九月十三日。
とうとう京都へ来た。山野や桑田は、俺が彼らの圧迫に堪らなくなって、京都へ来たのだと思うかも知れない。が、どう思われたって構うものか。俺はなるべく、彼らのことを考えないようにするのだ。
今日初めて、文科の研究室を見た。思いのほかにいい本がある。蚕が桑の葉を貪るように、片端から読破してやるのだ。研究という点においては、決して東京の連中に負けはしないと、俺はあの研究室を見た時に、まったく心丈夫に思った。
その上に、俺は京都そのものが気に入った。ことに今日、大学の前を通っていると、清麗な水が
が、俺はこの頃、つくづくある不安に襲われかけている。それはほかでもない。俺は将来作家としてたっていくに十分な天分があるかどうかという不安だ。少しの
俺は、文学に志す青年が、ややもすれば犯しやすい天分の誤算を、やったのではあるまいかと、心配をしている。このことを考えると嫌になるが、青年時代に文学に対する熱烈な志望を語り合い、文壇に対する野心に燃えていた男が、いつが来ても、世に現れないことほど、淋しいことはない。俺も彼らの一人ではあるまいかと思う。人生の他の方面に志す人は、少しぐらいは自分の天分を誤算しても、どうにかごまかしがつくものだ。金の力、あるいは血縁の力などが、天分の欠陥もある程度まで補ってくれる。が、芸術に志す者にとって、天分の誤算は致命的の失策だ。ここでは、天分の欠陥を補う、なんらの資料も存在していないのだ。黄金だと思っていた自分の素質が日を経るに従って、銅や鉛であったことに気がつくと、もうおしまいだ。天分の誤算は、やがて一生の違算となって、一度しか暮されない人生を、まざまざと棒に振ってしまうのだ。昔から今まで、天分の誤算のために、身を誤った無名の芸術家が幾人いたことだろう。一人のシェークスピアが栄えた背後に、幾人の群小戯曲家が、無価値な、滅ぶるにきまっている戯曲を、書き続けたことだろう。一人のゲーテが、ドイツ全土の賞賛に浸っている脚下に、幾人の無名詩人が、平凡な詩作に
こう考えてくると、俺は堪らなく自分が嫌になる。俺は、どうして創作家になることを志したのだろうか。どうして文学を志したのだろう。それを考えると、俺はいつも、自分のばからしさに愛想が尽きる。俺が文科を選んだのは、文学者崇拝という他愛もない少年時代の感情に支配されていたに過ぎなかった。もう一つ原因はあったっけ。それは、俺は中学時代に作文が得意であったという、愚にもつかない原因だった。こんな、少年時代の出来心で選んだ生涯の道程を、今となっては是が非でも、遂行しなければならぬ羽目にいる俺を、つくづく情なく思う。
それにしても、高等学校にいた頃は、少しは自信があった。自信があったというよりも、自分の真実の天分なり境遇なりを、自分でごまかしていくことができたのだ。ことに、山野や桑田などの、燃ゆるような文壇的野心や、
「なあに! 僕たちの連中だって、今に認められるさ。誰か一人有名になれば、もうしめたものだ、そいつが、残りの者を順番に引き立てていけばいいんだ」と、桑田は、その最初に名を成す者が、自分であるような自信をもっていった。
「そうとも、文芸部で委員をしていた者は、皆文壇的に有名になっているんだ。矢部さんを見ろ! 小山さんを見ろ! 和田氏を見ろ! 近藤さんを見ろ! 皆、文芸部の先輩じゃないか。なあに、文壇なんて、案外わけのないところさ」と、天才的で
俺は、いつも山野が、自分の人格の強みを頼りとして、無用に他人を傷つけるような態度に出るのが不快だった。が、それにもかかわらず、あいつの才分を認めないわけにはいかなかった。山野でも桑田でも、確かに第一歩は踏み出しているのだ。しかるに俺は、あの頃はむろんのこと、今でも何もやっていない。その上、俺一人連中を離れて、文壇に出るのには非常に不利な京都に来てしまった。それには経済上の理由もあった。が、他の有力な原因は、俺は山野や桑田などの間にあって、彼らの
「ほう!『ブラン』かい! 君に分かるかい!」と、いいやがった。こんな時、俺はあいつを殴りつけてやりたいと思ったが、あいつの
「俺たちが、皆だんだん文壇的に認められていく。が、一人ぐらいはなんだか、取り残されそうだよ。皆が新進作家として、わいわい持てはやされている時に、自分一人取り残されている。ちょっと変なものだろうな。がその貧乏くじは、案外俺かも知れんて!」
彼はそういいながら、自信にみちて哄笑した。そして、俺の方を意味あり気に、ちらっと見た。俺は、かなり嫌な気持になった。同じく創作家として、出立したもののうち、その一人がいつまでも、取り残されるということは、いかにも皮肉なことで、残される当人になってみれば、まったく堪らないことに相違なかった。が、実際そうした場合は、容易にあり得ることだ。天分にいちばん自信のない俺は、そんな場合を想像することを、努めて避けようとしている。しかるに、山野は俺や俺と同様に自信の薄い杉野などを、嫌がらせるために、そんな皮肉な場合を想像して喜んでいたのだ。
唯一人、取り残される! それは考えてみても、淋しいことに相違なかった。俺は、東京にいて、山野や、桑田などと競争的になるのが、不快で堪らなくなった。彼らから間断なしに受ける、不快な圧迫から逃れるだけでも、俺にとってどれだけいいことかわからなかった。京都に来て、彼らとまったく違った境遇におれば、彼らに取り残された場合にも言い訳はいくらでもある。また、京都に来たために、文壇に出る機会が、かえって早められるかも知れぬ見込みが、朧げながらあった。それは中田博士が、京都の文科の教授であることであった。博士は、もうよほど、文壇の中心から離れている。がそれでも文壇の一部とはある種の関係がある。博士の知遇を得さえすれば、案外早く文壇に紹介されて、俺の天分をあくまで軽蔑している山野などを、あっといわせてやることも、決して不可能でない。俺が、京都へ来た理由は、そういう点にもいくらかある。
十月一日。
なんとなく落着けない。ことに夕暮れが来るとそうだ。青い
俺は、彼らに対抗するために、戯曲「夜の脅威」を書いている。が、俺の頭は高等学校時代のでたらめの生活のために、まったく消耗しきっている。この戯曲の
俺は今日偶然、吉野辰三君に会った。高等学校では、俺より一年上で、やっぱり京都の文科に来ているんだ。吉野君と話してみると、文壇に出ようと
が、天才とまで激賞された吉野君は、その後「文学世界」の投書をよしてから、もう何年になるかも知れないが、
が、この大学の文科の連中は、どうしてああ揃いも揃って救われない人間ばかりが集まっているのだろう。ことに俺のクラスのやつらはひどい。広島の高師を出てきたという男は、昨日教師が黒板に書いた仏の詩人ボードレールの名を、バウデレアとドイツ読みにして、得々としていやがった。もう一人の男は中田博士の質問に答えて、「モンナ・ヴァンナ」はメーテルリンクの小説だと答えていた。俺はやつら全体を軽蔑してやる。高等学校にいた頃には、教室も寄宿舎も、すべてが文芸至上主義で一貫されていた。芸術の名によって、すべてが許された。芸術の名によって、学課や教室を無視することができた。しかるに、ここの文科の教室の空気は、極度に散文的だ。一人として芸術の話をするやつがいない。高等学校出身の人たちは、たいてい病身のために文科を選んだとか、哲学科で一年落第したために、文科へ転じたという連中だ。高師出身の者にも、入学資格があるために、彼らは学士号を得るために、丹念にノートを作っているのに過ぎないのだ。文科的に自由な清新な空気は教室のどこにも存在しなかった。こんな連中を前にして、文学がどうの、芸術がどうのといっている中田博士は、まるきり豚に真珠を撒いているようなものだ。俺は、博士が気の毒になった。
十一月五日。
俺は今日偶然、同じクラスの佐竹という男と話をした。俺は今までクラスのやつをすっかり軽蔑していたが、あの男だけは決して俺の軽蔑に値していないことを知った。つい俺が創作の話を持ち出すと、あの男は突然こんなことをいった。
「僕も、実は昨日百五十枚ばかりの短篇を、書き上げたのだが、どうもあまり満足した出来栄えとは思われないのだ」と、いかにも落ち着いた態度でいった。百五十枚の短篇! それだけでも俺はかなり威圧された。俺が今書きかけている戯曲「夜の脅威」は三幕物で、しかもわずかに七十枚の予定だ。しかも俺はそれはかなりの長篇と思っている。しかるに、この男は百五十枚の小説を短篇だといった上、まだこんなことをいった。
「実は今、僕は六百枚ばかりの長篇と、千五百枚ばかりの長篇とを書きかけているのだ。六百枚の方は、もう二百枚ばかりも書き上げた。いずれでき上ったら、何かの形式で発表するつもりだ」と、いうことが大きい上に、いかにも落着いている。自分の力作に十分な自信を持っていて、俺のように決して焦っていない。俺はこの男に威圧されると同時に、一種の頼もしさを感じた。京都にもこうした
「僕は小説家の林田草人を知っている。あれは僕の国の先輩だ。今度文科へ入るについて、わざわざ上京してあの人と会ってきたのだ。快く会ってくれた上に、ばかに話がはずんでね。よく話の分かる人だよ。今度書き上げた百五十枚の小説も、実はあの人のところへ送っておくつもりだ。多分どこかへ、推薦してくれるから」
俺は佐竹君をかなり尊敬し始めたが、これを聞くと少しこの人が気の毒に思われた。ただ同県人で一面識しかない林田草人を頼りにして、澄ましておられるこの人の
十二月二十九日。
俺は、今日東京の山野から、不快きわまる手紙を受け取った。それは、俺に挑戦し、俺を侮辱し、俺の感情をめちゃくちゃに傷つけてやろうという悪意にみちた手紙だ。文句はこうだった。
(どうだい! ばかに黙っているね。京都にも、少しは文学らしいものがあるかい。僕たちこっちにいる連中は、もう今までのように、ただぼんやり外国文学の本などを、
おしまいまで読み終った俺は、烈しい嫉妬と
この手紙のどこにも、君も同人になってはどうかとか、君も書いてはどうかというような文句は、破片さえも入っていないのだ。すべては山野の遊戯的な悪意から出た手紙だ。同人雑誌の発行を、
山野が予期していたよりも以上に、この手紙は俺を傷つけた。京都へ来てからまだ半年にもならない間に、俺と東京に残した友達との間に、早くもある間隔が作られつつあることを悲しまずにはおられなかった。同人雑誌の出版! それはどんなに華々しいことであろう。文壇に時めいている我々の先輩たる川崎も、矢部も、辻田も、初めは雑誌「×××」の同人としてその若々しい名を、文壇に認められていったのだ。山野や桑田が認められる順番も、もう決して遠き未来ではない。山野、桑田はもちろん、俺とは天分において、あまり相違はないと思われる岡本や川瀬や杉野でさえ、これでもう的確に、文壇に打って出る第一歩を踏み出しているのだ。しかるに俺は、山野が手紙の中にあれほど軽蔑した「文学研究」を唯一の本領として、独りぼっちで、捨てられているのだ。
俺は、山野や桑田が俺を同人から除外したにしろ、俺とはかなり親交のある川瀬や杉野までがなんらの好意を示してくれなかったことを、恨まずにはおられなかった。
俺は山野の手紙をずたずたに引き裂くと共に、絶望的な勇気を振い起した。彼らが同人雑誌で打って出るのなら、俺は単独で出て見せる。そして彼らの鼻をあかして、あっといわせてやろう。がそう決心しているうちにも、深い淋しさがひしひしと俺に迫ってきた。俺に独力で出る力があるか、俺は自分の天分を、それほどまで信ずることができるだろうか。俺が、山野や桑田などに反感を懐いて、彼らを遠ざかれば遠ざかるほど、文壇に出る機会から遠ざかっているのではあるまいか。今度でも杉野にでも泣きついて、同人に加えてもらう方が、俺にとって得策ではあるまいか。が、俺をばかにしきっている山野は、「富井などが、同人になるのなら、俺は差し控えた方が、いいかも知れない」ぐらいの毒言は必ずいうに決っている。そうなれば、かえって恥をかきに出るようなものだ。俺はやっぱり、独立してやってみよう。「夜の脅威」を書き上げたら、早速中田さんに見てもらうのだ。彼らが、同人雑誌などでもがいているうちに、俺のものは一躍して相当な文学雑誌に紹介される。俺は、それを考えていると、手紙を読んだ時に受けたむしゃくしゃ[*「むしゃくしゃ」に傍点]が、少しは癒えていくような気がした。
そこへひょっくり吉野君が訪ねてきた。俺は、早速東京の連中が、同人雑誌を出すことを話した。俺の口調はまったく平静を欠いていた。が、吉野君は、いつものように「朝日」を悠然と吸いながら、「なに君! 同人雑誌などへは、いくら書いても仕方がないものだよ。やっぱり大きい雑誌に書かなければだめさ。まあ桑田君などに、大いにやらせてみるのだね。そうお安くは問屋で卸さないから。僕は、同人雑誌などで、騒がないで、いいものができれば、『文学世界』あたりへ持ち込むよ。昔の縁で、嫌とはいうまいから」
俺は、吉野君が、同人雑誌を
一月三十日。
俺は、今宵初めて中田博士を自邸に訪うた。俺は感激にみちていた。が、考えてみれば、感激した俺の方がばかだったのだ。中田博士の方からいえば、ただ一人の学生の訪問を受けたのに過ぎないのだ。
俺は、挨拶が済むとすぐ、俺の脚本を出した。
「ぜひ一つ御覧になって下さい。できはあまりよくありませんが、処女作ですから」
「なるほど」と、博士は顔の筋肉一つ動かさずにいった。そして、ちょっと二、三枚めくって見てから、「いずれ拝見しておきましょう」と、静かに付け加えた。俺が、山野らの同人雑誌に対抗するために、懸命の力を注いだ力作を、博士はなんの感激もなしに、俺の手から受け取った。俺はそれがかなり淋しかった。
「よかったら、どこかの雑誌へ」と、そんなことは、口に出す勇気さえなかった。俺は、手持無沙汰になって帰ろうとした。そして帰り際に、
「英国の近代劇の研究には、どんな参考書がいいでしょうか」ときいた。すると博士は言下に、
「マリヨ・ボルサがいいでしょう」といった。俺は、それをきくと少々落胆した。マリヨ・ボルサは、俺が高等学校時代に読んだ本だ。ほんの手引草に過ぎない本だ。
俺は、博士が詩に熱心で、戯曲には冷淡だという風評を、幾度きいたかもわからない。しかし、これほど博士が戯曲に冷淡だとは思っていなかった。俺は、「夜の脅威」が、博士から受くる待遇についてまったく心細くなってしまった。
二月二十日。
中田博士と、教室でたびたび顔を合すけれども、俺の戯曲については何もいわない。しかも博士は講義の時間にイプセンの「
佐竹に会ったが、あいつは林田草人に送った小説について林田から何もいってこないので、かなり気を悪くしているらしい。が、あいつが、自分の小説がすぐ林田の好意ある推薦を受けるとでも、思っているのは、彼の無知から出た
三月五日。
とうとう、同人雑誌「×××」が出た。さすがに俺にも一部送ってきた。俺は、それを開いた時、今までにない不快な圧迫を感じた。それは、山野から受けたそれよりも、もっと不快なしかも現実的なものであった。同人の連名を見た時に、俺はとうとうやつらに捨てておかれたと思った。俺はどれほど嫉妬に燃えただろう。俺よりも天分においては劣っていると思う岡本などまでが、俺より急に偉くなったように思われて仕方がない。
俺は巻頭に載せられた山野の小説「顔」を、恐る恐る読んだ。俺はそれが不出来で、愚作で全然彼の失敗であることを祈りながら読んだ。が、その一分の隙のない、まとまった書き出しに俺はまず気押されてしまった。ことに一句一句、蜘蛛の糸のように粘り気があって、しかも光沢のある文章が、山野一流の異色ある思想をぐんぐんと表現していくあたり、俺はあいつに対してますます強い反感を感ずると同時に、あいつの魅力ある筆致によって、ぐいぐい頭を押えられてしまった。ことに「顔」の主題は、今の文壇には一度も現れなかったような、奇抜なしかも深刻味のある哲学だった。もし、「顔」が、山野、否、俺の友人の作品でなかったら、俺はどんなに驚喜したことだろう。それが、俺の競争者しかも俺を踏みつけようとする山野の作品であるために、俺は全力を尽して、その作品から受ける感銘を排斥しようとした。が、俺は山野の作品の価値を認めぬわけにはいかなかった。が、それから連想されることは、山野が一躍して文壇に認められはしまいかということだ。俺はそれを考えると、いい気はしなかった。山野がいったん認められると、あいつは俺に対してどんな侮蔑をやるかも知れない。同人雑誌を発行したのは、山野の知らしてきたような
「やあ! 君も『×××』読んでいたのか。僕も今朝本屋で買ったよ。案外いいものはないね」と吉野君は、座に着くとすぐ、そこに落ちていた「×××」を
「山野の『顔』はどうだい」ときいた。
「軽妙だ。しかしあんなものは、誰にだって書けるじゃないか。少なくとも江戸っ子には書けるね」と江戸っ子たる吉野君は昂然としていった。俺の良心は、吉野君のいっていることに、全然反対した。が、俺の感情は吉野君のいったことに満幅の賛意を表した。
「桑田君の『闖入者』もあまりよくないね。古い! まるで、自然主義から一歩も出ていないのだ」
俺は段々心強くなった。俺は、今日ほど吉野君を尊敬したことはなかった。吉野君は、最後にこんなことを付け加えた。
「要するに高等学校の雑誌に、少し毛が生えた程度のものだよ。あれで、文壇に出ようと思っているのは、少し虫が良すぎるね。やっぱり、同人雑誌なんかに、いくら書いてもだめだよ。相当位置のある雑誌で、発表しなければだめだよ」と、吉野君は最後に自分の持論を繰り返した。俺は、吉野君の辛辣な批評をきいて、救われたような心持ちになった。
が、吉野君が帰ってしまうと、俺はまた淋しい心持ちに襲われた。見ると、吉野君に散々叩かれた雑誌「×××」は、
三月十日。
俺は、今日学校で佐竹君に会った時、
「おい君の長篇小説は、どうしたい」ときいた。すると、あの男は、暗い顔をちょっと明るくしながら、
「四百五十枚まで書いた。もう百五十枚書けばいい、この頃は創作熱がまるきり旺盛なのだ。毎晩三十枚を欠かしたことはない」と、昂然たるものがあった。
「どうしたい! 林田のところへ送っておいた小説は」
こうきくと、あの男は急に顔を暗くした。
「送り返してきたよ。雑誌には長すぎるからだって。片々たる短篇ばかりを載せたって、一体どうするというのだ。だから、日本にどっしりした長篇が出ないのだ」
が、俺は佐竹君の小説が、送り返されることを予期していたので、少しも驚かなかった。そして、百五十枚の長篇、しかも無名作家のものが、そう容易に紹介されて堪るものかという気がした。が、俺はこの人の旺然たる創作熱には、いつもながら、敬意を表する。いつか、あの男の部屋を訪問した時、実際あの男は、もう三百枚もあるという草稿を俺に見せた。その上、少年時代からずうっと書き溜めたという高さ三尺に近い原稿を、俺の前に積み上げた。
「百枚ぐらいのものなら、七つ八つありますよ。このうちで、一番長いのは五百枚の長篇で、俺の少年時代の初恋を取り扱ったもので、幼稚でとても発表する気にはなれませんよ。はははは」と笑ったっけ。俺は、あの人の多産に感心すると共に、その
三月十五日。
雑誌「×××」の評判が、素晴らしくいい。ことに山野の「顔」の評判がいい。俺は、なるべく新聞の文芸欄を見まいとした。「×××」が評判されるのが、癪だからである。が、なんとなく「×××」の評判が気になって仕方がない。俺は、白状するが、もう三日ばかり、続けて図書館に通った。そっと「×××」の評判を読むためにである。最初にI新聞が、六号活字ではあったが、雑誌「×××」の創刊を祝福した。そして山野の「顔」を特に激賞した。が、そればかりではなかった。それから三日ばかりして、T新聞の文芸欄で、批評家H氏が山野の「顔」を激賞した。俺はそれを読んで、心の奥からこみ上げてくる嫉妬をどうすることもできなかった。とうとう、あいつに踏みにじられたと思った。俺は、この二、三年、憂慮していた運命が、もう的確に、実現するように思った。山野や桑田が文壇の花形として持てはやされ、俺が無名作家として、永久に葬られること、それはもう「×××」の発行で、早くも実現の第一段に到達したのだ。
俺は、山野の天分の力に、どうして対抗しようというのか。山野の天分が認められるということが、当然であればあるほど、俺の反抗は、無意味でかつ淋しかった。俺はもう目を閉じて、あいつの華々しく打って出るのを、辛抱するよりほかに、どうとも仕方がないのだ。ただ、あいつに対抗する唯一の方法は、俺があいつと同時に、文壇へ出て行くということであった。俺は、そう考えると、ふたたび俺の創作「夜の脅威」のことを思い出した。それはあまりに頼りにならないものに相違なかった。が、文壇の水準以下のものとはどうしても思われなかった。俺は、今宵、図書館を出ると、すぐ中田博士の家へ急いだ。「夜の脅威」についての批評を聞いた上、ぜひともどこかの雑誌へ推薦を依頼するつもりであったのだ。
中田博士は、都合よく在宅した。
俺は、博士と向い合うとすぐ、
「いかがです、いつかお願いしました脚本は、読んで下さいましたでしょうか」と切り出した。
「あ!」と博士はちょっと当惑の色を示したが、すぐ「あああれでしたか。つい忙しくって、読みかけのままですが、いずれゆっくり読んだ上で、まとまった批評をしましょう」と、いつものように、悠然と答えたが、俺は、博士がまだ一枚も読んでくれていないことを直覚した。俺が、これほど焦躁のうちに努力して書き上げた作品を、一カ月半もの間、一読もしないで、置きっ放しにしておいた博士を、俺は少し
「フランスの近代劇の中にも、なかなかいいものがありますよ。近代劇といえば、北欧の専売にように思っているから、困りますよ。なんといっても、芝居はフランスが元祖で、イプセンなども、やはり作劇術の点においては、明らかにフランス劇の影響を受けていますよ」
俺はフランス劇の話などきくような心持ちとはまるきり懸け離れていた。中田博士の手の中にある俺の「夜の脅威」は、一体いつが来たら、日の目を見るだろうと、そればかりを心配していた。俺は、いっそのこと、貰って帰ろうかと思った。が、実際中田博士の手を経ずして、文壇に一指を届かすことさえ、俺には難しいことであった。
俺は、フランス劇の話を一時間ばかりしようことなくきいた後、博士の家を辞した。俺は、もうすっかり絶望していた。中田博士を通じて、俺が文壇に望みを繋いだのは、まったく俺の第二の誤算に近かった。俺はもう手を
四月五日。
「×××」は、第二号を発行した。山野は「
四月十六日。
山野の「邂逅」がまた評判がいい。ことに文壇の老大家たるK氏が、あいつの「邂逅」を激賞したという噂を、新聞で読んだ時、俺はもう「万事休す」だと思った。もう、あいつの声価は決った。あいつが不意に死なない限り、文壇に認められるのは既定の事実だ。俺は、もう仕方がないと諦め始めている。実際、俺の嫉妬を除いて考えれば、あいつが認められるのは至当なことかも知れない。が、至当であるかあるまいかは、問題でない。ただあいつが認められることが不快なんだ。山野が認められたとすると、桑田の順も決して遠くはない。岡本、杉野、川瀬なども皆相当のところへ行くに違いない。「ただ一人取り残される者」それはどう考えても、俺に相違なさそうだ。
俺は、今日短い原稿を今度創刊になる雑誌「群衆」に送った。わずか七枚ばかりの小品だ。俺はこの「群衆」を主幹しているT氏に、たった一度会ったことがあるのだ。俺の小品が採用されたら、山野らに対して少しの反抗はなし得たことになるのだ。
五月三日。
俺は今朝、新聞の広告を見た時、今月の雑誌「△△△△」の小説欄に、山野の小説「廃人」が載っているのを見た時、俺はあっと驚いたまま、しばらくは茫然とした。俺は鉄槌で殴られたような打撃を感じながら、まだ自分の視覚を疑った。どんなに評判がよくても、文壇の中央へ乗り出すのには間があるだろうと高を括っていたのは、俺の誤りだった。あいつは、俺のそうした予想を見事に裏切ってしまった。もう、あいつが流行作家で、俺が無名作家であることは、厳として動かすべからざる事実だ。俺は
俺は見たくもないものをおずおずと見るような心持で、あいつの作品を読んだ。読んでみると、あいつの作品は、俺の嫉妬や競争心を押し退けておいて、俺にぐいぐいと迫ってきやがる。俺は、残念で堪らない、あいつに対する反感が、あいつの作品の力に押し退けられて、わけもなく感心してしまうのだ。あいつに反感を持たない一般の批評家が、感心するのももっともな話だ。それを思うと、俺は情なくなる。俺は「△△△△」を手にしながら、あいつに絶対的に打ち負かされたことを明らかに感得した。
俺は「△△△△」と共に、自分が寄稿した「群衆」を買ってきた。俺の小品も編集者の好意で、二段組ではあったが掲載されていた。が、「△△△△」と「群衆」! それは雑誌としての勢力において、無限大の隔たりがあった。俺は山野が偶然、「群衆」を手に取って、俺の作品に気がついた時、「ふふん」と嘲弄の微笑をもらす、その顔付までが歴然と感ぜられた。
もう「勝負はあった」という気がする。俺の負けは俺自身にさえ明らかだ。なあに! 初めから勝負になっていなかったのだ。「△△△△」のあいつの小説の第一ページをじっと見つめていると、無念と絶望の涙が頬を伝って流れた。俺が、「△△△△」を見ていると、偶然佐竹君がやって来た。そしてまたいつものように創作の話を始めた。
「六百枚の方は、一昨日とうとう書き上げてしまった。僕はこの二、三日そのために愉快で堪らないのだ。少し静養したら、いよいよ千五百枚のものにかかるんだ。こっちが完成したらもうしめたものさ」と相変らず元気なことをいっていたが、ふと「△△△△」が佐竹君の目に入ると、
「山野君の『廃人』が載っていたね。ありゃそう恐るるに足るものじゃないね。ただ思いつきばかりのものだ。芸術としてはむしろ邪道だね」と、いった。が、俺はもうこの男の罵倒から、なんらの慰安をも感じなかった。思いつきばかりでもいい、芸術の邪道でもいい、文壇に認められる方が、どれほどいいことかわからなかった。六百枚の長篇を終って、千五百枚の大作にかかっている佐竹君よりも、三十枚ばかりの器用な短篇を書いて、一躍して認められた山野の方が、俺にはどれほど
俺は、それから意外なことに気がついた。俺は何気なく佐竹君に「群衆」を見せて、俺のわずか七枚の小品を指し示すと、それを見た佐竹君の瞳は、異様な輝きを帯びた。
「なんだ! こんな短篇か!」と、彼は吐き出すようにいった。
「この雑誌は一体、誰が経営しているのだ! 一人としてろくなやつが書いていないじゃないか! 草田花子! あ! こいつか! こりゃ君! この間、山本という男と、作品の褒め合いをしたかと思うと、
俺は、俺のわずか七枚の小品が、これほど佐竹君を激昂させたことに驚いた。この男は雑誌「群衆」をけなすことによって、俺の作品を無視しようとかかったのだ。が、それはまったく反対の事実を語っている。俺の小品が七枚でも活字になったことは、佐竹君にとって決して愉快なことではなかったのだ。俺が山野の作品によって感じているような反感と焦躁とを、佐竹君もやっぱり感じているのだ。六百枚の長篇を書き上げて、堂々と小説の大道を歩んでいるはずの佐竹君が、活字になった俺のわずか七枚の作品から圧迫を受けるとは、考えてみれば不思議なことだった。
が、俺は俺の小品を無視しようとした佐竹君を、決して憎めなかった。俺は山野より天分が劣っていることを自覚しながら、なお山野の出世を呪っているのだ。まして、自分の作品に十分の自信を持っている佐竹君が、自分の作品が活字になる前に、俺の片々たる作品が活字になったのを不快に思うのは、むしろ当然のことかも知れない。
が、俺は考えた。創作ということが、ある人々の考えているように絶対のものなら、なぜに人はただ創作するだけで満足することができないのだろう。佐竹君のごときは、六百枚の長篇を書き上げたことそのものによって、十分芸術欲を満足していなければならないはずだ。それが、どうして発表することについて、ああした苦悶があるのだろう。ことに俺などは創作というよりも、先に発表ということについてもだえている。本当の芸術欲よりも文壇的名声といったようなものにとらわれている。が、佐竹君のように長篇を書き上げている人でさえ、活字になった俺の七枚の小品を見ると、取りみだすのだから、俺が山野の作品が出ることに
五月十五日。
俺は、今日久し振りで山野の手紙を受け取った。どうせ俺を嘲笑し
「君も知っている通り、同人雑誌『×××』は創刊以来、割合い世間の注目をひいている。もう根気よくさえ続けていけば、皆ある程度まで出られるという気がする。従って、皆脂が乗りかかっている。それについては君だが、僕たちは、君が京都で独りぼっちでいることに対し大いに同情をしている。『×××』発刊の時にも、君をぜひ同人に入れなければならないのだが、君が東京におらぬため、ついいろいろ差支えがあって、やむなく君を入れることができなかった。僕たちは、それを非常に遺憾に思っている。が、この頃は僕もほかの雑誌から原稿を頼まれるし、桑田も近々ほかの雑誌に書くだろうから、『×××』は自然誌面に余裕ができるので、君の作品も紹介し得る機会がたびたび来るだろうと思う。だから、君もいいものがあったら、遠慮しないでどしどし送ってくれ給え。むろんあまりひどいものは困るが、
この手紙を読んだ時、俺は今まで山野に対して懐いていた嫉妬や反感を恥かしいとさえ思った。俺が山野の世に現れていくのを呪っている間に、山野は俺のために好意ある配慮をなすことを忘れなかったのだ。彼らに対して意地を立てているよりは、彼らに接近して「×××」に作品を発表した方が、どれほどよいことだかわからなかった。山野の手紙を見た時、今まで俺には遮られていた光線が、初めて温く俺の身体を包むような気がした。俺はすぐ返事を書いた。あまり興奮してあいつに笑われはしまいかと思われるほど、興奮にみち感激にみちた手紙を書いた。そしてすぐ後から作品を送ることをいい添えた。俺の手紙は、明らかに卑しい哀願の調子を交えていた。俺は自分の態度のうちに征服された弱者が、強者におもねっているような、さもしい態度を感づいた。今まで、極端に
俺は手紙を出した後で、すぐ中田博士を訪問した。俺の脚本の「夜の脅威」を貰いに行ったのだ。博士のところへ持って行ってから、もう三カ月以上になる。博士はもうとっくに、俺の脚本のことなどは忘れてしまったと見え、たまたま俺に言葉を掛けることなどがあっても、脚本のことはおくびにも出さなかった。が、今度山野のところへ作品を送るとしても、いちばんまとまっているものは「夜の脅威」であった。考えてみれば、俺は発表のことばかりに気を取られて、本質的の創作にはまったく
中田博士は、いつものように在宅した。俺が来意を述べると、
「そうそう、君の脚本を預かっていたっけ」と、いいながら立って、書棚の一隅を探ってくれた。そして、おそらく俺が持ってきた時のままらしい俺の脚本を、取り出してくれた。俺は、それでも「夜の脅威」という表題を見ると、旧知にあったように懐しく思った。俺がこの三、四カ月間、焦慮に焦慮を重ねている間にも、俺の作品は中田博士の書棚の一隅で、悠々たる閑日月を送っていたのだった。「いよいよ発表することになったのですか。それは結構です。活字になった上で、まとまった批評をしましょう」とお世辞をいってくれた。俺は中田博士の、極度に無関心な態度をむしろ尊敬した。帰ってから一度読み直すと、すぐ書留にして山野に送った。
五月二十五日。
山野から手紙が来た。俺はそれをなんらの感情を交えずに、この日記に再録しておこうと思う。この手紙を見た時の俺の感情は、ここには、どうしても表現することができないから。
「僕たちは皆、君の『夜の脅威』を読んだ。そしていい合わしたように、多大な失望を感じた。僕は遠慮なくいいたい。世間並のお世辞をいったって始まらないから。僕は第一、あの作の
「どうだろう! 富井のやつ、京都で何をやっているのだろう。相変らず例の甘い脚本か何かを、書いているに違いない。どうだい!『×××』に載せてやるとかなんとかいって、あいつの作品を取り寄せて、皆で試験をしてやろうじゃないか」と、いったに違いない。人の好い杉野や岡本などが、心配して止めると、あいつはなお面白がって、実行に取りかかったのだ。あいつに似合わない親切な手紙は、こうした動機からでなければ、書かれるわけのものでない。山野に対する憎悪、永久に妥協の余地のない憎悪が前よりも十倍激しい勢いで、俺の心のうちにこみ上げてくるのを感じた。が、山野のトリックに掛って、うまうまと「夜の脅威」を、得意になって差し出した俺の弱さ加減を考えると、俺は自分の身をいとおしむ涙が双頬を
×月×日
もう「×××」がでてから、二カ年半になる。「×××」はもうとっくに廃刊してしまった。が、山野や桑田や岡本や杉野は作家として立派に登録を済まして「×××」同人として文壇を闊歩している。ことに、山野は一作ごとに文壇を騒がして、今では押しも押されぬ位置を占めてしまった。
俺と彼らとの距離は、もう絶対的に広がってしまった。かえって、こうなると、もう競争心も、嫉妬も起らない。俺は彼らが流行作家として、持てはやされる事実を、平静に眺めていることができる。一人の天才が生れるために、百の凡才が苦しむことが必要だ。山野や桑田などが、持てはやされる陰には、俺一人ぐらいの犠牲はむしろ当然かも知れない。が、永久に無名作家として終る者は、俺一人ではあるまい。千五百枚の長篇が完成したかどうかは、きいてみないからわからないが、佐竹君は相変らず暗い顔をしている。そうして、文壇に新進作家が出るごとに、猛烈にけなしつけている。同人雑誌をけなしつけた吉野君も、相変らず健在である。が、あの人の創作が、相当な文芸雑誌に載ったことはまだ一度もない。
文壇においても、運がある点まで、重要な働きをしているのだ。そうでも思って、俺は諦めているのだ。が、俺はもう文壇について、考えることはよそう。作家としての生活以外に意義のある生活がないように思っていたのは、俺の迷妄だ。
俺はこの間、ヴェルレーヌの伝記を読んでいると、あのデカダンの詩人が晩年に「平凡人としての平和な生活」を痛切に望んだという事実を知って、俺はかなり心を打たれた。俺のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。学校を出れば、田舎の教師でもして、平和な生活に入るのだ。
流行作家! 新進作家! 俺は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃では、少し恥かしい。明治、大正の文壇で
(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいる