「俺はここで死ぬのかな……」
そう思いつつ昂作はヒョロヒョロと立ち止まった。眼の前の電柱に片手を支えると、その掌に、照りつけた太陽の熱がピリピリと
彼は今にも倒れそうに
その足下を見詰めながら彼は今一度……
「俺はここで死ぬのかな」
と思いつつジッと眼を閉じた。その刹那に彼は、彼を載せて回転する大地の巨大さをシミジミと感じた。そうしてその大地の涯の、遠く遠くの青空に、いくつかの白い、四角い大文字が浮かみ顕われて、次から次へと行列を作りながら、地平線の下へ落ち込んで行くのを凝視した。
……天才的ピアニスト……
……童貞……
……肺病……
……乞食 ……
……死……
……童貞……
……肺病……
……
……死……
それは彼自身だけが知っている彼自身の運命の標示であった。生まれ付きの気弱さから、音楽以外の何ものも知らずに死んで行きたいと願った彼の全生涯の象徴であった。
「自分の弱い肉体を亡ぼすものは異性でなければならぬ。結婚でなければならぬ……自分の弱い魂を生かしてくれるものは音楽よりほかにあり得ないのだ」……と信じ切って固く眼を閉じ、耳を塞いで来た彼……そうして自分の病気を見棄てた医師、親
「……ネエ……チョイト……」
という
彼が立ち止っているのはどこかわからないが、烈しい日光が一パイに照りつけている狭い横町であった。遠くに電車の音が
「……死際の幻覚かな……」
よく眼を定めてみると、それは平凡な白地のワンピースを着流した令嬢であった。青い帽子を冠って、白い靴下に白靴を
その令嬢は昂作の顔を見ると、白い歯をキラキラと光らして笑った。
昂作は呆気に取られたまま、その横路地の暗い入口と、掌の中でキラキラと輝く新しい五十銭銀貨を見比べていたが、そのうちにヤット今の令嬢が自分に頼んだ言葉を思い出した。
「……ねえ……立ちん坊さん。すみませんけど、このお乳母車をズット向うの電車通りまで押して行って頂戴な。……それから右へ曲って、電車道をどこまでもどこまでも……水道橋のとこまで……ね……そのうちに私が追いつくから……ネ……」
昂作は掌に乗っかった五十銭玉を
それは見るからに軽い、
そうした昂作の姿は、往来の人眼を
「コラッ!」
と突然に背後から肩を
昂作は尻餅を突いた拍子に眼がまわり出したので、両手を砂ほこりの中に支えたままガックリとうなだれた。……と……間もなく、まわりに寄り集まって来る人々の足もとから立つ薄いホコリの中に、息も絶え絶えに
その頭の上からサアベルのガチャガチャ言う音と、二人の男のヒソヒソした会話が聞えて来た。
「この乳母車だろう」
「そうだ。たしかにこれだ。
「……シッ……包みの中を
「……ウン……
「……チェッ……」と一人の私服らしい男が舌打ちした。黙って乳母車を引き起しながら、中を調べているらしかった。
「オイオイ……」と制服の巡査がサアベルの尻で昂作の背中を突っついた。
「……貴様はこの乳母車を……どこで頼まれたんか……」
昂作はその声を耳の傍で聞きながら、どうしても返事が出来なかった。やっと咳が鎮まりかけたばかりのところで、ピッタリと息を詰めて気を落ちつけなければならなかったので、両脚を投げ出したままヒッソリとうなだれていた。
「コラッ……」
と巡査はヤケに靴の先で昂作の尻の骨を蹴った。たまらない痛みがズキンと頭の
「待て待て……」
と私服の刑事らしい男が巡査を押し止めながら、昂作の前に
「お前は病気しとるんか?」
昂作は苦しい咳の切れ目に、すこしばかり上目づかいをしながら
「……お前はこの乳母車を若い女に頼まれて、ここまで押して来たんじゃろう……」
昂作は微かにうなずいた。ようようの思いで咳を押し鎮めながら……。
「……フ――ム……そんならお前は、その女の顔を記憶しとるじゃろう……ナ……しとるじゃろう……ウンウン……記憶しとる……それは眼の大きい、口の小さい、頬の丸い、二重
