一
銀座のカフェ××××で、同僚の杉田と一緒に昼食を済した雄吉は、そこを出ると用事があって、上野方面へ行かねばならぬ杉田と別れて、自分一人勤めている△町の雑誌社の方へ帰りかけた。
それは六月にはいって間もない一日であった。銀座の鋪道の行路樹には、軽い微風がそよいでいたが、塵をたてるほど強いものではなく、行き
雄吉は食事を済した後ののんびりとした心持に浸っていた。その上、彼はこの頃ようやく自分を見舞いかけている幸運を意識し、享楽していた。長い間認められなかった彼の創作が、ようやく文壇の一角から採り入れられて、今まではあまり見込みの立たなかった彼の前途が、明るい一筋の光明によって照され始めていた。彼の心にはある一種の得意と、希望とが混じりながら存在していた。ことに、彼は自分の暗かった青年時代を回想すると、謙遜な心で今の幸運を享受することができた。
彼は、ともかくも晴れやかな
初めて青木を発見したのは、ほんの二、三間前であったのだから、青木が雄吉に近よるのは、二、三秒もかからなかった。雄吉の心持にも劣らないほどの大きな激動が、青木の心のうちにも、存在しないはずはなかった。その上、青木は雄吉のほとんど仇敵に対するような、すさまじい目の光を見ると、心持瞳を伏せたまま近よった。
二人は目を見合わした。雄吉の目は相手に対する激しい道徳的叱責と、ある種の恐怖に燃えていた。青木の目は、それに対して反抗に輝きながら、しかも不思議に屈従と
「やあ!」雄吉は、硬ばったような声を出した。
「やあ!」青木は、しわがれて震える声を出した。雄吉は、さっきから青木に対して、どんな態度を取るべきかを、必死に考えていた。青木の出京! それは彼にとって、夢にも予期しないことだった。しかも、その青木と不用意に、銀座通りで
彼は、相対した敵の軍隊同士が偵察戦を試みるようにきいた。
「いつ来たんだ!」
「もう一週間ばかり前に来た」と、青木は答えた。その力強い声が、昔の青木そっくりである。彼は過去において、その力強い魅力のある青木の声に、幾度威圧されたか知れなかった。しかも、今自分はかなり得意な、自信のある位置にたち、青木は、数年前失脚したまま、田舎に埋れていたはずだのに、その青木の声から、ある種の威圧を受けるのが不快だった。彼はその威圧を意識すると、全身の力をもって反発せねばならぬと思った。
「何をしに、上京したのだ? 一体君は!」と、彼はきいた。それはある意味の宣戦布告に近かった。彼は、青木が上京して、そのまま滞在するようになるのを、何よりも怖れていた。非常識に大胆で、人を人とも思わないような性情と、ある種の道徳感に欠陥のある青木は、雄吉に対して、またどんなことをやり出すかも、分からなかった。しかも、雄吉は青木の不思議な人格に対して、ある魅力と恐怖とを同時に感じさせられていた。昔の通りの青木が、その持ち前の図々しさで、自分の生活を掻きみだし始めたら堪らないと思った。
「何をしに、上京したのだ?」と、きいておいて、もし青木の返事が、彼の東京に永住することを意味していたら、雄吉は、即座に、「僕は、君とは生涯なんの交渉も、持ちたくない」と、断言する意志であった。
「何をしに、上京したのだ?」という言葉は、それだけでは、普通なありふれた挨拶を、少しく粗野にいい放ったに過ぎなかった。しかし、雄吉がその言葉にこめた感情は、青木に対する全身的な恨みと憎悪とであった。雄吉は、後でその瞬間に、自分の目がどんな悪相を帯びていたかを、思い出すさえ不快であった。まして、その目を真向に見た青木が、名状すべからざる表情をしたのも無理はなかった。その顔は、憤怒と恥辱と悲しみとが、先を争って表面に出てこようとするような顔付であった。それはすさまじいといってもいいほどの恐ろしい顔だった。
彼は生涯に、この時の青木の顔に似た顔をただ一つだけ記憶している。それは、彼が、脚気を患って品川の佐々木という病院に通っていた頃のことであった。彼はある日、多くの患者と一緒に控室に待ち合わしていると、四十ばかりのでっぷりと肥った男に連れられてやって来た十八ばかりの女がいた。雄吉はその男女の組合せが変なので、最初から好奇心を持っていた。すると、そこへ医員らしい男が現れた。その医員はその四十男と、かねてからの知合いであったと見え、その男に「どうしたのです。どこか悪いのですか」と、きいた。すると、その男はまるきり事務の話をするように、ちょっと連れの女を振り返りながら、「いやこれが
女は心持ち顔を赤らめた。その二つの目は、血走って爛々と燃えていた。それは、人の心の奥まで、突き通さねば止まない目付であった。雄吉は、その目付を今でも忘れていない。それは恥じ、怒り、悲しんでいる人間の心が、ことごとく二つの瞳から、はみ出しているような目付であった。もう、それは三、四年も前のことであった。が、今でも意識して瞳を閉じると、その女の顔が、彼の親の顔よりも、昔失った恋人の顔よりも、いかなる旧友の顔よりも、明確に彼の記憶のうちに蘇ってきた。
しかるに、今青木の青白い顔の上部に爛々として輝いている目は、この娼妓志願者のその時の目とあらゆる相似を持っていた。彼は青木を恐怖し憎悪した。が、その深刻な、激しい人間的苦悩の現れている瞳を見ると、彼はその心の底まで、その瞳に貫き通されずにはいなかった。しかもその青木はつい六、七年前まで、彼の畏友であり無二の親友であった。雄吉は、その瞳を見ると、今までの心の構えがたじたじとなって、彼は思わず何かしら、感激の言葉を発しようとした。が、彼の理性、それは、彼の過去六年間の苦難の生活のために鍛えられた彼の理性が、彼の感情の盲動的感激をぐっと制止してくれた。彼の理性はいった。「貴様は青木に対する盲動的感激のために、一度半生を棒に振りかけたのを忘れたのか。強くあれ! どんなことがあっても妥協するな」彼は、やっとその言葉によって踏みとどまった。「僕は、一週間ばかり前に上京したのだが」と、青木はいった。彼の目付とはやや違って、震えを帯びた哀願的な声であった。が、雄吉は思った。青木のこんな
「実は明日の四時の汽車で帰るのだ。今度僕は北海道の方へ行くことになってね。今日実は君に会おうと思って、雑誌社の方へ行ったのだが……」と、いいかけて、彼は悄然として言葉を濁した。雄吉は明らかに青木が彼の
「じゃ、ここで立ち話もできないから、ついそこのカフェ××××へでも行こう」と、雄吉は意識して穏やかにいった。が、初めてそうした世間並の挨拶をしたことが、まったく利己的な安心から出ていることを思うと、少なからず気が
雄吉が、先に立って、カフェ××××へ入っていくと、そこにいた二、三人の給仕女は、皆クスッと笑った。今出て行ったばかりの雄吉が、五分と経たぬうちに、帰ってきたからである。しかし雄吉はそれに対して、にこりと笑い返すことはできなかった。彼の心は大いなる脅威から逃れていたとはいえ、まだ青木という不思議な人格の前において、ある種々の不安と軽い恐怖とを、感ぜずにはおられなかった。
二
過去において、青木は雄吉にとって畏友であり、親友であり、同時に雄吉の身を滅ぼそうとする悪友であった。
雄吉は、初めて青木を知った頃の、彼に対する異常な尊敬を、思い出すことができた。彼の白皙な額とその澄み切った目とは、青木を見る
その上、青木の行動は極度にロマンチックで、天才的であった。雄吉は、ある晩十一時頃に、寄宿舎へ帰ろうとして、大きな闇を
「青木君! どこへ」と、雄吉は思わず声をかけた。月夜でもない晩に、夜更けて運動場の闇の中へと歩を運ぶ青木の心が、その時の雄吉には、ちょっと分からなかったからだ。
「ちょっと散歩するのだ」といいながら、雄吉の存在などには、少しも注意を払わずに、痩せぎすな肩をそびやかせて、何かしら瞑想に耽るために、闇の中に消えていく青年哲学者――雄吉はその時、そんな言葉を必ず心のうちに思い浮べたに違いない――の姿を、雄吉はどれほど
またその頃の青木は、教室の出入りに、きっと教科書以外の分厚な原書を持っていた。雄吉などが、その頃、初めて名を覚えたショーペンハウエルだとかスピノザなどの著作や、それに関する研究書などを、ほとんどその右の手から離したことがなかった。しかも、それを十分の休憩時間などに、拾い読みしながら、ところどころへ青い鉛筆で
そうした青木の、天才的な知識的な行動――それを雄吉は後になってからは
青木と雄吉との交情が、何事もなく一年ばかり続いた頃であった。そこに、雄吉に対する大なる災難――それは青木に対してもやはり災難に相違なかった――が、萌芽し始めていた。
それは、たしか雄吉らが、高等学校の三年の二学期のことだったろう。赤煉瓦の古ぼけた教室の近くにある一株の
「さあ! いよいよ田舎へ帰るんだぞ!」と、吐き出すように叫んだ。それは、雄吉にとっては、まったく意外なことであった。雄吉は、自分の君主の身の上にでも、災難が襲いかかってきたかのように、狼狽しながら、
「君が国へ帰る? どうしてだ?」と、きいた。
「どうもしないさ。俺の親父が破産したというだけさ」と、青木は沈痛な、しかも冷静な調子でいった。
青木の家は、雄吉の知る限りでは、田舎のかなりの資産を持った商人らしかった。青木が、クラスの中で最も多く原書を買い込む事実からいっても、彼がその時まで給与されていた学資は、かなり豊富であったらしかった。
「じゃ、学資が来なくなったわけなんだね」と、雄吉は、この場合にもっと適当した言葉がほかにあると思いながら、とうとうこんな平凡なことをいってしまった。青木は、雄吉の質問をいかにもくだらないといったように、
「まあ! そんなわけさ」と、いったまま黙ってしまった。
センチメンタルで、ロマンチックで、感激家であった雄吉が、突然青木の身の上に振りかかった危難を知って、極度に感激したのは、むろんのことであった。彼は、どんなことがあっても、青木を救ってやらねばならぬと思った。雄吉にとって、青木を救う唯一の手段は、やっぱり、今自分が世話になっている近藤家の金力に、すがるよりほかはなかった。雄吉は、そう考えると、その日学校から帰ると、自分が家庭教師兼書生といったような役回りをしている近藤家の主人に、涙を流さんばかりに青木の救済を頼んだ。
「本当に、その男は天才なんです、教授連が、すっかり舌を巻いているのです。後来きっと日本の学界に独歩するほどの大哲学者になりそうです」と、自分のいっていることに、十分確信を持ちながら、青木の効能を長々と述べたてた。すると、主人の近藤氏は、実業家に特有な広量な態度で、
「俺は、哲学ということは、どんな学問だか、一向心得んが、いずれ国家に有用な学問に相違なかろうから、その方面の天才を保護するのも、決して無用のことじゃなかろう、君がそうまでいうのなら、青木という人も、家へ来てもらって一向差支えがない」と、こういいながら、何か掘出し物の骨董をでも買うような心持で、青木を世話することを引き受けてくれた。雄吉は、この時ほど、近藤氏を偉く思ったことはなかった。
雄吉は、自分の手で青木を救い得たことを、どれほど
が、雄吉が、寄宿舎の窓にもたれて、霜柱の一面に立っている運動場を放心したようにぼんやりと見つめている青木を見つけて、近藤氏の厚意を話した時――大なる興奮と感激とをもって、話した時、青木はその起きてから間もないと見え、極度に蒼白い顔の筋肉を、ぴくりともさせずに、ただ一言、「そうかい!」と、いったばかりであった。雄吉は、青木の冷静な、ほとんど無関心な態度を、ある種の驚異をもって見た。自分の身の上に湧いてくる危難を、ものの数ともせずに、雄吉の親切などを、眼中においてない青木の態度を、雄吉は怒るよりも、むしろ
「じゃまあ! 近藤氏の世話にでもなるか。学校なんかどうだっていいのだが、好き
青木が、近藤家に寄寓して、雄吉と同室に起臥することになったのは、それから間もなくのことであった。今までもそうであったが、こう二人の生活が、ことごとに交渉することになってからは、雄吉の生活は、ことごとく青木の意志の支配を受けていた。近藤家から命ぜられるすべての仕事は、ことごとく雄吉の負担であった。それと反対に、近藤家から与えられる恩典の大部分は青木が独占した。が、雄吉はそうした自分の従属的な生活を、少しも後悔してはいなかった。思索家、青年哲学者としての青木に対する彼の崇拝は、少しの幻滅をも感じなかったばかりでなく、青木との交情が進むに従って、ますます拡大され、かつ深められていた。ことに、青木が三年になって以来、校友会の雑誌に続けざまに発表した数篇の哲学的論文は、彼の青木に対する尊敬を極度にまで
雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということから、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり
そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそうした放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をもって彼を見守っていた。
三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。
それは、金銭上の取引きなどには
「どうしたのだ、その金は?」と、雄吉の声は、かなり上ずっていた。
「どうもしないさ」と、青木はいつものように、冷静であった。「矢部さんがね、僕の窮状に同情してくれて、翻訳の口を探してくれたのさ。かなり大きい翻訳なのだ、僕が困るといったものだから、これだけ前金を融通してくれたのだ、はははは」と、彼はこともなげに笑った。矢部さんというのは、学校の先輩で、もうすでに文壇にも十分に認められている新進の哲学者であって、青木は二、三度、この人を訪問したことがある。雄吉は、青木に向いてきた幸運を、自分のことのように
「それで、君に頼みたいのだがね、この小切手を、一つ貰ってきてくれないか。○○銀行支店といえば、そう遠くないのだから、四時までには行けるだろう。裏へ署名して判を押すのだが、僕は判を持っていないから、君の名でやってくれないか」
雄吉が、青木の依頼を
手の切れるような、十円札を十枚、汗ばんだ手で握りしめながら、雄吉はあたふたと帰ってくると、青木は鷹揚に、
「やあ御苦労御苦労」と頷いて、雄吉から受け取った札を数えると、その中から二枚を雄吉の前に差し出しながら、「ほんの少しだが、取っておいてくれ給え」といった。中学時代から、貧家に育った雄吉には、二十円というような大金をまとめて
「やあ、ありがとう」と、いいながらそれを押し戴くようにした。
八十円を懐にした青木は、線香花火のように
が、一週間と経ち、十日と経つうちに、青木はまた元のように慎ましい生活を強いられているようであった。それは、雄吉にとっては忘れられない四月の十一日の晩であった。晩餐を済すと、青木は「ちょっと散歩してくる」といって出ていったまま、なかなか帰って来なかった。雄吉はただ一人、春の宵にありがちな不思議な憂鬱に襲われて、ぼんやり机にもたれていると、後の襖が、音も無く開かれたと思うと、聞き馴れた小間使いの声がして、
「旦那様が、ちょっと御用です」と、いった。
「はあ」と答えると、雄吉は気軽に立ち上った。また、いつものように、到来物の礼状でも書かされるのだなと思いながら、長い廊下を通って、主人の部屋へ行った。いつもは、微笑を含みながら、雄吉を迎える主人が、にこりともしないで、苦り切ったまま座っているので、雄吉はいささか勝手が違いながら、座って礼をした。すると、主人は、「はなはだ不快な用事だが」といいながら、その膝の上に置いてあった紙入から、小さい紙片を取り出して、雄吉の目の前に押しやりながら、
「どうだ、それに覚えがあるかな」と、硬い、凍ってしまったような声でいった。雄吉は、なんだか見覚えがあるように思った。彼は、恐る恐る、それを取り上げた。雄吉の目が、紙面を見詰めた瞬間に、彼の全身は水を浴びせられたように
「その裏の署名捺印は、お前のに相違なかろうな」といった。雄吉はぶるぶる震える手で裏を返して見た。そこには、明確に過ぎると思われるほど、丁寧な楷書で、広井雄吉と署名されて、捺印されている。
「
雄吉は、ただ茫然として、すべての考察を奪われた人間のごとく、主人と自分との間にある畳の縁を、ぼんやりと見つめているばかりであった。彼のこれほどまでに尊敬している青木が、主人の手文庫から小切手を盗み出したということが、彼には夢にも予想し得ないことだった。また盗んだものを、白昼公然と、自分に命じて、引き出しにやった青木の大胆さは、ほとんど常識を備えた者としては考えられないことだった。しかし雄吉は主人の前に
「あの小切手は青木が、持っていたものです」といってしまえば、自分だけは手もなくこの災難から脱することができると思った。が、その時の雄吉は――青木の人格的魅力に陶酔しきっていた雄吉は、自分に降りかかって来た嫌疑を、手もなく、青木に背負わせて、自分一人浮び上るのに堪えなかった。彼はその時、ふと青木の今までの行動から、彼の道徳性を調べて見る気になった。青木は一体盗みをするという悪癖を持っているのだろうかと考えた。すると、雄吉の心にふと、一月前の青木に関したある光景が浮んできた。それは学校の教室で、青木が、新しく古本屋から買ったばかりだというドイツ語の辞書を見ていると、すぐ横にいた同じクラスの藤野という男が、
「おやっ! 君はこの辞書をどこで買ったんだい」と、きいた。すると、青木は、何を無礼な質問をと、いったように例のごとく高飛車に、
「なんだってそんなことをきく必要があるんだ。どこで買おうと俺の勝手じゃないか」と、冷淡にほとんど取りつく島もないような返事をした。気の弱い藤野は、青木の剣幕に威圧されてしまったらしく、そのまま黙ってしまった。が、雄吉はそれからしばらくしてから、友達の誰かに藤野が、
「不思議なことがあればあるものだね。僕が盗まれたドイツ語の辞書を、青木君がどこかの古本屋で買ったらしいよ」と、いっているのをきいた。そのことを、青木にきかせるのは、ただ青木を不快にするばかりだと思ったから、雄吉は自分一人の胸のうちに止めておいたが、今、雄吉が近藤氏の前にあって、青木の過去の行動を顧みると、この辞書の問題が、彼の心に大いなる疑念を湧かした。藤野の好意ある解釈、盗まれた本を青木が古本屋を通じて買ったという解釈――むろん雄吉はその当時はそれについて、なんの疑念も懐かなかった――が果して正しいものだろうか。この小切手の事件から思い合わすると、その辞書は藤野の所有から、なんらの仲介なしに、直接青木の所有に移ったのではあるまいか。雄吉はそう考えてくると、もうそれは、動かすべからざる事実のように思われ始めた。
雄吉が、心のうちで青木の悪癖を確かめているのを、近藤氏は、雄吉が苛責の心に責められているのだと思ったらしく、
「ああもういい。あちらへ行って休み給え。君は見たところ、立派な体格を持っているのだから、心を入れかえて奮闘さえすれば、一人前の人間に成れぬことはない。さあ、もうあちらへ行き給え」と、いった。
雄吉の沈黙を、服罪だと解釈した主人は、もうこの上責める必要もないと思ったのか、またこの不快な会見を、早く切り上げようと思ったのか、しきりに雄吉を促したてた。
「実は、あの小切手は青木が持っていたのです」と、雄吉は口まで
「どうも相済みませんでした」と、挨拶しながら主人の部屋を辞した。長い廊下が、目の前の闇に光っていた。雄吉は芝居をしているような心持であった。すべての理性が、
彼はその夜、青木の帰るのが待たれた。青木がその小切手に対して、明快な弁解をしてくれるかも知れないという、空疎な希望もあった。また青木が、自分の罪を自分で背負って、主人の前に懺悔する。すると、主人は雄吉の潔白とその犠牲的行動とに感激する。そして、雄吉の友情に免じて青木の罪をも不問にしてくれる。雄吉はそうしたばからしい空頼みにも耽っていた。
青木が帰ったのは、十一時を回っていた頃であった。彼はやはり、いつものように、つんと取り澄ました彼だった。雄吉が、常に青木に対して持っていた遠慮も、今日ばかりは、少しも存在しなかった。
「おい! 青木、ちょっとききたいことがあるんだがね」と、雄吉は青木のお株を奪ったように、冷静であった。
「なんだ!」と、青木は雄吉の態度が、少し癪に触ったと見え、雄吉の目の前に、突っ立ちながら答えた。
「まあ! 座れよ。立っていちゃ、ちょっと話ができないんだ。実は、この間の百円の小切手だがね、あれは君、本当に翻訳の前金として貰ったのかい」
「なんだ、そんなことを疑っているのかい。この間、君にもいったじゃないか。僕が矢部さんと共同でベルグソンの著書を片端から翻訳することになったんだよ。その前金として矢部さんが貰ってくれたんだ」と、青木の答は、整然として一糸も乱れていなかった。その瞬間、雄吉は近藤氏の言い分の方を、何かの間違いではないかと、思ったほどであった。
「そうか。それなら、はなはだ結構だ。実は、さっき、ここの主人に呼ばれて行ってみると、主人があの小切手を出して、これに覚えがあるかと、いうのだ。で、あると俺が答えると、主人は、あの小切手は主人の手文庫にしまっておいたもので、俺が盗んだのだろうというのだ。が、君が本当に翻訳の前金として貰ったというのなら大いに安心した。じゃこれから、主人のところへ行って、弁解してくれないか」
それをきいた時の、青木の狼狽さ加減を、雄吉は今でも忘れない。青木は、彼が今まで装ってきた冷静と傲岸とが、ことごとく偽物であったと、思われるばかりに、度を失ってしまった。彼の顔は、一時さっと真っ赤になったかと思うと、以前より二、三倍も、蒼白な顔に返りながら、
「君、本当かい、主人が本当にそんなことをいったのかい」と、青木は哀願的に、ほとんど震えるばかりの声を出した。
「本当だとも、今から主人の前へ出れば分かることだ」と、雄吉は厳然としていった。彼はその瞬間、青木に対する自分の従僕的な位置が転換して、青木に対して、彼が強者として立っているのを見出した。彼は、それが快かった。
「あっ! どうしよう、俺の身の破滅だ」と、悲鳴のような声を出したかと思うと、青木は雄吉の目の前に顔を抱えながら、うつぶしてしまった。今までの
「君はどうして、あんな非常識な、ばかなことをやるんだ。泥棒をやるのなら、なぜもう少し、泥棒らしい知恵を出さないのだ」と、雄吉は、青木と交際し始めて以来、初めて彼を叱責した。
「それをいってくれるな。俺のは、まったくふらふらとやってしまうのだ。俺は、そのためにいつかは身を滅ぼすと、思っていたのだ」と、そういいながら、彼はその蒼白な顔を上げた。なんという悲壮な顔だったろう。盗癖という悪癖を――意識をもってはどうともできない悪癖を持っている人間の苦悩といったものを、顔全体にみなぎらしていた。
「どうしよう広井君! (青木が雄吉に君を付けて呼んだのはこれが初めてだった)どうか。俺を救ってくれ、俺は破産した自分の家名を興す重任を帯びているのだ。食うや食わずで
雄吉の心には、かくまでに参ってしまった青木に対する同情と、今まで自分を見下していた青木が、手を合わさんばかりに哀願しているのを見ている一種の快感とが、妙にこんがらがっていた。そして、その二つともが、彼が青木の罪を負うという決心を固めるのに役だった。
彼は、主人の部屋を出た時と同じように得々とした心持で、
「実はね、主人の前は僕が責任を背負ってきたのだ。僕は君のために、この罪を背負ってこの家を出ようと思うのだ。君を罪に落したところで、僕が、君をこの家に紹介した責任は逃れないし、また僕が何も知らないで、小切手を引出しに行ったということも、ちょっと弁解が立たないし、これが表沙汰にでもなるというのなら、別問題だが、この家を出さえすれば済むことだから、僕も即座に決心してしまったんだ」
これをきいた時の、青木の顔が一時に生気を呈したのはむろんであった。が、青木は、なるべくその生気を押し隠すように、涙を――それも嬉し涙であったかも知れぬと雄吉は後で考えた――ぽろぽろと流しながら、「そんなことを! 僕の罪を君に委せて、僕が
雄吉は、後年になってから、なぜその時青木と一緒に主人のところへ行かなかったかを悔いた。が、不思議な感激と陶酔とに心の底までを腐らされていた雄吉は、
「ばかなことをいっちゃ困る。君が、この家を出たら、どうなると思う。君はその弱い身体で、パンを求めるさえ大変じゃないか。まして、学校をどうするのだ。君は自分で、自分の天分を愛惜することを忘れちゃだめだぞ。僕はこの家を出ても、どうにでもやってみせる」と、感激に溢れた言葉でいった。
「君がなんといっても、君に代ってもらっては僕の良心に済まない。どうか、僕に自白させてくれ給え」と、青木は叫んだ、青木の言葉も、まんざら偽りだとは思われないほど感激していた。
「が、どちらにしても今夜は遅い。主人は寝ているに違いない。それよりか、君も僕も一晩ゆっくりと寝ながら考えよう」
青木も、それに異存はなかった。雄吉と青木とは、枕を並べながら、眠られない一夜を明した。
雄吉の決心は、夜が明けても、動いていなかった。が、主人に自白するといった青木は、夜が明けると、そのことをけろりと忘れてしまったかのように、ただ目にいっぱい涙を
その日の午後に、雄吉は、わずかな身の回りのものを始末して、三年近く世話になった近藤家を去った。
近藤家を去った雄吉は、自分の壮健な肉体に頼るほかに、なんらの知己も持っていなかった。彼は、その翌日からすぐ激しい労働に従事した。もう卒業までは、わずかに三カ月である。学校を出て大学に入れば、自活の道も容易に見出されると思っていた。が、そうした苦しい奮闘のうちにも、彼は青木から得る感謝と慰藉を、自分の苦闘の原動力としようとさえ思っていた。
が、そこに雄吉にとって食うべき最初の
「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに文句はあるまいな」と、いったような意識が、青木に対する雄吉の態度の底に、いつも
高等学校を出ると雄吉は、学資を得る便宜から、京都の大学に入ることになった。さすがに雄吉との別離を惜しんだ青木は、
「もう僕も、大学生なんだから、月に十円や十五円の内職をすることは、なんでもないことだから、僕が働いて月十円は必ず君に送金する。それは当然僕のなさねばならぬ義務だ」と、青木はその大きな目に涙を湛えながら、感激していった。
雄吉の京都における生活は、かなり苦しい悲惨なものであった。彼は、ある人の世話で、職工夜学校の教師をした。が、それは彼の時間のほとんどすべてを奪って、しかもわずかな報償を与えるのに過ぎなかった。彼は、ノートを
青木が、涙を流しながら誓った送金は、いつが来ても実現しなかった。雄吉は堪らなくなって、二、三度督促の手紙を出した。青木からは、それに対して一通のハガキさえ来なかった。彼は、最後にほとんど憤りに震えているような文面の手紙を出した。それに対しても、青木は沈黙を守り続けた。
もう、その頃の雄吉は、自分の身代り的行動を、心の底から後悔し始めていた。それと同時に、現在の苦学生的生活の苦悩が、ひしひしと身に食い込んできた。そのために、彼は自分の過去におけるばからしさと、青木の背信とを恨んだ。
が、雄吉の食らうべき第二の
「君は、青木のことをちっとも知るまいな。あいつはこの頃大変だぜ。すっかり遊蕩児になりきってしまってね。友人の品物を無断で持ち出すやら、金を借り倒すやら大変だ。近藤さんのうちも、とうとうお払い箱さ。なんでも、近藤さんのうちの貴金属をずいぶん持ち出して、売り飛ばしていたんだってね。あいつのは、まるきりでたらめなんだ。後で露見しようがしまいが、そんなことは平気なんだ。あいつは悪事をやるのまでが天才的だ、という評判だよ。……今だから、いってもいいが、あいつは君が近藤さんのうちを出た時に、何か君が悪いことをやったように、僕たちの間に触れ回っていたよ。僕たちは、むろんそれを、少しも信じなかったがね」といった。
雄吉は、それをきいていると、青木のために土足で踏みにじられたように思った。「貴様は俺に恩を施したつもりでいるのか、貴様から受けた恩なんか、この通り踏みにじってしまったのだ。貴様が、一身を賭して、僕のために保留してくれた近藤家の保護を、俺はこちらから御免を蒙ったのだ」といっているような青木の皮肉な顔を、雄吉はまざまざと想像することができた。
雄吉の心を極度にまで傷つけたことは、彼が青木のために払った犠牲のために、今なお苦しみ続けているのにかかわらず、青木が雄吉のそうした苦痛によってようやく保留し得た保護を、それほど破廉恥に、それほど悪辣に、それほど背信的に踏みにじったことであった。それをきいてから、雄吉は、全人格をもって、青木を恨み、呪詛し、憤らずにはおられなかった。彼は青木に対するすべての好感情を失い、満身を彼に対する憎悪と侮蔑とで、埋めてしまった。しかも、それは、彼の苦学的生活が、苦しくなれば苦しくなるにつれて、深められていった。
青木が、大学でも不始末を演じて、除名されたという噂をきいたのは、それから間もないことであった。が、その時には、埋もれていく青木の天分を惜しむほどの好意も、雄吉の心のうちには残っていなかった。
三
今、カフェ××××の一隅の
が、雄吉の前に腰かけながら、黙って目を落している青木を見ていると、彼は六年という長い間、田舎に埋れていた青木の生活を、考えずにはおられなかった。負惜しみが強く、アンビシャスであった青木が、同窓の人たちが大学を出て、銘々に世の中に受け入れられていくのを見ながら、無味乾燥な田舎に、その青春時代を腐らせていったもどかしさや、苦しさや、残念さを考えると、雄吉は、自分自身の恨みを忘れて、青木のために悲しまずにはおられなかった。
が、彼にとっては、煉獄といってよいほどの、苦しい生活を嘗めていたのにもかかわらず、青木はほとんど変っていなかった。雄吉のそうした憫みを受けるべく青木の顔は、昔の若さをほとんど失っていなかった。ことに青木の着ている合着は、雄吉の合着よりも新しくもあれば、上等の品でもあった。
雄吉には、青木のそうした無変化さが、少し物足りなかった。雄吉の悪魔的な興味は、もう少し零落して、しなびきっている青木を見たかったのだ。
雄吉は、何か話題を見つけようと思った。が、昔の生活を回想することは、青木にとっても、雄吉にとっても苦々しいことであったし、それかといって、現在の二人の生活には、話題となるべきなんの共通点もなかった。
「君はちっとも変らないじゃないか」
「ああ変らないよ」と、青木は答えた。その声は、昔の青木と少しも変らないように、雄吉にとっては威圧的に響いた。二人はまた黙ってしまった。雄吉は、友達の噂でも話してみようと思った。が、クラスのうちの誰も、皆立派に成功の道に辿りついていて、誰の噂をしても、青木に対して当てつけがましくきこえないのはなかった。雄吉は、やっと岡本という男のことを思い出した。その男は、大学を出るのも、一年遅れた上に、大学を出てからも、職業がなくてぶらぶらしていた。この男の噂なら、青木を傷つけることはないと思った。
「君は、岡本の噂をきいたことがあるかい」と、雄吉がきくと、
「岡本! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」と、青木は突き放すようにいった。「青木! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」という方が、もっと自然らしく思われるその青木が、こうした昔のままの傲慢さを持ち続けていることが、雄吉にはむしろ淋しかった。雄吉が、話題に困っている様子を見ると、青木は、
「どうだい、君や桑野は勉強しているかい。外国のものなんか、盛んに読んでいるだろうな」と、妙に皮肉に挑戦的にきいた。それは、昔の青木とほとんど変っていなかった。そうした青木の
「君の単行本はまだ出ないのかい」と、青木は雄吉がたじたじとすればするほど、
雄吉は、向い合って話しておればおるほど、不思議な圧迫を感ぜずにはおられなかった。
六年憎み続けてきた青木、今ではもう、彼の天分を尊敬したことさえ一つの迷妄だと自分では思っている雄吉にとって、青木はなおある不思議な魅力と威圧とを持っていた。久し振りに顔を見合わした当座こそ、恥かしさに面を挙げ得なかったほどの青木が、紅茶を一杯すすっているうちに、いつの間にか、雄吉の上手に出ているのを感じた。雄吉は、そのことがかなり不快であった。青木が全然失敗の男であり、しかも雄吉に対しては、とても償いきれぬような不義理を重ねていながら、いったん顔を見合わしていると、彼の人格的威圧が、昔のように厳として存在しているのが、雄吉は堪らなかった。雄吉は、どうかしてこの不快から逃れようと思った。が、青木と会ってから三十分にもならないのだから、
「どうだい! 君、桑野のところへ行ってみないかい」と、ようやく雄吉は一策を考えた。桑野は、やはり同窓の一人で、作家としていちばん早く世間から認められた男であった。
青木も賛成した。雄吉は給仕女を呼んで、勘定を払おうとした。すると青木はいつの間にか五円札を持っていて、「いや勘定は俺がしよう」といいながら、女中に五円札を渡した。雄吉は強いて争うべきことでもないので、青木のなすままにした。雄吉は、青木の、そうした弱味を見せないぞ、零落はしていないぞといったような態度が、かなり淋しかった。
二人は、尾張町から上野行の電車に乗った。ふと、雄吉は停留所の電柱の時計を見ると、ちょうど三時を示していた。明日の四時といえばもう二十五時間だ。二十五時間経てば、青木――雄吉にとっては、永久の苦手ともいうべき危険性を帯びたこの男は、東京にいなくなってしまうのだ。もう少しの辛抱だと思った。そう思っていると、青木は、
「君! 雑誌記者なんて、ずいぶん惨めな報酬だというじゃないか。年末の賞与がたった五円という社があるそうじゃないか。君の方はどんなだい」といった。
雄吉は、また始まったなと思った。
「僕の方は、そんなでもないな」と、答えながら、心のうちで二十五時間を繰り返した。そして「桑野のところへ連れて行けば、桑野がまたどうにか時間潰しをしてくれるに違いない」と、思った。