俳諧師

岡本綺堂




  登場人物
俳諧師鬼貫おにつら
路通ろつう
鬼貫の娘おたへ
左官の女房おとめ
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元祿の末年、師走の雪ふる夕暮。浪花なにはの町はづれ、俳諧師鬼貫のわび住居。軒かたむき縁朽ちたるあばら家にて、上の方には雪にたわみたる竹藪あり。下の方の入口には低き竹垣、小さき枝折戸あり。となりは墓場の心にて、矢はり低き竹垣をへだてゝ其内に雪の積りたる石塔又は卒堵婆などみゆ。雪しづかに降る。寺の木魚の音きこゆ。

しもかたより近所の女房お留、竹の子笠をかぶりて出づ。)
お留  あゝ、よく降ることだ。寒い、寒い。(枝折戸をあけて聲をかける。)もし、御めんなさい。お留守ですか。
お妙  はい、はい。
(奧より鬼貫の娘お妙、十七八歳の美しき娘、やつれたる姿にて、煤けたる行燈を點して出づ。)
お妙  おや、おかみさん。まあ、どうぞおあがり下さい。
お留  なに、こゝでいゝんですよ。(笠をぬぎて縁に腰をかける。)寒いぢやありませんか。
お妙  ほんたうにお寒いことでございます。(表を見る。)今夜も積ることでございませう。
お留  二日も降りつゞいた上に、まだ積られてはまつたく遣切れませんね。年の暮に斯う毎日降られては、どこでも隨分困ることでせうよ。
お妙  なにしろ、おあがりなさいませんか。そこはお寒うございますから。
(云ひながら下の方の爐を見かへれば、爐には火の氣がないので、お妙は困つた顏をしてゐる。)
お留  (それと察して。)いえ、もうお構ひなさるな。内の人もこの寒いので、持病の疝氣が起つたとか云つて、きのふも一昨日をとゝひも仕事を休んでゐたのですけれど、もうかぞになつて來て、お出入先から毎日の催促があるので、今日はたうとう朝から仕事に出て行つたんですよ。
お妙  この降るのに、まあ。
お留  尤も家のなかの繕ひ仕事ですから、雪が降つても出來るには出來るんですがね。それでも左官といふ商賣は辛いものだとこぼし拔いてゐるんですよ。そりやまあ寒いときに泥いぢりをするんですから、どうで樂な仕事ぢやありませんけれど……。
お妙  (身にしみるやうに。)そりや全くでございますわねえ。
お留  さう云つても、我慢して稼いで貰はなければ、今日こんにちが過されませんからねえ。こちらのおとつさんは今日はお休みですか。
お妙  いゝえ、今もおつしやる通り、やつぱり我慢して出て貰はなければなりませんので、今朝から稼ぎに出かけましたが、この雪では嘸ぞ難儀であらうと案じてをります。
お留  このお天氣ではほんたうにお困りでせうねえ。その代りにこちらの御商賣なぞは、かういふ日の方が却つて可いかもしれませんよ。
お妙  (愁はしげに。)どうでございませうか。
お留  なにしろ、もう歸つてお出でなさるだらうから、早く火でもおこして置いてあげたら何うです。外は隨分寒うござんすよ。
お妙  さうでございませうねえ。(再び爐の方を見かへる。)
お留  (それを察したやうに又うなづく。)いゝえ、どこでも焚物たきものには困るんですよ。この頃のやうに炭や薪が高くなつては、その日暮し同樣の者はまつたく凌げません。それで、實はね。(聲を低めながら墓場を指さす。)わたしもあすこへ焚物を見つけに來たんですよ。
お妙  あすこへ……。(伸上りてのぞく。)
お留  あのお墓の古い塔婆を少し貰はうと思つてね。
お妙  お寺で呉れますかしら。
お留  (笑ふ。)呉れるもんですか。どうで呉れないに決まつてゐるから、默つて貰つていくんですよ。
お妙  まあ。
お留  だつて、お前さん。さうでもしなければ、この大雪の日に凍え死んでしまふぢやありませんか。佛樣だつて大目に見てくれますわ。
お妙  でも、まさかそんなことは……。
お留  まあ、默つておいでなさい。こゝの家へも持つて來てあげますから。
(お留は枝折戸の外に出で、あたりを見まはしながら生垣を押破つて墓場に忍び入るを、お妙は縁に立ちて不安らしく眺めてゐる。やがてお留は、新しいのと古いのとを取りまぜて澤山の塔婆を引つかゝへて出で、縁先へ引返して來る。)
