春の雑誌に何か怪奇趣味の随筆めいたものを書けと命ぜられた。これは難題であると私は思った。
昔も今も新年は陽気なものである。お屠蘇の一杯も飲めば、大抵の弱虫も気が強くなって、さあ矢でも鉄砲でも幽霊でも化物でも何でも来いということになる。怖い物見たさが人間の本能であると云っても、屠蘇気分と新年気分とに圧倒されて、その本能も当分屏息の体である。その時、ミステリアスが何うの、グロテスクが何うのと云ったところで、恐らくまじめに受付けては呉れないであろう。同じグロならマグロの刺身でも持って来いぐらいに叱られるか、岡本もいよいよ老耄したなと笑われるか、二つに一つである。
初春の寄席の高坐で「牡丹燈籠」を口演する者はない。春芝居の舞台に「四谷怪談」を上演した例を知らない。そう考えると、全くこれは難題であると思ったが、一旦引受けた以上、今更逃げるわけにも行かない。私が若い時、狂歌の会に出席すると、席上で「春の化物」という題を出された。これも難題で頗る閉口したが、まあ我慢して左の二首を作った。
春雨にさす唐傘のろくろ首けらけらけらと笑ふ梅が香
執着は娑婆に残んの雪を出でて誰に恨をのべの若草
それでも高点の部に入って、いささか天狗の鼻を高くしたことがある。そこで、これから書く随筆まがいの物も、春は春らしく、前に掲げた狂歌程度で御免を蒙ろうと思う。百物語式の物凄い話は――と云っても、実はそんな怪談を沢山に知っているのでは無い。――秋の雨がそぼそぼと降って、遠寺の鐘がボーンと聞えて来るような時節までお預かりを願って置くことにしたい。執着は娑婆に残んの雪を出でて誰に恨をのべの若草
なんと云っても、怪談は支那が本場である。日本に伝来の怪談は畢竟わが国産ではなく、支那大陸からの輸入品が多い、就ては、先ず支那を中心として、日本と外国の怪奇談を少しく語りたい。
論語に「子は怪力乱神を語らず。」とある。この解釈に二様あって、普通は孔子が妖怪を信じないと云うように受取られているのであるが、又一説には、孔子は妖怪を語らないと云うに過ぎないのであって、妖怪を信じないと云うのではない。孔子も世に妖怪のあることを認めてはいるが、そんなことを
現にその孔子も妖怪に襲われている。衛にあるあいだに、ある夜その旅舎の庭に真黒な姿の怪しい物が現れたので、子路と子貢が庭に飛び降りて組み付いたが、敵はなかなかの曲者で、二人の手に負えない。そこで、孔子も燭を執って出て、そいつの鬚をつかめとか、胸を押えろとか指図した。それでようよう取押えてみると、怪物は巨大なる※[#「魚+弟」、U+9BB7、328-9]魚であったという。※[#「魚+弟」、U+9BB7、328-9]魚は鯰のような魚類であるらしい。大鯰はなんの為に化けて出たのか、相手を聖人と知ってか知らずか、それは勿論穿索の限りでないが、兎も角もこういう怪物が目前に出現した以上、孔子も妖怪を信じないわけには行かなかったであろう。こうなると、「語らず」は文字通りの「語らず」であって、「信ぜず」というのでは無いらしい。
唐の韓退之は仏教大反対で、聖人の道を極力主張したので有名の人物であるが、この韓退之も雪の降る夜、柳宗元等と一堂に集まって鬼神を論じていると、折から烈しい吹雪のなかに蛍のごとき火が点々と現れた。忽ちに千万点、それが一団の大きい火の玉となって室内に飛び込んで来て、そこらをくるくると舞っていたかと思うと、やがて一堂も揺らぐばかりの凄まじい響きをなして飛び去ったので、剛

そんなわけで、孔子を始めとして、その道を祖述した学者や識者も皆さまざまの怪異に出逢っているのであるから、一般の人間が妖怪を信ずるのも無理はない。東晋の
「捜神記」は古来有名の書であるから、今更わたしが改めて紹介するまでもないが、この書の特色というべきは妖を妖とし、怪を怪として記述するに留まって、支那一流の勧善懲悪や因果応報を説いていない所にある。総て理窟もなく、因縁もなく、単に怪奇の事実を蒐集してあるに過ぎない。そこに怪談の価値があるのであって、流石に支那の怪談の開祖と称してよい。唐の

清の紀暁嵐の「閲微草堂筆記」は有名の大著で、奇談怪談のたぐい三千余種を網羅し、斯界に新生面を拓いたと称せられているが、一方には宋儒の説を排撃し、又一方には例の勧懲主義を鼓吹するに急にして、肝腎の怪奇趣味を大いに減殺している感がある。それと同時代の作物で、袁随園の「子不語」もまた有名の大著である。世間一般の定評では、「子不語」を「閲微草堂筆記」の下位に置くようであるが、私などの観るところでは、「子不語」は怪談を怪談として記述するに留まって、前者のように種々の議論を加えていないのが却って良いと思う。怪談に理窟を附会するのは禁物である。宋の洪邁の大著「夷堅志」などにも殆ど理窟を説いていない。
以上の「閲微草堂筆記」や、「子不語」のたぐいは、時代が比較的に新しいので、文化文政度における我が作家連の眼に触れなかったらしく、翻案専門の曲亭馬琴などの作物にも全然借用されていない。しかも「捜神記」「酉陽雑爼」「夷堅志」の類になると、第一は六朝、次は唐、次は宋というのであるから、遠い昔から我国に輸入されて、
更に下って江戸時代の初期になると、元禄前後から享保前後に亘る五、六十年間は、実に怪談全盛時代と云うべきであって、出版がまだ完全に発達しない時代であるにも拘らず、多数の怪奇談集が続々発行され、西鶴や団水の諸家は皆その方面にも筆を染めている。しかもその大部分は例の「捜神記」や「酉陽雑爼」のたぐいの翻案で、どこの国の何という村に起った出来事であるなどと、まざまざしく書いてあっても、大抵は作り話であること云うまでもない。作り話も創作でなく、その多くは翻案である。わが国に創作の怪談は少い。
前にも云うごとく、更に文化文政度まで下って来ると、本家の馬琴を始めとして、その他の作家の小説類にも、なにかの怪談を取入れてあるが、それが矢はり翻案であるのは、少しく支那の小説筆記類を読んだ者の悉く知る所である。したがって、日本人の怪奇趣味は支那趣味を多量に含んでいるものと思わなければならない。
春の化物に理窟や考証めいたことは無用である。ここは好加減に切上げて話題を他に転向することにする。
デフォーの書いた「ヴヰール夫人の亡霊」は千七百五年九月八日の正午十二時に、カンタベリーに住むバーグレーヴ夫人を訪問したのである。意外の事を「白昼の幽霊」というが、これは確に白昼の幽霊である。筆者のデフォーもそれが事実であることを強調し、一般の読者もそれを事実談として信じ来ったのであるが、今日ではそれが作り話であると云うことになった。デフォーが某書店に頼まれて、フランスの神学者の著書を宣伝するために書いたのだと云うのである。デフォー先生もそんなインチキを遣ったのかと、私も少々意外に感じているのであるが、兎も角もヴィール夫人の訪問が正午十二時とあるからは、真昼間に幽霊が出現したと云っても、事実談として他人を信用させることが出来たらしい。
しかし外国でも白昼の幽霊は少い。幽霊は夜陰に出現するものであると云うのが一般の常識になっている。日本でも幽霊は暗い時、暗い処にぼんやりと現れるものに決められているようである。ところが、支那の幽霊はそうでない。白昼公然と現れるのは一向に珍しくない。中には従者を大勢引連れて、馬や輿で堂々と乗込んで来るものもあるから偉い。いや、まだ物騒な話がある。これは諸種の随筆中に記載されていて、支那では有名な話と見えるから、左に紹介する。
ある人が城内の町を通ると、旧僕の李という男に出逢った。互いに懐かしく思って、そこらの酒店へ立寄って一緒に飲みはじめた。それまでは好かったが、その人が不図思い出したのは、旧僕の李は疾うに死んだと云うことである。さあ、大変だと、彼は形をあらためて訊いた。
「どうも不思議だな。お前はもう死んでしまった筈だが……。」
「はい。十年前に死にました。」
「そうすると、おまえは幽霊か。」
「左様です。」と、李は笑いながら答えた。「しかしびっくりなさるには及びません。幽霊だって自由に娑婆へ出て来られます。私のような幽霊はそこらに幾らも歩いていますよ。」
「それがお前に判るか。」
「判ります。現にここの店にも一人います。普通の人間には判りますまいが、わたくしが観れば、それが生きている人か幽霊か、すぐに見分けられます。まあ、表へ出て御覧なさい。」
こうなると一種の好奇心も手伝って、彼は李と共に往来へ出た。時は白昼で、町は賑わっている。その混雑のあいだを通り抜けながら、李は摺れ違う人を指さして小声で教えた。
「あの男も幽霊です、あの女も……。」
