たちあな姫

菊池寛




 十一月の終か、十二月の初頃でした。私は、その日珍しく社から早く帰って来ました。退社の時刻は、大抵六時――どんなに早くっても五時だったのですが、其日にかぎって、四時頃に社を出たように思います。
 その頃は、江戸川べりの西江戸川町に住んで居ました。琴の師匠の家の部屋を借りて、妻と一緒に暮して居たのです。その日、私は社から帰って来ますと、久し振りで銭湯へ行きました。そして、ゆったりとした気持になりました。夕飯を喰べてしまったのが、七時頃でしたろうか。私は妻を連れて神楽坂へでも、散歩に行こうかと思いました。が、久し振りで湯に入ったせいか、何となく眠気がさして、此儘このまゝ床に入って、肩の凝らない雑誌でも、読もうかと云う気にもなりました。丁度その時でした。自転車が、表で止まったかと思いますと「木村さん―電報!」と云う声を、聴きました。
『電報!』と云う声を聴く度に、私はいつも国に居る年の寄った両親の事が、いなずまのように、頭の中に閃くのです。そして『父キトク』だとか『母キトク』などと云う文句が、ハッと胸を衝くのでした。だから、私は電報と云う声を聞いてから、それを受取る迄の短くはあるが、然し不快な焦躁の四五秒が可なり嫌でした。私は、その日も何時もの通り不快なショックを受けながら、配達夫の入って来るのを待ちました。まだ若い配達夫は、表の戸をガタ/\開けたかと思うと、
「木村さん、電話郵便です。」と、云いながら赤い小さい紙片を差出しました。何だ! 電話郵便かと、私は何時も電話郵便の配達夫が、電報の声を僣するのを、不当に思いましたが、それでもそれが電報でなくて電話郵便であるのを知ると、心が急に落着くのを覚えました。一体誰から来た何の用だろうと思いながら私は、その電話郵便を急いで読みました。
『キフヨウアリ、スグデンワニカカレ。』と、ありまして、発信人の番号は新橋の五七〇番で、それは紛れもなく私の勤めて居る新聞社の編輯用の電話でした。私は『おやおや。』と思いました。久し振りにいゝ心持になって、早くから寝ようとして居る所を、引張り出されては堪らないと思いました。一のこと、何処かへ外出して居たことにして、十時を過ぎてから電話をかけ、わざと急用の間に合わないことにしてやろうかと、思いましたが、まだ社に入って一年にもならない頃でしたから、そんな狡猾なことを、やる勇気はありません。其上、急用と云われて見ると、何だか気がかりなので、私は不承不承で電話をかけに外へ出ました。が、電話をかける気にはなりましたものの、不当に呼び出された事に依って、可なり焦々いら/\して居ました。電話と云っても、その近所では半町ばかり行ったすし屋にあるばかりでしたが、そのすし屋とも僅かな顏馴染しかありませんでした。僅かな顔馴染で、電話を借りることは、一寸不快でしたが、それでも七八町もある自働電話へ行くのは、どう考えても業腹なので、私はやっぱりすし屋で借りる事にしました。亭主や女房などは、私の顔を、ジロ/\見て居ましたが、幸い出前持の小僧が、私の顔を覚えて居ましたので、割合気持よく電話を借りることが出来ました。が、私の心持は、休息に入ろうとするところを、ムザ/\と呼び出された為に、可なり平かでありませんでした。交換手に番号を云ってからも、仲々先方で出なかったので、私は益々いらいらして、いつも電話で聞き馴れた社の交換台の子供の声がすると、私はいきなり、
「何うして、もっと早く出ないのだ。」と、思わず険しい声で怒鳴り付けました。私の声を、ちゃんと知って居る子供は、ドギマギしたようでしたが、
「七番へですか。」と、気を利かして訊ねました。七番と云うのは、社内電話で編輯の番号でした。
