予が見神の実験

綱島梁川




この篇は世の宗教的経験深き人に示さん為めにはあらずして心洵まことに神を求めて宗教的生活に入らんとする世の多くの友にすゝめんとてなり

 予は今予みづからの見神の実験につきて語る所あらむとす。この事、予にいては多少心苦しからざるにあらず。されど、予は今、世の常の自慮や、心配こゝろづかひを一切打遺うちすてて、出来るだけ忠実に、明確に、予が見たる所を語らではみ難き一つの使命を有するを感ず。あながちにおのが見証をもつて世に吹聴ふいちやうせんとにはあらず、唯だ吾が鈍根劣機を以てして、ほ且つこの稀有けうの心証にあづかることを得たるうれしさ、かたじけなさのおさへあへざると、且つは世の、心洵に神にあこがれていまだその声を聴かざるもの、人知れず心の悩みに泣くもの、迷ふもの、うれふるもの、一言すればすべて人生問題につまづきずつきて惨痛の涙を味へるもの、およ是等これら一味の友にわが見得せる所を如実さながらに分かち伝へんが為めに語らんとはするなり。あはれ、上天も見そなはせ、予は今この一個の貴き音づれを世にべんが為めに此処こゝに立てり。
 わが見証をさながらに世に伝へんといふ。事や、もと至難なり。嗚呼ああ吾れ一たび神を見てしより、おほけなくもの一大事因縁を世に宣べ伝へんと願ふ心のみ、日ごとに強くなりゆきて、かも如何いかにして之れを宣べ伝ふべきかの手段に至りては、放焉はうえんとしてけたり。如何にしてこの目的を達すべき。顧みれば、わが見証の意識の、超絶駭絶がいぜつにして幽玄深奥なる、到底思議言説のもつて加ふべきものなからむとす。人の世の言葉や、思想は、の神秘的、具象的事相の万一をだに彷彿はうふつせしめがたき概あるにあらずや。吾れれを思うて、幾たびか躊躇ちうちよし、幾たびか沮喪そさうせり。而して今にして知りぬ、古人が自家見証につきて語る所の、毎々つね/″\いたづらに人をして五里霧中に彷徨はうくわうせしむるの感ある所以ゆゑんを。彼等が心血を瀝尽れきじんして其の見証の内容を説くや、時に発して煌煌くわうくわうたる日星の大文章をなすことあれど、而かも其の辞※(二の字点、1-2-22)いよ/\しげくして、指す方のいよ/\天上の月を離るゝがごとき観あるは如何にぞや。彼等が悟を説くや、到底城見物の案内者が、人を導きて城の外濠そとぼり内濠をのみ果てしなくめぐり廻りて、つひに其の本丸に到らずしてめる趣きあるなり。古人にしてしかり、今所証の浅き予にして悟を説かんとす、説く所或あるひは其の一膜をぎ、更に其の一膜を剥ぎ、かくして永久竟に人をして其の核心に達せざらしめんことをおそる。されば、予は竟にこの一事をなげうたざるべからざるいな、否。神はわが枯槁こかうの残生に意味あらせんとて、特にこの所証を予に附与したまへるにあらずや。この所証を幾分にても世にべ伝ふるは、吾が貴き一分の使命の存する所にあらずや。げにや、悟といひ見証といふもの、所詮しよせんは言説の伝へ得べき限りにあらざるべし。しかはあれど、わが満心の自覚を一揮直抒いつきちよくじよの筆に附して、く其の駭絶の意識の、黝然いうぜんたる光の穂末をだに伝へ得ざる乎、そのかすかなる香気かをりをだにほのめかし得ざる乎。能と不能とすべて神にあり。吾れは※(二の字点、1-2-22)たゞ自ら見得せる所を如実に語りづべきのみ。
 神の現前しくは内住若しくは自我の高挙光耀等の意識につきては、事に触れ境に接して、予がこれまで※(二の字点、1-2-22)しば/\みづから経たる所なりしが、而かもその不磨の記憶となりて永く後ちに残る程の奕々えき/\たる触発の場合は、ほとんどあらざりし也。その是れありしは、昨三十七年の夏以後の事なり。今後は知らず、昨一年は予の宗教的生活史に於ける、はば、光耀くわうえう時代、啓示時代なりきとも見るべく、予は実に昨一年間に於いて、不思議にも三たびまでもこれまでに経験したることなき※(二の字点、1-2-22)やゝ手答へある一種稀有の光明に接したるなり。而して其の最後のものを以て最も驚絶駭絶とす。
 最初の経験は昨年七月某日の夜半(日附を忘れたり)に於いて起こりぬ。予は病に余儀なくせられて、毎夜半およそ一時間がほど、床上に枯坐するならひなりき。その夜もいつもの頃、目覚めて床上に兀坐こつざしぬ。四壁沈々、澄みとほりたる星夜ほしよの空の如く、わが心一念のくもりけず、えに冴えたり。爾時そのとき、優におぼろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜よろこびひそかに心の奥にあふれ出でて、やがておもむろに全意識を領したり。この玲瓏れいろうとして充実せる一種の意識、この現世うつしよの歓喜と倫を絶したる静かにさびしく而かも孤独ならざる無類の歓喜は凡そ十五分時がほども打続きたりとぼしきころ、ほのかに消えたり。(本書〔『病間録』〕一七九頁「宗教上の光耀」と題する一篇のうちに、感情的光耀につきて記したる一節は、この折の経験に基づきて物したるなり。予は従来とても多少これに類したる経験を有せざりしにはあらざりしが、此の夜のに於けるが如く純粋にして充実せるは無かりき。)予は未だありしこの夜の経験の深きこゝろを測りつくし辿たどり尽くすことあたはず。今なほ折※(二の字点、1-2-22)当夜の心状を朧ろに想起しては、天上生活の面影をしばし地上にしのぶの感あるなり。
 今一つは昨年九月末の出来事につながれり。予は久しぶりにて、わが家より程遠からぬ湯屋に物せんとて、家人にたすけられて門を出でたり。折りしもれ渡りたる秋空の下、町はづれなる林巒りんらん遠く夕陽を帯びたり。予はこの景色を打眺うちながめて何となく心をどりけるが、この刹那せつな忽然こつぜんとして、吾れは天地の神ととも同時にこの森然たる眼前の景を観たりてふ一種の意識に打たれたり。唯だこの一刹那の意識、かも自ら顧みるに、其は決して空華幻影のたぐひにあらず。鏗然かうぜんとして理智を絶したる新啓示として直覚せられたるなり。予は今尚ほ其の折を回想して、吾れ神とともに観たりてふその刹那の意識を批評し去る能はず。
 終はりに語らんとするもの、是れさきに驚絶駭絶の経験と言ひたるものにして、これまで予が神の現前につきて経験せるもののうち、かくばかり新鮮、赫奕かくえき、鋭利、沈痛なるはあらじと思はるゝ程なり。予は今なほ之れを心上に反覆再現し得ると共に、※(二の字点、1-2-22)ます/\其の超越的偉大に驚き、倍※(二の字点、1-2-22)其の不動の真理なるを確めつゝあり。左に掲ぐるは、当時の光景を略叙してさる友に書き送れる書翰しよかんの大旨なり。
やぶから棒にさふらへども、いつぞや御話しいたし候ひし小生あの夜の実験以来、驚きと喜びとの余勢、一種のインスピレーションやうのもの存続いたしさふらひて、躰にも多少の影響なきを得ず候ひき。
の事ありてこのかた、神に対する愛慕一しほ強く相成申候あひなりまうしさふらふ如何いかにすればこの自覚を他に伝へ得べきとは、この頃の唯一問題にて候也。一面にはこの自覚、人に知られたしとの要求有之これあり候へど、他の一面には、更に真面目まじめに、厳粛に、世の未だこの自覚に達せず又は達せんとて悩みつゝある多くの友に対する同情を催起いたしをり候。この事によりて、小生幾分か、釈迦しやかの大悲や、基督キリストの大愛を味ひ得たる感有之候也。
本年のうち小生はこれとあはせて三たびほど触発の機会を得申候。他の二つの場合(前にべたるものをす)も今おもひ出だし候てだに心をどりせらるゝ一種の光明、慰藉ゐしやに候へども、先日御話いたしし実験は、最も神秘的にしてまた最も明瞭に、インテンスのものに候ひき。君よ、この特絶無類とも申すべき一種の自覚のこゝろをば誰れとともにか語り候ふべき。げにの夜は物静かなる夜にて候ひき。一燈の下、小生は筆を取りて何事をか物し候ひし折のことなり、如何なる心のはずみにか候ひけむ、唯だ忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成あひなり筆の動くそのまゝ墨の紙上に声するそのまゝすべて一々超絶的不思議となつて眼前に耀き申候。この間わづかに何分時といふ程に過ぎずと覚ゆれど、かもこの短時間に於ける、はば無限の深き寂しさの底ひより、堂々と現前せる大いなる霊的活物とはたと行き会ひたるやうの一種の Shocking 錯愕驚喜の意識は到底筆舌の尽くし得る所にあらず候。唯だ兄の直覚に訴へて御推察を乞ふの外之れなく、今はその万一をだに彷彿はうふつするあたはず候。
兄よ、如何にか思ひ給ふ、小生の如き一面随分批評的、学究的精神をもてるものに、このやうな東洋的、中世紀的とも申すべき神秘的実験あるべしとは、如何にもあり得まじき不思議事と思ひ給はずや。小生自身にも、其の後両三日の間は、何だかきつねにでもつまゝれたるやうの心地いたし候ひしが、程たつに従ひ、くだんの自覚は※(二の字点、1-2-22)ます/\明瞭確実と相成、其の驚絶の事実は、不壊金剛ふゑこんがうの真理となつて光明を放ち来たり申候。今日は最早もはや一点動かすべからざる、疑ふべからざる心霊上の事実となり、力と相成申候。(下略)
 これ実に昨十一月の某夜、十一時頃に起こりたる出来事なりとす。予はこの実験につきては、最早言ふ所なかるべし、そは如何なる妙文辞をやとひ来たるとも、最早こゝに書き記したるより以上の事を説き明かし得べくも思はれざれば也。真理は簡明也。真理をして真理自らを語らしめよ。言詮の繁重は真理のわづらひ也。
 さあれ予はくだんの見神の意識につきて、今一つの言説すべき者あるを感じたり。そは他にもあらず、予がさきに「我が我ならぬ我となりたり」といひ、「霊的活物とはた行き会ひたり」と言へるが如き言葉の、ほやゝ疎雑ルーズの用法ならざるとの疑ひ、読者にあらんかとも思ひたれば也。されば、予をして今一度最も厳密に件の意識を言ひ表はさしむれば、今まで現実の我れとして筆りつゝありし我れがはつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在とりたるの意識我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識とも言ふべき。これ予が超絶、驚絶、駭絶の事実として意識したる刹那の最も厳密なる表現也。予は今、これ以上、又以外にこの刹那に於ける見証の意識を描くの法を知らざる也。予は如是かくのごとくに神を見たり、如是に神に会へり。いな見たりといひ会へりといふの言葉は、なほ皮相的、外面的にしてとてもこの刹那の意識を描尽するに足らず、其は神我の融会也、合一也、其の刹那に於いて予みづからはほとんど神の実在に融け合ひたるなり。われすなはち神となりたる也。感謝す、予はこの驚絶、駭絶の意識をば、直接に、端的に、神より得たり、一毫いちがう一糸だに前人の証権をなかだちとし、しくは其の意識に依傍したる所あらざる也。(彼等が間接なる感化は言はず。)
 顧みるに、予が従前の宗教的信仰といふもの、自得自証より来たれるは少なく、基督キリスト其の他の先覚の人格を信じ、若しくは彼等が偉大なる意識を証権として、其れに依りうておぼろげに形づくりたる者、その多きに居りし也。なかばは他の声に和し、他の意識を襲うて、神をも見たりと感じ、神の愛をも知りぬと許したりし也。即ち間接に他より動かさるゝ所、其の多きに居りし也。後深く内部生活に沈潜するに及びては、一切前人の証権をなげうち去つて、自ら独立にわが至情の要求に神の声を聴かむとしぬ。わがもとめはむなしからず、予はわが深き至情の宮居にわが神いましぬと感じて幾たびか其の光明に心をどりけむ。吾が見たる神は、最早きの因襲的偶像、又は抽象的理想にはあらざりし也。されどかく端的に見たりと感じたりしわが神の、尚ほ一重の薄紗はくしやを隔てたる如き感はあらざりし、水に映りし花の、朧ろのこゝろを著けざりし乎。予は過去の幼穉えうちなる朧げなる経験をば一切虚也、誤也、又は無意義なりとするものにあらず。予は過去一切の経験を貴ぶ。それら皆其の折の機根相応に神を見たる真実無妄むまうの経験として、わが宗教生活史の一鎖一環をなす者にあらずや。謝せよ、これ皆上天のたまもの也。だ、予は従来の一切の経験を以て、わが不動の信念のいしずゑとせんには、尚ほしかすがに一点の虧隙きげきあるを感ぜざるを得ざりし也。予が従来の見神の経験なるもの、はば、春の夜のあやなきやみに、いづことしもなき一脈の梅が香を辿たどり得たるにもたとへつべし。たしかにそれとるけれど、なほほのかにかすかなりき。而して今や然らず。わが天地の神は、白日魄々とう/\驚心駭魄きやうしんがいはくの事実として直下当面に現前しぬ。何等の祝福ぞ、末代下根の我等にして、この稀有けう微妙の心証を成じて、無量ののりの喜びにあづかるを得べしとは。
 とは、吾人の宗教生活に於ける三大要義也。三者は相済あひな相資あひたすけて、其の価値に軒輊けんちすべき所あるを見ず。だゞ予は、予みづからの所証に基づきて、の一義に従来慣視以上の重要義を附せんとす。人やゝもすればとを対せしめては、の一義に宗教上千鈞せんきんの重きをくを常とし、而しての一義に至りては之れを説くものまれ也、いはんや其の光輝ある意義を※(「てへん+確のつくり」、第4水準2-13-36)かくきするものに於いてをや。されど、予は信ず、偉大なる信念の根柢こんていには、常に偉大なる見神あることを。真に神をずして真に神をずるものはあらず。基督の信は、常にうちに神を見、神の声をけるより来たり、ポーロの信は、其のダマスコ途上驚絶の天光に接したるよりき出でたり。菩提樹ぼだいじゆ下の見証や、ハルラ山洞の光耀や、今一々わづらはしく挙証せざるも、真の見神の、偉大なる信念の根柢たり、又根柢たるべきは了々火よりもあきらかなり。なき信は盲信となり、頑信となり、他律信となり、外堅きが如くして内自らたのむ所なきの感を生ずべし。我等が神を信ずと言ひて、尚ほ自ら顧みて、どことなく其の信念の充実せざるを感ずることあるは、是れ尚ほ未だ面相接して神を見ざるがゆゑにあらずや。「見ずして信ずるものはさいはひなり」、「信仰は未だ見ざる所を望んで疑はず」などいふ古言もあることなれど、是れ未だ真理の両端を尽くしたるものとは言ふべからず。見ざる所を信ずる信をして信たらしむるもの、是れやがて既に幾分か見たる所の或物を根柢とせるが故にあらずや。勿論もちろん詮議せんぎを厳にしていはば、見はつひに信に帰著すべし。の尖鋭照著なるもの、即てなりともいふべし。されど、こゝには唯だ普通ふ所の信の一義を取つて言説せるなり。されば予はさにふべし、見ずして信ずるものは幸也、されど見て信ずるものは更に幸也と。而してこゝに謂ふ見るの義がかの基督の一弟子が手もて再生の基督の肉身に触れて、さて始めて彼れを見たりとせるが如き官覚的浅薄の意味ならざるや、論なき也。れ真に神を見て信ずるものの信念は、宇宙の中心より挺出ていしゆつして三世十方をおほふ人生の大樹なる乎。生命いのちの枝葉永遠に繁り栄えて、劫火ごふくわも之れをく能はず、劫風も之れをたふす能はず。
