思い出草
岡本綺堂
一 赤蜻蛉
私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更に止まって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴の朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とは随分変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
江戸時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、更に拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が始めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだが、今では一坪二十銭以上、場所に依ては一坪四十銭と称している。
私が幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到る処に草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る。私の家の周囲にも秋の草花が一面に咲き乱れていて、姉と一所に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、所々に小さな池や溝川のようなものもあって、釣などをしている人も見えた。今日では郡部へ行っても、こんな風情は容易に見られまい。
蝉や蜻蛉も沢山にいた。蝙蝠の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮には、子供が草鞋を提げて、「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴の日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤蜻蛉がいわゆる雲霞の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩き落すと、五分か十分の間に忽ち数十疋の獲物があった。今日の子供は多寡が二疋三疋の赤蜻蛉を見付けて、珍らしそうに五人も六人もで追い廻している。
きょうは例の赤とんぼう日和であるが、殆ど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼前に泛んで、年ごとに栄えてゆくこの町がだんだんに詰らなくなって行くようにも感じた。
二 芸妓
有名なお鉄牡丹餅の店は、わたしの町内の角に存していたが、今は万屋という酒舗になっている。
その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目の裏町には芸妓屋もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮な町ではなかったらしい。
また、その頃のことで私が能く記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確に今の方がいい。下町は知らず、我々の住む山の手では、商家でも店でこそランプを用いたれ、奥の住居では大抵行灯を点していた。家に依ては、店頭にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯灯もない、電灯もない、軒ランプなども無論なかった。随って夜の暗いことは殆ど今の人の想像の及ばない位で、湯に行くにも提灯を持ってゆく。寄席に行くにも提灯を持ってゆく。加之に路が悪い。雪融けの時などには、夜は迂濶歩けない位であった。しかし今日のように追剥や出歯亀の噂などは甚だ稀であった。
遊芸の稽古所というものも著るしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今では殆ど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番唸ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿へ繰込む。かくの如くにして、江戸子は次第に亡びてゆく。浪花節の寄席が繁昌する。
半鐘の火の見梯子というものは、今は市中に跡を絶ったが、私の町内――二十二番地の角――にも高い梯子があった。ある年の秋、大風雨のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌る朝、私が行って見ると、梯子は根下から見事に折れて、その隣の垣を倒していた。その垣には烏瓜が真赤に熟して、蔓や葉が搦み合ったままで、長い梯子と共に横わっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関運漕店の旗竿が高く樹っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。
三 西郷星
かの西南戦役は、私の幼い頃のことで何にも知らないが、絵双紙屋の店に色々の戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで五銭位。また、その頃に流行った唄は、
「紅い帽子は兵隊さん、西郷に追われて、トッピキピーノピー。」
今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半に近所の人が皆起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音が聞える。父は鉄砲の音だという。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て「何でも竹橋内で騒動が起ったらしい。時々に流丸が飛んで来るから戸を閉めておけ」という。私は衾を被って蚊帳の中に小さくなっていると、暫らくしてパチパチの音も止んだ。これは近衛兵の一部が西南役の論功行賞に不平を懐いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
やはりその年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星が見えた。誰がいい出したか知らないが、これを西郷星と呼んで、先頃のハレー彗星のような騒ぎであった。終局には錦絵まで出来て、西郷・桐野・篠原らが雲の中に現れている図などが多かった。
また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙を着けて金モールと見せ、附髭をして西郷の如く拵らえ、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論、一種の玩具に過ぎないのであるが、何しろ西郷というのが呼物で、大繁昌であった。私なども母に強請んで幾度も買った。
その他にも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を喰っては毒だ」と叱られたので、買わずにしまった。
四 湯屋
湯屋の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗な姐さんが二、三人いた。
私が七歳か八歳の頃、叔父に連れられて一度その二階に上ったことがある。火鉢に大きな薬缶が掛けてあって、その傍には菓子の箱が列べてある。後に思えば例の三馬の『浮世風呂』をそのままで、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
時は丁度五月の始めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲を花瓶に挿していたのを記憶している。松平紀義のお茶の水事件で有名な御世梅お此という女も、かつてこの二階にいたということを、十幾年の後に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口というものがあって、夜などは湯烟が濛々として内は真暗。加之その風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の蹈段を登って這入る。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に『水滸伝』の花和尚と九紋龍、女湯の石榴口には例の西郷・桐野・篠原の画像が掲げられてあった。
男湯と女湯との間は硝子戸で見透すことが能た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
五 紙鳶
春風が吹くと、紙鳶を思い出す。暮の二十四、五日頃から春の七草、即ち小学校の冬季休業の間は、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばす我々少年軍に依て殆ど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来した位であった。暮の二十日頃になると、玩具屋駄菓子店等までが殆ど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人のような小屋掛の紙鳶屋が出来た。印半纏を着た威勢の好い若衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら、鳴弓を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙しい。その店には少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
紙鳶の種類も色々あったが、普通は字紙鳶、絵紙鳶、奴紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては小児には手が付けられなかった。二枚半以上の大紙鳶は、職人かもしくは大家の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供小供入り乱れて、到るところに糸を手繰る。またその間に、娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、戞々という羽子の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々。往来で迂濶に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
寒風に吹き晒されて、両手に胼を切らせて、紙鳶に日を暮した二十年前の小児は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻をして、帽子を被って、マントに包まって懐手をして、無意味にうろうろしている今の小児は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。
六 獅子舞
獅子というものも甚だ衰えた。今日でも来るには来るが、いわゆる一文獅子というものばかりで、本当の獅子舞は殆ど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞が来た。先ず一行数人、笛を吹く者、太皷を打つ者、鉦を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面を被って踊ったもので、中には頗る巧みに踊るのがあった。彼らは門口で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、色々の芸を演じた。球を投げて獅子の玉取などを演ずるのは、よほど至難い芸だとか聞いていた。
元園町には竹内さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れて色々の芸を演じさせ、この日に限って近所の小児を邸へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たというと、小児は雑煮の箸を投り出して皆な駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取毀されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのはその一部である。元園町は年ごとに栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで小児に見せてやろうなどという悠暢した人はだんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、一概に馬鹿だと罵られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を観るべくあまりに怜悧になった。
万歳は維新以後全く衰えたものと見えて、私の幼い頃にも已に昔の俤はなかった。
七 江戸の残党
明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう。頭には昔ながらの小さい髷を乗せて、小柄ではあるが、色白の小粋な男で、手甲脚袢の甲斐甲斐しい扮装をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇を持って、おでんやおでんやと呼んで来る。実に佳い声であった。
元園町でも相当の商売があって、わたしも度々買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと相互に挨拶する。子供心にも不思議に思って、だんだん聞いて見ると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗下八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだという。あの男も若い時には中々道楽者であったと、父が話した。なるほど何処かきりりとして小粋なところが、普通の商人とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人が沢山あった。これもそれと似寄の話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが父と一所に四谷へ納涼ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町の通りには幾軒の露店が出ていた。その間に莚を敷いて大道に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻に字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭をくれる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許かの銭を置いて行ったものである。
私らもその前に差懸ると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透して視た父は、一間ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ与ったらば直に駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭札はちと多過ぎると思ったが、いわるるままに札を掴んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否や一散に駈出して来た。これに就ては、父は何にも語らなかったが、恐らく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
この男を見た時に、『霜夜鐘』の芝居に出る六浦正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に対って「……………茶立虫」と書いていた。上の文字は記憶していないが、恐らく俳句を書いて居たのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫を書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
八 長唄の師匠
元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋お路久という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花さんというのが評判の美人であった。この界隈の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古に通った。三宅花圃女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃の虎列剌で死でしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家悉く離散して、その跡は今や坂川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳商、自然なる世の変化を示しているのも不思議である。
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