お留  ねえ、お前さん。これだけあれば一時の凌ぎはつくと云ふものですわね。雪でしめつてゐるかもしれないが、兎も角もこれだけ置いて行きませうよ。
(お留は塔婆の雪を拂ひながら、その幾本かを縁に置く。お妙はやはり不安らしく眺めてゐる。)
お留  こちらなんぞはすぐ隣なんだから、焚物に困つたらいつでも斯うなさいよ。
お妙  でも、おかみさん。
お留  まあ可いから、お父さんの歸るまでに、早くあたゝかい火でもこしらへて置いておあげなさいよ。どれ、わたしも早く歸りませう。まあ、御覽なさい。ちつとの間に又積りましたよ。
(笠を持ちて起ち上る。)
お妙  氣をつけておいでなさい。
お留  はい、御免なさい。おゝ、降る、降る。
(お留は笠をかぶりて塔婆をかゝへ、挨拶してゆきかゝる時、上の方の竹藪の竹が二三本、凄まじい音して折れる。)
お留  (驚いて見かへる。)おや、竹が折れましたよ。
お妙  さつきからたわんで居りましたが、たうとう折れたとみえます。
お留  この雪ではたまりますまいよ。わたしのうちなんぞも小さいから、うつかりすると壓し潰されるかも知れない。はゝゝゝゝゝゝ。
(お留は笠を傾けて去る。ゆふぐれの鐘きこゆ。)
お妙  あのおかみさんはお墓からこんなものを持つて來て……。(塔婆を見る。)そつと行つて返して來ようかしら。(起ちかけて又躊躇する。)あゝ、雪が降る。お父さまはさぞお寒いことであらう。
(お妙はぢつと思案の末、塔婆にむかひて合掌し、やがて思ひ切つて爐の側へかゝへて行き、それを爐に折りくべて燧石ひうちの火を打つ。塔婆は燻りて白き煙がうづまき※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがる。表の雪は降りやまず。下の方より俳諧師鬼貫、四十餘歳、導引だういんのこしらへ、頭巾をかぶりて破れたる傘をさし、足駄をはきてとぼ/\と歸り來る。お妙は透しみて縁に駈け出る。)
お妙  おゝ。お父さま。お歸りでございましたか。
鬼貫  どうもよく降ることだな。
お妙  さぞお寒かつたでございませう。
(お妙は手つだひて、鬼貫は傘をすぼめ、頭巾をぬぎ、からだの雪を拂ひて内にあがる。)
お妙[#「お妙」は底本では「お留」]  朝から少しも止まないので、お寒くもあらうし、お困りでもあらうと、案じ暮してをりました。
鬼貫  (爐のそばに來る。)おゝ、爐の火が暖かさうに燃えてゐるな。きのふけふの大雪、外に出てゐるものも難儀だが、内にゐるものも難儀、殊に今朝から焚物は無し、内でもさぞ寒がつてゐるだらうと、おれも内を案じてゐた。
お妙  この寒いのに焚付たきつけはなし、お父さまがお歸りになつたらどうしようかと思つて居りますと、あの左官のおかみさんが……。(少しく云ひ淀みて。)これを持つて來てくれたのでございます。
鬼貫  内に火のあるのは不思議だと思つてゐたが……。あゝ、これは塔婆ではないか。
お妙  はい。(もじ/\してゐる。)
鬼貫  (急に顏をくもらせる。)これを左官のおかみさんがくれたのか。
お妙  はい。
鬼貫  おまへが自分で取つて來たのではあるまいな。
お妙  (あわてゝ。)まつたくあのおかみさんが取つて來てくれたのでございます。わたくしもどうしようかと思つたのでございますけれど……。(涙ぐむ。)お父樣がさぞお寒からうと存じまして……。
鬼貫  さうか。(歎息する。)
お妙  どうぞ御勘辨なすつて下さいまし。(手をつく。)
鬼貫  今更叱つても仕方があるまい。まあ、湯でも沸す支度でもしてくれ。(やゝ嚴かに。)こんなことを再びするなよ。
お妙  はい。恐れ入りました。
(お妙は眼をふいて、湯を沸かす支度をする。鬼貫はしばらく爐の火を眺めてゐる。)
鬼貫  お妙。
お妙  はい。
鬼貫  米はなかつたな。
お妙  (澁りながら。)はい。
