登場人物
官女
その妹
旅僧
官女
同 綾の局
浜の女房 おしお
那須の家来
ほかに那須の家来。浜のわらべなど
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(一)
寿永四年五月、
(平家没落の後、官女は零落してこの海浜にさまよい、いやしき
呉羽 のう、綾の局。これほど拾いあつめたら、あす一日の
綾の局 この長の日を立ち暮して、おたがいに
呉羽 今更いうも愚痴なれど、ありし雲井のむかしには、夢にも知らなんだ
綾の局 まだうら若い上たちは、泣顔かくす
呉羽 せめて一日でも生きたいと、こうして働いてはいるものの、これがいつまで続こうやら……。(嘆息しつつ空を仰ぐ。)おお、こんなことを云うているひまに、やがて日も暮れまする。
綾の局 ほんに空も陰って来ました。このごろの
呉羽
綾の局 召仕いもなき佗び住居は、なにやらかやら心せわしいことでござるのう。
(二人は籠をたずさえてとぼとぼとあゆみ去る。浜のわらべ甲乙丙の三人いず。乙は赤き蟹を糸に縛りて持ったり。)
童乙 どうじゃ。
童甲 あいにくに夕潮が一杯じゃ。これでは蟹も上がりそうもないぞ。
童丙 では、あすの朝、潮の
(弥平兵衛宗清、四十余歳、今は仏門に入りて雨月という。旅姿、笠と杖とを持ちていず。)
雨月 これ、これ、平家蟹とは……。どのような蟹じゃな。
童乙 これじゃ。見さっしゃれ。
(蟹を見せる。雨月はじっと視る。)
雨月 この蟹をなぜ平家と云うのか。
童甲 この壇の浦で平家が亡びてから、ついぞ見たことのない、こんな蟹が沢山に寄って来ましたのじゃ。
童乙 蟹の甲には人の顔がみえています。
童丙 これ、このように、おこった顔をしています。
(指さし示せば、雨月はつくづく視て、思わずぞっとする。)
雨月 おお、なるほど蟹の甲にはありありと人の顔……。しかも凄まじい
三人 そうじゃ、そうじゃ。
雨月 白きは源氏[#「源氏」は底本では「源民」]……赤きは平家の旗の色……。あかき甲にいかれる顔は……。平家の方々のたましいが、蟹に宿って迷いいずるか。
童甲 じゃによって、平家蟹といいますのじゃ。
(雨月は黙して蟹をながめている。)
雨月 これ、子供よ。浜育ちとはいいながら、
童乙 よい物をくださるなら、すぐに放してやりましょう。
雨月 おお、聞き分けのよい児じゃ。その代りには何がよかろうぞ。おお、これがよい。(腰をさぐりて
(童は袋より糒をすくい出して見る。)
童乙 これはなんでござるな。
雨月 それは糒というもので、水か湯にひたしてたべるのじゃ。
童乙 ありがとうござりました。
(童は蟹の糸をときて、うしろの海に放ちやる[#「放ちやる」は底本では「放ちゃる」]。)
雨月 この後もあの蟹を捕えてはならぬ。平家のたましいが
三人 あい。あい。
(わらべ等は去る。雨月はあとを見送る。)
雨月 日暮れてあたりに人もなし、忍ぶ身には丁度幸いじゃ。海に沈みし御一門の尊霊に、よそながら
(雨月は浜辺にひざまずき、
玉虫 あ、もし……。
(雨月はたちどまりてすかし視る。)
雨月 どなたでござりまするな。
玉虫 おお、宗清殿……。わらわじゃ。玉虫じゃ。
(近寄りて被衣を取る。かくと見るより雨月は再び土にひざまずく。)
雨月 いかにも
玉虫 なんの不思議なことがあろう。ここは平家が沈んだ海じゃ。平家にゆかりある者は、ここを去ってどこへ行こうぞ。見ればお身はさまを替えて、仏の
