一
「いつも云うことですが、わたくし共の方には陽気なお話や面白いお話は少ない」と、半七老人は笑った。
「なにかお正月らしい話をしろと云われても、サアそれはと行き詰まってしまいます。それでも時時におかしいような話はあります。もちろん寄席の落語を聴くように、頭から仕舞いまでげらげら笑っているようなものはありません。まあ、その話に
いわゆる思い出し笑いと云うのであろう。まだ話し出さない前から、老人は自分ひとりでくすくすと笑い出した。なんだか判らないが、それに釣り込まれて私も笑った。正月はじめの寒い宵で、表には
その鈴の音を聴きながら、老人はまだ笑っていた。すこし
「そこで、そのおかしい話というのは、どんな一件ですか」
「つまり、物が
その起こりは安政元年四月二十三日、夜の五ツ(午後八時)少し前の出来事で、日本橋
これは最初から仕組んだことで、破牢をするための馴れ合い喧嘩でした。さてはと気が付いて、役人たちが追っかけたが、もう遅い。どれも身の軽い奴らで、牢屋の塀を乗り越して、首尾よく逃げおおせてしまいました。旧暦の二十三日の闇の晩を狙ってやった仕事ですから、おあつらえ向きに行ったわけです。
逃げた奴はみんな
その頃、芝口に三河屋甚五郎、俗に三甚と呼ばれた御用聞きがありました。親父の甚五郎はなかなか親切気のある男で、わたくしなぞも何かに付けて世話になったことがありましたが、甚五郎は三年前に死にまして、今は伜が二代目の甚五郎を継いでいる。この二代目はまだ二十一で、年も若し、腕も未熟、つまりは先代の看板で三甚の株を譲り受けていると云うだけのことですから、八丁堀の旦那衆のあいだにも信用が薄い。親の代から出入りの子分は相当にあるのですが、その子分にも余り腕利きがいない。尤も大抵の子分は親分次第のもので、親分がしっかりしていないと、子分も働きにくいものです。
そんなわけで、御用聞き仲間でも三甚はもう
前にも申す通り、二代目の甚五郎、年も若く腕も未熟ですが、小粋な柄行きで男っ振りも悪くない。岡っ引なんていうものは、とかくいやな眼付きをして、なんだかぎすぎすした人間が多いのですが、この甚五郎は商売柄に似合わず、人柄がおとなしやかに出来ている。親父の株があるので、
すると、或る日のこと、この神明のあたりを地廻りのようにごろ付いている千次という奴がさつきの帳場へ来て、幾らか
金蔵もなかなか
いわゆる
そんなわけで、三甚は本石町の金蔵を召捕って、自分の器量をあげた代りに、なんと無くその一件が気にかかって、死罪か遠島か、早く埒が明いてくれればいいと、心ひそかに祈っている。ましてさつきのおふくろや娘は、ひどくそれを気にかけて、万一かの金蔵が仕返しにでも来たら大変だと心配している。そのうちに伝馬町の牢破り一件が起こって、その六人のなかに本石町無宿の金蔵もまじっていると云うのを聞いて、甚五郎もひやりとしました。牢をぬけて何処へ行ったか知らないが、なんどき仕返しに来ないとも限らない。それを思うと、いよいよ
こっちは役目で罪人を召捕るのですから、それを一々恨まれてはたまらない。罪人の方でもそれを承知していますから、こっちが特別に無理な事でもしない限り、どんな悪党でも捕り手を怨むということはありません。したがって、捕り手に対して仕返しをするなどという例は滅多にない。それは三甚も承知している筈ですが、気の弱い男だけに、なんだか寝ざめが好くない。しかし仮りにも二代目の三甚と名乗っている以上、子分の手前に対しても弱い顔は出来ませんから、自分ひとりの
二
この「捕物帳」を読みつづけている人々は定めて記憶しているであろう。この年の四月、半七はかの『正雪の絵馬』の探索に取りかかっていたのである。そのあいだに、この牢破りの一件が
「親分。どうしますね」と、子分の亀吉が訊いた。
「重い軽いを云えば、こっちは牢抜けの重罪で、絵馬の一件とは一つにならねえ」と、半七は云った。「しかし、伝馬町の方はおれ一人に云い付けられた御用じゃあねえ。江戸じゅうの御用聞きがみんなで働く仕事だ。絵馬の方はおれ一人が受け合った仕事だから、この方を先ず片付けなけりゃあなるめえと思う。就いては、おめえと幸次郎は相変らず絵馬の方を働いてくれ。伝馬町の方は松吉や善八に頼むとしよう」
二つの事件が同時に起こるのは珍らしくないので、半七はそれぞれに受け持ちを決めて働かせることになった。半七は双方掛け持ちであるが、一方の『正雪の絵馬』の一件は已に紹介したのであるから、話の筋の混雑するのをおそれて、ここにはいっさい省略し、専ら牢破りの一件に就いて語ることにする。
五月はじめの朝である。半七は町内の湯屋へ行って、
「おまえさん。この方がさっきから待っておいでなすったんですよ」と、お仙は彼女を半七に紹介した。そうして、その土産だという
「初めましてお目にかかります」と、女は丁寧に挨拶した。「わたくしは神明前のさつきでございます」
その名を聞いて、半七はすぐに思い当たった。彼女はさつきのお
「おかみさんも忙がしいだろうに、朝から何か急用でも
「早朝からお邪魔に出ましたのは、ほかでもございません。親分も定めて御承知でございましょうが、先月の二十三日に伝馬町の牢抜けがございましたそうで……。それに付きまして、少々お知恵を拝借に出ましたのでございますが……」
「牢抜けは知っていますが、それがどうかしましたかえ」
「実は……」と、お力は少しく渋りながら云い出した。「その牢抜けのなかに
その金蔵の仕返しをお力親子は恐れているのであった。召捕りの手引きをした千次も、金蔵が
「金蔵というのはどんな奴だか知らねえが、牢抜けをした以上は我が身が大事だ。いつまでも江戸にうかうかしちゃあいられめえ。きっと
「ところがお前さん」と、お力は顔をしかめながらささやいた。「千次さんのお友達が西の久保の切通しで、金蔵に似た奴の姿をちらりと見たそうで……。あいつが近所をうろ付いているようじゃあ大変だと云うので、千次さんも早々にどこへか隠れてしまったのでございます」
「それにしても、おまえさんの家にまで仕返しに来ることはあるめえ。金蔵は行き合い捕りになっているのだから、お前さんの家に係り合いはねえ筈だ」
「わたくしの家へは来ないかもしれませんが、もしや三甚さんの方へでも来るようなことがあると大変だと申して、娘は泣いて騒いで居りますので……」
娘に泣いて騒がれて、お力は三甚の保護を頼みに来たのである。その親心を察しながらも、半七はいったん断わった。
「これが堅気の素人なら、なんとか相談に乗ることもあるが、たとい年は若いにしろ、三甚も一人前の御用聞きだ。
「それはもう仰しゃる通りでございますが……」と、お力は云いにくそうに答えた。「その子分衆も此の頃は頼りにならないような人が多いので……」
先代の歿後三年のあいだに、古顔の子分が二人もつづけて死んだ。腕利きの子分二、三人は若い親分を見捨ててほかの親分の手に移ってしまった。残っている子分に余り頼もしい者は少ない。さきごろ金蔵を召捕ったのも、彼がしたたかに酔っていたからで、もしも
それにしても本人の甚五郎が頼みに来たのならば格別、表向きは他人のさつきの女房に頼まれて迂闊に差し出たことは出来ないので、半七は飽くまでも断わった。そんな事をすれば三甚の顔を
それを見送って、お仙は気の毒そうに云った。
「三甚さんも困ったものですね」
「色男、金と力はなかりけりと、昔から相場は決まっているが、岡っ引の色男なんぞはどうもいけねえ。おれ達の商売はやっぱりかたき役に限るな」と、半七は笑った。
「三甚のお父さんには世話になった事もありますからねえ」
「むむ、三甚の先代にゃあ世話になったこともある。ただ笑って見物してばかりもいられねえが、そうかといって無闇に差し出たことも出来ねえ。まったく困ったものだ」
何のかのと云うものの、誰かの手で金蔵らを挙げてしまえば論は無いのである。人相書が廻っている以上、遅かれ早かれ網にかかるものとは察しているが、それまでの間に何事もなければいいと、半七は思った。しかし前にも云う通り、科人が捕り手に対して仕返しをするなどということは滅多に無いのであるから、恐らく今度も無事に済むであろうと、彼も
雨は二、三日降りつづいた。一方の『正雪の絵馬』の一件はとかくに
「よく降りますね」
「いくら商売でも、降ると出這入りが不便でいけねえ」と、半七はうっとうしそうに云った。
「大木戸の方はどうなりました」
「どうも眼鼻が付かねえで困っている。そこで、どうだ、こっちの一件は……」
「伝馬町の牢抜けは二人挙げられました」
「誰と誰だ」
「二本松の惣吉と川下村の松之助です」
金蔵の名がないので、半七は失望した。
「この二人は中仙道を落ちるつもりで板橋まで踏み出したが、路用がねえ。そこらを四、五日うろ付いた揚げ句に、宗慶寺という寺へはいって、住職と
「ほかの奴らのゆくえは知れねえのか」
「二人の申し立てによると、六人は牢屋敷の外へ出ると、すぐにばらばらになってしまったので、誰がどっちへ行ったか知らねえと云うのです。惣吉と松之助だけがひと組になって、本郷から板橋の方向へ行ったのだそうで……。旦那方もずいぶん厳重に調べたようですが、二人はまったく知らねえらしいのです」
「それじゃあ、ちっとも手がかり無しか」と、半七は溜め息をついた。
「そうですよ」と、松吉はうなずいた。「残る四人のうちで、兼吉と勝五郎はどうしたか判らねえが、藤吉と金蔵は牢内にいる時から仲が好かったから、この二人は繋がっているかも知れねえと云うことです。松之助の申し立てによると、金蔵はこんなことを云っていたそうです。おれは江戸に恨みのある奴があるから、そいつに意趣返しをした上でなけりゃあ高飛びは出来ねえと……」
「意趣返しをする」
「それがね、親分」と、松吉はささやいた。「どうも三甚を狙っているらしいのです。金蔵は妙なところへ
「悪党らしくもねえ、未練な奴だな」と、半七は舌打ちした。「そう聞くと、さつきの女房の話も嘘じゃああるめえ。金蔵に似た奴が西の久保の切通し辺をうろ付いているのを見た者があるそうだ」
「藤吉も一緒でしょうか」
「それは判らねえが、ひょっとすると藤吉に助太刀をたのんで、何をするか判らねえ。三甚も
半七も
「おれが出しゃばるのも好くねえが、年の若けえ三甚だけじゃあ何だか不安心だ。あしたは芝口へ出かけて行って、なんとか知恵を貸してやろう。ここでうまく金蔵を召捕りゃあ三甚も二度の手柄になるというものだ」
三
その明くる朝は雨も止んだが、まだ降り足らないような空模様であるので、半七は邪魔になる雨傘を持って芝口へ出向いた。
三甚の家は江戸屋という絵草紙屋の横町の左側で、前には井戸がある。その格子をあけて案内を乞うと、内から若い子分が出て来た。こちらではその子分の顔を識らなかったが、相手は半七を見識っていて丁寧に挨拶した。
「三河町さんでございますか。まあ、どうぞこちらへ」
「親分は内かえ」
「へえ」と、子分はあいまいに答えた。
その応対の声を聞いて、またひとりの子分が出て来た。それは石松といって、半七の家へも二、三度は顔を見せた男であった。
「親分にちょいと逢いてえのだが……」と、半七はかさねて云った。
「へえ」と、石松もなんだかあいまいな返事をして、若い子分と顔をみあわせていた。
「留守かえ」
「へえ」
「どこへ出かけた。御用かえ」
「いいえ」
なにを訊いてもぬらりくらりとしているので、半七は入口に腰をおろした。
「おめえ達も知っているだろうが、先月の二十三日に牢抜けをした奴がある。その事について少し話してえのだが、親分が留守じゃあ仕様がねえ。いつごろ帰るか判らねえかね」
「へえ。実は町内の人に誘われまして……」と、石松はもじもじしながら云った。「
「成程ここは
「きのうの朝、立ちました」
「それじゃあすぐには帰るめえ」
「帰りは富士川下りだと云っていました」
「ことしの正月に、石町の金蔵を捕りに行ったのは、誰だね」と、半七は訊いた。
「あのときに親分と一緒に行ったのは、駒吉とわたくしです」と、石松は答えた。
「金蔵というのはどんな奴だ」
「三十二、三で色のあさ黒い、痩せぎすな奴です。屋根の上の商売をしていただけに、身の軽い奴だそうで、番屋に連れて行かれた時にも、おれは酔っていたから手めえ達につかまったのだ。屋根の上へ一度飛びあがりゃあ、それからそれへと屋根づたいに江戸じゅうを逃げて見せるなんて、大きなことを云っていました」
その捕物の前後の話などを聞いて、半七は一旦ここを出ると、傘はいよいよお荷物になって、薄い月影が洩れて来た。ここまで来たついでに神明前をたずねてみようと、彼は雨あがりのぬかるみを踏んで、さつきの
「じゃあ、どうしてもいけねえと云うのかえ」
内の返事はきこえなかったが、男は
「じゃあ仕方がねえ、この先き、何事が起こっても俺あ知らねえ。その時になって恨みなさんな」
暖簾をくぐって出る男の前に、半七は立ち塞がった。
「兄い。ちょいと待ってくれ」
「誰だ、おめえは……」と、男は眼を三角にして半七を睨んだ。
「おめえは千次さんじゃあねえか」
「ひとの名を訊く前に、自分の名を云え。それが礼儀だ」
「礼儀咎めをされちゃあ名乗らねえわけにも行かねえ。わっしは三河町の半七だ」
半七と聞いて、男は俄かに顔の色をやわらげた。彼は
「やあ、三河町の親分でしたか。お見それ申して、飛んだ失礼をいたしました。わっしは神明の千次でごぜえます」
「そうらしいと思った。まあ、こっちへ来てくれ」
半七は彼を引っ張って、五、六間さきの質屋の土蔵の前へ連れ出した。千次はなんだか落ち着かないような顔をしていたが、それでも素直に付いて来た。
「今聞いていりゃあ、おめえはさつきの帳場で何だか大きな声をしていたじゃあねえか。喧嘩でもしたのかえ」
「おまえさんに聞かれるとは知らねえで……」と、千次は頭をかいた。「どうかまあお聞き流しを願います」
彼がどんなことを云っていたのか、半七は実は知らないのであるが、いい加減にばつをあわせて云った。
「むむ、どうもおめえの方がよくねえようだな」
「相済みません。どうぞ御勘弁を願います」と、千次は又あやまった。
見たところ彼はそれほど悪党でもなく、
「ただ御勘弁と云っても、むむ、そうかとばかりも云っていられねえ。どうも此の頃はおめえの評判がよくねえからな。ともかくもそこらの番屋まで来て貰おうか」
嚇されて、千次はいよいよ慌てた。
「親分、いけねえ。番屋へ連れて行って、どうするのです」
「どうするものか。都合によっちゃあ帰さねえかも知れねえ」
「わっしは悪い事をしやあしません。これでもお上の御用を勤めたこともあるので……」
「御用を勤めたというのは、石町の金蔵を指したことを云うのか」と、半七はまた笑った。「それはおれも知っているが、今あのさつきへ行って何を云ったのだ。おれはみんな知っているぞ」
「恐れ入りました」
「恐れ入ったら、もう一度ここで正直に云え。さもなけりゃ番屋へ連れて行って云わせるぞ」
多寡が近所の矢場や小料理屋を
おそらく女房もおどろいて、あとから呼び戻すだろうと思いのほか、相手は平気ですましているらしく、自分が却って半七に捉まったのである。よくよく運の悪い彼は、ただ恐れ入って
「そこで、おめえは金蔵の居どころを知っているのか」と、半七は疑うように訊いた。
「実は、その……」と、千次は再び頭をかいた。金蔵を仕返しによこすなどと云ったのは当座のでたらめで、彼も実は金蔵のありかを知らないと云った。
「三甚が身延まいりに行ったというのは、本当か」と、半七はまた訊いた。
「いや、嘘だと思います」と、千次はすぐに答えた。「わっしも今朝から訊いて歩いたのですが、ここらの講中で身延へ行った者はありません。三甚も身延へ行ったなんて、どっかに隠れているのだろうと思います」
「なぜ隠れているのだ」
「親分の前ですが、二代目の三甚は気の弱い方ですから、金蔵が出て来たのを聞いて、まあ差しあたりは姿を隠したのだろうと思います。さつきの女房がひどく気を揉んでいたそうですから、その入れ知恵でどっかに隠れたのでしょう。その証拠には、さつきの娘も此の頃は
「馬鹿を云え」と、半七はわざと叱り付けた。「いくら年が若くっても、三甚はお上の御用聞きだ。牢ぬけを怖がって、逃げ隠れをする奴があるものか」
「へえ」と、千次はよんどころなしに口をつぐんだ。
「世間へ行って、そんなでたらめを
「へえ」と、千次はいよいよ恐れ入った。
「だが、千次」と、半七は声をやわらげた。「三甚のことはともかくも、牢抜けの金蔵は人相書のまわったお尋ね者だ。おれもこれから踏み込んで探索をしなけりゃあならねえ。何か聞き込んだら教えてくれ。そこらで一杯飲ませるのだが、おれは急ぎの用があるから、まあこれで勘弁して貰おう。骨折り賃は別に出すよ」
さしあたり二
千次に別れて、半七はさつきの
四
表向きは千次を叱ったものの、三甚の身延まいりは少し怪しいと半七も思った。さつきへ行ってお力を詮議すると、果たして彼女の
「困る事をさせるじゃあねえか。そんなことが八丁堀の旦那衆に知れてみろ。三甚は株を摺ってしまうぜ。子分たちも揃っていながら、何のことだ。そうして、どこへ行っているのだ」
「実は、高田馬場の近所へ……」と、お力は答えた。「白井屋という小料理屋にわたくしの妹が縁付いて居りますので、一時そこへ頼んで置きました」
「娘も一緒かえ」
「はい」
「御用聞きが女をつれて逃げ隠れをしている。飛んだ色男だ」と、半七はまた舌打ちした。「そんなことが長引いていると、三甚の為にならねえ。早く埒を明けてしまいてえものだ」
「何分よろしく願います」
ここで女房を叱ったところで、どうにもならないので、半七は怱々にここを出た。それから京橋へ用達しに廻って、七ツ(午後四時)頃に神田の家へ帰ると、やがて善八が来て、牢抜けが又ひとり挙げられたと報告した。それは矢場村無宿の勝五郎で、小石川蓮華坂の裏長屋に忍んでいたのである。これで惣吉、松之助、勝五郎の三人は召捕られ、残るは兼吉、藤吉、金蔵の三人である。兼吉と藤吉はともあれ、金蔵のありかが知れない限りは、半七も肩抜けにならないように思われた。『正雪の絵馬』も埒が明かない。『吉良の脇指』も片付かない。そこへ又この一件が湧いて来たので、物に馴れている半七も少しうっとうしくなって来た。
こう思って、半七はその翌日、高田馬場へ出向いた。きょうは朝から晴れて暑くなったが、ここらに多い植木屋の庭が見渡すかぎり青葉に埋められているのを、半七はこころよく眺めた。馬場に近いところには、小料理屋や掛茶屋がある。流れの早い小川を前にして、入口に小さい藤棚を吊ってあるのが白井屋と知られたので、半七は構わずに店にはいると、若い女中が奥の小座敷へ案内した。
「おかみさんはいるかえ」
「おかみさんは
それでは御亭主を呼んでくれと云うと、三十七、八の男が出て来た。
「いらっしゃいまし。俄か天気でお暑くなりました」と、彼は丁寧に挨拶した。
「早速だが、わたしは神明前のさつきから教えられて来たのだが……」
「はい」と、亭主は半七の顔をじっと視た。
「こっちにさつきの娘のお浜さんが来ているだろうね」
「いいえ」
「芝口の三甚の若親分が来ているだろうね」
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。神明前のお力さんから頼まれて、確かにここの
「おまえさんのお名前は……」
「わたしは神田三河町の半七という者だ」
「折角でございますが、手前方には誰も預かって居りませんので」
「ここは白井屋だろう」
「左様でございます」
「さつきの親類だろう」
「左様でございます」
「娘も三甚もここへは来ていねえと云うのだね」
「はい」
「いけねえな」と、半七も
亭主はまだ躊躇しているらしいので、半七は畳みかけて云った。
「おれが斯うして身分を明かしても、おめえは飽くまでも隠し立てをするのか。おれもここまでわざわざ踏み出して来た以上、おめえ達に化かされて素直に帰るのじゃねえ。家探しをしても三甚に逢って行くから、そう思ってくれ」
半七の声が少し高くなった時、女中のひとりが来て、亭主を縁側へ呼び出した。ちょっと御免くださいと
それと入れ違いに、ほかの女中が酒肴の膳を運んで来た。
「旦那は唯今すぐに参ります」
彼女も逃げるように立ち去った。亭主も一旦はシラを切ったものの、やがて三甚を連れて来るのであろうと想像しながら、手酌でぼんやり飲んでいると、そこらの森では早い蝉の声がきこえた。
それから小半時を過ぎたかと思われるのに、亭主は再び顔を見せなかった。女中も寄り付かなかった。一本の徳利はとうに
出入りの多い客商売であるから、
退屈凌ぎに庭下駄を突っかけて、半七は池のほとりに降り立った。大きい柳に
「御用だ。神妙にしろ」
半七はおどろいた。
「おい、いけねえ。人違げえだ」
云ううちに又ひとりが現われて、これも半七に組み付いた。
「違うよ、違うよ」と、半七はまた呶鳴った。
「なにを云やあがる。御用だ、御用だ」
二人は無二無三に半七を
「おい、違うよ、違うよ。おれは半七だ、三河町の半七だ」
「ふざけるな。人相書がちゃんと廻っているのだ」と、二人は承知しなかった。
ひとりに
「馬鹿野郎、明きめくら……。人違げえを知らねえか」
いくら呶鳴っても、相手は
「ざまあ見やがれ」と、男のひとりは勝ち誇るように云った。
「おれたちに汗を掻かせやがって……。この野郎、引っぱたくから、そう思え」と、他のひとりも罵った。
引っぱたかれては堪らないので、半七も素直にあやまった。
「まあ、堪忍してくれ。神妙にするよ」
「そんなら、なぜ始めから神妙にしねえ。どうで首のねえ奴だ。生きているうちに、ちっと痛てえ思いをして置け」と、一人がまた罵った。
「首のねえ奴……。一体おれを誰だと思っているのだ」
「知れたことだ。石町無宿の金蔵よ」
半七は
五
半七を縛ったのは、ここらを縄張りにしている戸塚の市蔵の子分らであった。神田と戸塚と
さつきの女房の云った通り、この白井屋ではお浜と甚五郎を預かっていたのであるが、きのうの夕方、戸塚の市蔵の子分が来て、牢抜けの金蔵が此の頃ここらに立ち廻っているという噂がある。ここの家は客商売であるから、金蔵のような奴がはいり込まないとは限らない。それらしい奴を見たらばすぐに内通しろと云って、彼の人相書を見せて行った。それを聞いて、白井屋では心配した。
金蔵はなんの為にここらを徘徊しているのか。もし三甚のあとを
もう一つ、間違いの種となったのは、半七と金蔵とが年頃といい、人相や格好までが可なりに似通っていることであった。その時代の人相書などは極めて不完全なものであるから、疑いの眼をもって見れば、鷺を烏と見誤るようなことが無いとは云えなかった。雑司ヶ谷から帰って来た白井屋の女房は、
市蔵がすぐに出て来れば、もちろん何の間違いも起こらなかったのであるが、市蔵も留守、古参の子分も留守、そこに居合わせた若い子分二人があっぱれの功名手柄をあらわすつもりで、すぐに駈けつけて来た。相手は牢抜けの大物であると云うので、場馴れない彼等は少しく
数ある捕物のうちには、人違いの仕損じもしばしばある。しかも同商売の岡っ引を縛って
「馬鹿野郎」と、彼は子分を叱りつけた。「飛んだ事をしやがる。早く縄を解け」
半七の縄はすぐに解かれた。事の仔細が判明して、子分らは閉口した。白井屋の夫婦も縮みあがった。
「三河町にゃあ何とあやまっていいか判らねえ」と、市蔵もひどく恐縮していた。「こんなぼんくら野郎を叱ってみても追っ付かねえ。まあ、高田馬場の狐につままれたと思って
「それもこれも商売に身を入れるからの事だ。あんまり叱らねえがいい」
ばかばかしいとは思いながら、半七も仲間同士の義理として、先ずそう云うのほかはなかった。市蔵は子分らを散々あやまらせて、それから近所の髪結いを呼んで、半七の髪を結い直させた。白井屋も恐れ入って、あらん限りの肴を運び出して来た。一座は打ち解けて、笑い声が高くなった。そのうちに、市蔵は少しくまじめになって云い出した。
「この野郎共がのぼせるのも、まんざら理窟がねえ訳でもねえので……。石町の金蔵はどうもこの辺に立ち廻っているらしい。と云うのは、ここらに遊んでいる本助という奴が早稲田の下馬地蔵の前を通りかかると、摺れ違った男がある。むこうは顔をそむけて怱々に行き過ぎてしまったが、確かに金蔵に相違ねえと云う。なにぶん聞き捨てにもならねえので、きのうから手配りをしていると、その最中にお前さんが出て来たので、飛んでもねえ大しくじりをやったわけだが……。金蔵の奴、なんでここらをうろ付いているのか、それが判らねえ。今まで調べたところじゃあ、ここらに身寄りもねえらしい」
「成程、わからねえな」
半七はいい加減に調子を合わせていたが、この話の様子では、金蔵は執念ぶかく三甚を付け狙っているらしくも思われた。市蔵はその事情を知らないようであるから、何かの心得のために話して聞かそうと思ったが、それを云えば三甚の器量を下げることになる。若い者に恥をかかせるのも可哀そうだと思って、半七は黙っていた。
たんとも飲まない半七は、好い頃に座を起とうと思ったが、市蔵が如才なく引き留めて帰さないので、とうとうここに小半日も居据わってしまった。市蔵は子分に送らせると云ったが、まだ明るいので半七は断わって出た。
出るときに、白井屋の亭主を呼んで、半七は小声で三甚の隠れ家を訊くと、今度は亭主も安心して正直に教えた。お浜と甚五郎はここから一丁ほども距れた植木屋新兵衛という者の家に忍んでいるのであった。
馬場に近いところには
門に大きい柳が立っている。それを目じるしに立ち寄ろうとして、半七は俄かに立ちどまった。どこから出て来たか知らないが、自分と同じ年頃らしい一人の男がひと足さきに来て、その門口に突っ立っているのであった。ここらの植木屋は厳重に垣を結わないで、表が植木溜めになっているのが多い。半七はその植木溜めの八つ手の葉かげに隠れて、男の挙動をうかがっていると、彼はしばらく内を覗いていたが、やがて柳の下をくぐってはいった。半七も抜き足をして其のあとを
唯の家と違って、こういう時には植木屋は都合がいい。半七はそこらに雑然と植えてある立ち木のかげに隠れながら、男のあとに付いてゆくと、彼は入口の土間に立って声をかけた。
「ごめんなさい」
「はい、はい」
内からは女房らしい女が出て来た。
「こっちに芝口の三甚が来ているね」と、男は馴れなれしく云った。
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ」と、男は笑った。「ちょいと三甚に逢わせてくれ。おれは三河町の半七だ」
半七はおどろいた。それと同時に、この
「三甚は神明前のさつきの娘と一緒にここに来ているだろう。それまで知っているのだから、
女房がまだ躊躇しているので、男は焦れ出した。
「まだ判らねえのか。おれは半七だよ。三河町の半七だよ」
「うるせえな。半七はここにいるよ」と、半七は男の前にずっと出た。
男はぎょっとして半七を見かえったが、彼もさすがに眼がはやい。たちまちに身をひるがえして、そこらの植木溜めの中へ飛び込んだかと思うと、枝をくぐり、葉をかき分けて、飛鳥のごとく表へ逃げ出した。半七もつづいて追って出たが、もう其の頃は往来もだんだんに薄暗くなっていた。
こういう場合、ただ黙って追うよりも、声をかける方が相手の
「石町の金蔵、待て。半七の眼にはいった以上は逃がさねえぞ」
日が暮れると、ここらに往来は少ない。逃げる者は路をえらばず、田や畑のあいだをぐるぐると逃げまわって、穴八幡の近所へ来た頃には、あたりは全く暮れ切った。男は暗い女坂を逃げのぼるので、半七も
こうと知ったら、市蔵の子分に送らせて来ればよかったと、今さら悔んでももう遅い。きょうは半七に取って、
六
「器量の悪い話をいつまで続けても仕方がありますまい。もうここらで御免を蒙りましょうか」と、半七老人は笑った。
「でも、ここまでじゃあ話が判りません」と、わたしは云った。「そこで、その金蔵はどうなりました」
「わたくしは穴八幡からすぐに戸塚の市蔵のところへ行って、植新へ立ち廻った奴は金蔵に相違ないと知らせると、それと云うので市蔵をはじめ、子分総出で探索にかかったのですが、金蔵のゆくえはどうしても知れないので、みんなむなしく引き揚げました。わたくしも係り合いですから、その晩は市蔵の家の厄介になって明くる朝ふたたび植新へたずねて行くと、三甚もお浜ももう居ないのです」
「どこへ行ったんです」
「一旦は白井屋から植新へ預けられたのですが、そこへ金蔵が押し掛けて行ったので、植新でも驚く、白井屋でも心配する、お浜は泣いて騒ぐ。そこで又、三甚とお浜を四つ家町の伊丹屋という酒屋へ預けることになりました。ここも白井屋の親類だそうです。三甚も気が弱いに相違ありませんが、なにしろお浜が心配して、気違いのように騒ぐので、それに引き摺られて逃げ廻ることにもなったのです。わたくしも忙がしい体で、三甚のあとを追い廻してばかりもいられませんから、もう思い切って神田へ帰りましたが、あとで聞くと、いや、どうも大変で……」
「なにが大変で……」
「なにがと云って……」と、老人は笑い出した。「その伊丹屋の近所へも金蔵らしい奴が立ち廻ったと云うので、三甚とお浜は四つ家町を立ち退いて、今度は板橋へ行く。その板橋へも金蔵が来たと云うので、今度はまた練馬へ行く。そこが又いけないと云って、今度は三河嶋へ行く。まるで大根か
「そうでしょうね」と、わたしも笑った。「その金蔵はどこで挙げられたんです」
「いや、それに就いては三甚ばかりを笑ってもいられません。わたくしもお笑いぐさのお仲間入りで……。今もお話し申す通り、植新へ押し掛けて行った奴を
「金蔵じゃあ無かったんですか」
「金蔵じゃあありませんでした」と、老人はまた笑った。「まあ、お聴きなさい。五月の末になって、例の神明の千次がわたくしの所へ来まして、金蔵は王子稲荷のそばの門蔵という
「それじゃあ高田へ行ったのは……。藤吉ですか」
「そうです、そうです。藤吉は牢内にいる時から金蔵と仲が良かったのです。一人は
そういうわけで、どっちにしても三甚は狙われていたのですが、その相手は金蔵でなかったのです。前にも申す通り、むかしの人相書などはいい加減なもので、顔に
もう一つ、誰の考えも同じことで、藤吉は上方の奴だから京大阪へ高飛びしたものと見て、その方へ手をまわして詮議する。金蔵は江戸の奴だから江戸に隠れているだろうと思って詮議するのが普通で、誰も彼も金蔵にばかり眼をつけて、藤吉の方を忘れている。そんなわけで、人相書も当てにはならない。間違えば間違うもので、金蔵が藤吉となり、藤吉が半七となって、わたくしが先ず第一にお縄頂戴……。いくら昔でもこんな間違いはまあ珍らしい方で、わたくしの人相が悪かったと諦めるのほかはありません。
金蔵は強情にシラを切って、藤吉のありかを白状しませんでした。門蔵もなかなか口を割らない。最初は金蔵と一緒に隠れていたが、この頃はどこへか巣を変えたらしいので、わたくし共も手をわけて探索していると、藤吉は千住の深光寺へ押込みにはいりました。寺の
牢ぬけをしたばかりで、みんな一文無しですから、ただ遊んでもいられないのでしょうが、藤吉は四月末から五月にかけて、近在を六カ所も荒らしていたそうです。その申し立てによると、藤吉は三甚を付け狙って、芝のあたりに立ち廻ったが、どうも機会がない。そのうちに、三甚は身延まいりと称して姿をかくしたので、そのあとを追って高田へ行ったと云うのです」
「三甚が高田へ行ったことを、藤吉がどうして知ったのでしょう」
「本人は自分で探し当てたと云うが、どうも怪しい。まさかに三甚の子分が洩らしたのでもあるまいが、さつきの奉公人か、さもなければ千次の奴がしゃべったに相違ないと見込みを付けて、まず千次を取っ捉まえて調べると、果たしてそうでした。いわゆる内股膏薬で、敵にも付けば味方にも付く。義理人情は構わない、銭になれば何でもする。こういう安っぽい奴に逢っちゃあ堪まりません。藤吉から幾らか貰って、三甚の隠れ家を教えながら、又わたくしの方へ来て金蔵の隠れ家を教える。どうにもこうにも仕様のない野郎で、藤吉と一緒に暗いところへ抛り込んでやろうかと思ったのですが、なにしろ金蔵のありかを密告した功があるので、まあ助けて置いてやりました。
藤吉は高田馬場まで三甚を追って行ったが、そこでわたくしに出逢ったので、これはあぶないと思って、もうそれぎりで
「三甚はその後どうしました」
「こうなっちゃあ旦那方の信用をうしない、仲間の者に顔向けも出来ず、とうとう二代目の株を捨てて、さつきの婿のようになってしまいました。可哀そうに三甚だって、そんなにひどい意気地なしでも無いのですが、そばに女が付いていて、これがむやみに心配して騒ぐので、とうとうこんな事になったのです。女に惚れられるのは恐ろしい。あなた方も気をおつけなさい。あははは」
「そうすると、五人だけは挙げられたわけですが、もう一人はどうしました」
「もう一人は丹後村の兼吉、こいつは年上だけに巧く逃げたと見えて、容易に見付かりませんでしたが、その年の秋に
そこで、このお話ですが……。岡っ引が逃げて、泥坊が追っかける。まことにおかしいようですが、あの廻り燈籠を御覧なさい。いろいろの人間の影がぐるぐる廻っている。あとの人間が前の人間を追っかけているように見えますが、それが絶えず廻っていると、見ようによっては前の人間があとの人間を追っているようにも思われます。人間万事廻り燈籠というのは、こんな理窟かも知れませんね」