第二の接吻

菊池寛




かくれんぼ



 コツコツとかすかなノック。
「お入り!」というと、美智子の眉の長いかわいい顔がのぞき込む。
「村川さん、かくれんぼしない?」
「かくれんぼですか、また!」
 村川は、少したじたじとなる。この川辺家へ来てから、幾度かくれんぼに引き出されたかわからない。
「いいわよね。しましょうよ、ね。村川さん!」
 六歳にして、すでに女らしい媚態びたいを持つ、おませなモダンガールの美智子である。
「ね、お姉さまも、倭文子しずこさんもお入りになるのよ。いらっしゃいよ。」
 といって、村川はこのかわいい強制を、断らねばならぬほど用のある身体でもない。まして、今日は日曜の午後である。
 村川は、この四月に京都大学の法科を出て上京して以来、下宿を見つけるまでのしばらくをこの川辺家に寄寓きぐうしているのだが、彼は、この家の主人から、ずっと前から世話になっている。高等学校時代からの学資も、この家の主人の尽力で、実業家の今井当之助から出してもらった。彼が卒業すると、すぐ今井商事会社に勤めることになったのも、一つはその恩義に報いるためである。
 彼は、秀才で美男であった。しかも、近代的な美男であった。二三年振りに、彼に会ったこの家の長女の京子が、
「村川さんは、ラモン・ナヴァロに似ていやしない?」
 と、いとこの倭文子にささやいたほどである。
「ええ似ているわ。でもナヴァロよりは顔が短いわ。」
「そうかしら。でも、眼付なんか、そっくりだわ。」
 そういって、映画好きの二人が話し合った。だが、村川はこの色男役のスターよりも、もっと背が高く堂々としていた。だが、肉感的な頬、愛嬌のある眼付、物おじしたような温厚な風貌は共通していた。
 村川は、美智子に促されて、かくれんぼに参加するために階下に降りた。階下の座敷には京子や倭文子が彼を待ち受けていた、京子に気に入りの小間使の一枝かずえもいた。
 京子は、今年二十一になっていた。背のスラリとした、美しい女である。輝かしいほどの美貌であるが、ただ額が少し広すぎるのと、鼻があまりに端麗たんれいなので、人に高圧的な印象を与えた。
「まあ! 村川さん、とうとうひっぱり出されたのねぇ。」
 彼女は、からかうように村川にいった。そのくせ、ひっぱり出した当人は彼女であるのに。
「美智子さんにあっちゃ、かないませんよ。」
「苦手ね。」
 京子は笑った。
「日本館あるの?」
 美智子の兄の十になる宗三がいった。
「あるわよ。日本館がなければ、すぐ見つかっちまうわ。」
 美智子が兄をたしなめるようにいう。
「お庭はなしよ。」
「お庭に降りたら鬼。」
「でも、この間のように、僕の入れないお母さまのお居間の押入の中なんか、いやですよ。日本館でも、お父さまとお母さまのお居間だけはなしにしましょう。」
 村川は、グラウンドルールを自分に都合のいいように決めようとした。
「ああお父さまのお居間だけはなしにしようよ。お母さまのお居間はありさ。大丈夫だよ。村川さん。お母さまなんか大丈夫だよ。ね、いいだろう。」と宗三がいった。
「じゃ、ジャンケン、石と紙とホイ。」
 美智子が、要領よく紙を出したのに、村川は石を出したので、皆の紙に包まれてしまった。
「村川さんは、馬鹿ね。」美智子がクスクス笑った。
「なぜ、石を出したら馬鹿です?」
「だって、石と紙とホイといっているじゃありませんか。石と紙とに制限して石を出せば負けるにきまっているわ。」
 京子が、やっつけるようにいう。
「そんな不当な制限はありゃしない!」
「口惜しがってもダメよ。」
 京子は、村川に対して始終攻撃的だった。


「じゃ、仕方がない、かくれて下さい!」
 村川はあきらめていった。
「村川さん、ここにいちゃ駄目よ。こちらへいらっしゃいよ。」
 美智子は、村川を引き立てて、暖炉の前に立ててある衝立ついたての陰へつれて行った。
「しゃがんでいてちょうだいよ。」
「さんざんだな。」
 村川は、苦笑しながら衝立を背にしてしゃがんだ。皆は、笑いさざめきながら、日本館の方へ出て行った。
 仕方なしに、窓から外を眺めると、汚くこずえに残っている八重桜の花の間から、晩春の空が名残りなく晴れているのが見える。
「まあだだよ!」
「まあだだよ!」
 美智子と宗三との声が遠くから、彼方此方あなたこなたに動きながら聞えて来る。
 この家は、かなり広かった。主人の、川辺宗太郎が、二十年近く前桂内閣の閣僚の椅子を占めていた全盛時代に、小石川原町の高台を五千坪近く買って、建築した邸宅だけに、日本館と洋館とを合せて間数三十いくつを数えて、かくれんぼをするのには、絶好の広さである。もっとも、その後ずっと不遇な位置にあって、貴族院議員の歳費だけでは、やって行かれない主人は、その広い宅地を五百坪、七百坪といった風に切売りして、今ではこの建物の周囲の千幾坪しか残っていない。この広壮な建物も、もしかすると、抵当に入っているかもわからない。でも、とにかく洋館などは、過去の大地震に煉瓦れんが一枚落ちなかったほどに、堂々として、内部の装飾も家具もこの頃の文化住宅の薄っぺらな、吹けば飛ぶような安手なものとは違って、荘重典雅を極めている。安楽椅子、肱掛ひじかけ椅子などにも、わざとならぬ時代が付いて、部屋の中に落着いた空気が漂っている。窓ごとに、房のついた鳶色とびいろ緞子どんすの窓掛が重々しく垂れている。
「この家にいて、時々かくれんぼの相手をしているのも、下宿料がいらなくてよい。だが、下宿か間借りかをして、何物にも煩わされない生活もわるくはない。」
 そんなことを、ぼんやり考えていると、
「ようし。」と、いう宗三の声が遠くからほのかに聞えて来た。
「ようしと聞いた。」
 村川は、小声でいって立ち上った。うまく見つけてやろうなどという心はなく、ただこんな遊戯に調子を合せている白々しい大人の心があるだけである。
 洋館の方も、座敷のほかに階上階下十幾つの間数がある。まさか、誰も自分がここにいるのに二階に上るほど大胆ではあるまい。しかし階下には隠れていないとは限っていない。村川は、座敷の次の京子の部屋のドアを開けて見た。くすんだ朱色に塗った大きな机、同じ木材を使った革張りの椅子、机の上には、桃色のシェードのかかったランプ台、レースの肱附ひじつき、金飾りのついた小型の万年筆、女らしい調度がちらかっていた。
 グランドピアノの下あたりに、誰かかくれていはしないかとのぞき込んだが、誰もいなかった。
 村川は、その部屋のドアを閉めると、応接室のテーブルの下、主人の書斎の安楽椅子の下、等身とうじんの書棚のうしろ、人のかくれ得る可能性を持つ隅々を捜したが、人影は更になかった。
 やっぱり、日本館だ、厄介だな、そう思いながら、長廊下を伝わって日本館へ行った、とっつきの二十畳の大広間、次の十二畳、その次の六畳、そこは倭文子の部屋だった。
 彼は、倭文子のことはあまり多くを知っていない。彼が、一高時代に川辺家へ出入りしていたときには、倭文子はまだいなかった。倭文子が、実父が死んだために関西の田舎いなかから、伯父の家にたよって来たのは、二三年来の事らしい。伯父の家に来ている以上、彼女はむろん、好遇されるべきはずである。だが、彼女のこの居室いまなども、何という簡素なさびしさであろう。長さ三尺にも足りない小さい机と、それにふさわしい本箱、二重ふたかさねの小さい箪笥たんす、ただ女らしい彼女の身だしなみを見せて、部屋はキチンと整っていて、ちり一つ散っていない。村川は、中へ入って押入をあけるのも、何だか気の毒のような気がして、開けた障子をすぐ閉めて、廊下を隔てた夫人の居間の障子を開けた。


「ご免なさい!」
「おや、また村川さん鬼ですか。」
「そうです。」
 夫人は、居間で、小遣帳こづかいちょうらしいものを出して調べていた。五十に近い小柄な細面の顔は年よりもけて見えた。
「また、美智子がおねだりしたのでしょう。本当にご迷惑ですね。」
「いいえ、そこの押入をちょっと開けてもいいですか。」
「はい、どうぞ。」
 夫人は押入の前から、身を退すさってくれた。村川は、近づいて押入のふすまに手をかけようとした、すると、押入の中が、ひとりでにゴトゴトと動いて、宗三が姿を現わした。
「いやだ! いやだ! お母さまがいいつけるんだもの。」
「まあ。誰も、いいつけはしませんよ。」
「だって、どいちゃいやだよ。お母さまにここにいてちょうだいといったじゃないの。」
「だって、そんな事は、無理ですよ。ねぇ、村川さん!」
 村川は苦笑していた。
「つまんないなあ。」
「ずるいわ。兄さん!」
 美智子が、いつの間にかそのかくれ場所から出て来ていた。
「なに! おてんば!」
 宗三は気色けしきばんだ。
「鬼になって、文句をいう奴は……」
 美智子は、片足でトントン廊下を駆け去りながら叫んだ。
 京子と倭文子とが並んで、洋館の方から来た。
「村川さん、駄目ね。私達、彼方あちらにいたのよ。」京子は得意になっていった。
「そうですか、どこに。」
「あなたの書斎に。」
「それじゃ、二階に上ったのですか。」
「もちろん。」
「驚いた。まさか二階へは上るまいと思った。」
「あなたの机の上の手紙読んでよ。」
「ひどいな、そんな事をするのは。」
「松井芳枝って、誰?」
「誰だって、いいじゃありませんか。」
「女から、たくさん手紙が来るのは不良のしるしよ。」
「京子、失礼なことをいってはいけませんよ。」
 夫人は娘をたしなめた。
「いいのよ。村川さんなんか、時々たしなめておく方がいいのよ。」
 村川は、京子の挑戦が、結局は形を変えた好意のある媚態であることは、よくわかっていた。だが、わかっていながら、それをそれとして受け取ることが出来なかった。彼はそれにこだわった。こだわった後には、気まずい後情こうじょうが、尾を引いていた。
「そんなに、僕が不良に見えますか。」
「見えるわねぇ、倭文子さん。」
 倭文子は、山上の湖に、微風が訪れたような、かすかな微笑を浮べた。それは微笑のための微笑で、外の意味は少しもまじっていなかった。ただ微笑するとき、彼女は限りなく可憐かれんに見えた。
「そうかな。これだって、品行方正ですよ。」
「そんなに、ムキになって弁解なさるから、なお怪しまれるのよ。」
「おやおや。」
「宗ちゃん。あなたが、見つかったの。じゃ、ちゃんと鬼になりなさい。いい、そこに坐っているのですよ。さあかくれましょう。」
 姉にいわれて、宗三は、不平らしく母の陰にうずくまった。


 村川は、一番後に夫人の居間を出た。夫人と、二言三言、世間話をしていたからである。洋館へ来た時、京子と倭文子の影は見えなかった。美智子が、二階で「まあだだよ!」と連呼しているのを見れば、皆二階へ上ったのだろう。
 皆のいる二階へ上るのも変だし、それかといって、かくれ場所を本気に探すのも、馬鹿馬鹿しいし、村川は、座敷の安楽椅子に腰をかけて、ぼんやりしていると、
「誰もよしといってくれないんだな。いいよ、いいよ。よしと聞いたことにするから。」
 と叫びながら、廊下を走って来る宗三のけたたましい足音が近づいた。
 村川も、あわてて立ち上った。少くとも体裁だけにでも、かくれなければならない。咄嗟とっさに周囲を見廻したが、テーブルの下、椅子の陰、どこも一目で見透しである。
 ただ、部屋の一隅の窓掛の帯がはずれて、ひだの多い布が重々しく、床にたれているのを見た。
 村川は、足音を忍ばせると、ひらりとそのカーテンの陰に身を投げ込んだ。と、意外、彼は暖かく柔かい肉塊に身を打ち付けて、思わず声を立てようとした。
 そこに彼よりも先に、倭文子の柔艶な身体がかくされていた。彼が、あまりに勢いよく飛込んだので、二つの身体は一つに押しつけられ、倭文子は、
「あら!」
 と、軽いかすかな叫び声を立てた。だが、その叫び声につづいた矯羞きょうしゅうを帯びた微笑は、村川の心を異常に衝き動かさずにはいなかった。自分一人の秘密な場所だと思っている所へ、男性の侵入を受けた処女の矯羞、それには当惑がありありと見えた。だが、それが不快にまで行っていないことは、彼女の濁らないひとみが示していた。極端に恥しいが、いやではない。当惑しているが、しかし嫌悪けんおはしていない。村川は、すぐ出るのが、本当だと思っていたが、かくれんぼをしているのを口実に、一秒でも二秒でも、長くこうした希有けうの境遇に、身を置きたい気もした。
 倭文子はどちらかといえば、浅黒い顔が赤らんで、眸が美しく輝いている。やや昂奮こうふんしているらしい呼吸までが、聞きとられる。張り切っているかわいい頬、もし村川が京子のいうように不良だったならば、こんな自然な姿勢を利用して、たくみに接吻せっぷんの一つぐらいは、盗んだに違いない。
 しかし、村川は美男に似ず、純真であった。そんないたずらな気は起らなかった。だが、彼は、すれすれに立っている倭文子を、この家に来て以来、初めて愛すべきものと思った。彼は今まで、倭文子を見落していた。それは、京子という月の、すぐ近くにあるために、常に光を奪われていた星だったのだ。
 こうして、つくづく見ると、その人なつかしそうな眸、強い男性の支持なくしては、生きて行かれそうもないような、かよわい身体、一つのてのひらの中に入ってしまいそうな二つの頬。
「失礼しました。」
 宗三の足音が、応接室で停滞しているらしいので、村川は倭文子のそばでささやいた。
「いいえ。」
「ちっとも知らなかったものですから。」
 知っていながら、わざと飛込んだと思われやしないかと、村川は心配した。
「僕出ましょうかしら、ご迷惑じゃありませんか。」
「いいえ。」
 小さい赤い唇が、かすかにつぶやく。村川は、一秒でも二秒でも、長くいたかった。宗三が二階へ上ってくれればいいと祈っていた。


 宗三は、二階へ二足三足とんとんと上りかけたが、すぐ降りて来た。
「やっぱり下が怪しいな。」
 応接間のドアを、烈しく開ける音がした。
「おや、いない。」
 そういったかと思うと、彼はバタバタと、座敷へ飛込んで来た。村川が、アッと思う間もなく、彼のかくれていたカーテンは容赦もなく引き開けられた。
「ああいた! いた! 村川さん。」
 宗三は、大声で叫んだ。
 倭文子も、真赤まっかになりながら、村川につづいて出た。
「おや! 倭文子さんもいたの! ずるいな! ずるいな!」
 宗三は、前よりももっと大きい声で叫んだ。
「何がずるいんだい!」
 村川も、宗三のいわれなき非難に抗議した。
「ずるいや、ずるいや、一緒になんか隠れて! ねぇお姉さま。」
 宗三は、大きい声で、隠れている京子を呼んだ。
 階段を急ぎ足に降りて来る足音がして、美智子と一緒に京子が現われた。
「宗ちゃん、どうしたの。」
 京子がたずねた。
「ねぇ、お姉さま、ずるいんだよ。村川さんが、倭文子さんと一緒にかくれていたのよ。」
「まあ! どこに?」
「このカーテンのかげにさ。くっついてかくれているのよ。」
 倭文子は、真赤な顔をして立ちすくんだ。
「倭文子さんが、かくれているのに気がつかないで、僕が後から飛込んだのですよ。いいじゃないか。一緒にかくれたって!」
「いけないや、ずるいや。大人同士が一緒にかくれるなんて、おかしいや。ねぇお姉さま。」
 京子は、何ともいわなかった。そして、真赤に立ちすくんでいる倭文子を、じっと見つめていた。
「いいじゃないの、一緒にかくれたっていいわ。」
 美智子が、いつものくせで、兄に反対した。
「そうとも。いいじゃないか、ねぇ美智子さん。」
 そういって、村川は真赤な洋服を着ている美智子を抱き上げた。
「じゃ、村川さんと倭文子さんとジャンケンして。鬼になるジャンケンして。」
 美智子は、抱き上げられながらいった。
「ジャンケンなんかしなくっても、村川さんが先に見つかったんだよ。じゃ、堪忍かんにんしてやらあ。村川さん、鬼だよ。」
 宗三は、もう妥協していた。
 だが倭文子はなぜか妙に、しょげてしまって、そこにあった安楽椅子に腰を降ろしてぼんやり青いカーペットに目を落していた。
「じゃ、かくれましょう。お姉さま。」
 美智子が、京子の手にすがりつくと、彼女はそれを邪慳じゃけんに振り払った。
「あたしは、ようした。」
「いやだな。よすの。」
 宗三が、不平らしくなじるのを聴きながら、京子は自分の部屋へ入ったかと思うと、ピアノの鍵盤を、双手もろてでヤケにたたき鳴らした。
 嵐のような激しい音に、村川も倭文子も、気味のわるい圧迫を感ぜずにはいられなかった。


「わたくし、おやついただいて来るの。」
 利口な美智子は、一座の空気が険悪なのを感ずると、そんな口実をうまく考えて、日本館の方へ走り去った。
「僕も。」
 宗三も、すぐ妹の後を追った。
 村川は、京子のすね方が、馬鹿馬鹿しかった。一緒にカーテンの後にかくれていたのが、どうしたというのだろう。だが、倭文子が、スッカリしょげてしまって、黙りこんでいるのを見ると、冗談ではない気がした。
「どうしたのです。そんなに、しょげなくってもいいじゃありませんか。何も悪いことをしたのじゃあるまいし。」
 倭文子はだまっていた。
「京子さんは、怒りすぎますよ。」
 村川は、そうもいってみた。だが、倭文子はなおだまっていた。ふと気がつくと、彼女の黒い眸を覆う長いまつげが、いっぱい濡れていた。村川は、軽いショックを受けて、自分もだまってしまうほかはなかった。
 その涙が、倭文子の現在の生活を、彼にすっかり説明してくれた。
 伯父の家に寄食している倭文子は、わがままで勝気ないとこの掌中に、生きているといってもいいのだった。京子の一びんしょうに、彼女の幸福や不幸が宿っているのだった。京子の機嫌の悪いときは、彼女の生活は暗くなってしまうのだった。
 倭文子が、もっと図々しくもっと世間を知っていたならば、京子の機嫌を取りむすぶくらいは何でもなかったのだろう。彼女が、もっと強い女であったならば、京子と不即不離に生きて行けたのだろう。だが、初心うぶで温良で策も術もない彼女は、京子の強い光の中で手も足も出さず、ただおずおずと暮しているのだろう。京子が、あの程度に機嫌を損じていることは、倭文子の生活に対してどれほどの脅威かわからないのだろう。これから先の何日か陰に陽に、あたり散らされることを考えると、倭文子はつい涙ぐまずにはいられないのだろう。
 馬鹿馬鹿しいが、今の倭文子にとっては、それが重大な生活問題なのだろう。
 そう考えて来ると、村川は倭文子の心持が、いじらしくてたまらなかった。彼は、出来るだけのことをして、倭文子をかばってやろうと思った。
「京子さんに僕がよくいっておきましょう。怒らないように。」
「まあ! いいえ。」
 倭文子は、自分の心持を見透かされたのが、いやだったのだろう。あわてて打ち消した。
「怒るべきことでないことを、怒っているのですからね。でも、僕が飛込んだのが悪かったのです。でも、こんなことで怒るなんて、馬鹿馬鹿しいですね。」
 村川は、笑いごとにしてしまおうとしても、倭文子は、どうしても笑わなかった。
 ヤケに叩き鳴らしていた京子のピアノの音は、ふっつり断たれてしまった。断たれてしまうと、倭文子は更に、不安になったかのように、首をうなだれた。
「僕が、ちょっと京子さんに会ってみましょう。怒っているわけは、ありませんよ。」
 そういって、村川は気軽に倭文子の傍から立ち上ろうとした。
「いいんでございますの。」
 倭文子は、とりすがるように止めた。
「でも、こんなことで、こだわっているのは、いやですから。」
 そういって、村川は倭文子の傍を離れて、京子の部屋のドアの前に立って、ノックした。


 村川は、京子の部屋のドアを、かなり強く叩いた。だが、中からはぷつっとも音がしなかった。
「京子さん。僕です。入ってはいけませんか。」
 まだ、何とも返事をしない。
「京子さん。入ってはいけませんか。」
「いいわ。」
 やっと、かすかな声で答えた。
 村川は、ドアを開けた。京子はドアの方へ背を向けて机の上で何かかいていた。
 村川は机の傍に歩み寄りながらいった。
「怒っているのですか。」
「ううん。」京子は首を振った。「それとも、あなた何かわたしに怒られることしたの。」
「とんでもない。」
「じゃ。心配しなくってもいいじゃないの。」
「だって、あなたがいきなり、およしになるのですもの。」
「よしちゃ、悪いの。」
「悪くはないけれど。」
 京子は、意地わるそうに笑った。
「ねぇ、村川さん。あなた、わたしの部屋へ入るときは、感心にノックするわねぇ。」
「だって婦人の私室ですもの。」
「そう、じゃ倭文子さんのカーテンの中に入ったときもノックしたの。」
 村川は、少しドギマギして、顔が赤くなったが、やっと立ち直って、
「まだ、あんなことにこだわっているのですか。」
「だって、あなただってこだわってるから、わたしの所へ来たのでしょう。」
「僕は、こだわっていないのですよ。でも倭文子さんが、あなたが怒ったので心配しているからさ。」
「ご親切ね。ただし、わたしにではありませんよ。」
「つまらない。機嫌を直して下さいよ。」
「大きなお世話。」
 京子は、またぷいと向うを向いてしまった。世話のやけるわがまま娘だな、村川はつくづくそう思った。でも、怒らせてしまっては、いよいよ倭文子に悪いと思ったので、彼はしばらくしてから、また言葉をついだ。
「倭文子さんはかわいそうに心配していますよ。」
「そう。ご心配でしょうね。」
「何がです。」
「何でもないの。」
「京子さん、ほんとうにこだわらないで下さい。倭文子さんが、かくれていたところへ僕が飛込んだといって、それが何だというのです。僕が、気がつかなかったからじゃありませんか。」
「だから、わたし何とも思っていやしないわ。」
 京子は、いらいらしげにいった。
「それが、何とも思っている証拠ですよ。」
「そう、お気の毒さま。でも、わたしあなたや倭文子さんのお気に入るように、自分の心持の調子を変えることは出来ませんわ。」
 村川は、手がつけられないと思った。
「でも、倭文子さんはたいへん、しょげていますよ。」
「そう。でも、あの方は何にでもしょげる人よ。泣き虫よ。あの人はしょげることによって、人に甘えているのよ。あなたになんか、きっとそうよ。いいから甘えさせてあげなさい、ね、村川さん。あなただって甘えられるのは、悪い気持ではないでしょう。」
「困ったな!」
 村川は、ほんとうに困って立ち上った。
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芽ぐみ行く愛



 村川は、カーテンの陰で、危く倭文子と接吻しようとする夢を見て、目がさめた。かくれんぼの日以来、倭文子のことが絶えず意識の底に、こびりついていて、夢にまで見るのであろう。そのくせ、あの日以来、廊下で二三度行き会っただけである。あるいは、彼女の方で、自分を避けているのではないかと思った。
 彼は、顔を洗って帰ると、寝室から、書斎の方へ移った。すると、書斎の机の上に、忘れな草のフランス刺繍ししゅうをした肱附ひじつきが置いてあった。白と茶と緑との配合が美しくあざやかであった。
 村川は年若い処女の好意のシンボルそのものといったようなその肱附を、ちょっとときめく心で取上げた。すると、その一端に真紅の糸で、MSとローマ字を小さく組合せて、入れてある。彼は村川貞男といった。自分の姓名の頭字を組合せて入れてくれたものだと思えば、それでいいのであるが、それでは何となく物足りなかった。そのSを倭文子の頭字にしたかった。倭文子が、自分に対する贈物に、彼女の名の頭字と、自分の姓の頭字とを、組合せたものと考えたかった。
「何というナイスプレゼントだろう。」
 彼は、甘ったるい微笑が、自分の頬に浮んで来るのをどうともすることが出来なかった。何というつつましい求愛だろう。彼女にふさわしい求愛の手段だ、村川はそう考えた。
 彼は、美男であるために、京都大学時代から、いろいろな女の求愛に接した。彼が、少し色魔的な分子を持っていたならば、彼は幾人もの女の愛を、自分自身を少しも傷つけることなしに、享受し得たかもしれない。だが彼は、温良おとなしい上に、ただ一つの潔癖がある。それは、自分が愛し得ない女には、指一つ触れることさえ出来ない性情だった。愛の潔癖性、それが彼を青春時代の危機から、救ってくれた。
 学生時代に、友人に連れられて祇園ぎおんのお茶屋に行ったときなど、彼はそこに来た二十四五になる美しい名妓めいぎから、一目惚れされた。彼女は、彼を追って階下へ降りると、彼の耳にささやいた。
「あんたはん、この次一人でおいでやすや。あてえ、ここの家へあんじょういっときますわ。あしたおいでやすか、それともあさってにおしやすか。」
 村川は、真赤になりながら、返事もしないで二階へ上って行った。
 女は、それでもあきらめなかった。彼の友人を通じて、幾度も彼を引き出そうとして、失敗すると、友人から彼の宿所をきいて、下宿へ二三度押しかけて来た。食べ物のお土産などを持って、村川は、それを頭から、追いしりぞけもしなかった。温良おとなしい彼は、親切におだやかに応対した。女はいろいろに彼を誘惑した。結局彼は、彼女に唇一つ与えはしなかった。彼は、心の中に愛を感じ得ない女に、唇を与えるような白々しいことは出来なかった。
 下加茂しもがも撮影所のスターとして光っていた園村春子、四條の菊水の女王と歌われていたお澄という女給、下宿の評判娘など、村川は若い女性から幾度手紙をもらったかわからなかった。
 だが、そうした多くの誘惑から、常にきよき手をもって、逃れて来た。
 実際また、男性に対して、そうした誘惑に出る女に、彼の求めているようなつつましさはなかった。
 羞恥感情、それはヴィーナスの帯よりも女を美しくする。羞恥感情を亡くしたクレオパトラよりも、初心うぶ田舎いなか娘の方が、どれほど男の心を捕えるかわからない。
 彼が、倭文子に強くきつけられたのも、彼女の満身にこぼれている処女らしい羞恥のためであるといってもよかった。


 村川が、フランス刺繍ししゅうを見つめながら、それを刺繍した倭文子の手付まで、空想していると、女中が、朝食のできたことを知らせて来た。
 いつも、八時を過ぎてからでないと起きない村川は、この家では最後に一人で朝食を食うのである。だが、その日は食堂へ行ってみると、美智子が、白いエプロンをかけながら、一人でご飯を食べていた。小芋こいもの煮たのを、おはしに四つばかり突き通して、右の手に持っていた。おもちゃにしながら、一つずつ食べようというのであろう。
「いいお団子ですね。」
「ううん。これお芋よ。」
「おいしそうですね。」
「村川さん、寝坊ね。」
「どうして。あなただって、今ご飯食べているのでしょう。」
「だって、わたし仕方がないんですもの。」
 美智子は、自分が返事に困ると、いつもそういって皆を笑わせていた。
「もう、かくれんぼしないのですか。」
「ええ。だって、お姉さまが、お怒りになるんですもの。」
「まだ、お姉さま怒っているの。」
「ねぇ、村川さん、いいこと教えてあげましょうか。」
「何です。」
 美智子は、小さい身体を延ばして、村川の耳に口を寄せた。そして必要以上に低い声で、
「あのね、倭文子さまが、昨日きのうお泣きになっていたのよ。」
 村川は、いやな気がした。京子にいじめられたことを、すぐ想像したからである。
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも。」
「どこで。」
「ご自身のお部屋で。」
「どうしてでしょう。」
「どうしてだか知らないわ。」
「でも、ただお泣きになるわけはないでしょう。」
「ええ。そうよ。きっと、お姉さまがおいじめになったのよ。」
「そんなに、お姉さまは倭文子さんを、いじめるのですか。」
「ううん。でも、時々。」
「時々でもいけないな。悪いお姉さまだな。」
「だって、わたし仕方がないんですもの。」
 そう言って、美智子は口を一杯開けて、お芋を二つつづけて食べた。
 村川は、倭文子が京子から、そんなにいじめられていることが、皆自分の責任であるように思った。だが、偶然一緒にカーテンの陰にかくれたことが、それほど京子を怒らせているとは、どうしても考えられなかった。でも、もしそのことだけで、京子が怒っているとしたならば、京子が嫉妬しっとしていることになるのだが。でも、嫉妬しているとしたならば、京子が自分を愛していることになるのだが、そうした姿態を京子に見出すことは、とうてい出来なかった。自分に対して高飛車に出ることは、ああした女性が、あらゆる男性に対して持つ一つの逆な媚態で、それが自分だけに対する愛の表情であるとは考えられなかった。
 しかし、つまらない原因からにしろ、倭文子がいじめられていることは事実である。それを慰めることは、村川の義務でなければならない。いや、義務というよりも彼の烈しい要求なのである。慰めなければならないのでなく、慰めたいのである。
 彼は、とにかくどうにかして、倭文子に会おうと思った。だが、カーテンの陰に一緒にいても、あんなに腹を立てる京子がいるとすれば、一緒に話なんかしているところを見つけられては、たいへんである。
 同じ家にいながら、村川にとっては倭文子はかごの鳥である。


 村川は倭文子と親しく話をする機会を待ちながら、一日一日と空しく過ごしていた。廊下で遠くから見かけたり、障子越しに声を聞いたりするだけで、顔を見合す機会さえ容易に来なかった。彼が、もっと策略のある青年であったならば、そんな機会を作るのは容易なことであったに違いない。だが、彼は不自然なことはしたくなかった。ムリな機会を作りたくはなかった。
 ある晩、五月に入ってから、村川は京子と倭文子との三人で、帝国ホテルの演芸場へ、赤色ロシアを亡命している美しい女流ピアニストのコンサートを聴きに行ったことがある。
 彼は、京子がお手洗いへ立つかどうかして、倭文子と二人きりになる機会が、必ずあるに相違ないと楽しみにしていた。だが、京子が立つと倭文子は影のように寄り添って立った。京子が村川を一尺離れると、倭文子は二尺離れていた。京子が一間離れると倭文子は一間一尺離れていた。その上、グリルルームで三人で食事をするときなど、倭文子は村川には、直接には一言も口をきかなかった。村川の方から話しかけると倭文子は、出来るだけ短い返事を探し出して答えた。そして、村川の顔などは、正面からは一度だって見なかった。
「村川さんとは、少しでも親しくしてはいけません。」
 そんな無上命令が、京子から出ているようだった。むろん、ハッキリと口に出してはいわれなくっても、暗々裡にそう命ぜられているようだった。
 村川は、ショパンのワルツを聴きながら、スッカリ憂欝ゆううつになってしまった。倭文子が、それほど京子をはばかっている以上、自分がどれほど彼女を愛しても絶望に違いないと思った。だが、そうした障害を感ずれば感ずるほど、彼の思慕は募って行くのだった。
 その上、倭文子が上辺うわべだけは、彼に対して、どんなによそよそしい態度をしていても、彼はカーテンの陰で、彼に対して与えた彼女の微笑を忘れる事は出来なかった。それは、はじらいながらも、彼の闖入ちんにゅうを許している微笑だった。彼の闖入というよりも、彼自身を許している微笑だった。彼が、心から彼女に愛をささやいたならば、きっと許すに違いないことを約束している微笑だった。
 倭文子のよそよそしい態度は、結局それが彼女の心にもない擬態で、その擬態の一皮下には彼に対する好意のある微笑が用意されていることを忘れることは出来なかった。ただカーテンの陰におけるが如く、二人きりになれさえすればよいのだ。彼はそう信じていた。
 それから、二三日したある朝、彼は書斎へ行って、椅子に腰をかけると、何だかいつもと、感じが違っているので、立ち上って調べてみると、真紅まっかなレースで編んだクッションが、いつのまにか置かれているのである。
 あの倭文子の微笑が、今度はクッションの形で横たわっているのだと思うと、村川は限りなく幸福だった。
 それにしては、どうして彼女は自分を避けるのであろう。それが、村川にとっては、不思議でならなかった。
 その夜のことである。初夏の月が、あまりによく澄んでいるので、彼は書斎から庭へ出て見る気になった。もう十時過ぎていた。宵寝よいねの習慣を持っている川辺家の人々は、皆寝しずまって、月のみが、樹木の多い庭園を昼のようにてらしていた。小石川の植物園と同じ丘陵の上にある庭は大樹が多かった。それをそのままに、少しも人工を加えない庭は、かえって高雅で幽邃ゆうすいな感じがした。
 村川は、庭の一隅に立っている四阿あずまやえんに腰をかけて、夜の爽やかな静寂の中に坐っていると、ふとその静寂を破るかすかな足音を聞いた。
 振り返ると、一人の女性が樹の間を洩れる月光を半身に受けて、しずかに大樹の下を歩いているのであった。


 彼は初め、その女性を女中か何かでないかと思った。だが、そのしとやかな歩き振りで、京子か、でなければ倭文子に違いないことがわかった。もし倭文子だとすると、こんないい機会はない。彼は、そう思って躍り上る胸を押えながら、四阿あずまやを離れ、すぐかたわらの大樹の陰に身をひそめて、その女性の近づくのを待っていた。
 近づくままに、彼女は月光のあかるいしまの中に、全身を現わした。顔は半面しか照し出されていなかったが、オールバックに結った額際は、すぐ倭文子であることがわかった。
 だが、急に飛出して行って、彼女をびっくりさせてはならない。そう思ったので、彼は彼女が二三間行きすぎるのを待って、低い声で呼んでみた。
「倭文子さん!」
 彼女は、ちょっと振り返った。だが、それを幻聴だと思ったのだろう。立ち止まりもしないで、すぐ歩み去ろうとした。
「倭文子さん、倭文子さん!」
 二度、つづけて呼んで村川は、倭文子に近づいた。倭文子は、ギョッとして立ち止まった。そして危く駆け出しそうな姿勢をとった。
「僕です。村川です。」
 といって、彼は倭文子の前に立った。彼女は、恐怖からはやっと恢復かいふくしたものの、「まあ!」と、かすかにいったまま、そこに蒼白になって立ちすくんでしまった。
「お散歩ですか。」
 倭文子は、口がこわばったように返事をしなかった。
「びっくりなすったのですか。どうも、失礼しました。」
「いいえ。」
 とかすかに答えたものの、彼女の顔になごやかな表情は浮んで来なかった。彼女はこうして、向い合っていることが、不安で仕方がないといったように、その夜目に黒いひとみを落着きなく、動かしていた。何かの口実があれば、ここを去りたがっていることが露骨に見えた。
 村川は、スッカリしょげてしまった。倭文子を呼び止めたこと、こうして向い合って立っていることが、苦痛になり出した。
「いい月ですね。」
 彼は、お互の間の気まずい空気を払いけようとしていった。
「ええ。」といったまま、倭文子は月を見ないで、地上を見つめていた。
 村川は、倭文子の打ち溶けない堅い心が、自分の胸につかえてくるのを感じた。彼は、倭文子に対して持っていた予想が、はずれかけているのを感じた。
 五分、七分、二人の不自然な心と姿勢との上に時が流れた。
 倭文子のこわばっていた身体が少し動いた。
「もう遅うございますから、失礼しますわ。」
 村川は、真向から突き飛ばされたような気がした。
 だが、絶望だと感ずると、かえって村川に積極的な勇気が湧いて来た。
「倭文子さん。僕はあなたに、お話があるのですが。」
 倭文子は前よりも蒼白になって立ちすくんだ。


 倭文子の顔には、当惑の色が、強く浮き出ていた。
「お話をする間、ちょっと一緒に歩いて下さいませんか。」
「でも、わたくし。」
 倭文子は泣き出しそうな声でいった。
「ホンのちょっとでいいのです。」
 村川も必死になっていた。
「でも、こんなに遅く……」
「ご迷惑だとおっしゃるのですか。」
「いいえ、でも……」
「ご迷惑はかけないつもりですが。」
 倭文子は、だまってしまった。といったものの、村川は、何から話していいのかわからなかった。自分自身の心の中に、火のかたまりの如く燃えひろがってゆく心を、どう彼女に打ち明けていいかわからなかった。
「いや別に、たいしたお話があるわけではないのですが、この間のことであなたは、京子さんから何かいわれたのではありませんか。」
 倭文子はだまっていた。
「何か京子さんが、あなたにいったのではありませんか。」
「いいえ……」
 倭文子は、つぶやくように答えた。
「僕はあんなことのために、あなたにご迷惑をかけやしないかと、心配していたのです。」
「いいえ、そんなこと、ございませんわ。それではまた……」
 倭文子は、一刻も早く村川の前から、逃れたそうにした。村川は、倭文子が冷淡になればなるほど、熱して来た。
「あなたは、そんなに僕と一緒にいるのが、お嫌いなのですか。」
「あら!」といった倭文子は、真赤な顔をしてうつむいた。
「京子さんと同じようにあなたも僕を不良青年だと思っていらっしゃるのですか。」
「まあ!」
 倭文子は、泣き出しそうにいった。
「僕が、あなたに対して、どれほど親しみを感じているか、ご存じでないでしょう。あなたが、僕のことを、何と思っていて下さるかわかりませんが、何だか僕は、あなたが京子さんの思惑をはばかって僕によそよそしくしておられるように思われて仕方がないのです。」
 村川は、肱附ひじつきやクッションのことを思い出して、大胆になった。
「あなたが、僕に好意を持っていて下さることは、よくわかっているような気がするのです。それだのに、京子さんの存在のために、お互の心持をねじ曲げているなんて馬鹿馬鹿しいと思うのです。」
 倭文子は、だまってしまった。
「あなたが、僕を嫌っていらっしゃるなら、僕は何もいうことはないのです。しかし、そうでもないものを、第三者をはばかって、よそよそしくするなんて、そんな個性のない生き方があるでしょうか。倭文子さん! 僕は、あなたさえ頼って下されば、どんなことだって出来るのです。僕は、何だかあなたに頼っていただきたいのです。僕はあなたに頼られて、あなたのために、すべての力を尽してみたいような気がするのです。僕は失礼ですが、何だかあなたが、いたいたしいような気がして、仕方がないのです。僕は、あなたをまもりたいのです。あなたのために働きたいのです。あなたのために戦いたいのです。どうです。倭文子さん、あなたのために、そうさせて下さることは出来ませんか。」
 倭文子は、だまって返事をしなかった。
「ね。僕のお願いをきいて下さることは出来ませんか。」
 村川が、倭文子の答えを促したとき、彼女はシクシク泣き出した。
「僕のいったことが、お気にさわりましたか。」
「いいえ。わたしうれしいのです。」
 倭文子は、そういいながら、声を立ててむせんだ。