 予は予が見神の実験の、或は無根拠なる迷信ならざるかを疑ひて、この事ありし後、※(二の字点、1-2-22)しば/\之れを理性の法庭に訴へて、其の厳正不仮借なる批評を求めたり。而して予は理性が之れに対して究竟きうきやうの是認以外に何等の言をも※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさあたはざるを見たり。予は又この実験の、予がその折の脳細胞の偶然なる空華ならざりしかをもあやぶみて、虚心屡※(二の字点、1-2-22)之れを心上に再現して、前より、後ろより、上下左右、らす所なく其の本躰を正視透視したり、而して其の事実の、竟に※(「山/歸」、第3水準1-47-93)きぜんとして宇宙の根柢より来たれるを確めたり。されど、予は尚ほこの実験の事実が、万が一にも誇大自ら欺きしものにあらざるかをおそれて、其の後も幾度となく之れを憶起再現し、務めて第三者の平心を持して、仔細しさいに点検したりしが、而かも之れをおもひいづる毎に、予は※(二の字点、1-2-22)ます/\其の驚くべき事実なるを見るのみ。そは到底如実には言ひ表はしがたき稀有けう無類の意識也。今やいよ/\一点の疑をもれがたき真事実とはなりぬ。だ予は、予が今日の分として、この実験の意義、価値の幾許いくばくなるかをはかり知るあたはざるのみ。真理の躰察、あに容易ならんや。予は唯だ所謂いはゆる「悟後の修行」に一念向上するあらんのみ。
 嗚呼あゝ、予が見たる所、感じたる所、すべてくの如し。あるひは余りに自己を説くに急なるふしもありしならん、或は辞藻やゝ繁くして、意義明瞭ならざるふしもありしならん、いづれは予が筆の至らざる所とりやうし給ふべし。予は今尚ほこの事の表現に心を砕きつゝある也。但だ予はくの如くに神を見、而してこれよりいて天地の間の何物を以てしても換へがたき光栄無上なる「吾れは神の子なり」てふ意識のうつとしてうちより湧き出づるを覚えたり。われは宇宙の間に於けるわが真地位を自覚しぬ。吾れは神にあらず、又大自然の一波一浪たる人にもあらず、吾れは「神の子」也、天地人生の経営にあづかる神の子也。何等高貴なる自覚ぞ。この一自覚の中に、救ひも、解脱げだつも、光明も、平安も、活動も、乃至ないし一切人生的意義の総合あるにあらずや。嗚呼吾れは神の子也、神の子らしく、神の子としてふさはしくきざるべからず。かくして新たなる義務の天地の、わが前に開けたるを感じたり。されど顧みれば、吾れ敗残の生、枯槁こかうの躯、一脚歩を屋外に移す能はざるの境にりて、く何をかさむ。吾れ一たびはこの矛盾に泣きぬ。而してやがて「世にある限りなんぢが最善をくすべし、神を見たるもの竟に死なず」てふ強き心証の声を聞きぬ。新たなる力は衷より充実し来たりぬ。それ吾が見たる神は、常に吾れとともまして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや。
(明治三十八年五月)





底本:「現代日本文學大系 96 文芸評論集」筑摩書房
   1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1999年2月19日公開
2020年1月15日修正
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