歴史小説の老大家T先生を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話をいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人にも逢いたくなった。T先生のお宅を出たのは午後三時頃で、赤坂の大通りでは仕事師が家々のまえに
「もう
こう思うと、わたしのような
「どうなすった。この頃しばらく見えませんでしたね」
老人はいつも元気よく笑っていた。
「実はこれから伺おうかと思ったんですが、歳の暮にお邪魔をしても悪いと思って……」
「なあに、わたくしはどうせ隠居の身分です。盆も暮も正月もあるもんですか。あなたの方さえ御用がなけりゃあ、ちょっと寄っていらっしゃい」
渡りに舟というのは全くこの事であった。わたしは遠慮なしにそのあとについて行くと、老人は先に立って格子をあけた。
「
私はいつもの六畳に通された。それから又いつもの通りに
「ちょうど今頃でしたね。京橋の和泉屋で素人芝居のあったのは……」と、老人は思い出したように云った。
「なんです。しろうと芝居がどうしたんです」
「その時に一と騒動持ち上がりましてね。その時には私も少し頭を痛めましたよ。あれは確か安政
安政五年の暮は案外にあたたかい日が四、五日つづいた。半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のお
「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」
女中と一緒に台所で働いていた女房のお仙はにっこりしながら振り向いた。
「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。大変に早く、どうしたの」
「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」と、お粂はうしろをちょっと見返った。「さあ、おはいんなさいよ」
お粂の蔭にはまだ一人の女がしょんぼりと立っていた。女は三十七八の粋な
「あの、お前さん、どうぞこちらへ」
たすきをはずして
「これはおかみさんでございますか。わたくしは下谷に居ります文字清と申します者で、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります」
「いいえ、どう致しまして。お粂こそ年が行きませんから、さぞ御厄介になりましょう」
この間にお粂は奥へはいって又出て来た。文字清という女は彼女に案内されて、神経の
「兄さん。早速ですが、この文字清さんがお前さんに折り入って頼みたいことがあると云うんですがね」
お粂は仔細ありそうに、この蒼ざめた女を
「むむ。そうか」と、半七は女の方に向き直った。「もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、伺って見ようじゃありませんか」
「だしぬけに伺いましてまことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押し掛けに伺いましたような訳で……」と、文字清は畳に手を突いた。「お聞き及びでございましょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」
「そう、そう。飛んだ間違いがあったそうですね」
和泉屋の事件というのは半七も聞いて知っていた。和泉屋の家じゅうが芝居気ちがいで、歳の暮には近所の人たちや出入りの者共をあつめて、歳忘れの素人芝居を催すのが年々の例であった。今年も十九日の夕方から幕をあけた。それはすこぶる大がかりのもので、奥座敷を三
今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の
舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。幾分はお
併しこの歓楽のさざめきは忽ち哀愁の涙に変った。角太郎の勘平が腹を切ると
角太郎は舞台の顔をそのままで医師の手当てをうけた。蒼白く
きょうはその翌日である。
併しこの文字清と和泉屋とのあいだに、どんな関係が結び付けられているのか、それは半七にも想像が付かなかった。
「そのことに就いて、文字清さんが大変に
文字清の蒼い顔には涙が一ぱいに流れ落ちた。
「親分。どうぞ
「かたき……。誰の仇を……」
「わたくしの
半七は
「和泉屋の若旦那は、師匠、おまえさんの子かい」と、半七は不思議そうに訊いた。
「はい」
「ふうむ。そりゃあ初めて聞いた。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあないんだね」
「角太郎はわたくしの伜でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが仲橋の近所でやはり常磐津の師匠をして居りますと、和泉屋の旦那が時々遊びに来まして、自然まあそのお世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を産みました。それが今度亡くなりました角太郎で……」
「じゃあ、その男の子を和泉屋で引き取ったんだね」
「左様でございます。和泉屋のおかみさんが其の事を聞きまして、丁度こっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたいと……。わたくしも手放すのは
文字清は畳に食いつくようにして、声を立てて泣き出した。
「へええ。そんな
「はい、判って居ります。おかみさんが殺したに相違ございません」
「おかみさんが……。まあ落ち着いて訳を聞かしておくんなせえ。若旦那を殺すほどならば、最初から自分の方へ引き取りもしめえと思うが……」
訊く人の無智を
「角太郎が和泉屋へ貰われてから五年目に、今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。お照といって今年十五になります。ねえ、親分。おかみさんの
和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は
文字清は無論、和泉屋のおかみさんを我が子のかたきと
「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」
彼女は次第に神経が
「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。
「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。お
「そりゃあ知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」
文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って
「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。
「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」
半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをするわけには行かなかった。彼は
「これから何処へ行ったものだろう」
往来に立って思案しているうちに、半七はうしろから自分を追い掛けて来た人のあるのに気がついた。それは五十以上の町人風の男で、悪い生活の人ではないということは一と目にも知られた。男は半七のそばへ来て丁寧に挨拶した。
「まことに失礼でございますが、お前さんは神田の親分さんじゃあございますまいか。わたくしは芝の
「ようございます。お
十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこらにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえの
「親分もお役目柄でもう何もかも御承知でございましょうが、和泉屋の伜も飛んだことになりまして……。実はわたくしは和泉屋の女房の兄でございます。今度のことに就きまして、死んだ者は今さら致し方もございませんが、さて其の後の評判でございますが……。人の口はまことにうるさいもので、妹もたいへん心配して居りますので……」
十右衛門は思い余ったように云った。角太郎の変死については生みの母の文字清ばかりでなく、その秘密を薄々知っている出入りの者のうちには、やはり同じような疑いの眼の光りをおかみさんの上に投げている者もあるらしい。十右衛門はそれを苦に病んで、きょうも町内の鳶頭のところへ相談に行ったのであった。
「どうして本身の刀と掏り替っていたか、内々それを調べて貰いたいと存じまして……。万一つまらない噂などを立てられますと、妹が実に可哀そうでございます。兄の口から
文字清も気違いになりかかっている。和泉屋のおかみさんも気違いになるかも知れないと云う。文字清の話がほんとうであるか、十右衛門の話がいつわりであるか。さすがの半七にも容易に判断がつかなかった。
「芝居の晩にはおまえさんも無論見物に行っておいでになったんでしょうね」と、半七は
「はい。見物して居りました」
「楽屋には大勢詰めていたんでしょうね」
「なにしろ楽屋が狭うございまして、八畳に十人ばかり、離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、ほかに手伝いが大勢で、おまけに衣裳やら
「なるほど」
半七は殆ど猪口をそのままにして腕を
「若旦那は八畳にいたんですか、四畳半の方ですか」
「四畳半の方におりました。庄八、長次郎、和吉という店の者と一緒に居りました。庄八は衣裳の手伝いをして、長次郎は湯や茶の世話をしていたようでした。和吉は役者でございまして、千崎弥五郎を勤めて居りました」
「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ」と、半七は訊いた。
碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。
「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」
「それは内々きまって居りますので」と、十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は
この恋物語に半七は耳をかたむけた。
「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」
「年は十七で、品川の者です」
「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」
「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」
「なるたけ早いがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」
「承知いたしました」
二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。
十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。
「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。
「いいえ、
十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。
女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌でつづけて飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の
「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頬を撫でた。
「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。
そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか
「親分。大丈夫ですか」
十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。
「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。
しかし、まさかに裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。
「すぐにお冬どんに逢わしてください」
裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人の
「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。
縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は鬢も隠れるほどに
十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが
衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめて
お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもう
「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。
「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」
半七はうなずいた。
「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ、からだを大事にするが好いぜ。それから大和屋の旦那、お店の方へちょいと御案内を願えますまいか」
「はい、はい」
十右衛門は先に立って店へ出て行った。半七はよろけながら付いて行った。さっきの酔いがだんだん発したと見えて、彼の頬はいよいよ
「旦那。店の方はこれでみんなお揃いなんですか」と半七は帳場から店の先をずらりと見渡した。四十以上の大番頭が帳場に坐って、その傍に二人の若い番頭が
「はい。丁度みんな揃っているようでございます」と、十右衛門は帳場の火鉢のまえに坐った。
半七は店のまん中にどっかりと
「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは、
店の者はみんな顔をみあわせた。十右衛門も少し慌てた。
「もし、親分。まあ、お静かに……。この通り往来に近うございますから」
「誰に聞えたって構うもんか。どうせ引廻しの出る
何をいうにも相手が悪い、しかも酒には酔っている。手の着けようがないので、ただ黙って聴いていると、半七は調子に乗って又
「だが、おれに取っちゃあ仕合わせだ。ここで主殺しの
十右衛門は堪まらなくなって、半七の傍へおずおず寄って来た。
「もし、親分。おまえさん大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間へ対して、まことに迷惑いたしますから。おい、和吉。親分を奥へ御案内申して……」
「はい」と、和吉はふるえながら半七の手を取ろうとすると、彼は横っ面をゆがむほどに
「ええ、うるせえ。何をしやがるんだ。てめえ達のような磔刑野郎のお世話になるんじゃねえ。やい、やい、なんで
この恐ろしい刑罰の説明を聴くに堪えないように、十右衛門は顔をしかめた。和吉も真っ蒼になった。ほかの者もみな息を
冬の空は青々と晴れて、表の往来には明るい日のひかりが満ちていた。
半七はとうとうそこに酔い倒れてしまった。店の真ん中に寝そべっていられては甚だ迷惑だとは思ったが、誰も
「まあ、仕方がない。ちっとの間、そうして置くが好い」
十右衛門は奥へはいって、主人夫婦と何か話していた。店のものは思い思いに自分の受け持ちの用向きに取りかかった。やがて
「ああ、酔った。台所へ行って水でも飲んで来よう。なに、おかまいなさるな。わっしが自分で行きます」
半七は台所へ行かずにまっすぐに奥へまわった。中庭の縁からひらりと飛び降りて、大きい南天の葉の蔭に蛙のように腹這って隠れていた。それから少し間を置いて、和吉の姿がおなじくこの縁先にあらわれた。彼は抜き足をしながら四畳半の障子の前に忍び寄って、内の様子を窺っているらしかった。やがて彼がそっと障子をあけた時、南天の蔭から半七が顔を出した。
障子の内では男のうるんだ声がきこえた。その声があまりに低いので、半七にはよく聴き取れなかった。しまいには焦れったくなったので、彼はそろそろと隠れ場所から抜け出して、泥坊猫のように縁に這い上がった。
和吉の声はやはり低かった。しかも涙にふるえているらしかった。
「ねえ。今も云う通りのわけで、わたしは若旦那を殺した。それもみんなお前が恋しいからだ。わたしは一度も口に出したことはなかったが、とうからお前に
彼が死んだような顔をして身をおののかしているのが、障子の外からも想像された。和吉は鼻をつまらせながら又語りつづけた。
「岡っ引は店へ来て、酔っ払っている振りをして、主殺しがこの店にいると呶鳴った。そうして、当てつけらしく
声はいよいよ陰って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のすすり泣きをする声もおりおりに聞えた。
それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。
「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。
「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」
「いえ、なに。だが、外へでも出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」
小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所にも見えないと云った。
「それから大和屋の旦那はまだおいでですか」と、半七はまた訊いた。
「へえ。大和屋の旦那はまだ奥にお話をしていらっしゃいますようで……」
「わたしがちょっとお目にかかりたいと、そう云ってくれませんか」
襖を閉め切った奥の居間には、主人夫婦と十右衛門とが長火鉢を取り巻いて、昼でも薄暗い空気のなかに何かひそひそ相談をしていた。おかみさんは四十前後の人品の好い女で、眉のあとの薄いひたいを陰らせていた。半七はその席へ案内された。
「もし、旦那。若旦那のかたきは知れました」と、半七は小声で云った。
「え」と、こっちへ向いた三人の眼は一度に輝いた。
「お店の人間ですよ」
「店の者……」と、十右衛門は一と膝乗り出して来た。「じゃあ、さっきお前さんがあんなことを云ったのはほんとうなんですか」
「酔った振りしてさんざん失礼なことを申し上げましたが、
「和吉が……」
三人は半信半疑の眼を見あわせているところへ、女中の一人があわただしく
「首を縊るか、川へはいるか、いずれそんなことだろうと思っていました」と、半七は溜息をついた。「さっき大和屋の旦那からいろいろのお話を伺っているうちに、若旦那とお冬どんのことが耳に止まりました。それから芝居のときに若旦那と同じ部屋にいたという和吉のことが気になりました。若旦那とお冬どんと和吉と、この三人を結びつけると、どうしても何か色恋のもつれがあるらしく思われましたから、まずお冬どんに逢ってそれとなく訊いて見ますと、和吉が親切にたびたび見舞に来てくれるという。いよいよおかしいと思いましたから、店へ行ってわざと聞けがしに呶鳴りました。大和屋の旦那はさぞ乱暴なやつだとも
三人は
「半七さん。いや、恐れ入りました」と、十右衛門は先ず口を切った。「科人を縛るのがお前さんのお役でありながら、自分の手柄を捨ててこの家の暖簾に疵を付けまいとして下すった。そのお礼はなんと申していいか、それに甘えてもう一つのお願いは、どうかこれを表向きにしないで、和吉は飽くまでも乱心ということにして……」
「よろしゅうございます。親御さんや御親類の身になったら、
「重ね重ねありがとうございます」
「だが、旦那、このことは無論内分にいたしますが、江戸中にたった一人、正直に云って聞かせなけりゃあならない者がございますから、それだけは最初からお断わり申して置きます」と、半七は男らしく云った。
「江戸じゅうに一人」と、十右衛門は不思議そうな顔をした。
「この席じゃあちっと申しにくいことですが、下谷にいる文字清という常磐津の師匠です」
和泉屋の夫婦は顔をみあわせた。
「あの女も今度のことについては、いろいろ勘違いをしているようですから、
半七にしみじみ云われて、おかみさんは泣き出した。
「まったくわたしが行き届きませんでした。あしたにも早速たずねて行って、これからは
「すっかり暗くなりました」
半七老人は起って頭の上の電燈をひねった。
「お冬はその後も和泉屋に奉公していまして、それから大和屋の
和泉屋は妹娘のお照に婿を取りましたが、この婿がなかなか働き者で、江戸が東京になると同時に、すばやく商売替えをして、時計屋になりまして、今でも山の手で立派に営業しています。むかしの縁で、わたくしも時々遊びに行きますよ。
八笑人でもお馴染みの通り、江戸時代には素人のお座敷狂言や茶番がはやりまして、それには忠臣蔵の五段目六段目がよく出たものでした。衣裳や道具がむずかしくない