再び毘沙門に就て

南方熊楠




 丙寅三號五葉裏に黒井君は『南方熊楠氏は毘沙門の名號に就てと題して曰く「此神、前世夜叉なりしが[#「夜叉なりしが」は底本では「夜叉 りしが」]、佛に歸依して沙門たりし功徳により、北方の神王に生れ變つた云々」と書れたが、此事件を信じて居るから申したので有うが、小生の立場からは些の價値がないのである云々。其のみならず、佛の時代と毘沙門の時代が異つて居る』と申された。然し熊楠は價値の有無に拘らず、只々此話の出處を識者に問たである[#「問たである」は底本では「問のたである」]。抑も國土の紀年史さえ無つた印度に、夜叉が神王に轉生した時代が知れ居るだろうか。
 丙寅二號の拙文は、先づクベラ、又クビラが毘沙門だ。とは佛教大辭彙に出あると述た。黒井君はクビラといふ發音は梵語にみえぬと言れたが、梵語程發音の多樣な者なく、其が又、北印度、中央アジア、和漢と移るに伴て色々移り異つた故、一切の梵語にクビラなる發音の有無は餘程精査を要する。佛教大辭彙は、熊楠如き大空の一塵程梵語をカヂリかいたゑせ者よりは恒河沙數倍ゑらい學者が集まり、大枚の黄白を掛て出した者、それに倶肥羅をクビラと訓じ毘沙門の異名とし有ば、クビラといふ梵語も有たとしてよい。拉丁語に羅馬共和時代、帝國時代、帝國衰亡時代、それから羅馬帝國滅後のいかさま語さへ盛んに研究され襲用されおる如く、梵語にも種々の時代と其行はれた國土の異なるにつれ變遷轉訛も有たので、どれも是も梵語に相違ない。
 次に予は、帝釋が毘沙門をクベラと呼で佛の供養をたすけしめたてふ經律留相の文を引て、クベラは實名、毘沙門は通稱の如くみえると云た。佛經に此類の事少なからず。帝釋如きも呼び捨て、又至て親しみ呼ぶには※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)尸迦と名ざされおる。帝釋は通稱、※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)尸迦は氏名らしい。今はこんな事は知れ渡りおるだろうが、明治廿六年、予、大英博物館の宗教部長、故サー・ヲラストン・フランクスより列品の名札付けを頼まれた時、從前佛教諸尊の名號を、尊稱・通稱・實名・氏名何の別ちもなく手當り次第につけあるは、丁度無差別に耶蘇、基督、救世主、ナザレスの大工の忰れと手當り次第呼ぶ樣で不都合なれば、尊稱と通稱に限り名札に書くがよいと進言してそれに決した。少し後に土宜法龍師見えられ、此事を聞て誠に至當な事といはれた。佛教を奉ずる者が釋尊を瞿曇具壽、道教の信徒が老子を李耳などいはば眞の其徒でないと自白するに等し(阿毘達磨大毘婆沙論一八一)。諸教の諸尊にそれ/″\名號が多いが、其名號がみなゴッチャクタに異名といふべきに非ず、種々の用途に隨つて各別の名號が使はれたといふ事の例示迄に、クベラも毘沙門も同一の神の名號乍ら、使用の場合、意味が差ふといふ事を述たのである。
 次に『此神、前世夜叉なりしが佛に歸依して沙門たりし功徳により、北方神王に生れ變つた、云々』の文句は、丙寅第二號の拙文に明記しある通り、アイテル博士の梵漢辭彙一九三頁から引たので、此書(一八八八年龍動ロンドン出版)本名支那佛教學必携、予、在英の頃、佛教の事を調ぶる者が皆な持たもので[#「持たもので」は底本では「持たので」]、アイテルは身支那に居り色々穿鑿したから、支那へ往ねば聞き得ぬ珍説を多く書入れある。黒井君は熊楠が『此事件を信じて居るから申したので有う』と言れた。成る程熊楠は、攝・河・泉三國の太守同樣毘沙門の申し子といふ事で、小兒の時、小學教場でさえ毘沙門の咒を誦した位い之を信仰したが、四十過て一切經を通覽せしもくだんの梵漢辭彙に載せた話を見ず。因て丙寅二號五葉裏の上段十三四行で此話は何の經に出て居るか識者の高教をまつと、明かに自分の無智無識を告白した。アイテルが述た通り毘沙門にも色々あり、古梵教のクヴェラ、現時印度教のクヴェラ、佛教四王天に在て夜叉衆を領する富神毘沙門で、スクモとニシドチト蝉と同じ物乍ら、世態が變るに隨つて形も、姿も、食物も、動作も、生活も全く異なる如く、古梵教のクヴェラと佛教の毘沙門と同じからず。佛教の毘沙門は一切の夜叉の王たるに、印度教のはラヴァナに寶車を奪はるゝ程弱い者なれば是れ亦同じからず。羅摩衍にも佛經と齊しく之を黄金と財富の神としあるに、日本で信貴山が大繁昌するに反し、今の印度でクヴェラの像や畫を求めても得ぬ程薩張りもてない位い是亦違ふ。原來佛教廣博で印度通教の説を取入れたれば、其の諸尊に關する傳説亦委陀やブラナに限らず。印度に古く梵教の外に異類異族の教多かりしは諺になりある程、それに印度邊陲の諸國からトルキスタンや、支那を經て日本へ入る迄に無數雜多の土地の傳説を攝取し居る可れば、委陀やブラナ位い調べた所ろが現存佛教の諸説を解くに足ず。付てはアイテルが述た『此神、前世夜叉なりしが云々』の話が支那の經藏にない以上は、西藏、蒙古、カシュミル、ネパル、セイロン、緬甸、暹羅やトルキスタン邊にそんな話がある事かと識者の高教をまつ次第である。アイテル博士に聞合せば判つた筈だが、熊楠、右の話に初めて氣付た時、聞合せに手懸りなく、其後彼人、物故したと聞て其儘打過て居ました。熊楠は右の話を信ずる處ろか出處さえも知ぬ者なれば、信じてよいか惡いかをさえ判じ得ず。誰かアイテル博士に代つて此話の出處を教えられん事を切望する。
 又、乙丑第二號第二葉裏上段に黒井君は『聖天(乃ち歡喜天)には鼠も付て居る、右手の斧は小槌と代て見て、左手の大根を以て大黒天の二又大根と思へば、茲で始めて大黒天の化身の樣に思はる、けれども何の縁りもないから混合してはならぬ』と述られ、さて其下段には、大黒天を『シヴアの息子ガネサ(歡喜天)の變名ではあるまいかと言るるならば理由もつくが孰れにしても研究の餘地がある』と説れた。研究の餘地が有るなら何の縁りもないと斷ずべからず。この文が發表されたは大正十四年三月だつた。
(大正十五年九月、集古、丙寅第四號)





底本:「南方熊楠全集第六卷 〔文集※(ローマ数字2、1-13-22)〕」乾元社
   1952(昭和27)年4月30日発行
初出:「集古 丙寅第四號」集古会
   1926(大正15)年9月
※誤植を疑った箇所を、「續南方隨筆」岡書院、1926(大正15)年11月1日発行の表記にそって、あらためました。
入力:小林繁雄
校正:フクポー
2017年3月11日作成
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