鬼貫  (さびしく笑ふ。)いや、聞くまでもない。米櫃に一粒の米もないことは今朝から判つてゐたのだ。おれもそれを知つてゐるから、今日もこの大雪のなかを一生懸命に歩いたよ。(袂より笛を出す。)この笛を吹いて、大阪の町中を……。ふだんはおれの嫌ひな色町の方角まで、根よく流してあるいたが、馴染の薄いものはやつぱり駄目だ。どこでも呼んでくれてがない。
お妙  (歎息する。)さうでございませうねえ。
鬼貫  それでも一軒の小さい米屋でよんでくれたので、隱居らしい老人の腰を揉んで、二十文の錢を貰つて來た。
お妙  (ほつとして。)それはよろしうございました。
鬼貫  それからもう一軒、質屋に呼び込まれて二十文、あはせて四十文がけふ一日の稼ぎだ。
(財布よりぜにを出してみせる。)
お妙  それでもまあ結構でございました。
鬼貫  (又もや寂しく笑ふ。)結構かもしれない。今の身の上では四十文の錢でも尊い。これがなければ親子二人が飢死うゑじにだからな。
お妙  まつたく尊いのでございます。(錢を財布に入れて押しいたゞく。)
鬼貫  いや、飢死の方がましかも知れない。おれも以前は大和郡山やまとこほりやまの藩中で、輕いながらも武家奉公をした身の上だ。若い時から俳諧がすきで、窮屈な武家奉公がどうも面白くないと思つてゐるうちに、おまへが十三の時に女房が死んだ。それから思ひ切つて武士を捨て、をさないお前の手をひいて、すみ馴れた郡山の土地を離れる時は、おれも流石にさびしいやうな心持がしないでもなかつた。「笠とりて跡ちからなや春の雨」……それからこの大阪へ出て來たが、好きな俳諧をもてあそんでゐるばかりではとても世渡りの道が立たないので、思ひ付いた導引揉療治、これならば兎もかくも親子の口餬くちすぎはならうと、初めは自分のうちに看板をかけて見たが、ひとりも療治をたのみに來るものがないので、仕方が無しに按摩の笛を吹いて、毎日町中を流してあるくのも、かぞへて見るともう足かけ五年になる。家財も着類もみな賣り盡して、殘つてゐるものは親子二人のからだばかりだ。
お妙  (慰めるやうに。)その不足勝のあひだにも、俳諧の道に心をかたむけて、月雪花を樂むのが風流の極意ではございませんか。
鬼貫  (うなづく。)それはおれも知つてゐる。
お妙  清貧を樂むとか、ふだんから仰しやるのは、こゝのことではございませんか。
鬼貫  清貧を樂む……。(みづから嘲るやうに。)おれも今まではさう思つてゐた。さう思へばこそ家代々の祿をすてゝ、自分の好きな俳諧師にもなつたのだ。しかし今のおれ達の身の上は、清貧などといふことを通り越して、あんまりみじめ過ぎるではないか。月雪花を樂む風流の極意もこの世に生きてゐればこそで、おれ達はもう生命があぶない。おれ達はその日その日のかてにも困つてゐる。あしたの命もおぼつかないほどに飢に迫つてゐる。むかしの鬼貫ならば、この雪の日には是非とも一句あるべきところだが、今日の鬼貫は歌も俳諧もあらばこそ、どうしたら今夜の米代を稼げるか、あしたの薪代を稼げるか、どうしたら親子ふたりの露命をつなげるかと、唯そればかりに屈託しながら、大雪に埋もれた師走の町を一日さまよひ歩いてゐたのだ。大和も寒いところであつたが、浪花の冬も身にしみるな。
(お妙はうつむきて悲しげに聽きゐたるが、やがて湯の沸きたるに心づきて、茶碗につぎて父にすゝめる。鬼貫はしづかに湯をのみて又考へる。)
鬼貫  おゝ、さうだ。たしか去年の暮であつた。やつぱりこんな寒い日であつたが、おれはこの行燈の灯をぢつと眺めてゐるうちに、つい一句浮んだ。「ともしびの花に春待つ庵かな」――その頃はおれの心にもまだ餘裕があつて、春を待つといふ樂みがあつたと見える。その樂みも今は消えた。
お妙  え。
(お妙はいよ/\悲しげに父の顏を見つめる。鬼貫はうつむきて溜息をつく。雪風の音して、竹藪の竹二三本又もや折れる。その音に鬼貫は顏をあげて庭を見かへる。)
鬼貫  竹が折れたな。
お妙  さつきからたび/\折れるやうでございます。
鬼貫  これほどの大雪に壓されては、強い竹も流石にたまるまい。こらへるだけは堪へても、積る重荷に壓し潰されて、倒れるもある、折れるもある。(ぢつと思案して氣を換へる。)これお妙。今夜の米を買つて來なければなるまいな。
お妙  ほんにさうでございます。これからすぐに行つてまゐりませう。
鬼貫  油はどうだな。(行燈を見かへる。)いや、四十文のぜにで色々の買物も出來まい。油が盡きたら雪あかりでも事は濟む。兎も角もその錢で米と青菜でも買つて來い。
お妙  はい、はい。
(お妙は財布を帶にはさみて起ち上り、奧より風呂敷を持ちて出づ。)
鬼貫  あゝ、いつまでも降ることか。日が暮れて路が惡い。氣をつけて行けよ。
お妙  はい。氣をつけてまゐります。
(お妙は父の破れ傘を持ち、着物の褄をからげて、素足にて雪のなかを行きかゝる。)
鬼貫  これ、素足では冷たからう。穿きにくからうが、おれの足駄を穿いてゆけ。
お妙  (少し躊躇して。)何、すぐそこでございますから……。
鬼貫  すぐそこでも素足では堪るまい。構はずに穿いてゆけ。
お妙  では、拜借してまゐります。
(お妙は父の足駄をはき、傘をかたむけて下の方に立去る。雪風の音。鬼貫は立つて縁先より娘のうしろ影を見送りゐたるが、やがて行燈をよきところに直して、小さき古机を持出し、しづかに筆を執りて懷紙ふところがみに何か書きはじめる。雪の音、木魚の音。下の方より俳諧師路通、三十餘歳、乞食の姿にて破れたる菰をまとひ、古手拭をかぶりて出づ。)
路通  (かどよりのぞく。)この雪の日に難澁いたすものでございます。どうぞお慈悲に一文遣つてください。
鬼貫  (書きながら見かへる。)氣の毒だが難澁はお互ひの身の上で、一文の施しも出來ない。どこかほかうちへ行つてくれ。
(云ひすてゝ鬼貫は矢はり書きつゞけてゐる。路通は伸びあがりて内を覗き、なにか考へながら下の方に立ち去る、鬼貫はやがて書き終りて筆を措き、叮嚀に紙をたゝみて机の上に置く。それより押入をあけて袋に入れたる脇差を取出し、鞘をはらひて行燈の灯に照し視るとき、下の方よりお妙は風呂敷包みをかゝへて歸り來り、門口より内をのぞきて俄にたちどまり、不安らしくうかゞひゐる。鬼貫は破れたる半屏風をさかさに立てまはして、その蔭に這入る。その途端にお妙は傘も包みも投げ出して内へ駈けあがり、屏風を押倒して父の手に取りすがる。)
お妙  (聲をふるはせる。)お父さま、どうなさるのでございます。
鬼貫  お妙、もう歸つたのか。
お妙  こんな刃物を持つて、お前はどうなさるのでございます。
鬼貫  譯はそこに書いてある。それを讀めば判ることだ。
お妙  いゝえ、そんなものを讀んではゐられません。もし、お父さま。おまへは何で自害なさるのでございます。
鬼貫  叱つ、靜にしろ。
お妙  いゝえ、靜には出來ません。まあ、兎も角もその刃物をお渡しください。
(たがひに爭ふひまに、下の方より路通は再び出で來り、門口よりうかゞひゐる。お妙は一生懸命に父の手より刃物を奪ひとりて泣く。)
鬼貫  これ、靜にしろと云ふのに……。なるほど吃驚するのも道理もつともだが、たとひ自害しないでも俺達はもう生きてはゐられない……。よく考へてみろ。さつきも云ふ通り、あしかけ五年の浪々に、わづかばかりの貯へは勿論、家財も着類もみんな賣り盡して、導引揉療治にまで身を落したが、それでも世渡りは出來ないで、先月から三度の飯も滿足に食つたことがない。これで幾日もつゞいたら、親子ふたりが抱きあつて飢死するより外はあるまい。考へてみても怖ろしいことだ。
お妙  飢死するのが怖ろしさに、いつそ自害すると覺悟したら、なぜわたくしにも打ち明けて下さいません。お前に捨てゝ行かれたら、あとに殘つたわたくしは何うなると思ふのでございます。やつぱり飢死するより外は無いではございませんか。(泣く。)
鬼貫  いや、おまへと俺とは違ふ。お前はまだ若い身の上だ。いつそ自分一人ならば、どこへ奉公しても生きてゐられる。決して飢死するやうな心配はない。あの書置を人に見せれば、心ある人は憫れんでもくれるだらう。おれも好んで死にたくはない。それで今日まで我慢に我慢をして來たが、ほかの事とは譯が違つて、人間がどうしても食へないとなれば、死ぬよりほかに仕樣がない。生きたいと云つても生きてはゐられないのだ。判つたか。
お妙  いゝえ、どうしても死ぬほどならば、まだ生きてゆく道があらうかと存じます。唯今のお話をうかゞひますと、わたくしをお救ひ下さるために、お父さまが命をお捨てなさるやうに思はれまして、あんまり悲しうございます。わたくしはそんな不孝者になりたくはございません。かう云ふ時には、わたくしが死んでお父さまをお救ひ申さねばなりません。
鬼貫  馬鹿なことを……。お前を殺してどうなるものか。
お妙  ほんたうに死ぬのではございません。唯今お父さまは何處へ奉公してもと仰しやいました。その奉公にまゐるのでございます。
鬼貫  奉公にゆく……。
お妙  はい。(決心したやうに涙を拭く。)奉公にまゐります。と云つて、お父さまに御不自由はさせません。わたしに代つて朝夕のお世話を致すやうな、下女でも下男でもお雇ひ入れなすつて下さいまし。
鬼貫  その日の暮しに困る人間が下女や下男を置く。そんなことがどうして出來ると思ふのだ。(娘の肩に優しく手をかける。)おまへは少し取逆上とりのぼせてゐる。まあ、まあ、おちついてよく考へるが可い。
お妙  (父の膝に手をかける。)もし、お父樣。わたくしは奉公にまゐりまして、お父樣に御不自由のないやうなお金を工面いたします。
鬼貫  むゝ。
(鬼貫は腑に落ちぬやうに考へながら、娘の顏をぢつと視る。お妙の眼からは涙が流れる。)
鬼貫  (俄に思ひ付いて。)あ、おまへは勤め奉公にでもゆく氣か。
お妙  はい。(父の膝に泣き伏す。)
鬼貫  (あわたゞしく。)いけない、それは不可いけない。お前にそんなことをさせられるものか。おれは今まで唯の一度もそんなことを考へたことが無かつた。おれはそんな無慈悲ではないのだ。(娘の手を掴んで叱るやうに。)おまへはどうしてそんな馬鹿な、間違つた考へを起したのだ。おまへが自分ひとりで考へ出したのか、それとも誰かに智慧をつけられたのか。むゝ、あの左官のおかみさんに教へられたのか。大事の娘に勤め奉公をすゝめるなどとは、彼奴、思ひのほかの不埓な奴だ。
お妙  (父に縋る。)いゝえ、左官のおかみさんの知つたことではございません。誰に教へられたのでも無く、わたくしが不意と考へ付いたのでございます。
鬼貫  何日いつそんなことを考へたのだ。
お妙  けふの雪をながめながら、お父さまが外で嘸ぞ寒いおもひをしていらつしやるだらうと思ひまして……。(泣く。)わたくしのやうなものでも勤め奉公に出ましたら、いくらか纏まつたお金も手に這入らうかと。不意と思ひつきましたその矢先へ、お父樣が……。(落ちたる脇差に眼をつける。)こんな覺悟をなさいましたので……。
鬼貫  いや、判つた。なるほどお前の容貌きりやうならば、廓へ身をしづめて相當の金にもなるだらう。おれも樂が出來るかも知れない。併しそんなことがどうしてさせられるものか。
お妙  お許しはございませんか。
鬼貫  (又もや激しく叱り付ける。)えゝ、念を押すまでもない。たとひ飢死をすればとて、わが子に遊女の勤めをさせるなどとは、以ての外のことだ。これ、よく考へてみろ。おれはお前が可愛ければこそ、自分を殺してお前を生かさうとしてゐるのだ。そのお前を苦界に沈めて、俺がその金で樂々と生きてゐられるか。親の心、子知らずとはお前のことだ。あんまり腹が立つて涙も出ない。おれが奉公しろと云つたのは、たとひ水仕奉公にもしろ、眞直な正しい奉公をしろと云つたのだ。おれは死んでもどうなつても構はない、せめてお前だけは人間らしく生かして遣りたいと、苦勞してゐる俺の心がわからないか。
お妙  それはよく判つて居りますけれども、わたくしはどうしてもお父樣を見殺しにすることは出來ません。
鬼貫  どうしても身賣をするといふのか。(詰めよる。)
お妙  (恐れるやうに。)では、わたくしは思ひ切つて身賣を止めませう。
鬼貫  むゝ、止めるか。それが當りまへだ。
お妙  その代りお父さまも……。死ぬのを止めて下さいまし。
(鬼貫は默つてゐる。)
お妙  もし、この通りでございます。(手をあはせる。)
(鬼貫は矢はり考へてゐる。)
お妙  これほどに申しても聽いてくださらなければ、お父樣よりも先に、わたくしがいつそ死んでしまひます。
(お妙はそこにある脇差を取りて、縁先へ走り出る。鬼貫はおどろいて押へる。)
鬼貫  これ、飛んでもないことをするな。
お妙  いゝえ、死なせて下さいまし。
鬼貫  はて、判らない奴だ。
(二人はたがひに爭ふところへ、路通は枝折戸より入り來りて聲をかける。)
路通  あ、待つてくれ、待つてくれ。
(鬼貫とお炒はおどろいて見かへる。)
鬼貫  (咎めるやうに。)お前は誰だ。なにしに來た。
路通  (笑ふ。)さつき來た物貰ひだよ。
鬼貫  物貰ひ……。
(路通は頬冠りを取る。)
鬼貫  (透して視る。)や、路通か。
路通  久振りだな。
鬼貫  まつたく久振りだ。
路通  その久振りのお客樣が來たのだ。まあ、おちついて話さうではないか。
(路通は縁に腰をかける。鬼貫は早くその刃物を納めろと娘に眼で知らせる。不意の客來きやくらいにうろ/\してゐたお妙も一先づ刃物を鞘に納める。)
鬼貫  (なつかしげに。)なにしろ、久しく逢はなかつた。そこは寒い。まあ、こつちへあがつてくれ。
お妙  むさ苦しうございますが、どうぞお通り下さいまし。
鬼貫  (爐を指さす。)こゝには火がある。寒さ凌ぎに早くあたるが可い。
(お妙は立寄つて路通の菰をぬがせ、その雪を拂つて遣る。)
路通  いや、構つてくださるな。(鬼貫に。)なまじひ暖かい火などにあたると、却つてあとが寒い。宿無しはこゝで澤山だ。併しこゝらも隨分積つたな。(庭を見まはし、そこに落ちたる傘と包みとに眼をつける。)や、こゝに色々抛り出してある。
(傘と包みとを拾ひて縁に置く。お妙は會釋して受取る。)
鬼貫  (お妙に。)米を買つて來たのか。
お妙  はい。
鬼貫  丁度よい。青菜の粥でも焚いて、お客さまに御馳走しろよ。
お妙  はい、はい。
路通  それは何よりありがたい。久振りで御馳走にならうかな。
お妙  唯今すぐに支度を致します。(包みを持ちて奧に入る。)
(鬼貫は茶碗に湯を汲んで來て、路通のまへに置く。)
鬼貫  郡山で別れて以來だから、もう足かけ六年になる。そのあとはどうした。
路通  この通りだ。はゝゝゝゝゝ。
鬼貫  再び昔の姿になつたか。
路通  おれはこの姿で東海道の松原に寢てゐるところを、芭蕉のおきなに見つけられて弟子の一人に取立てられたが、人間並の生活くらしはおれの性にあはないと見えて、師匠にさんざん叱られた上に、二三年前から再び元の宿無しだ。乞食を三日すれば忘られないと云ふが、まつたくこの方が氣樂でいゝやうだよ。
鬼貫  さうかなあ。(考へる。)それでも生きてゐられるかなあ。
路通  この通り生きてゐるのが論より證據だ。しかし俺はおれで、おまへに俺の眞似は出來ない。かうして平氣で生きてゐられるのは、この路通ばかりだらうな。
鬼貫  (感心したやうに。)さうかも知れない。
路通  おまへは斯うして湯をくれたが、おれは滅多にこんなものを飮んだことはない。喉が渇けばすぐにこれだ。
(路通は庭の雪を手に掬つて飮む。)
鬼貫  腹の減ることはないか。
路通  あるな。一日に一度ぐらゐしか食はない時がある。方々のうちかどに立つても一文の錢だつて容易に惠んでくれるものではない。現にこゝの家でも斷られたからな。(笑ふ。)
鬼貫  それはお前と知らなかつたからだ。堪忍してくれ。
路通  斷られるのは馴れてゐるから、さのみ驚きもしなかつたが、どうも聞き覺えのある聲だと思つたからまた引返して來てみると、いや大變な騷ぎで、いくら無頓着のおれもこれには流石に驚いたよ。鬼貫といふほどの風流人が何うも無分別なことだな。
鬼貫  無分別と云はれても仕方がない。おれはもう切端詰つたのだ。
路通  それが無分別だといふのだ。切端詰つたと云つても、なんとか生きてゆく道もあるだらう。娘の方がおまへよりちつと利口のやうだ。
鬼貫  (少しく激して。)おれは自分の娘を賣つても生きてゐようとは思はないのだ。
路通  (笑ふ。)まあ、おちついて聽くがいゝ。誰がおまへの娘を賣れと云つた。おれはこの通りの獨り者だが、たとひ子供があつたにしても、その子供を賣り飛ばして金にするといふ無慈悲な料簡にはなれさうもない。おまへの心は俺にもよく判つてゐるよ。
鬼貫  おまへも察してくれるか。
路通  むゝ、察してゐる。そこで、おまへも命を捨てず、娘も身を賣らず、無事安穩に生きてゐられる智慧を授けてやらうと思ふのだが、どうだ、おれの云ふことをきくか。
鬼貫  おれも死なず、娘も身を賣らず。(疑ふやうに。)おまへにそんな智慧があるかな。
路通  あるから教へて遣らうといふのだ。一體おまへたち親子が死ぬるとか生きるとか騷いでゐるのも、つまりは食へないからのことだらう。
鬼貫  (うなづく。)まつたくその通りだ。よく/\のことだと思つてくれ。
路通  さあ、そこだ。おれは獨り者の上に、人間もほんたうに風流に出來てゐる。第一に乞食馴れてもゐるから、一日に一度ぐらゐしか飯を食はないこともある。いや、その一度も滿足に食へないやうなこともある。それでもつとも驚かないやうに仕込まれてゐるが、おまへ達は素人しろうとだ。唯の人間だ。腹の蟲が意氣地なく出來てゐるから、一度も飯を食はせないとすぐにぐう/\泣き出すといふ始末だ。おれならこの境涯で平氣でもゐられるが、お前たちには迚もその辛抱は出來まい。おまへ達に取つては腹の減るぐらゐ怖ろしいことはあるまい。そこで、おれが飯を食へることを教へてやる。親子ふたりが滿足に三度の飯さへ食へたら申分はない筈だ。
鬼貫  それは勿論だ。おれだつて別に榮耀や榮華がしたいと望むわけではない。たゞ無事に生きてゐられゝばいゝのだ。
路通  それには斯うするのだ。よく見ろ。
(路通は庭の雪の上に指にて書く。鬼貫は行燈を持ち出して、縁の上から覗く。)
鬼貫  (氣色を變へる。)なんだと思つたら飛んでもないことを……。貴樣はそれだから師匠にも破門されるのだ。痩せても枯れても俺も鬼貫だ。そんな馬鹿なことが出來ると思ふか。
路通  (平氣で。)それが惡いか。
鬼貫  善いか惡いか考へても判るではないか。實にどうも呆れた奴だ。そんな料簡だから貴樣は乞食の味が忘れられないのだ。もう貴樣とは口を利かないから、早く出て行け。
路通  (再び縁に腰をかける。)なにをそんなに怒るのだ。
鬼貫  えゝ、なんでもいゝから早く出て行け。さあ、出てゆけ。
(鬼貫は路通の腕をつかんで、縁より引卸ひきおろさうとする。)
路通  まあ、待つてくれ、待つてくれ。
(鬼貫は縁より下りて路通を引出さうとする。路通は雪のなかに倒れる。)
鬼貫  早くゆけ。宿無しの乞食野郎め。
(菰を取つて路通に投げつける。路通は頭から菰をすつぽりと被せられて倒れながらに高く笑ふ。)
路通  はゝゝゝゝゝ。さう無暗に腹を立つなよ。さういふ馬鹿固い料簡だから、大事の命を安つぽく捨てる氣にもなるのだ。
鬼貫  なんだ。(縁にある傘を把つて振りあげる。)
路通  (菰から顏を出す。)まあ、待てといふのに……。おれの云ふことがおまへにはよく呑込めないのだ。
鬼貫  えゝ、ちやんと判つてゐる。おれに芭蕉翁の僞筆を書けといふのだ。僞物を作れといふのだ。
路通  さうだ。さうだ。(雪の上に起き上る。)おれの師匠の芭蕉翁の短册は、廉くも二分や三分には賣れる。相手によつては二兩も三兩も出すかも知れない。ところが、その直筆の短册といふものが世間に少い。
鬼貫  それは俺も知つてゐる。
路通  おまへは能筆だ。武家の出だけに、字をかくことは確かに巧い。そのおまへが芭蕉翁の僞筆をかけば、誰でも屹と一杯食はされる。それ、どうだ。短册を一枚かけば、少くも二分や一兩にはなる。おまへの導引揉療治とは些と譯が違ふだらうぜ。
鬼貫  たとひ幾らにならうとも、人の僞筆をかいて金儲けをする。そんな曲つたことが出來ると思ふか。
路通  それではおまへはやつぱり飢死をする積りか。それとも可愛い娘を賣るつもりか。
(鬼貫は默つてゐる。)
路通  それともむざ/\娘を殺して、おまへも一緒に死ぬ積りか。
(鬼貫は矢はり默つてゐる。)
路通  どう考へても俺の指圖に附いた方が利口らしいな。あゝ、あんまり饒舌つたので喉が渇いて來た。(庭の雪を掬つて再び飮む。)
鬼貫  幾度云つても同じことだ。おまへのやうな人間を相手にしてはゐられない。頼むから歸つてくれ。(縁にあがる。)
路通  頼まなくてももう歸るよ。宿無しでも寢るところは何處にかある。久振りで俳諧の話でもしようと思つたら、とんだ喧嘩になつてしまつた。はゝゝゝゝゝ。
鬼貫  (少し考へる。)むかしのお前なら、昔の俺なら、かう云ふ雪のふる晩に、しんみりとした心持で、ゆつくり俳諧の話でも出來るのだがな。
路通  今だつて出來るのだが……。まあ、いゝや。これでお別れとしよう。(菰を被て手拭をかぶる。)たしか其角きかくの句にあつたな。「なき骸を笠にかくすや枯尾花」おれの姿もそれに似てゐるやうだな。
鬼貫  おれはあんまり好きではないが、江戸の其角はまつたく器用だな。
路通  些と小細工をするが、彼奴なか/\うまいことを云ふよ。
鬼貫  (釣り込まれて起つ。)おまへは此頃一句もないのか。
路通  このあひだの晩、長柄のどての下に寢てゐると、夜中に霜が眞白よ。(坐る。)おれも眼が醒めてびつくりした。そこでつい一句出來たのよ。
鬼貫  なんといふ句だ。(縁を降りる。)
路通  「隱れや寢覺めさらりと笹の霜」
鬼貫  「隱れ家や寢覺めさらりと笹の霜」むゝ、面白い、面白いな。(これも思はず雪の中に坐る。)いや、おれもこの間の朝、長柄の堤を通つて一句浮んだよ。
路通  やつぱり長柄の堤で出來たのか。して、その句は……。
鬼貫  「川越えて赤き足ゆく枯柳」
路通  なるほど。(うなづく。)赤き足ゆくが見つけ所だな。面白いな。
鬼貫  面白いか。
路通  面白い。かうして見ると、鬼貫はまだ殺したくないな。(笑ふ。)
鬼貫  死にたくないな。
路通  いくら喧嘩をしても、おまへと俺とはやつぱり友達だ。あゝ、久振りで面白かつた。(起ちあがる。)どれ、歸らうか。
鬼貫  もう歸るか。(これも起ち上る。)
路通  好鹽梅に雪も止んで、薄月が出たやうだ。
(路通は下の方へあゆみ去る。雪を照す月の光青し。鬼貫はあとを見送りて縁に腰をかける。)
鬼貫  おれは一圖に怒つたが、彼奴はやつぱり好いことを教へてくれたのかしら。
(鬼貫はぢつと考へてゐる。ばさ/\と雪の落ちる音して、竹藪の撓みし竹は雪をはね返して立つ。)
鬼貫  (見かへる。)おれも生きることを考へなければならないなあ。
(奧よりお妙出づ。)
お妙  (そこらを見て。)おや、お客樣は……。
鬼貫  お客はもう歸つた。
お妙  お粥がやうやく出來ましたのに、もうお歸りになりましたか。
鬼貫  さうだ、さうだ。むやみに腹を立てたので、粥のことをすつかり忘れてゐた。遠くは行くまい。追掛けて呼び戻して來てくれ。
お妙  はい、はい。
(お妙はすぐ庭に降りて行きかゝる。)
鬼貫  (よび止める。)これ、これ、路通に逢つたらばな。粥のことばかりでなく、まだ外にもお話がありますからと云つてな。
お妙  お話のこと……。
鬼貫  あの……。(少し小聲で。)短册のことだと云へばすぐに判る。
お妙  (不安らしく。)お父さま。
鬼貫  いゝから早く行つて來い。
お妙  はい、はい。
(お妙は出てゆく。鬼貫は彼の書置をひき裂きて爐に投げ込む。月の光あかるく、雪の竹の刎ねかへる音。)
――幕――





底本:「修禅寺物語 正雪の二代目 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年11月25日第1刷発行
   2008(平成20)年2月21日第7刷発行
初出:「現代」
   1921(大正10)年10月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2010年5月31日作成
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