夙て
硯友社の
年代記を作つて見やうと
云ふ
考を
有つて
居るのでありますが、書いた物は
散佚して
了ふし、
或は
記憶から消え去つて
了つた事実などが多い
為に、
迚も自分
一人で
筆を
執るのでは、十分な事を書く
訳には行かんのでありますから、
其の
当時往来して
居つた
人達に
問合せて、
各方面から事実を
挙げなければ、
沿革と
云ふべき者を書く事は
出来ません、
其に
就て
不便な事は、
其昔朝夕に
往来して文章を見せ合つた仲間の大半は、
始から文章を
以て身を
立る
志の人でなかつたから、
今日では
実業家に
成つて
居るのも有れば
工学家に
成つて
居るのも有る、
其他裁判官も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、
中には
行方不明なのも有る、
物故したのも有る、で、
銘々業が
違ふからして
自から
疎遠に
成る、長い月日には四
方に
散じて
了つて、
此方も会ふのが
億劫で、いつか/\と思ひながら、今だに
着手もせずに
居ると
云ふ
始末です、
今日お話を
為るのは
些の
荒筋で、
年月などは
別して
記憶して
居らんのですから、
随分私の
思違ひも多からうと思ひます、
其は
他日善く
正します、
抑も
硯友社の
起つたに
就ては、
私が
山田美妙君(
其頃別号を
樵耕蛙船と
云ひました)と
懇意に
成つたのが、
其の
動機でありますから、
一寸其の
交際の
大要を
申上げて置く必要が有る、明治十五年の
頃でありましたか東京府の
構内に第二中学と
云ふのが
在りました、
一ツ
橋内の第一中学に対して第二と
云つたので、それが
私が入学した時に、
私より二級上に
山田武太郎なる少年が
居つたのですが、
此少年は
其の
級中の
年少者で
在りながら、
漢文でも、
国文でも、
和歌でも、
詩でも、
戯作でも、字も
善く書いたし、
画も少しは
遣ると
云つたやうな
多芸の
才子で、
学課も
中以上の
成績であつたのは、
校中評判の少年でした、
私は十四五の
時分はなか/\の
暴れ者で、
課業の時間を
迯げては
運動場へ出て、
瓦廻しを
遣る、
鞦韆飛を
遣る、石ぶつけでも、
相撲でも
撃剣の
真似でも、
悪作劇は
何でも
好でした、(
尤も
唯今でも
余り
嫌ひの
方ではない)
然るに
山田は
極温厚で、
運動場へ出て来ても
我々の仲間に
入つた事などは無い、
超然として
独り
静に散歩して
居ると
云つたやうな
風で、今考へて見ると、
成程年少詩人と
云つた
態度がありましたよ、
其が
甚麼機で
相近く事に
成つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが
成立つたのです、
尤も
段々話合つて見ると、五六
才の
時分には
同じ
長屋の
一軒置いた
隣同士で、
何でも
一緒に遊んだ事も有つたらしいので、
那様事から
一層親密に
成つて、
帰路も同じでありましたから
連立つても帰る、
家へ
尋ねて
行く、
他も来る、そこで
学校外の
交を
結ぶやうに
成つたのです、
私は
程無く右の中学を出て、
芝の
愛宕下町に
在つた、
大学予備門の
受験科専門の
三田英学校と
云ふのに
転学しました、それから
大学予備門に入つて二
年経つ
迄、
山田とは
音信不通の
状で
居たのです、
其には
別に
理由も
何も無い、
究竟学校が違つて
了つた所から、お
互に
今日あつて
昨日も
明日も無い
子供心に、
漠然と
忘れて
了つたのです、すると、
私が二
級に
成つた
時、
山田が四
級に入つて来たのです、実に
這麼意外な
想をした事が無い、第二中学に
居た時は