「判って居るじゃないか。」と、私は前と同じような、険しい声を出しました。すると、
「あゝもし/\木村さんですか。」と、云う夜の編輯の佐藤君の声が聞えました。
「急用と云うことですが、一体何です。」と、私の声は可なり荒々しく切口上でありました。
「何うも、お呼びだしして済みません。」と、佐藤君は何時もよりも鄭重な言葉で謝りながら「実は今夜の八時半に、露国の廃帝の皇女のタチアナ姫が、東京駅へ着くのですが、甚だお気の毒ですが、之から一つ行って下さいませんか。」と、云いました。私は、それを聞くと、何だ馬鹿々々しいと思いました。尤も二三日前から、西伯利亜シベリアのトボリスクに幽閉されて居た廃帝の皇女のタチアナ姫が、トボリスクを脱出して、米国へ渡る為に、日本へ向うと云う電報が、ハルピンや長春から二三通来て居ました。が、それは荒唐無稽な流言に近いものと見做されて居ましたが、その日の前日には、つい手近の京城から、やっぱり同じ意味の電報が来ましたし、その日の午前には下関から『タチアナ姫は露廃帝らしき人物と共に、只今当地通過、今夜午後八時半東京駅着の汽車にて東上せり。』と云う電報が来て居たので、若しかすればと云う疑はあったのです。が、その電報なら私が社に居た頃に、もう編輯で問題になって居たものです。
「あ、……タチアナ姫の事ですか、それなら午前中から、判って居るのじゃありませんか。何うして私が社に居る時に云って下さらないのです。」と、用を云い付けられた腹癒せに、私は佐藤君をなじりました。
「何うも済みません。実は山崎君に頼む積りで居たのですが、何時の間にかあの人が帰ってしまって居ないのです。それに山崎君の家は、中野ですから、之から呼び出すのも大変なのです。何うです、貴君あなたに行っていたゞくことは出来ませんか、外に英語の出来る人が居ないんです。お帰りになって居る処をお呼び立てしてすみませんが。」と、佐藤君はいかにも、当惑したように頼むのです。一体その山崎と云う男が外人係と云う格で、外人に関する外交は、引き受けて居たのですが、一人で手が廻りかねるので、時々は私がけて居たのです。今日も恐らく編輯の方の考では山崎か、でなければ私をタチアナ姫の迎えにやる積りで居たのを、私は四時になるかならない内に、そっと帰ってしまったし、山崎も何時の間にか居なくなったので、編輯の方で周章あわて出したのだと思われるのです。が、それにしても午前中に判って居た事に対する手配りを怠って居たのは、確かに編輯の手落だと思いましたから、私は内心心頗る不満でした。
「私が行くことは、行ってもいゝですが。タチアナ姫は、英語を話すでしょうか。」と、云いました。露国の皇女ですから、仏蘭西語を話すことは、判って居ましたが、英語を話すか何うかは、可なり怪しいと思われます。
「そうです、それが問題ですな。」と、佐藤氏も当惑の苦笑を洩したようでしたが「でも随員の中には一人位英語を話す人が居ると思うのですが、一つまあ損にして行って下さる訳には行きませんか。」と、佐藤氏は如何にも気の毒そうに云いました。雲を掴むような問題で、薄寒い晩に東京駅のプラットフォーム迄引き出されることは、可なり苦痛でありましたが、職業柄是非もない事ですから、
「それなら行く事は、行って見ましょう。」と、私は不承不承に電話を切ってしまいました。
 すし屋から外へ出ますと、戸外には木枯と云ってもよさそうな寒い風が、江戸川ばたの葉の落尽した桜並樹を吹いて居りました。私は家へ帰ると、妻をせき立てゝ洋服に着更えました。その時は、八時二十分位前でしたから、東京駅へ行くのには、充分な時間はあったのです。
