風雲児、坂本龍馬

菊池寛




 現存する坂本龍馬の写真を見ると、蓬頭垢衣、如何にも風采あがらぬ浪士と云つた格好である。浜本浩に少し苦味を加へたやうな顔だ。
 その近親の談話によると、龍馬が常用してゐた黒羽二重の紋服は、いつも膝の下一寸ばかりのところが、ピカ/\油染みて光つてゐたと云ふ。
 鼻をこすつて、何かと云ふと得意がる癖があつたと云ふ。一日五度も六度もこれをやつた。
 酒は大酒とは云へず寧ろ喰意地の方がきたなかつた。クチヤ/\と口に唾をため、よく乾昆布などを噛んでゐた。
 誰が見ても粗野だつたその※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうの中に、若し天才的なものを求めるなら、それはあのまなこだらう。少し脹れぼつたいから、恐らく近眼だつたらう。
 併し、遠く望み、深く思ふが如き一抹憂愁の気は常人のそれではない。
 世に龍馬を語る者は、必ず彼を目して、土佐勤皇党の彗星と云ふ。神出鬼没、凡そ端睨すべからざる彼の行動は、大衆文学のヒーローとしては申し分がない。誰でも、その姿に喝采し、歓呼の声を挙げるに違ひない。
 龍馬は天保六年十一月に、高知本町ほんまち一丁目に生れた。それは郷士の家であつた。彼の先祖は長曽我部氏に仕へたのである。
 郷士は、どの地方でも、武士の下つ端であつたが、土佐藩では特にこの差別待遇が甚しかつた。
 即ち藩主山内氏は遠州掛川ゑんしうかけがはから転封されたので、土着の長曽我部系統の武士が、圧迫されたのは当然である。
 維新の政変とは、ある意味で云へば、上級武士に対する下級武士の挑戦である。
 下級武士が現状打破を叫ぶ余り、その論調が討幕論に走り、上級武士は現状維持の建前から、佐幕論となり、公武合体論を唱へたのは、各藩を通じての大体の情勢であつた。
 土佐でも、その例に洩れず、勤皇論は、その軽輩武士の間に起つた。
 その代表者が、武市たけち半平太(瑞山ずゐさん)と坂本龍馬である。
 武市は資性沈毅、たゞそのあごが突き出てゐたので、綽名あだなを「腮」と云はれ。
 龍馬は江戸から国へ帰つて来ると、先づ、
「腮は相変らず窮屈なことを言ふてゐるか」
 と云へば、半平太も負けずに、
「痣が帰国した相だが、又、必ず大法螺を吹いてゐることだらう」
 と傍の者に言つた。
 悪口は云ひ合つてゐたが、お互ひに頼母たのもしく思つてゐたのである。
 痣とは龍馬の背中にある痣で、矢張り綽名になつてゐた。龍馬はこの痣を小供の様に耻ぢてゐて、いつもメレヤスのシヤツを着て、嘗て人前で肌を見せたことがなかつた。
 とにかく、この応酬は二人の性格をよく現してゐた。同時に窮屈と大法螺は、土佐人の特徴である。前者の系統を引く者に、板垣退助伯があり、大法螺の無軌道型に、後藤象二郎伯がある。
 龍馬が専ら修めたのは、剣術と航海術だつたが、文学の方でも相当のものだつた。文字も金釘流だが、一種の風格を備へてゐた。
 カンのよかつたことは、一寸類がない。
 或る時、蘭学者某の和蘭政体論を聴講中、龍馬は突然起ち上つて、
「先生、どうも原義を誤つてゐる様です。今一度お調べを願ひます」
 そんなことはない、と突つぱねると、
「それでは原義が条理を失つてゐるわけですな」
 と云ふ。
 念の為め、調べてみると、成程、原義と自分の講義は違つてゐる。先生も顔を赤くして、訂正したといふ逸話がある。
「江戸から帰つて来て、痣の奴、近頃読書してゐる相だ」
 と、友人達が押しかけて行くと、龍馬は「資治通鑑」の白文を棒読みにしてゐる。訓点も何もない。それでゐて、内容はチヤンと理解してゐたのである。
 文久二年八月、龍馬は江戸に上り、剣客千葉重太郎を伴つて、勝海舟を氷川の邸に訪れた。
 世評の如く、勝が開国論者で、売国奴なら刺し殺す積りだつたのである。
 案内されるまゝに海舟の室に通り、次の間で帯刀を解かうとすると、
「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。その儘でお這入りなされ」
 と云ふ。
 一礼して座に着くと、勝は衣儀を正して、
「今日は拙者を刺しに参られたな。隠しても駄目だ。足下等の面には段気さつきが見える」
 と一喝しておいて、「死生は命のみ、に之を避けんや。唯先づ余をして満腔の熱血を吐露せしめよ。然る後もし理由あらば貴意に従はん」
 と云つて、滔々として、欧米海軍の盛大と、その持論である海軍振興策を述べた。
 勝は万延元年に、幕府の遣米使の一人として、親しく海外の新文明に接してゐるのである。
 その説く所は該博で肯綮に中らざるなしで、田舎者の龍馬など、ただ呆然として聞いてゐたのだらう。
 ものにこだはらない龍馬のことだ。すぐ、海舟の門人になることを申し込んだ。
 龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げてゐる。
「扨ても/\人間の一生は合点の行かぬは元よりのこと、運の悪い者は風呂より出んとして睾丸をつめ割りて死ぬるものあり、夫と比べて私などは運が強く、なにほど死ぬる場所へ出ても死なず。自分で死なうと思ふても又生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物、勝麟太郎殿といふ人に弟子となり、日々兼て思ひ付く所を精出し居り申候」
 龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。
 海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めてゐた。
 嘗て龍馬が西郷隆盛を評して、
「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」
 と放語したのに三嘆し、その日記に、
「評する人も評する人、評さるゝ人も評せらるゝ人」と特記した。
 而して、坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切らぬところに、その長所があり、短所があつたわけである。





底本:「日本随筆紀行第二一巻 四国 のどかなり段々畑の石地蔵」作品社
   1989(平成元)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「大衆維新史読本」モダン日本社
   1939(昭和14)年10月
入力:浦山敦子
校正:友理
2024年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード