なんだか頭がまだほんとうに落ちつかないので、まとまったことは書けそうもない。
去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋で安政の大地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、またそのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落ちついていられない。
わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分ひどい揺れ方で、市内に潰れ家も沢山あった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、
殆ど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時
仰山におどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものではあったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生れてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから上野へ出て、更に浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴したのであった。その以来、わたしに取っては地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後に
有勝の何となく穏かならない空模様で、
驟雨がおりおりに見舞って来た。広くもない家のなかは
忌に蒸暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、
硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸をしめ切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている『週刊朝日』の原稿をかきつづけていた。庭の垣根から棚のうえに
這いあがった朝顔と
糸瓜の長い
蔓や大きい葉が
縺れ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨を予報するようにも見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない
麹町山元町に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯をくっているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉も鳴き出した。
わたしは箸を
措いて
起った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている
階子段を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が
羽搏きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの蹈んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も
襖も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
勿論、わたしはすぐに引返して階子をかけ降りた。玄関の電灯は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ、ひどい地震だ。早く逃ろ。」
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、
沓ぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、
碧桐の枯葉がぱさぱさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだ止まない。わたしたちは真直に立っているに堪えられないで、門柱に身をよせて取り
縋っていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動はようやく鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって
窺うと、棚一ぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の
夜叉王がうつ向きに倒れて、その首が
悼ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取り縋った。それが止むと、少しく間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根から続いて震い落される瓦の黒い影が
鴉の飛ぶようにみだれて見えた。
こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我も人もいくらか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しくおちついたらしく、思い思いに椅子や
床几や花莚などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙がむくむくとうずまき
っていた。三番町の方角にも煙がみえた。取分けて下町方面の青空に大きい入道雲のようなものが真白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙か、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしはいい知れない恐怖を感じた。
そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その
火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」と、どの人もいった。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、著るしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見出されなかった。番町方面の煙はまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分れているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持出して来た。ビールやサイダーの
壜を運び出すのもあった。わたしの家からも梨を持出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々
齎らしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動はいくたびか繰返された。わたしは花むしろのうえに坐って、『
地震加藤』の舞台を考えたりしていた。
こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電灯のつかない町は暗くなった。あたりがだんだん暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅にあぶられているのが鮮かにみえて、ときどきに凄まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへとつづいてただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに
剰すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群のうちから若い人は一人起ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の
元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村君で、その住居は土手三番町であるが、火先がほかへ
外れたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の
火勢はすこし弱ったと伝えられた。
十二時半頃になると、近所がまたさわがしくなって来て、火の手が再び
熾になったという。それでもまだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車道は押返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる、荷物をかついでくる。馬が駈ける、
提灯が飛ぶ。色々のいでたちをした男や女が気ちがい眼でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこにも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、更に一方口の四谷方面にその逃げ
路を求めようとするらしく、人なだれを打って押寄せてくる。うっかりしていると、突き倒され、蹈みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引返して、更に町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂上の三井邸のうしろに迫って、怒濤のように暴れ狂う焔のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
迂回してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一
町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで
多寡をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が
横わっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには
疎らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところにはお
鉄牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の
児が肩もかくれるような夏草をかけ分けてしきりに
ばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
誰がいったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駆けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも
俄に荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の
蝋燭の火が
微にゆれて、妻と女中と手つだいの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
万一の場合には紀尾井町のK君のところへ
立退くことに決めてあるので、私たちは差当りゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら慾張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは『週刊朝日』の原稿をふところに捻じ込んで、バスケットに旅行用の
鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこうろぎの声がさびしくきこえた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。K君の家へゆき着いてから、わたしは『宇治拾遺物語』にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以て、わが家の焼けるのを笑いながらながめていたということである。わたしはその
烟さえも見ようとはしなかった。