 電車へ乗った後も、私はタチアナ姫が来ると云う事が、可なり馬鹿らしいように思われて仕方がありませんでした。トボリスクで過激派の厳重な監視の下に居る皇女が、無事に脱出して、長い西伯利亜シベリア鉄道の各駅を、見咎められる事なくして、通過したと云う事は、有り得べからざる不可能事のように思われました。が、一方ハルピンから、奉天から、下関から逐次に『タチアナ姫きたる。』の、電報が来て居る以上、それに対して幾何いくらかの信用を置かない訳にも行きません。若し、事実タチアナ姫が八時三十分の列車で、到着したとすれば、どうだろうと思いました。私は職業上タチアナ姫に話しかけなければなりません。露国皇帝の高貴な皇女に、プラットフォームで、直接に話しかける、流麗な仏語ででもならばともかく、ブロークンに近い英語で、無躾ぶしつけに話しかける、私はそれを考えるとくすぐったいような、可笑しいような、それかと云って一種ロマンチックな気持にならずには居られませんでした。やっぱり、こうした機会もあるのだから、仏語を少しでも覚えて置けばよかった、学生時代にお役目のように、講義を聴き放しにしたことが、一寸残念のように思われました。
 東京駅前で、電車を降りると、あの広い駅前の空地は、寒い風に吹き払われたように、人一人通って居りませんでした。私は、外套の襟を立てながら急ぎ足で、駅内にはいると、入場券を買ってプラットフォームへ急ぎました。まだ汽車の着く迄には、十分位間がありました。
 プラットフォームにも、人影は極くまれでした。出迎えと思われる男女が五六人、プラットフォームの中央の、待合室内に寒むそうに腰かけて居ました。私は、タチアナ姫が来る以上、各新聞社の記者や写真部の連中の顔も、見えるだろうと予期して居ましたが、まだ一人もそれらしい者は来て居ませんでした。そのうちに、八時三十分が近づくと、写真班の連中が、一人集り二人集り何時の間にか、六七人にもなって居ました。顔こそ見知らないが、自分と同業の人らしい風采の男が、五六人プラットフォームを彼方此方あちこちと歩いて居るのが、目に付きました。各社で警戒して居る以上、ヒョッとするとタチアナ姫は来るのかも知れないと思いました。そう思うと、大帝国の皇帝の内親王と仰がれた人が幽閉の地から身を以て逃れ、寂しい薄倖な亡命の旅に上って、異国の停車場の初冬の夜に、悄然として下車すると云う悲劇的な、然しロマンチックな情景が、二三分の中に起るのかと思うと、私は自分の胸があるセンチメンタルな興奮に閉ざされるのを感じました。それと同時に、曽つて内親王であった人に、一体どう話しかけてよいか、また先方が英語を話さなければどうしようかと、云ったような職業上の不安を感じない訳には行きませんでした。
 そうこうして居る内に、夜の闇の中に段々近づいて来る、列車の轟々たるどよめきが、聞え始めました。私は、その刹那以前よりも一倍烈しい焦躁と興奮とを感じました。見ると、写真班の連中もカメラの用意をし、助手は閃光器を右の手に高く差し上げながら、一等車の停りそうな箇所と覚しい所を、物色しながら、その方へ雪崩れを打って動き出しました。私は、彼等のいかにも騒々しい動作に一寸反感を感じましたが、職業上彼等と行動を共にしない訳には行きません。その内に、汽車はプラットフォームを揺がせて、巨獣のような烈しい呼吸いきをつきながら、到着しました。私達は列車の動揺のまだ止まない内に、一等車の窓近く群り寄りながら、車内を物色しました。そこに土耳古トルコ帽を被った五十位の露人と、その妻らしき婦人と、三人の娘らしい女が居りました。が、此の五人連の一行は、皆如何にも幸福そうで、窓から首を出しながら快活に赤帽を呼んで居る容子など、そのうちの一人が、タチアナ姫であるなど夢にも思われませんでした。