雨月 平家没落の後、甥の景清にいざなわれ、肥後の
玉虫 さりとは
雨月 かれは思い立ったることありとて、わたくしが頻りに止むるもきかず、鎌倉へ忍んでくだりました。
玉虫 むむ、鎌倉へ……。家重代という
雨月 おおかた左様でござりましょう。
玉虫 さすがは景清、あっぱれの者じゃ。その痣丸に源氏の血を……。大方そうであろうの。
雨月 そのように申して居りました。
玉虫 (心地よげにうなずく。)聞くもなかなかに勇ましい。たとい景清ならずとも、武士たるものにはそれほどの覚悟が無うてはなるまい。のう、宗清。過ぎし
雨月 今わたくしが踏んでいる浜辺には、源氏の大軍が真黒にたむろして居りました。まして海の上には兵船およそ三千艘、すくなくも味方の五六倍はあったと覚えまする。それが一度に漕ぎよせて来る。なにを申すも
玉虫 とは云え、平家は最期まで勇ましゅう闘うたぞ。打物は折れ、矢種はつき、船はくだけ、人は沈んで果つるまで、一
雨月
玉虫 景清は
雨月 では、お前さまも……。
玉虫 わらわも源氏を呪うているのじゃ。
雨月 源氏を呪うて……。
玉虫 なにを驚くことがあろう。煩悩もあり、執着もあればこそ、人はこの世に生きているのじゃ。執念は人の命じゃ。一切の煩悩や執着を捨つるほどなら、冷たい土の下に眠っているがましであろう。
雨月 憚りながら、それは凡夫の迷い……。
玉虫 はて、くどう云やるな。お身とわらわとは心が違うぞ。
(
玉虫
雨月 して、おまえ様のお住居は……。
玉虫 この浜づたいに五六町……。あれ、あの一本松が目じるしじゃ。
雨月 では、先帝のみささぎに参拝して、それからおたずね申しまする。
玉虫 強くふらぬ間に戻って来や。
(玉虫わかれて去る。雨月は見送る。)
雨月 さらでも
(浪の音高くきこゆ。)
雨月 おお、日暮れて浪が高うなった。空は暗し、雨はふる……。鬼火の迷いいずるというは、今宵のような夜であろう。南無阿弥陀仏、なむ阿弥陀仏。
(海にむかいて再び合掌す。那須の家来二人うかがいいず。)
家来甲 怪しい旅僧……。
家来乙 むむ。
(二人走りかかって捕えんとす。)
雨月 なにゆえの狼籍……。愚僧決して怪しいものではござらぬ。
家来甲 ええ、海にむかって回向するは……。
家来乙 まさしく平家にゆかりの者じゃ。
(二人は無理に引立てんとするを、雨月はゆかじと争いて、遂に二人を投げ倒す。二人はかなわじと見て逃げ去る。雨月は法衣の塵をはらいて、にが笑い。)
雨月 一旦仏門に入ったるからは、むかしの武士は捨てた筈じゃに、われを忘れて荒気の振舞。
(二)
浦の苫屋、二重屋体にて竹縁朽ちたり。正面の上のかたは板羽目にて、上に祭壇を設け、
(浜の女房おしお、さざえの殻の燈台に火をともしつつ独り言。)
おしお やがてもう暮れる[#「暮れる」は底本では「幕れる」]というに、
(雨すこしく降る。玉虫帰りきたる。)
玉虫 今戻りました。
おしお おお、お帰りなされましたか。あいにく降ってまいったので、さぞお困りでござりましょう。
玉虫 降りみ降らずみはこの頃の習い、さしたる雨でもござりませぬ。(ぬれたる被衣をぬぎて縁に上がる。)いつもいつも留守を頼み、ありがとうござりました。して、
おしお まだお帰りにはなりませぬ。
玉虫 このごろは兎角にそわそわしておちつかず、内を外にして出あるいているは、どうしたことであろうかのう。
(眉をひそむれば、おしおは打笑う。)
おしお それも
玉虫 生業とは……。
