袈裟の良人

菊池寛




人物
渡邊左衛門尉渡。
その妻袈裟。
遠藤武者盛遠。

時代
平家物語の時代。

情景
朧月夜の春の宵。月は、まだまどかではないが、花は既に爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)と咲きみだれてゐる。東山を、月光の裡にのぞむ五條鴨の河原に近き渡邊渡の邸の寢殿。花を見るためか、月を見るためか、簾は掲げられてゐる。赤き短檠たんけいの光に、主人の渡と妻の袈裟とがしめやかに向ひ合つて居る。袈裟は、年十六。輝くが如き美貌。

第一齣
  ――渡と袈裟――

渡。今宵は、そなたの心づくしの肴で、酒も一入ひとしほ身にしみるわ。もう早蕨さわらびが、萠え始めたと見えるな。
袈裟。はい。今日わらはどもが、東山で折つて參つたのでござります。
渡。やがて、春の盛りぢや。去年は、思はざる雨つゞきで、嵯峨も交野かたのの櫻も見ずに過したが、今年は屹度折を見て、そなたを伴うて得させよう。
袈裟。はい。
渡。公達や姫が出來ると、もう心のまゝの遊山も出來ぬものぢや。今の裡、そなたもわれも若い裡、今日も明日もと、櫻かざして暮して置かうよ。はああ。
袈裟。(寂しく微笑す)…………。
渡。(袈裟が沈んでゐるのに、ふと氣が付く)……
渡。そなたは、何ぞ氣にかゝることがあるのではないか。
袈裟。いゝえ。ござりませぬ。
渡。なければよいが、何となく沈んで見えるなう。身に障りでもあるのか。
袈裟。いゝえ。
渡。そなたは、今日午後、衣川の母御前を訪ねたやうぢやが、母御前に、何ぞ病氣の沙汰でもあつたのか。
袈裟。いゝえ。いつものやうに、健かでござりました。
渡。それでは、何ぞ母御前から、心にかゝることを云はれたのではないか。
袈裟。(默つてゐる)…………。
渡。屹度、さうであらう。でなければ、いつもは雲雀のやうに、快活なそなたが、このやうに沈む筈がない。伯母御前からの話の仔細は、何うぢや。話してみい。
袈裟。(默つてゐる)…………。
渡。何も隱すには及ぶまい。身内の少いこの渡には、衣川殿はたつた一人の母御ぢや。常日頃疎略には思うてゐぬ。母御前から話の仔細と云ふのは、何ぢや。話して見い、袈裟!
袈裟。(しばらく默つてゐた後)別の仔細はござりませぬ。ただ、三月ばかり打ち絶えてゐましたので、ひたすらに顏が見たくて招んだと、かやうに申して居りました。
渡。(かすかに笑を洩して)はあ、それでは、渡の取越苦勞ぢやつたな。そなたの顏が、少しでも曇ると、俺の心も直ぐ曇るのぢや。十三のいたいけなそなたと契り合うてから、この年月、そなたが、妻のやうになつかしければ、妹のやうに子のやうに、可愛く覺ゆるぞ。かまへて、氣を使うて、面やつれすな。一人で氣を使うて、思ひわづらふな。なにごとにまれ! 俺に計うてくれ!
袈裟。お言葉のほど、うれしう存じます(袈裟、涙をすゝる)
渡。何ぢや/\。其方そなたは、何が悲しうて涙をうかめてゐるのぢや。云へ! 仔細を。はて! さて氣がかりな。
袈裟。何の仔細がござりませう。お言葉が、うれしいので、つひ涙ぐんだのでござります。
渡。それならば、もつと華やいで、この美しい夜を過さうではないか! そなたも若い、俺も若い! 春は幾度も※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來るのぢや。たゞのびやかに晴やかに、暮さうよ。心にかゝる雲とては、さら/\ない筈ではないか。さあ! 袈裟! 一酣注いでくれ。
袈裟。はい。
渡。一曲所望ぢや。聽かせては呉れぬか。
袈裟。はい。
(袈裟立ち上り、床の間より琴を取り降して彈く。曲は、長恨歌なり。琴の音は、彈ずる者の心を傳へるやうに、切々とひゞく。渡はぢつと首をかしげて聽いてゐる。)[#「聽いてゐる。)」は底本では「聽いてゐる。」]
袈裟唱ふ。今は昔もろこしに、いろをおもんじたまひけるみかどおはしまししとき、やうかの娘かしこくも、君にめされてあけくれのおんいつくしみあさからず、常にかたからにはんべりぬ。宮のうちのたをやめ三千のてうあいも、わが身ひとつの春の花、ちりていろかもなきたまの。
渡。なぜに、そのやうな悲しい曲を彈くのぢや。大唐の天子から、引き離され、荒武者どもの手にかゝつて果敢なくなる、悲しい楊貴妃の古事が、なぜにそなたの氣に叶ふのぢや。それは、こん秋の夜にきかう。今朧夜の花の下では、たのしいうかれ心地の曲を彈くがよいに!
袈裟。(默つてゐる)…………。
渡。はあゝ、疲れたのか疲れたのならば、休息せい。氣晴しに、ちと、酒などたしなんで見ては何うぢや。
袈裟。それでは、お一つ下さりませ。
渡。なに! 酒をくれと云ふか。これは、面白い! そなたが酒を過すのは初てぢや。さあ、わしが注いでやらう。なみ/\と飮んでみい。
袈裟。(耻しげに杯を、口に運ぶ)…………。
渡。おゝ、そなたのその初々しい手振で、新婚の夜をはしなくも思ひ起したよ。あの時も、そなたはそのやうに、耻しさうな手付で、杯を取つたわ。あの時は、今よりはもつと小さかつた。掌上に舞ふ美人とはそなたのことかと思ふ程ぢやつた。あの時から、四年經つ! が樂しい月日は、ホンに夢のやうに過ぐるものぢや。まだ一月か二月のやうにしか思はれぬ。そなたと十年も廿年も百年も千年も、かうして暮しても飽きるときは、あらじと思はれる!
袈裟。(默つてゐる、そしてかすかに/\すゝり泣いてゐる)…………。
渡。おゝ何ぢや、何をすゝりないてゐるのぢや。男の中の果報者と欣んでゐる渡の女房たるそなたが、何が悲しうて、泣くのぢや。
袈裟。お情が身に浸みてうれしいのでござります。
渡。いやうれしいのは俺ぞ。洛中一の美しい女房と呼ばれるそなたを、妻に持つ俺はうれしいのぢや。あはゝ、月は朧にかすんでゐるが、俺の心は欣びで、晴れ渡つてゐる。たゞ、御身がそのやうに、沈んでゐるのが、ちと氣懸りな丈ぢや。仔細はない! そなたの心のこだはりを吐いて見てはどうぢや。
袈裟。(默つてさしうつむいてゐる)…………。
渡。それ御覽! 何かあるのに極つたではないか。さあ云うて見やれ云うて見やれ!
袈裟。それでは申し上げませうか。
渡。(華やかに笑ふ)はあゝゝ。それ御覽! 俺の云ふのが當つたではないか。とてもの事に、話の仔細を當てゝ見ようか。
袈裟。(少し駭きながらも)はい! 當てゝ御覽じませ。
渡。はて、衣川殿からの餘儀ない無心ではないか。黄金の無心か、それとも小袖の無心か。
袈裟。(やゝ悲しげに)いゝえ。さうではござりませぬ。
渡。はて、それでは熊野か高野か、遠い旅路に伴をせいと云はれて、俺がゆるすまいと思うて、ふさいでゐるのではないか。
袈裟。(いよ/\悲しげに[#「いよ/\悲しげに」は底本では「いよ悲/\しげに」])いゝえ。さうでもござりませぬ。
渡。はて、それでは思案に盡きたぞ。云うてくれ。まさか、母御前が、俺からそなたを取り返して、仇し男にやらうと云ふのではあるまいな。
袈裟。(悲しげに首を振る)…………
渡。云うて見てくれ。袈裟!
袈裟。(悲しげに暫らく默してゐた後)まことは、今日母の家で、陰陽師おんめうしに逢ひました。
渡。陰陽師にとな。
袈裟。はい!
渡。(やゝ氣づかはしげに)それが、如何いたしたのぢや。
袈裟。陰陽師が、妾の顏を、ぢいと見てゐましたが、やがて申しますのには、おん身には、危難が迫つてゐると、斯樣に申すのでございます。
渡。はて、それは名もない似非陰陽師えせおんめうしであらう。あられもない事云うて、人の心をまどはさうとするのであらう。かまへて心に留めらるゝな。
袈裟。似非陰陽師とも申せませぬ。母が、かね/″\[#「かね/″\」は底本では「かね/\」]歸依しまする安倍の清季どのでござりまする。
渡。はて、それは氣にかゝる事ぢや。して、その危難を逃れるには、加持祈祷をせよと云ふのか、それとも、物忌して御經をでも讀めと云ふのか。
袈裟。清季どのの仰せらるゝには、夫婦の臥床が惡いと申すのでござります。
渡。はて、それはたあいもない。童騙しのやうな事を云はるるな。惡いとは、どうわるいのぢや。
袈裟。妾に、三七日の間、家の南に當つて寢よとかう申すのでござります。
渡。はて、それはたやすい事ぢや。家の南に當ると云へば、この俺の室ぢやなう。
袈裟。はい。
渡。はあゝゝ。それならば、今日からでも寢るとよい。何よりも、たやすい戒行ぢや。あはゝゝゝそなたの心がゝりと云ふのは、これほどの事であつたのか。おゝ可愛い女ぢや。そなたは、いつもそのやうな、たあいもない事で心を苦しめてゐるなう。
袈裟。(寂しく微笑す)…………。
渡。おゝそなたは、やつと笑顏を見せたな。もつと華やいでくれ。そなたの心がかりも、今は晴れたであらうほどに、もう、一杯過して見い。
袈裟。はい。いたゞきます。
渡。臥床を變へる丈で防ぎ得る危難なら、清水詣の途中に、石につまづくほどの災難であらうなう。でも、そなたの身には、それほどの災難もあらせたうはない! 眼には、塵一つは入るな。頬には羽蟲一つ觸れるな。そのやうにまで、思うてゐるぞ!
(渡、情愛に燃ゆる眼で、ぢつと袈裟を見てゐる)
袈裟。(思はずわーつと泣き伏す)…………。
渡。(いざり寄つて掻き抱く)袈裟! まだ何が悲しいのぢや。
袈裟。いゝえ何も悲しいのではござりませぬ。たゞお情が身にしみて嬉しいのでござります。
渡。そなたは、今宵氣が疲れてゐると見え、取りわけて涙脆い! あまり、心を使はずに、もう下つて休むといゝ。(ふと氣が付いて)おゝ、これは違つた。安倍清季の考文かんもんに依つて、今宵からそなたと俺とは、臥床を換へるのであつたな。下らなければならぬのは、俺だつた。(渡、快活に立ち上らうとする)
袈裟。はて、お待ち遊ばせ。今しばらくのお名殘りを。
渡。一家の裡に、別れ伏すにさへ名殘りを惜しみたいと云ふのか、はて可愛い女ぢやのう。
(渡、後より立ち上つた袈裟を、後より手を差し伸べて、かき抱くやうにしながら、簀の子の上に出て來る)
渡。雁が鳴き渡つてゐるなう。
袈裟。これから、いよ/\花が盛らうとしますのに、花に背いて雁は何處に行かうとするのでござりませう。
渡。はて、それは俺には分らぬ、雁の心に訊いて見る外はない。
袈裟。雁も自分の[#「自分の」は底本では「自介の」]思ひ通りに飛ぶのでござりませうか。
渡。知れたことぢや、しやうがあるものには、銘々の心がある! (空を仰ぐ)しきりに鳴き渡るなう。「朧夜に影こそ見えね鳴く雁の……」無風流の俺には、下の句がつゞかぬ。うむ、もう寢よう。春とは云へ、夜が更けると、袖袂が冷えて來る。それでは、袈裟! わらはを呼んで、臥床を取らせるがよい。
袈裟。今しばらく、お待ち遊ばしませ。
渡。はて、今宵に限つて、何故そのやうに止め立てするのぢや。明日の日がないと云ふではなし。そなたと俺の間には、いつまでもいつまでも樂しい日がつゞくのぢや。今日ばかり、名殘りを惜しんで何にするのぢや。明日、天氣さへよければ御室あたりの花のたよりでも、訊かせ見よう。おやすみ! 袈裟。
(袈裟、今は止める術もないやうに、簀の子の上に悄然と立つてゐる。渡。廊下を退場する。渡の姿が見えなくなると同時に、袈裟わつと泣き伏してしまふ。)

第二齣
  ――袈裟――

第一齣から少し時間が經つてゐる。袈裟、鏡に向つて濡れた黒髮をしきりに櫛つてゐる。傍に臥床ふしどが取つてある。
袈裟。妾をあんなに、愛して下さる渡どのを、あざむいて臥床を換へた丈でも、空恐しい氣がする。でも、妾の悲しい志を知つて下すつたら、きつと妾の罪を許して下さるに違ない。妾はかうするより外に、手段がないのだもの。夫に、事情を話す。妾を、眸のやうに愛してゐて下さる夫は、火のやうに怒られるのに違ない。そして、あの恐しい盛遠と夫とは、戰はれるに違ない。おやさしい渡どのが、何うして、あの鬼のやうに恐しい盛遠に、刄向ふことが出來やう。夫を殺した盛遠は、母御前も、安穩にして置く筈はない。母御前を殺した後に、きつと妾を……。妾は始から呪はれてゐたのぢや。渡邊橋の橋供養で、あの横道者に見染められたときから、妾の運は定まつてゐたのぢや。……。
(しばし沈默した後)
袈裟。「袈裟を得させよ。否とあらば、おん身を刺して、俺も死なうよ」と、盛遠は、毎日のやうに、母御前を責めさいなんでゐると云ふ。弱い母御前は、狂ふやうになつて居られる。でも、妾が何うして操を二つにすることが出來よう。渡どのゝ眼を忍んで、どうして怖しい褄重ねが出來よう。今日、あの非道者は、妾の胸にも白刄を差し付けて、われに靡け、否と云はゞ御身はもとより、母御前も渡どのも一つ刄に、刺し貫いて呉るゝぞと云つた。あの非道者は、言葉の通りに行ふ者ぢやと、皆に怖れられてゐる。妾が、否と云ふならば、どんな怖しいことが[#「怖しいことが」は底本では「怖しかことが」]起るかも知れない…………。
袈裟。(髮を櫛つた後、男風に結んでゐる)妾は、その時に死んで、操を守らうと心を決めたのぢや。今宵、忍んで渡どのを殺してくれ、渡どのさへ世にないならば、快くおん身に靡かうと、妾は怖しい言葉を、口に上せたのぢや…………。
袈裟。それにしても、おなつかしいは渡どのぢや。妾のそら言を、まことのやうに聽きなされて、何事もなく臥床を換へて、休すんで下された。何物に代へても、妾を愛して下さるお心が、日の光のやうに、身にしみじみと感ぜられる。あれほど、おやさしい渡どのに、分れまゐらせることを考へると、はらわた斷々きれ/″\になるやうに悲しい。でも、夫の身に代つて、死ぬることを考へると、それは悲しみの裡の欣びぢや。最愛の夫の命に換る。女の死に方の中で、こんな欣ばしい死に方が、またとあるかしら………。
袈裟。おゝ、月に雲がかゝつたと見え、庭の表が急に暗うなつた。九つと云つたからもう、ほどなく忍んで來るだらう。夫のために、身を捨てるのだと思ふと、心が水のやうに澄んで來る。澄んだ心の裡に、ほの/″\とした明りが射して來るやうな氣さへする。南無阿彌陀佛! 南無阿彌陀佛!
(袈裟、髮を結ひ了り、しづかに立つて掲げられた簾を降す。)
袈裟。南無阿彌陀佛! 南無阿彌陀佛!
(袈裟。短檠を消す。簾の裡、急に暗くなる。庭上も、月に雲がかゝつたと見え、段々暗くなり、やがて薄明が凡てを掩うてしまふ)

第三齣
  ――盛遠――

年十七なれども、六尺近き壯士、直垂に腹卷を付けてゐる。闇にも、それとしるき拔身の太刀を右の手に携げてゐる。ぬき足して、寢殿に迫つて來る。徐々に、簾をかゝげて、内へは入る。暫くの間、恐ろしき沈默。雁がしきりに、中空に鳴く。
「えい!」と云ふ、低いしかしながら、鋭い叫び聲。かそけき物音。
盛遠、やゝ荒々しき足音で出て來る。左の手に、袈裟が着てゐた小袖の袖で、包んだ袈裟の首級を持つてゐる。
月が再び、中空に冴える。盛遠、包まれた首級を見ながら、ニツと會心の微笑を洩す。やがて、右の手で布をほどく、それを確めるやうに、月の光にかざす。低く鋭き絶叫!
盛遠。えゝつ!
(よろ/\と、寢殿に倒れかゝつて、簀の子の上に尻餅をつく。)
盛遠。やゝこれは、袈裟!
(彼は、渡を探すやうに、再び寢殿の簾をかゝげて内を見る。内は空し。)
盛遠。うゝむ。さては、袈裟御前に計られたか。渡を打たすと、われを詐り、眞は夫の身代りに、身を捨てたな。
(烈しい苦悶の表情)
盛遠。口惜しや盛遠が、一期の不覺。
(庭上に身を投げて煩える)
盛遠。戀慕の闇に、迷い不覺にも、可愛いと思ふ女子を、打つて捨つるとは、われながらあさましや。云はうやうなき狼狽者うろたへものぢや。
(盛遠、身もだえして口惜しがる。)
盛遠。(苦悶から悔悟にうつり、やゝ理性の光が歸つて來る。)さるにても、このをなご! いみじくも死に居つたな。夫を助け操を守る一念よりいみじくも思ひ切つたな。…………。
盛遠。(つくづくと首を眺める!)おゝ何と云ふ神々しい死顏ぢや。言葉の通り、髮を洗うたばかりでなく、香までも※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)きこめたな。み佛のやうな、この美しい面で、盛遠のあさましさを、笑ふと見えるな。主ある女に、横戀慕するみにくさを笑ふと見えるな。
盛遠。(切りたる袈裟の首を、縁側の簀の子の上に置きながら地に手を突きて禮拜する)許して呉れい! 袈裟どの。おん身戀しさの心から、あたら盛りの花を散らしてしまうた。やがて、冥府へ追ひ付いて詫をする! しばらく待つて居て下されい!
(盛遠、筧の水で、血に染みたる刀を洗ひ、やがて、それを鞘に收めてから、大音聲に名乘る)
盛遠。やあ/\。此の家の主、左衛門尉渡どのに、物申す。おん身が、最愛の夫人袈裟御前を打ち取つたる曲者茲に在り。はや/\出合ひて首刎られい!
(盛遠、威丈高に名乘つてから、ぢつと聞耳をすます。しばらくの間、物音がしない)
盛遠。(一段と聲を張り上げる)やあ/\渡どの。曲者が忍び入り、おん身が夫人、袈裟御前を手にかけしぞ。はや出で合うて、曲者が首刎られい!
(盛遠獅子のやうに怒號をつゞける)

第四齣
  ――盛遠と渡――

廊下を傳うて來る烈しい音がする。白い素絹の寢衣を着た渡が、太刀を握りしめながら、馳け付けて來る。
渡。袈裟どの。袈裟どの。何事ぢや! 何事ぢや!
(先づ盛遠の姿を見る)
渡。曲者! 何奴ぢや。
盛遠。おゝ待ち受けた渡どの。袈裟どのを手にかけた遠藤武者盛遠ぢや。立ち寄つて首刎ねい!
渡。なに、なに汝は盛遠! 汝が袈裟を手にかけたとは!
(ふと簀の子の上の首級を見て、仰天する。)えゝつ! これは正しく袈裟の首!
(憤然とする)云へ! 云へ! 何の意趣あつて、袈裟を手にかけた! (刀を引き寄せて柄に手をかける)
盛遠。うむ! その意趣も語らう。一部始終を語つてから、潔よくおん身の手にかからう。仔細はかうぢや。
渡。云へ! 云へ! 仔細を。その素首そつくびの飛ばぬ間に、語れ。
盛遠。(地上にうづくまりながら)元より、おん身の手にかゝるは覺悟ぢや。さるにても、袈裟どのは、日本一の貞女よな。
渡。なに貞女とは!
盛遠。渡どの。仔細はかうぢや。去る彌生五日の事よ。攝津渡邊のしやう渡邊橋の橋供養に、我は奉行に務めて、群衆警衞の任に當りしが、供養も果てゝ人々家路に急ぐとき、橋の袂の棧敷より降り立ちて、輿に乘りたる女房の、年は二八と見えて、玉の如くにあでやかなる面影に、忽ち戀慕の心湧いて、あれは何人ぞと、傍の雜人ざふにんに訊きたるに、あれこそは衣川殿の愛子まなごにて、左衛門尉渡どのの[#「左衛門尉渡どのの」は底本では「左衛門尉渡とのの」]北の方、袈裟御前にて候との答なりし。
渡。うゝむ。
盛遠。袈裟ならばわれの從妹姉にて、我は丹波に養はれて、相見ることのなかりしが、かゝる女子を、うからに持ちながら、人に奪らるゝことやある! いで、取り返して、わが妻にせむ! 一圖に思ひ切つては、鐵壁も避けぬ盛遠。忽ち、伯母御前なる、衣川殿を訪ねて、あさましや、白刄を伯母の胸に差し付け、袈裟を呉るるか命を呉るゝか、二つに一つと脅した。
渡。うゝむ。
盛遠。心弱き伯母御前は、心持死ぬべうや思はれけむ。ひたぶるに、袈裟御前の助けを乞うたのぢや。
渡。うゝむ。
盛遠。衣川殿の館にて、今日初て、袈裟御前に逢うたのぢや。人非人の盛遠は、忽ち刄を拔いて、袈裟御前の胸にもさしつけた!
渡。えゝつ! おのれ! (憤然として盛遠をにらむ!)
盛遠。その怒りは、尤もぢや。やがて、存分に晴すがよい!
渡。刄を差しつけながら、汝は何と云うたのぢや。
盛遠。我になびかばよし、否と云はゞ、おん身は元より、夫の渡、母の衣川、三人とも盛遠が嫉刀ねたはの錆にして呉れると!
渡。えゝつ、非道の盛遠め。して、して、袈裟は何と答へたのぢや!(半身を乘り出す。)
盛遠。われに、靡びくと答へられた!
渡。(愕然として、刀の柄を握りしめる!)なに、なに汝になびくとな!
盛遠。駭かれな渡どの。なびくと云ふは、貞女の誠から出た僞りぢや。袈裟どのの云はるゝに、夫渡の在らんほどは、心にまかせじ、今宵忍んで、渡を打て! 夫なき後は、御身の心次第と。
渡。な、な、なに。
盛遠。夫の臥床は、南の寢殿。夫に勸めて髮を洗はせて置くほどに、濡れたる黒髮をたよりに、首を斬れと!
渡。えゝつ!
盛遠。戀慕の闇に迷うたる盛遠には、貞女のたくみが分らなかつたのぢや。さては、袈裟御前! 我に心を通すと、欣び勇んで忍び入り、濡れたる髮をたよりに、擧げたる首級くび、仕合せよしと、ほくそ笑み、月の光に晒して見れば、思ひがけない袈裟どのゝ、神々しい、み佛のやうな死に顏ぢや。
渡。うゝむ。
盛遠。人非人の盛遠に、見染められたを運とあきらめ、夫に代り母に代り、操を守つてはてられた袈裟どのは、日本一の貞女よな。その袈裟どのを、害したるこの盛遠は、日本一の人非人ぢや。うつけ者ぢや。うろたへ者ぢや。さあ、渡どの! おん身が、最愛の夫人袈裟どのゝ敵は、茲に居る! いざ、首を打たれよ! 首刎ねる丈では、氣が濟むまい! 踏みにじるとも、斬りきざむとも、存分にせられい!
(盛遠、自分の刀を後へ投げ捨て、渡の前にいざり寄る!)
渡。(默然として言葉なし)
盛遠。いざ、渡どの。存分にせられい! このあさましい盛遠を、こなごなに碎いてくれい!
渡。(默然として居る。腸を刻まれるやうな苦悶の裡に居ることが、顏の表情で分る)…………。
盛遠。いざ。いざ。(進んで首を差し延べる)
渡。(なほ默つてゐる!)…………
盛遠。いざ。いざ。渡どの、おん身は妻を打たれて、口惜しいとは思はぬか。この盛遠を憎いとは思はぬか。
渡。(詰めよつて來る盛遠を、やゝうるささうに避けながら)おん身を打つても詮ないことぢや。
盛遠。(やゝ拍子拔けがしたやうに)なに詮ないとは。
渡。死んだ袈裟が歸りはすまい。
盛遠。とは云へ! 現在妻の敵を、目の前に置きながら、見逃すと云ふ法があらうか。さては、渡どの。おん身は、この盛遠が武勇に聞き怖ぢしたか!
渡。(寂しげにセヽラ笑ふ)妻の敵とあらば、鬼神なりとも、逃すまじきが、袈裟の死は、所詮自害ぢや。自ら求めての死ぢや。敵はない! 敵はない!
盛遠。さては、いろ/\言葉を構へて、この盛遠を助くるつもりよな。
渡。何とでも思うたがよい!
盛遠。さては、おのれ! この盛遠を打つにも足らぬ人非人とさげすむと見えるな! よし、さらば、かうせう。
(盛遠、もとどりをふつつりと切る!)
盛遠。盛遠が、一念發起のほどを見てゐるがよい! おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見てゐるがよい。さらば、左衛門、僧形そうぎやうに改めて、袈裟どのゝ菩提のため、諸國修業に出る前に、もう一度訪ねて來よう。異樣の姿が、人に見とがめられぬやうに、夜が明けぬ裡に、行かう。さらばぢや。
(盛遠、袈裟の首級を殘り惜しげに見返りながら出で去る)

第五齣
  ――渡――

盛遠の姿が、見えなくなると、渡は堪らないやうに、袈裟の首級に近づいてそれを取り上げる!
渡。袈裟! 袈裟! 變り果てたる姿になつたよな。
(よゝと泣く)
渡。お前のこの美しい眸は、もう開かぬのぢやな。お前の可愛い唇は、もう再び動かぬのぢやな。袈裟! 袈裟! …………。
渡。袈裟! 袈裟! お前はなぜ、死んだのぢや。袈裟! 袈裟! お前は、俺がお前をどんなに愛してゐるかを知つて居よう。知つてゐながら、なぜ、お前は俺を捨てたのぢや。
(身悶えして嘆く)
渡。盛遠めは、お前の敵ぢやから斬れと云つた! が、俺は盛遠よりも、お前が恨めしいのぢや。盛遠のやうな人非人は、相手にする丈でもけがらはしい! お前は、俺の心をもつと知つてゐて呉れる筈ではなかつたのか。お前は、自分の身を捨てて俺の命をすくつて呉れたと云ふのか、あの盛遠めは、それを貞女だと云つた。世の人も、恐らくさう云はう。が、袈裟よ。お前を命よりも愛してゐるこの渡には、自分の命よりも、お前の方がどれほど、大事かと云ふことを知らないのか。お前が死んだ後の俺の生活が、太陽が無くなつたやうに、暗澹となると云ふことを、氣が付かなかつたのか。…………。
渡。(涙に咽びながら)それに、袈裟よ。お前は、なぜ俺に打ちあけては呉れなかつたのか。俺に打ち明ければ、俺が盛遠と戰ひ、俺が殺されるとでも思つたのか。俺は、それが情ないのぢや。俺が、盛遠を怖れるとでも思つてゐるのか。渡は、盛遠のやうに、骨は堅くない! 打物業うちものわざは下手ぢや、が、愛するお前のためには、盛遠はおろか鬼神にでも立ち向うて呉れるぞや。愛するそなたのためには、水火を辭さない心丈は、何人にも劣らないつもりぢや。…………。
渡。袈裟よ。男が、自分の最愛の妻を、犧牲にして生き延びることが、どんな心持がするかと云ふことをお前は知らないのか。それは身を切らるるよりも、苦しい耻辱ぢや。お前を犧牲にして、生きるよりも、俺は焦熱地獄の釜の中で、千萬年煮られてゐる方が、まだよい! まだましだ。…………。
渡。お前は、なぜ俺に打ち明けては、呉れなかつたのか。俺はお前のために、盛遠と戰ふ。それが、男として、どんなに欣ばしい、晴がましい務であるかと云ふことを、お前は知らなかつたのか。お前は、なぜ悲鳴を擧げながら、俺に救ひを求めて呉れなかつたのか。俺が、馳け付けて來たお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戰ふ。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だつたらうか。俺は、屹度勇氣が百倍したに違ない。きつと、盛遠を倒したに違ない。若し萬一、俺が負けたら、その時こそお前は、俺の傍で死んで呉れゝばよいではないか。…………。
渡。袈裟よ! 夫が、妻から望み得る一番うれしいことは、犧牲ではない。男が、女を犧牲にして、何がうれしからう。強い男に取つて、それは一の耻辱ぢや。最愛の妻から受けて、一番うれしいものは、信頼ぢや。夫に凡てを委せてくれる信頼ぢや。お前はなぜ、俺に打ち明けては呉れなかつたのぢや。盛遠には、所詮及ばぬとでも、思つたのか。俺は、お前の眼からも、盛遠よりは、たのもしくないと思はれたのか。俺はそれが、情ないのぢや。…………。
渡。盛遠は、戀した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、發菩提心には、これほどよい、よすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思ふて、成佛じやうぶつするだらう。が、殘された俺は、何うするのぢや。最愛の妻は、奪はれ、人生は荒野のやうに寂しくなるのぢや。俺は、何處で救はれるのぢや。…………。
渡。生き延びるために、最愛の妻を犧牲にした不甲斐ない男として、俺にいつまでも生き延びよと云ふのか。袈裟よ! 俺は、お前が恨めしいぞ。
(渡、しばらく[#「しばらく」は底本では「しはらく」]してから、思ひ切つたやうに、もとどりをふつつりと切る)
渡。盛遠は、まよひがさめて出家するのぢや。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覺者と見離されて、墨のやうな心を以て、出家するのぢや。この蕭條たる心を、なぐさめるために、出家するのぢや。…………。
渡。(妻の首級をかき抱くやうにしながら)お前の菩提を弔うてやりたい! が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔ふのには、適ぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念佛を唱ふのに、かなつて居よう! あゝさびしい。
(夜があけたと見え、周圍がほのぼのと明るくなり、やがて鷄鳴と共に、朝の太陽の光がさして來る!)
渡。夜が明けて來るな。が、俺の心には、長い闇が來たのぢや。袈裟よ! 袈裟よ! なぜ、お前はこの渡を、頼んでは呉れなかつたのか!
(よゝと泣きくづれる!)
――幕――





底本:「袈裟の良人」金星堂
   1923(大正12)年2月25日発行
初出:「婦女界 第二十七卷第一號」婦女界社
   1923(大正12)年1月1日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※四点リーダー2個分は、三点リーダー2個分「……」、四点リーダー3個分は、三点リーダー3個分「………」、四点リーダー4個分は、三点リーダー4個分「…………」で代替入力しました。
※「心がゝり」と「心がかり」、「……」と「………」と「…………」、「思う」と「思ふ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「袈裟の良人(五齣)」となっています。
※初出時の表題は「袈裟けさ良人りやうじん(戯曲)」です。
※誤植を疑った箇所を、「婦女界 第二十七巻第一號」婦女界社、1923(大正12)年1月1日発行の表記にそって、あらためました。
入力:あまの
校正:友理
2023年2月10日作成
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