「わたしは、寂しかったのです。頼りにする人が誰もなかったのです。」
 倭文子は、泣きつづけた。父も母も失って、伯父の家に引き取られ、わがままないとこにしいたげられながら、彼女は孤独な寂しい日々にちにちを暮していたのだ。村川の言葉は、荒涼たる人生の海に漂っている彼女に投げられた力強い生命の綱であり、幸福の綱だったのだ。
「そうですか。僕はこんなにうれしい事はありません。僕は、ほんとうはあなたを愛しているのです。あなたさえ許して下されば、すぐ結婚してもいいと思うのです。」
 彼女はだまっていた。
「僕と結婚して下さる気はないのですか。」
「いいえ。でも、わたし京子さんが、こわいわ。」
 彼女は、初めて胸中の秘密を打ち明けた。
「なぜです。」
「あなたと一緒にカーテンの陰にかくれたといって、それはそれはいやなことおっしゃるのよ。」
「そうですか。」
 村川も、暗然とした。
「こんな所で話している所を、誰かに見つけられて、京子さんにいいつけられたら、わたしこの家にいられませんわ。」
「いられなくなれば、出ようじゃありませんか。」
「でも。」
「ほんとうに、愛し合っている二人の前には、何の障害もないはずです。障害が障害らしく見えるのはお互の愛が足りないからだと思うのです。」
「でも、わたくし京子さん恐ろしいわ。」
 彼女は、恋する少女が、厳格な父親を恐がるようにつぶやいた。
「だって、この家を出さえすれば、京子さんなんか、恐がる必要はちょっともないじゃありませんか。」
「でも、あんな執念ぶかい方なんですもの。」
「じゃ、あなたは京子さんが恐いから、僕と逢うのはいやだというのですか。」
「いいえ。」
 倭文子は、首をかすかに振った。
「僕達の心さえ、しっくり合っていれば、京子さんの反対なんか何でもないじゃありませんか。勇気を出して下さい。」
「わたしも、そう思いたいのです。でも……」
「そんなに恐いのですか。ね、僕を信じて安心していらっしゃい。」
 彼は、しずかに寄り添って、倭文子の肩に手をやろうとした。倭文子は、そっと身体をしりぞけた。だが、それが羞しさのためであって、嫌悪のためでないことはよくわかった。
「あのわたし、もう帰りますわ。今日は遅うございますから。」
 倭文子は、不安らしく立ち上った。
「じゃ、あしたまた来て下さいますね。」
 倭文子は、だまっていた。男と会合の約束をすることなどは、彼女にとってあまりに恐ろしいことだったのだろう。
「あしたの晩、ちょうど今頃来て下さいますか。」
 倭文子は、だまっていた。
「ね、来て下さい。ねぇ、ねぇ。お願いですから。」
 倭文子は、まだ返事をしなかった。
「十時カッキリに来て下さい。僕は早くから待っていますから。ね、いいでしょう。ね、ねぇ。」
 村川は、子供をすかせるように、倭文子の耳にささやいた。
 倭文子は、やっとかすかにうなずく。村川が引き寄せようとするのを、軽く振りのけながら、家の方へ歩み去った。
「何というかわいい女だろう。俺はすべてを彼女のために、ささげるぞ。」
 村川は、倭文子の後姿を見守りながら、心に誓った。


 恋人同士が、ランデブーをするときは、思いの深い方が、その場所へ先へ行っているといわれている。村川は、そんなことをつい今月号の雑誌で読んだので、その翌晩は九時半になると、もう、心が落着きを失っていた。
 倭文子が昨夕ゆうべはあんなに承諾しても、一晩のうちにどんなに気持が変っているかもしれない。気の弱い彼女は、人目を忍んでする恋の危うさ恐さをおそれ、今にして思い切った方が、結局幸福ではないのかしらと、考え直していやしないか。そんな不安が後から後から頭に浮んで来る。でも、その晩は、どうしたのか九時半が来ても京子が書斎にいて、日本館の方へ引き取ってくれない。庭へ出るつもりで、京子の部屋の前などを通り、つい声をかけられたらことだと思ったので、村川はいらだって来る心をおさえて、じっと書斎で待っていた。すると、十時近くになって、京子の部屋のドアが開いた。そして間もなく京子が廊下を伝いながら歌っているらしい歌が聞えて来た。
鐘が鳴りますかやの木山に
山は寒空、うすあかり
一つ星さえちらつくものを
なぜにちらとも出て見えぬ
 京子は美しい肉声が、自慢であった。この歌も幾度も聞かされた歌だが、この場合庭の四阿あずまやで、自分が待っている倭文子の心を、そのまま歌っているように聞えたので、村川は京子の足音が聞えなくなるのを待ちかねて、飛ぶように階段を駆け降りた。
 月は、昨夕ゆうべよりも澄んでいた。露をしっとりと含んだ庭の樹々は、銘々の黒い影を地に投げていた。
 四阿あずまやに近づいてみると、倭文子はしょんぼりと縁に腰をかけていた。村川は、その後姿を見ると、いとしさで胸が張りさけるようだった。何もいわずに、後から抱きしめて、キスをしたいような衝動を感じたが、彼はそれほど大胆ではなかった。
「よく来て下さいましたね。」
 倭文子は、何もいわないで顔を上げただけだったが、彼女のうれしさは、あの美しいひとみに一杯になっていた。
「お待ちになりましたか。」
 倭文子は、だまって首を振った。
「考えて下さいましたか。あなたが、どんな障害と戦っても、僕と一緒になろうと決心さえして下されば、僕はすぐにでもあなたと結婚したいのです。別に、あなたに縁談があるわけでもないでしょう。」
 倭文子は、また黙って首を振った。
「僕は、生涯きっとあなたを愛しつづけます。」
「でも、わたくし京子さんが……」
「京子さんなんか鬼に食われてしまえ! です。京子さんの反対なんか何です。それとも、あなたは僕が、不満なのですか。」
「まあ! わたし、もったいないと思っていますわ。」
「僕こそ、もったいないと思っているのです。」
「まあ!」
「ね、僕はどんなことがあっても、あなたを捨てませんよ。捨てませんじゃない、離れませんよ。あなたが僕から逃げようとしても決して逃がしませんよ。いいですか、僕が一生涯付きまとうものと覚悟して下さいよ。」
 村川は、情熱の募るままに、倭文子を抱き寄せながら、キスをしようとした。だが、倭文子は栗鼠りすのように、すばしこくそれをさけた。
「おいやですか。」
「いいえ。でも恥しいわ。」
「恥しいって。」
 村川は、再び力強く倭文子を引き寄せようとした。倭文子は、また身悶みもだえしてさけた。
「絶対にいやですか。」
「いいえ。でも。」
「恥しいことはないじゃありませんか。」
「どうぞ。この次に。」
「じゃ、明日あしたまた会って下さいますか。」
「ええ。」
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最初の接吻



 恋愛関係において、一番楽しい瞬間は、恋人同士が、その思いを打ち明けて、最初に手を取り合った時だといわれている。それはあらゆる楽しい希望を含み、しかも少しも性的な陰翳いんえいを持っていない無垢むくな歓楽の頂上かもしれない。だが、あまりに清教徒的だ。一歩を進めて、恋人同士が最初の接吻せっぷんに魂と肉とを肩身にふるわせた瞬間こそ、一番楽しい瞬間だといっても、誰も抗議する人はないだろう。
 村川は、そのくる日の晩が、待たれた。彼は、会社にいっている間、仕事が少しも手につかなかった。いつもより三十分も早く帰った。夕食をすませた後も、時計の針は、容易に廻らなかった。一時間が、二時間も三時間ものように思われた。あんまり、時間がたたないので白山の坂上まで散歩にいった。近頃流行はやって来た薬屋兼業のカフェで、時節には早いアイスクリームを食べて帰って来ると、まだ八時三十分である。
 九時をすぎると、彼は部屋に、じっとしていられなくなった。今夜こそ、自分が先にいって倭文子しずこの来るのを待とう、その方が一分でも二分でも早く彼女に会えるわけだ。そう思って、彼は九時十分に書斎を出た。庭へ降りて見ると、夕暮から雲の多かった空は、すっかり密雲に閉されて月の所在さえわからなかった。しかし、人目を忍ぶものに、月夜よりも闇夜やみよがよいことは、昔も今も変りがない。村川は、月のないのが気やすい気がした。
 建物から、二十間も離れている四阿あずまやで、小さい灌木かんぼくを避けながら歩いた。彼は、倭文子が来るまでは、三十分は待たなければならない。そう思って四阿あずまやに近づくと、意外、月のないため遠方からは見えなかったが、倭文子は昨夕ゆうべと同じ姿勢で、ちゃんと腰かけているのである。
 村川は、心が張りさけるように、緊張した。烈しい昂奮と情熱とで足がふらふらと震えて来た。村川は、その情熱の火花の中に、彼女に最初の接吻をしようと思った。なまじ、口に出して頼むからはずかしがるのだ。言葉よりも実行だ。いきなり後から、彼女を抱いて接吻をしよう。そう思ったので、彼はつかつかと倭文子の後へ迫った。彼女は、闇の中で、ちらと村川を見返ったようだったが、村川と知ると安心したようにまた向うをむいた。
 村川は、その動作で彼女も既にそれを許していると思った。彼は、背後から彼女の細いなで肩を抱きしめ、彼女の頬に彼の唇をよせた。
 何という歓喜であろう。倭文子も彼の唇を受けようとして、顔を後へ向けてくれたではないか。二つの唇は、いなずまのように合った。一分二分、二人には世界のすべてが消滅して、火のように熱しているお互の唇があるばかりであった。村川は、ただ今宵こよいの接吻一つのために今まで二十五年の半生を生きてきたような気さえした。
 相手もおそらくそうだっただろう。彼女の身体も、わなわなと震えていた。三分四分、二人は、息ぐるしくなって、顔を離した。彼女は、はじかれたように向うをむくと、はずかしさのために、うつむいてしまった。
 羞恥と歓喜との四五分が経った。二人は、だまっていた。村川は、やっと口を開いた。
「どうもすみませんでした。」
「すみませんもないものだわ。いやな村川さん。いきなり接吻なんかしてさ。」
 それは、倭文子のつつましい声とは、似ても似つかなかった。まぎれもない京子の高い華やかな声である。
 村川は心の中でアッと悲鳴をあげた。


 村川は、いきなり千尺の断崖を、逆さまに投げ落されたような気がした。彼の意識も感情も、めちゃくちゃに混乱した。名状しがたい悪感おかんが、全身を伝わり、手足がわなわなと震えた。彼は、知らずに毒を含んだ人のように、口中のつばを吐き出したかった。
 それは、まぎれもなく京子であった。闇の中ではあるが、髪の格好といい、両肩の容子ようすといい、まぎれもなく京子である。
 何という取り返しのつかない恐ろしい間違いをしたのだと思うと、村川ははらわたがちぎれるような苦痛を感じた。彼は足もとの地が裂けて、自分とこの失策とを一緒に呑んでくれればいいとさえ思った。
 だが京子には村川の心持はちっとも伝わっていなかった。彼女は初めて、男性から受けた接吻のために、スッカリ昂奮し切っているらしかった。
「村川さん、わたし、怒ってはいないことよ。ほんとういいましょうか。」
 そういって京子は村川を見上げた。夜の花のように、彼女の笑顔は闇の中にほのぼのと白かった。村川にはそれが女怪メッサの顔のように恐ろしかった。
「ね。ね。村川さん、ほんとういいましょうか、ね、ね。」
 村川は返事が出来なかった。そのほんとうを聞くのはおそろしかった。
「わたし、今だから白状するわ。わたし、ほんとうはあなたを愛していたのよ。それはずうっと先からよ。一高時代に、あなたが時々わたしの家へ遊びに来たでしょう。あの頃から、わたしあなたが好きだったの。」
 初めて、お互の思いを打ち明けた後に、恋人同士は、自分達のお互の恋の芽生めばえを話し合うものだが、京子も村川に対する恋心の成長を話そうというのである。村川は死刑囚が裁判長の判決理由書を、読み聴かされているような気がした。
「だからわたし、去年からずうっと、お嫁の話断っていたのよ。それであなたが卒業して上京するのを待っていたの、でもわたし変な性分よ。自分からいい出すの、どうしても嫌い、自分がいい出すのは、死んでも嫌い。だからわたし、あなたがいって下さるのを待っていたの。むろんわたし、自信があったわ。あなたがきっとわたしを愛して下さるだろうと。でも、心細くなったわ、いつまで待ってもあなたは何ともいってくれないんだもの。それに、倭文子さんと一緒に、カーテンの中なんかへかくれるんですもの、シャクにさわったってないわ。でもうれしいの。とうとう、わたしの自信が裏付けられたのだもの。」
 村川は、はらわたがプツプツちぎれるように思った。彼はいたたまらなかった。どうにかして京子の傍を逃げたいと思った。だが、そんな口実は何もなかった。
 京子は闇の中で、村川の顔を見上げながら、村川の着物のえりをいじっていた。村川はいじられる度に魂を凍らすような悪感が身体中に伝わった。
「でも、驚いたわ。いきなり、接吻なんかなさるものですもの、でもその方がいいわ。徹底しているわ。お互に愛し合っていることが、わかりさえすれば、プロセスなんかどうだっていいわ。ねぇ、村川さん、そうじゃない?」
 村川には、どう答えるすべもなかった。
「あなた、どうしてそんなにだまっているの。」
 京子はなれなれしくのび上って村川の顔に接吻しようとした。


 村川は、自分の顔をのぞき込もうとする京子を、そっと押しのけた。しかし、村川の愛を信じ切っている彼女には、そんな事は少しも苦にならなかった。
「ねぇ。村川さん、あなたいつから、わたしを愛していて下さったの。わたしちっとも気がつかなかったわ。」
 村川は、最初の恐ろしい激動が去ると共に、今宵の失策の結果が、まざまざと頭の中に浮んできた。京子に誤って、接吻という恋愛の約束手形を振り出したことは、恐ろしい間違いに違いなかった。その約束手形は、ほんとうの愛情では、支払えないのはもちろんだが、見せかけだけの愛情で、支払うことも夢にも思い及ばなかった。しかし、彼の約束手形は、もう京子の掌中しょうちゅうにハッキリと握られているのである。彼女が、その手形の支払いをあらゆる手段で、催促することは当然であった。だが、それよりもおそろしいことは、この失策のために、倭文子との間になり立ったばかりの恋愛が滅茶苦茶になることであった。こうしている間にも倭文子が、忍んで来て京子と自分との問答を聴いてはいやしないかと思うと、村川は烈しい心の苦痛のために、身体も心も引き裂かれるような気がした。
 京子に、村川の心持がわかるはずがなかった。
「ねぇ、村川さん! でも、わたしが肱附ひじつきやクッションを上げたのを知っていたのでしょう。あれで、わたしの心がわかったでしょう。」
 おやおや、肱附もクッションも、京子の手で作られたものだと知ると、彼は最後のとどめを刺されたような気がした。彼の心の中で、絶望のうめきを洩らした。
 この恐ろしい破局に立って、どう身を処していいか、村川にはわからなかった。京子に「間違って接吻をしたのです」とは、どうしてもいえなかった。それは、自分の失策をつぐなうために、京子を愧死きしせしめることである。人間として、そんなことは死んでもいえなかった。だが、それをいわない以上、京子が村川の愛を信じ、愛を受けたものとして、振舞うことに一言も文句はいえないのである。
「わたし、初めは驚いたわ。でも、こんなうれしいことはないわ。わたし、あなたが、倭文子さんを愛しはしないかとそればかり心配していたのよ。でも、やっぱりわたしだったのねぇ。わたし倭文子さんに悪いことしたわ。かくれんぼうのことで、怒ったりなんかして。わたし、倭文子さんにあやまっておくわ。」
 村川は、地獄に引きずり込まれるような気がした。京子は、村川が、石のようにだまっているのを少しも気にかけないで、快活に愛のささやきをつづけた。
「ええ、村川さん。わたし、あなたの接吻をすぐ受けたでしょう。でも、わたしをはしたないと思ったらいやよ。わたし、あなただから、ちっとも躊躇ちゅうちょせずに受けたのよ。ねぇ、その代り、わたしを一生捨てたら、ききませんよ。もし、一時のおもちゃになんか、したのであったら、わたしあらゆる手段で、復讐をすることよ。」
 京子は、ニコニコ笑いながらいった。
「ね。捨てはしないでしょう。」
 京子は、立ち上って、村川の胸にとりすがった。
「ね、それを誓って下さい。誓う代りに、もう一度接吻してくれない? ギブ・ミー・ザ・セカンド・キス! 第二の接吻をして下さいよ。」
 京子は、甘えながらねだった。
 女らしい妖艶さが、全身に溢れた。村川は、身震いがした。たとえ、死んでも第二の接吻なんてしてたまるものかと思った。
「ねぇ、ねぇ、第二の接吻ザ・セカンド・キスを!」


「まあ、どうしたの! お怒りになったの。わたしがあまり図々しいから愛想がつきたの。」
 京子は、黙っている村川の顔を、なれなれしげにのぞき込んだ。彼女の真赤な唇が、毒草の花のように不気味であった。
「え、なぜ黙っていらっしゃる?」
「僕、僕は……とにかく、帰して下さい。今日は、とにかく。」
「まあ。変な方! わたしに接吻して急に後悔したの?」
「とにかく、僕は考えたいのです。」
「まあ、考えてからしたのじゃないの! いいわ、お考えなさい。でも、わたしもうすっかり安心したわ。」
 京子は、村川から離れて立ち上った。
「今度、いつ会って下さる?」
 村川には、返事のしようがなかった。
「わたしの気のむいたとき、あなたのお部屋へ行ってもいいでしょう……。でも、この四阿あずまやもいいわねぇ。しずかで、誰も来ないし……」
「とにかく、今日は失礼します。」
 村川は、そういうと、二三歩歩き出した。
「まあ、ちょっとお待ちなさいよ。今度は、いつ会って下さる? わたし、ちゃんとお話がしたいの。よく、お話をきめてわたしから、お父さまにいうわ。」
 村川は、自分を縛る綱が、だんだん身に喰い入って来るのを感じた。
 村川はだまっていた。
「ねぇ、明日会って下さるでしょう。明晩ずっとお部屋にいらっしゃる?」
 村川は、仕方がなくうなずいた。彼は一刻も早く京子の把握から逃れたかったからである。
「そう。じゃ、また明日。」
 そういうと、京子は思い切りよく村川を離れると、闇の樹立ちの中を、ほの明るい建物の方へ歩き去った。
 この思い切りのよいのが、村川には恐ろしかった。彼女は、今宵の接吻一つで、村川を完全に占有しているつもりでいるのであろう。
 京子に離れると、村川はあらゆる精気が抜けた人間のように、ベッタリ四阿あずまやの縁に腰をついた。今日の失策の恐ろしさが、全身にしみわたってくる。一番、恐ろしいことは、倭文子が、自分と京子と話しているのを、どう思ったかということである。もし倭文子が、ちょっとでも京子の言葉を立ち聞きしたならば、彼女はきっと身震いをして、自分から離れ去るだろう。
 倭文子にどんな結果を及ぼすか、それが一番恐ろしかった。倭文子さえ、自分を離れないでくれれば、京子に誤って与えた恋愛の約束手形の無効を通告することだって、やってやれないことはないと村川は思った。
 彼は、京子が去るのを待って、倭文子が約束通り、来てくれはしないかと思ったのだが、彼がわざわざ持って来た時計は、もう十時半を廻っている。倭文子が、この辺に今までさまよっている訳はなかった。彼女は、遠くから村川と京子との姿を見つけると、猛犬の姿を見たうさぎのように、胸をとどろかせて、いっさんに自分の部屋に帰ったに違いなかった。
 自分の軽率な間違いから、倭文子と自分との成立ったばかりの恋愛を、恐ろしい羽目に投げ入れたことを考えると、村川は悔恨と絶望との苦しみに、胸が張りさけるように痛んだ。
 だが、どんな艱難かんなんでも来たれ、障害の上に障害は重なれよ、決して決して倭文子を放すものかと彼は心のうちで、幾度も誓った。
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二つの縁談



「どうにかして倭文子に会いたい。」
 村川は、一日中会社の事務をとりながら、考えていた。昨夜、ほとんど眠られなかったので頭がカサカサに乾いて、しびれるような疲労が全身に感ぜられた。
 倭文子が動揺さえしてくれなければ結局どうにかなるのだ。倭文子を失いたくないから、すべてが恐ろしいのだ。村川は結局そこへ考えついた。だが、倭文子と会うことは、今の場合危険な冒険に違いなかった。彼女の傍には、恐ろしい番兵が、くっついているのだ。
 世の中で、一番会いたいものと一番会いたくないものが、一緒にいるのだ。
 五時の時計が鳴るのを聞いてから、村川は会社を出た。が、足がいつものように、大手町の停留場に向かないのだ。
 小石川の家へ帰る勇気が、どうしても出て来ないのだ。帰りたいのは帰りたいのだが、書斎へ入ると、すぐ京子が飛込んで来そうなので、どうしても足が向かないのだ。
 早く倭文子と会いたい。倭文子の心持をきいて、昨夜の事件が彼女に、何の影響をも与えていないことを知って安心したい。だが、どうして彼女と会おうか、子供の遊戯にあるように、彼女の傍には、鬼がいるので、とても行かれないのである。
 手紙をかく! だが、それを手渡すこともなかなか困難なことに思われた。それに今度のような大事件の後では、会って彼女の顔色からも、呼吸からも、彼女の態度からも、彼女の心をただして安心したいのである。
 彼は、いつの間にか鍛冶橋かじばしを渡っていた。家へ帰る時間を、少しでも延ばしたかったのだ。京橋から銀座へ出た。そのとき、ふと彼はある手段を考えついた。
 それを考えつくと、彼は少し歩調を早めて、尾張町の交叉点こうさてんを通りすぎて、カフェ・オーロラに入った。
 二三度来たことのあるカフェである。天井と壁とを、青磁色の壁紙で張りつめ、黒色のテーブルと椅子とを用いた瀟洒しょうしゃな装飾が、彼に気に入っていた。
 中途半端な時間なので客は少かった。
「いらっしゃいまし。」
 彼とは顔馴染の目の少し落ち込んだ、しかしかわいい顔をした小柄なウェイトレスが、注文を聞きに来た。
「アイスクリームある――あればアイスクリーム。」
 村川は、今朝から食事さえ十分食っていないので、その一杯のアイスクリームが舌にしみ入るようにおいしかった。ウェイトレスは、村川の傍へ椅子を引き寄せて来て坐った。
「ねぇ、頼みたいことがあるんだがね、きいてくれるかね。」
「ええ。どんなことです。」
「電話をかけてもらいたいんだがね。」
「ええ何番です。」
「小石川の五百三十六番だ。川辺という家なんだ。そこへ、電話をかけてね、山内やまのうちさんのお嬢さんは、いらっしゃいますかというんだ。」
「まあお安くないのですね。」
「馬鹿! そんなのとは違うんだ。」
 村川は、真赤になって打ち消した。
「それでこちらは何というのです。」
「岡野といってくれないか。本人が出れば僕が代るから。」
「まあ。何だか変ですね。」
 ウェイトレスは、ニヤニヤ笑った。
「つまらないことを疑わずにかけてくれたまえ、お願いだ。」
「ええ。かけますわ。」
 彼女は、そういって、帳場のかたわらにある電話の方へ去った。
 村川は、こうした技巧が、何だかいやしいように考えられて、それを倭文子が軽蔑しはしないかと思うと、落着かない心を押えようとして、もう無くなっているアイスクリームを、しきりにスプーンですくっていた。


 村川に頼まれたウェイトレスは、気軽に小石川の五百三十六番を呼び出した。
「あの、お宅に山内さんのお嬢さんが、いらっしゃいますか。……ああそうですか。どうぞお電話口まで。」
 村川は、心配になって電話の傍へ行って立っていた。
「お待ち遠さま。」
 ウェイトレスは村川をからかった。
 だが、倭文子はこっちの名前も訊き質さないで電話に出た。
「お出になりました。」
 そういって、ウェイトレスが受話器を渡してくれたとき、村川は胸がつまって、咄嗟とっさに言葉が出ないほどだった。
「倭文子さんですか。僕です。村川です。」
「ええ。」
 倭文子は、あるかないかの小さい声で返事した。
「僕の声がわかりますか。」
「ええ。」
「昨夜は失礼しました。昨夜はあなたは、どうなすったのです。あすこへ来て下さったのですか。」
 倭文子は、何とも返事しなかった。
「偶然京子さんがあすこにいたのです。ご存じですか。」
 倭文子は、何とも答えなかった。
「もし、もし。もし、もし。」
「ええ。」
 倭文子は、かすかに返事をした。
「僕は、あなたに今すぐにでも、お目にかかりたいのですが、家では安心して、お話が出来ないのです。どこか外へ出て下さることは出来ませんか。」
 倭文子はだまってしまった。
「もしもし。出て下さること出来ませんか。」
 倭文子は返事をしない。
「もしもし。」
「ええ。」
「僕のいっていることおわかりになりますか。」
「ええ。」
 村川は、倭文子が煮え切らないのでじりじりした。
「どうして、ハッキリ返事をして下さらないのです。出て来て下さるのですか。下さらないのですか。」
「ええ。」
 村川は受話器を壁にたたきつけたくなった。
「どうしたのです。どうしてハッキリ返事をしてくれないのです。」
 倭文子はまただまってしまった。
「横に誰かいるのですか。」
「ええそう。」
 倭文子は初めて返事をした。
「いるって誰です。女中ですか。」
「いいえ。」
「じゃ、京子さんですか。」
 倭文子はだまった。
「京子さんですか。」
「そうです。」
 村川は、ガッカリして受話器をかけてしまった。
 彼は、前よりも、もっと暗い気持になって、テーブルへかえった。ウェイトレスが傍へ来た。
「何か強くないカクテルを貰おうかね。ミリオンダラーか何か。」
「やっぱりお安くないのですね。」
「馬鹿なことをいうなよ。」
 村川は、吐き出すようにいった。
 彼が、京子の家に帰ったのは、その夜十一時をすぎていた。彼のために、玄関のとびらを開けてくれた女中は、
「あの、旦那さまが、明日会社へいらっしゃる前にちょっとお会いしたいのですって。」といった。


 その翌日、村川は朝食を終えると、すぐ主人の部屋へ行った。昨夜女中から聞いた伝言ことづてが、気にかかってならなかったからである。
 川辺家の主人は、朝早く起きて西洋草花の手入れをするのが、この三四年以来日々にちにちの仕事である。村川が部屋へ行ったとき、主人はもう庭園から部屋に帰って、新聞を読んでいた。
「お早うございます。」
 そういって、村川は敷居の上に手をついた。
「ああ。お早う。こっちへお入り。」
 髪は、すっかり白くなっていたが、ひげのない童顔はつやつやとして、どこかに往年の精力をしのばせた。
 村川は、一間ばかり隔てて坐ったが、主人とこうして向い合うことが、滅多にないだけに、何となく窮屈である。
「どうだ、会社の方は、毎日行ってるか。」
「はあ。」
「少しは容子がわかったか。」
「はあ。少しはわかりました。」
「今井は毎日出て来るか。」
「お見えになっているようです。」
「女房が死んでいくらか、元気を落しているだろう。」
 今井商事会社の社長は、つい今年の正月夫人を亡くしていた。
「どうですか。私にはわかりません。」
「女房といえば、君は女房をもらう気はないか。」
 村川は、この突然な問いにはなはだしく、狼狽した。京子が、こんなにまで早く、父親にいおうとは思っていなかったからである。村川は、しばらくの間返事が出来なかった。
「どうだい。結婚する気はないか。」
 村川は、この機会に思い切って倭文子をもらいたい意志を述べようかと思った。その方が、京子の機先を制することではないかと思った。だが、直情径行をもって、政界を切って廻したこの老政治家はそれだけの余裕も見せなかった。
「どうだ。わしの娘をもらってくれんか。わがまま娘だがな、ハハハハハ。」
 村川は、京子がこれほど素早く、これほど簡明率直に自分に迫って来るとは思いも及ばなかった。
「どうだ。気に入らぬか。気に入らないこともないだろう。」
 断ることは、簡単だった。しかし、京子を断った後改めて倭文子を貰いたいといい出すことが至難なことを考えると、村川は躊躇ちゅうちょせずにはいられなかった。
「あまり、突然で急にお答えが出来ません。」
「うむ、それもそうだろう。じゃよく考えてからにしてくれ。それから、ちょっと念を押しておくが、これは主に当人の希望だからな。わしは、子供のことは一切子供の思い通りにさせる主義だからな。その点もよく考えてくれ!」
「はあ。」
 村川は、なぜか急に胸の中が、暑くるしくなって来た。京子の自分に対する思慕の烈しさ、老政治家の子供に対する優しさに、打たれたからである。
 だが、しかしそれかといって、愛するものをさしおいて、こうした縁談を受け入れることは絶対に思いも及ばなかった。
 彼は、逃げるように主人の前を離れた。問題が、具体化した以上いつまでも、京子に対して曖昧あいまいな態度をとってはいられなくなった。ハッキリ断ることが、自分を救い、あわせて京子を救うことになるのだ。
 それにしても、ぜひ倭文子とゆっくり会いたかった。彼女に会うことによって、勇気をつけたかった。京子を断ることは川辺家と断ち、川辺家の恩義にそむくことである。それをなすためには、異常な勇気が必要だった。この場合こんな勇気を養うものは、倭文子の愛の保証よりほかには何もなかった。
 彼が混乱した気持で会社へ行き、社長から頼まれた手紙を幾本もかき損じていると、給仕が彼の机の傍へ来た。
「村川さん、お電話でございます。」
「誰から。」
「川辺さんからです。」
 あっ! 京子だなと思うと、村川はすっかり憂欝になって立ち上った。


 村川は、引きずられるような重くるしい心持で電話口に出た。京子の得意な華やかな声で圧迫されることを予期していたからである。
「もし、もし、村川です。」
「村川さん? わたくし、おわかりになりまして。」
 それは思いがけなく、かわいい、中途で消えてなくなるように低い倭文子の声だった。
「まあ! 倭文子さんですか。」
 村川は、激しい感激で心が躍った。
「ありがとう。ありがとう。」
 村川は、何故なにゆえとなくそう感激してしまった。
「もし、もし。」
 倭文子の声は、きれぎれに続いた。
「どこから、かけているのです。」
「白山の自動電話です。」
 村川は、話したいことが、沢山あって送話器のなかには入れ切れないので、いらいらした。
昨日きのうのお電話中途で切れましたから、そのつづき……」
 と倭文子がいった。倭文子の明るい言葉で、村川は急にうれしくなった。
「それは、どうもありがとう。一昨日いいました通り、ぜひ、どこかでお話ししたいのです。」
「わたくしも、急にお話ししなければならなくなったのです。」
「じゃ、どこで待って下さいます。今すぐで大丈夫ですか。」
「今、京子さんお留守なの、それでわたくし出ましたの。」
「そう。それは万歳ですね。どこがいいでしょう。植物園は?」
「ええ、いいわ。」
「じゃ門の所で待っていて下さい。」
 電話は、部屋の一隅にあったが、村川は出来るだけ小声で話した。だが、部屋中の視線と聴覚とが、自分の背中に一面に集まっているような気がした。
 自分の机に帰って、全速力で仕事を片づけた。課長に急用が出来たことを告げて、社を出た。
 東京駅前の大通りへ出ると、折よく通りかかったタクシーを呼び止めた。
 恋する者は、幾度相手の心をたしかめても安心出来ないものだ。まして、村川は、一度きりしか倭文子と会っていないのである。今日こそ、倭文子の心をたしかめ自分の決心を告げて、十分な勇気と覚悟とで、京子に対する問題を処理せねばならないのだ。そう思うと、何か冒険にせむかう勇士のように、村川の心は軽快になってきた。
 シトロエンの下して間もないらしい車は、自動車道としては一番障害の少い大手町から一つ橋への道をまたたく間に疾駆して、神保町から小石川白山へと一文字に走った。
 白山下を、左へ折れ狭い道を、植物園に沿って徐行して行くと、そこに立っている電信柱の陰から、倭文子がちらと横顔を出した。
「ストップ!」村川は、あわてて叫んだ。
 でも、自動車は惰力のために坂を二三間すべって止まった。
 村川は、料金を払うと、後がえりして倭文子の立っている電信柱へ近づいた。
 倭文子は、顔を真赤にして、パラソルの先で、地上に大きい図を描いていた。
 茶がかった飛白かすり銘仙めいせんのそろいを着た華奢きゃしゃな身体に、処女らしい美しさが、みずみずしくにおっていた。


 村川が近づくと、倭文子は、あわててパラソルをひろげて、それで自分の上半身を覆ってしまった。
 村川は、ローズ色のパラソルに話しかけた。
「お待ちになった?」
 倭文子は、それに返事をしないでくつくつパラソルの中で笑いながら、先に立って坂を馳せ降りた。
「よく出られましたね。」
 倭文子は、返事をしないで限りない恥しさを、笑うことでまぎらしていた。植物園の門を入ってから、彼女はやっと笑い止んだ。そして、パラソルを右の方へ倒して、やっと村川に顔を見せた。
「すみません。お呼び出しして。」
「いいえ。僕こそ、どんなにお会いしたかったかわからないのです。」
 二人は、門からすぐ左に折れて罌粟けし畑とお茶畑との間の道を、睡蓮すいれんの花が咲いている小さい古池のみぎわに出ていた。
 恋人同士がこうして一緒に歩くと、初夏の樹々はみんなよろこびに、身をふるわせているように見え、道端の芝生までが、光りかがやいているように美しい。
 池のみぎわのベンチの上に、村川が先に坐った。そして倭文子を招いた。倭文子は、二尺も間を隔てて坐った。日曜でない植物園の昼は、人の気配さえしなかった。
「一昨日の晩、四阿あずまやへ来て下さいました?」
「ええ。」
「京子さんがいたでしょう。」
「ええ。わたくしびっくりしてしまいましたの。」
「それで、私達の話ききましたか。」
「いいえ。わたくし驚いて、とんで帰りましたの。」
「その後、京子さんが何かいいましたか。」
「いいえ。何も。」
 村川はやっと、安心した。
「それで、あなたのお話というのは。」
「わたくし恥しくていえませんの……」
 倭文子は、またパラソルをかざしそうにした。
「そんな事をいっていた日には、お話が出来ないじゃありませんか。何でもハッキリいって下さい。」
「でも……」
 倭文子は小さい顔を右へかしげた。
「何の話です。」
「あの、縁談ですの。」
「縁談! 突然ですね。」
「いいえ。今までに、二三度ありましたの。」
「いつも、断っていたのですか。」
「ええ。この話も一月も前から、ある話なの。でも、今度は伯父さまでも、ぜひにとおっしゃるの。それに京子さんが、いい口だいい口だとおっしゃるの。わたくしが、倭文子さんだったら、喜んで行くなんておっしゃいますの。」
「馬鹿にしていらあ。そんなこというより自分が行けばいいや。それで、あなた、むろん断ってくれたでしょう。」
「でも、折角いって下さるのですもの。その場では断れませんでしたの。」
 倭文子は、かなしそうに首をうなだれた。
「ハッキリ、断って下さい。それに、もうお互に曖昧あいまいなことは、いっていられなくなったのです。私は、あなたと一緒に川辺家を出なければならないかと思うのです。」
「なぜ。」
 倭文子は、不安そうに訊いた。
「そのわけは、後でいいますが、あなたはどんなことがあっても、どんな障害があっても、どんな人の反対があっても、必ず私の所へ来てくれますか。それを一番に誓っていただきたいのです。」
「ええ。」
 倭文子は反射的にいった。
「その程度じゃ、駄目です。もっと真剣にもっと本気に誓ってくれなけりゃ駄目です。」
「だって……」
 倭文子は真赤になって口ごもった。


「あなたが、本当に誓って下さらなきゃ、とてもお話なんか出来ないことです。」
「どんなお話ですの。」
 倭文子は、不安そうに訊いた。
「いや、まず誓って下さい。つまり、どんな事があっても、僕を離れないということを誓ってもらいたいのです。つまり、ラブ・イズ・オンリー・ロウ、恋愛こそ唯一のおきて、そう決心してもらいたいのです。」
 背後の丘の上に生えているかえでの大樹が、水色の葉を付けた大きな枝の一つを、二人の真上にさしかざしているせいか、倭文子の顔色は青白く見えた。
「とにかく、そこまで決心してもらいたいのです。その決心が役に立つかどうかは、別問題です。我々の愛が世間の道徳と一致する場合は本当に幸福です。だが、一致しなくなった場合は、社会も道徳もすべてを捨て、恋愛の掟に殉ずるという決心をしてもらいたいのです。」
 倭文子は、すべてが重大で、何となく恐ろしく思ったのであろう。口をかたく閉じたまま、小さいあごをだんだん胸にうずめた。
「どうです。誓って下さいますか。」
「ええ。」
「もっと、ハッキリ誓って下さい。」
「でも……」
 倭文子は、顔を赤くした。
「もっと、心をこめて誓って下さい。」
「ええ誓いますわ。」
 村川は、まだ何だか物足りなかった。もっと、彼女から、力が欲しかった。
「じゃ、いいますが、本当は僕、川辺のご主人から京子さんを貰ってくれといわれたのです。」
「まあ!」
 倭文子は、美しいひとみが、ぬけ出るほどに目をみはった。色がカッとあおざめた。
「ほんとうですか。」
「嘘なんかいうものですか。」
 倭文子は、ベンチから立ち上った。
「まあ! わたし、いや、いや。今の誓いとり消します。どうぞ、京子さんと結婚して下さい!」
 倭文子は、駆け出しそうな姿勢をした。
「何をいうのです! 馬鹿な!」
 村川は、倭文子の撫肩なでかたをしっかりつかんだ。
「わたし、いやです。どうしても、いやです。」
 倭文子は、村川の手を振切った。村川は、カッとした。
「倭文子さん! あなたそこへ坐って下さい! 何という、馬鹿なことをいうのです。それほど、あなたは京子さんが恐いのですか。それほど、あなたは自分よりも、他人が大事なのですか。京子さんとあなたの関係は何です。ホンの一時の関係ではありませんか。一時の関係のために、あなたの将来を犠牲にするのですか。他人のために、自分の運命を狂わすなんて、そんな馬鹿なことがあるでしょうか。」
 倭文子の今までかくれていた一つの性格が、今突然村川に現れたような気がした。彼女の感情は純真ではあるけれども、地震計のように感じ易いのだ。そうして、その感じによって彼女の心は、水銀の玉のように、ころころころがり廻るのだ。
「あなたは、何のために誓ってくれたのです。あなたの心はそんなに変り易いのですか。」
 倭文子は、真青にふるえながら、黙って立っていた。


 村川は、美しいの羽のように、もろい傷つきやすい心を持っている倭文子をいだいて、眼前に迫る難関を突破することが、どんなに難しいかを考えた。
 何よりも、彼女の心に鉄のような……とゆかなくっても、こんなにもろく動揺しない覚悟を植えつけることが、一番大事だと思った。
「もう一度腰かけて下さい。それとも歩きながら話しますか。」
 菖蒲あやめの咲いている向うの細長い池のみぎわを、三人の女学生がこっちへ歩いて来るのを見た倭文子は、村川の言葉をすぐ受け入れて歩き出した。
 かしかえでの大樹が、枝を交えている丘を上ると、急に眺望が開けて広々とした草原に出た。そこは、外国の公園に見るように、青い芝生の上に、杉やもみかえでや柏などの大樹がのびのびと五月の明るい空の中に、思う存分枝をのばしていた。
 木蓮の大樹が、まだところどころに花を残していた。チョウセンレンギョウという白い立札の立った大きい灌木かんぼくの一列が、黄色い花を一杯につけていた。
 村川は、倭文子に寄り添って歩いた。倭文子は、それを少しずつ気にして避けるので、二人は斜めに斜めに歩いた。
「どうして京子さんを、そんなに恐がるのです。僕がついているじゃありませんか。あなたの一身を安心して、僕の両手の中に託してくれないのですかねぇ。」
 村川は、少し恨みがましくいった。倭文子の顔色は、少しも恢復かいふくしていなかった。
「ねぇ、倭文子さん、僕はこういうことを考えているのです。我々が、何かの問題で、人生の岐路に立つとするでしょう。右にしてよいか左にしてよいかわからない。誰に訊いたって、いくら考えたって、わからないときがある。そんなとき僕は、こう思っているのです。自分の内心の叫びにきくのが一番いいと思うのです。人への遠慮とか、人への義理とか、人の意見とか、そんなことを考えないで、自分の本当の心が望む通りにすることです。右へ行った方が幸福か、左へ行った方が幸福か、それは神さまだってわかることじゃないのです。自分の思い通りにしたために、不幸の真中へ落ちて行くこともあるでしょう。だが、自分の思い通りにしたときは、失敗してもあきらめがつくと思うのです。自分の思った通りだから、仕方がないと。だが、人への遠慮、義理、人の意見などで、自分の考えを曲げて、それで不幸に落ちた場合は、諦めがつかないと思うのです。」
 村川は、そういって倭文子の顔を見た。自分の言葉の効果を知りたかったからである。だが倭文子の蒼ざめた顔には、わずかな赤味がきざしそめただけである。
「それで、あなたの本当の心は、どうなんです。僕を信じていてくれるのでしょうか。」
 倭文子は、だまっていた。村川は、おとなしい倭文子が、もどかしかった。
「こんなときは、ハッキリいってくれなきゃ困るのです。お互の運命がわかれるときなんですからね。あなたのお心一つで、僕の運命もきまってしまうのです。」
 村川は、息をはずませて、倭文子に迫った。倭文子は思い切ったらしくいった。
「わたし、あなたを信じていますわ。でも、わたしのことで、いろいろ難しいことが起ったり、京子さんがお怒りになったり、そのためにあなたが川辺さんをお出になったりするようなら、わたし死んだ方がましだと思いますわ。」
 彼女は、皆の十字架を背負おうとする女であった。


「たとえ、そのためにゴタゴタが起ったって、あなた一人の責任じゃないじゃありませんか。あなた一人が、犠牲になって、周囲を丸く納める必要が、どこにあるのです? もっと、自分を生かすことを考えて下さいよ。」
 村川は、倭文子の弱さが、もどかしくなった。しかし、よく考えてみると、やっと二十歳はたちになったばかりで、父も母もなく、伯父の家に身を寄せている倭文子の心が、日陰に咲く花のようにだんだんしなびて行くのは、当然のように思われた。彼女の弱さ、いじらしさを感ずれば感ずるほど、村川は彼女をしっかり把握したい欲望が、燃えさかるのを感じた。
「あなたは、目をふさいでじっと僕の腕に身をまかしておいて下さい。僕をしっかり掴んでいてくれれば、きっと明るい幸福な生活へあなたを連れて行きます。僕を信じて、僕にしっかりつかまっているわけには行きませんか。」
 二人は、いつの間にか公孫樹いちょうの大木の下の白いベンチに腰を下していた。
「恋を譲るとか、自分を犠牲にして周囲の円満を計るとか、そんなことは古い間違った道徳だと僕は思うのです。自分自身の本当の心を押しまげたところに、本当の生活はないはずです。あなたは、僕を愛していてはくれないのですか。」
 倭文子の蒼ざめた顔が、少し赤味を帯びた。
「それが問題ですよ。あなたが僕を愛し、僕があなたを愛している以上、問題はないじゃありませんか。本当に愛し合っていれば、千万人といえども、我行かんです。何が恐いのです。あなたは、そのために僕が川辺家と不和になるのがいけないというのですか。僕が、あなたとの愛を打ち明けて、川辺先生にお願いしたら、きっと了解してくれるだろうと思うのです。僕は、そんなことが心配じゃないのです。ただ、あなたのお心が不安なのです。ねぇ、倭文子さん、ちゃんと心をきめてくれるわけには行かないのですか。」
 倭文子が、鼠が猫を恐れるように、京子を恐がっていることが、村川にはハッキリした。もし村川と倭文子が結婚したときなど、京子がいかなる態度に出るかを考えると、倭文子は魂の底まで震えおののくのだろう。
「ねぇ、僕に安心させて下さい。安心して、京子さんとの縁談を断れるようにして下さい。あなたが、動揺すれば、僕の乗っている土台が崩れるようなものですからね。」
 倭文子は、すっかり考え込んでしまっていた。
「ねぇ、ハッキリした返事を聞かせて下さい。どんなことがあっても、僕と離れませんか。」
 倭文子は、かすかに、首を動かした。
「じゃ、僕は断りますよ。その結果、どんな事件が起っても、あなたはちゃんと僕につかまっていてくれますね。」
「でも……」
「何が、でもです……」
 村川は、つい烈しい声をあげた。
「いいですか。きっと動揺しませんね。」
 倭文子は、涙ぐみながら、うなずいた。
「ああ、そうそう先刻さっきの縁談の話ですね。先方はどんな人です。」
「そんな事申し上げられませんわ。」
「参考のため、ききたいですね。」
「でも、もうわたしもすぐ断ってしまうのですもの。」
「でも、名前だけくらいいって下さい。」
「かえって、お気を悪くするといけませんわ。」
「じゃ、僕の知っている人ですか。」
 村川は、不安になった。
「どうぞ、どうぞ、これだけはきいて下さいますな。」
「いやだな、気持がわるいな。」
「でも、わたしすぐ断るのですもの。」
「でもどんな方面の方です。」
「どうぞ。どうぞ。」
 そういって、倭文子は立ち上った。
「わたし、もう帰らなきゃなりませんわ。」
「そうですか。じゃ、途中まで一緒に行きましょう。」
 二人は、園の裏門の方へ歩いた。
 村川は、倭文子の心を掴んでいるようで、そのくせ不安だった。彼女の心は村川の掌中しょうちゅうに掴まれながら、そのくせふわふわしていた。女性に対して不安を感ずれば感ずるほど、男性の心はきつけられるものだが。
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詰問



 京子は、その朝父の部屋に、村川が呼ばれていたとき、母の部屋で母と話していた。彼女の心もさすがに、落着きを失っていた。そのそわそわした彼女を、母はからかっていた。
「村川さんもいいけれども、あんなおとなしい方と結婚すると、お前のわがままが、一生なおらないねぇ。」
「うそ! わたしだって、ご主人ときまれば、何でもいうことを聴くわ。」
「どうですか。怪しいものだねぇ。」
「お母さまのいうことだって、この頃はよく聴いているじゃありませんか。」
「そうねぇ。自分に都合のいいことだけはねぇ。」
「あら。この間だって宗ちゃんのあわせったじゃありませんか。」
「そうね。何日かかったかしら。あれでも縫ったことになるかしら。」
「だって、ピアノのレッスンもあるし、お花のお稽古もあるし、お縫物ばかりは出来ないわ。」
「お前、お台所の稽古も、少しはしておかないといけませんよ。お世帯しょたいを持っても、まるきり、女中まかせじゃ。」
「わたしだってご飯ぐらい、けるわ。そりゃわたし上手よ。去年逗子へ行っていたとき、毎日炊いたのよ。」
 そのとき、村川が向うの廊下を洋館の方へ去るのが見えた。京子は、一刻も早く、父と村川との話の結果が知りたかった。
「わたし、お父さまの所へ行って訊いて来るわ。」
 母が、驚いて止めるのも聴かずに、京子は父の部屋へ入って行った。
「まあ。何という娘だろう、ちっとも恥しいということを知らないだね。」
 母は京子の後姿を見ながら、嘆息した。
「お父さま。どうだったの。」
 父の部屋へ入って、父の前に坐ると、京子はさすがに顔を少し赤めながら訊いた。彼女は、母よりも父の前にもっとわがままだった。
「うむ。考えさせてくれというのだがねぇ。至極しごくもっともな言い分だ。」
 京子は、それを聴くと、急に白い二つの頬をふくらませた。
「ええ、考えさせてくれって?」
 人を馬鹿にしている! と彼女は、心の中で怒った。
「もっともだよ。二つ返事で承諾するような男なら、頼もしくもないよ。」
「そうかしら。だって。」
「何も、そう急ぐことはない。同じ家にいるんだもの。」
 京子は、自分に接吻せっぷんをしておきながら、父の前で、「考えさせてくれ」などという、村川の白々しさがしゃくにさわった。彼女は、村川の部屋へ行って、なじりたかった。だが、自分があまりやきもきしているのを、男に知られるのが恥しかったので、父の前に十分ばかり辛抱していた。
 洋館へ帰って、玄関へ行ってみると、もう村川の赤革の靴がなかった。昨夜も夜遅く、自分が寝てしまった後でなければ帰らなかった村川のことを考えると、京子はじりじりして来た。自分が、あまりに大胆に彼の接吻を受けたので、厭気いやきがさしたのではないかと思ったりした。
 午後になると、彼女は益々いらいらして来た。何だか今日も、村川が遅く帰って来るような気がしてならなかった。一層のこと、自分から出かけて行って、村川に会おう、そして一刻も早く、彼の承諾をききたい。そして、一緒に丸の内から銀座の方を散歩しよう。彼女も、銀座を歩くとき、街の灯に、かがやく青春をかざして歩く恋人同士を見て、幾度か胸を躍らしていた。今日こそ村川と一緒に恋人同士として歩いてみよう。彼女は、そんなことを考えると、胸が愛欲のなやましさで張りさけるようだった。
「ねぇ。お母さま。わたし銀座まで行ってもいい。」
「何のご用?」
「いつかの指輪なおしてもらうの。」
「一人で。」
「いけない?」
「倭文子さんと、いらっしゃいよ。」
「倭文子さんなんかいや!」
「じゃ、暮れないうちに帰っていらっしゃい。」
 京子は、自分の羽織と着物と帯との一番よい配合を考えて、盛装した。


 京子は、白山から電車に乗った。出かける前、電話で知らせようかと思ったが、不意に村川を驚かしたい気持もあったので、電話はかけないで家を出た。
 彼女は、盛装すればするほど、美しくなる顔だった。オールバックにも七三にも飽きた彼女は、真中から二つに割っていた。鼻が高く、目が大きくクッキリと白い顔には、古代紫のかすみ模様の地紋のあるシャルムーズ縮緬ちりめんの羽織が、ぴったりとからだについていた。
 乗客の視線が、自分の身体にふりそそぐのを感じながら、彼女は村川と一緒に、銀座のよいを散歩する幸福を、いろいろに想像していた。
 だが、京子が大手町で降り、今井商事株式会社のあるビルディングに入り、そのエレベーターで胸を躍らせながら吊り上げられていたとき、すぐそれと並んだもう一つのエレベーターで、村川が倭文子しずこと会うために、胸を躍らせながら吊り下げられていたのを、夢にも知らなかった。二人は中途ですれ違った。ちょうど、それが二人の運命を暗示するように。
 五階で、エレベーターを降りると、そこにある図面で、今井商事会社の所在はすぐわかった。
 今井商事会社には、父が紹介した人が村川の外に、幾人もいるので、京子は知った人に顔を合せるのがいやだったが、どうせ自分と村川との関係はすぐ公けになることだと思い切って受付と書いたドアを開けた。
 すぐそこに受付の女事務員がいた。
「あの村川さん、いらっしゃいませんでしょうか。」
 女事務員は京子の美しさに驚いて、目をみはりながらいった。
「そこでお会いになりませんでしたか。今お出になったばかりですよ。」
「いいえ、気がつきませんでした。」
「お出かけになったばかりですよ。」
「そうですか。」
 京子は、ひどくがっかりした。
「エレベーターで、おすれ違いになったのでしょう。」
「もう、帰ったのでしょうか。」
「もしかすると、お茶でも飲みにいらっしったのかもしれません。」
 京子は希望を持とうとすると、向うの机からじろじろ京子の顔を見ていたもう一人の女事務員がいった。
「いいえ。村川さんは、電話がかかってお帰りになったのよ。」
 京子は、気持が全く暗くなってしまった。誰から電話がかかったのか、急にじりじりして来た。
「そう。じゃ、また。」
 彼女が、むしゃくしゃして廊下へ出て一二間歩くと、彼女は急に後から呼び止められた。
「川辺さんのお嬢さんでいらっしゃいますか。あの、社長がぜひお目にかかりたいと申しております。」
 さっきの女事務員が、女王に対するような丁寧なお辞儀をした。
 今井当之助とは、京子は幾度も会っていた。だが、今日なんか決して話したい相手ではなかった。
「あの折角ですが、ちょっと急いでいますので。またこの次に……」
 そういって、京子が去ろうとすると、今井があわただしくドアをあけて廊下に出て来た。今井は、三十をいくらか過ぎていた。立派な顔だが、どこかしまりがなかった、よくこうした実業家の後嗣あとつぎに見るように、何よりも一番挨拶が上手であった。
「まあ。ちょっと、私の部屋へお通り下さい。受付の者が、大変失礼しました。村川君にご用だったのですか、ちょうど今帰ったばかりだそうですよ。何でもお宅から電話がかかって来たとかで。まあ、ちょっと休んでいらっしゃいませ。こんな殺風景な事務室でも、お茶くらいはございますから。」
「宅から電話がかかりましたって。そんなはずはないんでございますが。」
「まあ。とにかくお入り下さい。調べさせましょう。」
 京子は、つい、ひっ返さずにはいられなかった。


 今井は、京子を社長室に案内した。仮事務所ではあったけれども、さすがに椅子やテーブルは落着きのある立派なものを使っていた。
「どうぞ、おかけなさいませ。一昨日でしたかその前の日でしたか、お父さまにお目にかかりましたっけ。」
「さようだそうでございますねぇ。」
「今日は村川君に、ご用事ですか。」
「ええ。」
 今井は、盛装した京子を、恍惚こうこつとして見ていた。女事務員がお茶を持って来た。
「そうそう、さっき村川さんに、どこから電話がかかって来たか、よく訊いておいで。」
「あの、川辺さんとおっしゃいましたよ。私が、電話に出たのでございます。」
 女事務員は直接に京子に答えた。
「そうでございますか。」彼女は心の中の失望や疑惑を押えて平気に答えたが、なぜ自分の家から電話がかかったのか、どう考えてもわからなかった。
「この間、お父さまにお目にかかったのは、山内やまのうち倭文子さんのご縁談です、お聞きになりましたか。」
「ええうけたまわりました。もうよっぽど進んだそうでございますね。」
「こっちの方は、すっかりまっているのですけれども、倭文子さんの方が。」
「倭文子さんも、きっとご承諾なさいますわ、わたし、極力すすめていますの。」
「この次は、あなたの順番ですな。」
「いいえ。わたしの方がさきへきまりますわ。」
 京子は、そういいたいのをこらえて、微笑していた。
「僕も、このまま独身では行かれないのですが。いい候補者はないでしょうかな。」
「ございますわ。きっと、ありすぎて困るくらいでしょうよ。」
「どうですか。再婚ですし、子供が一人あるんですからね。」
「いいじゃございませんか。そんなこと、考えようでは何でもありませんわ。」
「そうですかね。でも、あなたや倭文子さんのような美しい方は、来ていただけませんね。」
「いいえ。そんなこともございませんでしょう。」
 そういって、京子は少し顔を赤くしながら笑った。心の中では、
「欲ばっている! 再婚で子供があって、その上赤坂や新橋といろいろうわさを立てられているくせに、まだ処女を要求している! だれが」と心の中でベーと舌を出した。
「わたし、もう、失礼いたしますわ。」
 そういって京子は、立ち上った。
「すぐお宅へお帰りですか。」
「いいえ。ちょっと銀座へ出まして。」
「あの私が、お送りいたしましょう。今、私も帰るところですから、自動車で銀座からお宅へ、お送りしましょう。」
「いいえ。それには及びませんわ。」
「いいじゃありませんか。たまにはあなたのような美しいお嬢さんを送らせて下さい。」
「いやな方。」
「ご立腹ですか。」
 それほど、単純な京子ではなかった。こんな太刀たち打ちなら、どんな男性と立ち向っても、負けている彼女でなかった。
「そう。では送っていただくわ。」
「じゃ、そろそろ出かけましょうか。」
 芸妓げいしゃなどとの相乗りには、あきあきしている今井は、こうした令嬢との相乗りに、新しい生活の昂奮を感じながら、京子を先に、買ったばかりの自慢のキャデラックに乗った。


 自動車は、東京駅の前を斜めに、鍛冶橋にさしかかった。道路がわるいために、盛んに動揺するけれど、それが優秀な車体ボディとクッションとのために、快い振動となって、身体に伝わって来る。ともすれば、人を肉感的にする振動だ。
 今井は、かねてから京子の美しさに心をひかれていたが、妻があったときは、遊び人たる彼もそれを禁断のこのみだと思っていた。今では必ずしも、そうでない。花柳界の女性に食傷している彼は、こうしてすれすれに坐っていると、京子の処女らしいにおいと魅力とで、なやましくなってしまう。彼は着物を通じて、彼女の両肩や乳房のあたりのはり切った瑞々みずみずしい肉体になやまされるのだ。白い頬など、つやつやして輝いている。
 その上に、彼女に見る女性としての品位、尊厳、それは、金力の前にこびを売る女性などにはとうてい見られない精神的装飾だ、そうした品位や尊厳や、処女としての羞恥を一枚一枚はいで、そうして彼女のあらゆる真実を自分のものにするのでなければ、女性猟人の対象としては、面白くないのだった。
 彼は、こうした女性を相手としてこそ、どんな面白い恋愛冒険でも出来ると思っていた。
 尾張町を過ぎると、京子は直接に運転手に命じて、車を止めさせた。
「ちょっと、お待ち下さいませね。」
 そういって、フェルトの草履ぞうりで、軽く歩道に降り立った。一人残った今井は、どうして彼女を一刻でも長く自身の傍にひきつけておくべきかを考えていた。
「お待ち遠さま。」
 京子は微笑しながら帰って来た。
「おやしきへですか。」
 運転手はそう訊いた。
「そうだね……」
 今井はまだ考えがついていなかった。
「どうです、お嬢さん。この辺のカフェでお茶でも飲んで行きましょうか。折角銀座まで来たのですから。」
「いいえ結構でございます。」
 京子は、一刻も早く家へ帰りたかった。早く帰って、村川に、一体だれが電話をかけたかを確めたかった。
「ほんのちょっとでいいですから、交際つきあって下さいませんでしょうか。」
「わたし、すぐ帰らしていただきたいのです。」
「そうですか。カフェなんかお入りになると、お家で叱られますか。」
 それが、勝気な彼女を、少し傷つけた。
「そんなねんねぇじゃ、ございませんわ。父でも母でも、わたしのことは干渉なんか一切いたしませんわ。」
「じゃ、ちょっと交際つきあって下さってもいいじゃありませんか。」
「ええ、お供いたしますわ。」
 京子は、こんなうすっぺらな男を恐がっているとでも思われるのが心外だった。
「どうです。日吉町に地震後出来たカフェでうまい家があるのですが。」
「エー・ワン・カフェでしょう。」
「よくご存じですね。ついでにあそこへ行って、晩餐ばんさんをご一緒にいただきましょうか。別にお宅でご心配になることはないでしょう。」
「いいえ。決して。」
 京子は、こんな男から小娘らしく思われるのが、いやだった。相手のいう通りにして、しかも一指もゆるすまじき品位を見せてやろうと思っていた。
「じゃ。日吉町へ。」
 今井は運転手に命令した。


 食事のとき、今井は、
「失礼して一杯いただいて、よろしゅうございますか。」
 と、京子に断って、カクテルを注文したが、それがいつかウイスキーに変り、三杯となり、四杯となり、食事が終って、自動車に一緒に乗った時は、彼の白い顔が、微醺びくんを帯びて輝いていた。
 街は、すっかり夜になっていた。数寄屋橋から、すぐ右に折れ、丸の内の大道を滑るように走った。自動車の中には、さわやかな初夏はつなつの宵があった。
「今あすこに新橋の芸妓げいしゃが三人いたの。ご存じですか。」
「存じています。あなたにあいさつした人達でしょう。」
「それまで、気がついていらっしゃるのですか。これは恐れ入りました。」
「わたしだってその位なこと、気がつきますわ。」
「ああいう連中を、あなたはどういう風にお考えになりますか。」
「美しい人達だと思いますわ。」
「そうですかね。僕は教養のない美しさにはあきあきしました。女性も、頭のない美しさは時代遅れですね。精神的品位と教養、それがなければ泥人形ですね。」
「そんなことをおっしゃる資格がおありになるの?」
 そういって、ひやかしたいくすぐったさを、京子は微笑ほほえみでこらえていた。
「そこへ行くと、あなたや山内のお嬢さんの美しさは……」
「およしなさいませ。倭文子さんを賞めるのにわたしを引き合いに出すのは。」
「いや、私が賞めたいのは、あなたです。」
「どうもありがとうございます。」
 そういって、京子は丁寧に頭を下げた。
「いや、あなたは才気縦横というところがおありになりますね。あなたのようなお嬢さんが……」
「今井さん。よっぽど酔っていらっしゃいますね。」
「いや、本気です。現代の婦人美は、玄人くろうとからすっかり素人しろうとに移りましたね。今の十七八歳から二十歳はたちまでのお嬢さんの美しさは……」
「今井さん、わたしは二十一なのよ。」
「これは失礼いたしました。この頃のお嬢さんは、二十四五でも、十七八にしか見えません。僕は、本当に美しいお嬢さんと……」
 自動車が大きいカーブをした。今井は、その動揺を利用するように、京子のからだに、しなだれかかった。京子は、眉をひそめて、身体をぐっと遠ざけた。
「いや、僕は、こんなうれしい晩餐は初めてです。これから、ときどきこうしてお目にかかりたいものですね。」
 京子は、だまっていた。
「京子さん。これで僕はまだ三十二歳です。あなたとは十一違いです。もっとも子供は一人ありますがね。女の子だし、乳母うばをつけておけば、結婚生活の邪魔には少しもなりません。僕は、頭のいい、教養のある、音楽や美術のわかる、それで美しい……」
「それじゃ、わたしなど、とても資格はございませんね。」
「いや、どういたしまして、僕は実はその……」
 今井は、京子の右の手を、彼の左の手でそっと握った。
 京子は、その手をパッと払いのけた。
「今井さん、あたし、芸妓げいしゃじゃございませんのよ。」
「なるほど。これは恐れ入りました。」
「ああ、運転手さん、そこの角で止めて下さいな。わたくしここから歩きますから。交番で断ってもらうのは面倒だから。」
 自動車は、白山下で止った。
「今井さん。どうもありがとう。」
「いや、これは恐れ入りました。」


 京子は、家に帰ると、すぐ母の居間へ行った。母は、食後のしばらくを、倭文子とむつまじそうに話していた。
 母は、驚いたといった風に、京子の顔を見上げた。
「まあ! どうしたの。こんなに遅く。ご飯食べて来たの。」
「それよりも、お母さま!」
「何ですの! あなた、立ちながら、親に口をきいて……」
 京子は、面倒くさいといったように、スカーフをかなぐり捨てると、敷居際に、横坐りに坐った。
「お母さま! 村川さんの会社に電話かけて?」
「いいえ。かけませんよ。なぜ? いきなりそんなこと訊いて。」
 京子は、母には答えないで、倭文子の方をじっと見つめた。
「倭文子さん、あなたはまさか、かけはしないでしょうねぇ!」
 京子の鋭い視線を受けると、倭文子の小さい顔は、急にまたその半分ぐらいに小さくちぢみ上った。
「いいえ。」
 彼女の声は、かすかに震えた。
「そう。家の者だれもかけやしないかしら。」
「お母さんがいいつけないんだもの、誰もかけるわけがないじゃないか。どうしたの、そんな険しい顔をして。」
「いいの。それよりも、村川さんいて?」
「いらっしゃるよ。でも、お前、何をそんなに腹を立てているの?」
 京子は、ぷいと立ち上った。そして、呆れている母を後にして、廊下へ出た。自分の部屋へ行って不断着に着換えるのさえ、彼女はもどかしかった。村川が父に即答しなかった不満、会社へ尋ねて行って、徒労になったくやしさ、村川に自分の家の名を使って電話がかかって来た不安、おしまいには、今しがた今井に手を握られた憤慨までが一緒になって、彼女の心には激情が一つの火の塊となって、燃え狂っていた。その火の塊を思う存分村川に投げつけるほかはなかったのだ。彼女は、息を切らしながら、洋館の階段を上ると、村川の部屋のドアを、白い柔かいこぶしで、思い切り打った。
 中には物音がしなかった。
「村川さん、入ってもいい。」
 まだ中から、物音がしなかった。
「入ってもいい、村川さん。」
 彼女の声は、はげしかった。
「どうぞ。」
 村川の声は、ひくい、しかしながら、どこかに覚悟のひそんでいる声だった。
 京子は、サッとドアを開けた。白い頬が赤らみ、美しい眉が心持逆立ち、大きい眸が輝き、隠し切れぬ殺気が、スラリとした長身に流れていた。
 村川は、椅子から立ち上って、チラリと京子の方を見ると、すぐ眸を、カーペットの上に落していた。いい血色が光を失い、大きい眸が、オドオドとふるえていた。
 京子は、つかつかと村川の傍に進んだ。
「そんなに、四角ばってあたしを迎えなくてもいいことよ。どうぞおかけ下さいな。わたしもかけますから。」
 そういうと、京子は、壁際にあった肱掛ひじかけ椅子を引きよせて、村川と相対して腰をかけた。


「ねぇ、村川さん、わたしお尋ねしたいことがあるのよ。」
 村川は、しずかに顔をあげた。一昨日おとといからのもだえ苦しみで、彼は別人の如く憔悴しょうすいしていた。
「でも、お尋ねする権利があるかどうかはわからないことなの。もしお気にさわったらゆるして下さいな。」
 京子は、ニッコリ笑った。しかし、それは殺気を含む美しい笑いであった。
「実は、先刻あなたの会社へうかがったのよ。いらっしゃいませんでしたね。」
「ああ、そうですか。それはどうも。」
 村川は、少しあわてた。あせている顔色が、更にあおざめたようだった。
「電話が、かかってからお出かけになったそうですね。」
「そうです。友人から、電話がかかったものですから。」
 村川は、じっと京子の顔を見直した。彼の眸は、恐れおののいている彼の心をかくすことは出来なかった。
「何というお友達なの。」
「岡野という男です。」
 村川は、明かに狼狽していた。
「そう。岡野さんという方なの、嘘つきねぇ。」
 京子は、はき出すようにいった。
「だれがです。」
「あなたの会社の女事務員よ。川辺さんから電話がかかったというのよ。幾度聞いてもそういうのよ。わたし、おかしいと思ったわ。家からあなたに電話がかかるわけはないのですものねぇ。ねぇ。そうでしょう。」
 京子は、村川の顔を――狼狽してあおざめている顔を、近々とのぞき込んだ。
 村川は、意地のわるい京子の凝視をさけてうつむいた。
「電話の話は、それでいいわ。どうせ、たいした話ではないのですものね。あなたの会社の女事務員の間違いでなく、本当にだれかが家の名前をいったにしろ、その方がご都合のいいことなら何でもないことだわ。そんなこと、わたしかれこれいうことではないわ。ご免なさいね。村川さん。」
 京子は、美しい眸をまたたきもせずに、村川を見つめていた。それは、美しい女王が、むち打たれる奴隷を見ているような目付だった。
「それよりも、わたしお訊きしたいことがあるの。これだけはハッキリお答えしていただきたいの。」
 村川の頭は、前よりももっとうなだれた。
一昨日おとといの晩、お庭の四阿あずまやであなたがわたしにしたこと覚えていらっしゃる?」
 京子のからだは一時に緊張した。彼女の顔には、村川の答えによってはゆるすまじき色が、ありありと浮んだ。
 村川の顔には、苦悩の雲がもくもくと動いた。
「覚えていらっしゃる?」
 村川は、蒼白になってしまった。
「覚えていらっしゃる?」
 村川のカーペットに置いている両足はガクガクとふるえた。
「覚えていらっしゃる?」
 京子は、無表情の声で、リフレーンのように、つづけた。
「覚えています。」
 村川は重罪囚が、白状するように頭を下げた。
「そう。それなら、いいの。でもそれならなぜ、お父さまから申し上げた話をすぐ承諾して下さらないの。」
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呪い



「あなた、父に考えさせてくれと、おっしゃったのですって。考えるも考えないもないじゃありませんか。わたしそんな煮え切らないこと、おっしゃる方嫌いだわ。――」
 京子の声には、露骨な非難が、ひびいた。
「わたしに、あんな取り返しのつかないことをなすっていて、考えるって、何をお考えになるのです。よくよく考えてからなすったことじゃないの。」
 村川の顔には、残っていた血色が、ことごとく無くなり、ふるえる身体をささえるつもりで、右の手を差しのばし、机の一端を握っていたが、その手にはげしいわななきが、絶えず起った。
「わたしは、芸妓げいしゃや娼婦ではありませんよ。」
 京子は先刻、今井にいったことを、つい又くり返したので、怒っていながら自分でおかしかった。
「わたし、だれの前にもはずかしくない清浄な処女だわ。あなただって、立派な紳士でしょう。結婚なさる意志がなくて、処女の唇に触れていいか悪いかは、ご存じでしょう。」
 村川は死人の如く、声がなかった。
「処女の唇は、貞操のしるしよ。その女の貞操のペナントだわ。結婚する意志がなくて、処女の唇にふれるような男があったら、わたし他人のことだって、許しておかないわ。そんな男が、一人でも世の中に存在したら、わたし処女の神聖のために、この世の中から追い出してあげるわ。女同士の連盟を作って追い出してあげるわ、きっときっと、その男をたたき出してあげるわ。」
 京子は、火のような性情の女だった。いや火というよりも、爆弾にしかけた口火のような女だった。
「わたし、何もいうことはないわ。お父さまの所へすぐいらしって下さい。そして、すぐ承諾の返事をして下さい。何をお考えになるのです。今更お考えになる権利も必要もないと思うわ。」
「京子さんゆるして下さい。」
 村川は、狂気のように叫んだかと思うと、腰かけていた椅子からずり落ちて、カーペットの上に、ひざまずいた。
「どうぞ。ゆるして下さい。みんな僕のあやまちです。どうぞゆるして下さい。」
 京子は、急に笑い出した。
「おほほほほ、わたし、許す許さないといっているのではないわ、わたし、許しているじゃありませんか。許しているから、お父さまに、すぐお願いしたのじゃありませんか。」
「いいえ。そうじゃありません。僕のあやまちです、僕は……僕は……」
 村川は、口ごもった。
「じゃ、あなたは、結婚する意志がなくて、ただ一時のなぐさみに……」
「いいえ。そうじゃありません。」
 村川は、身もだえして打ち消した。
「そう。それじゃ、いいじゃありませんか。でも結婚する時期を延ばしてくれとおっしゃるの。」
「ああ、京子さん。何もかもいってしまいます。どうぞ、僕をゆるして下さい。僕は……実はあなたをあやまって、あなたをある人と取り違えて……」
 京子の顔色は、たちまち土の如くあおざめた。
「ええっ! 何とおっしゃるんですって?」


「申訳ありません。どうぞ、ゆるして下さい。僕はあやまってあなたを……」
 村川は、カーペットに頭をすりつけた。
 京子の顔は、パッと赤くなったが、それがみるみるうちにうすれると、今度は逆に白く白くすみわたって、恐ろしい殺気が、二つの眸から、ほとばしった。彼女が、普通の女であったら、この恐ろしい恥のために、声を立てて泣き倒れただろう。ただ、彼女の勝気は、悲しみを怒りに換えて、じっと辛抱しているのであった。
「京子さん! どうぞゆるして下さい。」
 京子は、唇を破れるまでかんで、五分間近くもだまっていた。彼女は、怒りのために、ふるえようとする手や足を、懸命の力で支えていたのである。
「どうぞゆるして下さい!」
 村川が、幾度目かに許しを乞うたとき、彼女の覚悟はやっときまったのだろう。彼女は、冷たい低い声でいった。
「ねぇ、村川さん、人としてゆるせる事とゆるせない事とがあるでしょう。そうじゃない。」
 村川は、だまってうなずいた。
「わたしは、あなたが本当に愛していて下さると思ったから、またあなたを本当に愛していたから、あんなに大胆にあなたに許したのでしょう。それは、間違いだからといって取り返せることかしら、わたしは、女として自分の夫にしか許せないことをしてしまったのよ。そんなことを、あなたがさせていて、それで過ちだからゆるしてくれ。それじゃ、わたし、どこに立つ瀬があるの。」
 村川は、ひざまずいたままおもてを上げようともしなかった。
「村川さん。よして下さいよ。そんなところへ坐るのなんか。ちゃんと腰をかけて聞いて下さいよ。」
 京子は、うずくまっている村川の手を取って、むりに椅子にかけさせた。村川は、女の先生に叱られている小学児童のように、おとなしく腰をかけた。
「それに、あなたが過ちと思うなら、ちゃんと償いをするのが当然じゃないかしら。あやまったのは、みんなあなたの責任じゃない? たとえ夜だからといって、わたしを自分の愛している女と、取り違えるなんてそんな不覚な間違いようがあるかしら。またその女の人、だれだかわたし知らないわ。でも、その女の人を本当に愛しているなら、どんな暗い闇の中だって、その人だか、その人でないか、感じでも、においでも、すぐわかりそうなものね。それがわからないとすれば、本当に愛しているのじゃないでしょう。ねぇ、そうでしょう。そうだと、おっしゃいよ。」
 村川は、京子にたたきつけられても、答えるべき答は出てこなかった。
「いいわ。わたし間違われて、キスされたのでもいいわ。それでもうれしいわ。もともと、あなたを愛していたのだもの。わたし、うれしいわ。わたし、それを喜ぶのは、当然だと思うわ。ねぇ、わたし怒らないわ。その代り、その間違いを、本当にして下さいねぇ。わたし、おねがい! わたし、あなたに取返しのつかないことをしたのだもの。わたしあなたを心の中で愛していたことわかったでしょう。あなたも愛して下さいよ、初めは間違いの接吻、その次から本当の接吻、ねぇ村川さん、わたしがあなたを愛しているのわかったでしょう。わたしを愛して下さいよ。」
 京子は、自分の椅子を離れると、村川に近づき、村川の膝にすがりついた。
「ねぇ、村川さん。わたしを愛して下さいよ。そして、今度はわたしに、本当の接吻をして下さいねぇ。わたしに第二の接吻をして下さいね。」
 京子の顔には、怒りがいつかとけて、妖艶な微笑が溢れていた。


 村川は、自分の膝に取りすがっている京子のやわらかい手の触感や、妖艶な笑いや、むせるような呼吸のにおいに、かなり心を動かされたのは事実である。その上、勝気な京子が、こんなにまで下手に出るのを見ては、いじらしさで、胸がつまってくるのだった。しかし、一度やった失策を、更にくり返すようないい加減なごまかしは出来なかった。いうべきことは、これ以上の間違いを防ぐためにも、ハッキリといっておかねばならなかった。それが、どんなに京子を怒らし、すべてをどんな破局に導くにしたところで。
「京子さん、あなたのお心はうれしく思います。でも僕には……僕にはもうあなたのご好意を受けるだけの自由がないのです。どうぞ僕をゆるして下さい。」
 京子は、じっと村川の膝におもてをふせていた。
ほかの点では、どんな償いでもいたします。どうぞ、僕をゆるして下さい。」
 京子は、それには答えなかったが、ふいに顔をあげた。
「いくら、お願いしても駄目?」
 京子は美しいひとみで、じっと村川を見つめた。村川はその凝視をあわててさけながら哀願した。
「どうぞ、ゆるして下さい。」
「もう一度、お願いするわ。ねぇ、村川さん、わたしを愛して下さい。わたし、心からあなたを愛しているのよ。ねぇ、村川さん、どうぞわたしを愛して下さいませ。これが、最後の……わたしの一生のお願い、ねぇ、村川さん、わたしあなたを愛しているのよ。」
 京子は、女性のすべてのかよわさをからだにあらわして哀願した。
「どうぞ、京子さん、許して下さい。」
 取りすがる京子の手を、しずかに押しのけながら、村川は逆に京子に哀願した。
「そう! いいわ。」
 京子は、サッと身を起すと、元の椅子に帰った。彼女は、一瞬のうちに、すべての笑いと媚とを無くしたはがねのように冷たい女になっていた。
「どうぞ、おゆるし下さい。」
 村川は、重ねて頭を下げた。
 京子はそれを見ないで、目を本箱の大英百科全書の方へやっていたが、ひとり言のようにいった。
「そうね。間違って、ある女を接吻する。そして間違いだといって、つきはなす。そんな冷酷無残な話があるかしら。たとえ間違ったにしろ、女の面目を立ててもらいたいわねぇ。ほんとうにわたしの心をいたわってくれるのなら、何とかおっしゃりようがあると思うわねぇ。接吻をした三分間の間だけでも、本当に愛していたといってもらいたいわ。あなたのちょっとした失策のために処女の誇りを失ってしまったわたし。まだ、色魔のために傷つけられた方が、どんなにうれしいか知れないわ。色魔だって、接吻をするときは、その、女に本当の愛が動いているでしょう、わたしに対する何の愛もなしに、あんなことをされたかと思うと。くやしい! くやしい! あんな接吻される位なら、乞食こじきにだって、泥棒にだってキスされた方がまだいいわ、その方がまだあきらめがつくわ。くやしい!」
 彼女は、そこまでいってくると自分の言葉で、激昂したと見え、着ていた縮緬ちりめんの羽織のそでを口にくわえてベリベリと引きさいた。


「いいわ。さんざんわたしをふみにじっておきなさい! わたしが、これで泣き寝入りになると思うの、わたし、きっときっと、この仕返ししてあげるわ。」
 京子は、そういいながら、羽織の袖を、幾条にも引きさいてしまった。
「ああそう。わたし訊きたいことがあるわ。わたしをどなたに間違えたのかハッキリとおっしゃって下さい!」
 村川は、両手で顔を覆ったままだまっていた。
「今おかくしになったってすぐわかることじゃないの。」
 京子のいう通り、かくしおおせる事ではなかった。でも、村川の口から、どうしてもいえなかった。
「おっしゃれないの? 卑怯な方! じゃ、わたし当てて見ましょうか。倭文子さんでしょう?」
 覚悟をしていた発覚ではあるけれども、村川はからだがふるえた。
「そうでしょう! そうでしょう。」
 村川は、うなずくことも出来なかった。
「そうでしょう。やっぱり倭文子さんでしょう。あなたが、ご返事がなければ、ここへ倭文子さんを呼びましょうか。」
 京子は、立って呼鈴を押しそうにした。
「そうです、倭文子さんです。」
 村川は、あわてていった。
「そう!」
 京子は、瞑目めいもくした。青い少しも血色のない顔だった。額のところが、ほのかに汗ばんで、それが悽惨せいさんな感じを起させた。しばらくすると、京子はパッと目を開いた。青い炎の出るようなひとみだった。
「村川さん。お気の毒ですが、わたし命をかけても、倭文子さんをあなたのものにしないから、そう思って下さい。わたしどんなことをしても、きっと邪魔するわ。どんないやしいことでも、どんな卑劣なことでも、どんなあさましいことでもして、邪魔をするわ。わたし、邪魔をする権利があると[#「あると」は底本では「あるの」]思うの。どんなことがあったって、きっと邪魔をするわ。」
 今まで、うなだれていた村川も、この思いがけない挑戦に面をあげずにはいられなかった。
「ええ邪魔しますとも。倭文子さんばかりではないわ。あなたが、接近するあらゆる女を、わたしあなたから奪ってしまうの。」
 村川は、もうだまってはいられなかった。
「僕が、こんなにあやまっても許してくれないのですか。」
「許せませんとも。」
「しかし、倭文子さんと僕との問題はまるで別問題じゃありませんか。」
「何が、別問題です。一人の男は、一生に一人の処女の唇しか得られないのです。」
「しかし、それがあやまって……」
「あやまった場合は、あなたの一生で、お償いなさいませ!」
「そんな馬鹿な。倭文子さんを、僕から……」
 といったが、村川にはそれ以上をいう自信がなくて口ごもった。
りますとも。そんなことくらい、何でもないわ。」
「だが、あなたはそんな事をして、いつかは僕があなたと結婚するとでも思って待っているのですか。」
「うぬぼれも、たいていになさいませ! わたしは、あんなにわたしを侮辱したあなたと、結婚なんかするものですか。だれが、そんな事を待つものですか。わたし、明日にでも、外の男の人と結婚するわ。そしてあなたに接近するあらゆる女を、あなたから奪って、あなたを、のたうち廻らせてあげるわ。そんな復讐くらい、あなたに対する一番かるい復讐よ。」
 村川は男性らしい怒りが、はじめてほとばしった。
「馬鹿な夢を見るのはおよしなさい。あなたのすべての努力は、愛している者の力がどんなに強いかを証拠立てるだけでしょう。」
「そうかしら。あんまり、そうでもございませんでしょう。しっかり倭文子さんをつかまえていらっしゃい。今に、倭文子さんが、煙のように、あなたの手から消えてなくなるでしょう。さようなら、お邪魔いたしましたわ。ねぇ村川さん、お休みなさいませ。」
 京子は、馬鹿丁寧に頭を下げるとドアをあけて出て行った。
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振りかかる花片



 悔と不安とにもだえて、村川は終夜ねむれなかった。だが、すべては自分の不覚な過ちが、起原になっている以上、一途に京子を恨むことも出来なかった。勝気な火のような京子が、あのようにののしり狂うのは、当然であるかもしれなかった。また、京子の呪いの言葉が、丸きり空に終るとは考えられなかった。その言葉はかなりな実現性をもって、村川を脅威しているのだ。ただ、頼むべきは倭文子の心であるが、倭文子は京子の恐ろしい妨害がなくてさえ、ふわふわしているのだった。
 特に敵は、地の利を得ている。倭文子は京子の掌中しょうちゅうにあるといってもよいのだった。ただでさえ、京子の前に、震えている倭文子だった。京子の脅威の一言が、倭文子を完全に震え上らせてしまうのはもちろんだった。
「ただ死力を尽くして戦うほかはない。」
 村川は、悲壮な決心をして、動揺する心を押えて眠りに入ろうとしたが、どうしても眠れなかった。
 あくる朝は、頭の中に、ジャリジャリ砂が入っているように、気持がわるかった。食事のときには、京子とも倭文子とも顔を合さなかった。とても会社へ出て、働く気にもなれなかったが、家にいて京子に監視されながら、悶々もんもんとしているよりも、まだ会社の仕事をしている方が気がまぎれそうな気がしたので、いつもよりは三十分も遅れて出社した。
 村川が出社したのを見ると庶務課長の宮田が、タイプライターで打った書類を持って、村川の机に来た。
「村川君、これを一つ翻訳してくれたまえ。」
 見ると、買入契約書についている仕様書スペシフィケーションだった。それは、やさしい英語だったが、こうした文書になれていない村川には、それぞれのテクニックに対する訳語が容易に見つからないので、昼近くになっても訳し切れなかった。
 宮田の所へ行って、訳例を見せてもらいたかったのであるが、宮田のつんと取りすました皮肉な態度に、何となく親しめないところがあるのと、この文書を訳させることが、自分に対するテストのように思われたので、村川は我慢して考えつづけた。だが、考えていると、倭文子の顔や京子の顔が、かわるがわる意識の中に浮んで来て、ただでさえ朦朧もうろうとしている意識を一層濁してしまうのだった。
「村川君、まだですか。」
 十二時が鳴ると、宮田は村川の机の所へ来て、のぞき込んだ。
「ええもうちょっと。」
「どうせ、僕が後で手を入れますから、ある程度でよろしいのです。」
「そうですか。」
 村川は、素直に答えたが、何だか少し馬鹿にされたような気がした。
 彼が訳し終ったのは、一時過ぎていた。十枚に近い仕様書スペシフィケーションだが、あまり長くかかりすぎたのが自分でも気持がわるかった。
 宮田の所へ、おそるおそる持って行くと、宮田は意外に機嫌がよかった。
「村川君、社長が今晩、君に夕飯をご馳走するそうだから、そのつもりでいてくれたまえ。」
 村川は、平生だったら、むしろ喜んだに違いない。しかし、身体も心も、平静を失っている今日は王様の招待でも断りたかった。
「今日僕は……」
「断りなんかいうものじゃないよ。社長が、折角君と話がしたいといっているんだもの。」
 村川は仕方なく承諾した。


「君は、今日は主賓だから、そっちへかけたまえ。」
 宮田は、補助座席スペア・シートへ腰かけようとする村川を、無理に今井の傍へかけさせ、自分は村川に対して腰をかけた。
 宮田は、今井とは中学校が同じだということだった。そのために、庶務課長として、信任があるばかりでなく、彼は今井の遊蕩ゆうとう生活において取巻であり、お相手であるらしかった。
 今井は、金口のシガレットをくゆらせながら、ニコニコ村川に話しかけた。
「君とは、一度ゆっくり話したいと思っていたんだよ。でも、暇がなくってねぇ。」
「いや、私こそ一度ゆっくりお礼を申したいと思っていたのです。」
 村川は学生時代もらっていた学資の礼をいった。
「いや、そんなお礼は一切ヌキにしようよ。僕は、そう思っているんだよ。僕のようなものが学資のない人達の面倒を見るのは、当然の義務だよ。またもらう方じゃ、だれからもらったってこれだけは恥にならないものだよ。お礼を改めていうにも当らないさ。君が、それで有為の人物になってくれさえすればいいのだ。将来も、僕の会社で働いてくれればけっこうだが、君が気に入らない場合はいつどこへ行ってくれてもいいんだよ。」
 今井は、いかにも物のわかったような顔をしていった。
「いいえ。どういたしまして。」
 村川は、少しくすぐったい気がしながら答えた。
 車は、尾張町を過ぎ、歌舞伎座の前を通って、築地へ入って、二三町進むと、右側の家の前に止まった。
 そこは、地震後浜町から築地へ越して来た有名な日本料理の家だった。
 門から玄関までが、長く狭い敲土たたきの道になっていた。
「おこしなさいませ!」
 女中が、三四人迎えた。
「電話をかけておいたはずだがね。」
 宮田がいった。
「はい承知しています。先刻からお待ちしていました。」
 三人は、狭い廊下を、三四度直角にまがった。一番奥の茶室風の六畳へ通された。
「おせまいことはございませんか。」
「いやけっこうだよ。」
 宮田が、女中に答えた。
 やがて、お茶やぬれ手拭が運ばれた。黒塗りの膳が、めいめいの前に運ばれた。
 村川は、疲労と窮屈のほかは、何もなかった。ずり落ちそうになる眠気と、倭文子の上に京子がどんな魔手をろうしているだろうとの不安とが、かわりばんこに、彼を襲って来た。運ばれた料理に対して、少しの食欲さえなかった。
「さあ、村川君、君も一杯やりたまえ。さあ、おしゃくをしてあげてくれ!」
 宮田が、女中にいったので、村川は仕方なく、杯をさし出した。
 今井は杯を二三杯重ねると、前よりももっと機嫌がよくなって、村川に話しかけた。
昨日きのう、君の留守に川辺のお嬢さんが、君を訪ねて来たぜ。」
「あ、そうだそうですね。」
「君とは、よっぽど親しいのかねぇ。」
「いいえ。別に。」
「だが、一緒の家にいるのだから、よく顔を合すだろう。」
「それはそうです。」
「京子さんは、どういう人なんだ?」


「京子さんですか。」
 といったが、村川は京子については、今何にも話したくなかった。
「僕は、実はあの人と一緒に夕飯をたべたのだがねえ。どうも驚いたよ。とてもたいへんな人だね、といって悪い意味じゃないが、態度といい、会話といい、とてもキビキビしているねぇ。あれじゃ、どんな男性とでも太刀打ち出来る人だねぇ。」
 今井は、京子にはねつけられたほかの点はすっかり感心していた。
「僕は、我々と対等に話が出来るのは、芸妓げいしゃ……それも多少年増としま芸妓げいしゃばかりだと思っていたよ、だがどうしてもう芸妓げいしゃなんか話が古いねえ。京子さんなんか話題が広いし、見識はあるし、しっかりしているし、あんなにしっかりしていればどこへ一人で出しても間違いはないねぇ。」
 今井は、しみじみ感心していた。
「それにとても、シャンじゃありませんか。」
「美人だねぇ。ねぇ、村川君、まだ愛人とか婚約者などはないでしょうねぇ。」
「ございませんでしょう。」
 村川は苦笑した。
「どうです。満更、あなただって資格がないわけはないでしょう。」
 宮田が今井にいった。
「ううむ。とても、歯が立たない。」
 今井は、あきらめよくいった。
「そんなことはないでしょう。」
「いや、とても。」
 村川は、ほとんど飲めないので宮田と今井とは、しきりに杯を重ねていた。
「ねぇ。村川君、山内やまのうちのお嬢さんとも話したことがあるでしょう。」
 それはたしかにあった。
「あります。」
「僕は、一二度見かけただけだが、あの方はどうですかね。性格は?」
 この方も、村川はふれたくなかった。
「わかりませんねぇ。」
「そうですかねぇ。」
「しかし、倭文子さんの方は、おとなしそうだねぇ。」
「そうらしいです。」
 村川も、それだけは肯定したかった。
「京子さんとは、反対の性格だね。結局妻として、ああした人がいいのだろう。京子さんのような烈しい人だと、妻としては持ち切れないだろう。その点じゃ安心だよ、倭文子さんの方が。どうだい、宮田君!」
 宮田は、柄になく顔を赤くした。
「倭文子さんの方は安心だよ。」
 今井は、宮田の顔をニコニコ凝視しながらいった。村川は、倭文子の名が、今井の口に上るのさえ不快だった。
「村川君には、いってもいいだろう。実は、ここにいる宮田君と倭文子さんとの間に縁談が持ち上っているんだよ、あはははは。」
「困りますね。そんなことをすっぱぬいちゃ。」
 宮田はオールバックにしている顔をかき上げながら抗議した。
「どうせ、まとまればわかることじゃないか。それに、今更花婿になるからといって、恥しがる柄でもないじゃないか。」
「どうして僕だってこれで……」
「あはははは。素人にかけちゃ初心うぶだというのかねぇ。あはははは。」
 今井は、かなり酒が廻っているらしく、愉快そうに哄笑こうしょうした。


 村川は、倭文子から彼女に縁談のあることを聞いていた。だがその縁談の相手が、いつも自分の鼻の先に、背広を着て、すまし込んでいようとは思わなかった。彼の傷ついていた心は、また土足で、二三度ふみつけられた。
「あははは、宮田君も、独身生活にあきたというわけなんだよ。独身生活で出来るいいことは、大抵し尽くしたんだろう。あはははは。」
 今井は、宮田をからかいつづけた。
「いけませんねぇ。そう頻々ひんぴんと、すっぱぬいちゃ。」
「いろいろ悪いことをしたが、急に一念発起して、結婚に志すというのだろう。」
「冗談いっちゃ困ります。これでまだあなたほど悪いことは……」
「いや、どっちがどっちだか。」
 二人は、顔を見て笑い合った。
 村川は、すべてがけがらわしかった。彼は席を蹴たてて立ちたいのを、じっと辛抱していた。
「どうだねぇ。村川君、良縁とは思わないかね。」
 今井は、だまり込んでいる村川に話しかけた。村川は気がつくと、いつの間にか持っていたはしを両方とも、半分に折ってしまっていた。
「もう確定したのですか。」
 村川は、倭文子が断るとはいっていたが、つい不安になって訊いた。
「まず九分通りはたしかだろう。川辺先生ご夫婦が、のり気になっていらっしゃるのだから、当人だって、いやおうはないだろう。それは京子さんだって、至極賛成だし……」
「そうですね。」
 村川は打ちのめされて、うなった。彼は、さながら不安と焦燥しょうそうとの地獄にうめいていた。いきなり立ち上って、今井と宮田との頭を、つづけさまになぐりつけたいような、いらいらしさを感じた。
 ふと、その時、部屋の中が、急に明るくなったように、三人の若い女性が入って来たと思うと、
「今晩はどうも。」
「おや、いーさま、わたしどなたかと思ったわ。」
「みーさん、あなたは、うそつきね。」
 そんななまめかしい声が、しばらくの間、村川の重い心を取巻いてうずまいた。村川は、ぼんやり彼女達を見た。だが、その美しい女性の姿も、村川の心に入らないで、はね返った。彼は、前と同じように、膳の上に目を落していた。
「あら、あなたお箸が折れていますわ。わたしもらって来てあげましょうね。」
 一番若い、一本になって間もないらしいが、そういうと、気軽に立ち上った。
 横にいた青い無地のえりをかけたが止めた。
「女中さんにいうといいわ。」
「あら、わたし自分で行って来るわ。」
 足ばやに廊下へ出た。
「そう、それじゃ、なみ子さん、ついでにお銚子をそういってね。」
 彼女は、白い、うるんだようなおもてを後に向けて、ちょっとうなずいた。
「どうです。村川君、この人達、なかなかきれいでしょう。」
 今の村川にも、美しいものはやはり美しかった。
「なかなかきれいです。」
「この人が、今新橋第一の美人……」
「ほかがなかったらでしょう。」
 青い襟をかけたがいった。
「ううむ。ほかがあっても第一だよ。この人が美佐子というんだ。今出て行った人が、この人の本当の妹で、なみ子というんだ。二人とも名実兼備の美人だよ。」
「そうですか。」
 村川は、かたくなって答えた。
「そうですかはないだろう。何とかほめてやりたまえ。」
「あらご迷惑ですわねぇ。」
 美佐子が、それにかぶせていった。
「はい、これ、割ってあげましょうねぇ。」
 先刻さっき出て行ったが、いつの間にか村川の前に帰って来ていた。そして、割箸を袋の中から出して、白いかわいい手で、二つに割っていた。


 村川は、割箸を彼女から受けるとき、初めて彼女の顔を見た。大きい真黒なキレの長い眼、それを覆っている細長い眉、仏画の仏の顔を近代化したような品のよい顔であった。それで、色がくっきりと白く、一妖婦バンパイア味が[#「妖婦味が」は底本では「妖婦昧が」]ただよっていた。折梅おりうめの染小紋の着物を、すそを引いて着ていた。
 妹の顔を見たので、彼は本当の姉だという美佐子の顔を見なおした。彼女は、妹とはすっかり違って、目も鼻も口も耳も、尋常にととのった顔だった。芸妓げいしゃというよりも令嬢といってもよいおとなしい顔だった。真青な無地の襟に黒地に白をぬいた飛白かすりのおめしが、ピッタリと合っていた。
「おい、なみ子、この人はなかなかいい男だろう。」
 宮田は、村川をさしていった。
「ええ。私の好きな人に似ているの。」
「お前の好きな人ったら誰だ。」
「なみ子さんの好きな人ったら、きまっているわ。活動の役者よ。」
 姉の美佐子がいった。
「活動の役者といったら、誰だ。尾上松之助か。」
 今井がいった。
「まあいやだわ。私日本物きらい!」
 そういいながら、なみ子は村川のお膳についていたあゆの塩焼を取り上げた。
「ねぇ、お箸お貸しなさいな。あなたむしるのは下手だわ。わたし鮎の骨を取るのが上手よ。」
 そういいながら、なみ子は鮎の身を箸でやわらかくたたいたかと思うと、手ぎわよく骨から身をきれいに離してしまった。
「おい、いやに親切にするんだね。」
 宮田がからかった。
「だってこの方、わたしの岡ぼれに似ているんですもの。」
「おれは、誰かに似ていないかなァ。」
「似ているわ。みーさんは、尾張町にいる交通巡査に似ているわ。」
「馬鹿! お前は、どうしてそう口がわるいんだ。ねぇ、美佐子。おれだって、これでいい男だろう。」
「ええ、いい男ですとも。わたしは、みーさん大好き。」
「でも、みーさんは、交通巡査のようにすましているから、嫌い。時々ストップとこういう風に、手をあげると似合うわ。」
 なみ子は、白い二の腕を、あらわにしながら手をあげる真似をした。
「おい! お前はお客を何だと思っているんだ。ご祝儀しゅうぎをやらないぞ。」
「ああいいわ。お前は芸妓げいしゃを何だと思っているんだ、お酌をして上げないよ。」
「こいつ!」
 宮田は、なみ子をにらむ真似をした。
「ああいいわよ。こわくないわ。いざとなったら、あなたわたしのために奮闘して下さるでしょう。ねぇ、ねぇ、あなたお名前何とおっしゃるの。」
 なみ子は、大きい眸を、じっとみはって村川を見た。
「馬鹿! お前の味方なんかするものか。」
「そんなことないわねぇ。活動写真でも、バァセルメスやナヴァロは、きっとレディを助けて奮闘するわ。」
「それがどうしたというんだ。」
「でも、この方わたしの好きなナヴァロに似ているんですもの。」
 ふと、電灯が消えた。
「あら停電だわ。」
 なみ子は、驚いて声を立てた。


 真暗になったので、誰もしばらくの間は、身動きもしなかった。
「さあ。しめたぞ! なみ子、先刻から生意気なことばかりいっているから、闇に乗じていじめてやるぞ。」
 宮田がいった。
「かんにん。ご免なさいねぇ。いたずらをしたらいやよ。」
 なみ子が甘えた調子でいった。
「じゃ、かんにんしてやる代りに、手を握らせる?」
「ええ。いいわ。握手しましょう。」
「じゃ、手をお出し。」
「どこ、みーさんの手?」
 村川は、闇の中になまめかしいにおいとやわらかなきぬずれの音を感じた。
「おおいたい! そんなにひどく握っちゃいやよ……放してよ。おおいたい!。だから、みーさん嫌い。」
「残念! 握ったついでに、うんとつねってやろうと思っていたのだ。」
「ひどい人……ねぇ、こちら。」
 彼女はまっすぐに村川の方を向き直った。
「あなたとも握手しましょうね。お手お出しなさいね。」
 村川はむせるような、若い女の香いが、むっと襲いかかるのを感じた。だが、彼は手を差し出すような心は、少しもなかった。むしろ、ちぢこまるように、身を退いていた。
 白い手が、闇の中で彼の胸にすれすれに左右に動いた。
「どこ! どこ! 手をお出しなさいねぇ。」
 村川は、頑固に手を膝につけていた。
「まあ。お出しにならないの。いいわ。」
 そういったかと思うと、彼女は闇の中で手さぐりに、お膳をさけながら村川に近づいた。そして、両手で村川の右の手を握った。
「まあ! お行儀よく、膝の上に置いていらっしゃるのねぇ、さあ握手!」
 そういって、なみ子は村川の握りしめている手を、ムリに開けながら、自分の右の手でしっかりと握った。
「村川君、そんな奴と握手したら駄目だよ。」
「いいわねぇ。大きなお世話。明るくなるまでこうしていましょうね。」
「馬鹿! 村川君、うんとつねってやりたまえ……」
「誰が……あなたのような邪慳じゃけんな方とは違いますわねぇ。」
 そういいながら、彼女は村川の手を強く握りしめた。
 なやましい感覚が、村川の全身を襲った。だが、それは皮一重の奥へは、入って来なかった。彼の心のうちには、先刻さっきからの焦燥や苦悶くもんが、ハッキリと形が崩れずにつづいている。ただ、彼の感覚だけが、このはげしい刺激に、ともすれば揺り動かされた。だが、彼は右の手に、少しの力を入れることもしなかった。ただ、彼女のなすままにまかせていた。
「まあ。あなたおとなしい方ね。何とか、おっしゃいよ。怒っていらっしゃる?」
 村川は、首を振ったが、闇の中なので、彼女には見えなかった。
「わたしがあまり、図々しいので驚いていらっしゃるの。」
「そうさ。お前のようなおてんばにあっちゃ、誰だって驚くさ。一つ、うんとつねってやりたまえ、村川君。」


 電灯が、点いて明るくなってからも、なみ子は村川の傍を、容易にはなれようとはしなかった。
「お宅の電話番号教えて下さいな。」
「教えてやろうか。」
 宮田が、横から口を出した。
「ええ教えて。」
「小石川の五百番だよ。」
「ウソ! 五百番は電話局じゃないの。」
「五百番で訊けばわかるんだよ。」
「ヨタねぇ。」
「だって、五百番で訊けば何だって教えてくれるじゃないか。」
「じゃ訊いてみようかしら。みーさん以上の浮気者があるかって?」
「それはお前がよく知っているじゃないか。女でいえばお前さ。」
「ウソ! こちら、そんなこと信じないわねぇ!」
 彼女は、村川の顔をのぞき込むように見上げた。
「さあ! ボツボツ帰ろうか。」
 今井が立った。
「あすこへお寄りになるでしょう。」
 美佐子が、目くばせしながらいった。
「うむ、ちょっと寄ってもいいな。」
 村川は、やっと解放された気になった。
「わたしは、もうおいとまいたします。」
 改まって、今井にいった。
 その堅くるしい初心うぶな態度をなみ子は不思議そうに見ていた。
「君も、つきあいたまえ、いいじゃないか、まだ九時前だよ。」
「あの、僕はちょっと用事がありますから。」
「そうか。じゃ、自動車を呼ぼう。」
「いいえ。それには及びません。電車で帰ります。」
「そう遠慮したもうな、いいじゃないか。」
 宮田は、女中に命じた。
「あなた。そんなにお急ぎになるの。ねぇ、もっといらっしゃい。後生だから。」
 なみ子は、また村川の手を取ってゆり動かしながらいった。
「いや、僕は帰りたいのです。」
「いやに堅くるしい坊やねぇ。いい子だからもっといらっしゃい!」
「おい誘惑したらダメだよ。」
 宮田が立ち上りながらいった。村川も立ち上った。
「ううん。わたし、誘惑するの。わたし、こう見えても妖婦バンパイアよ。」
「そんな日本物の妖婦バンパイアはダメだよ。」
「だって、こちらだって日本物の色魔よ。だからいいじゃないの。あなたのお帽子これ……」
 なみ子は、村川の帽子を取りあげて裏を見た。
「ああわかった。村川さんとおっしゃるの。」
「お前のように、初めて会ったお客に、そうそう図々しい奴はないねぇ。」
 今井が冗談とも真面目ともつかずにいった。
「そう、悪かったわねぇ。すみません、これから気をつけます。でも、いーさんもたまには気の利いたお客を連れて来るわねぇ。これから、きっとこの方連れて来てねぇ。」
「ああ連れて来るとも。その代り、お前を呼んでやらないよ。」
「いいわ。だまって押しかけて来るから、いいわ。ねぇこちら、またいらっしゃいねぇ。」
 彼女は、乱れさく牡丹のように妖艶だった。


 外へ出て見ると、今井の自動車と一緒に村川のためのタクシーも来ていた。
 村川は、今井や宮田が、自動車に乗るのを送った。そして自分一人タクシーに乗った。すると一番遅れて出て来たなみ子が、今井の自動車に乗らないで、村川の車のドアをあけて、サッサと村川の横へ坐ってしまった。
「なみ子さん。こっちの車にお乗りなさいよ。そちらはお帰りになるのよ。」
 姉の美佐子が、しまっていた向うの車のドアをわざわざ開けて、こっちへ呼びかけた。
「いいわよ。わたし、送っていただくの。ね、いいでしょう。ちょっと廻り道して送って下さいね。」
 村川は、苦笑しながらうなずいた。
 車は、つづいて動き出した。
「お宅どちら。」
「小石川です。」
「そう。わたし、送っていただくの、うそよ。わたしに送らせて下さいね、いいでしょう。ねぇ。運転手さん、小石川へ。」
「駄目です。僕は一人で帰るのです。前の車の行くところへ行って下さい。」
「うそよ、運転手さん、小石川へ!」
「いや、それは困ります。向うの車の通りにやって下さい。」
「うそ! ねぇ運転手さん小石川へね。」
「駄目です。駄目です。」
「いいの。いいの。わたしのいう通りしていればいいのよ。」
 なみ子は運転手台の方へ、半身のり出しながらいった。運転手は微笑しながら、
「かしこまりました。」
「困るな、あなたはあちらへ行かなければいけないのでしょう。」
「いいえ。今井さんのお座敷なんか、誰がつとめてやるものですか。あんな、鼻つまみ。」
「だって僕が困るんですよ。」
「あなた、おいや、わたしがご一緒じゃ。」
「でも、僕は、困ったな……」
「いいじゃありませんか。わたしをこわがっていらっしゃるの? わたし、これでおとなしいのよ。」
「それは、そうでしょう。でも僕は……」
 前の車は左へ折れた。
「君、あの車の後へ……」
 村川は、かなり一生懸命に呼んだ。
「小石川へね。ね、運転手さん、わたしのいう通りねぇ、ご祝儀うんと上げるわ。」
 運転手は、苦笑しながら、
「小石川は、どちらです。」
「小石川はどちら?」
 彼女は、村川の方を見た。
「困ったな、君、僕はここで降りたいな。」
「まあ。おどろいた! そんなにわたしがお嫌い?」
「そうじゃありませんよ、決して。」
「じゃ、いいじゃありませんか。あなたも度胸をきめなさいよ。」
「別に度胸をきめるほどの事でもないけれども……」
「そう、そう、その調子その調子。ね、もうそんなこといいっこなし、仲よくしましょうね。」
 そういって、彼女は自分の両手の中に村川の左手を入れて、愛撫ケアレスした。


 村川となみ子とをのせた自動車は、馬場先門から、宮城前の広場へ入り、あのさえぎる物もない大道を、冷たい夜風を巻き起しながら、疾駆した。
 二人きりになってしまうと、なみ子は急にしずかになってしまった。彼女は、今までの自分のはしたなさに、すっかりてれてしまったように、いつか村川の手から、自分の両手を離していた。
 先刻さっきのお客をお客とも思わないような、おきゃんな彼女の代りに、年は年だけにあどけない少女らしく、だまりこんでいた。車内の薄ぐらい光の中に、彼女の白い顔がハッキリと浮び、赤いくちびるがいかにも肉感的な色を持っていた。村川は、彼女の姿から、あるなやましさを感じるので、なるべく彼女の顔を見ないようにつとめていた。
 村川の感覚だけは、なみ子になやまされていたが、彼の心は、むろん倭文子を中心にしていろいろな憂慮や不安で切り刻まれていた。宮田のことを聞いてから、その憂慮や不安が一層深刻になった。周囲の事情がみんな不利に動いていた。その上つかんでいるはずの倭文子の心が、彼の掌中しょうちゅうでふわふわと動いているような気がした。
「お兄さま。ほんとうに、またいらして下さる?」
 なみ子は、ふと顔を上げて、村川の方を見た。先刻さっきとは、まるで違った哀願するような色がひとみの中に動いていた。
「いいえ。僕は行かれません。」
「なぜ。」
「だって、僕は今日招待されて行ったのです。」
「一人じゃいらっしゃれないの?」
「むろんです。」
「まあ。」
「………」
「じゃ、これっきり?」
「だって、何も僕は……」
「ええ、そうだわ。あなたはご用はないでしょう。でも、わたしはお目にかかりたいの。」
「そのうち、お目にかかれるでしょう。」
「そのうちは、心細いわ。ねぇ、わたしの家の電話銀座の五五五よ。あなたお暇のときかけて下さいな。わたし、カフェでもどこへでも行くわ。ねぇ、かけて下さいね。」
 村川は、だまっていた。
「ねぇ、銀座の五五五よ。覚えいいでしょう。わたし、昼間だったら、いつでも出られるの。」
 自動車は、いつの間にか白山下へ来ていた。村川は、おどろいて車を止めた。
「ねぇ、ねぇ、きっと、お願いだから、げんまん!」
 彼女は、右手の小指をカギにして出した。だが、村川はそれには応じないで、いそいで車を降りた。
「じゃ、きっと。」
 彼女は、ホロの中から半身を出しながら、幾度も念を押した。
 村川は、不得要領にあいさつした。だが、十間も歩いて振りかえると、彼女はまだ美しい笑顔をこっちへ向けていた。村川はかすかに、いじらしい気がした。
「村川さんステキですね。」
 村川が、おどろいて振り返ると川辺にいる書生の野村だった。夜学の帰りらしく、ズックを持っていた。
「何だ、君か!」
「あれ、芸妓げいしゃですか。いい女ですな。」
 村川は、すっかりしょげてしまった。憂欝がまた新しい根を一つ出した。
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わるだくみ



 倭文子が、部屋でぼんやり坐っていると、赤い弁慶じまのネルを着た美智子が、駆け込んで来た。
「倭文子姉さま。お姉さまが、ちょっといらして下さいって。」
「どこにいらっしゃるの?」
「西洋館の方のお部屋。」
 倭文子は立ち上って美智子と一緒に西洋館へ行った。
 廊下で、美智子がチャイナマーブルの箱を出した。
「一つ上げますわ。赤がいいの、青がいいの。」
「どちらでもけっこうですわ。」
「じゃ、赤いの上げましょうね。」
「どうもありがとう。」
 西洋館へ来てみると、京子は客間のソファに腰かけて倭文子を待っていた。
「ねぇ、美智子、あなたいい子だから、お母さまのところへ行っていらっしゃい。」
「ええ。」
 美智子は、ちょっと悲しそうな顔をしたが、すぐ思い返して、バタバタと駆け去った。
 村川と植物園で会って以来、倭文子は京子の傍へ来るのが何となく気がとがめた。
「ご用していらしたの。」
「いいえ。」
「ねぇ、倭文子さん。わたし、面白いものを拾ったのよ。」
 京子は、意地のわるそうな笑いをもらした。
「何でございますの。」
「いい当ててご覧なさい。」
 倭文子は、小さい首をかしげた。
「わかりませんわ。」
 京子は、意地わるそうにニコニコ笑っていた。
 倭文子は村川が、自分にくれる手紙を落したのではないかと思ってあおくなった。
「どなたの手紙?」
「面白いの。とても面白いの。」
 京子は、面白そうに笑いつづけた。倭文子は、それにつれて不安になった。
「どんな面白い手紙ですの。」
「秘密の手紙、しかもラブレターよ。」
 倭文子は、真青になっていた。
「わたしね、だまって誰にもいうまいと思ったの。でも、相手がにくらしいの。だから、あなたにだけ見せて上げるわ。これ……」
 京子は、ふところから桃色のレターペーパーを出した。
 女性の手紙だったので、倭文子はほっと安心したけれども、それを開こうとする気はなかった。
「ね。ちょっと見てご覧なさい。とても面白いのよ。」
「でも、わたし何だか恐いわ。」
「いいじゃないの。あなたに責任はないのですもの。ねぇ、ちょっとご覧なさいね。」
 京子は、レターペーパーを、ひろげてさし出した。
 倭文子は、いやでも読まずにはいられなかった。それは、かわいらしい女手であった。けれども、かなり下手な字であった。でも、一画一画ハッキリと書いてあるので、スラスラと読めた。

昨晩は、ほんとうにうれしゅうございました。でも同じ家に住みながら、何というはかない逢瀬おうせでしょう……。

 倭文子は、あまりに自分の身に近いので、アッと心の中で、おどろきの声をあげた。


もっと、いつまでもいつまでもお目にかかっていたいと思いますわ。会ってすぐ別れなくてもすむような国が見つかるまで、もうお会いしないでおきましょうか。お会いしている喜びと、同じ家の中でもお別れしているさびしさと、わたしにはとてもとても比べられないのですもの。
でも、お会いしている時は、この世の中が幸福で一杯ですわ。おやさしいお手にだかれていると、何も申すことはありませんわ。
でも、あなたのような立派な方に恋愛なんかしているわたしは、大馬鹿者でないかと思いますわ。でも一番幸福な人間であることもたしかですわ。

 倭文子は、自分の心そのままが、字はまずいけれども、まざまざと書かれているのを見ると魅せられたような心持になって、魂までが、レターペーパーの中に吸い込まれて行った。

でも、あなたの愛が、ほんとうにはまだ信じられませんの。真剣な真面目なものだとは、まだまだ信じられません、キスなんかなさるのが面白くて、わたしをからかっていらっしゃるとしか思われません。そうでしょう。ねぇ。あらニヤニヤ笑っていらっしゃるわ。きっとそうよ。でも、わたし、だまされているのだっていいわ。わたし、だまされているのだってくやしくないわ。わたしあなたにだったら、だまされていても、うれしいわ。でも、お捨てになることはいやよ、お捨てになったら、だまって死にますよ。
こよいも、お目にかかれると思うとどんなにうれしいかわかりませんわ。でも、昨夜のようにまた待たされると思うとくやしくてたまりません。十時に、一分でもおくれると、わたしどんなことがあってもお許ししませんよ。いいえ、それはウソですわ。わたしきっと、夜があけるまででもお待ちしていますわ。

 文句は、そこで終っていた。倭文子は、読み終ると、大きい溜息が、心の底から出た。喪心そうしんしたように、それを京子の手にかえした。
 京子は、ニヤニヤ笑っていた。
「ね、あなた誰が書いたと思って?」
「わかりませんわ。」
「そう、わたし、初めあなたじゃないかと思ったの。」
「まあ!」
 と、いおうとした言葉が、倭文子の口のところでこわばってしまった。
「でも、あなたにしては、字がまずいでしょう。」
「いいえ、わたしだってまずいわ。」
「いいえ。あなたは、お上手だわ。それにあなたの字とは丸きり違っているでしょう。」
「ええ違っているわ。」
「で、わたしよく考えたの。ところが、驚くじゃないの。これ一枝かずえなのよ。」
「まあ!」
「でも、文句はうまくない?」
「ええお上手だわ。」
「なまいきね。十七のくせに、こんなラブレターなんかかいて。」
「ほんとうに。」
「それで、あなた相手は誰だと思うの。」
 倭文子は考えた。同じ家に住んでいる一枝の相手、それは書生の野村よりほかにはなかった。
「いって悪いかしら、でも野村さんよりほかにはないでしょう。」
「そう! わたしも、そう思ったの。ところが、驚くじゃないの。この封筒ご覧なさいよ。」
 京子は、懐から鼠色に鈴蘭すずらんの模様のある封筒を取り出した。その表には明かにMさまとかいてあった。


