世に出る前後

菊池寛




「雄辯」から、僕の自叙伝を求められたが、僕には既に「文藝春秋」に半歳に亙つて連載され、其後、平凡社から出た、僕の全集の中に収録されてゐる「半自叙伝」がある。
 僕は其の「半自叙伝」の書き出しに、「自分は自叙伝など、少しも書きたくない」と断り書をしてゐるが、この気持は今でも変りはない。
 事実、自分の半生には書くだけの波瀾も事件もないのである。僕は他の人に比べて、具象的な記憶に乏しい。たゞ「文藝春秋」に載せた時は、「文藝春秋」に何かもう少し書きたいため、自叙伝的なものでも書いて見ようかと思つたのである。
 だから今度も、少年時代からの出来事を時代順に記述などはしない。比較的記憶に残つてゐて思ひ出すことを書いて見ようと思ふ。
 僕は大正五年の七月に京都大学を出た。当時二十九歳であつた。普通だつたら二十四歳か二十五歳で出るところを、高等小学校を四年まで行つたのと、高等師範にはつたため二年損したので、都合四年遅れたのである。
 大学を出て、上京して間もなく、久米と本郷どほりを歩いてゐたとき、久米は、「君はよく大学を出られたな」と云つた。それは、まさに至言である。一寸でも間違へば、どうなつて居たか分らないのである。
 官立の学校を二度も、出されるなどと云ふ事は、普通の人には出来ないことだらう。しかも、二度とも決して出なければいけないと云ふやうな事情があつたのではない。
 たゞ青年客気感情の奔走するまゝに出たのである。
 然も家に余裕のある学資で学問してゐるのではない。血の涙が出るやうな学資を使ひながら、出鱈目をやつたわけである。
 たゞ、父母が僕を盲信すること深かつたのと、一高時代の同窓成瀬正一の父君の知遇と、僕自身自分の頭を信じてゐたのと、相俟つて、険難な学生時代を、どうにか切りぬけて、文学士になれたわけなのである。
 僕は作家になつてから、生活的に非常に堅実なやうに云はれてゐるが、青年時代は奔放激情の青年であつたと云はざるを得ないのである。
 たゞかう云ふ失敗にこりて、学校を出て以来は堅実に生活して来たことは事実である。
 こゝでいさゝか教訓めいたことをのべるならば、中学時代にいゝ成績をとつて置くと、自分自身自信を持ち得ることで、これは生涯を通じて、得になることだと僕は思ふ。
 一高を出されて京都大学に入学当時の模様は、「無名作家の日記」にほゞ出てゐる。
 京都へ行つた最初の年、芥川、久米、松岡、成瀬が第三次「新思潮」をやることになつたので、京都にゐる僕も同人にしてくれた。これは、彼等の友情で、僕は京都にゐたのだから、除者のけものにされても仕方がなかつたのである。
 この時同人になつてゐなかつたら、この次ぎの「新思潮」にも同人になれず、結局僕は文壇に出る機運に接しなかつたと思ふ。僕は、どこにゐても機鋒を現して文壇に出られる程才能があるとは思へない。
 もう少し僕が几帳面な男だつたら、高師を無事に出て中学の先生になつてゐたと思ふし、また「新思潮」など云ふ雑誌が出なかつたら、何になつてゐたか、一寸分らない。
 この第三次の「新思潮」には山本、豊島、土屋文明、山宮允など云ふ人もはつてゐた。
 そして山宮君か誰かの肝煎で、啓成社と云ふ本屋が、雑誌を出してくれたのである。今では、無名の人達の同人雑誌など振り向いてもくれないが、この時代は立派な本屋が出してくれたのである。
 世の中がのびやかであつたのである。
 僕は、この「新思潮」にショオの「シーザーとクレオパトラ」の一節を飜訳したり、「玉村吉弥の死」と云ふのと、「弱虫の夫」と云ふのをかいた。
 前の芝居は、僕の歌舞伎殊に若衆歌舞伎などの夢を追うてゐた名残りで、つまり、男寅をとらびいき(現在の男女蔵をめざう、僕は其頃男寅びいきだつたのである)と同じ気持でかいたものだつた。
「弱虫の夫」はイブセンなどの生かじりの影響だつた。両方とも、今からかんがへると冷汗ものだが、しかし、僕の戯曲が、「父帰る」上演を機縁として、劇界に迎へられると、この両方の戯曲とも上演されたから豪気なものである。
 第三次「新思潮」は二月号から始まつて九月号で廃刊した。その中に、卒業する年の二月になつて、「新思潮」がまた復活することになつた。これは、芥川、久米、松岡、成瀬と僕の五人であつた。
「新思潮」が復活するまでの間、僕は大学の研究室で愛蘭アイルランド劇をよんでゐた関係で現代劇を研究するつもりだつたから、こゝで、僕は戯曲は大抵読んだ。ダンセニイなどもよんだ、ダンセニイなどは、僕が日本で一番早くよんだのではないかと思ふ。故厨川博士が、ダンセニイを紹介した一年も前から読んでゐた。
 京都に於ける僕の生活は、殆ど孤独であつたと云つてもよい。クラスにも友達と云ふべきものはなかつた。
 だから、研究室以外には、出町橋の東詰の佐野春松と云ふ床屋の主人が将棋が好きなので、僕はこの床屋へは二年近くも将棋を、さしに行つた。主人は、でぶ/\肥つた好人物であつた。お客の来ないスキを見ては、よく僕とさしてくれた。
 二枚から一枚まで進んだ。恐らく初段近くの力がある人だらうと思ふ。隣家の車屋さんもなか/\強かつた。米屋の若い衆にも、可なり強い男がゐた。僕は一枚おとしでさして、さん/″\負かされた。余りに、くやしかつたので敗局の盤面を今でも思ひ出す位である。
 僕は作家として曲りなりにも生活が出来るやうになつてから、この床屋を久しりに訪問し、主人の好きな酒を贈つた。
 僕が、将棋が強くなつた原因は、京都大学に、偶然、中学時代の友人で、綾部と云ふ男が法科に来てゐた。
 僕は、京都で久し振りに、綾部と逢つたとき将棋を指した。ところが、僕の方がすこぶる不利である。
 だから、綾部に勝ちたいために、僕は将棋を研究しだしたのである。僕は定跡の本を買つていろ/\調べた。それから床屋の主人に教へて貰つたのである。
「新思潮」の復活号に、僕は「藤十郎の恋」を送つたら、みんなで落第にしたので「暴徒の子」を代りに送つた。
「藤十郎の恋」は、ダメだと云つて来たのは久米の手紙であつた。さう云ふ手紙もあればいゝのだが、僕は凡そ人から来た手紙は、一切保存しない主義なのである。芥川全集の手紙の部にも、僕宛の手紙は一通もない。
 僕は芥川の雅友ではないので、手紙もあまりくれなかつたが、それでも二、三十通は貰つた記憶はあるのだが、一通も残つてゐないのである。
 後年、僕の「藤十郎の恋」が有名になつたとき、あゝ云ふものをなぜ認めなかつたかと云つて、芥川や久米をかげで非難した人がゐたが、それについて芥川が、
「今のやうな『藤十郎の恋』なら認めるかも知れないが、あのときのは全然別だつたよ」
 と云ふやうなことを云つたが、芥川の云ふ通り、初め「新思潮」に送つたものはわづか十五枚位の戯曲で、たゞでさへ梗概的な僕の戯曲が、さらに簡単を極めたものだつたから、芥川や久米が認めなかつたのは当然である。
 つまり、「新思潮」に初め十五枚位の戯曲として送つたものを、後年短篇として、「大阪毎日」にかき、それを大森痴雪が脚色して鴈治郎が上演したのである。今戯曲の形式で存在するのは、その後で僕がまた書き直したものである。
 最初戯曲に書いたものだけに、短篇として「大阪毎日」に書いても、その中にやつぱり芝居的なものがあつたのである。それを見つけたのは、大森氏か鴈治郎か知らないが、さすがその道だけに明あるかなと思ふ。
 つまり、「無名作家の日記」は、小説であるだけに、可なり違つてゐるので、その当時芥川や久米に対し、僕が隔意があつた訳ではないのである。
「無名作家の日記」を「中央公論」にのせるとき、亡き瀧田氏が「芥川さんに悪くありませんか、大丈夫ですか」と云つて念を押した。
 しかし、それは瀧田氏の老婆心で、僕等の間には、あの作品から、刺戟を受けるやうな、感情のわだかまりは少しもなかつた。

 こんな訳で、大学を出て、上京したが、当分の間は成瀬氏に寄食する外はなかつた。
 就職口が僕を待つてゐる訳でも無く原稿の方が売れさうな容子もなかつた。その年の五月に「屋上の狂人」、七月に「海の勇者」、八月に「奇蹟」と「新思潮」に書いてゐたのであるが「屋上の狂人」は久米が感心してくれたと云ふだけで、原稿の売れる曙光はおろか一縷の望もなかつた。
