私は嬉しい。「あやかしの
「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や
この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻のない……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。
この音は
これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私――
私はお願いする。私が死んだ
楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。
そう思うと私は胸が一パイになる。
今から百年ばかり前のこと京都に音丸
この人はもとさる尊とい身分の人の
久能の出入り先で
綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた
これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお
これが
鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。
綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。
綾姫はその後何と思ったか、
しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、
「私は私があの方に見すてられて空虚 となった心持ちをあの鼓の音 にあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通 の鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨 んだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿 しか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵 まで宝づくしにしておいた。あれはお公卿 様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁 かれた家 だけでも、お勝手許 の御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」
これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に
これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に
こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の
この久能の孫の久意が私の父であった。
私の父は京都にいる時分から鼓の
しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に
その死ぬすこし前のことであった。
私が
「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」
と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。
……ところで……
と父は
「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。
すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると
『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても
と云うんだ。おれは試しに、
『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』
と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、
『赤ん坊のような名前だったと思います』
と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして
とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を
『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお
これは家業の一番
『
って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。
けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。
鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが
ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の
そうすると鶴原の
おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。
けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから
そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。
お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。
おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。
いいか……忘れるな……」
私はお
父は安心したらしかった。
その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。
老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。
若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の
「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。
しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只
けれども
私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。
しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。
こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、
「ウム。よしよし」
とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。
その
「どうだ鼓を習わないか」
と老先生は真白な
「ハイ、教えて下さい」
と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で「三ツ
けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、
「大飯を喰うから頭が
なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。
その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、
「早く御養子でもなすっては……」
と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。
「サア。
とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。
私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その
「その久弥さんはどうです」
と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。
「イヤ。これはいわば『鼓の
「その
と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。
「物になった時は名人だよ」
と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。
みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの羊羹を出して下さった。そうして長い
「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい
私はおめず臆せず答えた。
「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」
「フーン」
と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。
「じゃどんな音色が好きなんだ」
「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」
「……フーム……おれの鼓はどうだえ」
「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」
老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、眼をショボショボと閉じたり明けたりされた。
「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。
「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」
「飛んでもない」
と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。
「あの鼓を出すとあの
私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。
「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。
それから間もなく老先生は私を高林家の
しかし私は
私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。
こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、
「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い
鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、
「誰にも知れないようにするんだよ。
私は鳥打に
麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にも
玄関の格子戸をあけると間もなく
「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」
と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。
書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを
私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。
そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、
「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」
と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。
「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」
私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのない
「私は
と挨拶をした。
さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つ
「いかがです」
私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白く
ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又
私はとうとう
「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。
「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」
それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が
「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」
私は思わず吹き出すところであった。
「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」
「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」
と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。
その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は
しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。
「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。この
と考えたが一方に何だか恐ろしく気が
「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」
妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。
「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」
「……………」
妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。
「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」
「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。
「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして
「そうじゃないように聞いているんですが」
「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。
私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。
「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人から
と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの
私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。
けれどもそれはほんの
「承知しました。お眼にかけましょう」
「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて
「けれども今日は駄目ですよ」
「いつでも結構です」
「その前にお尋ねしたいことがあります」
「ハイ……何でも」
「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」
私はこの時どんな
「……どうして……それを……」
妻木君は深くうなずいた。
「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお
私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。
「……若先生は
「若先生は生きておられるのですか」
と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。
「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」
「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」
「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」
私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。
それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながら
「それからあなたは……どうなさいましたか」
妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。
「私はこの事をきくと腹が立ちました。
「……で……その鼓をお打ちになりましたか」
と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は
「その鼓はどんな恰好でしたか」
妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。
「僕はまだその鼓を見ないのです」
「エッ……まだ」と私は
「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」
「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。
「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」
「じゃ何故あなたに隠されるのですか」
と私は
「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」
「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」
と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。
「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」
「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」
「いいえ絶対に……」
「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」
この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち
「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を
「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」
「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」
と云うと妻木君は
「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で
しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。
私は殆んど最後の勇気を出してきいた。
「じゃ全くわからないのですね」
「わかりません。わかれば持って逃げます」
と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。
「こっちへお
と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされて
応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキの
それは電気と
「女中はいないんですか」と私は問うた。
「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が
「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」
「いいえ。僕です」
「ヘエ。あなたが……」
「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」
と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。
ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向って一面に
初めはあまり立派なものばかりなので何の
妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。
「この室も不思議なことはないんです」
と妻木君は私の顔を見い見い微笑して
「この室は……」と私は立ち止まって青い
「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」
と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。
「ヘエ……」
と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて
青黒く地並になった
「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」
妻木君は
「その室で
という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を
「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」
私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った――この
奥の
青々とした八畳敷の向うに月見窓がある、外には梅でも植えてありそうに見える。
その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と
右手には机に近く茶器を並べた
私は思わず今一度溜め息をさせられた。
「これが伯母の居間です」
といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……
「ええ……もう結構です……」
と私は妙に気が
「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」
「そうですか……それじゃ箪笥を……」
「もう……もう本当に結構です」
「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」
と云ううちに右手の違い棚から一つ
箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。
この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮の
しかしこの考えが
「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」
「つまりこの通りなんですね」
「そうです」
「みんなよく鳴りますか」
「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の
「伯母さまがお帰りになりはしませんか」
「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」
「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ、妻木君も
私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。
「結構なものばかりですね」
と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵の模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。
私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。
「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」
「サア。よく知りませんが」
「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」
「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。
私は黄色くなりかけている古ぼけた
「アッハッハッハッハッ」
と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、
「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」
私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめて
妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。
「ああ
私は開いた口が
「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」
「それがどうしたんですか」
と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。
「失敬失敬。
青天の
「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」
「アッ。若先生……」
「…………」
二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割りに
「会いとう御座いました……」
と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。
若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。
「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」
私は父の遺言を思い出した。――鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる――といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木の
そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。
「何もかもすっかりわかったでしょう」
「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。
「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」
若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。
「わかりませんか君は……」
「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。
「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」
「エ……僕のものに……」
「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」
「僕の手で……」
「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」
と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て
「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」
私はうな垂れて鶴原家の門を出た。
この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな
恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生――それを
こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち
向うも立ち止まって顔を上げた。
それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに
私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。
私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと
黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。
私は逃げるように横町に
この間は失礼しました。
私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。
二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出 が願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。
今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且 つ不可思議な事実であろうことを信じます。
しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非左様 願いたいと思います。
二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出 になればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。
あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。
三月十七日
私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。
二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお
今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、
しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非
二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお
あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。
三月十七日
高林靖二郎
音丸久弥様私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。
眼の前の
三越の番頭が見立ててくれた青い色の
私はこの数日間のなやみに
自動車が鶴原家に着くと若先生……ではない妻木君が、この間の通りの
奥の座敷は香木の
しずかに妻木君が這入って来て眼くばせ一つせずにお茶を酌んで出した。私も固くなってお辞儀をした。何だか裁判官の出廷を待つ罪人のような気もちになった。
私は妻木君が出てゆくのを待ちかねて違い棚の上に
うしろの
私はこの間のように眩惑されまいと努力しながら出来るだけしとやかに席を
「ま……どうぞ……」と澄み通った気品のある声で会釈しながら、未亡人は私の真向いに来てほの紅い両手の指を揃えた。
私の決心は見る間に崩れた。あおぎ見ることも出来ないで畳にひれ伏しつつ、今までとはまるで違った調子に高まって行く自分の胸の動悸をきいているうちに、この間の
「初めまして……ようこそ……又只今は……御噂はかねて……」
なぞ次から次へきこえる言葉を夢心地できいているうちに、私は気もちがだんだん落ち付いて来るように思った。そうして「まあどうぞ……おつき遊ばして……それではあの……」という言葉をきくと間もなく顔を上げる事が出来た。その時にはじめて鶴原未亡人の姿をまともに見る事が出来た。
私はこの間からあこがれていた姿とはまるで違った感じに打たれて暫くの間ボンヤリしていた。ハテナ。自分は何の用でこの婦人に会いに来たのか知らんとさえ思った。
その時未亡人は前の言葉の続きらしく静かに云った。
「それで私は甥を叱ったので御座います。なぜおかえし申したかって申しましてね……若先生が音丸家の御血統で、あの鼓を御覧になりたいとおっしゃったならばこんないい
さては私はまだ鼓を見ないことになっているのだな……と思って未亡人の顔を見た。けれどもその長い眉と黒く澄んだ眼の気品に打たれて又伏し眼になった。
「……なぜお眼にかけなかったのか。こんないい幸いなことはないではありませんか。この
私は又顔を上げないわけに行かなかった。すると今度は未亡人の方が淋しい恰好で伏眼になっている。
「……そう申しますと甥が申しますには、それなら今からお手紙を差し上げよう。いま一度お運びをお願いしようと申します。そんなぶしつけなことをと申しますと、それはきっとお出で下さるにちがいない。まだあの鼓をお打ちにならないからだと申します……オホ……ほんとに失礼なことばかり……」
未亡人は赤面して私の顔を見た。私もその時急に耳まで
「けれども私もすこし考えが御座いましたので、甥に筆を
「どう致しまして……」
と私もやっとの思いで初めて口を利くと慌てて袂からハンカチを出して顔を拭いた。途端に頭の上の電燈が眩しく紫色に
「何か御用で……」と妻木が顔を出した。未亡人はいつの間にか
「お前用事が済んだのかえ」と云いつつ未亡人はジロリと妻木君を見据えたが、その一瞬間に未亡人の眼が、冷たいというよりも
「ハイ。すっかり……」と妻木君は女のように、しとやかに三つ指を
「……じゃこちらへお這入り。失礼して……あとを締めて……それから、その鼓を四ツともここへ……」
その言葉の通りに妻木君は影のように動いて四ツの鼓を未亡人と私の間に並べ終ると、その
未亡人は無言のまま四ツの鼓を一渡り見まわしたが、やがてその中の一つにジッと眼を注いだ――と思うとその頬の色は見る見る白く血の気が失せて、唇の色までなくなったように見えた。
私たち二人も
いい知れぬ鬼気がウッスリと
突然かすかな戦慄が未亡人の肩を伝わったと思うと、未亡人はいつの間にか手にしていた絹のハンカチで眼を押えた。
私はハッとした。妻木君も驚いたらしい
「わたくしはこんな時機の来るのを待っておりました。こうして私とこの鼓との間に結ばれました因縁を断ち切って頂こうと思ったので御座います」
「因縁……」と私は思わず口走った。
「それはどういう……」
「それは私が私の身の上に
「あなたの……」
「ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の
未亡人の言葉の中には婦人でなければ持ち得ぬ根強い……けれども柔らかい力が籠っていた。三人の間には更に緊張した深い静けさが流れた。
不意に或る眼に見えぬ力に打たれたように
「あやかしの鼓」の皮は、しめやかな春の
初めは低く暗い余韻のない――お寺の森の
けれども打ち続いて出るその音が私の手の指になずんでシンミリとなるにつれて、私は眼を伏せ息を詰めてその音色の奥底に含まれている、或るものをきくべく一心に耳を澄ました。
ポ……ポ……という音の底にどことなく聞こゆる余韻……。
私は
私の先祖の
久能は云った。――私は恋にやぶれて生きた死骸になった心持ちだけをこの鼓に籠めた。私の淋しい
しかしそれはあやまっていた。
久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色……その力なさ……陰気さの底には永劫に消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の
百年前の、ある月の、ある日、綾姫はこの鼓を打って、この音をきいた。そうして眼にも見えず耳にも止まり
……そうして百年後の今日只今……
……私の額から冷たい汗が流れ初めた。室中の暖か味が少しも身体に感じなくなった。背中がゾクゾクして来ると共に肩から手足の力が抜けて鼓を取り落しそうになった。眼の前が青白く真暗くなりそうになって力なく鼓を膝の上におろした。わななく手でハンケチを掴んで額の汗を拭いた。
妻木君が慌てて羽織を着せた。鶴原未亡人は立ち上って袋戸棚から洋酒の小瓶を取り出して来てふるえる手で私に小さなグラスを持たした。そうして私に火のような酒を一杯グッと飲み干させると今一杯すすめた。
私は手を振りながらフーッと燃えるような息を
「大丈夫で御座いますか……御気分は……」
と未亡人は私の顔をのぞいた。妻木も私の顔を心配そうに見ている。私は微笑して肩を大きくゆすりながら羽織の
「まあ……ほんとに雪のように真白におなり遊ばして……今はもうよほど何ですけれど……」
と未亡人は
「けれどもまあ……何というかわった音色で御座いましょう。そうして又何というお手の冴えよう……私は髪の毛を引き締められるようにゾッと致しましたよ……」
と感激にふるえるような声で云いつつ未亡人は立ち上って洋酒の瓶を仕舞うと又座に帰ったが、やがてふと思い出したように黒い眼で私の顔をジッと見ると、両手を畳に支えて身を退けながらひれ伏した。
「まことに有り難う存じました。私はおかげ様で生れて初めてこの鼓の音色を本当にうかがうことが出来ました。あなた様は
と云いさして未亡人は両手の間に頭を一層深く下げた。
「私こそ……今大路の……綾姫の血すじを……受けましたもので御座います」
「アッ」
と私は思わず声を立てて妻木君をかえり見た。しかし妻木君は知っているのかいないのかジッと未亡人の水々しい丸髷を見下したまま身じろぎ一つしなかった。未亡人は両手の間に顔を埋めたまま言葉を続けた。
「申すもお恥かしい事ばかりで御座いますが、今大路家は御維新後零落致しまして一粒種の私は大阪へある
とやおら顔を上げて鼓から二人の顔へ眼を移した。曇った顔をして曇った声で云った。
「……この家にこの鼓が御座いますことは、とっくに承わっておりましたが、その鼓に呪われてこのような淋しい身の上になりまして……その上にこのような不思議な……御縁になりましょうとは……」
「わかりました」と私は自分の感情に堪え得ないで、それを打ち切るように云った。
「よくわかりました。サ。お顔をお上げ下さい。つまるところこの三人はこの鼓に呪われたものなのです。呪われてここに集まったものなのです。けれども今日限りその因縁はなくなります。もしあなたがお許し下されば、私はこの鼓を打ち砕いて私たちの先祖の罪と呪いをこの世から消し去ります。そうしてあんな陰気臭い伝説にまつわられない明るい自由な世界に出ようではありませんか」
「ま嬉しい」
と未亡人は涙に濡れた顔を上げて不意に私の手を執って握り締めた。その瞬間私の全身の血は今までとはまるで違っためぐり方をし初めた。未亡人は両手に云い知れぬ力を籠めて云った。
「マア何というお勇ましいお言葉でしょう。そのお言葉こそ私がお待ちしていたお言葉です。それで私はきょうこの鼓と別れるお祝いにつまらないものを差し上げたいと思いまして……」
「アッ……それは……」と私は腰を浮かした。しかし未亡人の手はしっかりと引き止めた。
「いいえ……いけません……」
「でもそれは又別に……」
「いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……」
と妻木君をかえり見た。
妻木君は追い立てられるように室を出た。
あとを見送った未亡人はやっと私の手を離してニッコリした。
私は最前の洋酒の酔いがズンズンまわって来るのを感じながら両手で頬と眼を押えた。
頭が痛い……と思いながら私は眼を閉じて夜具を頭から引き冠った。すると今まで着た事のない絹夜具の肌ざわりを感ずると共に、
私は全く眼が
眼の前に御馳走の幻影が浮んだ。それは皆珍らしいものばかりで贅沢を極めたものであった。そのお膳や椀には桐の御紋が附いていた。
その次には晴れやかな鶴原未亡人の笑顔がまぼろしとなって現われた。
「あやかしの鼓とお別れのお祝いですから」
というので無理に盃をすすめられたことを思い出した。
「もうお一つ……」
とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれた
それから先の私の記憶は全く消え失せている。只あおむけに寝ながらジッと見詰めていた電燈の炭素線のうねりが不思議にはっきりと眼に残っている。
私は酔いたおれて鶴原家に寝ているのだ。
「
さっきの未亡人の
「ホホホホホホホホホ」
と不意に枕元で女の笑い声がした。私は驚いて起きようとしたが、その瞬間に白い手が二本サッと出て来て夜着の上からソッと押え附けた。同時にホンノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、
「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」
コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。
「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」
私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長
未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で
「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」
「エッ……」
「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が
「あのね……」
と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。
「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の
「覚悟とは……」
と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。
「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」
と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒を
「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だから
と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ち
「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの
私は両手を顔に当てた。
「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」
私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。
「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」
と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。
「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」
と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった
未亡人はほつれかかる
未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。
「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたように
私の呼吸は次第に荒くなった。
「サ……しょうちしますか……しませんか」
と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に
「ああ……わたくしが悪う御座いました」
と云いながら私は又両手を顔に当てた。
……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。
ガチャリと
「許して……許して……下さい」
と私は身を悶えて立ち上ろうとした。
「奥さん……奥さん奥さん」
と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にボーッと燃え上る
「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。
未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ち
「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えて
妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。
「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで
と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その
「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって
「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。
「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」
と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。
私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄――兄――若先生――妻木君――と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。
その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。
「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」
兄の眼から又新しい涙が湧いた。
「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこの
兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。
そのうちに未亡人の
「ウ――ムムム」
という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。
「す……み……ませ……ん」
とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の
未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水が
未亡人はガックリとなった。
「サ……ヨ……ナ……ラ……」
と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。
兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。
自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。
「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。
私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。
東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに
夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、
「おれのじゃない」
と押し問答したあげく、やっと
汽車が動き出してから気が付くと私の
▲きょうの午前十時に美人と淫蕩で有名な鶴原子爵未亡人ツル子(三一)が一人の青年と共に麻布 笄町 の自宅で焼け死んだ。その表面は心中と見えるが実は他殺である。その証拠に焼け爛れた短刀の中味は二人の枕元から発見されたにも拘わらず、その鞘 の口金 はそこから数間を隔てた廊下の隅から探し出された。
▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前から金 に換えていたがその金は焼失していないらしい。
▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。
▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。
そんな事を未亡人の生前の不行跡と一緒に長々と書き並べてある。それを見ているうちにあくびがいくつも出て来たので、私は窓に▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前から
▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。
▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。
あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、
「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」
ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく
夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞い
「どこかで僕とお話ししてくれませんか」
というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「
その時
「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。
それから
大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。
酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、
そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の
久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、
その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰を
私は東京を出てから丸三年目にやっと
東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。
なつかしい檜のカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を
その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。
私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の
私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。
「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」
と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。
「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。
「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って
と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。
その夜は曇ってあたたかかった。
植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと
……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の
私はハッと息を呑んだ。
「
と思いつつ私は耳を傾けた。
鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。
陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の
みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の
「イヤア……
それは名曲「
「とう――とうたらりたらりらア――。
と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。
やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。
私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながら
……………………
私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。
私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。
室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。
それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。
あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして
これは私の臍 くりだからお前に上げる。この鼓を持って遠方へ行ってまめに暮してくれ。そうして見込みのあるものを一人でも二人でもいいからこの世に残してくれ。あやかしの鼓にこもった霊魄 の迷いを晴らす道はもうわかったろうから。
私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。
私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。
私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる
しかしまだ私の
私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て
温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。
▲今から丸三年前大正十年の春鶴原未亡人の変死事件というのがあった。右に就て当局のその後の調べに依ると同未亡人を甥の妻木という青年と一緒にその旅立ちの前夜に殺害して大金を奪って去ったものは九段高林家の後嗣 で旧名音丸久弥といった屈強の青年であることがわかった。
▲然るにその後久弥はその金を費 い果したものか、昨夜突然高林家に忍び入って恩師を縊 り殺してその臍繰りと名器の鼓を奪って逃げた。
▲彼は数日前から高林家の門前に乞食体 を装うて来て様子を伺い、恩師高林弥九郎氏が何かの必要のため貯金全部を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものらしく、三年前の事件と共に実に巧妙周到且つ迅速を極めたものである。
▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。
これを読んでしまった時、私はどう考えても免れようのない犯人であることに気が付いた。この鼓が犯人だと云っても誰が本当にしよう。世の中というものはこんな奇妙なものかと思い続けながらこの遺書を書いた。そうして今やっとここまで書き上げた。▲然るにその後久弥はその金を
▲彼は数日前から高林家の門前に乞食
▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。
私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の祖先音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。
しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。