源之助の一生

岡本綺堂




 田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。舞台に於ける経歴は諸新聞雑誌に報道されているから、ここにはいわない。どの人も筆を揃えて、江戸歌舞伎式の俳優の最後の一人であると伝えているが晩年の源之助は寄る年波と共に不遇の位地に置かれて、その本領をあまりに発揮していなかった。
 源之助が活動したのは明治時代の舞台で、大正以後の彼はほとんど惰力で生存していたかの感があった。したがって、今日彼を讚美している人々の大部分は、その活動時代をよく知らないように思われる。勿論、彼を悪くいう者はない。どの人も惜しい役者を失ったということに意見は一致しているらしいが、同じく惜まれるにしても、その真伎倆を知らずして惜まれるのは、当人の幸であるかどうか疑わしい。しかも前にいう通り、大正以後二十五年間は殆どその伎倆を完全に発揮する機会を封じられていたのであるから是非もない。
 彼は七十八歳の長寿を保ったので、子役時代からでは七十余年間の舞台を踏んでいたといわれる。その間で彼が活動したのは明治時代、ことにその光彩を放ったのは、明治十五年十一月、四代目沢村源之助を襲名して名題俳優の一人に昇進して以来、明治二十四年の七月、一旦いったん東京を去って大阪へ下るまでの十年間であった。即ち彼が二十四歳の冬より三十三歳の夏に至る若盛りであった。
 今日では劇界の情勢も変って、このくらいの年配の俳優は、いわゆる青年俳優として取扱われ、大舞台の上に十分活躍するの機会を恵まれない傾向があるが、明治の中期まではそんな事はなかった。青年俳優でも何でも相当の技倆ある者は大舞台に活躍する事を許されていた。その点に於て、青年時代の源之助は大いに恵まれていたともいい得るかも知れない。
 江戸末期より明治の初年にわたって、名女形として知られた八代目岩井半四郎は、明治十五年二月、五十四歳を以て世を去った。源之助がその年の冬、四代目源之助を襲名したのも、彼を以て半四郎の候補者とする劇場側の意図であったらしい。たとい半四郎には及ばずとも、その容貌も美しく、音声も美しい源之助が、半四郎の後継者と認められたのは当然であった。果してその後の彼はメキメキと昇進した。まだ二十代の青年俳優が団十郎、菊五郎、左団次らの諸名優を相手にして、事実上の立おやまに成り済ましたのである。
 その当時、他にも相当の女形がないではなかったが、源之助の人気は群を抜いていた。いわゆる伝法肌で気品のある役には不適当であるといわれたが、それでもあらゆる役々を引受けて、団菊左と同じ舞台に立っていた。その黄金時代は明治二十三年であった。
 二十三年の七月、市村座――その頃はまだ猿若町にあった――で黙阿弥作の『嶋鵆月白浪しまちどりつきのしらなみ』を上演した。新富座の初演以来、二回目の上演である。菊五郎の嶋蔵、左団次の千太は初演の通りで、団十郎欠勤のために、望月輝もちづきあきらの役は菊五郎が兼ねていた。ただひとり初演と違っているのは源之助の「弁天おてる」であった。この狂言の初演は明治十四年で、その当時は半四郎の「弁天おてる」に対して、源之助はその女中のおせいという役を勤めていたのであるが、今度は自分がおてるを勤めることになった。しかも世間がそれをあやしまないほどに、彼の技倆も名声も高まっていたのである。
 その年の十一月、歌舞伎座で『河内山』を上演した。これも再演で、団十郎の河内山、菊五郎の直次郎、左団次の市之丞、すべて初演同様の顔触れである中で、源之助は三千歳みちとせを勤めた。これも初演は半四郎の役であった。こういうわけで、半四郎歿後の半四郎は自然に源之助と決められてしまった。沢村源之助は東京の劇壇に欠くべからざる女形となった。人気の隆々たるこというまでもない。
 その東京をあとに見て、彼は翌二十四年の七月を限りに歌舞伎の舞台から姿をかくした。彼は大阪へ走るべく余儀なくされたのである。その当時の俳優組合規約によれば、大歌舞伎の俳優は小芝居へ出勤することを許されないにもかかわらず、彼は神田の三崎座の舞台開きに出勤したので、東京に身を置き兼ねる破目はめおちいったのである。彼が小芝居に出勤を敢てしたのは、ある芝居師に欺かれたためであるというが、所詮は借金のためであった。人気盛りの若い俳優の不検束な生活が、彼を借金の淵へ追い沈めたらしい。それを名残なごりに源之助の黄金時代は去った。
 一方からいえば、源之助は不運でもあった。大歌舞伎俳優の小芝居出勤問題は、その後にも種々の事件を惹起した末に、小芝居出勤も差支えなしという事に変更されたのである。源之助は四、五年早かったがために、この規約に触れて大阪落の身となったのは、その心柄とはいいながら一種の不運でないとはいえなかった。大阪へ下ってからも、勿論相当の位地を占めていたのであろうが、その消息は東京へ伝えられなかった。彼は元来、上方向きの俳優ではなかった。
 明治二十九年の十一月に彼は帰京した。最初は市村座に出勤し、次に歌舞伎座や明治座にも出勤したが、とかく一つ所に落付かないで、浅草公園の宮戸座等にもしばしば出勤していたので、自ずと自分の箔を落してなんだか大歌舞伎の俳優ではないように認められるようになった。大阪における五、六年間の舞台生活はどうであったか、私たちは一向知らないのであるが、帰京後の彼は団十郎や菊五郎の相手たるに適しなくなったらしい。団菊も彼を相手にするを好まず、彼も団菊の相手となるを喜ばず、両者の折合が付かなくなった上に、もうその頃は、中村福助(今の歌右衛門)が歌舞伎座の立おやまたるの位地を固め、尾上栄三郎(後の梅幸)も娘形として認められ、年増役には先代の坂東秀調しゅうちょうが控えているという形勢となっているので、帰り新参の源之助をるる余地もなかったのである。こうして、彼は次第に大歌舞伎からわるるような運命に陥った。
 今日、一部の劇通に讚美せらるる「女定九郎」や、「鬼神お松」や、「うわばみお由」や、「切られお富」のたぐいは、みなこれ宮戸座の舞台における源之助の置土産である。帰京以後の彼は、大歌舞伎の舞台に殆ど何らの足跡を残していない。
 彼が後半生の不振に就ては、大阪落が第一の原因をなしていること前記の如くである。更に有力の原因は、その芸風が明治末期の大劇場向きでないということに帰着するらしい。要するに、彼はあまりに江戸歌舞伎式の芸風であるために、明治の初年はともあれ、明治末期または大正昭和の大劇場には不向きの俳優となって仕舞ったらしい。前に挙げた「女定九郎」や、「鬼神お松」や、「うわばみお由」のたぐいは、大歌舞伎の出し物でない。しかも彼はそれらを得意としているのであるから、自然に大歌舞伎から遠ざかるのも無理はなかった。もう一つは、なんといっても大歌舞伎の楽屋は規則正しく、万事が窮屈である。彼はその窮屈をも好まなかったらしい。
 かつては自分の相手方であった団菊左の諸名優も相次いで凋落ちょうらくし、後輩の若い俳優らが時を得顔に跋扈ばっこしているのを見ると、彼はその仲間入りをするのを快く思わなかったかも知れない。むしろ宮戸座あたりの小芝居に立籠たてこもって、気楽に自分の好きな芝居を演じている方が、ましであると思っていたかも知れない。他人の眼からは不遇のように見えても、本人はそれに甘んじていたのかも知れない。
 しかも女形として五十の坂を越えると、彼も前途を考えなければならなかった。彼は大正の初年から松竹興行会社の専属となって、会社の命ずるままに働いていた。彼は幾何いくばくの給料を貰っていたか知らないが、舞台の上では定めて役不足もあったろうと察せられて、その全盛時代を知っている私たちには、さびしくいたましく感じられることも少くなかった。
 立役と違って、女形は年を取ってはいけませんと、梅幸は述懐していたが、源之助も女形であるために晩年の不遇が更に色濃く眺められたらしい。最近五、六年は舞台に出ているというも名ばかりで、あってもなくても好いような取扱いを受けていたが、彼は黙って勤めていた。いっそ隠退したらよかろうにと思われたが、やはり舞台に出ていることが好きであるのか、あるいは経済上の都合があるのか、彼はとうとうたおれるまで、舞台の人となっていた。
 盛者必衰は免かれ難い因果とはいいながら、団菊左の諸名優を相手にして、「弁天おてる」や三千歳を演じていた青年美貌の俳優が、こうした蕭条しょうじょうの終りを取ろうとは――。私も自分の影をかえりみて、暗い心持にならざるを得ない。





底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「読書感興」
   1936(昭和11)年7月号
初出:「読書感興」
   1936(昭和11)年7月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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