こうして張番している以上、その正体を見届けなければ何の役にも立たない。そうして、その正体をたしかに説明して聞かせなければ、女どもの不安の根を絶つことは出来ない。こう思って、父はそっと雨戸を一枚あけて、草履をはいて庭に降りた。縁の下には枯れ枝や竹切れがほうり込んであるので、父は手ごろの枝を持ち出して静かにあるき始めた。庭には夜露がもう
耳をすますと、がさがさという音は庭さきの空地の方から低く響いてくるらしい。前にもいう通り、ここは四目垣を境にしてただ一面の藪のようになっているので、人の
女の声は少しく意外であったので、父もぎょっとした。しかしもう猶予はない。父は持っている枝をとり直して、四目垣をまわって空地へ出ると、草むらはまた激しくざわざわ揺れてそよいだ。すすきや雑草をかきわけて、声のした方角へたどって行ったが、ふだんでもめったにはいったことのない草原で、しかも夜なかのことであるから、父にも確かに
落ちると、穴の底ではまたもやきゃっという女の声がきこえた。父がころげ落ちたところには、人間が横たわっていたらしく、その胸か腹の上に父のからだが落ちたので、それに圧しつぶされかかった人間が思わず悲鳴をあげたのである。その人間が女であることは、その声を聞いただけで容易に判断されたが、一体どうしてこんなところに穴が掘ってあったのか、またそのなかにどうして女がひそんでいたのか、父にはなんにも判らなかった。
「あなた誰ですか。」と、父は意外の出来事におどろかされながら訊いた。
女は答えなかった。あたまの上の草むらは又もやざわざわと乱れてそよいだ。
「もし、もし、あなたはどうしてこんな所にいるんですか。」
女が生きていることは、そのからだの温か味や息づかいでも知られたが、かの女は父の問いに対してなんにも答えないのである。父はつづけて声をかけてみたが、女は息を殺して沈黙を守っているらしかった。
なにしろ暗くてはどうにもならない。ここから家内の者を呼んでも、よく寝入っている女どもの耳に届きそうもないので、父はともかくもその穴を這い出して家からあかりを持って来ようと思った。探ってみると、穴の
二
父に呼び起されて、母や女中たちも出て来た。
「早く
裸蝋燭に火をつけて女中が持って来たのを、心のせくままに父はすぐに持ち出したが、その火は途中で夜風に奪われてしまった。父は舌打ちしてまた戻って来た。
「はだか蠣燭ではいけない。提灯をつけてくれ。」
母は奥へかけ込んで提灯を持ち出して来た。それに蝋燭の火を入れて、父は再び現場へ引っ返したが、さてその穴がどの辺であったか容易に判らなくなった。ひと口に空地といっても、ここだけでも四百坪にあまっていて、そこら一面に高い草が繁っている。さっきは暗やみを夢中で探り歩いたのであるから、どこをどう歩いたのか判らない。倒れている草をたよりにして、そこかここかと提灯をふり照らしてみると、そこにもここにも草の踏み倒された跡があるので、いっこうに見当がつかない。と思ううちに、父は又もや足をふみはずして、深い穴のなかに転げ落ちた。
落ちると共に蝋燭の火は消えてしまったので、父はさっきの困難を繰り返さなければならないことになった。ようやく這いあがったものの、あたりが暗いので何が何やらよく判らない。父は又もや引っ返して蝋燭の火を取りに行った。
「もう今夜は止して、あしたのことにしたらどうです。」と、母は不安らしく言った。
しかし、かの穴には女が横たわっている。それをそのままにしては置かれないので、父は強情に提灯を照らして行ったが、かの穴はどこらにあるのか遂に見いだすことは出来なかった。暗やみで確かに判らなかったが、父が最初に落ちた穴と、二度目に落ちた穴とは、どうも同一の場所ではないらしかった。第二の穴には人間らしいものはもちろん横たわっていなかったのである。それから考えると、この草原には幾カ所かの穴が掘られているらしいが、それが昔から掘られてあるのか、近頃新しく掘られたのか、又なんのために掘られたのか、父にはちっとも判らなかった。
「あの女はどうしたろう。」
それが何分にも気にかかるので、父は
「畜生。おれは狐にでも化かされているのじゃないかな。」
まさかとも思いながらも、再三の失敗に父はすこし疑念をいだくようになった。
「もう思い切って今夜は止めよう。」
父は第三の穴をはいあがって家へ引っ返した。すすきの葉で足や手さきを少し擦り切っただけで、別に怪我というほどの怪我はしなかったが、三度もおとし穴に落ちたのであるから、髪の毛にまで泥を浴びていた。父は素裸になって、井戸端で頭を洗い、手足を洗った。
「まったく狐の仕業かも知れませんね。」と、母は言った。
父ももう
夜は明けても今朝は一面の深い
「なんのために掘ったのでしょうねえ。」と、父のあとから不安らしくついて来た母が言った。
