上
地の底の遠い遠い所から透きとおるような陰気な声が震え起って、
斜坑の上り口まで
這上って来た。
「……ほとけ……さまあああ……イイ……ヨオオオイイ……旧坑口ぞおおお……イイイ……ヨオオオ……イイ……イイ……」
その声が耳に止まった福太郎はフト足を
佇めて、
背後の
闇黒を振り返った。
それはズット以前から、この炭坑地方に残っている奇妙な風習であった。
坑内で死んだ者があると、その死骸は決してその場で僧侶や遺族の手に渡さない。そこに駈け付けた仲間の者の数人が担架やトロッコに
舁き載せて、
忙わしなく行ったり来たりする炭車の間を縫いながらユックリユックリした足取りで坑口まで運び出して来るのであるが、その途中で、曲り角や要所要所の前を通過すると、そのたんびに側に付いている連中の中の一人が、出来るだけ高い声で、ハッキリとその場所の名前を呼んで、死人に云い聞かせてゆく。そうして長い時間をかけて坑口まで運び出すと、医局に持ち込んで検屍を受けてから、初めて僧侶や、身よりの者の手に引渡すのであった。
炭坑の中で死んだ者はそこに魂を残すものである。いつまでもそこに仕事をしかけたまま倒れているつもりで、自分の
身体が外に運び出された事を知らないでいる。だから他の者がその
仕事場に
作業をしに行くと、その魂が腹を立てて
邪魔をする事がある。通り風や、青い火や、幽霊になって現われて、
鶴嘴の
尖端を掴んだり、
安全燈を消したり、
爆発を
不発にしたりする。モット
非道い時には
硬炭を落して殺すことさえあるので、そんな事の無いように運び出されて行く道筋を、死骸によっく云い聞かせて、
後に思いを残させないようにする……というのがこうした習慣の
起原だそうで、年が年中暗黒の底に埋れている坑夫達にとっては、いかにも道理至極であり、涙ぐましい儀式のように考えられているのであった。
今運び出されているのは旧坑口に近い
保存炭柱の
仕事場に掛っていた
勇夫という、若い坑夫の死骸であった。むろん福太郎の
配下ではなかったが、
目端の利くシッカリ者だったのに、思いがけなく落盤に打たれてズタズタに粉砕されたという話を、福太郎はタッタ今、通り
縋りの坑夫から聞かされていた。又、呼んでいる声は
吉三郎という年輩の坑夫であったが、この男は
嘗て一度、この山で大爆発があった際に、坑底で吹き飛ばされて死んだつもりでいたのが、間もなく息を吹き返してみると、いつの間にか太陽のカンカン照っている草原に運び出されて、医者の介抱を受けている事がわかったので、ビックリしてモウ一度気絶したことがあった。だからそれ以来、一層深くこの迷信に
囚われたものらしく、死人があるたんびに駈け付けると、仕事をそっち
除けにして、こうした呼び役を引き受けたので、仲間からは
アノヨの吉と呼ばれているのであった。
吉三郎の声は普通よりもズッと甲高くて、女のように透きとおっていたのみならず、ズタズタになった死体の耳に口を寄せて、シンカラ死人の魂に呼びかけるべく一生懸命の声を絞っているので、そこいらの坊さんの声なぞよりもはるかに徹底した……無限の暗黒を含む大地の底を、
冥途の奥の奥までも泌み透して行くような、何ともいえない物悲しい反響を起しつつ、遠くなったり近くなったりして震えて来るのであった。
「……ここはアアア……ポンプ座ぞオオオ……イヨオオオ……イイイ……イイイイ……イイ……」
その声に聞き入っていた福太郎は、やがて何かしらゾ――ッと身ぶるいをしてそこいらを見まわした。吉三郎のすき透った遠い遠い呼び声を聞くにつれて、前後左右の暗黒の中に
凝然としている者の一切合財が、一つ一つに自分の
生命を呪い縮めよう呪い縮めようとして押しかかって来るような気はいが感じられて来たので……。
福太郎は元来こんなに神経過敏な男ではなかった。工業学校を出てから
凡そ三年の間、この炭坑で正直一途に
小頭の仕事を勤めて来たお蔭で、今では地の底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。
ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく
身体の工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んな
詰らない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一
番方から二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。
……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。
……ツイ今しがた
仕繰夫(坑内の大工)の源次を載せて、眼の前の
斜坑口を上って行った六時の交代前の
炭車が
索条でも
断れて
逆行して来はせんか……。
……それとも頭の上の
硬炭が今にも落て来はせんか……。
といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず
安全燈の薄明りの中に立ち
竦んでしまったのであった。
すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお
作の白い顔であった。
お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった
好人物の福太郎に、初めて
にんげんの道を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ
妖精ではないかと思われるくらい
婀娜っぽいお作の白々と
襟化粧をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の
暗黒の中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々な
曰く因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。
お作は元来福太郎の方から思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た時分に、下の町の
饂飩屋に住み込んだ流れ渡りの
白ゆもじで、その丸ボチャの極度に肉感的な
身体つきと、持って生れた押しの太さとで、色々な男を手玉に取って来たものであったが、その中でも