「後尾の二等室に居るのだ。」と、写真班の一人が叫んで、走り出すと、皆は風声鶴唳と云う有様で、バタ/\と下車しかけて居る乗客を押しのけながら、列車の後方を目がけて駆け出しました。私は少し馬鹿々々しくなりましたが、然し各社の連中が駆け出す以上、駆け出さない訳には行きませんでした。が、後尾の二等室を覗いて見ますと、いかにも容姿の閑雅な二十三四の外国婦人が窓から半身を出して居るのが見えました。
「やあ! タチアナ姫だ。」と、写真班の一人がこう叫び廻すと、皆はカメラを一斉にその婦人の方に差し向けました。すると、その途端、記者らしい一人の男が、
「何だ馬鹿々々しい。子供を連れて居るじゃないか。」と、云いました。よく見ると、可愛い五つばかりの娘が、その婦人の傍から、首だけ出して窓外の物々しい騒擾を、珍しげに見て居るのです。いかに、タチアナ姫が脱出に苦心をしたと云っても、過激派の眼を眩ます為に、幼児を携帯して居るなどは、想像も及ばないことでした。写真班の連中は、失望して元の一等車の方へ引き返そうとしました。その時でした。丁度一等車の前あたりで、ボーンと云う烈しいマグネシウムの爆発の音が聞えました。
「やっぱり先刻さっきの五人連だ。」と、一人が云うと、写真班の連中は、必死になってその方へ駆けつけて行きました。ボーンと云う、烈しいマグネシウムの爆発が絶間なく続きました。私は、再び胸の詰るような興奮を感じました。やっぱりタチアナ姫は居たのだと思いました。が、その活劇の場所へ来て見ますと、写真班の連中の的になって居るのは、先刻さっきの五人連の一行の中の一番年上の娘でした。が、その女がタチアナ姫でしょうか。写真班がカメラを向けると、巧みに身体を躱しながら、避けて居るばかりでなく、いかにも可笑しそうに笑い崩れて居ました。
 亡命の内親王とは、似ても似つかぬ女でした。が、写真班の連中は、先方が避ければ避けるほど完全にカメラの中に収めようと、執拗しつこく後をおっかけて居ました。又その姉娘に年下の二人の娘までがからんで、キャッ/\と笑いながら、逃げて行くところは、何かの喜劇の場面のように思いました。私は『とんだタチアナ姫だ』と思いましたが、職責上確める必要があると思いましたから、土耳古トルコ帽を被った露西亜人が、娘達の後から急いでプラットフォームを去ろうとするのに、やっと追付いて、
「失礼だが、貴君あなたは英語を話せるか。」と、英語で訊きました。すると、その露西亜人は、微笑を含みながら、
「ノウ。」と、答えたまゝ、ずん/\歩いて行きます。その微笑ほゝえみは、やゝ皮肉を帯びた微笑で、もう下関以来度々此の一行が、タチアナ姫云々の嫌疑を、受けたことを明らさまに語って居るようでした。私は、その上追及する気にもなりませんでした。
 が、全体として私の感じた興奮は、そう不快なものではありませんでしたから、私は社へ電話をかけた後、更けて行く寒い晩をそう不平も起さないで、自分の家へ帰って来ました。
 翌日の新聞を見ますと、『東京駅頭の喜劇』などと云う二段ヌキの表題みだしで、昨夜の光景を面白く書き立ててありました。中には『タチアナ姫と誤られたる婦人』と題して、昨夜の年上の娘の写真を、載せて居る新聞もありました。諸新聞の記事を綜合して見ますと、此一行はハルピン辺から絶えず、タチアナ姫の一行と間違われて、方々で喜劇の種を蒔いて来たらしいのです。
 露国の皇室に、四人の内親王があると云うことは、前から知って居ましたが、タチアナ姫と云う名に特に親しみを覚えたのは、此事件があってからです。従って私は此事件があって以来、その当時トボリスクに幽閉されて居た露廃帝の一家に就いて、人一倍の注意を払うようになりました。
 此の事件があってから、一月ばかり経った頃でした。私は倫敦ロイテルが、『タチアナ姫は、米国に向う途中倫敦に来れり』と、報じて居るのを見ました。私は、タチアナ姫が、トボリスクを脱出したのは、兎に角本当で、日本へ来ると云うのは嘘で、その実は英国へ渡ったのだと知って、此の薄倖の皇女の為に欣ばずには居られませんでした。
 その後、暫くしてから露廃帝の一族が、トボリスクからエカテリンブルグに遷されたことを知りました。その電報が来た時、私は露国大使館をおとのうて、書記官か誰かにエカテリンブルグの位置などを訊いたことを覚えて居ます。
 その後、二月も経った頃でしょう。露廃帝が過激派の為めに、弑逆されたと云う電報が、世界の耳目を駭かしました。確か、前皇太子も同時に毒手に倒れたと云う電報だったと思います。私がその電報を携えて露国の大使館を訪問しますと、若い書記官が、顔を蒼白に変えながら「恐ろしい事です。」とたゞ一言云ったのを覚えて居ます。が、あゝした烈しい革命のあった以上、皇帝の身にこうした惨禍が、振りかゝって来ることは、逃れがたいことではあるまいかと思いました。
 が、その報知に接してから五六カ月も経った頃です。露廃帝一家のことなどは、世界の人達がいつのまにか忘れてしまったように私も忘れて居ました。それは、確か、十月のある晩の事でした。その頃本郷の真砂町に引越して居た私は、妻と一緒に本郷の通に買物に行きました。三丁目の角の店屋で、妻が履物を買って居る裡に、私は何時も買い馴れた夕刊新聞を買いました。
 私は、何心なく社会部面に目をやりますと、ふと其処に『エカテリンブルグの惨劇』と云う、二段抜きの表題みだしが目に付きました。そして脇表題わきみだしは『露廃帝一家の悲惨なる最後』と、付いて居ました。
 私は、こうした記事に対しては、最初からおもてを反けて読むまいかと思いましたが、人間の好奇心はその事が残虐なれば、残虐なるほど尚唆られるものです。私は、不快な然しながら興奮した心持で読みました。それは、私が生れて以来読んだ色々な記述の中で、最も残忍な惨虐な事を、記したものであったかも知れません。露廃帝の一族が、エカテリンブルグのある家の地下室で、獣の如き過激派の手に依りて惨殺された実相が、可なり精細に書かれて居ました。その内の一節に『之等十一人の番兵は、毎夜皇女達を拉して階下に連れ行きて凌辱したるも、廃帝は之を如何いかんともし難かりき。』と、書いてありました。私は茲まで読んで来ると、胸の中に湧いて来る烈しい義憤を抑えることが出来ませんでした。が、私はあのタチアナ姫だけは、露廃帝の一家の中で一番自分に馴染の深いあのタチアナ姫だけは、米国へ逸早く逃れた為、此の悲惨な運命から逃れ得ただろうと、それをせめてもの慰めとして続けて行くと、一番最後に『タチアナ姫は一弾を受けたるも死切しにきらざりし為、彼等は銃床を以て之を撲殺したり。』と、ありました。
 私は、茲まで読んで来ると、自分の胸中が云い知れぬ憤と悲みで一杯になるのを感じました。日本へ来ると云う噂は嘘であった如く、倫敦へ行ったと云う噂も嘘なのでした。東京駅頭で、滑稽な喜劇がタチアナ姫の名に於て、行われて居た時にも、姫はトボリスクの修道院の暗い一室に暗澹たるその日その日を暮して居たのでした。
 私は、無論ロマノフ家に対して何等の恩怨がある訳でもなく、帝政を讃美し過激主義を排斥するものでもありませんでした。又、廃帝の一族が、何んな残虐な運命に逢おうと、私の実生活はその為に寸毫すこしも、影響を受ける訳でもありませんでした。併し、私の感情は此の記事の為に、底深く抉ぐられたように思いました。つい昨日きのう迄は、内親王であった人達が、名もない過激派の番兵の為に、辱しめを受けた上に、豚の如く撲殺されたと云うことは、何う考え直しても諦めが付きませんでした。『露国の一億に近い民衆が、自由を得る為の犠牲だ』と、考え直して見ましたが、ロマノフ家の専制に少しも関係のない女性が、生命ばかりでなくその貞操迄も蹂躙さるゝと云うことは、何う考えても忍び得ないことだと思いました。今度の戦争の為には、幾百万人と云う人間が死んで居る。その内、二人や三人の人間が、帝王の血を持って居ようが居まいが、何でもないではないかとも、思い直して見ました。が、何故、之等の内親王が、戦争で死んだ者の中で、一番残酷な死方をしなければならなかったのでしようか[#「ならなかったのでしようか」はママ]。こう考えて来ると、私の胸の中の怏々たる憤は、何うしても抑えることが出来ませんでした。
 私は、一緒に連れ立って居る妻が、何かと買物の話をするのを聴き流しながら、何うかして不快な憤に対するけ口を、見出みいだそうとしましたが、それはけ口のない憤でありました。私は、妻にもその記事の内容を話して、憤をけようと思いましたが、何うしてもそれが口に出ないのです。こうした惨酷な無残な事が、人類の世界に行われたと云うことを、口にすることさえ、不快で堪らなく思いました。私は、なまじっか、こうした事実を妻に話して、彼の女の心持を傷つけることが、不親切のように思われましたので、その夕刊をむしゃくしゃに揉んで、かたわらの溝の中に何気ないように捨ててしまいました。
 が、新聞は捨ててしまっても、その記事の活字の一字々々迄が、頭の中に刻み込まれたように明瞭に浮んで来るのです。自分の実生活とは、何等の関係がないにも拘わらず、私はその頃に之程これほど心を刺戟されたことはありませんでした。自分が、今迄信じて居た人間性の制限が、――どんな悪人でも之以上の事は、為し得まいと思われる人間性の制限が、無残に破られた為かも知れません。人間の不幸の極限、どんな事があってもそれ以上の不幸が、世界に存在はすまいと思われる不幸の極限が、之等の人々に依って撤廃された為かも分りません。仏のルイ十六世夫妻の死、英のチャールス二世の最期なども悲惨と云えば悲惨でしょうが、そこに悲劇的な美しさが、感ぜられないことはありません。が、露廃帝一族の最期には、あさましい現実があるばかりです。自分の皇女が、過激派の手でさいなまれるのを見て居た廃帝の、心持ほどの心持を持たされた人が、世界にそれほど沢山存在したとは思われませんでした。
 私は、その晩遅くまで眠られませんでした。翌日起きて見ましても、その不快な心持は、少しも緩和しては居ませんでした。私は、こうした凄惨な事に対して、の新聞が義憤の叫びか、同情の声を挙げるだろうと、其の日の朝刊新聞を見ましたが、もう何等の実権も無くなって居た廃帝の身の上などには、何んな事件が起ろうと、介意かまわないかのように、それに就いての批評や意見などは、一行も見当りませんでした。
 それから二三日の間、私は友人に逢う度に、若し相手が此の問題に触れたなら、自分の心のうちに抑えて居る憤慨を、洩したいと思って居ましたが、誰もこんな問題に就いて考えて居ないと見え、一言もその記事に就いて話す人はありませんでした。私は、自分から切り出すことが、何うにも不快でありましたので、じっとこらえて居ました。その間中、この悲惨事に対する何等かの云い訳、それは過激派の為の云い訳でなくして、人間性そのものに対する云い訳を求めて居ました。