私より二
級上の
山田が、
予備門では二
級下の
組に入つて来たのでせう、
私は
何為た事かと思ひました、
然し、実に
可懐かつたのです、顔を見ると手を
把つて、
直に
旧交が
尋められると
云ふ
訳で、
其頃山田も
私も
猶且第二中学時代と
易らず
芝に
住んで
居ましたから、
往復ともに手を
携へて、
議論を
上下するも大きいが、お
互の
談も
数年前よりは
真面目に
成つた、さて話をして見ると、
山田は文章を
以つて立たうと
云ふ
精神、
私も
同断だ、
私の
此志を
抱いたのは、
予備門に入学して
一年許過ぎての事であるが、
山田は
彼の第二中学に
居る時分から早く
業に
那様了見が有つたらしいのです、
一年前に
其志を
抱いた
私は
未だ小説の
筆は
仇つて見なかつたのであるが、
恐る
可き
哉、
己より
三歳弱い
山田が
既に
竪琴草子なる
一篇を
綴つて、
疾から
価を
待つ者であつたのは
奈何です、
然云ふ物を書いたから、
是非一読して
批評をしてくれと言つて百五六中
枚も有る
一冊の
草稿を
私に見せたのでありました、
其の小説はアルフレツド
大王の
事蹟を
仕組んだもので
文章は
馬琴を
学んで、実に
好く出来て
居て、
私は
舌を
巻きました、なか/\
批評どころではない、
敬服して
了つたのです、
因で考へた、
彼が二
年晩れて
予備門に入つて来たのは、
意味無くして
遅々して
居たのではない、
其間に
余程文章を
修行したものらしい、
増上寺の
行誡上人や
石川鴻斎翁の所へ行つたのは
総て
此間の事で、
而して
専ら
独修をした者と見える、
何でも
西郷隆盛論であつたか、
遊二松島一記であつたか
鴻斎翁が
始て
彼の文章を見た時、年の若いに
似合はぬ
筆つきを
怪んで、
剽窃したのであらうと
尤めたと
云ふ話を聞きましたが、
漢文も
善く書いたのです、
次に
硯友社の
興るに
就いて、第二の
動機となつたのは、
思案外史と
予備門の
同時の
入学生で
相識つたのです、
其頃は
石橋雨香と
云つて
居ました、
是は
私の
竹馬の
友の
久我某が
石橋とはお
茶の
水の
師範学校で
同窓であつた
為に
私に
紹介したのでしたが、
其の理由は第一
私と
好を
同うするし、
且面白い
人物であるから
交際して
見給へと
云ふのでありました、
是から
私が
又山田と
石橋とを
引合せて、
先づ
桃園に
義を
結んだ
状です、
其内に
山田は
芝から
一ツ
橋まで
通学するのは
余り
遠いと
云ふので、
駿河台鈴木町の
坊城の
邸内に
引越した、
石橋は
九段坂上の今の
暁星学校の
在る
処に
居たのですが、
私は
不相変芝から
通つて
居た、
山田と
益親密になるに
就けて、
遠方から通ふのは
不都合であるから、
僕の
家に
寄宿しては
奈何です、と
山田が
云つてくれるから、
願うても無き
幸と、
直に
笈を
負て、
郷関を出た、
山田の
書斎は八
畳の
間でしたが、
其に
机を
相対に
据ゑて、
北向の
寒い
武者窓の
薄暗い
間に
立籠つて、
毎日文学の話です、
此に
二人が
鼻を
並べて
居るから
石橋も
繁く訪ねて来る、
山田は
出嫌ひであつたが、
私は
飛行自由の
方であるから、
四方に
交を
結びました、
処が
予備門内を
普く
尋ねて見ると、なか/\
斯道の
好者が
潜伏して
居るので、それを
石橋と
私とで
頻に
掘出しに
掛つた、すると
群雄四方より
起つて、
響の声に
応ずるが
如しです、
是が
硯友社創立の
導火線と
成つたので、
さて
其頃の
三人の
有様は
如何にと
云ふに、
山田は
勉強家であつたが、
学科の
方はお
役目に
遣つて
居て、
雑書のみを見て
居た、
石橋は
躰育熱心の遊ぶ
方で、
競争は
遣る、
器械躰操は
遣る、ボートは
善く
漕ぐ、
水練は
遣る、自転車で
乗廻す、
馬も
遣る、学科には
平生苦心せんのであつたが、
善く出来ました、
試験の
成績も
相応に
宜しかつた、
私と来ると、
山田とも
付かず
石橋とも付かずでお茶を
濁して
居たのです、
其頃世間に
持囃された
読物は、
春のや
君の
書生気質、
南翠君の
何で有つたか、
社会小説でした、それから、
篁村翁が
読売新聞で
軽妙な
短編を
盛に書いて
居ました、
其等を見て
山田は
能く話をした事ですが、
此分なら一二
年内には
此方も打つて出て
一合戦して見やう、
而して
末には
天下を…………などゝ
云ふ
大気焔も有つたのです、
処へ
或日石橋が来て、
唯恁して
居るのも
充らんから、練習の
為に雑誌を
拵へては
奈何かと
云ふのです、いづれも
下地は
好なりで
同意をした、
就ては
会員組織にして
同志の文章を
募らうと
議決して、
三人が
各自に
手分をして、
会員を
募集する事に
成つた、学校に
居る者、
並に
其以外の者をも
語合つて、
惣勢二十五
人も
得ましたらうか、
其内過半は
予備門の学生でした、
今日になつて見ると、右の会員の
変遷は
驚く
可き
者で、
其内死亡した
者、
行方不明の
者、
音信不通の
者等が有るが、知れて
居る
分では、
諸機械の
輸入の
商会に
居る
者が
一人、
地方の
判事が
一人、
法学士が
一人、
工学士が
二人、
地方の
病院長が
一人、
生命保険会社員が
一人、
日本鉄道の
駅長が
一人、
商館番頭が
築地(
諸機械)と
横浜(
生糸)とで
二人、
漁業者と
建築家とで
阿米利加に
居る
者が
二人、
地方の
中学教員が
一人、
某省の
属官が
二人、
大阪と
横浜とで
銀行員が
二人、
三州の
在に
隠れて
樹を
種ゑて
居るのが
一人、
石炭の
売込屋が
一人、
未だ/\有るが
些と胸に
浮ばない、
先づ
這麼風に
業躰が違つて
居るのです、
而して、
後硯友社員として
文壇に立つた
川上眉山、
巌谷小波、
江見水蔭、
中村花痩、
広津柳浪、
渡部乙羽、などゝ
云ふ
面々は、
此の
創立の
際には
尽く
未見の人であつたのも
亦一奇と
謂ふべきであります、
因で
其[#ルビの「そ」は底本では「その」]の雑誌と
云ふのは、
半紙両截を
廿枚か
卅枚綴合せて、
之を
我楽多文庫と
名け、右の社員中から
和歌、
狂歌、
発句、
端唄、
漢詩、
狂詩、
漢文、
国文、
俳文、
戯文、
新躰詩、
謎も有れば
画探しも有る、
首の
方には小説を
掲げて、
口画も
挿画も有る、
是が
総て社員の手から
成るので、
其の
筆耕は
山田と
私とで
分担したのです、
山田は
細字を
上手に書きました、
私のは
甚だ
醜い、で、小説の
類は
余り
寄稿者が無かつたので、
主に
山田と
石橋と
私とのを
載せたのです、
此の
三人以外に
丸岡九華と
云ふ人がありました、
此人は小説も書けば
新躰詩も作る、
当時既に
素人芸でないと
云ふ
評判の
腕利で、
新躰詩は
殊に
其力を
極めて
研究する所で、
百枚ほどの
叙事詩をも
其頃早く作つて、二三の
劇詩などさへ有りました、
依様我々と
同級でありましたが、
後に
商業学校に
転じて、
中途から
全然筆を
投じて、
今では
高田商会に出て
居りますが、
硯友社の
為には
惜い人を
殺して
了つたのです、
尤も本人の
御為には
其方が
結搆であつたのでせう、
それで、右の
写本を
一名に
付三日間留置の
掟で社員へ
廻したのです、すると、見た者は
鉛筆や
朱書で
欄外に
評などを入れる、
其評を
又反駁する者が有るなどで、なか/\
面白かつたのであります、
此の
第壱号を出したのが
明治十八年の五月二日です、
毎月壱回の
発行で
九号まで続きました、すると、社員は
続々殖ゑる、
川上は
同級に
居りましたので、
此際入社したのです、
此人は
本郷春木町に
居て、
石橋とは
進文学舎の
同窓で、
予備門にも
同時に入学したのでありましたが、
同好の
士であることは知らなかつたと見えて、
是まで
勧誘もしなかつたのでありました、
眉山人と
云ふのは
遥か
後に
改めた名で、
其頃は
煙波散人と
云つて
居ました、
此の
写本の
挿絵を
担当した
画家は
二人で、
一人は
積翠(
工学士大沢三之介君)
一人は
緑芽(
法学士松岡鉦吉君)
積翠は
鉛筆画が
得意で、
水彩風のも
画き、
器用で
日本画も
遣つた、
緑芽は
容斎風を
善く
画いたが、
素人画では無いのでありました、
さて
我楽多文庫の名が
漸く
書生間に知れ
渡つて来たので、
四方から入会を
申込む、
社運隆盛といふ
語を
石橋が
口癖のやうに言つて
喜んで
居たのは
此頃でした、
一冊の本を三四十人して見るのでは
一人一日としても
一月余かゝるので、これでは
奈何もならぬと
云ふので、
機も
熟したのであるから、
印行して
頒布する事に
為たいと
云ふ
説が
我々三名の
間に
起つた、
因で、
今迄は
毎月三銭かの
会費であつたのが、
俄に十
銭と
引上げて、四六
版三十二
頁許の
雑誌を
拵へる
計画で、
猶広く社員を
募集したところ、
稍百
名許を
得たのでした、
此時などは実に
日夜眠らぬほどの
経営で、
又石橋の
奔走は
目覚しいものでした、出版の事は
一切山田が
担任で、
神田今川小路の
金玉出版会社と
云ふのに
掛合ひました、
是は
山田が
前年既に一二の
新躰詩集を
公にして、
同会社を
識つて
居る
縁から
此へ
持込んだので、
此社は
曩に
稗史出版会社予約の
八犬伝を
印刷した事が
有のです、
山田は
既に
其作を
版行した
味を知つて
居るが、
石橋と
私とは
今度が
皮切なので、
尤も
石橋は前から
団珍などに
内々投書して
居たのであつたが、
隠して見せなかつた、
山田も
読売新聞へは
大分寄書して
居ました、
私は天にも地にも
唯一度頴才新誌と
云ふのに
柳を
咏じた
七言絶句を出した事が有るが、
其外には
何も無い、
扨雑誌を出すに
就ては、
前々から
編輯の
方は
山田と
私とが
引受けて、
石橋は
専ら
庶務を
扱つて
居たので、
此の
三人を
署名人として、明治十九年の春に
改めて
我楽多文庫第壱号として出版した、
是が
写本の十
号に
当るので、
表題は
山田が
隷書で書きました、
之に
載せた
山田の小説が
言文一致で、
私の見たのでは
言文一致の小説は
是が
嚆矢でした、
此の雑誌も
九号迄は続きましたが、
依様十号から
慾が出て、会員に
頒布する
位では
面白くないから、
価を
廉くして
盛に
売出して見やうと
云ふので、
今度は四六
倍の
大形にして、十二
頁でしたか、十六
頁でしたか、
定価が三
銭、小説の
挿絵を二
面入れました、
之より
先四六
版時代に
今一人画家が
加りました、
横浜の
商館番頭で
夢のやうつゝと
云ふ名、
実名は
忘れましたが、
素人にしては
善く
画きました、
其後独逸へ行つて、今では
若松の
製鉄所とやらに
居ると聞いたが、
消息を
詳にしません、
四六
版から四六
倍の雑誌に
移る
迄には
大分沿革が有るのですが、今は
能く覚えません、
印刷所も
飯田町の
中坂に
在る
同益社と
云ふのに
易へて、
其頃私は
山田の
家を出て
四番町の
親戚に
寄寓して
居ましたから、
石橋と
計つて、
同益社の
真向に
一軒の
家を
借りて、
之に
我楽多文庫発行所硯友社なる
看板を上げたのでした、雑誌も
既に
売品と
成つた
以上は、
売捌の
都合や
何や
彼やで店らしい者が無ければならぬ、
因で
酷算段をして
一軒借りて、
二階を
編輯室、下を
応接所兼売捌場に
充てゝ、
石橋と
私とが
交る/″\
詰める事にして、
別に
会計掛を置き、
留守居を置き、
市内を
卸売に
行く者を
傭ひ
其勢旭の
昇るが
如しでした、
外に
類が無かつたのか雑誌も
能く売れました、
毎号三千づゝも
刷るやうな
訳で、
未だ
勉めて
拡張すれば
非常なものであつたのを、
無勘定の
面白半分で
遣つて
居た
為に、
竟に
大事を
去らせたとは
後にぞ
思合されたのです、今だに
一つ
話に
残つて
居るのは、
此際の事です、
何でも雑誌を売らなければ
可かんと
云ふので、
発行日には
石橋も
私も
鞄の中へ
何十部と
詰め
込んで、
而して学校へ出る、
休憩時間には
控所の
大勢の中を
奔走して
売付けるのです、
其頃学習院が
類焼して
当分高等中学に
合併して
居ましたから、
此へも持つて行つて
推売るのです、
学生時代の
石橋と
云ふ者は実に顔が広かつたし、
且前に
学習院に
居た事があるので、
善く売りました、
第一其の
形と
云ふものが
余程可笑い、
石橋が
鼻目鏡を
掛けて今こそ
流行るけれど、
其頃は
着手の無いインパネスの
最一倍袖の
短いのを
被て雑誌を持つて
廻る、
私は
又紫ヅボンと
云れて、
柳原仕入の
染返の
紺ヘルだから、
日常に出ると
紫色に見える
奴を
穿いて、
外套は
日蔭町物の
茶羅紗を
黄に
返したやうな、
重いボテ/\したのを着て、
現金でなくちや
可かんよとなどゝ
絶叫する
様は、
得易からざる
奇観であつたらうと
想はれる、
這麼風で
中坂に
社を
設けてからは、
石橋と
私とが
一切を
処理して、
山田は
毎号一篇の小説を書くばかりで、前のやうに社に
対して
密なる
関係を持たなかつた、と
云ふのが、
山田は
元来閉戸主義であつたから、
其の
躯が
恁云ふ
雑務に
鞅掌するのを
許さぬので、
自から
遠かるやうに
成つたのであります、
漣山人は
此頃入社したので、
夙て
一六翁の
三男に
其人有りとは聞いて
居たが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の
内に
山人と
善く
識る者が有つて、
此人の
紹介で
社中に加はる事になつたのでした、
其頃巌谷は
独逸協会学校に
居まして、お
坊さんの
成人したやうな少年で、
始て
編輯室に来たのは学校の
帰途で、
黒羅紗の
制服を着て
居ました、
此人は
何でも十三四の
頃から
読売新聞に
寄書して
居たので、
其の
文章を見た目で
此人を
看ると、
丸で
虚のやうな
想がしました、
後に
巌谷も
此の
初対面の時の事を
言出して、
私の
人物が
全く
想像と
反して
居たのに
驚いたと
云ひます、
甚麼に
反して
居たか聞きたいものですが、ちと
遠方で今
問合せる
訳にも
行きません、
巌谷の
紹介で入社したのが
江見水蔭です、
此人は
杉浦氏の
称好塾に
於ける
巌谷の
莫逆で、
其の
素志と
云ふのが、
万巻の書を読まずんば、
須く
千里の道を
行くべしと、
常に
好んで
山川を
跋渉し、
内に
在れば
必ず
筆を取つて書いて
居る
好者と、
巌谷から
噂の有つた
其人で、
始て社に
訪れた時は
紺羅紗の
古羽織に
托鉢僧のやうな
大笠を
冠つて、
六歩を
踏むやうな
手付をして
振込んで来たのです、文章を書くと
云ふよりは
柔術を取りさうな
恰好で、
其頃は
水蔭亭主人と
名宣つて
居ました、
扨雑誌は
益売れるのであつたが、
会計の
不取締と
一つには
卸売に
行かせた
親仁が
篤実さうに見えて、実は
甚だ
太い
奴であつたのを知らずに
居た
為に、
此奴に
余程好いやうな事を
為れたのです、
畢竟売捌の方法が
疎略であつた
為に、
勘定合つて
銭足らずで、
毎号屹々と
印刷費を
払つて行つたのが、
段々不如意と
成つて、
二号おくれ三
号おくれと
逐れる
有様、それでも
同益社では
石橋の
身元を知つて
居るから強い
督促も
為ず、続いて出版を
引受けて
居たのです、
此の雑誌は
廿一年の五月
廿五日の
出版で、月二回の発行で、
是も九
号迄続いて、
拾号からは
又大いに
躰裁を
改めて(十月
廿五日
出版)
頁数を
倍にして、
別表紙を
附けて、
別摺の
挿画を二
枚入れて、
定価を十
銭に上げました、表紙は
朱摺の
古作者印譜の
模様で、
形は四六
倍、
然して
紙数は無かつたけれど、
素人の
手拵にした物としては、
頗る
上出来で、
好雑誌と
云ふ
評が有つたので、
是が
我楽多文庫の第四期です、
第三期に小説の筆を
執つた者は、
美妙斎、
思案外史、
丸岡九華、
漣山人、
私と
五人であつたが、右の
大改良後は
眉山人と
云ふ
新手が
加つた、
其迄は
川上は
折俳文などを
寄稿するばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、
所が十三号の
発刊に
臨んで、
硯友社の
為に
永く
忘るべからざる
一大変事が
起つた、
其は社の
元老たる
山田美妙が
脱走したのです、いや、
石橋と
私との
此時の
憤慨と
云ふ者は
非常であつた、
何故に
山田が
鼎足の
盟を
背いたかと
云ふに、
之より
先山田は
金港堂から
夏木立と
題する
一冊を出版しました、
是が
大喝采で
歓迎されたのです、
此頃軟文学の
好著と
云ふ者は
世間に地を
払つて無かつた、(
書生気質の有つた外に)
其処へ
山田の
清新なる
作物が
金港堂の
高尚な
製本で出たのだから、
読書社会が
震ひ
付いたらうと
云ふものです、
因で、
金港堂が
始て
此の
年少詩人の
俊才を
識つて、
重く
用ゐやうと
云ふ
志を
起したものと考へられる、
此時
金港堂の
編輯には
中根淑氏が
居たので、
則ち
此人が
山田の
詞才を
識つたのです、
其と
与に
一方には小説雑誌の
気運が
日増に
熟して来たので、
此際何か発行しやうと
云ふ
金港堂の
計画が有つたのですから、
早速山田へ
密使が
向つたものと見える、
此方は
暢気なものだから
那様事とは
些も知らない、
山田も
亦気振にも見せなかつた、けれども
前にも言ふ
如く、
中坂に社を
設けてからは、
山田は
全く
社務に
与らん姿であつたから、社の方でも
山田の
平生の
消息を
審にせんと
云ふ
具合で、
此の
隙が
金港堂の
計を
用る所で、
山田も
亦硯友社と
疎であつた
為に
金港堂へ心が動いたのです、
当時は
実に
憤慨したけれど、考へて見れば
無理の無い所で、
而して
此間の事は
硯友社のヒストリイから
云ふと大いに
味ふ
可き
一節ですよ、
其内に
金港堂に
云々の計画が有ると
云ふ事が耳に
入つた、
其前から
達筆の
山田が思ふやうに
原稿を
寄来さんと
云ふ
怪むべき事実が有つたので、
這は
捨置き
難しと
石橋と
私とで
山田に
逢に
行きました、すると
金港堂一
件の話が有つて、
硯友社との関係を
絶ちたいやうな
口吻、
其は
宜いけれど、
文庫に
連載してある小説の
続稿だけは送つてもらひたいと
頼んだ、
承諾した、
然るに
一向寄来さん、
石橋が
逢ひに行つても
逢はん、
私から手紙を出しても返事が無い、もう
是迄と
云ふので、
私が筆を取つて
猛烈な
絶交状を送つて、
山田と
硯友社との
縁は
都の
花の発行と
与に
断れて
了つたのです、
刮目して待つて
居ると、
都の
花なる者が出た、本も
立派なれば、
手揃でもあつた、
而して
巻頭が
山田の文章、
憎むべき
敵ながらも
天晴書きをつた、
彼の文章は
確に二三
段進んだと見た、さあ
到る
処都の
花の評判で、
然しも
全盛を
極めたりし
我楽多文庫も
俄に
月夜の
提灯と
成つた、けれども火は
消えずに、十三、十四、十五、(
翌二十二年の二月
出版)と
持支へたが、それで
到頭落城して
了つたのです、
此の
滅亡に
就いては三つの
原因が有るので、(一)は
印刷費の
負債、(二)は
編輯と会計との
事務が
煩雑に
成つて来て、
修学の
片手業に
余るのと、(三)は
金港堂の
優勢に
圧れたのです、それでも
未だ
経済の立たんやうな事は無かつたのです、
然し
労多くして
収むる所が
極めて少いから
可厭に
成つて
了つたので、
石橋と
私と
連印で、
同益社へは
卅円の
月賦かにした二
百円余の
借用証文を入れて、それで
中坂の店を閉ぢて
退転したのです、
此の
前年の
末に
私を
訪ねて来たのが、
神田南乗物町の
吉岡書籍店の
主人、
理学士吉岡哲太郎君です、
私が
文壇に立つに
就いては、
前後三人の
紹介者を
労したので、
其の第一が
此の
吉岡君、
則ち
新著百種の
出版元です、第二は
文学士高田早苗君、
私が
読売新聞に
薦められた、第三は
春陽堂の主人
故和田篤太郎君、
私の新聞に出した小説を
必ず
出版した人、
其の
吉岡君が来て、
毎号一篇を
載せる小説雑誌を出したいと
云ふ話、そこで
新著百種と
名けて、
私が
初篇を書く事に
成つて、二十二年の二月に
色懺悔を出したのです、
私が
春のや
君に
面会したのも、
篁村君を
識つたのも、
此の
新著百種の
編輯上の関係からです、それから
又此の
編輯時代に
四人の
社中を
得た、
武内桂舟、
広津柳浪、
渡部乙羽、
外に
未だ
一人故人に
成つた
中村花痩、
此人は
我楽多文庫の
第二
期の
頃既に入社して
居たのであるが、
文庫には書いた物を出さなかつた、
俳諧は
社中の
先輩であつたから、
戯に
宗匠と
呼んで
居た、
神田の
五十稲荷の
裏に
住んで、
庭に
古池が
在つて、
其畔に
大きな
秋田蕗が
茂つて
居たので、
皆が
無理に
蕗の
本宗匠にして
了つたのです、
前名は
柳園と
云つて、
中央新聞が
創立の
頃に
処女作を出した事が有る、
其に
継いでは
新著百種の
末頃に
離鴛鴦と
云ふのを書いたが、
那が名を
成す
端緒であつたかと思ふ、
武内と
識つたのは、
新著百種の
挿絵を
頼みに行つたのが
縁で、
酷く
懇意に
成つて
了つたが、
其始は
画より人物に
惚れたので、
其頃武内は
富士見町の
薄闇い
長屋の
鼠の
巣見たやうな
中に
燻つて
居ながら
太平楽を
抒べる元気が
凡でなかつた、
広津と知つたのは、
廿一年の春であつたか、
少年園の
宴会が
不忍池の
長亭に
在つて、
其の
席上で
相識に
成つたのでした、
其頃博文館が
大和錦と
云ふ小説雑誌を出して
居て、
広津が
編輯主任でありました、
乙羽庵は始め
二橋散史と
名つて
石橋を
便つて来たのです、
其時は
累卵之東洋的悲憤文字を書いて
居たのを、
石橋から
硯友社へ
紹介して、
後に
新著百種に
露小袖と
云ふのを
載せました、