仕繰夫の
指導係をやっているチャンチャンの源次という
独身の中年男が、仲間から笑われる位打ち込んで、有らん限り
入揚げたのを、お作は絞られるだけ絞り上げた
揚句にアッサリと突放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時々饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだ事のない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた
風付きに、お作の方から人知れず打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま、貯金の通帳と一緒に、福太郎の自炊している
小頭用の納屋に転がり込んで、無理からの
押掛女房になってしまったのであった。
その時には
流石に鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいか解からないまま五日十日と経って行くうちに、福太郎はいつの間にか、お作の白い顔を見に帰るべく仕事の
仕上げを急ぐようになっていた。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変って
家の中がサッパリと片付いている枕元に、キチンと食事の用意が出来ているのが、勿体ないくらい嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る坑夫納屋の薄暗がりの中に、自分の家だけがアカアカとラムプが
点いているのを見ると、有り難いとも何とも云いようのない思いで胸が一パイになって、涙が出そうになる位であった。しかもそれと同時に翌る朝四時から起きて、一番方の炭坑入りをしなければならぬ事を思い出すと、タマラナイ不愉快な気持に満たされて、又も力なくうなだれさせられる福太郎であった。
こうして単純な福太郎の心は、物の半月も経たない
中にグングンと地底の暗黒から引き離されて行った。そうしてこんな
炭山の中には珍らしいお作の柔かい、可愛らしい
両掌の中に、日一日と小さく小さく丸め込まれて行くのであったが、それにつれて又福太郎は、そうしたお作との仲が、
炭坑中の大評判になっている事実を毎日のように聞かされて、寄ると
触ると冷やかし相手にされなければならなかったのには、少からず弱らされたものであった。しかもそんな冷かし話の
中でも、「源次に怨まれているぞ」という言葉を特に真面目になって云い聞かせられるのが、好人物の福太郎にとっては何よりの苦手であった。
「源次という男は仕事にかけると三丁下りの癖に、口先ばっかりのどこまで
柔媚いかわからん
腹黒男ぞ。
彼奴は元来
詐欺賭博で
入獄して来た男だけに、することなす事インチキずくめじゃが、そいつに
楯突いた奴は、いつの間にか
坑の中で、
彼奴の手にかかって消え失せるちう話ぞ。
彼奴がソレ位の卑怯な事をしかねん奴ちう事は誰でも知っとる。
彼奴に違いないと云いよる者も居るには居るが、なにせい暗闇の中で、特別念入りに
殺りよると見えて、証拠が一つも残っとらん。第一
彼奴は水道鼠のごとスバシコイ上に、坑長の台所に取り入っとるもんじゃけんトウトウ一度も問題にならずに済んで来とるが、用心せんとイカンてや。ドゲナ仕返しをするか解からんけになあ。元来お作どんの貯金ちうのがハシタの一銭まで源次の入れ揚げた金ちう話じゃけんのう!」
と親切な朋輩連中からシミジミ意見をされた事が一度や二度ではなかったが、そんな話を聞かされるたんびに頭の悪い福太郎はオドオドと困惑して心配するばかりで、ドンナ風に用心をしたらいいか見当が付かないので困ってしまった。
「……そげに云うたて俺が知った事じゃなかろうもん」
と涙ぐんで赤面したり、
「源次はそげな悪い人間じゃろうかなあ……」
とため息しいしい、夢を見るような眼付をして見せたりしたので、
折角親切に忠告してくれる連中もツイ張合抜けがして
終う場合が多かった。
しかし問題はそれだけでは済まなかった。福太郎は自分が源次に怨まれている原因が、単にお作に関係した事ばかりではない。それ以外にもモット重大な、深刻な理由があることを、それから
後も繰り返し繰り返し聞かされなければならなかった。
……というのは
外でもなかった。
福太郎は元来何につけても頭の働きが
遅鈍い割に、妙に小手先の器用な性質で、その中でも大工道具イジリが三度の飯よりも好きであった。工業学校へ這入る時でも、最初建築の方を志望していたのを、死んだ両親に云い聞かせられて、不承不承に
不得手な採鉱の方に廻ったお蔭で、ヤット炭坑から学資を出してもらう事が出来たのであったが、それでもチョイチョイ小遣を溜めては買い集めた大工道具の一式を今でもチャント納屋の押入に仕舞い込んでいる位で、どんなに疲れている時でも、頼まれさえすれば直ぐに、その箱を担いで出かけるという風であった。だから坑内の
仕繰の仕事なぞも、本職の源次よりかズット見込みが良い上に、馬鹿念を入れるので、出来上りがガッチリしていて評判がなかなかよかった。現にタッタ今
潜って来た炭坑の大動脈ともいうべき斜坑の入口なぞも、去年の夏頃に源次が一度手を入れたものであったが、間もなくその源次が風邪を引いて寝ているうちに、いつの間にか天井の
重圧で鴨居が下って来て、
炭車の縁とスレスレになっていたので、知らないで乗って来た坑夫の頭が二ツも暗闇の中でブッ飛んでしまった。そこで取り敢ず福太郎が頼まれて
指導者になって手を入れた結果、ヤット
炭車の縁から一尺許りの高さに喰止めたものであったが、その時に、源次が材料を盗んで
良い加減な仕事をしてさえいなければ、モウ二尺位上の方へ押上げられるであろう事が、立会っていた役員連中の眼にもハッキリと解ったのであった。
こうした福太郎の晴れがましい仕事ぶりが、炭坑中に知れ渡らない筈はなかった。……と同時に本職の源次から怨まれない筈はないのであった。
源次はこうして、ホンの駈出しの青二才に、仕事の上で大きな恥を掻かされた上に、入揚げた女まで取られてしまったのだから、何とかして
復讐をしなければ引込みの付かない形になってしまっているのであったが、しかしそこがチャンチャン坊主と云われた源次の特徴であったろうか、それとも源次が
皆の思っているよりもズット
怜悧な人間であったせいであろうか。気の早い炭坑連中からイクラ