 私は、ある日ふと友人に誘われて、浅草の活動を見ました。それはパンテアと云う女主人公の名前を、そのまゝ題とした映画でありましたが、原名は確に露国旧政府の悪政を、題目としたものでありました。其のうちの一つの情景に士官達が農民を立板の上に、紐で吊し上げながら、太い鞭で牛をでも叩くように、ビシ/\と殴って居るのを見ました。もう一つの情景では、士官達が短銃ピストルで農民を、面白半分に射殺するのです。士官達が人を殺すと云う真面目な仕事を、冗談半分にやって居るのを見ますと、私はある精神的な身慄シャッタアを感じました。私は露国の帝政が、農民に対する残虐をマザ/\と見たように思いました。その映画を見て居ますと、私は帳消しだなと思いました。こうして惨殺された農民の怨がいつの間にか、廃帝の一家の人々の身に、及んで居たのではないかと思いました。私は、廃帝の一家を襲った惨事の云い訳が、茲にあるのではないかと思いました。が、之だけでは皇女達が受けた恐ろしい運命に対して、その十分の一の云い訳にもならないと思いました。
 その後も廃帝一族の最期に就いては、各方面から色々な報道が来て、もう動かし難い事実と確定していました。私は、心のうちでは此の惨事を取消すような、報道の来ることを祈って居ましたがそれは全くそら頼みでした。それにしても、私はこうした事件に対して、世界の何人なんぴとかが義憤の声を揚げることかと心待ちにして居ましたが、の国民も何の国民も生存の為の格闘や、その後の講和会議に夢中になって、露国廃帝の事などは、まるきり念頭にないように思われました。
 年が明けて正月の四日でした。私は、松の内の呑気な心持で新聞を見ますと、露国帝の最期に就いての、仏国の外相ビション氏の演説が載って居ました。それも全文六ベタで、露廃帝のことなどは、新聞記事としても、段々閑却されて来たことを示して居ました。
 私は、その記事を読んで又々不快になりました。それに依ると『廃帝の一族は各自椅子に縛せられ徹宵拷問されたる後、銃剣を以て惨殺されたり。』と、云うのです。私は、段々薄らぎかけて居た不快が又蘇って来るのを感じました。それから、四五日経った晩でしたろう。私は、あるレストーラントで、五六人の友人と一緒に飯を喰いました。飯を喰った後で、ストーヴを囲みながら、色々な雑談をしました。話題が露西亜の革命や独逸の革命に移った時でした。ふと、友人の一人が、
「露国の皇女達は、皆過激派の為に、ヒドイ目に逢ったのだね。」と、云いました。私は、自分の鬱憤を晴すのはここだと思いました。
「実に憤慨に堪えないなあ。」と、云いました。が、誰も平然として、私の憤慨を取上げるような人はありませんでした。そればかりでなく、平生ふだんから鋭い機智を以て聞えて居るSは、
「なあに! 皆ラスプーチンが、関係を付けた後だからね。」と、云いました。すると、皆は、
「ハヽヽヽヽ。」と、何時もながらSの機智に対する、賞讃の笑いを送りました。
 皇女達が、処女でなかったと云う想像は、いかにもあの惨事に対する幾何いくらかの云い訳にはなる事です。そうした皮肉な、毒を制するような云い訳に依って、私の憤を少しでも緩和する気にはなりませんでした。
 私が、昨年来それに就いて心を苦しめて居る事柄を、手もなく片付けてしまう友人達に対して、私は軽い反感を感ずると共に、此の事件に対し自分と同じような、感情を持って居る者を、友人の間に見出みいださなかったことを、可なり淋しく思わずには居られませんでした。自分の感情だけが、時代遅れの慷慨家的な古さを、持って居るのではないかと思うと、淋しく思わずには居られませんでした。





底本:「菊池寛文學全集 第三巻」文藝春秋新社
   1960(昭和35)年5月20日発行
初出:「太陽」
   1919(大正8)年4月号
※「顏馴染」と「顔馴染」の混在は、底本通りです。
※初出時の副題は「ある慷慨家の手記より」です。
入力:卯月
校正:友理
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード