蠣フライ

菊池寛




 汽車が、国府津を出た頃、健作は食堂へはつて行つた。寝るまでの中途半端の時間なので、客は十四五人もあちらのテーブルや此方のテーブルに散在してゐた。大抵は、二三人づれでビールや日本酒を飲んでゐた。健作は、晩飯を喰つてゐないので、ビフテキとチキン・ライスを註文した。
 健作は、チキン・ライスを喰つてしまつてから、ふと気がついたのだが、健作が坐つてゐる席とは一番遠い端に、此方へ背を向けて、坐つてゐる女が、愛子に似てゐることだ。
 肩の容子や、襟筋や着物の好みが、愛子を想ひ起さずにはゐられなかつた。愛子とは、もう五年以上会つてゐなかつたし、彼女が、商科大学出の秀才と結婚したと云ふ以外は、何もきいてゐないのだが、しかし彼女の後姿うしろすがたなどはどんな場合にでも、思ひ出せないことはなかつた。その上、商科大学出の秀才らしい男が彼女とさし向ひで、食事をしてゐた。
 腰かけてゐるために、背の高さは、分らなかつたが、立ち上つたら、スラリとするに違ひない上半身を持つてゐた。フォークの使ひ方などが、十分は分らないが、愛子らしい手さばきだつた。
 健作は、愛子と一緒に、幾度も食事をした。だが、そんな場合、彼女ぐらゐ、はにかみ屋はなかつた。どんなに、おなかがすいてゐても、健作の前では、何一つ手をつけなかつた。幾品も取つた料理に、全然箸をつけない時があつた。
「何か、お上りなさいよ。お腹が、すくでせう。」
「いゝえ。」
「をかしいな。でも、僕はお腹がすくから食べますよ。」
「えゝ。どうぞ。」
 彼女は、頑強に何も喰べなかつた。
 だが、そのうちに彼女でも、やつぱり喰べる料理が、あるのに気がついた。それは、かきフライだつた。はにかみ屋の彼女も蠣フライだけには、手をつけた。
「わたし、蠣は大好きよ。蠣フライならいくらでもいたゞくわ。」
 さう云つて、御飯をたべずに、彼女は蠣フライを喰べた。
 健作は、彼女と一緒にレストラントへはるときは、一番に訊いた。
「おい。蠣フライは出来るかね。」
 そして、出来るときくと安心して、はつた。
 春が来て、蠣のない季節になると健作は彼女と一緒に、食事をするのに困つた。だが、彼女は食事をしないことにちよつとも苦痛を感じないらしかつた。御飯の代りに彼女は、絶えず、デセールやチョコレートを喰べてゐた。

 彼女と、別れてからも、健作は蠣フライを見るごとに、彼女を思ひ出した。彼女が、何処かで、きつと蠣フライを喰べてゐるに違ひないからだつた。
 愛子らしい後姿を見て、健作は、すぐ蠣フライのことを思ひ出した。健作は立ち上つて、その傍へまで行つて愛子か、どうかを確める必要はなかつた。確めたところで、たゞお互に心を擾し合ふだけだつた。また、そのことで幸福らしい彼女の夫婦生活に少しの陰影でも投げることは、いやだつた。
 やがて、愛子らしい女は、立ち上つた。背丈せたけは、愛子よりも少し高いやうに思つた。だが、顔は見せずじまひで主人の後により添うて向う側の出口から出て行つてしまつた。
 健作は、それでいゝと思つた、結局、たしかめないのがいゝと思つた。愛子の客車と健作の乗つてゐる客車とは、食堂車で隔てられてゐるから、此方で強ひて確かめようとしない以上、確めずに済めることをうれしいと思つた。
 だが、健作が勘定しようとしてボーイを呼ぶと、やつて来たボーイは、先刻愛子らしい女のサーヴィスをしてゐた一番背の高いボーイだつた。
 健作は、勘定を払ひながら、訊かずに居られなかつた。
「ねえ、今君が給仕してゐた御夫婦がゐたね。」
「えゝ、いらつしやいました。」
「あの奥さんの方は、蠣フライを喰べなかつたかい。」
「えゝ、召上りましたよ。御自分のを召し上つた上に、旦那さまの方のも召し上りましたよ。」
 健作の頬に微笑が思はず浮んだ。そして彼は少し寂しかつた。けれども、愛子の幸福を欣んだ。





底本:「菊池寛全集 第三巻」高松市菊池寛記念館
   1994(平成6)年1月15日発行
底本の親本:「菊池寛全集 第四巻」中央公論社
   1938(昭和13)年9月17日
初出:「文藝春秋」
   1927(昭和2)年1月号
入力:葉桜めのう
校正:友理
2023年10月30日作成
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