「Mさまってだれでしょう。」
 倭文子は、ちょっと思いあたらなかった。
「まあ! あなた気がつかないの。」
 京子は大きい眼をみはった。「だからあなたはお人好しよ……おほほ、ご免なさいね。」
「だって、わたしわからないわ。」
「わからないことないじゃないの。この家でMさまといえば、村川さんよりほかないじゃないの。」
 倭文子は、カッとした。だが、狼狽はしなかった。彼女は、村川を信じていた。
「そんなことありませんわ。」
「まあ! なぜ。」
「でも村川さんが、まさかそんなことなさらないわ。」
「だから、あなたはお人好しだわ。それともあなた、村川さんのことよくご存じ?」
「いいえ。」
「じゃ、しないということがなぜ、おわかりになるの。」
「でも。」
 京子は、急にまじめになった。
「あなた、何もご存じないのねぇ。わたし、じつはあなたの事心配していたのよ。村川さん、あなたに何もしない?」
 倭文子は、青くなった。だが、勇気を振い起していった。
「何もなさりませんわ。」
「そう。それなら、いいわ。あの方、とてもひどい方よ、いつかの晩……四五日前の晩だわ。あたしが、夜お庭の四阿あずまやにいると、あの方がやって来たのよ。それで、いきなりわたしにキスなさろうとするのですもの。わたしびっくりしたの。びっくりしたよりも、腹が立ったわ。わたし思いきり、突きとばしてあげたのよ。」
 倭文子の顔が、まっさおになり、唇がブルブルふるえた。
「それだのに、あくる日はすましているのよ。昼間銀座の方へおいでになる用事があったら社の方へお寄りになりませんかだって、ほんとうにあきれてしまうわ。それにこの手紙でしょう。一枝なんか何も知らないから一も二もなく、だまされてしまうんだわねぇ。女性に対する良心なんか、てんでないのでしょう、いきなりキスしようとなさるんですもの。恋愛でもないのよ。きっと性愛だけよ。そして、女の唇から唇へと巡礼してあるくのでしょう。ほんとうに、ひどいわね。女性の敵だわ。」
 京子は、美しい眉をつりあげた。悲憤の表情が美しい顔をいびつにした。
 倭文子は身体中が氷のようになってうつむいていた。
「一枝こそかわいそうだわ。あれで、からだの秘密をみんな知られて、ポンと捨てられてしまうのよ、きっと、三月とはつづかないでしょう。でも、一枝だから、まあいいのだわ。それがあなたであったら、どうでしょう。」
 倭文子は落ち込んだ絶望の穴からやっとはい上った。
「でも、わたし、まさか村川さんが。」
 彼女は、村川が自分以外の女性を、これほどかるがるしく愛しようとは思わなかった。
「そう、じゃ、あなたは村川さんが、わたしにキスしようとしたことをお信じになれないの。」
 倭文子は、うちのめされてだまった。
「わたしも、村川さんを信じてあげたいの。まさか、一枝のような子供をもてあそぶ人だとは思いたくないの。」
「何かの間違いですわ。その手紙だけは。」
 倭文子は泣き出しそうな声でいった。


「そうね。何かの間違いかしら。わたしもそう思いたいわ。村川さんの人格のために、ねぇ。」
 京子も思い直したように、やさしくいった。
「きっと間違いですわ。きっと。」
 倭文子は、やっと逃げ道を見つけたように、必死になっていった。
「そうね。こんな手紙だけで、疑っては悪いわねぇ。あたし、いっそ一枝を呼んでしらべてみようかしら。」
「かわいそうですわ。そんなことなさるの。」
 倭文子は、あわてて止めた。
「それもそうね。」
 京子は、何か考えていたが、
「わたしね、この手紙本当はそこの階段のところで拾ったのよ。階段を上る人といったら村川さんのほかないでしょう。」
 京子は、大きいひとみを倭文子の賛成をうながすように動かした。
「でも、これだけで信じるのは、村川さんにすまないわ。一層のことわたし、村川さんのお部屋へ行ってしらべるわ。」
「まあ。およしなさいませ! そんなことあそばすの。」
「いいじゃありませんか。こんなこと、ハッキリときめておきたいわ。一枝の身体だってわたしがあずかっているのでしょう。万一のことがあるといけないわ。あなた一緒に立ち合ってくれない?」
「まあ!」
「おいや?」
「いいえ、でも。」
「わたしが、一人でしらべるの。あなたはただ一緒に来て下さればいいの。」
 京子は、はや立ち上った。
 倭文子の心にも、疑惑がむくむくと首をもちあげていた。それにつれて、生れて初めて嫉妬が、不快な痛みで、純真な胸をつついていた。たしかめたい、一枝と村川について真実ほんとのことを知りたい。この不快な疑惑を晴らしたい。わるいことだが、ただ立ち合うことだけはゆるされよう。彼女はそう思って、京子の後について階段を上った。
 京子は、十二三の子供が、いたずらをしに行くように快活だった。
「きっと、村川さんの机の引出に、こんな手紙いくつもあるのよ。見てやってもいいわ。あんなひどい人、どんなことをしてもいいわ。」
 京子は、足ばやに階段を上った。だが、倭文子は足も心も重かった。すべてが悪夢を見ているように、突飛で、その上、マザマザと苦しかった。
 村川の部屋へ入っても、倭文子はドアの所で足がすくんで、中へ入れなかった。京子は何の躊躇ちゅうちょもなく机に近づいた。一番左の端の引出を最初にあけた。
「おや、からっぽだわ。おやおや洋服屋の受取りがあるわ。」
 京子は、それをしめると、真ん中の引出をあけた。
「おやジレットがあるわ。リームツマの箱が三つもあるわ。なまいきねぇ。金口なんか吸って。おや肱附ひじつきがあるわ。これあなたが、こさえてあげたのじゃない?」
 京子は、フランス刺繍ししゅうの肱附を高くさしあげて倭文子に見せた。
「いいえ。存じませんわ。」
「そう。だれでしょう、こんなもの村川さんにあげるの……ないわ。手紙らしいもの、ちっともないわ。」
 京子は引出の内容を必要以上に、かき廻しながらいった。
「ねぇ。もうおよしになりませんか。あたし何だか恐うございますわ。」
 倭文子はからだがかすかに、ふるえるように感じた。


「いいじゃないの。責任はわたしにあるのですもの。」
 京子は、一番右の引出をまた無雑作にあけてしまった。そこには、万年筆とカルモチンの小箱が三つばかりころがっていた。村川が悶々もんもんとして不眠の夜を過ごしていることなどは、少しも京子の神経にふれなかった。
「おかしいわ。こんなはずはないんだがねぇ。」
 倭文子は、救われたように喜びながらいった。
「やっぱり、村川さんじゃございませんのよ。」
「いいえ。きっと村川さんよ。でも、こんな手紙は引出なんかには入れないのよ。わたし、きっと探し出すわ。わたし、名探偵よ。」
 京子は、机から三四歩後へ身を退くと、部屋をじっと見廻した。
「ああわかった。」
 そういって、左側の書棚にある大英百科全書を、一々さわってみた。でも、最新版の厚さ一寸にも足りない一冊一冊には、手紙をはさんであるような厚味は感ぜられなかった。
 京子は、また部屋の中央へ帰って、部屋中をじいっと見渡した。と、いきなり彼女は、身をつばめのようにひるがえすと、左手の壁にやや高く掲げてあるルソーの影響を受けたらしい明るい色の油絵の額面に手をふれた。
「あああったわ。あったわ。これこんなに。」
 彼女は、額面の後から、ふくれ上った女用の西洋封筒を幾つも、次々に取り出した。
「まだあるわ。幾つでもあるわ。」
 倭文子の顔の色は、みるみる土色にかわった。彼女は、京子や油絵や机や書棚がくるくる廻り出しそうな感じがした。彼女は、両足に力がなくなり危く倒れようとするのを、壁に身をよせかけることでやっとこらえていた。
「倭文子さん。これ一つ一つ見ましょうね。随分あるわ。ちょうど五つあるわ。」
「いいえ。わたし、失礼しますわ。」
 彼女は低いけれども、必死な声でそういうと、ドアをあけて外へ出た。そして階段をころげるように駆け降りた。
「倭文子さん、お待ちなさい。ひどいわ。わたしをおいてけぼりにして。」
 京子は後からよびかけた。だが倭文子は後をふりむこうともしなかった。
 倭文子の足音が聞えなくなると、京子は急に笑い出した。彼女は、雀躍こおどりするように、からだを動かしながら笑った。ヒステリックに、いつまでも笑いつづけた。
 そして、やっと笑い止むと、持っていた封筒を、一つ一つ破り出した。中の手紙を取り出して読んでは、くつくつ笑った。おしまいの二つからは、ただ真白なレターペーパーが出ただけである。
 彼女は、引出から先刻の万年筆をとり出すとそのレターペーパーに何か二三行かいた。それを机の上に置いた。だが、思い返したらしく、その紙を引出に入れた。それで部屋を出ようとしたが、またひき返して来て、引出から、その紙を取り出すと、四つに折って机の上に置いた。だが、それも気に入らないらしく、今度は電気スタンドの台の下にはさんだ。それで、やっと安心したらしく村川の部屋を出て行った。


 自分の部屋に逃げ帰った倭文子は机にもたれたまま、いつまでも泣いていた。心の苦しみはある程度まで行くと、肉体的な苦痛を伴うものだが、倭文子も胸が痛み、お腹にあるもののすべてが何かでかき廻されるように苦しかった。時々、はき気が催して来るのを彼女は、じっとこらえていた。涙がしきりに出て来た。彼女は横顔を机にくっつけて泣いた。涙が机の上にポトポトと落ちた。彼女は、悲しみが烈しくなると、机にすがりついた。この小さい机よりほかに、彼女のとりすがるものは世の中に何もなかった。
 一時間も泣きつづけても、胸の苦しみはちっともとれなかった。彼女は、机の上に落ちた涙を指につけて、いたずら書きを始めた。それが、みんな悲しい字になった。ふと村……とかきかけても、どうしてもその後がかけなかった。もう、彼の名前をかくことさえが、恐ろしい苦痛だった。
 色魔! 彼女は、机の上にそうかいた。だが、それが恐ろしかったので、すぐ消した。だが彼女の心にかかれていた愛の肖像ポートレートは、もう真二つにひきさかれていた。心が、純であればあるほど、極端な信頼から極端な疑惑へ、一またぎにしてしまうのだった。
 彼女は、もう一度村川に会って、自分の口でたしかめようかと思った。だが、ふみにじられた彼女の心には、もうそんな勇気がなかった。もう一つ念のために、こよい十時に村川と一枝とが、会うかどうかたしかめたいと思ったが、彼女にはそんな恐ろしいことは出来なかった。ただふみにじられたならば、ふみにじられたまま、じっとあきらめることが、彼女に一番ふさわしいことだった。
 晩のご飯には、彼女ははしを取っただけで、ご飯はちっとも咽喉のどを通らなかった。美智子が来て、新しいレコードをかけるから、いらっしゃいと誘ってくれたが行かなかった。
 恐ろしい苦痛が、少しもゆるむことなしに倭文子を、さいなんだ。彼女は、もし床にはいったら、偶然なねむりが、それを救ってくれやしないかと、九時前から、寝床をしいて、床についたが、いくら蒲団ふとんを頭からかぶっても、意識は水のようにすみ切って、すみ切った意識の中で、苦しみのやいばが縦横に彼女の心をきりきざんでいた。
 十時が、近づくにしたがって、彼女の苦しみは増した。両手でじっと胸をかかえ、何も考えまいとしてつとめればつとめるほど、いやなまぼろしが、ハッキリと頭の中に浮んで来る。
 右をむいても左をむいても、ねむれなかった。目がさえてしまって、電灯を消した部屋の中までが、アリアリとひとみにうつって来る。
 苦しみの時間は容易に経たなかった。十時が来なければいいと思い、また早く来てしまった方がいいとも思っていたが、その十時は容易に鳴らなかった。ふと、廊下に面した障子が、スルスルと開いた。
「倭文子さん、お休みになったの。」
 倭文子は、おどろいて床の中に起き上った。それは京子の声であった。
「いいえ。」
「ちょっと話があるの。電灯つけてもいいでしょう。」
 倭文子は、ゾッとした。また京子が、何か恐ろしい話をするだろうと思ったからである。
 カチッと音がしたかと思うと、パッとついた電灯の光の中に、白と黒とのあざやかな棒縞を着た京子が、ニコニコ笑いながら立っていた。


「悪かったわねぇ。お休みになっているところを。」
 京子は、そういいながら、ちっとも悪かったらしい顔をしないで、後の障子をしめると、そこの柱を背にして、腰をおろした。
「いいえ。わたし、まだ寝ていませんでしたの。」
「ねぇ、倭文子さん。わたしまた村川さんのあること聞いたのよ。」
 倭文子はそれを「何ですの」といって訊きただそうとする勇気はなかった。
「ねぇ、ちょっと村川さんがね。昨夕ゆうべ芸妓げいしゃに送られて帰って来たのですって。」
 倭文子は見はった眼から危く涙がこぼれそうになった。
「ほんとうですの。」
「ほんとうですもの。野村が見つけたんですって。」
「まあ!」
「それでも、まだあなた、あの方をお信じになるの。」
 倭文子は、うつむいたまま言葉がなかった。
 京子は、しばらくだまっていたが、
「ああ、もうすぐ十時だわ。もう五分前よ。」
 彼女は左の手首につけたプラチナの時計を見ながら、いいつづけた。
「あなた、気にならない。」
 倭文子は、涙ぐんだひとみをちらとあげたが、すぐ顔を伏せた。
「わたし、何だかくやしいのよ。気になっちまうの。やきもち焼きかしら、わたし、十時前から一枝に用をいいつけてやろうと思っていたら、もうとっくにいないのよ。」
 倭文子は、胸がやけるようにあつくなった。
「行って見てやりたいわねぇ。でも、そんなことをすると、こっちがいやしく見えるわねぇ。」
 倭文子は、はやく京子が去ってくれればいいと思った。京子の一語一語が、彼女の心をむざんにブツブツとつきさした。
「ねぇ倭文子さん。話というのはほかでもないのよ。わたし、四五日海岸へ行こうかと思っているの。あなた、つき合って下さらない。」
 倭文子にも、それは何よりの救いだった。京子と一緒に行くにしろ、この家にいるよりは、どれだけ心がなぐさめられるかわからないと思った。
「ええ、おつき合いしますわ。」
「そう。それはありがたいわ。ねぇ、わたし家の別荘よりも、今井の別荘へ行こうと思うのよ。あすこなら留守番がいるからご飯こさえてくれるのよ。」
「ええ結構ですわ。」
「あした早く行かない。なるべく早くね、七時半頃に家を出ましょうねぇ。」
「ええ。」
「あなた、今夜中にこしらえしなくってもいい?」
「ええ、少ししましょうかしら。」
「カバンでも、バスケットでもあるわ。女中に持ってこさせるわ。」
 京子は、立ち上って倭文子の机の傍までゆくと、そこにあった呼鈴のベルを押した。
 廊下に足音が聞えて女中が来た。
「お母さまにね、倭文子さまも一緒にいらっしゃるから、小さいカバンを出して下さいって。お居間の右側の押入の上にある方を出して下さいって。」
 女中が、
「かしこまりました。」
 といって去ろうとすると、京子はふと思いついたように呼び止めた。
「あの一枝帰って来た?」
「いいえ、まだでございます!」
「そう。」
「探してまいりましょうか。」
「いいの。」
「もし帰ったら、わたしのお部屋へよこしてね。」
「はい!」
 女中は去った。京子も立ち上った。
「じゃ倭文子さん、あしたね。お休みなさいね。グッドナイト! グッドスリープ。早く起きなければならないのですから、早くお休みなさいね。」
 倭文子は京子の足音がきえると「わーっ」と、かけぶとんの上へ泣き倒れた。泣いても泣いても彼女の悲しみは、少しもうすらがなかった。


 村川は、家へ帰って部屋に入ると、かぶっていた中折なかおれを、左手の帽子掛にめがけて投げつけた。自分の頭の中の憂欝や不安を投げつけるように。むろん、帽子は反動で、二三尺はねかえって床に落ちた。それから、上衣をぬぐと肱附いすの上に、たたきつけるように置いた。
 彼は、頭の毛をかきむしった。そのように、頭の中のいろいろな不快をかきむしりたかった。村川の帰ったのを知って、女中が湯の案内に来た。だが、彼は頭を振って、ことわった。一刻も早く倭文子に会いたかった。自分で、倭文子の部屋におしかけて行きたかった。だが、今まで一度も倭文子の部屋を訪ねた事がないし、もう九時を廻っているらしいので、そんな事は思いも及ばなかった。ただ、どうかして手紙でも出したかった。だが、女中に手渡ししてもらうことが、危険である上に、自分でそっと手渡す機会なども、容易にあろうとは思えなかった。彼は、ふと考えついた。恋は多くの場合に発明の母であるが、彼もまたかいた手紙を邸外へ持って出て郵便で出すことを考えついた。それは廻りくどいことである。だが、しかし安全で一番適確な方法であった。しかも、一番疑われない方法である。彼は、その方法を考えつくとその馬鹿馬鹿しい廻りくどさと、しかも間違ないたしかさに、つい愉快になって、救われた明るい気持で机に向かった。
 机の引出から、万年筆と書簡箋を出した。彼は秀才の上に文章はかなり自信があるのだが、字は悪筆であった。会社で社長の代筆を、嫌々ながら二度すると、三度目には先方で頼まなくなった。彼は、まずい字を恋人に見せるのはイヤだった。でも、勇気を出して書き出した。
 彼が三行ばかり書くと、電気スタンドが少し邪魔になるのを感じた。彼は、左手を出して、それを遠くに押しやろうとした。すると、その下から白い紙片がはみだしているのを見つけた。
「おや!」と思って、彼はその紙片をとりあげた。
 それは、純白のレターペーパーだった。鈴蘭の模様がついているので、少女用であるのがすぐわかった。彼は胸があつくなりながら、それをひらいた。
 その瞬間、夕暮の海のように暗かった彼の顔に、サッと金色の光がみなぎった。彼は万年筆を放り出すと、部屋中をきりきり舞いしながら、飛んで歩いた。
 彼は机の前へ帰って来ると、またその紙片をとり上げて、見直した。最初見た通りの、
「今晩、十時、四阿あずまやでお待ちしています。ぜひぜひおいで下さいませ。倭文子。」
 という字が、そのままにあるのが、奇蹟としか考えられなかった。こんな手紙が、世の中に存在していることが奇蹟だった。
「倭文子さんが、この覚悟なら、京子が逆さまになったって、恐くないぞ、見事に倭文子さんと結婚してあの高慢ちきな京子を、ギャフンといわせてやろう。」
 彼は心の中でそう叫びながら、部屋の中を飛び廻った。


 それでも、村川ははずみ切った心を押えて、十時十五分前まで部屋にいた。それまで、待つ事はかなり苦しいことだった。彼は足音をしのばせながら、階段を降りると、洋館の玄関のドアをソッとあけて外へ出た。
 日本館の台所には、女中達がまだ起きていた。話声のする窓下を通って、奥庭へ出た。
 満月の夜は、遠く過ぎて、晴れた初夏の夜であるが、月はまだ出ていなかった。けやきこずえ越しに洗われたような星空がはるばるとかかっていた。花の香か樹の新芽かが、夜の闇にほのぼのとにおっていた。白いさつきの花が白じらと咲きみだれていた。しかし、恋人とのランデブーはハッキリ相手の顔を見合せるまでは、喜びよりも不安の方が先に立つものだ。どんな堅い約束を交していても、しっかり手と手を握り合うまでは安心が出来なかった。まして、村川はこの前の夜の会合に、取り返しのつかぬ失敗をしていたから。
 四阿あずまやの近くへ来ると、村川はからだも心も、不安と喜びとでふるえた。彼は、倭文子が先へ来ていやしないかと、遠くからたしかめようとした。だが、四阿あずまやの中は、暗かった。彼は、闇の中に目をみはりながら一歩一歩近づいた。若いかえでの樹の下をくぐると、もう四阿あずまやは目の前にあった。
 彼は、その時四阿あずまやの中に、ハッキリと人影をみとめたので、うれしさのために、あやうく声を出すところであった。
 彼は歓びにあえぎながら、かけつけた。だが、先夜の失敗があるので、いきなり中へ駆け込まずに、一間くらい手前のところで、一度立ちどまった。
 すると、村川の姿をみとめた中の人影はあきらかに狼狽したらしく立ち上った。彼はそれが倭文子ほど、背の高くないのに気がつくと、驚愕と失望とで立ちすくんでしまった。
「まあ、村川さんですか。」
 相手は小間使の一枝であった。
「君か。何だ。」
 村川は、絶望して叫んだ。
「君は、何だって今頃こんな所にいるのだ。」
「あの、ちょっと考えごとしていましたの。」
「そうか。」
 村川は、このかわいい小娘に対して、烈しいにくしみを感じたが、それかといって、今の場合どうすることも出来なかった。
「考えごとをするなんて、どうしたんです。もう遅いんだから、行って寝たらどうです。」
「でも、お部屋だと何も考えられませんもの。」
 彼女は、いつの間にかまた腰をおろしていた。
 村川は、生意気なことをいうと思ったが、しかしそれ以上、立ち入って命令することなどは出来なかった。
 彼は、つぎつぎに襲って来るわるい偶然に、ほとんど泣きたくなった。だがどうすることも出来なかった。無理に一枝を追ったりなんかすると、すぐ京子に告口されることは明かだった。
 彼は応急手段として四阿あずまやへ近づいて来る倭文子の姿を見つけたら、一枝に知られないようこっちから中途で迎えようと思いながら、四阿あずまやを背にして目をみはっていたが、人影も見えず、それらしい物音もしなかった。闇の中で、時計をすかして見ると、もう十時になろうとしていた。


 村川は、いらいらしさで焼ける胸を抑えて、二三分辛抱していたが、どうにもたまらなくなって、再び一枝の方にふりむいた。
「ねぇ。一枝さん、僕はここで一人になって、考えたいんですがねぇ。」
 闇の中で一枝はちょっと村川の方を振り返ったらしかった。だが、ただ顔がほのじろく動いただけで、笑っているのか、悲しんでいるのか、わからなかった。
 村川は、あせって一枝の方へつかつかと進み寄った。
「ねぇ、ちょっと。あちらへ行ってくれませんか。僕ここでちょっと考えたいのですが。」
 一枝は返事をしなかった。
「ねぇ、いけませんか。」
 一枝は、じっとうつむいたままだまっている。村川は相手の不得要領な態度に、じりじりしたので、思わず彼女の肩に手をかけた。
「ねぇ、一枝さん。僕の頼んでいることがわからないんですか。」
 すると意外にも、一枝は村川にかけられた手を振り払うと、からだをねじらせて、腰かけている縁の上に顔を伏せてしまった。
「どうしたのです。どうしたのです。」
 村川は、おどろいて彼女のからだをゆすぶっていると、彼女はいつの間にかシクシクと泣いているのである。
「ちぇっ!」
 村川は、いらいらしさから、烈しい憤怒にまで、昂奮した。だがシクシク泣いている少女をどうすることも出来なかった。また、彼女がなぜに泣いているのか、その原因を訊ねてやるほどの余裕はなかった。
 彼は、胸がじりじりと焼けた。彼は大きい声で、怒鳴りつけてやりたかった。それをじっとこらえて、
「ねぇ、あっちへいらっしゃい! 家の中へいらっしゃい!」
 そういって、一枝を抱き上げようとしても、彼女はすべての筋肉をだらけさせて、村川の手が少しでもゆるむと、またペッタリと縁に腰をかけてしまった。
 彼は、一枝を去らせることは絶望した。仕方なく四阿あずまやをはなれ、すぐそばの小高い芝生の小山に上り、折からさしのぼった月の光をたよりに、近よって来るのかもしれない倭文子の姿をむさぼるように求めたが、だんだんハッキリとして来るどの小径こみち、どの樹かげにも、それらしいものはなかった。時計を見ると、一枝とのいきさつに時が経って、十時を二十分も廻っていた。
 彼は、はらわたがブツブツ音を出して切れるように苦しかった。それをこらえて、五分待ち十分待った。ふと、向うの樹陰に人影が動いたので、ハッと思って目を定めると、それは先刻あんなに彼を手こずらせた一枝が、今やっと四阿あずまやを出て、台所の方へトボトボ歩いて行くのだった。
 彼は、不快な邪魔物であった彼女を追いかけて行って、地上にたたきつけてやりたかった。時を見ると、十時四十分である。でもとにかく一枝の去ったことはうれしかった。気が少し落ちついた。一枝の去ったのを見定めて、きっと来てくれる倭文子だろうと、新しい希望を胸に湧かして待っていたが、五分経ち十分経ち、彼の袖が夜露にしめるまで待ったけれども、倭文子はとうとう来なかった。
 彼は、十二時まで待って、ようやく思い切った。家に帰って寝室に入ったが、一睡も出来なかった。夜が白む頃、やっとまどろんだかと思うと、烈しい自動車の爆音で目をさまされた。
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ハヤマの海



 自動車の爆音に夢を破られて目をさました村川は、枕元の時計を見たが、七時を廻ったばかりである。こんなに早くこの家へ自動車が来るのは、珍しい。一体だれが来たのだろうと、寝衣ねまきのままベッドから降り、青いカーテンをあけて下を見ると、玄関にオープンの自動車が横づけになり、運転手が乗手の来るのを待っている。
 おやおやだれが乗るのだろうと思っていると、さわがしい人声がして、玄関のドアが開き、一番先に走り出たのは美智子である。だが、美智子はよそゆきの洋服を着ていないのを見ると、彼女が乗るのではないらしい。と見ると、彼女は両手で、パラソルを持っている。それは、見覚えのある京子のパラソルである。とすぐ、美智子とつづいて、京子が玄関に姿を現した。村川は京子を、もとからすきではなかった。だが、着物の都会的な好みだけには、いつも心をひかれる。初夏そのものを思わせるようなさび青磁の羽織が、その長身の美貌を引立てて、初夏の麗人といったような新鮮な美しさにかがやいている。
 京子が、どこかへ外出するのだと思っていると、すぐ後から、鳩色羽織を着たおとなしい姿の倭文子が、うつむきがちに、玄関を降りて来た。と、すぐつづいて細長い旅行カバンが二個、バスケットが一つ。
 旅行だなと思うと、村川はその前にたった一言でも倭文子と言葉を交したかった。だが、つい二三日前激語を交し合った京子がいる。その上、玄関へ出て行くのには、寝衣ねまきである。なぜ、昨夕ゆうべ約束を破ったのか、それとも一枝の姿を見かけて来なかったのか、咽喉のどの焼けるほど訊きたいことはたくさんあるが、村川はただだまって見つめているほかはなかった。
 川辺夫人までが、玄関に送り出ている。長い旅行だと思うと、村川はいよいよ情なくなって来ると共に、それが京子が倭文子を自分から離そうとする策略であることがハッキリわかって来た。だが、倭文子に対して、公然とは何の権利もない村川は、ただ胸をかきむしってくやしがるほかはなかった。
 と、一時止まっていたエンジンが始動し始め、京子と倭文子との顔が並んで、美しく微笑しながら、家人にあいさつしたかと思うと、自動車は一二度の警笛の音を名残りに邸外へ走り去った。
「あら、村川さん。そこにいらっしゃるの?」
 二階の窓から、茫然と顔を出していた村川を地上の美智子が見つけたのである。
 村川は、返事が出来なかった。
「お姉さま、どこへいったかご存じ?」
「いいえ。」
「教えて上げましょうか。」
「どうぞ。」
 村川は、うれしかった。
「ねぇ、ここへかきますよ。」
 美智子は、六つだけれども、もうかたかなを教わっていた。地上に、指でかいた。
「わかりませんね。」
「そう、じゃ待っててね。」
 美智子は、二三間かけ出して行ったかと思うと、地上に落ちていた竹ぎれを拾って来た。
「ねぇ。見ていらっしゃい。」
 地上に大きくハヤマと書いた。


 初夏の葉山の海は、緑にかがやいていた。
「地震後わたし初めてよ。まあ磯があんなに出てしまったわ。名島なじまのところまでつづいていそうね。」
 京子は、目をみはりながらいった。
 倭文子は、葉山が初めてである。駿河湾を遠くへだててたなびいている灰色の雲の間に、見えがくれする真白な富士の姿さえめずらしかった。
 二人をのせた自動車は森戸橋を渡り、黒い岩床が露出している海岸に沿ってすすみ、左へ大きいカーブをしたかと思うと、すぐ広壮な洋館の前に、ぴったり止まった。
 留守番の夫婦は、あわてて玄関前に迎えに出て来た。一二度来たことのあるらしい京子は、夫婦と鷹揚おうようにあいさつすると、自分の家に入るよりも、もっと気軽に倭文子をうながしながら中へ入った。
「二階のお部屋は、みんなお掃除しておきましたから、どうぞ自由にお使い下さいませ。」
 三十に近い目の丸い色白の女房は、そういいながら、幾度もおじぎをした。
「ああそう。ご苦労だったわね。」
 京子は、うなずきながら、倭文子と一緒に二階に上った。二階の部屋部屋は、長い眠りから急に目をさましたように、明るい五月の光をいっぱいに受け入れて、はればれとまばたきをしていた。西と南が、一面のガラス戸で、すべてがサンルームのように明るかった。
 清浄せいじょうな白い籐の椅子、テーブル、純白なカーテン、海の色そのままな真青な敷物マット、南に海を受けたそこは二十畳に近い座敷だった。
 そのとなりの部屋は、寝室になって、寝台が二つ置きならべてあった。
「あなた寝台にねられて?」
「どうですか、わたしはまだねたことありませんの。」
「そんなら、こっちでおやすみなさいね。」
 そういって、京子は、廊下を隔てた部屋の戸をあけた。その部屋は陸に面した部屋だった。やっぱり洋室にこさえたのだが、その後模様がえして中には畳がしいてあり、茶箪笥が置いてあり、押入まで出来ていた。そのとなり、やはり陸に面した部屋は、書斎になっていた。卓の上に、去年の七八月頃の婦人雑誌などがつみ重ねられてあった。
「これ今井さんの奥さまが、読んでいたの。とても、おとなしい美人だったのよ。あなた一度会いやしなかった。」
「いいえ。」
「そうかしら、家へも一二度来たことがあるのよ。」
「そうですか。」
「いい奥さまよ、今井さんなんかに、惜しかったのよ。あんな馬鹿なお坊ちゃんなんかに。」
「まあ!」
「こんな別荘だって惜しいわねぇ。あんな馬鹿息子がこんな財産をつぐのが、今の資本主義制度の弊害ねぇ。」
「まあ!」
 倭文子は、京子の顔を思わず見上げた。
「だから、せいぜいわたし達で、使ってやりましょう。こっちへいらっしゃい、とてもいいけしきよ。」
 そういって、京子は先に立って廊下へ出た。
「あれが御用邸よ。ほら、海の中に細長い岩が出ているでしょう。あすこの所が御用邸。」
 小さい美しい湾は、初夏のかぐわしい日の光の中に、ほのぼのとまどろんでいた。御用邸を中心に海岸一帯の別荘は、赤い屋根、白い屋根、とりどりに浮き出すように、まぢかに見えた。
「あれが長者ヶ崎。」
 京子がこの別荘の立っている海岸と相向いてこの湾を抱いている老松の生えている岬を指さしたとき、階下でけたたましく電話のベルが鳴った。


「おや電話がかかって来たのね。家からかしら。」
 京子が、ちょっと不思議がっていると、階下したからさっきの女房が上って来た。
「あのお嬢さま。あの東京のこちらのご主人から、お電話でございますの。」
「そう!」
 京子は、階段を降りながら、昨夕今井の留守宅へ電話をかけて、こっちへ来ることを断っておいたので、きっと今井がそれに対するあいさつをするだろうと思った。
「ああもし、もし。」
「ああ京子さんですか。先日はどうも失礼いたしました。」
 京子は、自動車の中の出来ごとを思い出したので、ついおかしくなるのをこらえて、
「いいえ。」
昨日きのうは、またどうもお電話をありがとうございました。今実はお宅の方へ、電話をおかけしたのですが、もうとっくにそちらへいらっしゃったとのことでしたから。あれきりご立腹になって、つきあって下さらないことかと思っていました。」
「どういたしまして。」
「別荘を使って下さって、こんな光栄なことはございません。」
「いつもわがままばかり申しましてすみません。」
「いいえ。いかがです。この頃の葉山は?」
「たいへん、けっこうでございますよ。こちらへ来てほんとうにせいせいしていますの。」
「何日頃まで、ご滞在ですか。」
「一週間ばかり、お邪魔するつもり。」
「どうぞ、ごゆっくり、あなた方のいらっしゃる間に、僕も一度お邪魔いたしたいですね。」
 ウルサイと思ったが、ふと京子にある考えが浮んだ。
「ええ、どうぞ。ぜひ。」
「お邪魔じゃないですか。」
「いいえ。決して。あのね、いらっしゃる時、ぜひ宮田さんをお連れして下さいね。倭文子さんとの話、早くまとめてあげたいの。その意味でもっと、婚前交際をさせてあげたいわ。」
「ええ何ですって。」
「婚前交際、おわかりになりません?」
「わかりませんな。」
「結婚前の交際よ。」
「なるほどね。けっこうですな。」
「ぜひいらして下さいね。」
うかがいますとも。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 京子は、受話器をかけると、ちょっと階段の上を見た。倭文子が聞いてやしないかと思ったからである。だが、倭文子の姿が見えないのを知ると、安心して階段を上った。
 倭文子は、ベランダのてすりに身をもたせて、遠く天城の連山をながめていた。そのさびしそうな後姿が、京子の良心に、ホンの少しばかりこたえたが、彼女は苦笑でまぎらせて、親しげに倭文子の傍へ寄ると、すれすれにてすりに身をもたせた。
「今井さんが、別荘を使って下さって、光栄ですって。倭文子さんにもよろしくって。」
「そう。」
「わたし達のいる間に、一度来たいんですって。」
「まあ。」
「誰がいやなことと思ったので、わたしハッキリ断っておいたのよ。でも、図々しいから、わからないわ。」
「おいでになったら、困りますわねぇ。」
 倭文子は、その場合の当惑を予感した。
「いいのよ。あんな人、わたしがうまくあしらって、すぐ追い返してしまうわ。おほほほほほ。」
 京子は、五月の海のようにさわやかに笑った。


 その晩、京子は倭文子が寝た後、自分一人書斎へ行って、手紙を書いていた。三四度、かき直した後、やっと次のような原稿が出来上った。

幾度も幾度も、思い返しましたが、やっぱりお手紙を差し上げて、私の心持をハッキリ申し上げておいた方が、私の心のかなしみを、少しでも少くするように思いますので、思い切ってお手紙を差し上げます。
私、あなたとお約束いたしましたが、いろいろ悲しい事が重なるにつれ、どうしても、あなたを信ずる事が出来なくなってしまいました。
ある人達は、初めからあなたの事を、いろいろに批評なさいました。でも、私はそんな事ちっとも、信じていませんでしたの。でも、人のうわさや批評はともかく、自分の目で見、耳できくことは、どうとも打ち消しがたい真実として、私の心をふみにじってしまいました。
いつかの晩、あなたとお目にかかるお約束をして、十時の時計が鳴るのが待ち遠しく、やっと人目を忍び、胸をおどらせ、足は宙をふんで、四阿あずまやへ参りますと、あなたは思いがけなく京子さまと話していらっしゃいました。たぶん、京子さまが偶然あすこにいらっしゃいましたことと思って、あまり気にかけていませんでしたが、昨日きのう京子さまから、恐ろしいことをきいてしまいました。ほんとうに、世の中が真暗になってしまいましたわ。
それで、一度お目にかかり、お心をたしかめたいと、昨日きのうかきつけを、お机の上におき、今日こそお目にかかれると思って参りますと、……ああもう何も申しあげませんわ。これだけ書くだけでも、地獄の苦しみでございますわ。これ以上申し上げなくとも、あなたはみんなおわかりのことだと思いますわ。
あなたからおっしゃれば、きっといろいろなご弁解もあることと思いますわ。でも、二度もあんなところを目にしました私の心は、もうどんなご弁解も、受け入れられないと思いますわ、私もう死んだ気になって、あなたのことあきらめてしまいたいと思いますの。どうぞ、いろいろなことをおっしゃって、この上、私をお苦しめ遊ばさないで下さい。あなたもどうぞ、一日も早く私のことをおあきらめ下さい。と申しあげても、私など、あなたは多くの中の一つでございましょうから、おあきらめになる必要など、少しもありませんでしょう。すべては、短い悪夢でございました。こんな悲しいお別れするのでしたら、初めからお目にかからなかった方が、どれだけよかったかわからないと思いますわ。ではご機嫌よろしく。こちらへ決してお手紙下さいますな。もしお手紙を、京子さまなどに見つけられると、私恥しくて生きてはいられませんもの。
倭文子

 京子は、その原稿をまた、白い大きいレターペーパーに、丁寧に浄書すると、それを桃色の封筒に入れた。そして、表書は丁寧にかき、裏へは、S・Yとかいた。それを書棚の真赤な表紙の本のページの間にはさむと、ようやく寝室へ来た。それを書くために、二時間近くもかかったのだが、倭文子はまだねむっていなかった。
「まだおやすみになれなかったの。」
「ええ、ちっともねむれないわ。」
「倭文子さん、何か煩悶はんもんがおありになるの。」
「いいえ。」
 そういって、倭文子は、涙がほとばしりそうになる目の上に羽ぶとんをかけた。
「そう。初めての家だと、ねむれないものね。気を落ちつけておやすみなさいね。あした、きっと、いいことがあってよ。」


