赤い杭

岡本綺堂




 場所の名は今あらはに云ひにくいが、これはあるカフヱーの主人の話である。ただしその主人とは前からの馴染なじみでも何でもない。去年の一月末のくもつたに、わたしはよんどころない義理で下町のある貸席へ顔を出すことになつた。そこにある社中の俳句会が開かれたのである。
 わたしは俳人でもなく、俳句の選をするといふがらでもないのであるが、どういふまはり合せか時々に引つ張り出されて、迷惑ながら一廉ひとかどの選者顔をして、机の前に坐らなければならないやうな破目はめに陥ることがある。今夜もやはりそれで、無理に狩り出されて山の手から下町まで出かけて来たのであるが、あひにくに今日きょうは昼間から陰つて底冷えがする。自分も二三日前から少しく風邪を引いたやうな心持がする。おまけに午後八時頃からいよ/\雨になつたので、わたしは諸君よりも一足先へ御免ごめんこうむることにして、十時近い頃にそこを出た。それから小半町こはんちょうもあるいて、電車の停留所にたどり着いたが、どうしたものか電車が一向いっこうに来ない。下町とはいひながら、雨のふりしきる寒いに、電車を待つ人の傘の影がみち一ぱいに重なり合つてゐるのを見ると、よほど前から電車は来ないらしい。
 困つたものだと思ひながら、わたしも寒い雨のなかにつ立つてゐると、電車はいつまでも来ない。電車ばかりか、意地悪く乗合自動車も来ない、円タクも来ない。はだん/\にけて来る。雨は小歇おやみなく降つてゐる。洋傘こうもりを持つてゐる手先は痛いやうにつめたくなつて来る。からだも何だか悪寒さむけがして来た。
『とても遣切やりきれない。茶でもまう。』
 かう思つて、わたしはすぐそばにある小さい珈琲店カフェー硝子戸がらすどをあけて這入はいつた。場合が場合であるから、どんなうちでもかまはない。もかくも家のなかへ這入つて、熱い紅茶の一杯もすすつて、当坐の寒さをしのがうと思つたのである。店は間口まぐちけんぐらゐのバラツクだてで、おもての見つきはよろしくなかつたが、内は案外に整頓してゐた。隅の方の椅子に腰をおろして、紅茶と菓子を註文すると、十六七の可愛かわいらしい娘が註文の品々を運んで来た。
 ほかには客も無い。わたしは黙つて茶をのみながら其処そこらを見まはすと、菓子や果物のほかに軽い食事も出来るらしいが、家内は夫婦と娘の三人きりで、主人が料理を一手に引受け、女房が勘定をあづかり、娘が給仕をするといふ役割で、他人まぜずに商売をしてゐるらしい。今夜のやうな晩はひまであるとみえて、主人はやがてコツク場から店の方へ出て来た。年はもう四十を五つ六つも越えてゐるであらう、背は高くないがふとつた男で、布袋ほていのやうな大きい腹を突き出して、無邪気さうににや/\笑ひながら挨拶した。
『お寒うございます。あひにくに又降り出しました。』
『困りますね。』と、わたしは表の雨の音に耳をかたむけながら云つた。
『まつたく困ります。旦那だんなは御近所でございますか。』
『いや、山の手で……。』
『そりや御遠方ごえんぽうで……。あひにく電車がつとも来ないやうですね。』
『それでいよ/\困つてゐるんですよ。』
『どうして来ないのかな。又どこかで人でもいたかな。』と、主人はすこし顔をしかめた。
 娘は気をかして表をのぞいてくれたが、電車はまだ来さうもないのであつた。
『まあ、ゆつくりなさいまし。表はお寒うございますから。』と、女房は愛想あいそうよく云つて、わたしの火鉢に炭を継いでくれたりした。
 主人もわたしに近い椅子に腰をおろして、打解うちとけたやうに話し出した。
『旦那は山の手ぢやあ、区画くかく整理にはおかかり合ひ無しですね。』
『いや、やつぱり震災にられたんですよ。』
『やあ、それはどうも……。まつたく御同様にひどい目に逢ひましたね。わたくし共なんぞもこの始末です。』と、かれは笑ひながら家中うちじゅうをみまはした。
しかしなか/\綺麗ぢやありませんか。』
