人柱の話

南方熊楠




(南方閑話にも收めたれど、一層増補したる者を爰に入る)

 建築土工等を固めるため人柱を立てる事は今も或る蕃族に行なはれ其傳説や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば印度の土蕃が現時も之を行なふ由時々新聞にみえ、ボムパスのサンタルパーガナス口碑集に王が婿の強きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池の中に乘馬のまゝ婿を立せると流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄きた、吾が膝まできた、脊迄きたと唄ひ乍ら、彌々水に沒した。其跡を追つて妻も亦其池に沈んだ話がある。源平盛衰記にも又清盛が經の島を築く時白馬白鞍に童を一人のせて人柱に入れたとあれば乘馬の儘の人柱も有つたらしい。但し平家物語には、人柱を立てようと議したが罪業を畏れ一切經を石の面に書いて築いたから經の島と名附けたとある。
 今少し印度の例を擧げると、マドラスの一砦は建築の時娘一人を壁に築き込んだ。チユナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘を其地神に牲にし、其れがマリー乃ち其處の靈と成り凶事ある毎に祭られる。カーチアワールでは城を築いたり塔が傾いたり池を掘るも水が溜らぬ時人を牲にした。シカンダールブール砦を立てた時梵種一人とヅサード族の娘一人を牲にした。ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時村長の娘を牲にして水が溜つた。シヨルマット砦建立の際一方の壁が繰返し落ちたので或る初生の兒を生埋すると最早落ちなんだといふ。近頃も人口調査を行なふ毎に僻地の民は是は橋等の人柱に立てる人を選ぶ爲めだと騷ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるゝ毎に嬰兒を人柱に取られると驚惶する。(一八九六年版クルックの北印度俗宗及俚俗卷二頁一七四。一九一六年版ホワイトヘッドの南印度村神誌六〇頁)パンジャブのシァルコット砦を築くに東南の稜堡が幾度も崩れたので、占者の言に據り寡婦の獨り子の男兒を牲にした。ビルマにはマンダレイの諸門の下に人牲を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍を分ち埋めて其砦を難攻不落にし、甚しきは土堤を固めん爲め皇后を池に沈めた。一七八〇年頃タヴォイ市が創立された時、諸門を建るに一柱毎の穴に罪囚一人を入れ上より柱を突込んだ故四方へ鮮血が飛び散つた。其靈が不斷其柱の邊にさまよひ近付く者を害するより全市を無事にすと信ぜられたのだ。(タイラー原始人文篇、二版一卷、一〇七頁。バルフォールの印度百科全書三版四七八頁)
 支那には春秋時代呉王闔閭の女藤王がすてきな疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した。王之を痛み、大きな冢を作つて金鼎玉杯銀樽等の寳と共に葬むり、又呉の市中に白鶴を舞はし萬民が觀に來たところ、其男女をして鶴と共に冢の門に入らしめ機を發して掩殺した。(呉越春秋二。越絶書二)生を殺して以て死に送る國人之を非とするとあるから無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意も有つたらう。史記の滑稽列傳に見えた魏の文侯の時、※(「業+おおざと」、第3水準1-92-83)の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の豫防としたは事頗ぶる人柱に近い。ずつと後に唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて呉れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に祷ると水が退いた。扨程なく其娘が疾ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者子儀を徳とし之を祠り河涜親家翁乃ち河神の舅さまと名づけた。現に水に沈めずとも水神に祀られた女は久しからぬ内に死すると信じたのだ。又漢の武帝は黄河の水が瓠子の堤防を切つた時卒數萬人を發して之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが奏功せず。漢の王尊東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ白馬を沈め珪璧を執り巫をして祝し請はしめ自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故太守自ら人柱に立たんとした。元代に浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて何度築ても成らず、官から責らるゝを歎き、自ら股肉を割て水に投入れると忽ち堤が成たから股堰と名けたとは、河伯もよくよく女の股に思し召が有つたのだ(琅邪代醉篇三三。