祝盃

菊池寛




 久野くのの家を出た三人は、三丁目から切通しの方へ、ブラ/\歩いていた。五六年前、彼等が、一高にいたときは、この通を、もっと活溌プリスクな歩調でいくたび散歩したか分らなかった。
 その時は、啓吉も久野も、今度久しぶりで、ヒョックリ上京して来た青木も、銘々それ/″\に意気軒昂たるものであった。その中でも、青木が一番自信を持っていた。その天才的な態度や行動のために、みんなからも一番輝く未来を持つように思われていた。
 啓吉や久野も、いつの間にか、青木には一目も二目も置いていた。が、運命は皆の期待した通りには、めぐらなかった。みんなから、一番嘱望されていた青木は、大学に入ったその年に、彼自身の不行跡から、学校にいられなくなり、啓吉や久野にも随分不義理な事をして、日の目を見ないような山陰の田舎に埋もれてしまった。田舎で英語の私塾を開いているといったような噂を、啓吉は誰からともなく聞いていた。その青木が何の前触まえぶれもなく突然上京して、啓吉を訪ねて来たのである。
 青木が、みんなの期待を裏切って、埋もれてしまったのと反対に、啓吉も久野も文壇的には自分達の予想以上の世の中に出ていた。
「文学に志したのだから、せめて翻訳でもして、文名を成したい。」
 そんな謙虚な事を考えていた啓吉は今では、思いがけなくも新進作家として、相当な位置を占めている。久野などは啓吉よりも、更に一年も早く文壇に出てしまっている。
 久野も啓吉も黙って歩いていた。五六年前には、何の相違もなかった三人の間に、今では社会的には、ハッキリとした区劃が付いている。
 久野敏雄といえば、文学好きの青年は、大抵名前だけは知っている。が、青木好男といっても、誰が知っているだろう。五六年前は、同窓の間では、敬意と、かすかではあるが、驚異とを以て、呼ばれたその名前が、今では何人も知らない平凡な普通人の名前になってしまっている。
「僕ね。今度台湾の方へ行くようになったのだよ。総督府に調査部というのがあってね。そこへ行くことになったんだ。」
 三人の沈黙を破るように、青木は昔ながらの、美しい沈んだ声でいった。
「そうか。それは結構だね。」と、久野も啓吉も同時にいった。が、二人ともそれについて、何の意味もなかった。思索家として、優れた芽を持っていそうに見えた青木が、調査部とか何とかいう雑務に従事するということが、久野や啓吉の心を暗くした。
 三人は、また黙って歩いた。一高時代の回想談などは、今の三人の顔触れでは、どれもこれも皮肉になるので、啓吉も久野も話し出さなかった。
 それよりも、啓吉は今もっと、話したいことは今度B社から出ることに定まった自分の第一の創作集のことだった。昨日話が定まって以来、自分だけの胸に、蔵って置くのには、あまりに嬉し過ぎることだった。第一の創作集が、世に出るときの嬉しさは、そうした経験のある人でなければ、分らないことであるが。
「僕の本ね。到頭定まったよ。B社から出すことにしちゃった。」
 到頭啓吉は、小声で久野にいった。さっきから、話題に困っていたらしい久野は、解放されたように、それに応じた。
「うむ! B社から、それはいゝね。幾ら刷るのだ。」
「二千五百部。」
「そうだろう。僕のも同じだった。装幀はやっぱり右田茂かい。あっさりしていゝね。」
「校正は、自分でやらなきゃいけないのかね。」
「B社なら、初校さえ見て置けば、再校は向うで見て呉れるよ。」
 B社からもう二三度、本を出したことのある久野は、先輩ぶっていった。
 啓吉は、こうした話が、どんな結果を青木の心に与えているかということが、分り切っていながら、やっぱり止められなかった。青木が、台湾へ行くよりも、こうした話の方が、幾何いくら啓吉達の興味を支配したか分らなかった。
 三人は、またこだわりのある沈黙を続けながら、池の端へ出て、そこにあるカフェーへ立寄った。カフェーへでも立寄っている方が、時間が過し易かったからである。
 話は、また暫くは高等学校時代へ帰った。どんなに、銘々食意地が張っていたか、カツレツ一皿を食うために、どんなに金の工面をしたか、教科書をまで売払って、食ったり飲んだりしてしまったか、そうした話題は、今の場合三人が、一番安易な心で、耽り得るものであった。が、久野も啓吉も、それ以来の長い都会生活で、だん/\趣味が、洗練されていつの間にか、こうしたカフェーの料理などには、満足されなくなっていた。
 青木が、高等学校時代と同じような、熱心イーガーな態度で、コーヒーを飲んだり、料理を食ったりしていることが、啓吉の心を暗くした。
 カフェーを出た三人は、又ずる/\べったりに本郷まで歩いて来た。まだ十時頃であった。が、三人でいる妙な心の緊張ストレインには、啓吉も久野も飽いていた。
 が、三丁目で電車が来ても、青木はまだ乗りそうにしなかった。三人は、そこで十分ばかり、ぼんやり立っていた。幾年振りかに上京した青木には、いろ/\な感慨が、胸の中にこみ上げているのかも知れなかった。が、啓吉は青木を送った後で、久野と二人で、青木のことについて、話して見たいという要求が、かなり強く感じられた。が、青木は自分一人だけ、別れて帰りそうには見えなかった。
「君は、この電車に乗ったら、乗換がないのだろう。」
 啓吉は、悪いと思ったが、つい/\口が滑ってしまった。青木はやっと帰るのを決心したように、
「そうだ! じゃ失敬しようかな。」と、いったまゝ、さすがに、しんみりと、
「もう会わないかも知れないよ。明日中に立つ筈だから。」と、いった。
 その小柄な身体を、聳やかして、電車に乗る後姿を見ていると、啓吉の心にも、旧友に対する純な感情が、こみ上げて来るのだった。
 青木を見送ってしまうと、久野も啓吉も、解放されたようにホッとした。久野は今迄とは別人のような軽い口調でいった。
「おい! ソーダ水でも飲もうじゃないか。」
「うむ飲もう。」
 啓吉も、久野の気持が分った。二人とも青木についての感慨を話して見たかったのだ。
 つい近くのカフェーの卓に向うと、久野はウェイトレスが持って来たソーダ水を、お役目のように、すゝりながらいった。
「青木の奴、ちっとも変っていないじゃないか。」
「僕も、それで駭いたのだ。昔とちっとも変っていないね。」と、啓吉も全く同感だった。
「でも、分らないものだね。青木だけが落伍するなんて。」
 久野は、そういいながら、ソーダ水をグッと、飲み乾した。
 そうだ! 高等学校の末年から、大学に移る頃には、久野も啓吉も、青木に劣らないような、乱暴な出鱈目な生活を続けたものだった。それだのに、危い橋を渡りながら、二人とも真面目に学校を勉強した同窓などよりも、社会的には出世しているといってもよかった。
「俺達は考えて見ると運がいゝんだよ。」
 そういいながら、啓吉もソーダ水をグッと飲んだ。
 それは、ソーダ水であった。が、二人とも無意識ではあったが、お互いの幸運を祝って、祝盃を挙げている訳だったのだ。





底本:「菊池寛文學全集 第三巻」文藝春秋新社
   1960(昭和35)年5月20日発行
初出:「電氣と文藝」
   1920(大正9)年9月号
入力:卯月
校正:友理
2022年2月25日作成
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