冷笑されても、腰抜け扱いされても、源次は知らん顔をしていたばかりでなく、
却ってそれから
後というものは、福太郎に出会うたんびにヒョコヒョコと頭を下げて、抜目なく機嫌を取ろう機嫌を取ろうとする素振りを見せ始めたのであった。
すると又そうした源次の態度が眼に付いて来るにつれて、他の者はなおの事、源次の気持を疑うようになった。……今に見てろ、源次が遣るぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを含んだ興味を持って見るようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事を一向に問題にもしていない模様だったので、一層、皆の者の目を
瞠らせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作は又お作で、
「あの腰抜けの源次に何が出来ようかい」
と云わぬ半分の大ザッパな調子でタカを
括っているらしかった。今までの白
ゆもじを燃え立つような赤
ゆもじに改良したり、
饂飩屋にいた時分の通りの真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤
ゆもじで毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行き始める。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから
以来、若い二度目の奥さんに取り入って、
恰も源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの
襯衣や古靴なぞを福太郎に貰って来てやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張して行くばかりであった。
福太郎は斜坑の入口で、自分の手に
提げた
安全燈の光りの中に突立ったまま、そんな取沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもその
中でも源次に関係した事ばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気もちから一度も気にかけた事はないのであったが、この時に限ってアリアリと眼の前に浮かみ出て来るお作の白い顔と一緒に、そんな忠告をしてくれた連中の眼付きや口付きを思い出してみると、そんな評判や取沙汰が妙に事実らしく考えられて来るのであった。
その当の相手の源次は、タッタ今上って行った十台ばかりの
炭車の真中あたりの新しい
空函の中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている
印半纏の背印は
平常の
※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、312-16]サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った
襯衣と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりも
寧ろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは
当然のような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の
暗黒に向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。
しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている
安全燈の光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の
凸凹が、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の
形相か何ぞのように、ジッと眼を
顰めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。
ところが、その黒い水の
滴たりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、
吾知らず身ぶるいをさせられたのであった。
その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……
而も炭坑側ではそれを手の附けようがないままに
放ったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の
瓦斯が充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切っていた。だからこの
炭坑に
這入るのは、それこそホントウの
生命がけでなければならなかったのであるが、
併しそうした事実を知っているのは極く少数の幹部以外には、その相談を
偸み聞いた
仕繰夫の源次だけであった。ところがそうした秘密がいつの間にか源次の口からコッソリとお作の耳に洩れ込んでいたのを、福太郎が又コッソリとお作から寝物語に聞かされていたので、
「インマの
中に他の炭坑へ住み換えようか。それとも町へ出てウドン屋でも始めようじゃないか」
とその時にお作が云ったのに対して、シンカラ
首肯いて
見た事を、福太郎は今一度ハッキリと思い出させられた。そうして今日限り二度とコンナ危険な処へは這入れない……といったような突詰めた気持に囚われながらオズオズと前後左右を見まわしたのであった。
「
書写部屋(事務所)ぞオオ……イイイヨオオ……イイヨ……オオイイイ……」
という呼び声がツイ鼻の先の声のように……と……又も遠い遠い
冥途からの声のように、福太郎の
耳朶に這い寄って来た。
その声に追い立てられるように福太郎は腰を屈めながら、斜坑の底の三十度近くの急斜面を十四五間ほどスタスタと登って行った。そうして斜坑が少しばかり右に曲線を描いて、真西に向っている処まで来てチョット腰を伸ばしかけた。
……その時であった。
福太郎はツイ鼻の先の
漆のような空間に真紅の火花がタラタラと流れるのを見た。それを見た一瞬間に福太郎は、