史記河渠書。淵鑑類函三六、三四〇、四三三。大清一統志一八○)。本邦にも經の島人柱の外に陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある。(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の説)江州淺井郡の馬川は洪水の時白馬現じて往來人を惱ます。是は本文に述べた白馬に人を乘せ、若くは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて馬の幽靈てふ迷信ばかり殘つたと見える。其から大夏の赫連勃々が叱干阿利をして城を築かしめると、此者工事は上手だが至つて殘忍で土を蒸して城を築き、錐でもみためして一寸入ればすぐ其處の擔當者を殺し、其屍を築き込んだ。かくて築き立てた寧夏城は鐵石程堅く、明の※(「口+孛」、第4水準2-3-90)拜の亂に官軍が三月餘り圍んで水攻め迄したが内變なき間は拔けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建た時、四方から工夫を集め日夜休みなし物食はずに苦役せしめ、仆るれば壁上に其體をなげかけ其上に壁を築かしめた。後ち土民がデーン人を追拂ふた時、此城が最後に落ち父子三人のみ生きて囚はれた。一同直ちに殺さうと言つたが一人勸めて之を助命し、其代りアイリッシユ人が常に羨やむデーン人特長のヘザー木から美酒を造る秘訣を傳へよと言ふた。初めは中々聴き入れなんだがとう/\承引して、去らば傳へよう、だが吾れ歸國して後ち此事が泄れたら屹度殺さるゝから只今眼前に此二子を殺せ、其上で秘訣を語らうと述べた。變な望みだが一向此方に損の行かぬ事と其二子を殺すと老父「阿房共め、吾二子年若くて汝等に説かれて心動き、どうやら秘訣を授けさうだから殺させた、もはや秘訣は大丈夫洩るゝ氣遣ひがないわい」と大見得を切つたのでアイリツシユ人大に怒り、其老人を寸斷したが造酒の秘法は今に傳はらぬさうだ。是等は人屍を築き込むと城が堅固だと明記はし居らぬが、左樣信じたればこそ築き込んだので、其信念が堅かつたに由つて極めてよく籠城したのだ。(近江輿地誌畧八五。五雜爼四。一八五九年版、ノーツ・エンド・キーリース撰抄、一〇一頁)予が在英中親交したロバート・ダグラス男が玉篋卦てふ占ひ書から譯した文をタイラーの原始人文篇、二版一卷一〇七頁に引いたが「大工が家を建て初めるに先づ近處の地と木との神に牲を供ふべし。其家が倒れぬ樣と願はゞ、柱を立てるに何か活きた物を下におき其上に柱を下す。扨邪氣を除く爲め斧で柱を打ちつゝよし/\此内に住む人々は毎も温かで食事足るべしと唱へる」とある。之に反し工人が家を建るに種々と其家と住人をまじなひ破る法あり、(遵生八牋七)紀州西牟婁郡諸村には大工が主人を怨み新築の家を呪して白蟻を招き害を加ふる術ある樣にきく。
 日本で最も名高いのは例の「物をいふまい物ゆた故に、父は長柄の人柱」で、姑らく和漢三才圖會に従ふと、初めて此橋を架けた時水神の爲に人柱を入れねば成らぬと關を垂水村に構へて人を捕へんとす。そこへ同村の岩氏某がきて人柱に使ふ人を袴につぎあるものときめよと差いでた。所がさういふ汝こそ袴につぎがあるでは無かと捕はれて忽ち人柱にせられた。其弔ひに大願寺を立てた。岩氏の娘は河内の禁野の里に嫁したが、口は禍ひの本と父に懲りて唖で押通した。夫は幾世死ぬよの睦言も聞かず、姿有つて媚無きは人形同然と飽き果て送り返す途中、交野の辻で雉の鳴くを聞き射にかゝると駕の内から妻が朗らかに「物いはじ父は長柄の人柱、鳴ずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美聲を持ちながら今迄俺獨り浪語させたと憤る内にも大悦びで伴返り、それより大聲揚げて累祖の位牌の覆へるも構はずふざけ通した慶事の紀念に雉子塚を築き杉を三本植付けたのが現存すてな事だ。この類話が外國にも有り埃及王ブーシーリスの世に九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス毎年外國生れの者一人を牲にしたらよいと勸めたところが、自分が外國生れ故イの一番に殺された由。(スミスの希羅人傳神誌名彙卷一)左傳には賈太夫が娶つた美妻が言はず笑はず、雉を射取つて見せると忽ち物いひ笑ふたとある。(昭公二十八年)
 攝陽群談一二に嵯峨の弘仁三年六月岩氏人柱に立つたと見え、卷八に其娘名は光照前、美容世に勝れて紅顏朝日を嘲けるばかり也とある。今二つ類話は朝鮮鳴鶴里の土堤幾度築ても成ず、小僧が人柱を立よとすゝめた處ろ、誰も其人なきより乃ちかの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニアの古い唄に大工棟梁マヌリ或る建築に取懸る前夜夢の告げに其成就を欲せば明朝一番に其場へ來る女を人柱にせよと、扨明朝一番に來合せたはマヌリの妻だつたので之を人柱に立てたと云ふのだ。(三輪環氏の傳説の朝鮮二一二頁。一八八九年版ジョーンスとクロップのマジャール俚譚、三七七頁)
 此程の本紙(大正十四年六月廿五日大阪毎日)に誰かゞ橋や築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬといふ樣に書かれたが、井林廣政氏から曾て伊豫大洲の城は立てる時お龜てふ女を人柱にしたのでお龜城と名づくと聞いた。此人は大洲生れの士族なれば虚傳でも無らう。
 横田傳松氏よりの來示に大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱へた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が中つて生埋され、其より崩るゝ事無し。東宇和郡多田村關地の池もオセキてふ女を人柱に入れた傳説ありと。氏は郡誌を編んだ人ときくから特に書付けて置く。
 清水兵三君説(高木敏雄氏の日本傳説集に載す)には雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩其邊を美聲で唄ひ通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍を東北を謠ひながら通れば必ず其娘出て泣くと。是は其娘を弔ふた寺で東北を謠ふ最中を捕はつたとでもいふ譯であらう。現に予の宅の近所の邸に大きな垂枝松あり、其下を夜更けて八島を謠ふて通ると幽公がでる。昔し其邸の主人が盲法師に藝させ八島を謠ふ所を試し切りにした其幽じるしの由。いやですぜ/\。
 英蘭とスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは古城砦鐘樓土牢等にある怪で、不斷亞麻を打ち石臼で麥をつく樣の音を出す。其音が例より長く又高く聞ゆる時其所の主人が死又は不幸にあふ。昔しピクト人は是等の建物を作つた時土臺に人血を濺いだから殺された輩が形を現ずると。後には人の代りに畜類を生埋して寺を強固にするのが基督教國に行はれた。英國で犬又は豚、瑞典で綿羊抔で何れも其靈が墓場を守ると信じた。(一八七九年版ヘンダーソンの北英諸州俚俗二七四頁)甲子夜話の大阪城内に現ずる山伏、老媼茶話の猪苗代城の龜姫、島原城の大女、姫路城天守の貴女等築城の人柱に立つた女の靈が上に引いた印度のマリー同然所謂ヌシと成りて其城を鎭守した者らしい。ヌシの事は末段に述ぶる。
 五月十八日薨ぜられた徳川頼倫侯は屡ば揮毫にてい(編輯者曰く、臥虎の二字を合せた字なれど活字なき故かなの儘にしておく)城倫と署せられた。和歌山城を虎臥山竹垣城といふ所へ漢の名臣第五倫といふのと音が似た故のことと思ふ。そんな六かしい字は印刷に困ると諫言せうと思ふたが口から出なんだ。是もお虎てふ女を人柱にしたよりの山號とか幼時古老に聞いて面白からずと考へたによる。なほ築城の人柱の例若干を集めて置いたが、病人を抱へて此稿を書く故引出し得ぬ。扨家光將軍の時日本に在つた蘭人フランシス・カロンの記に日本の諸侯が城壁を築く時多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願ひ出ることあり。自から好んで敷殺された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、其人許可を得て礎の下に掘つた穴に自ら横はるを重い石を下して碎き潰さる。但しかゝる志願者は平素苦役に飽果てた奴隷だから、望みのない世に永らへてるより死ぬがましてふ料間でするのかも知れぬと。(一八一一年版、ピンカートンの水陸旅行全集七卷六二三頁)
 ベーリング・グールドの「奇態な遺風」に蒙昧の人間が數本の抗に皮を張つた小屋をそここゝ持ち歩いて暫し假住居した時代は建築に深く注意をせなんだが世が進んで礎をすえ土臺を築くとなれば、建築の方則を知ること淺きより屡々壁崩れ柱傾くをみて地神の不機嫌故と心得、驚懼の餘り地の幾分を占め用ふる償ひに人を牲に供へたと。フレザーの「舊約全書の俚俗」には、英國の脱艦水夫ジヤクソンが今から八九十年前フイジー島で王宮改築の際の目撃談を引き居る。其は柱の底の穴に其柱を抱かせて人を埋め頭はまだ地上に出て有つたので問合すと、家の下に人が坐して柱をささげねば家が永く立居らぬと答へ、死んだ人が柱をさゝげる物かと尋ねると、人が自分の命を牲にして迄柱をさゝげる其誠心を感じて、其人の死後は神が柱をさゝげくれると云ふたと。是では女や小兒を人柱にした譯が分らぬから、雜とベーリング・グールド説の方が一般に適用し得ると思ふ。又フレザーは敵城を占領する時抔のマジナヒに斯る事を行ふ由をも説いた。今度宮城二重櫓下から出た骸骨を檢する人々の一讀すべき物だ。
 國學に精通した人より大昔し月經や精液を日本語で何と呼んだか分らぬときく。滿足な男女に必ずある物だが無暗に其名を呼ばなかつたのだ。支那人は太古より豚を飼ふたればこそ家といふ字は屋根の下に豕と書く、アイユランドの邊地でみる如く人と豚と雜居したとみえる。其程支那に普通で因縁深い豕の事をマルコ・ポロがあれだけ支那事情を詳述した中に一言も記し居らぬ。又是程大な事件はなきに、一錢二錢の出し入れを洩さず帳付けながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人は先づないらしい。本邦の學者今度の櫓下の白骨一件などにあふとすぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱抔全く無かつたなどいふが、是は日記にみえぬから吾子が自分の子でないといふに近い。大抵マジナヒ事は秘密に行ふもので人に知れるときかぬといふが定則だ。其を鰻屋の出前の如く今何人人柱に立つた抔書付べきや。こんなことは篤學の士が普ねく遺物や傳説を探つて書籍外より材料を集め研究すべきである。
 中堀僖庵の萩の栞(天明四年再版)上の十一張裏に「いけこめの御陵とは大和國藥師(寺か)の後にあり、何れの御時にか釆女御門の御別れを歎き生ながら籠りたる也」是は垂仁帝の世に土偶を以て人に代へ殉葬を止められたに拘らず、後代までも稀れに自ら進んで生埋にされた者が有つたのが史籍に洩れて傳説に存したと見える。所謂殉葬の内には御陵を堅むる爲めの人柱も有つたと察する。と書了りて又搜ると明徳記既に之を記し、藥師寺の邊りに其名を今に殘しける池籠めの御座敷是なるべしとあり。其より古く俊頼口傳集上にもいけごめのみさゝぎとて藥師寺の西に幾許ものかくありと見ゆ。
 又そんな殘酷なことは上古蒙昧の世は知らず二三百年前に在つたと思はれぬなどいふ人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いて自ら二三度振廻し、我此劍で永く子孫を護るべしと顏色いと好かつたといひ、コックスの日記には、侍醫が公は老年故若者程速く病が癒らぬと答へたので家康大に怒り其身を寸斷せしめたとある。試し切は刀を人よりも尊んだ甚だ不條理且つ不人道なことだが、百年前後迄もまゝ行はれたらしい。なほ木馬水牢石子詰め蛇責め貢米賃(是は領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英國にもやゝ似たことが十七世紀までも有つて、ペピース自ら行つたことが其日記に出づ)其他確たる書史に書かねどどうも皆無で無かつたらしい殘酷なことは多々ある。三代將軍薨去の節諸侯近臣數人殉死したなど虚説といひ黒め能はぬ。して見ると人柱が徳川氏の世に全く行はれなんだとは思はれぬ。
 こんな事が外國へ聞えては大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱はどの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ近頃まで其實跡少なくなかつたのは上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二三例を手當り次第列ねると、ロムルスが羅馬を創めた時ファスツルス、キンクチリウス二人を埋め大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。西暦紀元前一一四年羅馬がまだ共和國の時リキニア外二名の齋女犯戒して男と交はり連累多く罪せられた體吾が國の江島騷動の如し、この不淨を祓はん爲めヴェヌス・ヴェルチコルヂアの大社を立た時希臘人二人ゴール人二人を生埋した。コルバム尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壞すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去れば歐洲が基督教に化した後も人柱は依然行はれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張りもてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるてふ考へは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるてふ信念に變つたとベ氏は説いた。是に於て西洋には基督教が行渡つてから人柱はすぐ跡を絶たなんだが之を行ふ信念は變つたと判る。思ふに東洋でも同樣の信念變遷が多少有つただらう。
 なほ基督教一統後も歐洲に人柱が行はれた二三の例を擧げれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴィング・アーチ)には重賞を受けた左官が自分の子を築き込んだ。其子を壁の内に置き菓子を與へ父が梯子に上り職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父忽ち自責の餘り梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同様で母が人柱として子を賣つた。壁が段々高く築き上らるゝと子が「かゝさんまだ見える」次に「かゝさん見えにくゝ成つた」最後に「かゝさんもうみえぬ」と叫んださうだ。アイフェルの一城には若い娘を壁に築き込み穴一つあけ殘して死ぬまで食事を與へた。オルデンブルグのブレクス寺(無論基督教の)を立てるに土臺固まらず、由て村吏川向ふの貧婦の子を買つて生埋にした。一六一五年(大阪落城の元和元年)オルデンブルグのギュンテル伯は堤防を築くに小兒を人柱にする處へ行合せ其子を救ひ、之を賣つた母は禁獄、買つた土方親方は大お目玉頂戴。然るに口碑には此伯自身の城の土臺へ一小兒を生埋にしたといふ。以上は英人が獨逸の人柱の例斗り書き集めた多くの内の四五例だが、獨人の書いたのを調べたら英佛等の例も多からうが餘り面白からぬ事ゆえ是だけにする。兎に角歐洲の方の人柱のやり方が日本よりも殘酷極まる。其歐人又其子孫たる米人が今度の唯一の例を引いて彼是れいはゞ是れ百歩を以て五十歩を責る者だ。

追記 英國で最も古い人柱の話は有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神同然父なし子だつた。初め基督生れて正法大に興らんとした際邪鬼輩失業難を憂ひ相謀つて一の法敵を誕生せしめ大に邪道を張るに決し、英國の一富豪に禍を降し、先づ母をして其獨り息子を鬼と罵らしめて眠中其子を殺すと、母は悔ひて縊死し父も悲んで悶死した。跡に娘三人殘つた。其頃英國の法として私通した女を生埋し、若くは誰彼の別なく望みさゑすりや男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で姉娘先づ淫戒を犯し生埋され、次の娘も同樣の罪で多人の慰さみ物と成つた。季娘大に怖れて聖僧ブレイスに救ひを求め、毎夜祈祷し十字を畫いて寢よと教へられた。暫く其通りして無事だつた處、一日隣人に勸められて飮酒し醉つて其姉と鬪ひ自宅へ迯げ込んだが、心騷ぐまゝ祈祷せず十字も畫かず睡つた處を好機會逸す可らずと邪鬼に犯され孕んだ。斯くて生れた男兒がメルリンで容貌優秀乍ら全身黒毛で被はれて居た。こんな怪しい父なし子を生んだは怪からぬと其母を法廷へ引出し生埋の宣告をするとメルリン忽ち其母を辯護し、吾れ實は強勢の魔の子だが聖僧ブレイス之を豫知して生れ落ちた即時に洗禮を行はれたから邪道を脱れた。予が人の種でない證據に過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと廣言したので判官大に立腹した。メルリン去らば貴公の母を喚べと云ふので母を請じメを別室に延いて吾は誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が旅行中の一夜母が受持僧を引入て會ひ居る處へ夫が不意に還つて戸を敲いたので窓を開いて迯げさせた。其夜孕んだのが判官だ、是が虚言かと詰ると、判官の母暫く閉口の後ち實に其通りと告白した。そこで判官嚴しく其母を譴責して退廷せしめた跡でメルリン曰く、今公の母は件の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙ぢて直ちに橋から川へ飛入つて死ぬと。頓て其通りの成行きに吃驚して判官大にメを尊敬し即座に其母を放還した。其れから五年後ブリトン王ヴ※[#小書き片仮名ヲ、102-3]ルチガーンは自分は前王を弑して位に簒ふた者故いつどんな騷動が起るか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野に立つ高い丘に堅固な城を構へんと工匠一萬五千人をして取掛らしめた。所が幾度築いても其夜の間に壁が全く崩れる。因つて星占者を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生れ居る。彼を殺して其血を土臺に濺いだら必ず成功すると言つた。隨つて英國中に使者を出してそんな男兒を求めしめると、其三人がメルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時メルリンが他の小兒と遊び爭ふと一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ/\を害せんとて魔が生んだ奴だと罵る。扨は是がお尋ね者と三人刀を拔いて立向ふとメルリン叮嚀に挨拶し公等の用向きは斯樣々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらないと云ふ。三使大に驚き其母に逢ふて其神智の事共を聞いて彌よ呆れ請ふてメと同伴して王宮へ歸る。途上で更に驚き入つたは先づ市場で一青年が履を買ふとて懸命に値を論ずるを見てメが大に笑ふた。其譯を問ふに彼は其履を手に入れて自宅に入る前に死ぬ筈と云ふたが果して其如くだつた。翌日發送の行列を見て又大に笑ふたから何故と、尋ねると此死人は十歳計りの男兒で行列の先頭に僧が唄ひ後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割りが顛倒し居る。其兒實は其僧が喪主の妻に通じて産ませた者故可笑しいと述べた。由て死兒の母を嚴しく詰ると果して其通りだつた。三日目の午時頃途上に何事も無きに又大に笑ふたので仔細を質すと只今王宮に珍事が起つたから笑ふた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后頻りに言寄れど從はぬから戀が※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)みに變じ、彼れは妾を強辱しかけたと讒言を信じ、大臣を捉えて早速絞殺の上支解せよと命じた所だ。だから公等の内一人忙ぎ歸つて大臣の男たるか女たるかを檢査し其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよと言ふた。一使早馬で駈付け王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して之を助命したとあるから餘程露骨な檢査をしたらしい。扨是れ漸く七歳のメルリンの告げたところと云ふたので、王早く其兒に逢ふて城を固むる法を問はんと自ら出迎へてメを宮中に招き盛饌を供し、翌日伴ふて築城の場に至り夜になると必ず壁が崩るゝは合點行ぬといふに、其は此地底に赤白の二龍が棲み毎夜鬪ふて地を震はすからと答へた。王乃ち深く其地を掘らしめると果して二つの龍が在り大戰爭を仕出し赤い方が敗死し白いのは消失せた。斯くて築城は功を奏したが王の意安んぜず。二龍の爭ひは何の兆ぞと問ふこと度重なりてメルリン是非なく、王が先王の二弟と戰ふて敗死する知せと明して消え失せた。後ち果して城を攻落され王も后も焚死したと云ふ。(一八一一年版エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁)英國デヴォン州ホルスヲーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時人柱を入れた。アイユランドにも圓塔下より人の骸骨を掘出したことがある(大英百科全書、十一版、四卷七六二頁)。
 一四六三年獨逸ノガットの堰を直すに乞食を大醉させて埋め、一八四三年同國ハルレに新橋を立てるに人民其下に小兒を生埋せうと望んだ。丁抹首都コッペンハーゲンの城壁毎も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ玩具食品をやり他處なく食ひ遊ぶを、左官棟梁十二人して圓天井をかぶせ喧ましい奏樂紛れに壁に築き込でから堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから其大工棟梁の妻を築き込んだ。其時妻が咀ふて今に其橋花梗の如く動遙する。露國のスラヴェ※[#小書き片仮名ン、105-3]クス黒死病で大に荒され、再建の節賢人の訓へに隨ひ、一朝日出前に人を八方に使して一番に出逢ふ者を捕へると小兒だつた。乃ち新砦の礎の下に生埋して之をヂェチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は毎家ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて新たに立つ家の主人或は最初に新立の家に歩みを入れた者がすぐ死すと信ず。蓋し古代よりの風として初立の家には其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では家を立て始める時斧を使ひ初める大工が或る鳥又は獸の名を呼ぶ。すると其畜生は速に死ぬといふ。其時大工に自分の名を呼ばれたらすぐ死なねばならぬから、小農共は大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力める。ブルガリアでは家を建てに掛るに通掛つた人の影を糸で測り礎の下に其の糸を埋める。其人は直ちに死ぬさうだ。但し人が通らねば一番に來合せた動物を測る。又人の代りに鷄や羊などを殺して其血を土臺に濺ぐこともある。セルヴ※[#小書き片仮名ヰ、106-1]アでは都市を建てるに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速かに死すと信じた。昔し其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時晝間仕上げた工事を夜分鬼が壞して已まず。因つて相談して三人の妃の内一番に食事を工人に運び來る者を築き込もうと定めた。王と次弟は私かに之を洩らしたので其妃共病と稱して來らず。末弟の妃は一向知ずに來たのを王と次弟が捕へて人柱に立てた。此妃乞ふて壁に穴を殘し、毎日其兒を伴れ來らせて其穴から乳を呑せること十二ヶ月にして死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣の水が滴るを婦女詣で拜む。(タイラーの原始人文篇、二版一卷、一〇四―五頁。一八七二年版、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁。)