何者がこんなことをしたのかはもとより判らないが、一体なんの為にこんなことをしたのかを、父はまず知りたかった。落し穴の目的とすれば、こんな所に穴を掘るのもおかしい。たとい草原同様の空地であるとしても、ここはわたしの家の私有地で、他人がみだりに通行すべき往来ではない。そこへ毎夜忍んで来て落し穴を作るなどとは、常識から考えてちょっと判断に苦しむことである。それにしても、その落し穴に落ちたらしいかの女は何者であろうか。おそらく父が引っ返して提灯を持って来るあいだに、そこを這い出して姿をかくしたのであろうが、その当時二、三カ所でがさがさという響きを聞いたのから考えると、かの女のほかにも何者かが忍んでいたのかも知れない。あるいは近所の男と女がこの空地を利用して密会していたのではあるまいか。かれらは何かに驚かされて、あるいは父の足音におどろかされて、あわてて逃げようとするはずみに、女はあやまってかの穴に転げ落ちたのではあるまいか。それでまず女の解釈は付くとしても、かの落し穴のようなものは何であろうか。あるいは彼等がそこで密会することを知って、何者かがいたずら半分にそんな落し穴を作って置いたのであろうか。
こう解釈してしまえば、それは極めてありふれた事件で、単に一場の笑い話に過ぎないことになる。父もそう解釈して笑ってしまいたかったが、その以上に何かの秘密がひそんでいるのではないかという疑いがまだ容易に取りのけられなかった。そればかりでなく、ともかくも自分の所有地へ入り込んで、むやみに穴を掘ったりする者があるのは困る。いずれにしても、今夜ももう一度張番して、その真相を確かめなければならないと、父は思った。
父は官吏――その時代の言葉でいう官員さんであるので、そんな詮議にばかり係り合ってはいられない。けさも朝から出勤して夕方に帰って来たが、留守のあいだに別に変ったことはなかった。今夜も家内の者を寝かしてしまって、父ひとりが縁側に坐っていると、ゆうべ碌ろくに眠らなかったせいか、十二時ごろになると次第に薄ら眠くなって来た。きょうも暑い日であったが、
雨戸をあけて、父は庭先へ跳り出た。ゆうべの経験によって今夜は提灯を用意して行ったのである。片手には提灯、かた手には木の枝を持って、四目垣をまわって駈けていくあいだにも、犬は狂うように吠えたけっていた。その声をしるべにして、父は草むらをかき分けて行くと、犬は提灯の光りをみて駈けよって来た。
その当時、英国の公使館が私の家の隣りにあって、その犬は何とかいう書記官の飼い犬である。犬は毎日のようにわたしの庭へも遊びに来て、父の顔をよく知っているので、今この提灯を持った人に対しては別に吠え付こうともしなかったが、それでも父の前に来て子細ありげに低く唸っていた。父は犬にむかって、手まねで案内しろといった。犬はその意をさとったらしく、又もや頻りにそこらを駈け廻っているので、父もそのあとに付いて駈けあるいていると、犬はひとむら茂るすすきの下へ来て、前足ですすきの根をかきながら又しきりに吠えた。急いで近寄って提灯を差し付けると、そこにも一つの穴があって、その穴から一人の大男があたかも這い上がって来た。
よく見ると、それは公使館付きの騎兵で、今は会計係か何かを勤めているハドソンという男であった。彼は手にピストルを持っていた。
「今夜は犬がひどく吠えます。」と、ハドソンは明快な日本語で言った。「わたくし見まわりにまいりました。こちらの藪のなかに人が隠れておりました。その人は穴を掘っております。わたくし取押えようとしますと、その人逃げました。わたくし穴に落ちました。」
「その人、男ですか、女ですか。」と、父は訊いた。
「暗いので、それ判りません。」と、ハドソンはからだの泥を払いながら答えた。
二人はしばらく黙って露の中に突っ立っていた。犬はまだ低くうなっていた。ハドソンはおそらく泥棒であろうといったが、泥棒がなぜ幾つもの穴を掘るのか、それが解きがたい謎であった。
あくる朝になって父は再び空地を踏査すると、なるほど新しい穴がまた一つふえていた。ハドソンの落ちたのは古い穴で、彼はそんな穴が幾つも作られていることを知らないで、一昨夜の父とおなじような目にあったのである。
三
何者がなんのためにここへ来て、
「
ハドソンはその後三晩も張番をつづけたが、遂になんの新発見もなかった。父は夜露に打たれた為に少しく風邪を引いたので、当分は張番を見合せることになった。それでも毎朝一度ずつは空地を見廻って、新しい穴が掘られているかどうかを調べていたが、最初に発見された九カ所と後の一カ所と、その以外には新しい穴は見いだされなかった。かれらもこのいたずら――まずそうらしく思われる――を中止したらしかった。
それから半月あまり無事に過ぎた。その以来、家内の女たちをおびやかすような怪しい響きもきこえなくなって、この問題も自然に忘れられかかった時に、父はふとあることを思いついた。それはあたかも日曜日の朝であったので、父はすぐに近所の米屋をたずねた。