 就職口に就いては、矢張成瀬氏を煩はす外なかつた。成瀬氏は大橋新太郎氏に紹介状を書いてくれた。博文館へはらうと云ふのだ。大橋邸へ二三度行つてやつと会つた。
 その大事な紹介状の上に濡れ手拭を置いて、シミを作つた話は、「葬式に行かぬ訳」の中に書いてある。
 むろんこの就職問題はうまく行かなかつた。坪谷水哉氏が成瀬氏の所へ断りに来た。それは、博文館は高山樗牛、大町桂月以後は文学士は使はないと云ふのである。それは文学士は余り偉すぎるからと云ふのである。
 つまらない理窟だとは思ひながら僕は可なりがつかりした。しかし博文館にはつて居たら、あすこは自分のところの雑誌へも他の雑誌へも社員の執筆を禁じてゐたらしいから、僕は文壇へ出る機会を逸したかもしれない。僕は、過去の文筆生活で博文館とは常に意志が疎通しないが、その遠因はこゝらにあるかも知れない。
 最初の就職口が駄目になり、僕は悲観してその一夏を過した。それだのに故郷くにの母から大学を出たのだから、月々十円でもいゝから送金せよと云つて来た。僕は尚更憂鬱にならざるを得なかつた。
 就職が駄目になつたので、僕はその夏、何か小遣取りがしたかつた。それで久米にたのんで出来たのが飜訳の口だつた。各国の美術史の飜訳だつた。僕はガードナアと云ふ人の本を訳すことになつた。これがどう云ふ程度の権威があるのか、また一枚いくらで引き受けたかはつきり記憶にない。だが、とにかく金まうけの仕事がみつかつたので、張合が出て来た。
 僕は、この原書を持つて、日比谷の図書館へ通つて、飜訳してゐた。ところが、ある朝、図書館へ行く電車の中へこの本を忘れてしまつたのである。僕は、今でもタクシイの中へ忘れものをするが、持物を手から離すと、よく忘れてしまふのである。
 図書館へ行つてから、はじめて気がついた僕は狼狽してさがし廻つた。巣鴨の車庫、春日町の車庫、三田の車庫と探し廻つたが何処にも見当らなかつた。
 僕はこの時くらゐ、つく/″\情なく思つたことはない。自分の仕事の種を無くしてしまつたのだから。僕はすぐ丸善へ行つてみた。
 むろん丸善にもなかつた。註文すれば戦争中なので三月かゝると云ふので、僕は全く途方に暮れた。
 その後、上野の図書館で調べて見ると彫刻の部にあつたので、僕は全く蘇生の思ひをしたが、しかし今度は図書館へ行かなければ訳せないので、大変不便な思ひをした。
 この本は半分近く訳したらうか、出版者の方が失敗したので、一文にもならなかつた。
 九月頃になつて、成瀬氏の家弟で、現在僕の社の支配人をしてゐる正義氏が、時事新報の石河幹明氏と姻戚の関係があるので、僕を時事へ紹介してくれて入社した。
 僕はやつと人並の人間になつたやうな気がした。はじめて社へ出たのは十月の中旬頃だつたと思ふ。その日品川の通信員から電話がかゝつて来て、それを聞いたのだが、それがどうしてもきゝとれなかつた。
「池上の本門寺の門前に、コレラが発生した。丁度御会式おゑしきの前日なので混雑してゐる」と、云ふ意味だつたのだ。池上と云ふのがどうしても分らないのである。通信員の剣突を喰つて、外の人と変つて貰つた。そのあくる日は、お会式の景気を見にやらされた、その記事が自分が新聞記者としての最初の記事だらう。
 その時の社会部長は千葉亀雄氏であつた。
 新聞記者として僕は、失敗もあつた。だが、僕は真面目に云ひつけられた事だけは、ちやんとした。夜遅く千駄ヶ谷とか渋谷とか、今よりはもつと不便だつた郊外へ人を訪問しに行つた。
 僕はこの頃多くの名士に会つてゐる。だが、僕は、訪問記者としては、いつまでやつてもうまくはならなかつた。僕は人に会ふのが苦痛だつた。僕は記者を、二年半してゐたが、いつが来ても人と会ふのはいやだつた。
 その頃、芥川は機関学校の先生をしてゐたし、久米は医者の雑誌の記者をしてゐたやうに思ふ。久米は学生時代から、既に多少の文名を馳せてゐたし、芥川は大正五年の九月に、僕が時事へはる一月前に「新小説」に「芋粥」を出し、十月には「中央公論」に「手巾ハンカチ」を出してゐた。
 僕は、文壇に出ることをあせつては居なかつたから、先輩を訪問したり、原稿を持ち廻つたりしなかつた。
 時事の月給は、最初二十五円で、手当が四円だつた。退社する時は、月給と手当とで四十三円だつたと思ふ。それで社会部では、僕が第二位の高給者だつた。
 月二十九円では、下宿をすることも出来なかつた。その上、その中から月々十円づゝ実家へ送金しなければならなかつた。だから入社してからも僕は成瀬家に寄食してゐた。
 しかし、何時迄も成瀬氏に世話になつてゐることは心苦しいことだつた。だが自分の月給だけでは生活費を払つた上に、実家へ送金することは出来なかつた。
 僕が、考へついたことは、バアナード・ショオが金持の未亡人と結婚したやうに、財力のある婦人と結婚することだつた。僕は、長い貧乏な学生時代から、やつと切り抜けて来たので、生活的な安定と慰安とを求める心が、一番強かつたに違ひない。
 僕は、金のある妻か、でなければ職業婦人と結婚しようと思つた。この事を実家へ云つてやつた。
 僕は、官立学校を二度も出され、やつと大学を出て薄給の記者をやつてゐると云ふわけで、何の取柄もないわけであるが、しかし、郷里に於ける僕が、少年時代の秀才のほまれと云ふものは、さうたやすく消えるものではなかつた。
 僕が、将来文学博士にでもなるやうな事を、親類のものまでが信じてゐた。しかし、その中で、僕は一番条件のよい現在の妻を選んだ。一定の金額を月々送金してくれる上将来まとまつて或金額を呉れると云ふ約束だつた。僕は妻の写真を見たゞけで現在の妻と結婚した。だから、僕は妻がどんな悪妻であつても文句が云へないのである。
 しかし、僕の妻はさう云ふ持参金などよりも、性格的にもつと高貴なものを持つてゐる女だつた。僕の結婚は、僕の生涯に於て成功したものの一つである。
 久米は、漱石氏令嬢との恋愛問題でさわいでゐた。この間の経緯いきさつは「友と友の間」に詳しく書いてゐる。
 僕と妻との新婚旅行は、郷里から東京まで帰つて来ることだつた。妻の家で、世帯道具の一つにもと、蠅帳もくれた。それは大変荷厄介だつたので、岐阜の宿屋へ置いて来た。
 名古屋へ下りて見物した時、妻は僕のために、十一円八十銭で金縁の眼鏡を買つてくれた。そのときまで、銀か鉄の眼鏡をかけてゐたものと見える。
 僕と妻と、麻布笄町かうがいちやうの川西と云ふ画家の二階を借りて、そこで新家庭を始めたわけだつた。
「新思潮」は休刊し芥川や久米は他からの依頼原稿を書いてゐた。僕も其の頃、「中學世界」に「第一人者」と云ふのと、「海鼠なまこ」と云ふのを書いた。多分江口渙氏の仲介であつたやうな気がする。
 僕は、芥川と此の頃漸く親しくなつた。一高時代は、芥川は官僚的秀才であり、僕や久米などは野党的秀才であつたので、一高在学中は殆んど親しく口をきいたことはなかつた。それが、横須賀から上京して、新橋へ着くと、その足ですぐ社の方へしば/\訪ねて来た。
 其の年の秋に、僕は笄町から、小石川へ移つた。結婚してから、二月目に妻は、もう妊娠してゐた。妻は大変いやがつたが、どうすることも出来なかつた。
 この小石川の家で、失恋してその悲しみを訴へに来た久米と、偶然やつて来た松岡がぶつかつたりした。
 その頃、僕の所へ初て、小説を依頼しに来た雑誌があつた。それは、「斯論」と云ふ雑誌である。僕は、「暴君の心理」と云ふ二十枚ばかりの小説を書いて、一枚五十銭の原稿料を貰つた。この「暴君の心理」を書き改めたものが、「忠直卿行状記」である。
 其後、僕が小説を書いたのは、「大學評論」と云ふ雑誌である。それは「ある敵打の話」と、「恩を返す話」である。この二つは、芥川なども相当みとめてくれて、今度は僕がもつとよい雑誌へ紹介しようと云つて呉れた。芥川にさう云はれたことは心強いことだつた。
 翌年の正月だと思ふが、僕は復活した「帝國文學」に多分「悪魔の弟子」だつたと思ふ、小説を書いた。
 これを賞めてくれた人は本間久雄氏だ。僕は長い間氏を徳としてゐた。
 その年の三月の初に、長女ルミ子が生れた。その事は、「父の模型」にくはしくかいてある。僕は、娘の名誉のために「父の模型」を、僕の全集から取り除かうかと思つたが、しかし、実物が、それを否定して居れば、それに及ばないと思つてよした。とにかく、親の慾目かも知れないが、「父の模型」で心配した程、みにくゝないことだけはたしかである。
 子供が出来てから、急に僕は責任を感じ、生活も緊張したと思ふ。創作にも一生懸命になつた。
 三月に、久米の紹介で、「文章世界」に「勲章を貰ふ話」を書いた。これは割合好評だつた。五月に、「新小説」に「盗みをしたN」を書いた。六月に「新潮」に「大島が出来る話」をかいた。これはその年の三月に死んだ成瀬氏の夫人のことを書いたのである。夫人は、僕の生涯を通じて、感謝を以つて思ひ出される数少い人の中の一人である。
 夫人の訃に接した時、涙がわき出て来るのを、どうすることも出来なかつた。
「大島が出来る話」と一緒に「新時代」と云ふ雑誌に書いた、「若杉裁判長」と云ふのも好評だつた。
 その頃の僕は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行つた。その頃、僕は、夏目漱石氏の家と一町とはなれてゐない南榎町の陋巷に住んでゐた。そこは、九円五十銭の家賃で、半間位の入口を這入つた路次裏であつた。あるとき、時事新報社から帰つて来ると、「中央公論」の高野敬録氏が自家用人力車を乗りつけて、僕の帰りを待つてゐられた。
 この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますやうなものだつたから、僕はこの時の嬉しさを今でも忘れない。
 このとき、高野氏に手交したのが「無名作家の日記」である。この作品は正宗白鳥が賞めてくれた。この前後に、僕は中富坂の家に越した。
「無名作家の日記」の評判がよかつたので、瀧田氏は一夕僕をこの家に訪ねて来て、一緒に連れ立つて外へ出て、本郷の燕楽軒で御馳走してくれた。
 その頃の「中央公論」の瀧田氏と云へば、文壇に於ける声威は、ローマ法王の半分位はあつたと思ふ。
 その後、九月の「中央公論」に「忠直卿行状記」を書いた。これは生田長江氏を初め、二三の人が賞めてくれ、これによつて、僕の文壇的地位は確立した観があつた。
 大正八年の正月に「恩讐の彼方に」を書いた。二月に、芥川の尽力で、大毎の客員になつた。
 時事新報に、二年半ばかりゐた、文壇的に世に出てからも、僕は外交記者として神妙に出精したつもりである。僕は無能であつたかもしれないが、まじめな記者だつた。原稿が売れだしたからと云つて、すぐ、怠けるやうなことはなかつた。
 僕は、貧乏な家に生れ、学生時代をずつと苦労したゞけに、世に出てからの生活ぶりは堅実そのものであつたと思つてゐる。だから僕は、今まで借金したことはなく、原稿料の前借も一度だつてしたことはない。
 僕は新聞記者として、定収入を得て、それに依つて生活し、作家として生活し得る確実なる見込がついてから、初て作家生活を始めたのである。
 大正八年二三月の頃であつたか、僕は社をよして初て、暇を得たので、芥川と一緒に長崎へ旅行した。これは僕にとつても芥川にとつても記念すべき旅行だつた。
 僕はこの旅行をしながら、自分の思ひがけない文壇的出世に夢の如き思ひがして、(恐らくこれが自分の絶頂ではないか)と、ひそかに考へた。そして、とにかくこゝまでくれば、自分は満足だと思つた。
(昭和九年十月「雄辯」)





底本:「菊池寛全集 補巻」武蔵野書房
   1999(平成11)年2月10日発行
初出:「雄辯」大日本雄辯會講談社
   1934(昭和9)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:友理
校正:hitsuji
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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