 其からタイラーは人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち一番に通り掛つた人は年内に死ぬ、其禍を他に移さんとて左官が羊鷄を礎の上で殺す、獨逸の古話に橋を崩さずに立てさせくれたら渡り初る者をやらうと鬼を欺むき、橋成つて一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら先づ猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列ねある。日本にも甲子夜話五九に「彦根侯の江戸邸は本と加藤清正の邸で其千疊敷の天井に乘物を釣下げあり、人の開き見るを禁ず、或は云く清正妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に妖怪居て時として内より戸を開くをみるに老婆の形なる者みゆと、數人の所話如是」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺を埋めた如く、人屍の代りに葬式の乘物を釣下げて千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に「世に云ふ姫路の城中にオサカベと云ふ妖魁あり、城中に年久しく住りと、或は云ふ、天守櫓の上層に居て常に人の入るを嫌ふ、年に一度其城主のみ之に對面す、其餘は人懼れて登らず、城主對面する時姥其形を現はすに老婆也と云ひ傳ふ。(中略)姫路に一宿せし時宿主に問ふに成程城中に左樣の事も侍べり、此所にてハッテンドウと申す。オサカベとは言ず、天守櫓の脇に此祠ありて其の神に事ふる社僧あり、城主も尊仰せらると。」老媼茶話に加藤明成猪苗代城代として堀部主膳を置く、寛永十七年極月主膳獨り座敷に在るに禿一人現じ、汝久しく在城すれど今に此城主に謁せず、急ぎ身を淨め上下を著し敬んで御目見えすべしといふ。主膳此城主は主人明成で城代は予なり、外に城主ある筈なしと叱る。禿笑ふて姫路のオサカベ姫と猪苗代の龜姫を知らずや汝命數既に盡たりと云ひ消失す。翌年元朝主膳諸士の拜禮を受けんとて上下を著し廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり其側に葬具を揃えあり、其夕大勢餅をつく音がする。正月十八日主膳厠中より煩ひ付き廿日の曉に死す。其夏柴崎といふ士七尺許りの大入道を切るに古い大ムジナだつた。爾來怪事絶えたと載せある。垂加文集の會津山水記に云く、會津城以鶴稱之、猪苗代城以龜稱之と。これは鶴龜の名を付た二女を生埋したによる名か。又姫路城主松平義俊の兒小姓森田圖書十四歳で傍輩と賭してボンボリを燈し、天守の七階目へ上り三十四五のいかにも氣高き女十二一重をきて讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印しにとて兜のシコロをくれた。持つて下るに三階目で大入道に火を吹消され又取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女乃ちオサカベ姫で有らう。嬉遊笑覧などをみると、オサカベは狐で時々惡戯をして人を騷がせたらしい。扨ラルストン説に、露國の家のヌシ(ドモヴ※[#小書き片仮名ヲ、108-12]イ)は屡々家主の形を現じ其家を經濟的によく取締り、吉凶ある毎に之を知らすが又屡ば惡戯をなすと。而して家や城を建てる時牲にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに龜姫オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成たので後ちに狐狢と混同されたのだらう。又予の幼時和歌山に橋本てふ士族あり、其家の屋根に白くされた馬の髑髏が有つた。昔し祖先が敵に殺されたと聞き其妻長刀を持つて駈付たが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬を刎ね其首を持歸つて置いたと聞いた。然し柳田君の山島民譚集一に馬の髑髏を柱に懸けて鎭宅除災の爲めにし又家の入口に立てゝ魔除とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも丁抹で馬を生埋する如く家のヌシとして其靈が家を衞りくれるとの信念よりしたと考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の横穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟ふ。
 予は餘り知らぬ事だが、本邦でも上述の英國のパウリーや露國のドモヴ※[#小書き片仮名ヲ、109-10]イに似た奧州のザシキワラシ、三河遠江のザシキ小僧、四國の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威し、吉凶を豫示し時々惡戯をなすなど歐洲の所傳に異ならぬ。是等悉く人柱に立てた者の靈にも非るべきが、中には昔し新築の家を堅めんと牲殺された者の靈も多少あることゝ思ふ。飛騨紀伊其他に老人を棄殺した故蹟が有つたり、京都近くに近年迄夥しく赤子を壓殺した墓地が有つたり、日本紀に歴然と大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時自ら縊死して殉し又他人を絞殺し又強て死人の馬を殉殺しとあれば垂仁帝が殉死を禁じた令も洵ねく行はれなんだのだ。扨令義解には信濃國には妻が死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史、八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗は國史に記すこと稀なれば尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には人權乏しい男女小兒を家の土臺に埋めたことは必ず有るべく、其靈を其家のヌシとしたのがザシキワラシ等として殘つたと惟はる。ザシキワラシ等のことは大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又柳田氏の遠野物語等にみゆ。
 数年前の大阪毎日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には由來の知れぬ婦人が時々現はれ、新來の下女などは之を家内の一人と心得ることありと讀んだ。沈香も屁もたきもひりもしないでたゞ現はれるだけらしいが、是も其家のヌシの傳を失した者だらう。其から甲子夜話二二に大阪城内に明ずの間あり、落城の時婦女自害せしより一度も開かず之に入り若くは其前の廊下に臥す者怪異に逢ふと。叡山行林院に兒がやとて開かざる室あり之を開く者死すと。(柳原紀光の閉※(「窗/心」、第3水準1-89-54)自語)昔し稚兒が寃死した室らしい。歐洲や西亞にも佛語で所謂ウーブリエットが中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠め又陷れて自ら死せしめた。現に其家に棲んで全く氣付かぬ程巧みに設けたのもあると云ふ。(バートンの千一夜譚二二七夜譚註)人柱と一寸似たこと故書添へ置く。
 又人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里版タヴエルニエーの波斯紀行一卷六一六頁に盜人の體を四つの小壁で詰め頭だけ出してお慈悲に煙草をやり死ぬ迄すて置く、其切願のまゝ通行人が首を刎ねやるを禁ず、又罪人を裸で立たせ四つの壁で圍ひ頭から漆喰ひを流しかけ堅まる儘に息も泣くこともできず惱死せしむと。佛國のマルセルス尊者は腰迄埋めて三日晒されて殉殺したと聞くが頭から塗り籠られたと聞かぬと、一六二二年に斯る刑死の壁を見てピエトロ・デラワレが書いた。
 嬉遊笑覧卷一上に「東雅に南都に往て僧寺のムロと云ふ物をみしかど上世に室と云し物の制ともみえず、本是れ僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也、そは宮室に成ての製也、上世の遺跡は今も古き窖の殘りたるが九州などには有ると云り、彼土蜘蛛と云し者などの住たる處なるべしとかや、近くは鎌倉に殊に多く是亦上世の遺風なるべし、農民の物を入れおく處に掘たるも多く、又墓穴もあり、土俗是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫をヤグラと讀るは箭を納る處なれば也、是は其義には非ず谷倉の義なるべし。因て塚穴をもなべていふ。實朝公の墓穴には岩に彫物ある故に繪かきやぐらといふ。又囚人を籠るにも用ひし迚大塔の宮を始め景清唐糸等が古跡あり」(下略)
 紀州東牟婁郡に矢倉明神の社多し。方言に山の嶮峻なるを倉といふ、諸莊に嶮峻の巖山に祭れる神を矢倉明神と稱すること多し。大抵は皆な巖の靈を祭れるにて別に社がない。矢倉のヤは伊波の約にて巖倉の義ならむとは紀伊續風土記八一の説だ。唐糸草紙に唐糸の前頼朝を刺んとして捕はれ石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても此ヤグラは櫓と同訓ながら別物だ。景清や唐糸がヤグラに因はれたとあるより早計にも二物を混じて、二重櫓の下には因はれ居た罪人の骸骨が今度出たなど斷定する人もあらうかと豫め辯じ置く。
附記   本文は大正十四年六月三十日と七月一日の大阪毎日新聞に掲載のまゝで、其の引用書目と※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)註は七月十一、十二日に書き加へたものに本年八月又増補した者である。





底本:「続南方随筆 覆刻」沖積社
   1992(平成4)年7月20日発行
底本の親本:「續南方隨筆」岡書院
   1926(大正15)年11月1日発行
初出:「變態心理 第十六卷第三號」
   1925(大正14)年9月
※底本の題名の下に書かれている「大正十四年九月變態心理第十六卷第三號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:小林繁雄
校正:染川隆俊
2012年2月8日作成
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●表記について

小書き片仮名ヲ    102-3、108-12、109-10
小書き片仮名ン    105-3
小書き片仮名ヰ    106-1


●図書カード