『ご冗談を……。この通りのおおバラツクで、まるで見る影はありませんや。これでも震災前までは四間半しけんはん間口まぐちを張つて、少しは気の利いた西洋料理屋をつてゐたんですが、震災で何も型無かたなしになつて仕舞つたので、半分を隣のパン屋に貸して……。なに、前から知合ひの仲ですから、高い権利金なんぞ取りやあしません。そこで、奉公人は一切置かないことにして、内儀かみさんと娘と三人ぎりで、このごろ流行のカフヱーの真似事みたやうなことを始めて……。なにしろ店が小さいからろくな商売もありませんが、その代りには又気楽ですよ。それにしても、これぢやああんまり体裁ていさいが悪いから、もう少し何とか店附みせつきくしようと云つてゐるんですが、例の区画整理がまだ本当にまらないんでね。いや、一旦いったんはもうくいを打つたんですが、近所が去年焼けたもんですから、又なんだかごたいて……。一体どうなるんでせうかねえ。』
『この近所は焼けたんですか。』
 わたしも少しく顔をくもらせた。震災に焼かれてバラツクを建てゝ、それを又焼かれてはたまらない。まつたく踏んだりけったりの災難であると、わたしは我身にひきくらべて、心から気の毒に思つた。それを察したやうに、主人は首肯うなずいた。
『気の毒ですよ。いくらバラツクでろくな物はないと云つたつて、又焼かれちやあ助かりません。近所でもみんな泣いてゐましたよ。』
『よつぽど焼けたんですか。』と、わたしは又いた。
『えゝ、小一町こいっちょうばかり真四角に焼けてしまひました。』
『ぢやあ、このうちも……。』
『ところが、焼けない。どうも不思議で……。こゝのうちだけがつた一軒助かつたんです。』
『運が好かつたんですね。』
『運が好かつたんですよ。』と鸚鵡おうむがへしに答へながら、主人はすこし真面目になつた。『それがねえ、旦那。なんだかみょうなんですよ。まあ、お聴きください。御承知の通り、区画整理はどこでもおおごた付きで、なか/\容易に決着しません。こゝらも大揉おおもめに揉めたんですが、それでもまあうにかうにか折合が附いて……。なに、本当に附いたわけぢやあないが、まあ半分は泣寝入りの形で、みんなも虫を殺して往生することになつて、去年の九月に復興局の人たちが来て、竿さおを入れたり何かした揚句あげくに、どこでもするやうに赤い杭を打ち込んで行きました。こゝのうちも店さきを一間二尺ほど切り下げられるんださうで、両隣との庇間ひあわいへ杭を打たれたんです。たださへ狭くなつたところへ、こゝで又、奥行を一間二尺も切りちぢめられちやあ仕様しようがないが、それもまあ世間一統いっとうのことですから、わたしのうちばかりが苦情を云つても始まらないと、まああきらめてゐたんです。そこで、この一町内も門並かどなみに杭を打たれてしまふと、その月のお彼岸ひがんぎ――廿八にじゅうはち日の晩でした。
 その日は朝から急に涼風すずかぜが立つて、日が暮れるともう単衣ひとへもの[#ルビの「ひとへもの」はママ]では冷々ひやひやするくらゐでしたが、不思議なことにはその晩つともお客が無いんです。昼間はいつもの通りでしたが、燈火あかりがついてからは一人も来ないんです。こんなことも珍しい、陽気が急に涼しくなつたせゐかしらなぞと云つてゐました。そのくせ、表の往来はふだんの通りににぎやかいんですが、誰もこゝの店へ這入つて来るものが無い、みんな素通りです。定連じょうれんのやうに毎晩寄つてくれる近所の若い人たちも、今夜は湯帰りの湿手拭てぬぐいをぶら下げながら黙つて店の前を通り過ぎてしまふんです。わたしばかりぢやあない、うちのかみさんや娘たちも何だか寂しいやうな気がしたさうです。それでも商売ですから、宵から戸を閉めるわけにも行かないので、夜の更けるまであくびをしながら、ただぼんやりと店の番をしてゐると、もう十一時半頃でしたらうか、いつもは十二時まで店をあけて置くんですが、今夜は右の一件ですから、もうそろ/\閉めようかと思ひながら、わたしが表へ出てみると、こゝらの家ももう大抵は寝てしまつて、世間はしんとしてゐます。電車の往来もすくなくなつて、人通りは勿論少い。たゞ大空には皎々こうこうとした月がえ渡つて、もう夜霧が降りたのでせう、近所のトタン屋根やねも往来の地面も湿れたやうに白く光つてゐました。
 涼しいのを通り越して、なんだかうすら寒くなつて来たので、わたしは浴衣ゆかたえりをかき合はせながら内へ引込まうとする時、どつちの方から来たのか知りませんが、三人づれの男の客がつながつて這入つて来ました。みんな洋服を着た若い人ばかりで、二人は詰襟つめえり、ひとりは折襟……。帽子もみんな覚えてゐます、一人は麦藁むぎわら、ひとりは鳥打とりうち、ひとりは古ぼけた中折なかおれをかぶつてゐました。らつしやいと云ひながら好くると、どの人も覚えのある顔で、半月ほど前にこゝらへ来て、測量をしたり杭を打ち込んだりして行つた復興局の人達でしたから、わたしも商売柄、先日はご苦労様でしたとか何とか挨拶をして、さておあつらへをくと、サラダか何かのあつさりしたもので、ビールを飲ませろと云ふんです。宵から一人もお客が無かつたところへ、三人連れで来てくれたんですから、こつちも有難い。ことにこのあひだ中は随分世話を焼かせた復興局の人たちですから、かみさんや娘たちも精々お世辞をならべて、お誂へを運び出すと、三人ともに黙つて飲んでゐるばかりで、わたしの方から何か話しかけても、ろくに返事もしないんです。大分御ゆつくりでございますねと云つても、ただむゝと云ふばかり。これからどちらへかお出かけですかと冗談半分に訊いてみても、唯むゝと云ふばかり。このあひだは三人ながらんな威勢の好い人達ばかりだつたのに、今夜は揃ひも揃つて何だかむづかしい顔をして黙つてゐるのは、どういふわけかと思ひながら、わたし達も黙つて見てゐると、三人はビールを三杯づつ飲んで、またまだ飲ませろと云ふんです。
 こんな夜ふけに、復興局の人たちが三人揃つて何処どこをうろ付いてゐるのか。いや、若い人達ですから、うろ付いてゐるのに不思議は無いとしても、どの人もいやにむづかしい顔をして、たゞ黙つて飲んでばかりゐるのが少し気になりました。復興局をクビにでもなつて、自棄やけになつてそこらを飲みあるいてゐるんぢや無いかなどとも考へると、この人達にむやみに飲ませるのも何だか不安心なやうにも思はれましたが、まさかに註文を断るわけにも行かないので、その云ふ通りに飲ませると、大きいコツプでたうとう五杯づつ飲みました。それで別に酔つたらしい様子もみえないんです。そのうちに店の時計が十二時を打ちましたから、それをしおにそこらをそろ/\片附けはじめると、三人は気の毒だがもう少し飲ませてくれと云つて、それからそれへと又二杯、都合つごう七杯づつ飲みました。
 夜はけて来る、変なお客が黙つていつまでも飲んでゐる。勿論、こんなお客にもたび/\出逢つてゐますから、さのみ驚きもしませんが、今夜の三人は何だか薄気味が悪いやうに思はれて来たんです。かみさんや娘もやつぱりこわいやうな気がしたと云つてゐました。かうなると、お客もお荷物で、早く帰つてくれゝば好いと思つてゐると、表から又ひとりの客が這入つて来ました。痩せて背の高い男で、鼠色の立派な洋服を着て、やはり鼠色のヘルメツトのやうな帽子をかぶつてゐましたが、帽子を取ると髪の毛が銀のやうに白く光つてゐるのが眼につきました。前の三人はこの男をみると、一度に起ちあがつて叮嚀ていねいに挨拶する。その様子から考へると、この男は三人の上役らしいんです。お誂へを聞くと、なんにもらない、水を一杯くれろと云ふだけでした。
 男は水を飲んでしまつて、三人に眼で知らせると、三人はすぐに帰り仕度じたくをはじめました。さあ、これからがお話です。三人はわたしに向つて、実は持合はせがないから、今夜の勘定は明後日あさって晦日みそかまで貸してくれと云ふんです。大方そんなことぢやあないかと内々ないないあやぶんでゐたんですが、今更どうにも仕様がありません。無いといふものを無理に出せとも云はれず、ましてまんざららない顔でもないんですから、わたしも素直に承知して、ビール廿一杯にじゅういっぱいとハムサラダ三枚の勘定を貸してることにすると、みんなも喜んで出て行きました。さあお仕舞だと総がかりで店を片附けはじめると、娘が表をのぞいて又引返して来て、あの四人連れはまだ外に立つてゐると云ふんです。なにをしてゐるのかと、わたしもそっと覗いてみると、四人は明るい月の下に突つ立つて、なにか相談でもしてゐるらしいんです。そのうちに髪の白い男が真先まっさきに立つて、ほかの三人がそのあとに附いて、この町内の角を曲つて行きましたが、やがてにわとりが鳴き始めました。それも時を作るのぢやあない、物に驚いたやうに鳴いて騒ぎ出したんです。この町内には鶏を飼つてゐる家が三軒ばかりありますが、その鶏がみんな一度に騒ぎ出したので、わたしも少し変だと思つてゐると、そこらの犬もむやみに吠え出しました。
 よそのうちはもう寝静ねしずまつてゐるので、なんにもかないかも知れませんが、わたし達はどうも不安心でなりません。とりが騒ぐ、犬が吠える、もしや又大地震でも始まる前兆ぢやあないかなどと云つて、かみさんや娘は怖がります。わたしはもう一度、表へ出てみると、往来には一人も通らず、夜の更けるに連れて月がます/\冴えてゐるばかりです。にわとりや犬はまだ鳴いてゐる。その時、横町の薬屋の角から出て来た人の影があるので、よく見るとそれは今の四人連れで、この町内を四角に一廻ひとまわりして来たらしいんです。昼のうちに見廻ると、方々の店から出て来て色々の苦情をならべ立てるので、夜がけてからそっと見まはるのかも知れないと思つて、内へ這入つてその話をすると、かみさんも成程なるほどさうかも知れないと云つてゐました。まつたくこゝらでは、復興局の人をみると喧嘩腰けんかごしつてかゝるのが随分ありますから、一々相手になつてゐるのも面倒だと思つて、わざと夜ふけに見廻つてあるくと云ふことも無いとは云へません。たちの悪いのは、悪戯いたずら半分に一旦打ち込んだ杭を引つこ抜いて仕舞ふのも無いとは限りませんから、それで見廻つてゐるのかも知れないなぞとも思ひました。
 それで、表の戸をしめて内へ這入ると、犬や鶏はまだ鳴いてゐるんです。なんだか気になるが、どうにも仕様がない。大抵の地震が来たところで、このバラツクならば大して驚くこともないと多寡たかをくゝつて、わたしが真先に寝床へ転げ込むと、かみさんや娘も気味を悪がりながら寝てしまひました。そのうちに犬も鶏もぱつたり鳴き止んで、外はひつそりしずまつたやうでした。わたしは後生楽ごしょうらくの人間ですから、とこへ這入つたが最後、夜のあけるまで一息にぐつすり寝込んで、夜なかに何があつても知らない方ですから、その晩もいい心持こころもちに寝てしまつたんですが、あくる朝起きてみると、かみさんや娘がしきりに不思議がつてゐるんです。
 なにが不思議だと訊いてみると、店の横手の右と左とに打ち込んであつた区画整理の赤い杭を、誰かが引つこ抜いてしまつたと云ふんです。なるほど変だと段々しらべると、家のうしろに打ち込んだ杭も見えなくなつてゐる。近所はどうしたかと見てあるくと、ほかの家の杭はみんな元の通りになつてゐて、わたしの家のまはりの杭だけがなくなつて仕舞つたもんですから、こゝだけが赤い杭の外へこぼれ出して、朱引しゅびき外と云つたやうな形になつてゐるんです。ゆうべの人がしたんぢやないかと娘達は云ふんですが、なぜそんな事をしたのか判りません。なにしろ明日あした晦日みそかにはあの人達が勘定を払ひに来てくれるだらうから、そのときに訊いてみようと云ふことにして、先づそのまゝに打つちやつて置くと、あくる日の晦日になつても三人は姿を見せないんです。夜になつたら来るだらうと云つてゐたんですが、その夜が十時になり、十一時になり、十二時になつても、たうとう誰も来ない。おまけに寒い風が吹き出したので、思ひ切つて店を閉めて仕舞ひました。