「彼岸の
中日になると真赤な夕日が斜坑の
真正面に沈むぞい。
南無南無南無……」
と云って聞かせた老坑夫の顔を思い出したようにも思ったが、間もなく轟然たる大音響が前後左右に起って、息苦しい土煙に全身が包まれたように思うと、そのまま気が遠くなった。
……何もかもわからなくなってしまった。
中
「福太郎が命拾いをしたちうケ」
「
小頭どんがエライ事でしたなあ」
なぞと口々に挨拶をしながら表口から這入って来る者……。
「どうしてマア助かんなさったとかいな」
「
土金神さんのお助けじゃろうかなあ」
と見舞を云う男や女の群で、
二室しかない福太郎の納屋が一パイになってしまった。
そのまん中に頭を白い
布片で巻いた、浴衣一貫の福太郎がボンヤリと坐っていたが、スッカリ気抜けしたような恰好で、何を尋ねられても返事が出来ないままヒョコヒョコと頭を下げているばかりであった。
福太郎は実際のところ、自分がどうして死に損なったのか判らなかった。頭の
頂上にチクチク痛んでいる小さな打ち
破り
疵が、いつ、どこで、どうして出来たのかイクラ考えても思い出し得ないのであった。
集って来た連中の話によると、福太郎は千五百尺の斜坑を、一直線に逆行して来た四台の
炭車が折重なって脱線をした上から、
巨大な
硬炭が落ちかかって作った僅かな隙間に挟み込まれたもので、顔中を血だらけにして、両眼をカッと見開いたまま、
硬炭の平面の下に坐っていたそうである。しかもそれが丁度六時の交代前の出来事だったので、山中を
震撼す大音響を聞くと同時に、三十間ばかり離れた人道の方から
入坑りかけていた二番方の坑夫たちが、スワ大変とばかり何十人となく駈付けて来た。それに
後から寄り集まった大勢の野次馬が加わって、油売り半分の面白半分といった調子で、ワイワイ騒ぎ立てたので、狭い坑道の中が芋を洗うようにゴッタ返したが、その
中に、浮上った
炭車の車輪の下から、思いがけない
安全燈の光りと一緒に、古靴を穿いた福太郎の片足が発見されたのでイヨイヨ大騒ぎになったものだという。それからヤット駈付けた
仕繰夫の源次が先に立って
硬炭や
炭車の代りに坑木の支柱を入れながら、総掛りで福太郎を掘出してみると、まだ息があるというのでそのまま、程近い福太郎の納屋に担ぎ込んで、ラムプを
点して応急手当をしているうちに、幸運にも福太郎は頭の上に小さな
裂傷を受けただけで、間もなく正気を回復した。そうして取巻いている人々の顔を
吃驚した眼で見まわすと、ムックリと起上って、眼の前に坐っている
仕繰夫の源次に、
「ここはどこじゃろか」
と尋ねたのであった。
皆はこれを見て思わず「ワーッ」と声を上げた。表口に折重なって、福太郎の
容態を心配していた連中も、その声を聞いてホーッと安心の溜息をしたのであったが、その
中の二三人が早くもゲラゲラ笑い出しながら、
「どこじゃろかい。お前の
家じゃないか」
と云って聞かせたけれども、福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そういう朋輩連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いて遣りながら、メソメソと
嬉泣きをし始めたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をラムプの光りに据えていたので、
背後の方に居た誰かが腹を抱えて笑い出しながら、
「まあだ解らんけえ。おい
アノヨの吉公。チョットここへ来て呼んでやらんけえ。
汝が
家だぞオオオ……イヨオオオイ……イイ……という風にナ……」
と吉三郎の声色を使ったので、皆は
鬨と吹出してしまった。
併しそれでも福太郎はまだ腑に落ちない顔で口真似をするかのように、
「……アノヨ……アノヨ……」
と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたという。
一方に炭坑の事務所から駈付けた人事係長や人事係、
棹取、又は坑内の現場係なぞいう連中が、ホンノ一通り立会って
現場を調査したのであったが、その報告に依ると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに、禁を犯して斜坑の方へ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の
炭車が、まだ斜坑を上り切って
終わないうちに跡を追うようにして、着炭場(斜坑口)から徒歩で
上り始めたものであったが、折悪しくその第七番目の
鰐口に刺さっていた
鉄棒が、ドウした
途端か六番目の
炭車の
連結機の
環から
外れたので、四台の
炭車が繋がり合ったまま逆行して来て、丁度、福太郎が足を踏掛けていた
曲線の処で、折重なって脱線顛覆したもので、さもなければ福太郎は、側圧で狭くなった坑道の中で、メチャメチャに粉砕されていた筈であったという。
しかし元来、坑道に敷いてある
炭車の軌条は、非常に粗末な
凸凹した物なので、
連結機の
鉄棒が折れたり外れたり、又は
索条が、
結目の附根から
断れたりする事は余り珍らしくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難してからというもの、危険を
虞れて
炭車に乗る事を厳禁されていたので、その
炭車に誰かが乗っていて、福太郎が
上って来るのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞいう事は誰一人想像し得る者がなかった。又カンジンの御本尊の福太郎も、烈しい打撃を受けた後の事とて、その
炭車に誰が乗っていたか……なぞいう事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら
判然と思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち付いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の云う通りの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。
そんな状態であったから結局、出来事の原因は解らないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得といったような事で、万事が平々凡々に解決してしまった。その
後で
他所から帰って来た炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いのを見て笑い笑い帰って行った位の事だったので、集っていた連中もスッカリ軽い気持になって、ただ
無闇と福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうして
揚句の果は、
「お
前があんまり可愛がり過ぎるけんで、福太郎どんが帰りを急ぐとぞい」
とお作が
皆から冷やかされる事になったが、
流石に海千山千のお作もこの時ばかりは
受太刀どころか、返事も出来ないまま真赤になって裏口から逃げ出して行った位であった。
しかしお作はそれでも余程嬉しかったらしい。その足で
飯場から酒を二升ばかり
提げて来て、取りあえず
冷のまま茶碗を添えて皆の前に出した。すると又、それに連れて済まないというので、手に手に五合なり一升なり提げて来る者が出て来る。
自宅の惣菜や、
乾物の残りを持込んで、七輪を起す
女連も居るという訳で、何や
彼や片付いた十一時過になると福太郎の狭い納屋の中が、時ならぬ
酒宴の場面に変って行った。
「小頭どん一つお祝いに……」
「オイ。福ちゃん。あやかるで」
「
生命の方もじゃが、ま一つの方もなあ。アハハハ……」
といったような賑やかな挨拶がみるみる
室の中を明るくした。それに連れて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、その
中でも最前から何くれとなく世話を焼いていた
仕繰夫の源次が、特別に
執拗く盃を差し付けたので、元来がイケナイ
性質の福太郎は逃げるのに困ってしまった。
「おらあ酒は飲み切らん飲み切らん」
の一点張りで押し
除けても、
「今日ばっかりは別ですばい」
と源次が妙に改まってナカナカ後に
退きそうにない。そこへお作が横合いから割込んで、
「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。酒が這入ると気が荒うなるけん、一口も飲む事はならんチウテ遺言されて御座るげなけになあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」
と散々にあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者は、その源次へ
面当か何ぞのように、無理やりにお作を押し
除けてしまった。
「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代りの俺が付いとるけに心配すんな」
とか何とか
喚き立てながら、口を割るようにして、
日陽臭い
なおし酒を含ませたので、福太郎は見る見る顔が破裂しそうになるくらい真赤になってしまった。
平生から無口なのがイヨイヨ意気地が無くなって盃を逃げ逃げ
後退りをして行くうちに、部屋の隅の押入の半分
開いた
襖の前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。
すると集まった連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけに来る者がヤット無くなって、後は
各自勝手に差しつ差されつする。その中にお作がタッタ一人の人気者になって、手取り足取りまん中に引っぱり出されて、八方から盃を差されたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い
脂切った腕を肩までマクリ上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒きはじめた。
「サア持って来なさい。茶碗でも
丼でも何でもよか」
「アハハハ。お作どんが景気付いたぞい」
「今
啼いた
鴉がモウ笑ろた。ハハハハ」
「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」
「ようし。そんならこのコップで行こうで」
「まア……イヤラッサナア……冷たい盃や受けんチウタラ」
「ヨウヨウ。久し振りのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか
衰弱んなあ」
「メゲルものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」
「アハハハハ。なんち云うて赤い
ゆもじは
誰がためかい」
「知りまっせん。大方
伜と娘のためだっしょ」
「ウワア。こらあ堪らん。福太郎はどこさ
行たかい」
「
押入の前で死んだごとなって寝とる」
「アハハ。成る程。死んどる死んどる。ウデ
蛸の
如なって死んどる。酒で死ぬ奴あ
鰌ばっかりションガイナと来た」
「トロッコの下で死ぬよりよかろ」
「お作どんの下ならなおよかろ」
「ワハハハハ」
「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」
と云ううちに
皆は、コップを抱えたお作の
周囲をドヤドヤと取巻いた。そうして
嘗て、ウドン屋でお作を
囃した時の通りに、手拍子を
拍って納屋節を唄い出した。
「白い湯もじを島田に結わせエ
赤いゆもじを買わせた奴はア
どこのドンジョの何奴かア
ドンヤツドンヤツどんやつかア
ウワア――アアア――」
「ようし……」
とお作は唄が終るか終らぬかに、コップの冷酒をグイと飲み干して立ち上った。
「そんげに
妾ば冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」
と云ううちに、そこに落ちていた誰かの手拭を拾って姉さん
冠りにした。それから手早く
前褄を取って、問題の赤
ゆもじを高々とマクリ出したので、皆一斉に
鯨波を上げて喝采した。
「……道行き道行き……」
と叫んだ者が二三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は、白い腕を伸ばしてラムプの芯を
煤の出るほど大きくした。
「源次さん。
仕繰りの源次さん……アラ……源次さんはどこい行きなさったとかいな」
その声が終るか終らないかにモウ一度、割れむばかりの喝采が納屋を揺がしたが、今度は忽ち打切ったようにピッタリと静まり返った。
皆はこの時お作が、
饂飩屋時代に得意にしていた道行踊りを踊ろうとしている事を、アラカタ察しているにはいた。併し
真逆に問題の黒星になっている源次を相手にして踊ろうとは思わなかったのであった。皮肉といおうか大胆といおうか。一度は思わず喝采をしたものの、
流石の荒くれ男共もこうしたお作のズバリとした思付きに、スッカリ
荒胆を
奪られてしまって、その次の瞬間には、水を打ったようにシンとして
終ったのであった。今にも血の雨が降りそうなハッとした予感に打たれて……。
しかしお作は平気の平左であった。その
中央に突立って、アカアカとした
洋燈の光りの
中にトロンとした
瞳を据えながら、ウソウソと隅の方の暗い所を覗きまわった。
「……源次さん。出て来なさらんか。マンザラ妾と他人じゃなかろうが」
皆はイヨイヨ
固唾を飲んで鎮まりかえった。その中で誰か一人、クスリと笑った者があったが、それが
却って
室の中の静けさを一層モノスゴク冴え返らせた。
「……
嫌らッサなあ。タッタ今、そこに御座ったとじゃが。小便に行かっしゃったとじゃろか」
と呟やきながらお作はチョイト表の方の暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたように、お作と一緒の方向を振り返ったが、外の方には源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
仕繰夫の源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。
室の奥の押入の前に立てた、新聞
貼の屏風の蔭に、コッソリと
跼まり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で
呼吸している福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今
先刻まで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。
下
福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は
呼吸が出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと
剃刀で削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、
眩しい夕焼けの空となったり、又はなつかしい父親の横顔になったり、母親の
背面姿になったりして、切れ切れのままハッキリと、入れ代り立ち代り浮かみあらわれて来るのを、
瞼の内側にシッカリと閉じ込めながら、
凝然と我慢していたのであった。
ところがその悪酔いが次第に醒めかかって、呼吸が楽になって来るに連れて福太郎は、自分の眼の球の奥底に在る脳髄の中心が、カラカラに
干乾びて行くような痛みを感じ初めた。それに連れて何となく、瞼が重たくなったような……背筋がゾクゾクするような気持になって来たので、吾ともなくウスウスと眼を開いてみると、その眼の球の五寸ばかり前に坐っている、誰かの背中の薄暗がりを透して、今までとは丸で違った、何とも形容の出来ない気味の悪い
幻影が、アリアリと見えはじめているのに気が付いたのであった。そうしてその
幻影が、福太郎にとって全く、意外千万な、深刻、
悽愴を極めた光景を描きあらわしつつ、西洋物のフィルムのようにヒッソリと、音もなく移りかわって行くのを、福太郎はさながら催眠術にかけられた人間のような奇妙な気持ちで、ピッタリと凝視させられているのであった。
……その
幻影の最初に見え出したのは、赤茶気た
安全燈の光りに照し出された岩壁の一部分であった。
それは最前、斜坑の入口で、福太郎が遭難するチョット前に、立止って見ていた通りの物凄い岩壁の
凸凹を、半分麻痺した福太郎の脳髄が今一度アリアリと描き現わしたところの、深刻な記憶の再現に外ならなかった。さながらに痩せこけた源次の
死面のように、ジッと眼を閉じて、歯を喰い締めたまま永遠に凝固している無念の
形相であった……が……しかしその一文字に結んでいる唇の間から洩れ出す、黒い血のような水滴のシタタリ落ちる速度は、現実世界のソレとは全く違っていた。
それはやはり、福太郎の麻痺した脳髄の作用に支配されているらしく、高速度活動写真機で撮った銃弾の動きと同様にユックリユックリした、何ともいえない、モノスゴイ滴たり方であった。
最初その黒い水滴が、横一文字の岩の唇の片隅からムックリとふくれ上ると、その膨れた表面が直ぐに、福太郎の手に提げている
安全燈の光りをとらえて、キラキラと
黄金色に反射した。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へ
匍い降りて行く。そうして唇の
下縁の深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまん
円い水滴の形にふくれ上って行くと同時に、
仄暗い
安全燈の光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、
一際強い
七色光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。
……そのモノスゴサ……気味わるさ……。
福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほど
剥き出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、
腸の底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かに
戦きふるえていた。
その時にお作が
アノヨの吉と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。
それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく
引攣れて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。
「……
此奴はホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」
と思い続けながら……。
しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。
否、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身を
固ばらせているのであった。
その福太郎の眼の前には、
稍暫くの間、おなじ
暗黒の光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、
安全燈の網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかに
映したり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。その
仄かな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。
けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その
暗黒のはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。
それは福太郎が、
炭車と落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は
坑口に沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が
判然り過ぎる位アリアリとわかったのであった。
それは連絡を失った四函の
炭車の車輪が、一台八百
斤宛の重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十
哩内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。
その
炭車の左右十六個の車輪の一つ一つには、軌条から湧き出す無数の火花が、赤い蛇のように
撚じれ、波打ちつつ巻付いていた。そうして
炭車の左右に迫っている岩壁の
褶を、
走馬燈のようにユラユラと照しあらわしつつ、厳そかに廻転して来るのであったが、やがてその火の車の行列が、次から次に福太郎の眼の前の
曲線の継ぎ目の上に乗りかかって来ると、第一の
炭車が、波打った軌条に押上げられて、
心持速度を緩めつつ半分傾きながら通過した。するとその後から押しかかって来た第二の
炭車が、先頭の
炭車に押戻されて、
空を探る
蚕のように頭を持上げたが、そのまま前後の
炭車と一緒にユラユラと空中に浮き上って、低い天井と、向う側の岩壁を
突崩し突崩し福太郎に迫り近付いて来た。そうして中腰になったまま固くなっている福太郎の胸の上に、濡れた粉炭の堆積をドッサリと投掛けて、
一堪りもなく尻餅を突かせると、その眼の高さの空間を、歪み曲った四ツの
炭車が繋がり合ったまま、魔法の箱のようにフワリフワリと一週して、やがて不等辺三角形に折れ曲った一つの空間を作りつつ、福太郎の
身体を保護するかのように
徐々と地面へ降りて来た。それに連れて半分
粉炭に埋もれた福太郎の
安全燈が、ポツリポツリと青い光りを放ちつつ、消えもやらずに揺らめいたのであった。
けれどもその
安全燈の光りは、やがて又、赤い
煤っぽい色に変るうちに、次第次第に真暗くなって消え失せてしまったかと思われた。それはこの時福太郎の頭の上から、夥しい石の粉が、黒い綿雪のようにダンダラ模様に重なり合って、フワリフワリと降り始めたからであった。そうしてその黒い綿雪が、福太郎の腰の近くまで降り積って来るうちに、いつの間にか小降りになって、やがてヒッソリと降り止んだと思うと、今度はその後から、天井裏に隠れていた何千貫かわからない
巨大な
硬炭の盤が、鉄工場の器械のようにジワジワと
天降って来て、次第次第に速度を増しつつ、福太郎の頭の上に近付いて来るのが見えた。そうしてやがてその
硬炭の平面が、福太郎の前後を取巻く三つの
炭車に乗りかかると、分厚い朝鮮松の板をジワリジワリと折り砕きながらピッタリと停止した……と思うとそのあとから、又も夥しい土の滝が、
炭車の外側に流れ落ちて来たのであろう。山形に浮上った車台の下から、
濛々とした土煙がゆるゆると渦巻きながら這込み始めて、
安全燈の光りをスッカリ見えなくしてしまったのであった。
その時に福太郎はチョット気絶して眼を閉じたように思った。けれどもそれは現実世界でいう一瞬間と殆んど同じ程度に感じられた一瞬間で、その次の瞬間に意識を恢復した時に福太郎はヒリヒリと痛む眼を一パイに見開いて、唇をアーンと開いたまま、落盤に蓋をされた
炭車の空隙に、消えもやらぬ
安全燈の光りに照し出されている、自分自身を発見したのであった。同時に、その今までになく明るく見える
安全燈の
光明越しに、自分の左右の肩の上から、
睫を伝って這い降りてくる、深紅の血の
紐をウットリと透かして見たのであったが、それが福太郎の眼には何ともいえない美しい、ありがたい気持のものに見えた。しかもその真紅の紐が、無数のゴミを含んでブルブルと震えながら固まりかけているところを見ると、福太郎が気絶したと思った一瞬間は、その実かなり長い時間であったに相違ないが、それでもまだ救いの手は
炭車の
周囲に近付いていなかったらしく、そこいら中が
森閑として息の通わない死の世界のように見えていた。そうしてその中に封じ籠められている福太郎は、自分自身がさながらに生きた彫刻か
木乃伊にでもなったような気持で、何等の感情も神経も動かし得ないまま、いつまでもいつまでも眼を
瞠り、顎を
固ばらせているばかりであった。
ところがそうした福太郎の眼の前の、死んだような空間が、次第に黄色く明るくなったり、又青白く、薄暗くなったりしつつ、無限の時空をヒッソリと押し流して行ったと思う頃、一方の車輪を空に浮かした右手の
炭車の下から、何やら黒い陰影が二つばかりモゾリモゾリと動き出して来るのが見えた。そうしてそれがやがて
蟹のように醜い、シャチコ張った人間の両手に見えて来ると、その次にはその両手の間から
塵埃だらけになった五分刈の頭が、黒い太陽のように静かにゆるぎ現われて来るのであった。
その両手と頭は、
炭車の下で静かに左右に移動しながら、一生懸命に
藻掻いているようであった。そうしてようようの事で青い筋の這入った軍隊のシャツの袖口と
※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、331-6]サの印を入れた
半纏の背中が半分ばかり現われると、そのままソロソロと伸び上るようにして
反り返りながら、半分土に埋もれた福太郎の鼻の先に顔をさし付けたのであった。
それは源次の
引攣り歪んだ顔であった。汗と土にまみれた……。
福太郎はしかし身動きは愚か、眼の球一つ動かす事が出来なかった。自分が死んでいるのか生きているのかすら判断出来ないような超自然的な恐怖に閉じこめられつつ、全身が氷のようにギリギリと引締まって来るのを感じているばかりであった。
その福太郎の凝固した瞳を、源次はジイッと見入りながら、暫くの間、福太郎と同様に眉一つ動かさずにいた。それからその汗と泥にまみれた赤黒い顔じゅうに、老人のような
皺をジワジワと浮上らせて、泣くような笑うような表情を続けていたが、やがて歪んだ、薄い唇の間から、黄色い歯を一パイに
剥き出すと、たまらなく気持よさそうなニヤニヤした笑いを顔一面に引拡げて行った。そうしてサモ憎々しそうに……同時に如何にも愉快そうに顎を突出しながら、何か云い出したのであった。
その言葉は全く声の無い言葉であったばかりでなく、非常にユックリした速度で唇が波打ったために、全然、意味を成さない顔面の動きとしか見えなかった。それでも、福太郎にはその言葉の意味が不思議にハッキリと読めたのであった。
「……わかったか……おれは……源次ぞ……わかったか……アハ……アハ……アハ……」
福太郎はその時にちょっと
首肯きたいような気持になった。しかし依然として全身が硬直しているために、
瞬一つ出来なかった。
「……アハ……アハ……わかったか……貴様は……俺に恥掻かせた……ろうが……俺がどげな……人間か知らずに……アハ……」
「……………」
「……それじゃけに……それじゃけに……」
と云いさして源次は、眼を真白く
剥出したまま、ユックリと唇を噛んで、
獣のようにみっともなく流れ出る
涎をゴックリと飲み込んだ。それを見ると福太郎も真似をするかのように
唾液を飲み込みかけたが、下顎が石のように
固ばっていて、舌の
尖端を動かすことすら出来なかった。
「……それじゃけに……それじゃけに……」
と源次は又も
喘ぐように唇を動かした。
「……それじゃけに……引導をば……
渡いてくれたとぞ……貴様を……
殺いたとは……このオレサマぞ……アハ……アハ……」
「……………」
「……お作は……モウ……俺の物ぞ……あの世から見とれ……俺がお作を……ドウするか……」
「……………」
「……ああハアハア……ザマを……見い……」
そう云ううちに源次は今一度唇をムックリと閉じた。それから左右の白眼を、魚のようにギラギラ光らせると、泥まみれの両頬をプーッと風船ゴムのように膨らまして、炭の
粉まじりの灰色の
痰を舌の
尖端でネットリと唇の前に押出した。そうしてプーッと吹き散る
唾液の霧と一緒に、福太郎の顔の真正面から吹き付けた。
その刹那に福太郎は思わず瞬を一つした……ように思ったが……それに連れて全身が
俄かに堪らなくゾクゾクし始めて、頭の痛みが割れんばかりに高まって来たので、又も両眼を力一パイ見開きながら、モウ一度鼻の先に在る源次の顔をグッと睨み付けた。すると又、それと殆んど同時に福太郎は、自分を凝視している源次のイガ栗頭の背景となっていた、岩の
凸凹が跡型もなく消え失せて、その代りにラムプにアカアカと照らされた自分の
家の新しい松板天井が見えているのに気が付いた。そうしてその憎しみに充ち満ちた源次の顔の上下左右から、ラムプの逆光線を同じように受けた男女の顔が
幾個も幾個も重なり現われて、心配そうに自分の顔を見守っている視線をハッキリと認めたのであった。
……その瞬間であった。
ただならぬ人声のドヨメキが自分の周囲に起ったので、福太郎はハッと吾に返った。
見ると眼の前には
※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、334-2]サの半纏を着た源次が俯伏せになっていて、ザクロのように打ち
破られたイガ栗頭の横腹から、シミジミと泌み出す鮮血の流れが、ラムプの光りを吸取りながらズンズンと畳の上に
匐い拡がっているのであった。
左右を見廻すと近くに居た連中は
皆、八方へ
飛退いた姿勢のまま真青な顔を引釣らして福太郎の顔を見上げていたが、中には二三人、顔や手足に
血飛沫を浴びている者も居た。
福太郎は茫然となったまま
稍暫らくの間そんな光景を見廻していたが、やがてその源次の枕元に立ちはだかっている自分自身の姿を、不思議そうに振り返った。
見ると両腕はもとより、白い浴衣の胸から肩へかけてベットリと返り血を浴びていて、顔にも一面に
飛沫が掛っているらしい気もちがした。そうしてその右手には、いつの間に取出したものか、
背後の押入の大工道具の
中でも一番
大切にしている「
山吉」製の
大鉄鎚をシッカリと握り締めていたが、その青黒い鉄の尖端からは黒い血の
雫が二三本、
海藻のようにブラ下っているのであった。
そんな光景を見るともなく見まわしているうちに福太郎は、ヤット自分が仕出かした事が
判然ったように思った。そうして何のためにコンナ事をしたのか考えようとこころみたが、どうしても前後を思い出す事が出来ないので、今一度部屋の中をキョロキョロと見まわした。その時にラムプの向う側からバタバタと走り出て来たお作が、殆んど福太郎に
打っ突かるようにピッタリ
縋り付いたと思うと、酔いも何も醒め果てた乱れ髪を撫で上げながら、半泣きの声を振り絞った。
「……アンタ――ッ……どうしたとかいなア――ッ……」
すると、それに誘い出されたように五六人の男がドカドカと福太郎の
周囲に駈け寄って来て、手に手に腕や肩を捉えた。
「どうしたんかッ」
「どうしたんかッ」
「どうしたんかッ」
しかし福太郎は返事が出来なかった。現在眼の前にブッ倒れている源次の頭でさえも、自分が砕いたものかどうか、ハッキリと考え得なかった。そうしてその代りにタッタ今まで感じていた割れるような頭の痛みと、タマラない全身の
悪寒戦慄が、あとかたもなく消え失せてしまって、何ともいえない気持のいい浮き浮きした酒の酔い心地が、モウ一度ムンムンと全身に
蘇って来るのを感じたので、吾知らずウットリとなって、血だらけの
鉄鎚を畳の上に取落して汚れた両手でお作を引寄せながら天井を仰いだ。
「……ハハハ……どうもしとらん……アハハハハハハ……」