男は一寸言葉を切った。自分のうしろで群集が何か笑ったので振り返ったらしかった。そうして
「……それから……エヘンエヘン……それからその女は、お前に乳母車を頼む時に洋装しておりはせんかったか……ええ……コレ……ハッキリ返事をせい……ナ……そうじゃろう……青い帽子を冠って……白い女学生のような服を着て……黒い
昂作はそうした熱心な、
「フーン。わからん……そうかそうか……そんならその女に金を貰うたのはどこいらか教えてくれんか……エエ……コラ……どこで貰うたんか……今、お前が左手に握っている……その金を……」
昂作は白いホコリにまみれた左手の拳をソロソロと開いて見た。ワナワナと震える細長い指の間から、汗に濡れた新しい銀貨が一個ピカピカと見えて来た。それをジット見ているうちに刹那的に……「嘘を言ってはならぬ」……という気持ちになったので、頭をあげ得ないまま片手を
その血は乾いた土ホコリに吸い込まれて見る見るうちに黒ずんで行った。その血の表面に反射する強烈な日光も、シミジミと土の中に沈んで行った。それを眼の前に見ながら昂作は、なおも新しい血を吐くべく、死力を
「アッ……イカンイカン……行路病人だ……こりゃあ……」
とうろたえながら刑事らしい男は立ち上った。
「ウアー。肺病だ肺病だ」
「何だ何だ。行き倒れか」
「日射病じゃないか」
「寄るな寄るな。伝染するぞ」
と口々に言い罵りながら、周囲も群集もわめいた。
「……君……チョットそこいらから水を貰って来てくれんか。……そうしてこ奴をもっと片わきへ寄せて、何でもええから上に冠せて置いてくれ給え。意識が回復したらモチット訊問するかも知れんから……僕は向うの八百屋から本署に電話をかけて来る。女はまだ近くにいると思うから……」
こんな慌てた言葉を夢うつつに聞きながら昂作は眼をシッカリと閉じて二度目の血を吐いた。そうして血だらけの唇の中で……
「水……水……」
とつぶやきつつ横たおしにたおれた。
……それから何分間経ったか……何時間過ぎたかわからなかったが、昂作が気がつくと間もなく、二、三人の男の会話がハッキリと耳に入って来た。
「……この男はその
「イヤ。そうじゃないんです。……先刻から見ていたんですがね。……情夫でも何でもないんです。この男はタダの立ちん坊でヒドイ肺病にかかっていたのが、ここまで来てブッ倒れてしまったんです。今、巡査が人夫を呼びに行っているんですがね……この男がツイ今サッキ、向うの四丁目の横町を歩いている時に、そのラシャメン瑠璃子って女がこの乳母車を預けて、電車通りまで押して行ってくれって頼んだんだそうです。それを下宿の二階から見ていた学生さんが、この行き倒れを見に来た
「ヘエ……往来のまん中で変装したんですか」
「サア……そこんところはその学生さんも、たしかに見たわけじゃないらしいんだが、……巡査はそれを聞くとスッカリ喜んじゃってね。一緒に連れ立ってツイ今しがた
「ヘエ――。そのラシャメン瑠璃子って女は一体何ですか」
「二、三日前の新聞に出てたでしょう。御覧になりませんでしたか」
「エエ。知りませんナ。何新聞でしたか、それは……」
「……サア。何新聞でしたか……大抵の新聞には出てたようですよ。横浜の何とか言う西洋人が、ノブ子とか言う
「ヘエ……気がつきませんでしたが……近頃あんまり読みませんので……ヘエ――……」
「……ところが、その信子夫人って言うのが実はラシャメン専門の女なんで、その
「なるほど……それじゃ生やさしい女じゃないんですね」
「……おまけにその瑠璃子って奴は変装がお得意らしいんです。何でも東京へ来てからは若い奥さんか何かに
「ナアルホドネエ……張り込んでいる刑事がこの男を調べている隙を見て非常線を突破したわけですな」
「どうもそうらしいんです。あっしの想像ですけども……つまり最後の手段を執ったんでしょう」
「ヘエ――驚いたナ。……しかし、よく御存じですナア。何もかも……」
「ハハハハハ。イヤ。ナアニ。今サッキ向うの八百屋へ刑事が飛び込んで電話をかけたのを、くっ付いて行ってスッカリ聞いちゃったんです。懇意な家でしたから……」
「ハハア……ナルホドネエ……じゃアもうそこいら中に非常線が張ってあるんですね」
「エエ。無論そうでしょう」
ここで話が途切れて周囲がシンカンとなった……と思う間もなく昂作の足の処から甲高い子供の声が飛び出した。
「おいらそのルリ子って女が行くのを見たよ」
「エッ。どこで……」
「飯田町のステーションの材木置場の横を歩いていたよ。澄まアして……」
「嘘を吐けこの野郎……手前等の眼につくようなヘマをやるけえ」
「だって本当だよ……小父さん……青い帽子を冠って、白い服を着て、小ちゃな写真機を持ってたよ」
「フーン。
「耳朶なんか知らないけど……とてもとてもシャンだったよ」
「アハハハハハ」
「イヨ――。チビ公。見込みがあるぞッ」
「ワハハハハハ……」
「フフフフフフ……」
昂作はそんな笑い声を耳にしながら、静かに頭を横にして起き上りかけた。そんな笑い声の中にもまたアリアリとあの少女……瑠璃子のあどけない風付きを思い出すと、もうジッとしておられない気持ちになってしまった。一刻も早くあの少女に会って、変装を感づかれている事を知らして
彼の
それからまた、何時間たったかわからなかった。どこをドウ歩きまわったのか。彼自身の記憶には一つも残っていなかった。彼女から貰った大切な銀貨さえもいつの間にか彼の掌から消え失せていた。
ただ彼は、時折り若い女の姿を見かけると、思い出したように立ち止って、ジット眼を据えた。もしや瑠璃子ではないかと思って、パラソルの中を念入りに見上げ見下した……が……
それは彼の初恋であったかも知れなかった。
……彼の行く手のギラギラとゆらめく光りの中に、ともすれば眼の大きい、唇の小さい、ふっくらした彼女の顔が、白い歯を輝かして浮き出すのであった。……路ばたの立木の陰に彼女の無邪気なうしろ姿の幻影が
……しかし……それもホンノ
彼は甚しく飢えていた。ヘトヘトに疲れていた。そうして焦げつくほど渇いていた。彼を包む無量の炎天と、彼を導く無限の白い道路とは彼の肉体の高い熱と一緒になって、彼の魂をカサカサに乾燥させて行った。
彼は何のために歩き出したのか。何を目当てによろめいて行くのか解らなくなって来た。若い女とスレ違っても振り返る力がなくなってしまった。否、むしろ気がつかなくなったと言った方が真実に近いであろう。もう……暑さも寒さも感じなくなって、白昼の幽霊のようにうなだれたままフラフラと向うの方へ行くばかりで、それを立ち止らせようという意志さえも、とっくの昔に彼の肉体から消え失せていた。ただその間じゅう彼がハッキリと意識していたのは、長いこと不潔なままにしている口の中に最前吐いた血のにおいが、まつわり残っているのが、高い熱のために粘っこくなった唾液とゴッチャになって、たまらなく
それからまた、どれくらいあるいたか解らなかったが、その中に気がついてみると、彼は一つの空地に生えた草原の片隅に、大の字なりに仰向けになっていた。そうして彼の顔の上には、ペンキのように青い空が二ツ三ツ白い雲のキレを溶かし込みながらピカピカと光って
その草原の周囲は、仕事を休んでいるらしい大きなガランとした工場の背中で囲まれていて、どこに隙間があるか、彼自身がどこから入って来たのか、チョット見まわしただけでは解らなかった。太陽は今、彼が頭を向けてる大建築の表側の方にいるらしく、彼の足の向うに並んだ赤煉瓦とコンクリートの家の上の方、五分の一ばかりを、黄色く照し出していて、その下の方を冷たい紫色の日陰に彩っていた。その左手の草原の尽きる処に、青白く一直線に横たわっているのはテニスコートであろう。その向うにはポプラが二、三本、建物の日陰を突き抜けて、何となく郊外に近い気持ちを青々とした梢にそよがせつつ、西日の中に輝き並んでいる。
彼の鼻の先には、震災の名残りらしい、赤煉瓦とコンクリートの破片がゴロゴロと積み上げられていた。その上から草原一面にかけて、真赤に
彼はここに来て、いくらか眠ってから、やっと今眼を
……はるかに、いろんな物音がきこえて来る。電車、自動車、飛行機のうなり、工場の笛……その他、もの悲しいような……淋しいようないろいろな物音がこの空地に流れ込んで、草の株を枕にした彼の耳元まで忍び寄って来た。
彼はそのような物音のシンフォニーに聞き入った。何も考えないままにその方に
あとからあとから起る新しい雑音の旋律……遠く近くから風のように……水のようにさまよい起る大東京のどよめき……その中に彼は、彼が作曲したいずれの楽譜よりも新しい、底強い魅力を発見した。構成派でもなければ写実派でもない……大地と大空とが直接に奏でる「人類文化」の
彼はかつての日、深く自信もし、愛惜していた自分の天才が、
彼は感傷の余り、疲れた視線を赤い日ざしから離した。するとそれと同時に、タッタ今の感激のうちにスッカリ空っぽになった彼の頭が、彼自身のものではないかのように力なく、ゴロリと草の株から転がり落ちた。
泪に霞んだ彼の視線の片隅に、小さな人影が入って来たのはその瞬間であった。
それは眼の前に重なり合った草の茎の隙間から見るテニスコートの白い一直線の上を、ソロソロと後しざりして来る薄茶色のセイラアパンツであった。そのうしろ姿は、彼の眼前の草の茎に比較すると、まるで一粒の豆人形であったが、その豆人形は、手に写真機か何かを抱えてるらしく、二、三本並んだポプラの樹を正面にして、茶縞の鳥打帽を傾けながら、用心深く草原へ退り込んで来るうちに、次第次第にその形を大きくした。そうして彼の鼻の先に横たわっている煉瓦とコンクリートの堆積の陰まで来ると急に身を伏せ四ツン這いになった。鳥打帽の
「アッ……」
と小さな叫び声をあげてセイラアパンツは駈け出そうとした……が、草の陰から覗いている彼の静かな眼つきをふり返ると、またも、彼と向き合ったまま、ベタリと草の中に坐ってしまった。血の気を喪った頬を両手でヒッと押えて、
それは最前の洋装の女に相違なかった。もっとも
「……ア……ア……アナタハ……サッキ……ノ……」
彼女はカスレた声でこう言いさしてグッと唾を呑んだ。またも肩をおののかして喘ぎつづけた。
そうした彼女の表情を、彼は何の意味もない眼つきで草の葉越しに凝視していた。彼の脳髄はいつの間にか「死」と紙一重の単純さにまで還元されていた。過去の思い出とか、未来の夢とかいうものはあとかたもなく消えつくして、ただ、現在の感じを、そのままに受け入れる力しか残っていなかった。こうして彼女に直面しても、彼女が
彼女はその中にやっと、いくらかの落ち着きを回復したらしかった。小さな唇をヒクヒクとわななかしているうちに、切れぎれな空虚な声を出した。
「あなたは……刑事さんでしょう……」
そう言って眉を引き釣らせながら、彼女はたまらない悲痛な絶望的な表情をした。
「……変装していらっしゃるのでしょう。……そうして……」と言いつつ彼女はまたもグッと唾を
ズバリとそう言ううちに彼女の大きな眼から珠のような涙がポタリポタリと落ちた。それを
その顔を草の葉ごしに、和やかに、澄み切った眼で見上げながら、彼は力なく微笑して見せた。その両頬にポーッと血の色がさして来た。その眼がキラキラと希望に輝き出した。同時にその全身から夕暗の中でもハッキリとわかるほどに肉感的なほのめきを放散しはじめた。男装をしているだけに、それが一層あらわなものに見えた。……と見るうちに彼女は突然に、取ってつけたようなお辞儀をし始めた。両頬の涙を拭いもせずに、白い両手の指を揃えて、断髪の頭を草の中に押し込んで、繰り返し繰り返し、彼を伏し拝んだ。乞食のように真剣な、哀れな声を出した。
「旦那様、旦那様、旦那様、旦那様……どうぞどうぞお助け下さいまし……後生ですから……ホントウに後生で御座いますから……」
「……私は本当の事を申し上げます。私は夫のバトラを殺したのでは御座いません。バトラは事業に失敗しましてコッソリと
「……妾は皆様のお察しの通りラシャメン瑠璃子に違い御座いません。本名もお察しの通り小野原ノブ子に間違い御座いません。何度も夫に死に別れた不幸な女で御座います。……けれども……けれども今までに悪い事をした覚えは一度も御座いません。……神かけて御座いません事をお誓い致します」
「……どうぞ、どうぞお願い致します。もし今夜一晩、私をお見逃がし下さいますれば、どのようなお礼でも致します。きっと……きっと致します。その……お印に……こんな……つまらないものでも……旦那様さえ……およろしければ……」
彼女はシドロモドロにこんな言葉を並べた。その切れ目切れ目に二度も三度も両手を合わせて拝み上げながら、すこしずつ彼の方に這い寄って来た。そうしてズボンのポケットから青黒い大きな宝石を一個取り出して、大の字型に投げ出した彼の右の掌に握り込ませると、その上からシッカリと両手で押えつけながら
「これは……横浜じゅうで一番大きいエメラルドで御座ます。バトラが私に買ってくれました……」
しかし彼はその宝石よりも、彼女の柔らかい、冷たい掌の感触の方が嬉しかった。それは彼が久し振りに受けたに違いないであろう若い異性の感触であった。
彼は固い宝石ごしに彼女の掌を力なく握り締めた。そして、
その顔を見下していた彼女は、何と思ったか、すこしばかり顔色をかえた。頭を
「オホホホホホホ。まあ……そんな事でしたの……そんならそうと早くおっしゃればいいのに……オホホホホホホ。妾……もっと真暗になるまでここにいるつもりですから、何でもお言葉に従いますわ……何なら非常線の解けるまでこの工場の中に泊っても構いませんわ。誰もいませんから……」
彼女はここで言葉を切って、もう一度そこいらを見まわした。そうして彼の顔の上に顔をさし寄せて、彼の瞳の中をジッと覗き込みつつ、物悲しい、
「……ね……その代りにキット逃して下さらなければ駄目ですよ。そうして妾のあとから、妾の隠れ家にいらっして下さらなければ嫌ですよ。妾……あなたみたいな頭のいい……先まわりの早い方を初めて見たんですから……ホントウを言うと妾は……お金を持った西洋人よりも、腕のある日本の方とひと苦労したら……といつも思っていたんですから……ネ……キットですよ……妾の行く先は上海の
といううちに彼女はイキナリ彼の上にのしかかって来た。彼の首へ両手をまわして、白い頬と唇をピッタリと押しつけた。彼はもうすこしで窒息するところであった。彼の両手がバタバタと空にもがいた。けれどもそれは
突然に彼を突き放すようにして飛び退いた彼女は、傍の鳥打帽を掴んだまま二足三足駈け出した。……と思う間もなく古バケツの中へ編上靴の片足をガチャガチャと突込んだ。ドタリと音を立てて草の上にたおれると、すぐに両手を突張って起き上ろうとしたが、そのまま全身を
彼は元の通り草の中に顔を突込んでいた。蒼々とした夕暮の底に、彼女から貰った宝石を握ったまま、空虚のような眼を見開いていたが、その視線の中に、まともに振り返った彼女の顔つきの醜かった事……。と、彼女は煉瓦の堆積の陰にたおれ込むように逃げ出した。草を掻きわける音が、はるかにはるかに遠ざかって行った。
それにつれて、あたりがヒッソリとなった。