米屋は前にいったような事情で、わたしの家を昔の持主から譲りうけて、更にそれをわたしの父に売り渡したのである。そうして、現在もわたしの家に米を入れている。その米屋の主人に逢って、昔の持主のことをたずねると、主人はこう答えた。
「その節も申上げましたが、あなたのお屋敷には
「その安達という人の家族はどうしたね。」と、父はまた訊いた。
「どうなすったか判りませんでしたが、ひと月ほども前に、その奥さんがふらりと尋ねておいでになりまして、なんでも今までは
「その奥さんは今どこにいるのだろう。」
「やはり同区内で、芝の
「どんなふうをしていたね。」
「さあ。」と、主人は気の毒そうに言った。「ひどく見すぼらしいという程でもございませんでしたが、あんまり御都合はよくないような御様子でした。」
「奥さんは幾つぐらいだね。」
「
「子供はないのですかね。」
「お嬢さんが一人、それは上総の御親戚にあずけてあるとかいうことでした。」
「片門前はどの辺か判らないかね。」
「さき様でも隠しておいでのようでしたから、わたくしの方でも押し返しては伺いませんでした。」
それだけのことを聞いて、父は帰った。父の想像によると、庭の空地へ忍んで来て、一度は穴に落ち、一度は犬に追われた女は、この安達の奥さんであるらしく思われた。勿論、取留めた証拠があるわけではないが、庭の空地に穴を掘るのは単にいたずらの為にするのではない。おそらくは土を掘りかえして何物かを探し出そうとするのであろう。安達の家に何かの伝説でもあるか、あるいは脱走の際に何かの貴重品でもうずめて立去ったか、二つに一つで、それを
もし果たしてそうであるとすれば、まことに気の毒のことである。自分は決して自己の所有権を主張して、遺族らの発掘を
それでも父はまだ気になってならなかった。米屋の主人の話によると、かの奥さんはあまり都合が好くないらしいという。してみれば、埋めてある
この上は米屋の通知を待つのほかはなかったが、安達の奥さんは再び米屋の店にその姿をみせなかった。わたしの庭の空地へも誰も忍んで来る様子はなかった。
それから又、半月あまりを過ぎて、九月はじめの新聞紙上に片門前の女殺しの記事があらわれた。森川権七という古道具屋の亭主がその女房のおいねを殺したというのである。権七は三十一歳で、おいねは年上の三十七であった。新聞の記事によると、おいねは旧幕臣の安達源五郎の妻で、源五郎は越後へ脱走するときに、
権七は小才のきく男で、商売の上にも仕損じがなく、どうにか一軒の店を持ち通すようになると、かれは年上の女房がうるさくなって来た。殊においねは旧主人をかさにきて、とかくに亭主を尻に敷く形があるので、権七はいよいよ気がさして来た。目と鼻のあいだには
その晩もいつもの夫婦喧嘩から、一杯機嫌の権七は、店にならべてある商売物のなかから大工道具の
安達の奥さんの消息はこれで判った。古道具屋の店は森川権七の名になっているので、父がさがし当てなかったのも無理はなかった。二、三日の後に、父が米屋の主人に逢うと、主人もこの新聞記事におどろいていた。
「権七という中間はわたくしも知っています。上州の生れだとか聞きましたが、
九月の末に大あらしがあった。午後から強くなった雨と風とが宵からいよいよ烈しくなって、暁け方まであれた。殊にここらは品川の海に近いので、
しかし東の白らむ頃から雨も風もだんだん鎮まって、あくる朝はうららかに晴れた日となったが、どこの家にも相当の被害があったらしい。父は自分の家の構え内を見まわって歩くと、前にいった立木や塀の被害のほかに、西側の高い崖がくずれ落ちているのを発見した。幸いにその下は空地であったが、もしも住宅に接近していたらば、わたしの家は
早速に出入りの職人を呼んで、くずれ落ちた土を片付けさせると、土の下から一人の男の死体があらわれた。男は崖くずれに押し潰されて生き埋めとなったのである。かれは手に
権七はかの事件以来、どこかに
「やっぱりわたしの想像があたっていたらしい。」と、父は母にささやいた。
空地の草原へ穴を掘りに来た者は、おそらく権七とおいねであったろう。父が想像した通り、かれらは何かの埋蔵物を掘出すために、幾たびか忍んで来たらしい。権七は女房を殺して、どこにか姿を隠していながらも、やはりかの埋めたるものに未練があって、風雨の夜を幸いに又もや忍び込んで来て、今度は崖の下を掘っていたらしいことは、かれの手にしていた鍬によって知られる。しかも風雨はかれに幸いせずして、かえって崖の土をかれの上に押し落したのであった。
これらの状況から推察すると、かれらは遂に求むるものを掘出し得なかったらしい。それが金銀であるか、その他の貴重品であるか、勿論わからない。父はかれらに代って、それを探してみようとも思わなかった。
明治十年――今から振り返ると、やがて五十年の昔である。あの辺の地形もまったく変って、今では一面の人家つづきとなった。権七夫婦が求めていた掘出し物も、結局この世にあらわれずに終るらしい。