 京子と倭文子との葉山の生活は、二日三日と続いた。倭文子の心の傷は、五月の太陽と海と風と、東京からの距離とのために、ようやく痛みが薄らぎ始めていた。
 それに、彼女と村川との心の関係は突発的で短かった。彼女の恋心は、目ざまされたばかりにすぐたたき付けられていた。温柔な心はそれに堪え忍び、犬がその傷口をなめるように自分でそっといたわっていた。
 だが、京子の心の傷は、いえなかった。いえなかったというよりも、自分でいやさなかった。彼女は、わざとその傷口を自分でひっかき廻し、その痛みを強くし、強くなった痛みの刺激で生きようとしていた。そして、自分以上の痛みを人に与えることによって、自分の痛みをこらえようとしていた。
 葉山へ来てから、四五日目の夕方、それは土曜日に当っていた。二人は、つれ立って散歩に出た。御用邸の前を通って、遠く長者ヶ崎まで歩いた。だが、あの岬を廻り、大崩れの海岸を一目見ると、荒涼たる風景に心が痛み、すぐ引き返した。夕暮の雲がしずまり、二三日見なかった富士が、くれそめた波の彼方に、いつまでも淡く残っていた。シーズンはずれのさびしい葉山の街には、もう灯がともっていた。
「倭文子さん。あなた宮田さんとの話、もう一度お考えになったらどう。」
 しばらくの間、だまって歩いていた京子は、急にまじめな話をはじめた。
 倭文子は、その話は一度、断っておいたのである。だが、そのときと今とは、事情が違っている。でも、こんな場合に、すぐそんな話を受け入れるほど、彼女は浮薄ふはくではなかった。
「ええ。」
 彼女は、その中に軽い否定の意味をふくませた。
「わたし、けっこうだと思うわ。申し分ない方じゃないの。」
「でも……」
「あの方のどこがお気に入らないの。」
「まあ。気に入らないなんて、もったいないわ。でも、わたし何だか気が進まないんですもの。」
「そう。父や母は、それはそれは心配しているのよ。父なんか倭文子には義理があるから、あれの縁談をきめてしまわないうちは、京子の方の話は一切しないといっているのよ。」
 村川が、京子から求婚されたと自分に告げたのは、ウソらしい。あの人ならどんなウソでもつくに違いない。倭文子は頭の中でそう考えながら聞いていた。
「とても旧弊よ、義理がたくてねぇ。つまりあなたが、お嫁に行かないうちは、わたし行けないことなのよ。おほほほほほほ。人を馬鹿にしているわねぇ。でもご心配遊ばすな。わたしそんなに順番を待っている程、お行儀がよくないわ。気に入ったところがあったら、あなたよりも先に、どんどん行ってよ。おほほほほほ。」
 京子は、何のこだわりもないように笑った。だが、倭文子はその冗談のオブラートに包んでいる彼女の皮肉やいやみを、ハッキリと感じた。
「でもね。父も母も、あなたが早くおかたづきになったらどんなに喜ぶかもしれないわ。」
 それらの言葉は、目に見えぬむちとなって返答に躊躇ちゅうちょしている倭文子の心をピシピシと打った。
「そうですね、わたし考えておきますわ。」
 倭文子は泣き出しそうな心持でそういった。こんな嫌な催促をのがれるためには、豚とでも犬とでも結婚した方が、まだ救われるような気がした。


 別荘へ帰る道の断崖の下には暗い夕潮が白く砕けていた。
 倭文子は、京子と並んで歩くことが、苦痛だった。大抵の場合には隠忍いんにんしている彼女も、京子の露骨な結婚強請には堪えられなかった。彼女は、もう村川のことは思い切っていた。だが彼を心の中から斬りとった傷あとは、まだ血をにじませていて、こんな非道な方法で、触られると飛び立つような痛みを感じた。
 京子は京子で、
「そうですね。わたし、考えておきますわ。」という倭文子の返事が、気に入らなかった。彼女の柔順さも、ある程度まで、押して行くと、自動車のクッションのように、バネを感じるのが、気に食わなかった。
 二人は、むきむきな心で帰って来た。見ると、別荘の玄関に自動車が横付けになっていた。
 京子は、土曜日に来るべき今井を心待ちにしていたので、少しも驚かなかったが、倭文子は、
「まあ。自動車が着いてるわ。」
 と、低いおどろきの声をあげた。
「今井さんかしら。」
 京子は、そうつぶやくと、倭文子にはかまっていないで、玄関を上ると、どんどん二階へ上った。
 もう、すっかり暮れてしまった海と空とを前に、今井は宮田と籐椅子を囲んで、紅茶を飲んでいた。
「いらっしゃい!」
 京子は快活に叫んだ。
「やあ。お帰りなさい。先刻からお待ちしていました。」
「ちょっと散歩に出ていたものですから。」
「お嬢さん、しばらく。」
 宮田が京子にあいさつした。
「お邪魔じゃないかと思ったのですが、先日お電話でああおっしゃって下さったものですから、図々しく押しかけて参りました。」
 今井は、まだ立ちながらいった。
「まあ、今井さんおかけなさい……」
「ええかけます。どうぞ、あなたも。」
 京子も、テーブルに向ってこしかけた。
「ご迷惑じゃありませんか。押しつけがましくやって来まして。」
「いいえ。わたし達二人で、そろそろあきかけていたところですの。二人じゃ、何も遊びごとは出来ないし。」
「ごもっともです。それで実はあなた方に一つ麻雀をお教えしようと思って、東京から道具を持って来たのです。」
「まあ、ご親切さま。でも、麻雀なら、わたしの家にもございますのよ。」
「じゃ、むろんやり方もご存じですか。」
「え、存じていますわ。美智子でも、よく存じていますのよ。この間も、四喜臨門すうしいりんめんをして皆を驚かせましたのよ。」
「おや、おや、こいつは恐れ入りましたな。じゃ、あなたもむろんエキスパートでいらっしゃるのですか。」
「いいえ。わたし、カラ駄目でございますわ。」
「いやどうして。そんなご謙遜は信じられませんな。宮田君、こいつは参ったね、少々。あなた方を牛耳るつもりで来たのが、スッカリあべこべになりそうですね。」
「いや、どうして。こうなれば、お互に実力を発揮して堂々と覇権を争うほかはありませんな。はははは。」
 宮田がいった。
「おほほほほ結構ですわね。」
 京子は笑った。
「倭文子さんは。」
 今井が、初めて不思議がった。
「おや、すぐいらっしゃるはずよ。」
 と、いいながら、京子は倭文子を求めるべく立ち上った。
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招かれざる客



「倭文子さん、倭文子さん。」
 京子は、階段の上から、呼んだ。
 階下の薄ぐらいホールで上ろうか上るまいかとためらっていた倭文子は、京子の声を聞いたが、
「はい。」と、気軽に返事する気は、どうしても起らなかった。でも、
「いらっしゃらないの、倭文子さん。」
 と、京子が二三段降りかけたので、あわてて、
「いいえ、すぐ参ります。」
 と、答えて階段を上って行った。
「今井さんがお見えになったのよ。あなたの好きな方も、ご一緒よ。」
 京子は、倭文子を階段の中途で迎え、笑いながらいった。「好きな方」が何人なんぴとを指すのか、倭文子には、ちっとも見当が立たないので、
「ええ。」
 と、あいまいに答えると、
「まあ、ついていらっしゃい!」
 と京子は先に立った。
 倭文子は、京子の陰に身をかくしながら部屋に入った。
「倭文子さん。しばらく、どうも、とんだお邪魔をします。」
 今井が立ち上ってあいさつした。
「いいえ。どういたしまして。」というほか、倭文子は、言葉が口から出なかった。
「倭文子さん。この方お忘れでないでしょう。」
 京子は、今立ち上った宮田を指さした。
 倭文子は、一二度宮田と会ったことがある。だが、縁談が始まってからは、これが初めてである。ことに二三十分前、京子からその人の話を、きかされていただけに、倭文子は、はげしいショックを受け、身体中が不快な悪感おかんのためにふるえた。
「しばらく。宮田です。お見忘れになりましたか。」
 つやつやとしたオールバックに、縁なしの眼鏡をかけた宮田は、ニヤニヤ笑っていた。
「お見忘れになんか、ならないわ。ねぇ、倭文子さん。今も、二人でおうわさしていたの。」
「光栄ですね。まことに。」
 そういって、宮田は頭をなで上げた。
「ところが、あまりいいうわさじゃないのよ。」
「おや、おや。」
 倭文子は、だまって頭を下げただけである。彼女は、宮田などという男のことを、今少しも考えたくはなかった。
「あなたがた、ご飯召し上って。」
「食べて参りましたとも。あなたがたは。」今井がいった。
「ご飯いただいてから、散歩に出ましたの。」
「そうですか。じゃ、早速さっそく一ゲームなさいませんか。」
「ええ。けっこうですわ。倭文子さん麻雀なさらない。」
 倭文子は、遊技が嫌いであった。麻雀なども、美智子や、宗三にすすめられるので仕方なしにはいを手にしているものの、興味はちっとも感じられないのであった。
 だが、今四人の群で、四人なければ出来ない遊技に、彼女一人ぬけることは、許されなかった。
「ええ。」
 彼女は、低く小さい声でうなずいた。
 牌は、方形に並べられた。最初の荘家おやには、京子がなった。方形に並べられた牌の中から、一度に四枚ずつめいめいの牌を取った。
 荘家おやの京子が、最初に九萬きゅうまんとかいた牌を捨てた。
「九萬。」彼女は勢いよくいった。
。」
 そういって、横にいた宮田が、その牌を取り上げると、自分の持っている牌の中から、
東風とんふう。」
 と叫びながら、「東風」とかいた牌を手早く捨てた。


「ぽん。」
 宮田が、「東風」を捨てるのを見ると、京子はとっさに叫んだ。
「おや。おや。あなたのふうですねぇ。こいつは、少々まいった。」
 宮田がいった。
一筒いいとん。」
 そういって、京子は「東風」を取った代りに青と赤のうずまきをたった一つかいた牌を捨てた。
 次の宮田は、方形に並べた牌の中から、一つ取り上げてそれを手駒の牌と見比べてから「北風ぺいふう」と叫んで、北風と書いた牌を捨てた。
「南風。」
 今井が、叫んで「南風」を捨てた。
 倭文子は、心が少しも落着かず、手駒の十三枚の牌をどんなに配列して戦うべきかさえわからなかった。彼女が、まごまごしていると、
「倭文子さん。お早く!」
 と、京子に注意されたので、あわてて、
はつ。」
 といって、白い板に緑で「發」とかいた役札を捨てたが、
「ぽん。」
 といって、宮田がそれを取った。
 ゲームは、こうして進んだ。最初の一回は、京子が上りを占めて勝った。次は、今井、その次は宮田だった。こうして、一ラウンド近くなるにつれ、京子はよく戦い、今井と宮田とを圧倒するほどだった。荘家おやで勝つと、いつまでも荘家おやをつづけられるのだが、京子は荘家おやで三回も勝ちつづけ、連荘れんちゃんの名誉をほしいままにした。
「おどろいたね。こいつは、頭がいい。これほど京子さんがうまいとは思わなかった。」
 今井がいった。
「なかなか玄人くろうとですね。ちっとも大役をねらわずに、上りばかりを心がけているなんて。どうして心得たものだ。」
 宮田が、感歎した。
「そんなに賞めておいて油断させようとしても、その手にはのらないことよ。」
「おや、おや。これは計略を見破られましたな。」
 宮田は、頭をかいた。
 京子が、勝ちつづけに勝っている間、倭文子は、一度も上りを取れなかった。ほかの人達が、もう何回となく、上りを取っているのに、倭文子だけは一度も勝てなかった。勝てなくてもいいとは思っているものの、一度も上りを取らないことは、あまりにきまりがわるかった。あまりにかなしいことだった。
 ワンチャンスになっていたりツーチャンスになっていながら、最後の所で人に先んじられた。最初から、手駒の配列が非常によく今度こそはと思っていると、運わるく他人が二まわりくらいで上ってしまった。あせればあせるほど、倭文子は上れなかった。
「倭文子さんは、運がわるいですね。ツーチャンスじゃありませんか。」今井がいった。
「とっくにツーチャンスになっていましたの。」
「それで上れないのですか、お気の毒ですね。」
 そんな同情をされると、倭文子は一層かなしかった。
 もう二三回で、一ラウンドが終ろうとしたとき、倭文子はやっと上った。
「ろん!」と、小さい声でいって倭文子は手駒をさらした。
「おめでとう。」
 宮田が、そういってくれたのが、きまりがわるかった。
 すると、そのさらした駒を、ジロジロ見ていた京子が、
「倭文子さん、間違っているわ。これ六筒りゅうとんじゃないの。」
 七筒、八筒、九筒と数の順序に並べなければならぬ牌が七筒、六筒、九筒となっているのだった。間違って上ったと称することは、「冲和ちょんぼ」といって、大きい恥であるばかりでなく、他の三人に、三百点ずつ罰料を払わねばならぬ大失策なのである。
「あら、どうしましょう。」
 倭文子はいきなりさらしたふだの上へ顔を伏せた。


 牌の上に顔を伏せた瞬間、倭文子はさっきからの悲しさ、いや数日来のかなしさを抑えていた心が一時にゆるみ、あつい涙がとめどなく溢れて来た。顔を覆っている両手の指をもれ、象牙の牌をぬらした。
 涙が出ると、またそれが恥しさを増して、どうしても顔をあげられなかった。
「ねぇ、今のは、やり直しにしましょう。」
 今井がいった。
「賛成です。」
 宮田も、すぐ応じた。
「そう。それでもいいわ。でも、規則通りにしないと、つまらないわ。」
 京子がいった。
「だって、別にお金をかけているのじゃないし、いいじゃありませんか。」
 宮田がいった。
「宮田さんは、いやに倭文子さんのひいきをするのね。でも、お金をかけていないから、規則だけでも厳重にしないとつまらないわ。」
「ごもっともです。でも、そこをその……情状酌量というわけには行きませんか。」
「いけませんわ。ねぇ、倭文子さん罰金お出しになるのでしょう。」
 倭文子はうつむいたままうなずいた。京子は、倭文子の代りに数取りの札を計算して、皆に三百点ずつ渡し、自分も取った。そして、かりかんの印だけを、倭文子の手許に押しやった。同じ印を倭文子は五つ六つ持っていた。
 皆は、またすべての牌を、卓上でめちゃくちゃにかきまわし始めた。かるたの札を切るのと同じわけである。だが、倭文子は顔を上げなかった。
「倭文子さん。ちょっとお顔をお上げになって。」
 そういって。京子は倭文子の顔を上げさせ、その下にある牌を取り出した。牌がぬれているので、倭文子が泣いていることが初めてわかった。
 さすがに、京子も牌をかきまわしていた手を止めた。
「まあ。倭文子さん、泣いていらっしゃるの。」
 そういわれると、倭文子はまた悲しくなって、止まっていた涙が、新しい勢いで、ボトボトと卓の上に落ちた。
 男達二人は、もう口がきけなかった。二人とも、てれてしまって、やけに牌をかきまわしつづけていた。白々しい沈黙がつづき、牌がふれ合うひびきだけがその静けさを破った。
「つづけて、おやりになる。およしになる?」
 京子が、しばらくして倭文子にきいた。
「わたし、もうよしますわ。」
 倭文子の声には、涙が溢れるほどふくまれていた。
「じゃ、よしましょうね。」
 京子は、男達にいった。そして自分の前に、山とつまれていた点数の札を、ガチャガチャかき廻した。
「まあ。わたしこんなにあるわ。」
「どうも我々の及ぶところでありません。」
 今井が、冗談に頭を下げた。
「倭文子さん。いかがです、頭痛でもなさるんじゃありませんか。少しお休みになったらいかがです。」
 宮田がいってくれた。倭文子は、それが救いだった。
「わたし失礼させていただきますわ。」
 倭文子は、顔の涙を皆に見せないように立ち上った。
「わたし達、寝台の方を使っているのよ。いいでしょう。」
 京子が今井にいった。
「けっこうですとも、どうぞ、ご自由に。」
「じゃ、倭文子さん。先へおやすみなさいね。」
 京子も、倭文子を泣かせた責任が過半自分にあることを感ずると、急にやさしくそういった。倭文子はさびしいなで肩を、更に小さくすぼめながら、部屋を出て行った。
「実は、京子さん。あなた方お二人だけの所へ、僕達が泊るのも変ですから、泊るだけは宿屋の方へ行こうと思っているのです。」今井がいった。
「まあ。あなたは、そんな紳士?」
「というわけではありませんが。」
「わたし達、不良少女じゃありませんから、そんなご心配ご無用よ。」
 その時、別荘番の女房が、あわただしく上って来た。
「お嬢さま。あの東京からお人がお見えになりました。」


 倭文子を京子にうばい取られてからの村川の苦悩は大きかった。しかもその倭文子の心持が、今では、村川には少しも見当がつかなかった。人を最も苦しめる者は不安だ、地獄へ堕ちるまでのその道筋だ。
 京子ののろいがまざまざと実現してきそうな恐怖が、彼の心を、圧倒して来た。彼女ののろいの言葉通り、倭文子は彼の把握の中から煙のように立ち去りかけているのだ。
 葉山のどこに行っているのか、彼には見当がつかなかった。川辺家の別荘は、大磯にあって、葉山ではなかった。彼は美智子や宗三にそれとなく聞いてみた。だが二人ともはっきりとは知らなかった。美智子は、
「待っててね。わたしお母さまに聞いて来てあげるわ。」といきおいよく立ち去ったが、そのまま、彼のところへ帰って来ないので、晩のご飯の時に、
「美智子さん、さっきの事聞いてくれた?」
 と聞き直すと、彼女はけろりとして、
「ああ忘れちゃった。だってお母さまがおやつを下さったので、すっかり聞くの忘れちゃった。」
 と、彼女は平気な顔をしていった。
 実際女中達も、京子が葉山のどこに滞在しているのか知っていないらしかった。ただ夫人だけは知っているのに違いないのだが、彼は、京子の縁談を露骨に断ったので、今更京子の滞在先などを聞く事は出来なかった。そればかりではなく、川辺家にいる事さえ何となくいづらく感じられて来ていた。ただ川辺家を去ると、それでなくてさえ望み少くなって来た倭文子の間がらが、一糸のつながりもなくなってしまう事が堪えられなかった。
 京子が邪魔をすればするほど、ここにふみ止まって、京子の策略と戦い、倭文子を取り返す事は、男らしい態度だと思われたので、彼は時々新聞のよろず案内等で、下宿の広告を注意しながらも、川辺家を去る心はなかった。
 すると彼は、意外にも、倭文子からの絶縁状を受け取った。その手紙は、彼を絶望のふちにたたきおとした。だがその手紙で、倭文子の心持がはっきりわかったので、彼はかえって新しい曙光しょこうを見た。
 すべては偶然の機会から起った誤解である。京子と誤って接吻せっぷんをした事だけは容易に解き難い誤解ではあるが、しかし倭文子がほんとうに心を傾けて聞いてくれれば、解いて解き難い誤解ではなかった。
 彼は倭文子の手紙で、むしろ安心した。と同時に、倭文子にあいたいという心が、はげしい飢渇きかつのように彼の心をおそった。彼は葉山へ行って、軒ごとに倭文子のありかを探したいとさえ思った。こうなれば、京子が傍にいようとも、自分の心をはっきりと倭文子に告げようと、そしてすべてのいきさつを、はっきりと彼女にはいおう。もう倭文子が、それをきいて京子に対する義理から、自分を思い切るというなら、自分も男らしく、倭文子の言葉を甘受しよう。そう決心して、彼は絶望のうちに、すんだあきらめを得た。
 だが、京子が葉山のどこに滞在しているか、まだわからなかった。すると土曜日の午後三時頃である。彼は仕事が一段落すんだので、たばこに火をつけていると、いつの間にか社長、今井が、自分の机の側に来て立っていた。
「おい。村川君。京子さんはまだ帰って来ていないかい。」
「いいえ、帰っておられません。」
「今日あたりまだ帰って来そうにないかな。」
「まだそんな容子はありません。」
「ああそう。」
 今井は立ち去りそうにした。村川はふと思いついてきいた。
「葉山はどちらにおられるのでしょう。」
「僕の家の別荘にいるんだよ。」
 今井は無雑作にいいすてて、社長室の方へ去った。村川は思いがけない福音に、世の中が急に明るくなった。
「よしこれから行ってやろう。」
 彼は心の中にそう叫んだ。


「え。東京からのお客ですって。まあだれ!」
 京子は、さすがに、おどろいた。
「村川さんという方です。」
「村川さん!」
 美しい顔が曇った。
「あの倭文子さんに、お目にかかりたいとおっしゃっているのでございますよ。」
 京子は顔が少しあおざめた。
「なに村川君、すぐ上げればいいじゃありませんか。むろん、これは出来るのでしょう。」
 今井は、そういってテーブルの麻雀のふだをとり上げた。
 京子は、それに答えないで、
「わたし、下へ行ってちょっと会って来ますわ。」
 そういうと、取次の女房よりも先に、とんとんとん階段を降りた彼女は、悲壮な敵慨心てきがいしんに燃え、身体が冷水を浴びたように、ひきしまるのを感じた。階下のホールは暗かった。彼女は、そこでさすがに、足がややためらったが、勇気を出すと、つかつかと玄関に出た。
 玄関の半分開かれたドアの外に村川は普段から大きい眼を、昂奮のために、更にギロギロ光らせながら立っていた。
「いらっしゃい!」
 京子は、ニコリともせず、冷たい触れれば切れそうな声でいった。
 村川は、眼をみはったまま、ちょっと会釈した。
「何か急なご用?」
「ええ。急に倭文子さんにお会いしたいことがあるのです。」
 京子は、だまって、するどい目で、村川の顔をまともから見た。
「倭文子さんは、もうお休みになっているわ。」
「こんなに早くお休みになるわけがないでしょう。」
「いいえ。もうとっくに。」
「まだ八時十分じゃありませんか。」
「時計が何時だか、そんなことわたし知らないわ。」
 村川は、身体をかすかにふるわせた。
「京子さん、僕はあなたに遠慮するために、葉山へ来ているのではありませんよ。」
「そう。でも、ここの家はわたしが借りてる家よ。お入れしようとしまいとあたしの考え一つだわ。」
「卑怯なことをなさいますな。」
「そんなこと初めから、断ってあるじゃありませんか。」
 村川は、だまって京子をにらんだ。
「あなたも、男らしくもなく、葉山へなどおいでになりましたね。倭文子さんが、あなたをどう思っているかご存じないの!」
 村川は、さすがに胸を一撃されたような気がした。
「いや、それはわかっていないことはありません。だが、僕は倭文子さんに会って直接にあの方の気持をききたいのです。」
「そんなこといったって無理よ。その男が、どんなに嫌いになったって、その人の前で直接そんなことがいえるかどうかお考えになればわかるじゃありませんか。」
 村川は、カッとなって叫んだ。
「僕は、どんなことをしても倭文子さんに会うのです。どいて下さい!」
 村川は、靴を脱ぐと、京子を押しのけようとした。
「何をなさるの!」
 京子は、憤然として村川を支えようとした。村川は、それを満身の力で、押しのけて階段を上りかけた。
 京子は、それを追おうとはしなかった。その代り急に、ヒステリックに笑った。
「おほほほどうぞ、お上りなさいませ。二階には倭文子さんがたくさんいらっしゃるわ。」


 村川は、勢いよく階段をかけ上った。彼は先刻京子が階段を降りて来るのを見ていたので、倭文子も二階にいることを疑わなかった。上り切った廊下は、暗かった。だが、左側の大きい部屋にはカーテン越しに電灯が、あかあかと輝いて、ドアさえ半ば開かれたままなので、彼は倭文子がきっとただひとりぽつんと腰かけているだろうと、心を躍らせながら、ドアを思い切って開け、入口のところに立った、[#「立った、」はママ]
 だが、部屋の真中にテーブルをかこんで、煙草を吸っている二人の男を見ると、彼は大きい手で両肩をグッと押えつけられたように、そこへ立ちすくんだ。
 今井は、村川の顔を見ると、ニヤニヤ笑った。
「村川君、君もやって来たのかい。何時の汽車だった。」
 村川は、心の中のすべての勇気、希望、熱情があわのごとくふつふつと空しく消えて行くのを感じた。
「六時三十五分です。」
「じゃ、おれ達より一汽車遅れたんだね。」
「さあ。村川君、こちらへ来たまえ。」
 宮田は、そういって椅子を直してくれた。人間の感情が、正当なはけ口を得ないほど、人の心を苦しませるものはない。村川は煮られるようなやるせなさをこらえて椅子に腰かけた。
「今まで、麻雀をやっていたのだが、倭文子さんが、頭痛がするといって寝室へ行ったものだから、三人になって困っていたところなのだ。君が、来たのでちょうどいい。」
 村川は京子の言葉が、嘘でないのを知った。だが、同時に激しい絶望を感じた。倭文子と二人きりになって話をすることなどは、この境遇シチュエーションでは思いも及ばなかった。それよりも、今ではいかにこの場を体裁よく脱け出すかが問題だった。
 京子は、村川が階段を上り切ったのを見ると、自分も足早に階段を上った。だが、座敷のドアからそっと中をのぞき、村川が今井などにつかまっているのを見ると、安心して引き返した。そして、倭文子の入っている寝室のドアを開けて中へ入った。
 電灯に、濃い青色のシェードがかかっているので部屋は、薄ぐらかった。倭文子はまだ寝ていなかった。自分の寝台の傍の床の上に、膝をつき顔を寝床の中に埋めていた。恐らく泣いているのであろう。
「まだ、おやすみにならない。」
「ええ。」
 倭文子は、顔を上げずにうなずいた。
「ちゃんとお休みになったらどう。」
「ええ。」
「羽織だけでも、お脱ぎになったらどう。脱がせてあげましょうか。」
 京子は、やさしく寄り添おうとした。
「いいえ。わたし自分でぬぎますわ。」
「そう。」
 倭文子は、ちょっと顔を持ち上げて、羽織をぬいだ。電灯のせいか。倭文子の顔は真青だった。
「早く、お休みになって、頭を休めるといいのよ。」
 そういい捨てて、京子は部屋を出た。だが、彼女はドアの内側のかぎ穴に入れてあったかぎを、そっとひき出した。そして、外へ出てドアをしめると、音のしないようにかぎ穴にかぎをさし入れてそっとまわした。


ポカポカした、この日和に何しに来た。
コンコンないて来たばかりよ

 京子は、そんな歌を歌いながら、部屋の中へ入って来た。
「村川さん。いらっしゃい。」
 そういって、彼女は改めて村川にあいさつした。
「何です。今お歌いになっていた歌は。」
「むかし幼稚園で覚えた歌を、ひょっくり思い出したのよ。(ソリャウソだろう、家の庭でケッケッ鳴いてるのが、欲しいのだろう)というのよ。」
「何です。それは。」
「つまりね。狐が鶏をねらって来たのを、犬が見破って、狐を追いかける歌なのよ。」
「それが、どうしたのです。」
「どうもしないの。ひょっくり思い出したの、意味もなく。」
「僕達のことを皮肉っているのじゃありませんか。」
 宮田は、苦笑しながらいった。
「なあぜ。」
「僕達が、つまり狐だというのでしょう。」
「あら。」
「そうでしょう。つまり、村川君が犬ですな。犬も、ポインターか、セッターか形のいい猟犬だ。村川君の役まわりからいって、きっとそうだ。つまり、悪漢を追いかける色男役ですな。」
 宮田は確信をもっていった。
 京子は、笑いくずれた。
「まあ、邪推ぶかい方ね。」
「だって、そうですよ。そうじゃありませんかね。ね社長! だから僕はここへ来ることは、賛成しなかったんだ。」
「あははははは。まあ、そう悲観しなさんな。時々は追いかけられてみるのもいいじゃないか。村川君どうぞお手やわらかに。」
 今井が、宮田の冗談に調子を合せた。
「じゃ、鶏はだれ?」
「むろん、あなたと倭文子さん。」
「あたしなんか、鶏じゃなくってよ。狐なんかにねらわれないわ。」
「じゃ、倭文子さんだ。」
 宮田がいった。
「まあ、あなた、倭文子さんをねらっていらっしゃるの。だって、あなた、ねらう必要なんかないじゃありませんか。もうちゃんとね、ねぇ、ねぇ……」
「ねぇ、ねぇというのは、どういう意味ですか。」
「あらご自分でわかっていらっしゃるくせに。」
「あんまり、わかってもいないが、わかっていることにしましょうか。」
「どうぞ、ぜひ。」
「じゃ、狐の持って行きどころがなくなりましたねぇ。」
「そう。だって、狐だってこの頃は、ほほほほほ狐だっていろいろあるわ。」
「なるほどね、昔はよく色若衆といって美少年に化けたものだが、この頃は背広を着たオールバックのハイカラな青年紳士にでも化けますかね。というと、村川君にわるいな。とにかく、我々男性は皆女性に対してある程度まで、狐かもしれませんな。」
 宮田がいった。
「そう思っていれば、間違いはないわ、でも本当の狐だけは今に、しっぽを出すことよ。」
 村川の顔は、土のように蒼ざめていた。椅子の肱掛を両手でしっかりとつかみ、ふるえようとするからだを支えていた。


 村川は、憤怒のために、からだが燃えた。彼の教養が、乱暴な言葉や行為を制していた。一座は、白けた。イヤな空気が重々おもおもと漂った。だが、京子だけは丸きり平然とその空気を呼吸していた。
「ねぇ、倭文子さんは、とっくに、お休みになったわねぇ。」
 京子は今井に賛成を求めるようにいった。
「今までここにおられたんですよ。どうです、もう一度倭文子さんを起して来ては。村川君が来たというと、喜んで起きて来られるかもしれませんよ。」
「ううむ。あまりそうでもないの。」
「おやおや、これは少し手きびしい。」
「じゃ、僕の方がまだ脈がありますかね。」
 宮田がいった。
「もちろんだわ。」
 村川の眼は血ばしった。彼はしばしば京子の七三に結った高慢ちきな額際を思いきりなぐりつけたいような衝動を感じた。
「村川さん、あなただけには申し上げてもいいと思うのよ。倭文子さんは、今度宮田さんにお話がきまりそうなのよ。」
 村川は致命的な一太刀を受けてうめいた。でも、そのうめき声は、やっぱり言葉になって出た。
「そうですか。」
「今度も、そんな意味で結婚前のお交際をしていただくために、宮田さんにわざわざ来ていただいたの。」
 村川は、もううめき声が口に出なかった。
「京子さん。冗談いっちゃ困りますね。村川君、本当にしてくれては困りますよ。そんなありがたい話で来たわけじゃないのですからね。あはははは。もっともそんな話だと、どんなに結構だかわからないがねぇ。」
「あら。わたしも倭文子さんもそのつもりよ。」
「これは、耳よりの話ですな。」
「あら、おとぼけになったら、いけません。」
「じゃ、僕もそのつもりになりますかな。」
「どうぞ。」
「あはははは。」
 宮田は冗談とも、真面目ともつかず笑い捨てた。だが、村川は激しい憤怒の激情が、胸を焼けただらせた。その激しい苦痛を、ずっとこらえていた。倭文子がたとえ絶縁状を自分に送って来たにしろ、そうまで早く他の男性の手に身を委ねようとは、夢にも思わなかったが、京子という策士がついている以上、それもハッキリとは信じられなかった。ただ、倭文子が単に自分を離れるのなら、なお辛抱が出来るが、すぐ他の男性の手に渡ることを考えると、村川は堪えられなかった。
「村川君。君もどうせ、今日は泊って行くのだろう。」
 村川が、青い顔をしているのを見て、今井が、話しかけた。村川は、ちょっと返事が出来なかった。すると、京子が、横合いから、口を出した。
「お泊りなんかならないわねぇ、わたし達が泊っている上に、村川さんまでご厄介になったら、すまないわ。」
「そんな馬鹿なことがあるものですか。下にだって、部屋はたくさんあるし。」
「お部屋がたくさんあるなんて、そんなことはおっしゃらないでもよく存じています。」
「おやおや、すぐ皮肉ですね。京子さんに会っちゃかなわない。」
「村川さん。お帰りになる?」京子は、村川の顔を見上げていった。
「むろん、帰ります。」
 村川の声は、さすがに険しかった。
「それがいいわ。いい子だから、お帰りなさいね。」
 村川は、ついこぶしに力が入ったのを、あわててゆるめた。


 村川は、だまって帰るほかはないと思った。京子を面責し、彼女を罵倒することも、やってやれないことはなかった。だが、それはあまりに下等で下品だった。そして、すべてを破壊しつくし、倭文子にどんな迷惑をせるか、わからなかった。胸にたぎり立つ怒りを抑え、彼はしずかに立ち上る口実を考えていた。
「村川君は、何か用事があるのじゃありませんか。」
 今井がいった。
「用事なんかないことよ。」
 京子は、かたわらからまぜ返した。
「本当に用事があるのなら、僕達は遠慮してもいいのですよ。」
 宮田がいった。
「用事がある? ないでしょう。それとも倭文子さんに何かおありになる?」
 村川は、あらゆる自制をもっていった。
「いいえ。ただちょっと鎌倉の友人を尋ねて来たついでに。」
「じゃ、これから鎌倉へいらっしゃるのでしょう。」
 村川は、京子の顔を見た。大きい二つの眼に、恨みの色がひらめいた。
「そうです。僕はこれで失礼します。」
「どうです。麻雀でもやって、泊って行ったらどうですか、ちっとも、遠慮はいりませんよ。」
 今井が、いった。
「いやちょっと急ぎますから。」
 村川は、椅子から立ち上った。
「そう。じゃ、わたし下まで送って行ってあげるわ。」
 村川の後から、京子は階段を降りた。だが、彼女は村川を、さんざん傷つけているだけに恐ろしかった。ちょうど手負獅子を追っている猟犬のように。階段を下り切ったとき、先に立っている村川が、クルリと向き直った。京子は少し不意だったので、ギクリとして、二三歩後へ身を退すさった。
「京子さん。あなたは、こんなことで僕と倭文子さんとをひき離したつもりでいるのですか。」
 村川の声は、思ったより冷静だった。
「つもりではないわ。もう引き離してしまったじゃないの。」
 京子の言葉は、更につめたかった。
「そうですか。なるほど、僕は倭文子さんから、絶縁状のようなものをもらいました。でも、それがあの方の本心だとは、どうしても思えないのです。」
「おめでたいわねぇ。」
 京子は、ニッコリ笑った。
「僕と倭文子さんとがこれきりになると思っているあなたこそ、おめでたいのではありませんか。」
 京子は、少しカッとして、
「どちらが、おめでたいか。今にわかってよ。」
「ほんとうです。僕は、倭文子さんに会えなくて、失望して帰ります。あなたの下等な妨害にあって、帰ります。だが、倭文子さんと僕との間があなたの妨害で本質的に少しでも変ろうとは思えないのです。」
「あなたくらい、うぬぼれがつよいと、一生幸福に暮せますわねぇ。」
 二人は、恐ろしいにくしみの眼を交しあった。
「倭文子さんは、あなたの飼っている犬ころじゃありませんよ。」
「同時に、あなたにすぐさらわれるような鶏でもありませんよ。」
 村川は、京子につかみかかりそうな容子を見せた。
「どうなさるの。」
 村川はすぐ思い返した。
「どうもしません。」
 そういうと、村川は手早く靴をはいて、戸外の闇へ飛び出した。
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結婚促進運動



 村川を送り出してから、京子はさすがに昂奮する呼吸を、じいっと静めていた。京子はこの頃ようやく感じ出したことだが、村川をいじめればいじめるほど、不思議な快感が、心の中にしみ出して来た。村川の顔が青ざめ、眼が血ばしり呼吸がはずみ、はげしい精神的苦痛が、その美しい眉目びもくの間にきざまれかけると、彼女は昂奮し緊張した。おしまいには、肉体的にまで昂奮した。柔かいすべすべした肉体を思い切りつねっているような快感が、彼女の神経や感情にしみ渡った。彼女は、もっともっと村川をいじめたかった。村川を手許にひきつけておいて、彼の心臓にきゅっと爪を立ててやりたかった。こうして村川が、案外思い切りよく、手際よく引き揚げると、彼女は掌中しょうちゅうのものを取落したように寂しかった。倭文子と会わせない程度で、もっとひきつけておいて、もっとじりじり気長にいじめるのであったと思った。村川の足早に遠ざかって行く後姿を見ながら、彼女はさびしかった。
 二階へ上って、今井や宮田と顔を合せることが、彼女は少しものうかったが、それでもとんとんと勢いよく二階へ上った。座敷に入る前、寝室のドアのかぎをはずし、中をのぞき込んだ。
 倭文子は、ベッドに顔を埋めたまま、先刻さっきと同じ姿勢でいた。彼女は安心して傍へ歩み寄った。
「今人が来たのご存じ。」
 倭文子は、うなずいた。
「だれか知っていて。」
 倭文子は、頭を振った。
「そう。倭文子さん、お休みなさいね! 悪いことはいわないわ。ねぇお風邪召しますよ。」
 彼女は、そういってまた倭文子を一人残した。
 座敷へ帰ってみると、宮田は書斎の方へでも行ったらしく、今井が廊下近い安楽椅子に横になって、葉巻をふかしていたが、京子の入って来たのを見ると、あわてて身を起した。
「どうしたのです。いやに、つらく当るじゃありませんか。」
「なぜ。」
「だって、わざわざ来たものを、追い返すにも当らないじゃありませんか。」
「でも自業自得だわ。」
「そんなに村川君は、悪い人ですか。」
「とてもいけないの。」
「なぜです。」
「でも、倭文子さんにうるさくつきまとっているのですもの。」
「おやおや。」
「よく葉山くんだりまで来られたわねぇ。」
「それは少し耳がいたいですね。」
「あなたは別ですわ。」
「あんまり、別でもありませんね。」
「まあ、そうご謙遜遊ばすな。」
「村川君が倭文子さんに、つきまとうなんて、じゃ、倭文子さんは嫌っているのですか。」
「まあ、そうですわ。」
「そうですかね。あんな好男子でも、嫌われますかね。」
「でも、心がけがわるいのですもの。」
「なぜです。」
「だって、最初はわたしに、うるさくしたのでしょう。わたしが、はねつけると、今度は倭文子さんよ。それじゃだれだって相手に出来ないわ。」
「なるほどね。だが、僕達がいて、とんだ邪魔でしたな。」
「いい気味だったわ。」
「ああさっきおっしゃいましたね。結婚前の交際って。」
「ええ申しましたわ。」
 京子は、美しい眼をみはって今井を見た。


「結婚前の交際って、あれは宮田君と倭文子さんとの間だけですか。」
「ええ。そのつもりだわ。なぜ。」
「そいつは少し参りましたな。電話ではそうは聞えませんでしたがな。」
「まあ。わたし、なにか別の意味のこと申し上げまして。」
「そう正面からおっしゃられると、困りますな。僕は婚前交際ということはあなたと僕とにも適用することと思っていましたよ。」
「まあ。」
 京子は、さすがに処女らしく顔を赤くして、うつむいた。
「でなければ、僕はわざわざ葉山まで伺ったのが……」
「まあお気の毒さま。」
「これはごあいさつですね。」
「でも、あなたとわたしなど。」
「問題になりませんですか。」
「でも、何だかおかしいわ。」
「恐れ入ります。でも、こう見えても、なかなか誠意のある頼もしい男ですよ。」
「それはよく存じております。」
「あはははははあなたにかかっちゃ。いやどうも、でも全然お考えになることは出来ませんか。」
 京子は、テーブルの上のグラフィックを開けて菊五郎の「保名やすな」の写真を見ながらいった。
「いいえ。考えられないこともありませんわねぇ。あなたとわたしだって、結婚する可能性ポシビリティがないともかぎりませんわねぇ。」
可能性ポシビリティは、かわいそうですね。せめて蓋然性プロバビリティといって下さい。」
 京子は美しい首を振った。
「駄目ですかね。」
「ちょっと今井さん。あなたの奥さんにはこんな方がいい事よ。」
 京子は、グラフィックの一ページに写された令嬢の写真を、今井につきつけた。
「からかっちゃ困りますねぇ。なるほど、キレイだな。実業家河井栄一氏令嬢優子まさこ十九か。でも、あなたには遠く及ばない。」
「まあ、そんなに、おだてて下すっても、駄目ですわ。」
「ねぇ。京子さん、そんなにちゃかさないで、真面目に考えては下さいませんか。」
 京子は立ち上った。窓際にいたが、
「ちょっと、今井さん。あんなに、火が見えていますわ。あれが、いさり火でしょう。」
「古語にいういさり火ですな。」
「何を捕っているのでしょう。」
烏賊いかじゃありませんか」
「烏賊? 烏賊をどうして捕りますの。」
「そんなこと、どうでもいいじゃありませんか、それよりも……」
「婚前交際の話ですか。あなたそんなにお気に入ったならラジオで講演なさいませ。婚前交際の話並びにその心得。」
「ああそう、この別荘へもラジオを取りつけるのだった。」
「旅行用のオザァカという機械がありますわねぇ。」
「あれは駄目ですよ。乾電池がすぐなくなりますから、それよりか……」
「また婚前交際ですか。」
「そうです。そうです。あはははははその話ですよ。」


「ああ困った。今井さんなどに、あんな言葉教えなければよかった。」
「阿呆の一つ覚えになりましたかね。」
「わたし、倭文子さんのために、つくしてあげなければいけませんの。」
「といいますと、どういうことですかね。」
「はやく宮田さんとのお話まとめてあげたいわ。」
「結構ですね。僕も及ばずながらご尽力いたしますよ。」
「どうぞ、ぜひ。」
「その代り、話がまとまったら、何かごほうびがあるのでしょうな。」
「まあ。もうごほうびのことを考えていらっしゃるの。」
 京子は、微笑をふくんだ上眼で今井をにらんだ。
「ずいぶん功利的な方ですわね。」
「これは参りました。すぐ本心を現してしまいましたかな。」
「いいわ。ごほうび上げますわ。」
「きっとですか。」
「ええ、きっと。」
「何です。ごほうびの品は。」
「考えておきますわ。それとも、何かお望みがあって。」
「望みはいろいろありますね。」
「あまり、欲ばっても駄目ですよ。」
「おや。おや。」
「ねぇ、今井さん。」
 京子は、いいよどんだ。
「何です。」
「あのね。倭文子さんも、早く結婚なさりたいのよ。あれでわたしの家にいるのは、かなり気がねしていらっしゃるのよ。」
「なるほどね。それに、あなたがいじめるだろうし。」
「まあ。わたしいじめたりなんかしませんわ。」
「いや冗談です。失礼。」
「だから、倭文子さんはすぐにでも結婚なさりたいのよ。」
「じゃ何も問題はないじゃありませんか。宮田君は、十分乗気だし。」
「でもね、あの方たいへんな内気な方でしょう。」
「あなたと、つき合せるとちょうどいいんですね。」
「まあ、わたしそんなにお転婆に見えまして。これから慎みますわ。」
「いや、失礼、決してそんな意味で……」
「まあ。そんなことどちらでもいいわ。とにかく倭文子さんは内気な方でしょう。だから、村川さんが、うるさくすると、やっぱり村川さんに気がねしていらっしゃるのよ。それで、宮田さんとの話に、すぐハイとおっしゃらないのよ。」
「なるほどね。だが、村川君との間は何もないのですか。」
「何もないですとも。ただ嫌っていらっしゃるだけ。」
「じゃ、どうすればいいとおっしゃるのです。」
「あのね、だからわたし倭文子さんを、もっとハキハキ決心なさるように導きたいの。」
「ちょっと問題がデリケートですね。」
「わたし、それについてちょっと考えがありますの。」
「何か名案がありますかね。」
「あなた、きっと賛成して下さる。」
「賛成しますとも。つまり、あなたと二人で、結婚促進運動をすればいいのでしょう。」
「ええ。そう。」
「やりますとも、あなたとご一緒なら、何でもやりますよ。」
「たのもしいわ。」
「初めて、おほめに預かったわけですね。」


 そのあくる日、日曜の午後四時頃、京子は急に、鎌倉まで買物に行くといって、自動車を呼んだ。京子が、支度をして出かけようとすると、今井がいった。
「京子さん。何時いつ頃帰っていらっしゃるのです。」
「六時頃。」
「じゃ、僕ものせて行ってくれませんか。海浜かいひんホテルにいる外人に、ちょっと用談があるんですがね。」
「迷惑だわ。」
「そんなにおっしゃらないで。」
「そう! じゃ、仕方がない。乗っていらっしゃい。」
 二人は、連れ立って自動車で出かけた。
 倭文子は、一人取り残されることが、どんなに迷惑に思ったか。だが、こんな場合、彼女はただだまって、京子のすることを見ているほかはなかった。
 日が暮れるまで、彼女はベランダへ出て海を見ていた。別荘の下の海には、黒い岩が、いくつもいくつも突き出していた。三四日前海がれた揚句なので、海草が岩にからんで一杯に浮いていた。風がなくても、大洋を受けているので、岩に砕ける波が、すさまじい音を立てて、白いしぶきを絶えずあげた。
 倭文子は、宮田がなるべく遠くにいてくれればいいと思った。彼女は、別に宮田を嫌う理由もなかったし、また嫌ってもいなかったが、親しくない男性、しかも縁談などのあるだけに、傍へ来られるのは嫌だった。そうして倭文子の身構えが、宮田にそれとなく感ぜられると見え、彼もあえて近づこうとはしなかった。
 彼は、書斎へ行って本を読んでいるらしかった。ときどき、座敷へ来て、煙草を吸ったりした。一度は、ベランダへ出て来て、倭文子に、
「お寒くありませんか。」
 と声をかけたが、倭文子が、
「いいえ。」
 と、いっただけで、笑い顔一つしなかったので、彼は三四分傍に立っていただけで、また書斎の方へ去った。あとで倭文子は、あまりそっけなくしたので、少し悪かったと思ったほどである。
 だが、京子のいった六時が来ても、京子達は帰って来る容子がなかった。室内の電灯がともり、海上がいつとなくたそがれ、最後までほのかに見えていた天城の連山も、夕雲にとざされ、闇が海上を覆いつくす頃になっても、京子達は帰って来なかった。
 倭文子は、とうとう椅子から、身を離し、座敷へ帰って来なければならなかった。[#「ならなかった。」は底本では「ならなかった」]
 その座敷には、宮田が先刻から退屈そうに金口のシガレットをふかしていた。
「おそいですね、京子さんは。」
「ええ。」
 倭文子もそう答えないではいられなかった。
「どうしたんだろう。全くおそいや。」
 宮田は、左手の手首の腕時計を見た。
「もう十五分で、七時ですな。いけないな。僕達だけを捨てておいて。」
 倭文子は、宮田と二間もはなれて長く使わないらしいストーブの横にある安楽椅子アームチェアに腰をかけた。
「一体京子さんは、何の買物に行ったのでしょうかな。」
「何でございますかしら。」
 倭文子は、顔も十分にあげないで、低く小さい、中途で消えてなくなりそうな声で答えた。


 七時がなると別荘番の女房が上って来た。
「どうしたのでございましょうか。まだお帰りになりませんね。ご飯はお二人だけでも先へ差しあげましょうか。」
 倭文子は知らぬ男と、差し向いでご飯をたべることは考えてみるだけでも、胸につかえた。
「わたし、京子さんのお帰りになるまで、お待ちしますわ。」
「そうでございますか。あなた様は?」
 女房は宮田に聞いた。
「僕もまだたべたくありません。ご一緒でけっこうです。」
「じゃ、しばらくお待ちしましょうか。もうおっつけお帰りになることでございましょう。」
 そう言って女房は下へ降りて行った。
 また、しらじらと時間が流れた。倭文子は、だまっていつまでもうつむいていた。寝室へ行ってしまおうかとも思ったが、それではあまりに相手に悪いと思うので、倭文子は身体がしめつけられるような、きまりのわるさ、窮屈さをこらえていた。
「七時三十分だ。どうもおそいな。どうしたのでしょう。」
「さあ。」
「こんなに待たせるなんて、ほんとうにいけませんな。だが、今井さんの用事が長びいているのかな。待ち遠しいですな。どうです、こちらへいらっしゃいませんか。お話でもなさいませんか。」
「ええ。」
 といったが、倭文子は顔を赤くしただけで、椅子を離れようとしなかった。
「あなたが、こちらへいらっしゃらないのなら、僕がお傍へ行きましょうか。山が、マホメットの方へ来ないから、マホメットが山の方へ行くという話がありますね。あはははは。」
 宮田は、てれかくしにそんなことをいいながら、倭文子に一番近いソファへ席を移した。
「一度、ゆっくりお話ししたいと思っていたのです。今井さんから、いろいろおうわさはきいていましたが。」
 倭文子は、前よりも二寸くらい首を低くたれた。
「今井さんも、川辺さんも、あなたもみんなご同藩だそうですね。今井さんの話では、あなたの家はなかなかのご名家だということじゃありませんか。何でも、あなたの家がご家老で、川辺さんの家が馬廻りで、今井さんの家は足軽だそうですね。」
 倭文子は、自分の家のことをいわれるのが、一番いやだった。
「川辺さんとはどういうご関係ですか。」
「わたしの母が川辺から参っているのでございます。」
 倭文子の声は、泣き出しそうな声だった。
「じゃ、川辺さんは母方の伯父さんですね。」
「はい。」
「じゃ、なかなか深いご関係ですね。それで、お母さまはおたっしゃですか。」
「いいえ。」
「じゃ、とっくになくなられたわけですね。お父さまは。」
 倭文子は、涙ぐんだ。彼女は何か責苦に会っているように、悲しかった。
「お父さまはおたっしゃですか。」
 倭文子は、顔をそむけながら頭を振った。
「いや、どうも大変失礼なことを伺いました。ご両親が、いらっしゃらないのには、しみじみご同情いたしますよ。僕のように三十を越すと、親などはあってもなくても同じですが、あなたのように二十はたち前後で、ご両親ことにお母さまのいらっしゃらないのは、全くお気の毒ですね。」
 倭文子は、宮田の言葉をきいていると、先刻からのなさけなさが、口惜しさが、急に大つぶの涙になって、ポトポトと膝の上に落ちた。


 倭文子の落した涙を、宮田は自分の慰めの言葉の効果だと思って得意になっていた。そして自分の言葉に、こんなにも手答えがあるのなら、この女の心を自分のものにするのは、何でもないと思った。だが、そう思いながら、彼は倭文子の涙を見ると、驚いたらしくいった。
「いや、これはどうも、たいへん失礼しました。つまらないことを申しあげて。いや、ごもっともです。全くごもっともです。つい、どうもお母さまのことなどを申し上げて、失礼しました。」
 倭文子は不覚に落した涙に、われながら狼狽して、あわてて心を持ち直して、ぬれた頬をそででふいていた。そして、どうして他人の前で涙を落したのかと、後悔していた。
「だが、川辺さんのようないいご親類があって、おしあわせですね。それに京子さんとは、たいへんお仲がいいようじゃありませんか。ご姉妹きょうだい同様ですな。京子さんはいろいろあなたのお力になっているのでしょう。」
 倭文子は、だまってうなずいた。
「それに、あなたのようなおやさしい方には、だれだってお力になりたいですからな。あはははは。」
 だが、倭文子が、ちっとも表情をうごかさなかったので、宮田の笑いは、しらじらとしたひびきを残した。
 もう八時であった。下から女房がまた上って来た。
「いかがでございます。もう、ご飯めし上ったら。お帰りになるにしても、ご飯をおすませになってからだろうと思いますが。」
「そうですね。じゃ、いただきましょうかな。いかがです?」
 宮田は、倭文子の方を向いた。倭文子も、断るべき口実はなかった。
「ええ。」
「じゃ、先へいただきましょう。」
 宮田は、女房にいった。
 やがて、二つのお膳が、中央のテーブルの上に、置かれた。倭文子は、いやでも宮田と差し向いで、食卓にかねばならなかった。
「いや、あなたとご一緒にご飯をいただけるなど、全く思いがけないことです。ご迷惑でしょうが、これも交際だと思って、一緒に召し上って下さい。」
「おつけいたしましょう。」
 女房が下へ降りて行ってしばらく上って来ないので、倭文子は、女としてそういわずにいられなかった。
「いや、恐れ入ります。」
 倭文子は、宮田にご飯をよそってやったが、自分でよそう気はちっともしなかった。何だか、心持が落ちつかず、いらいらして、一刻も早く、自分一人になりたかった。
「京子さんと、あなたは全く反対ですな。ご性格が、全く反対です。でも、僕など、やっぱりおとなしい方が、好きですよ。京子さんのような方は、ああ頭の働く方は、始終ご一緒にいると、こちらの方で疲れてしまいそうですね。僕など、やっぱりおとなしいしずかな方が好きですね。」
 宮田は、ご飯をたべながらしゃべりつづけていた。
 女房が、下からお茶を持って上って来た。だが、彼女はお茶を置く前に、一枚の紙片を差し出した。
「お嬢さま、あの電報が参りました。」
 倭文子は何事かと驚きながらあけて見た。
「カイモノノツゴウデトウキョウヘカエルアススグユク   キョウコ」
 と読まれた。


 買物の都合で、東京まで帰り、あすすぐ来るというのは、何でもない事かもしれなかった。だが、その何でもない事から、この家に親しくない男性と、二人きりで取りのこされることは、何でもない事ではなかった。倭文子は先刻から沈んでいた心が、さらに暗澹あんたんとしてしまった。おとなしい彼女も、京子のわがままを、にくまずにはいられなかった。先刻から、四時間ばかり話をしないで一緒にいただけでも、彼女の神経や感情は、疲れ切っている。まして、これから寝るまでの時間、明朝あした起きてからの幾時間を考えると、倭文子の心は憂欝になってしまうのだった。
「どうしたのです。何か事件でも起ったのですか。」
 電報を見ている倭文子の顔が、だんだんあおざめて来るのを見て、宮田がきいた。
「いいえ。」
「どなたからの電報です。」
「京子さんから。」
 倭文子は電報を差し出した。
「何だって、電報なんか打ったのだろう。」
 そう言いながら、宮田は電報を読んだ。
「帰らないというんですな。今井さんは、どうしたんだろう。今井さんも、一緒に東京へ帰ったのかな。」
 宮田も、ちょっと眉をひそめた。
「そういってくれれば、僕も一緒に帰るのに、僕は、今日帰りたかったのですよ。それを社長がもう一晩泊って、あした早く帰ろうというもんだから、泊る気になったのですよ。ほったらかして行ったのだとすると、ひどいな。」
 宮田は、いかにも迷惑そうにいった。だが、倭文子は、すべてが偶然の出来ごとだとは、どうしても思えなかった。いつも、突飛な思いがけないことをする京子だが、急に東京に帰るということが、いかにもおかしいと思った。ことに自分と宮田とが、二人きりになるということが、ハッキリわかっていながら、そんなことをするのが、おかしいと思った。自動車で出て行くとき、今井が、そそくさと一緒に出て行った、あわただしさ。すべてが、何かの計画を含んでいるようで、倭文子は、かなしいいやな気がした。
「だが、京子さんは、きっと何か急用があったのに違いありませんよ。京子さんの事だから、買いたいと思い出すと、一日も猶予が出来ないのでしょう。」
 それは、たしかにそうだった。しかしお客があるのに、自分を一人きりにするのは、どう考えてもひどいと思った。
「僕は、決して何とも思っていませんよ。あなたはご迷惑でしょうな。お察しいたします。」
 倭文子は、食事の手をやすめたままで、もう再びはしを取る気はしなかった。彼女は、食事がすめば、なるたけ早く寝室へ引き取りたいと思っていた。
「いや、僕はこういう機会でもなければあなたとゆっくりお話しすることが出来なかったかもしれません。僕は、あなたにはぜひいろいろお話ししたいと思っていたのです。」
 そういわれると倭文子は、身がちぢまるように思った。彼女はどうにかして、この気づまりな境遇から逃げ出したかった。
「もう、東京へ帰る汽車は、ございませんでしょうか。」
「そんなに、僕と一緒にいらっしゃるのがおいやですか。」
 宮田は、ちょっと不快な顔をした。
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思わざる罪



 倭文子は、真赤になってうつむいた。
「汽車はたしか九時幾分かのがあったはずですよ。これから急げば間に合わないこともないでしょうが。お帰りになりますか。」
 倭文子は、どうしていいか自分でもわからなかった。
「お帰りになるのなら、お伴しますよ。僕も帰りたいのですからね。」
 ここにとどまっても、東京に帰っても、どちらにしても、宮田との気づまりな息ぐるしい接触を、免れることが出来ないとしたならば、ここにいて折を見て、寝室へひきとった方が、どれほどいいかわからなかった。
「お帰りになりますかね。お帰りになるとしても、お伴しないわけには行きませんね。もう遅いし、お一人じゃ心配ですからね。」
「いいえ。」
 倭文子は決心して、首を振った。
「お一人でお帰りになりますか。」
「いいえ。」
「お帰りにならないのですか。」
 倭文子はうなずいた。
「けっこうです。じゃゆっくりお話ししようじゃありませんか。」
 その話すということが、倭文子には苦労の種だった。彼女は、生れつき親しくない人と話していると、顔がカッカとしてすぐ頭痛がして来るのだった。まして、二人きりで差し向いの話などは心の苦しみだけでなく同時に肉体的にも苦痛を伴った。
 別荘番の女房が、お膳を下げに来た。それを機会に、倭文子はどうにかして、自分の部屋へ引きとりたいと思ったが、宮田は絶えず倭文子に話しかけて、その機会を与えなかった。
先刻さっきから私達が、どうしてうちとけられないか、ご存じですか。」
 しばらく、沈黙がつづいた後に宮田がいった。倭文子は不思議そうに宮田の顔を見上げた。
「いや、こういっただけでは、おわかりにはならないでしょう。私達は話すべきことを話していないからですね。私達の間で、一番大事なことをね。」
 倭文子は、それを考えてみようとも思わなかった。
「あはははは、一番大事なことに触れることを恐れていたからですね。そうじゃないでしょうか、つまり私達の間の縁談ですね。それをお互に、かくそうかくそうとしているからですね。だから、お互に感情がこだわってしまうのですね。あははははは。」
 宮田は、いかにも大発見をでもしたように、ほがらかにいった。だが、倭文子は心の内でちっとも賛成しなかった。そんなことを話せば、もっともっと気づまりになり、もっともっと苦痛を感ずるに違いないからである。
「あなただって、私達の間に、縁談のあることをご存じないことはないでしょう。」
 倭文子は、小さい、両手の中にはいってしまいそうな顔を、テーブルとすれすれになるまで、低くたれていた。明るい電灯の下では、黒いまつげまでも、ハッキリと見えた。色はやや浅ぐろいが光沢つやのあるつやつやした頬、処女らしい真赤な小さい唇。宮田は彼女の頬を両手ではさみその美しい唇を、接吻せっぷんにまで持ち上げるときのことを考えると、なやましいまでに、感情が昂奮した。
「私達は、正面からその話をした方が、いいと思うのですが、お互にそれについてお話しした方が、人まかせにするよりも、いくらいいかわからないと思うのです。」
 倭文子は、顔をそむけて、床に敷いた青い敷物の中にさいている一輪の花をみつめていた。


「こうなれば、私はすっかり申しあげましょう。初め社長から、あなたとの縁談がありましたとき、私はむろん良縁だと思って喜びましたのです。覚えていらっしゃいますか、私があなたに初めてお目にかかったときを。」
 倭文子は、こんな話に、返事をする気は少しもなかった。こんな話に調子をあわせるのに、彼女の心は、あまりに処女らしくとざされていた。
「たしか歌舞伎座の新築興行のときですよ。そうそう『家康入国』をやっていたときです。廊下で社長に紹介していただきましたよ。あのときもたしか、京子さんとご一緒でしたね。覚えていらっしゃいますか。私は、あのときから、あなたはほんとうに純な方だと思っていました。その次に、お目にかかったのは、邦楽座の研精会のときですね。二度とも私はあなたをどんな風な着物を着ていらしったか、今でもよく覚えていますよ。」
 倭文子は、顔をあげることが出来なかった。頭がぼうとなり、顔が熱く、胸がしきりにさわいだ。彼女は、村川から初めて恋をささやかれたとき、やっぱり心がこんな風に動揺した。だが、あのときはその動揺の中に、ほのかな身も心もとかしてしまうような、太陽の熱があった。だが、今はそれがない。喜びにふるえる胸ではなくして、ただ苦しく不快にさいなまれている心だった。
「だから、今度のお話も、願ってもない良縁だと思ったのですよ。だが、やっぱり縁談でした。まとまったら、幸せだが、まとまらないでも仕方がないとこう思っていたのです。ところがです。昨日きのう、社長が別荘へ行かないかというものですから、ついついて来たのです。むろん、あなた方が、いらっしゃるなどとは、夢にも知らなかったのです。中途で、社長から打ち明けられたときでも、私はあなたとゆっくり見合いが出来るくらいにしか思っていなかったのです。だが昨夕ゆうべからだんだん、あなたのご容子を見ていると、縁談が縁談でなくなってしまったのです。商取引のような、まとまらなければ、また今度といったような、そんなのんきな心持でいられなくなってしまったのです。」
 宮田は、緊張した顔をしていた。倭文子は相変らず顔をそむけ、青い敷物をみつめている姿勢をちっともうごかさなかった。
「何でも京子さんのお話では、川辺さんご夫婦も賛成だし、私も良縁だといろいろすすめているのだが、何だか本人の倭文子さんが今一息だと、こうおっしゃるのですがね。ほんとうですかね。」
 倭文子は、やはり返事をしなかった。
「直接こんなことを、お尋ねするのは、失礼かもしれません。だが私はつまらない遠慮などをしていて、あなたのような方を、失いたくないのです。あなたが、どんな点で、私がお気に入らないか、それを伺いたいと思うのです。それが、あなたの誤解などである場合、十分私の申すことをきいていただきたいのです。」
 倭文子は、こうしている苦痛に堪えられなくなった。彼女は、ふいに椅子から立ち上った。
「あの、わたし、失礼いたしますわ。」


 倭文子が立ちあがるのを見ると、宮田もすぐ立ちあがった。
「なぜです。僕と一緒にいらっしゃるのがそんなにお嫌なのですか。」
 宮田はテーブルをまわって倭文子に近づいて来た。男性の暴力が目に見えぬ妖気になって彼女を包んだ。不快な悪感が彼女の身体中を流れた。彼女は今まで腰かけていた椅子に身をよせて立ちすくんでいた。
「なぜです。なぜ僕と一緒にいるのがそんなにお嫌なのです。」
 宮田の生白い顔が、二倍も三倍もの大きさになって、倭文子の横顔にせまって来た。
「僕だって紳士ですよ。僕が話しているうちいきなり座をお立ちになるなんて、そんな侮辱をお与えにならないでもいいでしょう。」
 宮田は昂奮して息をこらしていた。だが、倭文子は何も考えていなかった。唯一刻も早く宮田の前をのがれたいだけだった。
「すみません。でも、わたくし。」
 倭文子はそういうと、左のそでで顔をおおった。むせび泣く声がすぐもれはじめた。
「お泣きになるのですか。困りましたな。」
 宮田は二三歩引きさがった。テーブルの上の煙草に手をやった。
「わたし、失礼しますわ。」
 倭文子は、そういうと袖で顔をおおったまま足早に部屋から出ようとした。
「倭文子さん待って下さい。」
 宮田はあわてて追いすがると倭文子の右の肩をつかんだ。
「どうしても僕の話をきいてくれないのですか。ね、お願いです。もう一度僕の話をきいて下さい。話をきいて下さってからおいやでしたら、おいやだといって下さい。」
 倭文子は身もだえして肩にかかっている宮田の手をふりほどいた。ふりほどかれても、宮田はこりずに幾度も倭文子の肩に手をやった。彼女のほっそりとしたえりすじや、身もだえするごとに見える涙にぬれたうす桃色の頬などが、好色の宮田には、激しい誘惑だった。引きとめようとする宮田は、彼をふりほどこうとして身もだえする倭文子の弾力のある、しなやかな肉体を、羽織を着ないあわせ一枚の下に生々なまなまと感じた。処女らしいにおいや、感触が宮田の感覚をそそった。宮田はそれを享楽するためにだけでも、もっともっと倭文子を引き止めたかった。
「じゃ、もう十分だけ、僕の話をきいて下さいませんか。そしてあなたのご機嫌が直ってからおやすみになって下さい。」
「わたし、頭痛がしますから。」
 涙で洗われたため、さらに生々と輝いている小さい顔をふりむけて倭文子は言った。
「そんな事をおっしゃらないで。」
 宮田は倭文子の正面から彼女の両肩に手をやった。倭文子はくるりと身をさけた。
「ね。いいじゃありませんか。」
 今度は向うへ振向いた倭文子の後から肩へ手をやった。倭文子は身をかわしてそれをさけた。
「そんなに何がお嫌いなのですか。あなたがそんなに僕を乱暴者あつかいになさるのなら僕だって乱暴者になれますよ。」
 倭文子は宮田の言葉が、耳に入らぬようにつつとドアの方へいそいだ。宮田は追いすがった。二人はそこでまたもつれ合った。そのとき倭文子はカチリと音がしたと思うと、部屋の中がパッと急に暗くなった。宮田が倭文子を押し止めながら、電灯のスイッチを押したのである。
 闇の中で男性の強い両手が強い力で倭文子の両肩をつかんだ。


 闇の中で、宮田の両手が倭文子の両肩にかかったとき、今まではおびえた小鳥のように、ただオドオドしていた倭文子の心に身を守る強い覚悟が爆発した。
「何をなさいますの。」
 彼女の草の茎のようにかぼそい両手は剣のように冴え、防御のない宮田の胸を烈しく突いた。
「あっ!」
 宮田が、不意をくらって、少したじろいた腕の下をくぐると、倭文子は矢のように階段をころび落ちるように、かけ下った。
 玄関のドアを烈しい音を立ててあけると、戸外の闇へ走り入った。
 宮田は、倭文子の必死の勢いに、ちょっと呆然としたが、彼女がどんなことをするかもしれぬと思うと、あおくなった。そう思うとたちまち崖下に砕けているどうどうたる海の音が、聞えて来た。彼は、恐ろしい予感にふるえながら、階段をかけ降りた。
 ドアをあけて、跣足はだしのまま道路へ出て、左右を見ると、森戸の方へ走って行く倭文子の姿が三十間ばかり彼方の海岸に立っている街灯の下に見えた。
 宮田は、すべてを忘れて追いすがった。二十間、十間、前に走っている倭文子の白たびが、土を蹴るのが見えるほどになった。
 と、倭文子は、振り返って宮田を見た。彼女の身体に絶望的な容子が浮んだように思われた。
 と、彼女は道の端の二尺ばかりの石堤いしづつみを越えると、海岸の大きい岩の上にひらりと飛び降りた。
「あっ! いけない。」
 宮田は悲鳴をあげた。
 倭文子は、その大きい岩の上を這いながら、白いしぶきの散っている海波かいはの方へ急いだ。
「倭文子さん、待って下さい。いけません! いけません!」
 宮田は、石堤をまたぐと岩の上へ飛び降りた。
 倭文子は、宮田が追って来るのを見ると、なおさら海へ急いだ。
「待って下さい。倭文子さん、あやまります。おねがいです。」
 宮田は、必死に叫びながら、倭文子を追った。
 倭文子は、もう一間ぐらいで崖の端へとどく所であった。だが、彼女はそこで、岩のわれ目に片足をとられたと見え、それをぬこうとしてあせっていた。
 宮田は、やっとのことで幾度目かに倭文子の肩口をつかんだ。
 宮田は、倭文子の肩口をつかんだまま物がいえなかった。
「はなして下さい。」
 倭文子は、はげしく身をもだえた。
「いいえ。放しません。」
「はなして下さい! はなして下さい。」
 倭文子は、身震いしながら、汚らわしげに宮田を振りはなそうとした。
「僕が、あやまります。どうぞ、一度だけ帰って下さい。」
 宮田は、頭を幾度も下げた。
「いいえ。いいえ。」
 倭文子は、宮田を振りはらって、すぐにでも海へ飛び入りそうな擬勢ぎせいを示した。


 そこはともすれば潮のしぶきが飛びかかるほど、海に近かった。倭文子は、岩の上にぴったり身体をくっつけたままはなれなかった。
「もう、決してあんなことはいいません。どうぞお帰りになって下さい!」
 宮田は、両手をつかんばかりに頭を下げた。倭文子は、白く死面のようになった顔に、真赤な唇をぐっとかみしめていた。そして、少しもじっとしていないで、宮田に取られた右の手を振りほどこうとして、身をもがいていた。彼女のかぼそい全身が、蛇のようにうごめきながら、宮田に反抗した。
「倭文子さん。どうぞ、気をしずめて下さい。どうぞ、帰って下さい!」
 宮田は、両手に力をこめて倭文子を抱き起そうとした。倭文子は身をのけざまにして、それを拒んだ。
「倭文子さん。こんな所にいて、人が来たらどうするのです。あなただって、僕だって!」
 宮田は、声をふるわした。
「あなたこそお帰り下さい。」
「僕が帰れるもんですか。すなおに帰って下さらないのなら、力づくでもおつれしますよ。」
 倭文子は、さし延ばした宮田の手をさけて立ち上った。彼女は、また崖ばたへ急ごうとするのを、宮田が飛びついて、抱き止めた。ふりもがこうとする倭文子の全身を宮田は男性の力でやっと支えながら、道路の方へひきずった。
 道路の上を、自動車が、一つ走りすぎた。だが、もう十時に近いので、人は先刻さっきから一人も通らなかった。通ったにしろ、二人の争いの声は、海のひびきにのまれて聞えなかっただろう。
 道路まで、倭文子を引きずって来ると、宮田は安心した。安心して手をゆるめると、倭文子はそれを待っていたように、必死な力で宮田を振りはなして、またひらりと石堤をとびこして、岩の上に飛び降りた。
 岩の上の勝手が、前よりもよくわかっていると見え、倭文子は足早につつと岩の上を走った。
「お待ちなさい!」
 宮田は、必死な声をあげて追いすがった。そして海へ二間ぐらいのところで、やっと倭文子を捕えた。
「何をするのです。馬鹿な!」
 宮田はあえぎながらいった。倭文子も全身に波うつように、苦しくあえぎながら、なお宮田を振りはなそうとした。
「僕も、こうなれば、どんな乱暴でもしてあなたをつれて帰ります。」
 宮田はそういうと、倭文子の両手を一緒にしてつかみながら、岩の上をぐいぐいひっぱろうとした。
 倭文子は、それを烈しく拒んだ、膝をすりむいたと見え、あらわに見える真白なすねに、血が一筋流れていた。
「強情ですなあ、あなたも。手が抜けても知りませんよ。」
 宮田は、そういって、少しやぶれかぶれで力一杯倭文子の両手をひっぱった。
「あっ!」
 倭文子が悲鳴をあげたときである。宮田の右の頬が、闇の中で、すさまじい音を立てて背後から打たれた。
「おい! 乱暴なことをするな!」


「なにっ!」
 振り向いた宮田は、いきなり烈しい力で、突き飛ばされた。からだが宙に浮いたと思うと、足を岩角に取られて、仰向けにひっくり返った。
「倭文子さん!」
 その男は、宮田の方は振り向きもしないで、宮田の手から自由になって起き上ろうとする倭文子を助け起した。
「あっ!」
 倭文子は、心の底から、悲鳴とも歓喜ともつかない声をあげると、男の懐に身をなげこんだ。
「どうしたというのです、これは。」
 それは、激昂している村川の声だった。彼は、昨夜と今宵こよいと、倭文子に会う少しの機会でもないかと、別荘の周囲を、夜盗のようにうろつきまわっていたのだろう。
 そうきかれると、倭文子はわっ! と泣き出した。冷えきった彼女の身体の激しいふるえが、村川の胸に感ぜられた。
 ちょうどそのとき、今度は反対に、
「何をするのだ、貴様!」
 彼は後から、右の頬を思いきり烈しく打たれた。
 彼は、余りのうれしさに、後にいる敵を忘れていたのである。
「なにをする!」
 振向くと、宮田が真青な顔をして、立っていた。宮田は、村川だと知ると、ちょっとおどろいたらしいが、擬勢ぎせいは少しもくずさなかった。
「君は村川じゃないか。」
「そうだ。」
「君は、僕と知ってったのか。」
「そうだ。」
 二人は、初めて敵となって、相対した。四つの視線が中途で、烈しく斬り合った。
「どうしてったのだ。」
「倭文子さんに、手荒なことをするからだ。」
「馬鹿! 僕が、倭文子さんの無分別を止めているのがわからないのか。」
「そうですか。倭文子さん。」
 村川は、彼の手をすべり落ちて岩の上にうずくまっている倭文子にきいた。倭文子は恨めしそうに宮田を見た。
「はっきりいって下さい!」
「でも。」
「でも、どうしたのです。」
「でも、宮田さんが……」
 倭文子は、いいにくそうに、いいよどんだ。
「馬鹿なことをいっちゃ困りますよ。倭文子さん。」
「だまっていろ! 君は。」
 村川は宮田をどなりつけた。
「貴様、だまっていろ!」
「なに!」
「何だ!」
 二人はつかみ合いそうな勢いを示した。
「君は、倭文子さんに失礼なことをしたのだろう。」
「馬鹿をいえ!」
 宮田は必死になってどなりかえした。
「京子さんや、今井さんはどうしたのです。」
「急に東京へお帰りになりましたの。」
「あなたも、なぜ一緒にお帰りにならなかったのです。」
「でも知らして下さらないのです。」
「じゃ、あなたとこの男と二人きり残ったのですか。」
 倭文子はうなずいた。
 村川は、すべてが了解したようにこぶしをにぎった。
「貴様!」
 村川ははげしいにくしみで、宮田を見返した。


「なに!」
 宮田も、村川と倭文子との関係をハッキリ会得したと見え、村川に対して明かなにくしみを示した。
「君は、倭文子さんに無礼なことをしたのだろう。」
 村川の言葉からは、侮蔑と憤怒とが、火花のように散った。
「ウソをつけ! 失礼なことをいうな、貴様こそ不良少年のくせに。」
「なに!」
「何だ!」
 もう、言葉の戦いは終っていた。どちらから飛びかかるとなく、二人はつかみ合った。
 肉体と肉体とが、打ち合う無気味な音が、波のひびきよりも高く聞えた。倭文子は、恐ろしさに目を覆った。村川は柔道の心得があるので、相手の拳をさけながら、敵の腰に手をやった。だが、それで相手の身体を持ち上げようとすると、自分の足が岩のわれ目に入ったと見え、腰が砕けて、敵の身体をいだいたまま、後へ転倒した。二人は上になり下になり、あらゆる方法でお互に、傷つけ合った。
 宮田も、しばしば村川の逆を取ろうとして、お互に敵が、強敵であるのを知ると、夢中になって戦った。
 倭文子は、ふと目をあけて見ると二人は組み合ったまま、岩の傾斜をすべり、崖端がけはた近くへころげて行った。そこで、村川は宮田に組みしかれていた。そこから海へはもう一間となかった。
「およしなさいませ! およしなさいませ!」
 倭文子は悲鳴をあげながら、近づいた。だが、恐ろしさに、指をおさえることも出来なかった。
 村川を組みしいた宮田は、息を切らしながら叫んだ。
「どうだい! 馬鹿! ざまを見ろ!」
 村川は、苦しげにうめいていた。
「苦しいか、どうだ。もう少ししめてやろうか。どうだ、まだ抵抗するか。」
 村川は、組みしかれながら、倭文子が近づいたのを知った。彼は、恋人の前で敵に組みしかれている恥が、満身の血を煮えただらした。彼は最後の力をふりしぼった。両足に力を入れると、宮田の身体を左へはね返した。その勢いで、二人はもつれ合いながら崖端の方へころげて行った。宮田の足が両方とも崖からはずれた。
「あっ!」
 宮田は、おどろいて、落ちまいとしてもがいた。村川も、さすがに敵を落すまいとして、懸命に宮田の身体を支えてやった。宮田がもがけばもがくほど、宮田の身体はズルズルと岩角をはずれた。宮田に胸倉むなぐらを取られている村川の身体も、ズルズルと崖端がけはたをすべった。
「あっ!」
 宮田が悲鳴をあげたとき、二人の身体は、そこで一回転すると、もつれ合ったまま、四間に近い断崖を、折りしも砕け散った怒濤どとうのしぶきの中へ、烈しい水音を立てながら転落した。