おしお え。(口ごもる。)
玉虫 妹がどのような生業をして居りまするぞ。
おしお さあ、うっかりと口をすべらしたはわたくしのあやまり、どうぞ御勘弁くださりませ。
玉虫 いや、詫びることはない、あからさまに云うて下さればよいのじゃ。
(玉虫の妹玉琴、十七八歳、被衣をかぶりて下のかたより出で、
玉虫 おしおどの、包まずに云うてくだされ。平家ほろびし後は官女達もちりぢりばらばら、ここらあたりにさまようて、あるに甲斐なく世を送る。そのなかには恥を忍んで、のぼり下だりの旅人や、出船入船の
おしお さあ。
玉虫 これ、しかと返事をして下されぬか。
(迫り問うに、おしおいよいよ迷惑す。玉琴は門をあけて走り入る。)
玉琴
玉虫 むむ。さては推量にたがわず、姉に隠していつの間にか、遊女や白拍子のながれを汲み、色をあきなう身となったか。
玉琴 そのお叱りはとくより知っていれど、むかしに変る今の身の上、唯うかうかとしていては
おしお おお、それもごもっとも、みやこ育ちのおまえ様がたが、ここらの浜辺に流浪なされては、ほかに世渡りのすべもなし、
玉琴 姉さま、推量してくださりませ。
おしお かならずお叱りなされまするな。
(とりなし顔に云えど、玉虫は耳にもかけず。)
玉虫 これ、妹。もっともらしゅう云訳するが、かかる境涯におちぶれても、お前はまだまだ命が惜しいか。
玉琴 おなごの未練なこころからは、命が惜しゅうござりまする。
玉虫 恥をさらしても生きたいか。
玉琴 死ぬほどならばこの三月、平家滅亡の日に死にまする。
おしお ほんに左様でござります。平家滅亡のおりから、海に沈んだ官女達も多いとやら……。そのなかを無事にながらえたは、よくよく御運がよいのでござりましょうぞ。御運がよいと云えば……もし、玉琴さま。あのお方のことを申上げたら、姉上様の御機嫌がなおろうも知れますまい。
玉琴 いや、いや。それは……。
おしお はて、お隠しなさるには及びませぬ。(玉虫にむかいて。)人は
玉虫 して、そのさむらいというは……。
おしお はい、あの……。
玉琴 あ、これ……。(云うなと制す。)
おしお 那須与五郎というお方……。
玉虫 那須与五郎……。(思案する。)平家の残党詮議のために、那須の一党は今なおここにとどまり、陣屋をかまえていると聞く。与五郎というも恐らくはその身内であろうな。
おしお なんでも大将の御舎弟じゃとかうけたまわりました。のう、玉琴さま……。
(玉琴答えず、恐るるごとくに差し俯向く。玉虫はいよいよ気色をかえる。)
玉虫 なに、大将の弟……与市の弟じゃと……。(つと起って妹の襟髪をとる。)人もあろうに、源氏方……しかも那須の一門に、
玉琴 ええ。
おしお さりとはきつい御腹立ち……。まあ、まあ、お待ちなされませ。
玉虫 お前の知ったことではない。玉琴、再びそなたには逢わぬぞや。
(突き放して起たんとす。玉琴は姉の袂にすがる。)
玉琴 では、
玉虫 姉妹はおろか、人間同士の縁も切った。おのれは畜生……。見るも汚れじゃ。
(袂を払って奥に入る。玉琴は泣き伏す。おしおは呆れる。)
おしお やれ、やれ、飛んでもないことになりましたのう。お詫びの種にもなろうかと、那須の殿様のことをうかうか申上げたら、却って御腹立ちは募るばかり。口はわざわいの
玉琴 いえ、いえ、詫びるには及びませぬ。遅かれ速かれ知ること……。その折にはどう云おう、こう云おうと、色々の云訳をかんがえて置きながら、いざというときには口へも出ず。たった一人の姉妹の勘当受けて、こりゃ何としたものであろうか。