 いつもの通りに店を片附けて、さあ寝ようかといふ時に、町内の犬や鶏が又むやみに鳴いて騒ぎ出しました。つゞいて火事だ火事だと怒鳴どなる声がきこえる。おどろいて表へ飛び出すと、町内の家具屋が燃えてゐるんです。あひにくに風があるので、火の手はまたたくひまに拡がつて、もううすることも出来ない。こゝの家へも火のが一面にかぶつて来るので、碌々ろくろくに荷物なぞを持ち出すひまも無しに、寝巻一枚で逃げ出すといふ始末。やれ、やれ、震災を又喰つたのかと、さすがのわたしもぼんやりして眺めてゐると、そのうちに消防の自動車もかけ付けて来ましたが、なにしろバラツクですから堪りません、それからそれへとぺら/\焼けて行つて、たうとうこの一町内を灰にして仕舞ひました。そこで不思議なことは、ねえ、旦那。そのなかで、この家だけは無事でした。門並かどなみ焼け落ちたなかで、この家だけはちやんと残つてゐたんです。どう考へても不思議ぢやありませんか。
 今もいふ通り、誰がしたのか知れませんが、うちのまはりの赤い杭を抜いてしまつて、こゝだけを朱引き外にして置くと、不思議に火の手が廻つて来なかつたんです。どうしてこゝだけが残つたのかと、誰でも不思議がらない者はありません。旦那はどうお思ひです。』
 この長い話を聞き終つて、わたしも思はず溜息ためいきをついた。
『それで、その復興局の人達といふのは其後に姿を見せないんですか。』
『それぎり一度も見えません。』と、主人は答へた。『勿論その晩の勘定はふいになつて仕舞つたんですが、晦日みそかの晩に払ひに来ると云つて、その晩が火事なんですからね。つまり私の方ぢやあビール廿一杯とハムサラダ三枚の勘定の代りに、家の焼けるのを助かつたと思やあ好いんですから、差引きをすりやあ有難いわけだと云つてゐるんですよ。ねえ、さうでせう。』
『そりやあたしかにさうだが……。』と、わたしはえかゝつた紅茶を一口飲んだ。
『旦那、お止しなさい。冷くなつてゐるでせう。』
 主人は娘に云ひつけて、熱い茶に換へさせた。
『その杭を抜いたと云ふのは、まつたく復興局の人達だらうか。』と、わたしは考へながら云つた。
『だつて、今もお話をするやうな訳ですからね。その人達がした事に相違あるまいと思はれるぢやありませんか。』と、主人は堅くそれを信じてゐるらしかつた。
『それにしても不思議だな。』
『だから、不思議だと云ふんですよ。このあひだも復興局の人が杭を打ち直しに来ましたが、みんならない顔ばかりなんです。いつか来た人たちはうしましたと訊いてみたんですが、今度の人は去年の暮頃から新しく這入つた人達ばかりで、前の人のことは何にも知らないと云ふんです。と云つて、復興局までわざ/\訊きに行くのも変ですから、まあそれぎりになつてゐるんですがね。まあ、そのうちには自然に判ることもありませう。』
 この時、電車が来ましたと娘が教へてくれたので、わたしは早々に勘定を払つて出た。振返つてみると、なるほど左右のバラツクはみな新しいなかに、この店だけはもう相当に古びてゐるのが、暗い雨のうちにもあきらかに認められた。





底本:「近代異妖篇 ――岡本綺堂読物集三」中公文庫、中央公論新社
   2013(平成25)年4月25日初版発行
底本の親本:「物語の法則 岡本綺堂と谷崎潤一郎」青蛙房
   2012(平成24)年6月
初出:「夕刊大阪新聞」
   1929(昭和4)年9月1日(推定)
※「鶏」に対するルビの「にわとり」と「とり」の混在は、底本通りです。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※表題は底本では、「赤いくい」となっています。
入力:江村秀之
校正:noriko saito
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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