およそ七、八町を行くあいだに、李は男女十人あまりを教えたので、その人は顫えあがった。早々に李に別れて帰ったが、その後は人ごみへ出るのが怖ろしくなって、昼も滅多に外出しなかったという。
これでは全く怖ろしい。迂濶に銀ブラも出来ないことになる。カフェーへ這入れば女給の幽霊あり、デパートへ這入ればマネキンの幽霊あり、それが普通の人間の眼には見分けられないと云うのでは物騒千万である。この奇怪なる報道が一たび新聞紙上にでも現れたら、銀ブラ党も定めて大恐慌を来すであろうが、驚く勿れ、それは支那の話である。
なにしろこう云ったようなわけで、支那の幽霊は白昼雑沓のなかを横行濶歩しているのである。いかに彼等が大胆であり、勇敢であり、明朗であるかが窺い知られるではないか。それに比較すると、日本の幽霊や外国の幽霊は、小胆で卑怯で陰鬱で、彼が男性的英雄的であるに反して、これは女性的小人的である。国際連盟の席上に幽霊を連れ出せば、支那は優に世界列強を懾伏せしめ得るに相違あるまい。
もう一つ、日本の幽霊の弱点は足の無いことである。支那は勿論、外国の幽霊にも立派に二本の足がある。不幸にして日本の幽霊は足が無い。いや、日本の幽霊も昔は足があって、憎い奴を蹴殺した例もあるのであるが、江戸時代に丸山応挙などという不心得の画家が現れて、おのれ一個の功名を擅ままにする為に、腰から下をぼかしたような幽霊を描き出したのが抑も間違いの始まりで、我が幽霊は胴斬りの様な片輪者にされて仕舞ったのである。恨みがあらば応挙に云え。なぜその当時の幽霊達がこの残酷なる画家を執殺さなかったかと思う。或はこの方が自分達の凄味を加えるのに好都合だと考えて、執殺すどころか、却って画家に感謝していたかも知れない。
支那や外国の幽霊は暗夜に無灯で出没する。それが幽霊の特権であろうと思われるのに、日本の幽霊は警視庁令を守る自転車乗りの如くに必ず灯火を携帯する。外国でも燐光は飛ぶ。支那でも古沼や墓場には燐火が見られる。現に鬼火とか鬼燐とかいう言葉もあるくらいで、詩人は「陰房鬼火青」などと歌っているが、その鬼火は幽霊に伴って出るものとは考えられていない。鬼火が幽霊の提灯代用になるのは、日本独特のものであるらしい。日本の幽霊も室内に現れる場合には鬼火を伴わず、室外又は往来の暗い所で専ら鬼火を照すのを見ると、確に提灯代用であるに相違ない。
日本の伝説によると、狐狸妖怪のたぐいは暗夜でもその姿を見せるという。それであるから、暗夜の途上で行人に出逢った場合、暗中でその容貌衣服等を認め得るものは、妖怪であると鑑定して差支えないと云うことになっている。
こういうわけで、外国や支那の幽霊は千古不易(?)であるにも拘らず、日本の幽霊界は江戸時代に一種の革命を経て、総ての様式を改めたものと認められる。したがって、江戸中期以後の幽霊を標準として、その以前の幽霊を揣摩臆測してはならない。我国といえども、昔の幽霊は支那式であったことを記憶して置く必要がある。その点に於て三遊亭円朝作の「牡丹燈籠」の幽霊が鬼火を照らさずして牡丹燈籠をたずさえ、而も駒下駄の音をカランコロンと響かせて来るなどは、支那小説の翻案によるとは云え、明かに復古趣味であるとも云い得るのである。
*
幽霊はここらで消えることにしよう。
傘持たで幽霊消ゆる時雨かな
幽霊も時雨に逢っては堪らないと見える。夕立に逢ったらいよいよ驚くであろうと思いやられて「化ける」とか「化かす」とか云うことになると、我国では狐と狸を代表的の妖怪変化と決定するに異論はあるまい。古いところでは姐己の狐で、日本では三国伝来九尾の狐などと云っているが、本家本元の支那では姐己の狐を認めていない。支那の学者の考証によると、正しい記録に狐妖を書してあるのは、秦の終りに
外国にはウエヤー・ウルフ即ち人狼の伝説であって、今でも僻遠の山村などでは信憑されている。昼間は普通の人間であって、夜間は変じて狼となり、墓地などを荒らし廻って新しい死人の肉を喰うと云うのである。而も狐が化けるという話を聞かない。それに反して、支那や日本では狐は化けるものと決められている。狐が男に化け、美女に化けたという話は、支那では多きに堪えない位である。無智の支那人のあいだには、狐は普通の獣類でなく、人類と獣類との中間に位する一種の霊ある動物であって、千歳を経れば狐仙となり得ると信じられている。