(玉琴泣き入るを、おしおは慰める。)
おしお 一旦はあのように御立腹なされても、根が血をわけた御姉妹、自然とお心の解けるは知れたことでござります。とは云え、あのはげしいお顔色では、今が今、すぐにはお詫びもかないますまい。ともかくも今夜だけは、わたくしの宿までお越しなされませ。はて、泣いてござっては済まぬ。まあ、まあ、お立ちなされませ。
(なだめながら手を取れば、玉琴はしおしお起ち上がる。)
玉琴 とは云え、もう一度お詫びをして……。
おしお はて、今とやこうと申上げては、却って御機嫌にさからうようなもの。まあ、わたくしにまかせてお置きなされませ。
(玉琴の手をひきて門に出で、ふた足三足行きかかれば、向うより那須の家来弥藤二は
弥藤二 おお、玉琴殿ではござらぬか。
おしお おまえは那須の御家来衆……。
弥藤二 玉琴どのをお迎いにまいった。
(今までしおれたる玉琴は、那須の迎いと聞きて俄かにいそいそする。)
玉琴 おお、弥藤二どの……。ようぞ迎いに来てくだされた。
弥藤二 与五郎どのもお待ち兼ねでござるぞ。早うまいられい。
玉琴 すぐにお供いたしましょう。
おしお 丁度よいところへお迎いじゃ。では、御陣屋へ行かしゃりますか。
玉琴 おしお殿、先へまいりまするぞ。
弥藤二 いざ、お越しなされい。
(弥藤二は先に立ち、玉琴附添いていそぎ行く。取り残されたるおしおはあとを見送る。)
おしお 玉琴どのも現金な……。那須のおむかいと聞いたらば、泣顔が急に笑顔となって、早々に出てゆかれた。あれでは姉様の勘当をうけるも無理はない。おお、鐘がきこえる。今が
(おしおはつぶやきつつ去る。雨の音さびしく、奥より玉虫は以前とかわりし白の着附、緋の袴、
玉虫 今鳴る鐘は
(縁に出でてあたりを視る。垣のかげより大いなる平家蟹這いいず。)
玉虫 おお、新中納言殿……。こよいも時刻をたがえずに、ようぞまいられた。これへ……これへ……。(檜扇にてさしまねけば、蟹は縁の下へ這い寄る。)余の方々はなんとされた。つねよりも遅いことじゃ。
(上のかたの木かげよりも、おなじく平家蟹あらわる。)
玉虫 おお、能登どのか。今宵は知盛の卿に先を越されましたぞ。(打笑む。)
(左右よりつづいて二三匹、四五匹の蟹あらわれいず。)
玉虫 おお、
(云う声はしだいにうわ
玉虫 あれ、見られい。
(この時、俄かに風ふき来たりて、燈台の火ふっと消ゆ。闇のなかにて玉虫の声。)
玉虫 おお、源氏の運も風の前のともしびじゃ。忽ちこのように消ゆるであろうぞ。ほほほほ。
(向うより那須与五郎宗春、二十歳、烏帽子、
与五郎 はて、不思議や。家の内は真の闇じゃ。
玉琴 姉様はどこへお出でなされたか。まずともかくもお通りなされませ。
与五郎 むむ。
(両人は内に入りて、あたりを照し視る。)
与五郎 おお、燈台はあれにある。
玉琴 心得ました。
(両人は蓑をぬぎ、玉琴は縁にあがりて、松明の火を燈台に移す。与五郎はその松明を打消して、おなじく縁にあがり、両人座を占める。)
与五郎 姉御はいずかたへ参られたであろうな。
玉琴 さあ、近所へ物買いにゆかれたか。但しは奥に……。(起って奥をうかがう。)奥も暗がりでよくは見えぬ。もし、姉様……姉上様……。
玉虫 そういうは誰じゃ。わらわはこれに居りまする。
(玉虫は小袿をぬぎ、白小袖、緋の袴にて、奥よりいず。)
玉琴 おお、姉様……。それにおいでなされましたか。
玉虫 又しても姉という。そなたとは、すでに縁切っているのじゃ。
(云いつつ悠然と座に直る。与五郎は一と膝すすめて会釈す。)
与五郎 姉上には初めて御意得申す。それがしは
玉虫 その与五郎どのが何用あってここへはまいられた。
与五郎 妹御を所望にまいった。仔細はおおかた御存じでござろう。平家没落の後は、ゆかりの人々も
玉虫 むむ、それゆえに
(玉琴も進みいず。)
玉琴 さあ、それに就いてお願いがござりまする。これまでお目をかすめた罪は、いくえにもお詫びを申しますれば……。
玉虫 勘当をゆるせと云やるか。
玉琴 与五郎どのは今宵かぎり、俄かにここを引揚げて、本国の那須へ帰られまする。わらわも共に連れて行こうというありがたいおことば。就いては勘当のおわびを願い、おまえも共々に関東へ……。
玉虫 え、わらわも共に関東へ……。那須へ一緒にゆけと云やるか。
玉琴 わが身ばかり出世して、お前をすてて行かれましょうか。
与五郎 共々にお越し下さらば、それがしに取っても義理の姉上、決して疎略には存じ申さぬ。玉琴が
玉虫 御芳志は千万かたじけない。ついては玉琴。まずそなたに問いたいことがある。もしわらわが飽くまでも不承知と云うたら、そなたはどうしやるぞ。
玉琴 さあ。
玉虫 わらわを捨てても、与五郎どのと一緒にゆくであろうな。
(玉琴黙して答えず。玉虫はうなずく。)
玉虫 返事のないは、大方そうであろうの。よい、よい。それほどまでに思い合うた二人が仲を今更ひき裂くこともなるまい。わらわが許して
玉琴 え。では、勘当をお赦しあって……。
玉虫 姉が
玉琴 ありがとうござりまする。
玉虫 まあ、しばらく待ちゃ。
(玉虫は起って、再び奥に入る。与五郎と玉琴は顔を見あわせる。)
玉琴 ここへ引返して来るみちみちも、どうあろうかと案じていたに、姉さまの御機嫌も思いのほかに早う直って、こんな嬉しいことはござりませぬ。
与五郎 しいてとやこう申されたら、それがしも刀の手前、われから姉妹の縁切って、そなたを連れ帰ろうと存じたるに、玉虫殿のこころも早う解けて、われも満足。祝言は追ってのこととは思えども、今この場合、姉御の
玉琴 どうぞそうして下さりませ。
与五郎 そなたの頼みじゃ、なんなりともきこうよ。
玉琴 あい。世にたよりない我々姉妹、この末ともにかならず見捨てて下さりまするな。
与五郎 坂東武者は弓矢ばかりか、なさけにかけても意地は強い。一度誓いしことばの末は、
玉琴 おお。
(与五郎の手をとって押しいただく、奥より玉虫は
玉虫 世にありし昔ならば、かずかずの儀式もあるべきに、花やもみじの色もなき浦の苫屋のわび住居。心ばかりの三三九度じゃ。
(三方を両人のあいだに据うれば、両人は形をあらためて一礼す。玉虫は更に祭壇より神酒を入れたる
玉虫
玉琴 あい。
(玉琴はまず土器を取り、玉虫は酌に立つ。つづいて与五郎も飲む。かたのごとくに杯のやりとりあり。)
玉虫 おお、これでめでとう祝儀も済んだ。これからは色なおしに、わらわが一とさし舞いましょう。
(玉虫は檜扇を持ちて起ちあがり、はじめはしずかに舞う。)
唄世は治まりて、西海の浪しずかなり、岸の姫松はみどりの枝をかわして、沖にあそぶ
(このあたりより舞はようやく急なり。)
唄ときに不思議や、一天にわかに掻きくもり、
(玉虫は足拍子を強くふみて、両人に向ってじりじりと詰めよる。与五郎と玉琴は毒酒にあたりし
唄口にはほのおの息をふき、手にはくろがねの
(玉虫は舞いながら、檜扇をあげて与五郎を丁々と打つ。玉琴は這い寄って支えんとするを、玉虫はおなじく打つ。与五郎は太刀を抜きてよろめきながら斬ってかからんとすれども、身は自由ならず、いくたびか倒れて遂に縁よりまろび落つ。玉琴はこれを救わんとして、おなじく庭にまろび落つ。玉虫は舞いおわりて、こころよげにみおろしつ。)
玉虫 与五郎、玉琴、苦しいか。
与五郎 今かの酒を飲むとひとしく、俄かに身神悩乱して……ふたりが二人ながら苦痛に堪えぬは……。
玉琴
玉虫 ひとに洩れては
玉琴 して、その神酒が毒酒とは……。
玉虫 平家蟹の甲を裂いて、その肉を酒にひたし、神への
玉琴 ええ。
玉虫 男はもとより源氏方、女は肉身の姉を見すてて、かたきに心を通わす奴、呪いの
与五郎 源氏
(刀を杖に起たんとして又倒る。)
玉虫 はて、騒ぐまい。お身にはまだ云い聞かすことがある。過ぎし屋島のたたかいに、風流を好む平家の殿ばらは、船に扇のまとを立てさせ、官女あまたある中にも、この玉虫が選みいだされ、
与五郎 おお、それぞわが兄……
玉虫 おお、那須与市ということは後にて知った。兎にも角にもおぼえある武士ならん、いかに射るぞと見てあれば、かれは
与五郎 さては扇のまとのうらみによって……。
玉虫 おのれはかたきの末じゃ。兄の与市めも遅かれ速かれ、共に地獄へ送ってやろうぞ。
(いよいよ心地よげに笑う。与五郎は無念の歯をかめども、苦痛はしだいにはげしく、ただ苦しき息をつくのみ。玉琴は這い寄る。)
玉琴 与五郎どの……。おん身をここへ誘うて来ずば、こうしたことにもなるまいものを……。
与五郎 おお、この上は是非も無し、かれは生きて源氏を呪わんと云う……われは死して彼を呪わん。玉虫……。おのれもやがて思い知ろうぞ。
玉虫 人に執念のないものは無い。われもひとを恨めば、ひとも我を恨もう。つまりは五分五分じゃ。恨まば恨め、七生の末までも恨むがよい。
与五郎 おのれ……。
(起たんとしてよろめくを、玉琴は支えんとしてすがりつく。)
与五郎 最早これまで……。玉琴……。
玉琴 与五郎どの……。
(与五郎は刀をとりなおして玉琴の胸を刺し、返す刀にてわが腹に突き立て、引きまわして倒る。下のかたの木かげより雨月再びうかがい出で、垣の外にひざまずきて合掌す。玉虫は見咎める。)
玉虫 そこにいるは誰じゃ。
雨月 (しずかに。)わたくしでござりまする。
玉虫 むむ、宗清か。遠慮はない、これへ来や。
雨月 いや、まいりますまい。わたくしは
玉虫 それ程わらわがおそろしいか。
雨月 怖ろしいとも存じませぬが、
(
玉虫
(浪の音たかく、一匹の平家蟹這い出で、縁にのぼる。)
玉虫 おお、蟹……。わらわを案内してたもるか。して、どこへ……。海へゆくのか。よい、よい。(蟹は消ゆ。浪の音いよいよ高し。)
玉虫 や、蟹はいつの間にか……。(あたりを見廻して。)おお、新中納言どの……。能登守どの……。また見えられたか。いざ御一緒に……わらわも海へまいりまする。おおそうじゃ。浪の底にも都はある。わらわも役目を果たしたれば、これからはお宮仕え。さあ、お供いたしまする。
(眼にもみえぬ人に物いう如く、玉虫はひとり語りつつ庭に降り立ち、表のかたへ迷い出でんとする時、向うより那須の家来弥藤二は松明を持ちて再びいず。)
弥藤二 若殿……。お迎い……。
(云いつつ
――幕――
(明治四十四年九月執筆/明治四十五年四月、浪花座で初演)