それから
一時中絶した
我楽多文庫です、
吉岡書籍店が
引受けて見たいと
云ふので、
直に
再興させて、
文庫と
改題して、
形を
菊版に
直しました、
是は
新著百種の
壱号が出ると
間も無く
発行したので、
我楽多文庫の
第五期に
成る、
表画は
故穂庵翁の筆で
文昌星の
図でした、
是が
前の
廃刊した号を追つて、二十二
号迄出して、二十二年の七月
廿三号の表紙を
替へて(
桂舟筆花鳥風月の
図)
大刷新と
云ふ
訳に
成つた、
頻に
西鶴を
鼓吹したのは
此の時代で、
柳浪、
乙羽、
眉山、
水蔭などが
盛に書き、
寒月露伴の
二氏も
寄稿した、
而して
挿絵は
桂舟が
担当するなど、
前々の紙上から見ると
頗る
異色を帯びて
居ました、
故に
之を
第六
期と
為る、
我楽多文庫の
生命は
第六
期で
又姑く
絶滅したのです、二十二年の十月発行の
廿七号を
終刊として、
一方には
都の
花が有り、
一方には
大和錦が有つて、いづれも
頗る
強敵、
吾が
版元も
苦戦の
後に
斃れたのです、
然し、十一月に
又吉岡書籍店の
催で、
柳浪子を
主筆にして
小文学と
云ふ
小冊子を発行した、
是とても
謂はゞ
硯友社機関でありました、
抑も
[#「抑も」は底本では「仰も」]九と
云ふ
数は
硯友社に取つては
如何なる
悪数であるか
此小文学も
亦九号にして
廃刊する
始末、(二十三年四月)
廿二年の十二月でした、
篁村翁が
読売新聞社を
退いたに
就いて、
私に入社せぬかと
云ふ
高田氏からの
交渉でしたから、
直に
応じて、
年内に
短篇を書きました、
翌廿三年の七月になると、
未だ
妄執が
霽れずして、
又々江戸紫と
云ふのを出した、
是が九号の
難関を
踰へたかと思へば、
憐むべし、
其の
歳の
暮十二号にして、
又没落、
之が
為に無けなしの
懐裏を百七十円ほど
傷めて、
吽と参つた、
仮に
小文学をも
硯友社の
機関に
数へると、
其が第七期、
是が第八期で、
未だ第九期なる者が有る、
余り人は知らぬが、
千紫万紅と
云つて、
会員組織にして出した者で、
硯友社の
機関と
云ふのではなく、
青年作家の
為であつたから、社名も別に
盛春社として、
私の
楽半分に発行した、
是は
廿四年の六月が
初刊であつたが、例の九号にも
及ばずして
又罷めて
了つたのです、
小栗風葉は
此の会員の
中から出たので、
宅に来たのは
泉鏡花が
先ですが、
私が文章を
扱つたのは
風葉(
其頃拈華坊)の方が早い、
廿四年中に
雑誌編輯の手を洗つてから、
茲に
年を
経ること九年になります、
処が
此の九の字が
又不思議で、実は
来春にも
成つたら、
又々手勢を
率て
雑誌界に打つて出やうと
云ふ計画も有るのです、第九期まで有つて十期の無いのは
甚だ
勘定が悪いから、
是非第十期を
造りたいと
云ふ
考も有るので、
段々追想して見ると、
此の九年間の
硯友社及び
其の
社中の
変遷は
夥しいもので、書く
可き事も
沢山有れば書かれぬ事も
沢山ある、なか/\
面白い事も有れば、
面白くない事も有る、
成効あり、
失敗あり、
喜怒有り
哀楽ありで、一部の
好小説が出来るのです、で
又今後の
硯友社は
如何と
云ふのも
面白い問題で、九年の
平波に
掉して
居た
私の
気運も、来年以後は
変動を
生ずるであらうと
念はれるのです、
硯友社の
沿革に
就いては、
他日頗る
詳しく
説く
心得で
茲には
纔に
機関雑誌の
変遷を
略叙したので、それも
一向要領を
得ませんが、お話を
為る用意が無かつたのですから、
這麼事で
御免を
蒙ります、
(明治34[#「34」は縦中横]年1月1日「新小説」第6年第1巻)