狐や狸が人を化かすというのは、その動物電気に因るので[#「因るので」は底本では「困るので」]あると説明されているが、まあそんな事にでもして置くのほかはあるまい。私の叔父にこんな話がある。江戸末期に、私の父と叔父は上総の富津の台場お固めを命ぜられて出張していた。その当時、父は二十七歳、叔父は二十一歳であったという。そこで、ある初夏の日の午後、藤井とかいう同役と、父と叔父と三人連れで、富津の村へ遊びに出た。そこの小料理屋で飲んで食って、日の暮れかかる頃に帰って来ると、その途中に長い田圃路がある。そこを通りかかると、叔父は兎角によろよろして田の中に踏み込もうとする。最初は酔っているのだと思っていたが、幾たび注意しても田の方へよろけて行くのである。そのうちに、連れの藤井が何を見たか俄に叫んだ。
「畜生、化かしたな。」
見ると、田を隔てた向うの大樹の下に、一匹の狐がいる。狐は右の前足をあげて、恰も招くような真似をしているのである。叔父はそれに招かれて、よろけて行くらしい。それに気が注いて、父も畜生と呶鳴った。それと同時に、刀を抜いて高く振りかざすと、狐は早々に逃げ去った。その後は叔父もよろけなくなった。曩によろけている間は、むやみに眠気を催したそうである。狐が人を化かすと伝えられるのは、こう云うたぐいであろうと、父は常に語っていた。
河獺もいたずら者である。普通の人は狐や狸を眼のかたきにしているが、他国は知らず、江戸辺では狐狸よりも河獺の方が妖物であったように聞いている。今日ではだんだんに埋められ、或は狭ばめられて仕舞ったが、江戸時代には郡部は勿論、市内にも所々に小川や大溝があった。河獺はそこに巣を作っていて、或は附近の人家を襲い、或は往来の人々をおびやかした。彼は不意に往来の人に飛び付き、或は雨傘の上に飛びあがる。それに脅かされた人々は、その正体をよくも見定めずに種々の怪談を伝えた。江戸市内に流布する怪談の種を洗うと河獺の仕業が多いという。これも父の話であるが、虎の門の内藤藩士福嶋某が雨のふる夜に虎の門を通行すると、暗い中から真黒な小僧のような者が飛んで出て、突然に横合からその腰に組み付いたので、福嶋は小僧の襟首を引っ掴んで力任せに地面へ投げ付けると、彼は低く走って堀のなかへ水音高く飛び込んだ。これも大きい河獺に相違ないと、福嶋は人に語ったそうである。
次は猫である。化け猫という一つの熟語が出来ているくらいに、猫の化けるのは有名であって、尾上菊五郎の家の芸にまでなっているが、十二ひとえ姿の官女に化けたり、絞りの浴衣を着て踊ったりするのを、実地に見たという人は無いようである。猫が手拭をかぶって踊ると伝えられるのは、彼がその頭にからんだ手拭を払い退けようとする前足の働きが、恰も踊るように見えるからであろう。猫が立って歩くのは事実で、私も一度目撃したことがある。
それは今から三十年ほど前のことで、その頃わたしは麹町元園町に住んでいたが、八月なかばの暑い夜で何分にも寝苦しいので、午前一時頃に起きて庭に出て、更に門の外に出た。私の家は表通りから五、六間引込んだ袋地のような所にあって、狭い路が往来に通じている。その狭い路のまん中に、一匹の猫が立っているのである。私は立ちどまって、月明りに窃と窺っていると、猫は長い尾を曳いて往来の方へ向って歩いてゆく。後足二本と長い尾との三脚によって、体の中心を取っているらしい。それで徐かに歩いてゆくこと五、六歩、やがて背後に窺う人あるのを覚ったのであろう。私の方を鳥渡見返ったかと思うと、忽ち常の姿勢に復って、飛鳥のごとくに走り去った。それは表通りの氷屋の飼猫であるらしかった。
あくる朝、私は氷屋の店をのぞくと、猫は腰掛けの上に何げなく遊んでいた。而もそれから一月程の後、猫はゆくえ不明になった。立って歩く姿を私に見られた為でもあるまいが、彼女は遂に戻って来なかったそうである。猫の尾を長くして置くと化けるという伝説は、猫が尾の力によって突っ立ち上る為であろう。前にもいう通り、後足二本と長い尾との三脚によれば、猫の立ち上るのも不思議では無い訳であるが、実際にその立って歩く姿を目撃すると余り気味の好いものではない。
猫ばかりでなく、鼬も立つ。しかも彼は後足で真直に立って、右の前足を眼の上にかざして人を見る。これを昔から、「鼬が
こんなことを話していると際限がないから、ここらで幽霊を消すことにして、あとは春らしく賑かに、