 二人の落ちるのを見たとき、倭文子は、
「あっあっ!」と悲鳴をあげながら、崖端へ走り出した。二人の落ちようとする身体を抱き止めようとでもするように。彼女は、そこで身をかがめ、崖下をのぞき込んだが、暗い崖下には砕けちった白い波が、ごうごうとまき返っているだけで、二人の姿はおろか、声さえもきこえなかった。
「村川さん!」
 彼女は、初めて村川の名を呼んだ。だが、それは烈しい夜の海風に吹きとばされて、しぶきが、彼女のおもてを打つだけだった。
 倭文子は、自分のためにこの恐ろしい事件が起って来たのを思うと自分も二人の後を追いたいとさえ思ったが、先刻さっきからの恐ろしさに、身体がガタガタとふるえて来て、夜の海の恐ろしさが、今更のように身にしみて来た。崖端に、倒れたまま、気が遠くなって、人を呼ぼうという気さえ起らなかった。
 何分か経った。人の気配がするので、ふと目を上げると、三尺はなれないところに、満身ズブぬれになった村川が立っていた。
「あっ!」
 倭文子は、狂喜のように、村川にすがりついた。
「ぬれますよ。ぬれますよ。」
 村川は、倭文子の白い手をそっとはずした。名状しがたいうれしさに湯のような涙が倭文子の冷え切った頬を流れた。
「宮田君は、まだ上って来ませんか。」
「いいえ。それよりも、あなたお負傷けがは。」
「大丈夫です。すり傷くらいはあるかもしれませんが。」
「宮田さんも、大丈夫でしょうか。」
「大丈夫ですとも。こんな浅いところで、死ぬわけはありませんよ。波さえ来なければ、腰の所くらいしか水はないんですからね。」
 村川は、スッカリ落着いていた。彼は、上着をぬぎ、水をしぼっていた。倭文子は身体が、ガタガタふるえて止まなかった。
 シャツ一枚になった村川は、崖端がけはたへ出て行くと、
「おい! 君、宮田君!」
 と、幾度も、つづけてよんだ。だが、彼の声も、風波の音にせかれて、遠くへひびきそうにもなかった。
「落ちたときは、お互に離れていたのですがね。すぐ波をかぶったのです。まさかあのくらいな波で、流されるはずはありませんね。柔道は先刻さっきの容子じゃ僕以上だし、泳ぎだって知っているでしょう。もっとも泳ぎの方は、僕にかないっこはないだろうが。」
 村川は、倭文子の傍へ腰をおろしながらいった。倭文子は、村川が学生時代水泳の選手であったことを思い出した。
「ここで待っていると、先生きっとノコノコはい上って来ますよ。上って来たら、もう一度やりますかな。」
「おねがいだから、およしなさいませ。あんなのを見ているより、死んだ方がましですわ。」
「なに、大丈夫ですよ。あんな先生は、もっともっとやっつけておくといいのです。」
「宮田さんが、もしこのままになったら、どうなるのでしょう。」
 倭文子は、恐ろしさに身をふるわしながらきいた。
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ある結婚



「ご安心なさいよ! このままになりっこはありませんよ。だが、下へ降りて行って探してみましょう。敵を愛せよということもありますからな。あなたは、僕の帰るまで、ここを動かないようにして下さい。後でぜひ、お話ししたいのですから。」
 倭文子は、強くうなずいた。そして、落着きはらっている村川を、たのもしく見上げた。村川はズブぬれの身体を、元気よく起すと、先刻さっき上って来た降り口の方へと闇の中へ消えて行った。
 倭文子の身体のふるえは、止まらなかった。彼女は、先刻さっきまで宮田の顔を見るのもいやだったが、こうなってみると、彼女は一時も早く宮田の姿を見たかった。宮田が、このままになったときの村川や自分のことを考えると、彼女の心は目前に横たわっている海よりも、もっと暗くなった。
 二十分近く経っただろう。村川の姿が、先刻さっき消えて行った方角からだんだん濃くなって来た。やがて彼は倭文子の前へ来て、だまって立った。
「どう?」
 倭文子は、ほのじろい顔を振り上げてきいた。
「落ちた所まで、行ったのですがね。背は立つのですよ。波が来たって、持って行かれることはないんだが、だが、もしかすると……」
 村川の声は、重くなった。
「もしかすると、どうなるの?」
 倭文子の声は、不安にふるえた。
「もしかすると、落ちたときに、どこかを打ったのかな。」
「打ったとしたら。」
「気絶するか、運がわるければ、それきり死んでいるかですな。」
「まあ!」
 倭文子は大きな目をむなしくみひらいた。
「仕方がないですな。」
「でも、あなたはどうなるの?」
「さあ、僕が殺したことになるのですかな。殺意がなくたって。」
「ああ、わたしどうしましょう。」
 倭文子は声を立てて、おいおい泣き叫んだ。
「だが、僕はどうなったっていい。あなたとこうして会っただけでも満足だ。」
「まあ。なぜ、こんな所へいらっしゃったの。こんな所へいらっしゃるから、とんでもないまきぞえに会ったのよ」
「だって、あなたがあんな手紙をくれるんですもの。来ずにはいられないじゃありませんか。」
 村川は、声をはげしくした。
「どんな手紙? わたしがお手紙なんか、さしあげたこと、ないわ。」
「ないことがあるもんですか。」
 村川は、よこに置いてあるぬれた上着を取り上げると、内側のポケットから、西洋封筒を取り出して、倭文子に渡した。その封筒もベトベトぬれていた。
「まあ。こんな手紙……わたしの名前で。」
「頭字だけでも。消印は葉山だし。」
 倭文子は、よろよろ立ち上ると、道路に立っている街灯の光の方へ岩の上をつたった。
「危いですよ。」
 村川は、その手紙が倭文子のでないと知ると、倭文子の愛を取り返し得る光が、闇にかがやき出したので生々として倭文子の危い肩を支えてやった。


 街灯のほのかな光の輪の中までたどりつくと、倭文子は手にしていた手紙に、顔を押しつけるようにして、三四行読んだかと思うと、汚らわしいもののように、それをパッと投げ捨てた。
「まあ……」
 悲鳴に近い声をあげた。
「あなたじゃないのですか。」
 村川は、落ちた手紙を拾いとった。
「まあ! わたし、あなたに手紙なんか書いたことありませんわ。」
「だって、これはあなたの手蹟しゅせきじゃありませんか。この間、僕の机の上に置いてあった書付と同じですよ。」
「そんな書付、わたし知りませんわ。」
 村川は、薄闇の中で大きくうなずいた。
「やっぱり、そうか。僕もそうじゃないかと思っていたのだ。あなたその書いた人がだれかわかっていますか。」
 倭文子は、だまっていた。
「こんなまさかの場合には、ハッキリといって下さいよ。ねぇ、ねぇ。わかっているでしょう。」
 倭文子は、うなずいた。
「そう。それで、あなたはこの手紙にかいているようなこと思っていらっしゃるの。」
「どんなこと書いてありまして。」
「なるほど、あなたは知らないはずだな。明るいところへ行って、スッカリ読んで下さい。あなたが少しでもこんなことを疑っていらっしゃるのでしたら、いくらでも弁解しますから。」
「いやですわ。わたし、そんなもの読むのは恐ろしいわ。」
 倭文子の声はふるえていた。
「じゃ僕が内容をいいましょう。つまり、僕があなた以外の女を愛しているから、僕と別れるというのです。」
 倭文子は、あおざめ切った顔を伏せていた。
「そんなこと思っていらっしゃるのですか。誰からそんなことを聞かされたのです。僕が外の女を愛しているなんて、誰にきかされたのです。こんな恐ろしい手紙をかく人からでしょう。」
 倭文子は、ふと顔をあげて村川のぬれたからだを見た。
「あなた、お寒くございません?」
「ちっとも。それよりも、僕と別れるなどと思っていらっしゃったのですか。」
「もう、何もおっしゃいますな。みんなわかりましたわ。」
「そうですか。じゃ僕を信じてくれますか。」
「ええ。」
 村川は倭文子を抱こうとしてさし延べた手を、すぐひっこめた。彼は、この時急に自分の身体が、氷のように冷え切っているのを感じたからである。
「でも、宮田さんはどうなったのでしょう。」
 倭文子は、また背後の恐ろしい海を振り返った。
「死んだら、死んだときのことですよ。」
「どうなりますの。」
「僕が、過失殺傷罪で二三年刑務所へ入ればいいのですよ。」
「まあ恐いわ。」
「何が恐いことがあるものですか。あなたさえしっかりして下されば、きっと一緒になれますよ。」
「わたし、もういや、いや。わたし、京子さんと一緒に暮すのなら死んでしまいますわ。あなた、わたしのそばをはなれないで。ねぇ、ねぇ。」
 倭文子は、今までにない烈しい熱情で村川のつめたい身体にすがりついた。


 村川のからだにすがりついた倭文子は驚いていった。
「まあ! 冷えていらっしゃいますのねぇ。」
 村川も、急にからだがガタガタ震え出した。
「僕だけじゃありませんよ。あなただって、冷え切っているのでしょう。」
「あの、とにかく別荘へいらっしゃいません?」
「大丈夫ですか。」
「大丈夫ですわ。別荘番のいる家は、別になっていますの。」
「そうしましょうか。これじゃ、宿屋には帰れないし。」
「まあ、宿屋に泊っていらっしゃいますの。いつ、いらっしゃいまして。」
「昨日の晩、僕が別荘へ訪ねて行ったのを話しませんでしたか。」
「いいえ!」
「ちぇっ! 馬鹿にしていやがる!」
「京子さんとお会いになったの?」
「そうですよ。あの人のやり方は、滅茶苦茶ですね。人の事などは何も考えないんだから、ひどい! 全くかなわない!」
「わたし、こわいわ。京子さん、とても恐いわ。だって、どうして、わたしに意地のわるいことなさるのでしょう。」
 村川は、さすがに答えられなかった。最初の接吻をあやまったことだけは、こうなっても話したくなかった。
 村川は、格闘した場所へ引き返して、靴や帽子をやっとのことで探し出した。二人は、石堤いしづつみを越えて道路へ出た。倭文子は、また恐ろしそうに海を見た。
「宮田さんは、駄目でしょうか。」
「案外、先まわりして別荘へ帰っているかもしれませんよ。」
「でも、いよいよ駄目でしたら。」
「まあ! そんなことは考えないことにしましょう。」
 二人の疲れ切った身体に、不安がヒタヒタとかぶさって来た。
「ちょっと待っていて下さい! わたし、家の容子を見て来るわ。まあ、こんなに袖口がほころびているわ。」
 倭文子は、門の所へ村川を待たせると、身づくろいしながら、玄関を上って行った。
 二階へ上る彼女の姿を、村川はいじらしくガラス戸越しに見ていた。彼女はすぐまた玄関へ現れた。
「宮田さん帰っていないの!」
 彼女は、絶望したような、そのくせ邪魔者のないのを喜ぶようにいった。
「お上りなさいませ!」
「大丈夫ですか。」
「大丈夫ですわ。もう別荘番の人達は寝たらしいわ、ちゃんと戸締りがしてありますの。」
 村川は、倭文子と一緒に階段を上った。たとえ、どんな犠牲を払ったにしろ、彼女と一緒にこうして、同じ家に一夜を明し得るかもしれぬことはうれしかった。たとえ、明日にはどんなに恐ろしいことが待っていようとも。
 倭文子は、二階へ上ると、ちょっと思案した。
「人が来ると、いけないから、ここの部屋へお入りにならない?」
 彼女は、寝室のドアを開けた。
「ここなら、大丈夫ですわ。」
 村川は、倭文子と一緒に寝室へ入るのが、少し心をとがめた。だがいやしい想像からきよい倭文子は、そんなことは何とも思っていないらしかった。
「残念だが、石炭がありませんね。」
「とって参りますわ。お湯殿の傍に積んでありますの。」
「僕がとって来ましょう。」
「見つかるといけませんわ。わたし、行って参りますわ。」
 倭文子は愛人をかくまう映画の女主人公ヒロインのように、かいがいしく出て行った。


 村川が、寒さにふるえながら待っていると、倭文子はバケツに一杯の石炭を持って来た。そして悲しみと不安との中にも、ちょっと村川と顔を見合せて、笑った。
「なかなか力がありますね。」
「だって、故郷くににいましたときは、お台所もしていましたのよ。」
 倭文子は、軽く息をはずませながら、親しそうに物をいったが、村川のシャツ一枚の姿に初めて気がついたように、
「まあ! お寒いでしょう。何か着物を持って参りますわ。」
「いいですよ。いいですよ。」
 倭文子は、それを聞かないで出て行ったが、一枚のどてらを持って帰って来た。
「そんなもの持って来て大丈夫ですか。」
「でも仕方がありませんもの。」
「悪いなあ。」
「いいえ。大丈夫ですわ。わたし覚悟していますもの。」
「覚悟って、どんな覚悟です。」
 倭文子は、それに答えないでマッチをって石炭に火をつけようとしていた。
 村川は、ついおかしくなって笑った。少くとも自分は笑ったつもりだったが、寒さのために声がかすれて、笑いらしくはきこえなかった。
「駄目ですよ。マッチからすぐじゃ、つきませんよ。マッチですぐ石炭につけるようじゃ、あなたがお台所をしたというのも怪しいですね。何かまきありませんでしょうか。」
「そう! ありますわ、お菓子箱でいいかしら。」
「そんなものをなるべくたくさん持って来て下さい。」
 倭文子が、部屋を出て行った間に、村川はぬれたものを、スッカリ身体からのけてどてらに着換えた。
 倭文子は、新世帯の炊事をでもしているように、菓子箱の空箱を両手に抱えきれぬほど持って入って来た。悲しみのなかにも、どこかいそいそした容子を見ていると、村川はいじらしさにまぶたが熱くなって来るのだった。
 菓子箱を壊しては、炉の中へ投げ込んだ。でも、石炭の火のつくまでは、かなり時間がかかった。
「京子さんは、どうして東京へ帰ったのです。」
「なぜだか知りませんの。」
「今井君と一緒にですか。」
「ええ。鎌倉まで、いらっしゃるといってそのまま東京へお帰りになったのです。」
「みんな策略ですね。あの人のでたらめな策略ですね。」
「まあ! そうでしょうかしら。」
「まだ、あなたはあの人をいくらかでも信じているのですか。」
 倭文子もさすがに、だまった。ようやく燃え始めた石炭の光で、倭文子の蒼ざめた顔が血の色をとり返し始めた。
「それで、二人きりになると、宮田がいやなこといい始めたのですか。」
 倭文子は、恥しげに首をうなだれた。
「無理にでも、宮田と結婚させようとする京子さんの姦計かんけいですよ。でも、最後まであなたが反抗して下さったのは、嬉しいですね。僕はあなたがそんな強いところがあるとは思わなかった。」
「京子さんが本当にそんなことをなすったとしたら、わたしどうしましょう。わたし、死んでしまいたいわ。」
「何をいうのです。僕がついているじゃありませんか。」
「じゃ、どんなことがあってもわたしからお離れにならない?」
「離れませんよ。」
「いつまでも。」
「むろんですよ。」
「いつでも、一時間でも。」
「それは無理ですな。」
「でもわたし一人でいるのは恐いわ。どうしたら、いつでもあなたのそばにいられるのでしょう。」


「男と女とが、いつでも一緒にいるためには結婚するほかはありませんね。」
 倭文子は、結婚という意外な言葉に顔を真赤にした。
「まあ!」
「いつでも一緒にいられるのは夫婦だけですよ。」
「でも、結婚なんか出来ませんわ。」
「なぜです。」
「二人きりで、そんなこと出来まして。」
「出来ますとも、二人以外には、何がいるのです。」
「そう。川辺の伯父さんなんかが承諾して下さらなければ。」
 彼女は心持赤らめた顔を、村川の方へふりむけた。彼女の顔は折り立ての草花のように純真だった。
「男と女とがお互にすべてをゆるし合えば立派な結婚ですね。法律上の手続きや社会上の儀式などはとにかく。」
 倭文子はその意味がハッキリとわからぬように首をかしげたが、
「そうすれば、いつまでもわたしの傍にいて下さる。」
「そばにいられるかどうか。でも、永久にあなたは僕のものですし、僕はあなたのものです。」
「傍にいて下さらなきゃ、いやですわ。わたし、明日のことを考えると、恐ろしくてたまりませんの。先刻さっきのようないやな思いをするくらいなら、死んだ方が、よっぽどましですわ。宮田さんが、死んでいるときのことを考えると、恐ろしいわ。」
「あなたの覚悟さえ、しっかりしていれば、何も恐ろしいことはありませんよ。あなたさえ、事情をよく話して下されば、僕だって罪になることはありませんよ。どんな困難が、ふりかかって来ても、あなたさええて下されば、二人はすぐ一緒にいられるようになりますよ。」
「でも、その間は、わたし、あなたとお別れしていなければならないのでしょう。」
「三月か四月か長くて半歳の辛抱ですよ。」
「でも、いやですわ。わたし、もう絶対にいやですわ。もう京子さんとは、一日だって一緒にいるのはいやですわ。わたし、もうすぐ死にたいの。でなければ、どこかへ逃げたいわ。」
「だって、逃げたりなんかすればすぐ僕達に嫌疑がかかるじゃありませんか。」
「じゃ死んでしまいたいわ。」
「困りましたなあ。そんな気の弱いことで、何も僕が宮田君を殺したのじゃなし。」
「でも、わたし恐いわ。そんな疑いが、あなたにかかって、わたしが証人になるなんて、考えてもいやですわ。ああ死んでしまいたい。死にたいわ!」
「そんなに、宮田君を死んだことにきめないで、もっと待ってみようじゃありませんか。」
「でも、今まで帰って来ないとしたら、もう十一時頃じゃないかしら、先刻さっきから二時間も経っていますわ。」
「とにかく明日まで待ってみましょう。」
「でも、ここにいることは、いやですわ。」
「でも、ここにいなければ、あの男の生死はわかりませんよ。」
「でも、恐いわ。あの人が、生きて帰って来ても死んでいても、いやですわ。ねぇ、村川さん、わたしをつれて、逃げて下さい。わたしあなたと結婚でも何でもしますわ。」
「ここにいて、すべてに堂々と向うことは出来ませんかな。逃げたり、死んだりしないで、お互の愛を力として、あらゆる現実と戦うわけには行きませんか。」
「じゃ、あなただけそうなさいませ。」
「そして、あなたは?」
「わたし、ひとりで死んでしまいますわ。」
「馬鹿なッ! 何をおっしゃるのです。」
 村川は、烈しく倭文子の肩をいだいた。


 倭文子は、シクシク泣き始めていた。
「もっと、しっかりして下さい! お願いですから。」
 村川は、倭文子の左の肩にかけた手で倭文子の身体を強くひきよせた。
 倭文子は、引き寄せられるままに、村川にぴったり身体を寄せた。
「生きるにしても、死ぬるにしても、あなた一人ということはありませんよ。死ななければいけないのだったら僕も一緒に死にますよ。」
「いやですわ。あなたに死んでいただいたら、もったいないわ。」
「じゃあ、一緒に強く生きて下さい!」
「でも、離れているのは、いや。あなたと離れて、いろいろいやな目にあうのはいやですわ。」
「そう。じゃ宮田君が生きていたら、問題ないじゃありませんか。」
「そうでしょうかしら。」
「あなたも川辺さんを出るし、僕も出て同棲すればいいのですからね。」
「でも、伯父さまはそんなこと許して下さるでしょうか。」
「だから、覚悟をなさいというのです。伯父さんに背く……」
「宮田さんが死んでいたら。」
「それは、そのときの事ですよ。」
「じゃ、宮田さんが、生きても死んでいても、あたしの傍をお離れにならない?」
「むろんですとも。」
「そう! 誓って下さる?」
「誓いますとも。」
「うれしいわ。」
「その代り、あなたは、僕の愛人、妻……」
「何にでもなりますわ。」
「ほんとう?」
「うそなんかいいませんわ。」
「僕にすべてをゆるして下さる?」
「ええ。」
 倭文子は、心の底から、村川の強い腕の中でうなずいた。
 不安と憂慮のために消えていた村川の情熱が、ストーブの火が燃え盛るのと一緒に烈しく燃え上った。倭文子のうっとりと、半ばとざされたひとみが見えた。
「ねぇ、ねぇ……」
「なあに!」
接吻せっぷんしてはいけない?」
「いやですわ、そんなこと恥しいわ。」
 そういって、倭文子は銘仙めいせんのたもとの袖で急に顔をおおった。
「何をおっしゃるのです。」
 村川は、倭文子の顔をおおっている両手をはずした。手はもろく離れて、紫色の袖のはずれから、倭文子の真赤な小さい唇が現れた。村川は、それにすばやく接吻した。最初、それを拒もうとした倭文子の抵抗は、すぐ止まって、二人はすべての心と魂とを、めいめいの唇にこめたように、長い強い接吻をした。
 その後に、不安とその不安を圧倒しつくしたような歓喜とにつかれた二人は、しばらくだまっていた。
「宮田君が、死んでいなければいいがなあ。」
 村川は、心からそうつぶやいた。
「ほんとうですわねぇ。」
 だが、今まで二人とも気がつかなかった波の音が、閉めきったドアの隙間から、二人の幸福を脅かすようにきこえて来た。
「ああ宮田さん、どうぞどうぞ、生きていて下さいませ!」
 初めて恋愛の歓喜を味わい、恋愛によって生の楽しみを知った倭文子は、低く祈るようにつぶやいた。
「結婚ということは接吻することなの?」
 そういって、倭文子は顔を真赤にしながら、村川を見上げた。
 村川は、何も知らない倭文子に、みなぎるような愛を感じて、彼女のやせたしなやかな身体を力一杯だきしめた。
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第二の接吻



 東京の家へ帰っていた京子は、翌朝早くから女中に起された。彼女は、ねむりたらぬ目で女中を軽くにらんだ。
「何なの?」
「あの葉山からお電話でございます。」
「お前聞いておけばいいじゃないの。」
「でもぜひお嬢さまにとおっしゃるのです。」
「誰? 向うに出ているのは。」
「おきちさんのようでございます。」
 女中は、別荘番の女房の[#「女房の」は底本では「女房を」]名をいった。
「うるさいね!」
 そういいながらも、京子はある不安にかられて、色のややさめた銘仙の寝衣ねまきのまま廊下づたいに電話室に入った。
「きち、何なの。」
「お嬢さまですか。」
 オドオドして、声がふるえていることが、よくわかった。
「そう。何なの。」
「あのお客さま達が、お見えにならないのでございますが。」
「お客さま達って宮田さんと倭文子さんかい!」
「はいさようでございます。」
「見えないっていつから。」
「今朝早くからでございます。東京へお帰りになっているのでございませんか。」
「いいえ。そんなことはないよ。」
 京子は少し心配になった。
「でも、こちらにはいらっしゃらないのでございますよ。お散歩にでも、お出になったのかと思って、先刻さっきから待っていたのですが、二時間も経つのにお帰りにならないのでございますよ。」
「そう?」
 京子は、どう考えていいかわからなかった。
「ゆうべお出かけになったらしいの?」
「ゆうべですか、今朝早くでございますか、何しろ私共で起きたのが、六時半頃でございますが、その頃にはもういらっしゃらなかったのでございます。」
 彼女は宮田と倭文子とが一緒にどこかへ出かけたとは考えられなかった。別々だとすると……彼女の頭にも、不安な想像が、つぎつぎに起って来た。
「じゃ、いいわ。わたしとにかく、すぐそっちへ行くわ。どうせ、昼頃までには、行こうと思っていたのだから。」
 そういって京子は、電話を切った。食事の時にも、父や母には何もいわなかった。もし、いうと、倭文子を男性と同じ家に一人取り残して来たことを、叱られるにきまっているからである。
 彼女は、急いで支度をすると、小間使の一枝をつれて、東京駅へ急いだ。
 逗子から、自動車で、またたく間に葉山へ着いた。
 きちが、蒼い顔をして玄関へ出迎えた。
「まだ、帰って来ない?」
「まあどうしたのでございましょうか。」
 京子は、それに答えないで、階段をかけ上った。そして、自分達の部屋のドアをあけて、中へかけ込んだ。一番に倭文子の寝台の周囲を見まわした。そこに倭文子の持物は、何一つ残っていなかった。その上、彼女の衣類を入れたスーツケースが、向うのソファの上から影をかくしていた。
駆落ちエロープメント?」
 京子は、頭の中で考えてみた。だが、宮田と倭文子とがエロープするような原因は、何一つ考えられなかった。
 彼女は、自分達の部屋を出ると、向う側の宮田の部屋を見た。きちんとしかれていた寝床の傍のみだれ箱の中に、宮田の持物全部、時計や財布までが入れてあった。
「心中でもなすったのではございませんか。」
「馬鹿なことをおいいでないよ。」
 そういって、京子はきちをたしなめたものの、自分の頭にもそれ以上に合理的な想像は浮んでこなかった。


 京子の頭の中の想像の輪は、どうしてもつながらなかった。宮田が、倭文子に失礼なことをしたので、倭文子が自殺する。それを悔いて宮田が逃げる……とすれば、倭文子の持物は全部残ってい、宮田の持物こそ全部無くなっていなければならなかった。だが、現実はちょうどその反対なのだ。
 だが、二人の身の上に恐るべき事件が起っていることは、もう疑うべき余地がなかった。何の事件も起らないで宮田が洋服も着ないで、長い間帰ってこないわけはなかった。またおとなしい倭文子が、自分に無断で夜中にこの家を去るわけもなかった。
 京子は自分のした悪戯いたずら半分のトリックが、案外大きい波瀾を生んだのを知ると、さすがに心の底でおののき始めていた。
「ねぇ、一枝! 今井さんの会社へ電話をかけて今井さんを呼び出しておくれ!」
 彼女は、召使いにそう命じて、再び自分達の部屋へ帰って来た。そして部屋をもう一度よく見直すとストーブのふたが取りのぞかれてい、石炭の新しい灰が溢れるように残っている。
「まあ、ストーブを焚いたのね!」
「まあ!」
 別荘番の女房も驚いて声を立てた。
「お前が焚いてあげたのじゃないの。」
「いいえ、ちっとも存じません。」
 京子は、首をかしげた。不安が刻々に彼女の胸に食い入って来た。一枝が階下から上って来た。
「今井さんは、まだお見えになっていないそうでございます。」
「それならいい。」
 京子は、そう答えると再び倭文子の寝台に近づいて、上にのっている羽蒲団はねぶとんをめくってみた。彼女は倭文子の遺書かきおきのようなものがありはしないかと思ったからである。だが、寝台の上にもその傍の小さいテーブルの上にも何もなかった。
「警察へでもお届けいたしましょうか。」
「何をいうの。だまっておいで。」
 別荘番の女房をたしなめると、京子は寝室を出て隣の座敷へ入った。
 そこは、昨日彼女が見捨てた時と、寸分違っていなかった。テーブルの上の演芸グラフィックも昨日と同じく麻雀とかいう女賊に扮した栗島すみ子の大きい横顔の写真が開かれたままである。だがその横にあるシガレット入りの銀の小箱を見ると、京子は目をかがやかして、それを取りのけた。その下から、西洋封筒が三分の一ばかりハミ出しているのを見つけたからである。
 表には、ちゃんと「川辺京子様」とかいてあった。宮田からだと思って、裏を返すと村川生とかいてある字が、鋭い短剣のように、京子の眼を突き刺した。

あなたの奸計かんけいが因をなして、宮田君が行方不明になりました。生きて帰ってくれるかどうか、我々にはわかりません。宮田君が無事であってくれれば、我々もまた帰って来るつもりです。我々というのは(よく覚えていて下さい)僕と倭文子さんとの事です。今度、あなたにお目にかかるときは、夫と妻としてお目にかかるつもりです。宮田君が、死んでいる場合でも、僕はあなたに堂々と二人手を取り合ってお目にかかるつもりです。
だが、倭文子さんは、それがいやだというのです。あの人は、あなたのような下劣な卑怯な汚らわしい人が住んでいる同じ世の中に生きているのがいやらしいのです。僕がいくらなだめても、承知しないのです。自分一人ででも死にたいといってきかないのです。
僕は、あなたのような人がいればいるほど、いかに本当の愛の力が、あらゆる陰謀、あらゆる悪意に打ちかつかということを知らせる必要があると思うのですが、倭文子さんの心は、あなたのお傍にいたために、あまりに傷ついてしまっているのです。それも、もっともです。あの人はつまり女狐と[#「女狐と」は底本では「女孤と」]住んでいたおとなしい雌鶏めんどりでした。

 京子は、ここまで読んで来て、唇を血のにじむほどグッとかんだ。


いや倭文子さんばかりでなく、人間らしい心の持主は、あなたのお傍にいると、あなたのお心のとげのために、刺し殺されずにはいられないでしょう。あなたの自我中心のわがままが、倭文子さんを殺したと同然です。
だが僕は生きて帰って来るつもりです。僕の愛で倭文子さんを力づけ必ず生きて帰って来るつもりです。
だが、それはとにかく、あなたはいつかおっしゃいましたねぇ。(お気の毒ですがわたし命にかけても、倭文子さんをあなたのものにしないから、そう思って下さい。)と、だが、倭文子さん自身が命にかけても僕のものになりたいというのですから仕方がありませんね。死んでも京子さんの傍にはいたくないというのです。
あなたはまた(どんないやしいことでも、どんな卑劣なことでも、どんなあさましいことでもして邪魔をする)と、おっしゃいましたが、そんなことは結局何になりました。結局僕のいった通り(愛している者の力が、どんなに強いかを証拠立てた)だけではありませんか。
あなたはまた(今に、倭文子さんが、煙のようにあなたの手から消えてなくなるでしょう)とおっしゃいましたが、今倭文子さんは世の中のあらゆる実在よりも、もっと生き生きと僕の両腕の中に抱かれているではありませんか。そして、死生を越えて僕が彼女のものであり、彼女が僕のものであることは、世の中のあらゆる法則よりも確実です。
きっと、そのうちにお目にかかって、直接にいろいろ申し上げたいと思います。ただわれわれの行方を捜させるようなことは、なさらないで下さい。すべてを自然のなりゆきにまかして下さい。でないと、あなたはこれ以上に我々の運命を狂わすことになるかもしれませんよ。
倭文子さんは、何も書かないそうです。僕が、こんなことを書くのにさえ反対しています。

 読み終ったとき彼女の美しい顔は、口惜しさのために、ひきつっていた。激しい怒りと憎悪とで、その手紙をみじんに破ってしまった。死ぬかもしれない倭文子にすまないといったような心は、少しも起らなかった。彼女は、激しい嫉妬で、目がくらんだ。
 村川と倭文子とが、かわるがわる自分の顔を踏みにじっているような気がした。
「口惜しい! 口惜しい!」
 彼女は、低い声で叫んだ。
「お嬢さま、どうなすったのでございます。」
 また別荘番の女房が顔を出した。
「いいじゃないの。ひっこんでおいで。」
 と、ひっぱたくように手を振って、それをしりぞけると彼女は口惜しさのために、涙がハラハラとこぼれて、仕様がなかった。
 一層のこと、警察へ訴えて、二人を取り押えてもらおうかしら、だがそんなことをするのは、自分の恥をも明るみへさらすことだった。だが、捨てておくと、二人は死ぬのかしら、死ぬのはいいが、一緒に死なせるのは口惜しい。何の仕返しもしないで、二人を一緒に死なせるのは、どう考えても口惜しかった。といって、つるをはなれた矢のように、行方知れぬ二人をどうすることも出来なかった。
 何事も自分の思い通りに振舞って来た京子も、生れて始めて、どうにも出来ない口惜しさに身をもがいた。


 村川と倭文子とが、一緒に箱根の芦の湖に身を投じたのは、葉山を去ってから四日目の深夜であった。
 村川は、その前に幾度もなだめすかしたが、彼女はひたすらに死を求めて止まなかった。初めは、宮田の死を確めてからということだったが、おしまいにはそんな条件ヌキに倭文子は死を求めていた。生きて京子と会ったり川辺家へ帰って来ることが、彼女には恐ろしいことであったのだろう。
 村川は、あまりに反対すると、倭文子はそっと抜け出してでも死にかねない容子を示すので、村川もとうとう自分自身を捨てて、彼女への愛に殉ずる覚悟をした。倭文子は、自分一人死ぬといって村川を拒んだが、しかし彼女は最後まで拒み切るほど強くもなかった。
 小舟から、一緒に水に投ずると同時に、覚悟を極めていた倭文子はすぐ窒息していた。そして愛人の手にいだかれて安らかな眠ったような顔を水上に浮べた。だが、村川は死に切れなかった。彼は、倭文子さえ、もがいてくれれば、それにつれて自分も溺れることを待っていたのだが、最初水に沈むと共に、倭文子はすぐ窒息してしまったので、彼女の美しいからだは、オフィーリヤのそれのように、水面に静かに浮んでしまった。それを抱いている村川は、少年時代から水には馴れ切っている。彼の足は、いつの間にか平泳ぎの型で水をかいていた。
 だが、彼は倭文子の神々こうごうしいまでに美しい顔を見ていると、自分も早く彼女の後を追いたいと思うのであるが、彼の身体は十数年馴れている水の中へは、どうしても沈まないのである。冷静になればなるほど、彼は浮き切ってしまうのである。ただ彼はこうして山上の湖上の寒気のために、凍死するのを待つよりほかはないと思っていた。
 彼の考えは間違っていなかった。最初は、身を切るように感じていた水の冷たさが、いつの間にかわからなくなったと思うと、青く湖心にすんでいる月の光が、朦朧もうろうとなり、両腕に抱えている倭文子の顔が微笑したと思うと、彼はこの愛すべき倭文子をどうしてもはなすまいと、もう一度決心し直すと同時に、自分自身を失ってしまった。
 その翌朝早く、湖水を横ぎった一つの小舟の船頭は、水上に相擁あいようして漂っている二人を見つけた。そして、静かな湖上に時ならぬ騒ぎが起った。
 二人は、泊っていた××ホテルに収容され、そこで応急の手当を受けた。
 だが、倭文子はとうとうよみがえらなかった。彼女の望み通り、この煩わしい世の中を、永久に見捨てることが出来た。
 だが、水泳選手として鍛え上げた強い村川の心臓は、恐ろしい疲労と寒気とにかかわらず、生命の鼓動をつづけていた。彼は人事不省のままで、ベッドの上に横たわっていたが、医師は恢復の見込みが、充分にあることをいった。
 この報知が、川辺家へ伝わった時、京子の父は狂気のように、村川と倭文子とを怒りののしった。だが、二人を引き取らないわけには行かなかった。家の執事が、箱根へ急行することになった。
 と、今までだまっていた京子が、
「お父さま。わたしも一緒に行きますわ。」
 といった。
「馬鹿! お前なんかの出しゃばる所じゃない!」
 父親は、いつになく険しく京子を叱した。
「でも、倭文子さんに悪いわ。女は女ですもの。あたし行って倭文子さんの方を、ちゃんとしてあげたいの。」
 京子は眼をうるませていった。
 父は京子の女らしい心持に、うごかされたと見え、京子が箱根へ行くことをゆるした。


 最初の電報は、二人ともキトクと報じていた。そのときは、京子は完全に自分がたたきつけられたことを感じた。二人が、とうてい自分のどうすることも出来ない世界へ行って、相愛の凱歌がいかをあげているのを感じた。そして彼女は、一生二人の凱歌を耳にして、生きて行かなければならぬような気がした。それは彼女としても、たまらない苦痛だった。だが、その次の電報は、倭文子の死を報じ、村川のタスカルミコミを伝えた。京子は、それによって蘇った。二人の自分を征服しようとした計画は、半ば失敗したのだ。彼等の勝利は、完全ではないのだ。いま、まさしく挫折したのだ。
「それご覧なさい!」
 と、京子は心の中で、つぶやいた。彼女の良心を押しのけて、低く低くつぶやいた。
 出発する間際になっては、村川のケイカヨロシと報ずる電報が来た。京子の心は明るくなった。うなだれていた彼女の鶏冠とさかは、だんだん元のように、立ち直り始めた。
 京子の父が、政党関係から警察方面へ早く手をまわしたので、事件は新聞社の通信員の耳目に触れることを完全に防いだ。
 執事と京子と書生との三人は、小田原から自動車で、湖畔の町へ急いだ。
 京子は、村川の前でしみじみ懺悔ざんげをしようと思った。半分本当の懺悔をし、それにうその懺悔をぎたそうと思った。そうすればどんな村川だって、自分をある程度まで、許さないことはないと思った。
 箱根町へ入って、××ホテルの玄関へついたとき、一行はしずかに二階の一室へ通された。京子はさすがにその部屋の前で、身体がすくむのを覚えた。
「さあ、どうぞ。村川君も倭文子さんも同じ部屋ですよ。」
 先に入った執事は、すぐ出て来ていった。京子は、震える足をふみしめて中に入った。
 村川は、寝台の上に、こんこんとねむっていた。だが、その寝台ごしに向うの床の上に、白布に覆われている倭文子を見いだしたとき、「あっ!」と、声をあげた。京子はそれに走りよると、白布の上に両手をかけたまま声をあげて泣いた。
 彼女の嗚咽おえつの声は、しずかな部屋の空気の中に、二十分も三十分もつづいていた。彼女は、泣きつづけることによって、自分の良心の苛責かしゃくを、どうにかこうにかゆるくすると、ようやく立ち上った。
「倭文子さんを、一緒に置いてはいけないわ。どこか別な部屋へ移してあげたいわ。」
「はい。ごもっともでございます。先刻、ボーイに申しつけました。」
 執事は、京子の提言をもっとも至極だと思った。
 村川のために、某医学博士が、東京から呼びよせられることになった。

 京子は、その夜遅くまで、村川の看護に当った。倭文子の遺骸は、別室に移され、彼女と村川との間には、何の邪魔者もいなくなった。執事も書生も、寝てしまった。季節はずれの湖畔のホテルの夜はしずかであった。ただ、村川がときどき、低いうめき声を出すだけで、眠りつづけているのが、物足りなかった。
 十二時近い頃、京子は村川の唇に、小田原から来た医師が残して行った水薬を、与えた後、彼のやや血色をとりもどした顔を、じっと見つめていた。
 と、今まで眠りつづけていた村川が、パッチリ眼を開いた。最初、朦朧としていたひとみが、だんだん確かになると、京子の顔をじっと見つめ始めた。京子は微笑した。村川も微笑した。彼は、蒲団に覆われた手を動かそうとした。京子は、蒲団をめくって、その手を自由にしてやろうとした。すると村川は、そのためにさしのべた京子の手を、しっかりつかんだ。そして、強く京子をひきつけた。京子は、ひきつけられるままに身体を寄せた。すると村川は、重い頭を少しもたげながら、京子の唇を求めた。京子は夢中になって、唇を差し寄せた。二つの唇は、久し振りに合った。
「あなた、許して下さるのですか。」
 京子は狂気のように叫んだ。
「許すも、許さないも、ないではありませんか。あなたもよく生きていてくれましたね。倭文子さん、決して僕の傍をはなれてはいけませんよ。」
 京子は、その声をきくと、村川の手をふりほどき、はじかれたように、一間ばかり身を退しりぞけると、壁際の長椅子に、崩れるように身を投げたのであった。





底本:「第二の接吻」文春ネスコ
   2002(平成14)年10月4日第1刷
底本の親本「第二の接吻」改造社
   1925(大正14)年12月10日
初出:「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」朝日新聞社
   1925(大正14)年7月30日〜11月4日
※表題は底本では、「第二の接吻ザ・セカンド・キス]」となっています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本「第二の接吻」改造社、1925(大正14)年12月10日(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1220198)の表記にそって、あらためました。
入力:岡山勝美
校正:岡村和彦
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード