十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田の三崎町まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区劃整理が成就した暁には、町の形がまたもや変ることであろう。
市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ
三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見出された。北は水道橋に沿うた高い堤で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には
わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、即ちわたしが十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつは
春木座は今日の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊という男が、大阪から中通りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入場として、入場料は六銭というのである。しかも半札をくれるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以て二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、
芝居狂の一少年がそれを見逃すはずがない。わたしは月初めの日曜ごとに春木座へ通うことを怠らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは
その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろうはずはない。そこは真暗な草原で、野犬の巣窟、追い剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる、狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける、冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤際はやはり真暗で人通りはない。いくらの小使い銭を持っているでもないから、追いはぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間に随分数多くの芝居を見物することが出来た。
三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでもかの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、
暗い原中をたどってゆく少年の姿――それが幻のようにわたしの眼に