よしなし事

〔源内の手紙、原稿料のことなど〕

菊池寛




源内の手紙

 父の死に會して家に歸つた折、偶々家に平賀源内の手紙があるのを知つた。手紙は、次ぎの通である。
二白
私數年願置の秩父鐵山も成就仕追々生鐵鋼鐵共澤山出且刀劍にも爲作候處無類の上鋼鐵にて利劍を鍜出先日より田沼君へ差出置追て御ためさせ被下筈に御座候且去秋初佐竹候よりお頼にて羽州秋田へ參候處國中産物勿論多くて經濟共被相頼凡一ヶ年二萬兩斗の國益御座候につき召座御褒美金百兩御自畫の雲龍など拜領仕り猶彼地にて地方見取にて二百石下さる仰尤も御合力知行の由御沙汰御座候荒野多所により三千石五千石にも當り候場所御座候然共お出入知行にても知行と申せば家來の樣に御座候故お斷り申上候處一ヶ年銀百枚づゝ下被給由被仰渡候先小遣の程には有つき申候右お知らせ申上げ度如此御座候
十五日
源内
黄山先生
 惜しいことに、二白以上はボロ/\になつてしまつたらしい。黄山先生と云ふのは、私の先祖で儒を以て高松藩に召抱へられた人である。屋嶋山麓古高松の人であるから、源内の出生地である志度とは一二里の距離であるから源内は幼事私の先祖に學んだかも知れない。尚私の家に源内燒と云ふものがある。茶褐色の大皿で、東半球の地圖を燒きつけてある。大東洋と云ふ字などを使つてある。此の皿には銘がないが僕の親類の家にこれと同じものがあつてそれには源内と銘があるさうである[#「ある」はママ]
 前掲の手紙の文句は、眞山青果氏に讀んで頂いたのであるが、眞山氏の話に依ると源内研究は可なり盛んで、源内は牢死せずして田沼候の權勢に依つて救ひ出され遠州の相良で、天壽を全うしたと云ふ説が、可なり有力であるらしい。學問なども、單に新奇を弄んだ程度のものではないらしい。ともあれ、同郷の先人である平賀源内の事蹟が、顯彰されてゆくことは、私にとつてもうれしいことだ。

原稿料のことなど

 佐藤春夫君の新潮にかいた「文藝家の生活を論ず」を讀んだが、ゴシツプを基礎とした反感と猜疑とで、佐藤君ほどの人間が、昂奮してゐるのを見るとたゞ/\あさましいと云ふ氣がする丈だ。
 あの中で、原稿料を高く取りすぎると云ふのは、恐らく自分達のことだらう。だが、自分が果して原稿料を高く取りすぎてゐるだらうか。自分が中央公論から貰ふ稿料は八圓だ。新潮から貰つたものは七圓だ(近來執筆する光榮を有しないが昨年まではさうだつた)。改造社から、受けるものも略同額だ。尤も、改造社からは、時々特別にお禮を貰ふこともあるが、これは山本有三なども貰つてゐるらしいから、佐藤君だつて同じだらう。婦女界社からは、二三倍の稿料を貰ふが、これは他の婦人雜誌に同種の小説を執筆しないと云ふ制限條件があるから、普通の原稿料と解すべきではないだらう。これは、佐藤君が他の新聞に執筆しないと云ふ條件で、報知新聞社から二三倍の稿料を貰つてゐるのと同じ譯である。
 尤も、娯樂雜誌に執筆する場合は、普通以上の稿科を[#「稿科を」はママ]貰ふが、これは、純文藝家としては節操を賣ることであるから、相當の金を貰つてもいゝと思ふ。娯樂雜誌に執筆することなどは、どちらかと云へば廢したいと思ふ。かう云ふことからも、佐藤君が恐れるやうに文壇が俗惡化し商業化するのだらうと思ふ。しかし、自分のやうな作家凡庸主義の人間が金もうけに時々書くのは仕方がないが、一代の純藝術家を以て任ずる佐藤君までが、他人が幾度も飜案した支那小説を何度目かに飜案したものを娯樂雜誌に掲載して、剽窃云々の嫌疑を受くるなど、文壇の俗惡化も極まれりと云ふべしである。君などが、かうした俗惡主義と戰はずして誰が戰ふのだ。
 自分は文藝家が、文藝雜誌に執筆するのは、文藝家の義務だと心得てゐる。從つて、自分は文藝雜誌に對しては、原稿科の[#「原稿科の」はママ]注文、苦情、催促、前借など未だ曾てしたことがない。自分は、文藝家の潔僻は、さう云ふところに存してゐると思つてゐる。曾て、新潮が稿科を[#「稿科を」はママ]五圓から、七圓に値上げしたとき、自分は從前通り五圓でよいと云つて、中村武羅夫君に怒られたことがある。たゞ、講談倶樂部などが、僣越にも原稿を依頼に來るとき、一枚百圓を拒絶の意味で、要求するなどは、文藝家の見識だと思つてゐる。
 前述の通り、自分が他の文壇諸家の二倍も三倍も取つてゐると傳はつてゐるが如きは、單なるゴシツプにすぎない。そのゴシツプのために、佐藤君の如き人が、堂々五十枚の論文を書くなど笑止千萬である。佐藤君などは、青筋を立てるほどのことではないだらう。
 假に、自分が文壇第一の原稿料取りとすれば、佐藤君なども二三番目少くとも屈指の人だらう。その佐藤君が、自分以下の幾十百人を無視して、たゞ、自分より上の一二人を(しかも自分もその同類項であるくせに)目指して、憤慨するが如き、こんな天下の奇觀はないだらう。恐らく僕に對する反感で目が眩んでゐるのだらう。さう云ふ反感で物を云つてゐるからあんな長々しい世迷言を五十枚もかく勇氣が出るのだらう。
 眞に、佐藤君が稿料が多すぎると云ふのなら、云ひ出し鬼と云ふこともあるから佐藤君自身稿料を制限してその俑を開いて貰ひたい。それは決して君が恐れてゐるやうに、君の獨善で終ることなく、充分社會的意義を持つだらう。君が、制限した結果がよかつたら、僕はすぐその顰みに從ふことにする。君と僕とが、制限すれば君が目指してゐる三四人の中の二人まで片がつくわけではないか。こんな實行容易なことはないだらう。
 ついでに云つて置くが、文藝家協會は、文藝家の共濟扶助を目的とするもつとも、世俗的な共濟組合である。君が、云ふうやな[#「云ふうやな」はママ]文藝的精神とやらを發揮するやうなそんな高尚な會合ではないのだ。小作人組合や勞働者の組合と同じものなのだ。いやに高尚な精神的運動をするやうなものゝやうに誤解するのはよしたらいいだらう。尤も、佐藤君の云ふやうな文藝家の會合もたしかに必要だ。君が、卒先して發企して貰ひたい。僕は君に對する個人的反感などに、こだはらず、第一に入會するつもりだ。それから、文藝家協會は、原稿料を指定したことなどは一度もない。無責任な放言を逃れやうとして、出鱈目な記臆をひつぱり出すやうな卑怯な眞似はしない方がいゝだらう。(文中、原稿料のことなどを明らさまに書いて雜誌社の方にはすまないが、止むを得ない。)





底本:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔〕付きの副題は、中見出しをとって、ファイル作成時に加えたものです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2021年11月27日作成
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